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【2014年03月01日更新】 お知らせ(HPの再開について) 2011年4月1日をもって「須佐郷土史研究会」と「東京須佐史談会」は組織を統合し、夫々を須佐郷土史研究会の「須佐部会」「東京部会」として一体となって研究活動を続けることになりました。これにつれてホームページも 再構築することになり、暫く毎月の記事の更新をお休みにしていましたが、このほどHPも再開する運びとなりました。引き続きのご支援ご鞭撻をお願い申し上げます。 今月の新しい記事は次の通りです HP更新を中断している間に「須佐部会」では「温故」第24号と第25号を刊行しました。 「東京部会」では今回より新たに「東京部会」の「研究成果」のコラム中に毎月の月例会で使用している「研究資料」を掲載する事にします。2011年までは、
月例会で使う資料は入手した史料の写しを参加者にばらばらに配布する丈でした。2012年以後は予め史料を「研究資料」という叩き台
に纏めて勉強のための資料として配布することにしました。従って、これは完成された研究報告書ではありません。
しかし、読み放しにして置くには惜しい史料が数多く含まれています。こうした史料の蓄積も、いずれは本格的な調査の手掛かりになるものもあるだろうという軽い気持ち
で掲載することにしました。専門家にはそういう冒険はできないでしょう。こういう事ができるのは我々同好会の強みだと思っています。
なお、原文の画像データは差し支えないものは掲載しますが、承認が必要なものは暫く読解文のみ掲載しますのでご了解を御願いします。 「リレー随筆」は尾木純さんの「遠い夏の日」です。 |
【2011年05月01日 お知らせ】 「須佐郷土史研究会」と「東京須佐史談会」は2011年4月1日を以て組織を統合し、一体となって研究活動を続けることになりました。この機会にホームページも全面的に模様替えし、 再構築することにいたします。この為、毎月の更新作業は暫くの間お休みとさせて頂きますので御了承下さい。 |
【2011年04月01日更新】 春爛漫の4月となりました。今月から『東京須佐史談会』は発展的に解散して、『須佐郷土史研究会 東京支部』となりました。
今後は須佐と首都圏の会員が一体となって『須佐郷土史研究会』を維持・発展させて行きます。宜敷く御願い申し上げます。 所で、3月11日に発生した東日本巨大地震で愛読者の皆様には被害は無かったでしょうか。お見舞い申し上げます。4月はそんな訳で首都圏の月例会も中止となり、 HPも休刊させていただきました。編集者宅(千葉市幕張)も高層住宅ですから揺れは可成り烈しく、室内がメチャメチャになりましたが幸い家具の転倒は免れ 怪我は有りませんでした。大切なPCやHDも机から落下しましたが、幸い被害なく、今月から元気にHPを更新します。
●「萩古実未定之覚」(その2)New |
【2011年03月01日更新】 |
●「萩古実未定之覚」(その1)New 今月から2回に分けて「萩古実未定之覚」を連載します。これは「長門金匱」の4部作の一つです。この読解文は国会図書館がweb上で公開している長周叢書の中の「萩古実未定之覚」と殆ど内容が同じですが、
若干の食い違いがあります。長周叢書の編者村田峯次郎があとがきに書いているように、この「萩古実未定之覚」は烏田智庵が書き残したものですが、正本と言われるものは存在せず、長周叢書も数種類の写本を元にして
編纂されたものです。従って、我々が読んでいる「磯部本」が長周叢書と違っていても何れが正しいのかは判りません。今回の掲載文は東京須佐史談会のコラムの中の「研究発表」からも検索できます。
●リレー随筆「須佐とわたし」 大谷 和子New大谷さんがご両親と夭折された弟さんの思い出を綴られました。ご両親が眠って居られる須佐が大谷さんの心の故郷であることが良くわかる一文です。 |
【2011年02月01日更新】 |
●「嶋榛古実記」(その3) 先月に続いて「嶋榛古実記」(その3)をお届けします。一気に最後までの読解文を掲載しましたのでご覧下さい。これで「長門金匱」4部作の内3つを読んだことになります。3つとも東京須佐史談会のコラムの中の
「研究発表」からも検索できます。
●リレー随筆「郷土ことばと祖父のこと」 増野 亮増野様が面白い須佐の方言の話と、お爺さまを追憶して一文をご寄稿下さいました。「増野家文書」の中にある句集から何首か俳句を紹介されていますが、昭和9年頃の須佐の様子が句に詠われていて
往時を偲ぶことが出来ます。苦しい時代ではありましたが、須佐の人びとが風流を楽しみながら強く生きていた事が判ります。大変味わい深い文章です。
●「須佐は雪模様」吉田 満吉田さんが1月16、17日両日、須佐の雪景色を撮影して送って下さいました。頂戴したMAILのお便りと共に「ふるさと短信」欄に掲載しましたのでご覧下さい。須佐湾の景色は2枚ありましたので、1枚をTOP PAGE に使って季節感一杯です。
両方とも益田家墓所から港を眺めた雪景色ですね。
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【2011年01月01日更新】 明けましておめでとう御座います。本年もどうぞ宜しく御願いします。 |
●「嶋榛古実記」(その2) 先月に続いて「嶋榛古実記」(その2)をお届けします。東京須佐史談会のコラムの中の「研究発表」からも検索できます。 ●リレー随筆「七十年前の育英小学校」 豊田 松夫 豊田さんが「七十年前の育英小学校」と題してご自身の小学校時代の思い出を綴られました。昭和16年、太平洋戦争に突入する前後の思い出です。当時の日本は軍国主義一辺倒の発展途上国でした。国はまだ貧しかったけれども、 子供達は伸び伸びと育ちました。この文章を読んで同世代の方々は遠くなった少年時代の事を思い出される事でしょう。 ●リレー随筆「長州風?の年中行事」 中山 恭子 ご先祖が長州のご出身ということで、毎回私達の例会に熱心にご参加になっている中山さんが、お宅に伝わる年中行事について一文を寄稿して下さいました。お正月の行事から始まるこの文章は、丁度新年号のHPに ピッタリのお話しです。 |
【2010年12月01日更新】 |
今月からTOP PAGEの写真が新しくなりました。大薀寺の庭の秋の風情です。吉田満さんが撮影して届けて下さいました。 |
【2010年11月01日更新】 |
●「秘笈灞城古実記」(その5) |
【2010年10月01日更新】 |
●「秘笈灞城古実記」(その4) |
【2010年09月01日更新】 |
●「秘笈灞城古実記」(その3) |
【2010年08月01日更新】 |
●「秘笈灞城古実記」(その2)< |
【2010年07月01日更新】 今月の新しい記事は次の通りです |
●「秘笈灞城古実記」(その1)< |
【2010年06月01日更新】 |
●平成22年度 須佐郷土史研究会総会の開催について |
【2010年05月01日更新】 |
●「長門金匱」(下) |
【2010年04月01日更新】 今月の新しい記事は次の通りです |
●「長門金匱」(上)> |
【2010年03月01日更新】 |
●益田家の英雄「品川大膳の故事」 |
【2010年02月01日更新】 |
●国重要有形民俗文化財に「須佐宝泉寺の絵馬」 一つは「吉見広長出奔事件」でです。 「吉見広長出奔事件」は益田家とは直接の関係はありませんが、今ひとつの事件「五郎太石事件」は益田家が一方の当事者となった大紛争事件です。しかしながら、
現在、須佐ではこの事件のことは余り知られておりません。東京須佐史談会では発足当初にこの事件の事を勉強しましたが、今回改めてHPにそのあらましをご紹介する事にしました。 |
【2010年1月1日更新】 |
先月に引き続いて今月も津田常名翁の遺作をご紹介します。 ●「佐江管見」 |
【2009年12月1日更新】 |
●「三決死」 常名は弘化4年(1847)12月19日須佐にて出生。幼名百合槌。父は潤塀常堅といい益田家臣であったが常名誕生後10日目に病死した。嘉永6年(1853)7才の時、
伯父有田信平の習字場に通った。安政3年(1856)10才になって波田与市右衛門の塾に通って習字と素読を勉強した。14才の万延元年(1860)育英館入学。 |
【2009年11月1日更新】 |
今月は増野家文書から史料をご紹介します。 ●増野家文書「兼清公御入家当日次第書」(整理番号 8袋06) ●萩市出前講座のお知らせ |
【2009年10月1日更新】 |
●「益田家領、村庄屋任命の考察」 |
【2009年9月1日更新】 |
●「温故」第22号(後半) |
【2009年8月1日更新】 |
●増野家文書「組頭役中要用日記」(その3)<整理番号11袋22> |
【2009年7月1日更新】 |
●増野家文書「組頭役中要用日記」(その2)<整理番号11袋22> |
【2009年6月1日更新】 |
今月は増野家文書から2つの史料をご紹介します。 |
【2009年5月1日更新】 |
●「温故」第17号(後半) |
【2009年4月1日更新】 |
●「温故」第17号(前半) |
【2009年3月1日更新】 |
●「温故」第16号(後半) |
【2009年2月1日更新】 |
●「温故」第16号(前半) 領分外への追放と言っても江崎は須佐とは至近距離にあり、江崎に引っ越した翌日から殆ど毎日のように須佐の人々が「見廻り」と称して「見舞い」にやって来ました。銘々酒、肴(あわび、さざえ、鯛、混ぜ肴など)や餅、あんころなど を下げて来ては話をして帰る。必要に応じて飛脚も来る。従って、日々の情報は須佐に居るのと同じように三郎左衛門に届いていました。同じく「御領分外隠居」を命じられた波田与市とは相互に往来しているし、そのうちに鉄炮100丁を調達する為の金策の相談に益田丹下(老臣、家老)がやってくるという有様であったことが詳述 されています。彼の日記によって栗山翁輔や波田与市が何時流刑になったり領外隠居を命じられて須佐を後にしたかも判ります。 益田三郎左衛門は慶応元年10月25日に須佐から江崎に移り住み、江崎の庄屋大谷六郎左衛門の心づかいで田村恒左衛門という造り酒屋の家を借りて住むことになりました。そして翌慶応2年5月18日許されて 須佐に戻るまでの7ヶ月間そこに住みました。須佐に戻る日は波田与市を同道して帰ったと記しています。 |
【2009年1月1日更新】 |
●「須佐騒動一件御裁断記録」 須佐の歴史上この様な事件が有ったことはこれまで知られていません。今回、山口文書館が所蔵する「須佐騒動一件御裁断記録」を読んで初めてこの「隠された歴史」を知ることが出来ました。事件は 萩本藩の遠近方の手によって収拾が図られ、享和3年2月に裁きが申し渡され一件落着しましたが、この記録は事件の一部始終を本藩の立場で記録したものです。現代風に云えば検察調書兼判決主文の様な内容です。その記述は 婉曲な表現でまとまりが無く、あちらこちらに記述が散らばっているので読みづらく、一読して事件の経過を理解することは極めて困難です。 読者の便宜のために、事件の経緯を読後感と共に纏めておきましたので、それを読んでから読解文をお読み下さればご理解が早いだろうと思います。 ●第16回東京須佐会(平成20年11月22日<土> 於 日立金属高輪和彊館) |
【2008年12月1日更新】 ●「京都御進発御備組」 一般には益田親施が引き連れた軍勢は「須佐兵約300」プラスその他300で合計600とされています。実際には正規の益田軍勢273名の外にも多数の須佐の人が参戦していました。例えば、 「温故」第18号「随行日記」では栗山翁輔、小国融蔵(軍監)、田村育蔵(不詳)、大谷樸助(斥候使番)、河上範蔵等も参戦していた事が記されていますが彼等の名前は記されていません。同じくP2〜3に出てくる 中間孫七や勘平次は名簿に含まれていません。従って「須佐兵約300」という表現は案外正しいのです。 だからといって、この「京都御進発御備組」の史料としての価値が損なわれる事は聊かもありません。こういう史料を読む場合の心得として当時はそう言うことが当たり前だったと言う認識が重要だと思います。 名簿を見ると、士分が引き連れていった人数が可成り居ます。これらの人数の役目は荷物持ちであった様ですが、戦闘状態になったときには実際に銃や刀を持って参戦したのでしょうか。 「御紋高張(提灯)壱本 持手農兵より兼ル」とか「弓張(提灯)」の持手は輸送隊乃至輜重隊として後方支援に従事し、実際の戦闘には参加しなかったのではないでしょうか。すると、実際の益田軍の戦力は300より可成り少なかったと 考えるべきではないでしょうか。 これまで色々の史料の中で(「随行日記」「日史録」など)、屡々「三つ器とは何ぞや」とその解釈を巡って議論をしましたがよく判りませんでした。今回この史料を読んで 「三つ器」とは貝、金(鐘)、鼓(太鼓) の事(合図の道具)だと判りました。 益田軍の大炮隊は「一番大炮」と「二番大炮」の2つの隊に別れたいたようです。このことから、益田軍が保有していた大炮の数は2門だったと解釈します。 このようにこの資料は大変様々な内容を含んだ資料だと思います。ぞうぞ皆様も色々とご研究下さい。 |
【2008年11月1日更新】 ●「温故」第21号 ●おばけイカの話 |
【2008年10月1日更新】 ●「温故」第20号 ●育英校の講堂に連合国の捕虜 ●須佐郷土史研究会との交流会ー須佐帰省旅行のご報告 |
【2008年9月1日更新】 ●「温故」第19号 |
【2008年8月1日更新】 ●「温故」第15号 ●随筆「重爆、低空で須佐に舞う ―終戦の思い出」 |
【2008年7月1日更新】 ●随筆「梅雨どきに想うこと」 ●「温故」第14号(その3) (その4) |
【2008年6月1日更新】 ●須佐郷土史研究会総会並びに研修会の開催について ●「温故」第14号(その2) ●「御記六之写」 |
【2008年5月1日更新】 ●「温故」第14号(その1) ●今年も長州緋桜が綺麗でした。東京須佐会「2008観桜会」 |
【2008年4月1日更新】 ●「温故」第13号 ●東京須佐会「2008観桜会」のお知らせ |
【2008年3月1日更新】 ●「温故」第12号 ●「須佐の宿」シリーズ第8弾 |
【2008年2月1日更新】 ●「増野家文書」13袋4 「国本論」(2) ●「須佐の宿」シリーズ第7弾 ●お断り |
【2008年1月1日更新】 明けましておめでとう御座います。 ■ 2008年の年頭に当たり 昨秋、東京江戸博物館で開催の夏目漱石展をみて、豊富な展示物に驚きました。漱石の変化に富んだ全生涯にわたって、それぞれの時期に書かれたメモ、手帳、手記、南画、講義表、手紙、原稿など、
生身の息吹が聞こえるものが並べられていました。これらはその弟子たちの努力で、駒込の「漱石山房」から東北帝大へ疎開されたものだそうです。漱石が今日なお、国民的な人気を保つ、
その一因はこれらの資料が新たな研究材料を提供し、新しい評論を生み出しているという事情も考えられます。 @ 今秋東京での例会が100回目を迎えるに際し、郷里須佐会員との交流会の開催ネット社会の到来でゆくゆくは、全国各地に古文書研究会が生まれ、旧家の土蔵などで戦災をまぬかれた地下生活文書などが、ネット上で紹介される事態にが早晩来るのではないでしょうか。 そうなれば山陰・山陽・筑紫・近畿・東海・・・といった地域の近世の文化特性が次第に明らかになることでしょう。本会も周辺地区との交流を高め、庶民生活を中心とした近世の山陰研究に貢献できれば、 喜びこれに過ぎるものはありません。(増野 亮 記) ●「温故」第11号 ●「クリスマス・イルミネーション点灯!」 ●「須佐の宿」シリーズ第6弾 ●「増野家文書」13袋4「国本論」(その1) ●新しいリンク集のお知らせ ○須佐公民館(非公式)ブログ |
【2007年12月1日更新】 ●「温故」第6号 ●「増野家文書」13袋4 「鸚鵡の言乃葉」 ●「須佐の宿」シリーズ第5弾 ●第15回東京須佐会 |
【2007年11月1日更新】 本会設立以来のメンバーで読もう会の講師、城一定先生が、10月7日急逝されました。享年82才。ご自身の蘊蓄・古文書の解読の教養を、次世代の後輩に早く伝授しておきたいという情熱が、強く感じられた講座の2年間でありました。 この学恩に対し一同改めて深甚の謝意を表したいと思います。古淡といえるご心境は等しく会員の敬愛するところで、訃報を生前ご親交のあった伊藤清久須佐郷土史研究会長に直接、お伝えしたところ既にご存じで、 顔をくしゃくしゃにして目を潤ませ、深い悲しみの表情をなさいました。側に人がいなければ共に慟哭したことでありましょう。特に病苦未だ癒えざるご逝去直前に仕上げられた最後のお仕事、「松陰門下生の若年時代の遺文」の解読を完成させられた一事は、誠実にして崇高な精神の何たるかを、 自らお示しになられたような気がいたします。合掌。 ●増野家文書 第10袋7「休庵(牛庵)様覚書」 ●「温故」第5号 ●「須佐の宿」シリーズ第4弾 ●熱海伊豆山一泊旅行の写真 |
【2007年10月1日更新】 ●TOP PAGE のフォルンフェルスの写真を入れ替えました。 ●温故第4号 ●「須佐の宿」シリーズ第3弾 |
【2007年9月1日更新】 ●温故第3号(その2) ●「増野家文書」12袋5及び6袋1の12より「公儀より御沙汰之覚」(北浦へ異国船) ●「回天実記」の生い立ちを探る ●第15回東京須佐会のお知らせ ●旅館紹介シリーズ(好月旅館) |
【2007年8月1日更新】 ●温故第3号(その1) ●増野家文書 第11袋23「組内要用書出一件」(その2) |
今月の新しい記事は次の通りです 【2007年7月1日更新】 ●温故第2号 ●増野家文書 第11袋23「組内要用書出一件」の読解文を連載します。 |
【2007年6月1日更新】 ●温故第10号「月番日記」(その6) ●温故第10号「月番日記」(目次) ●「月番日記」人名表 ●「月番日記」年表 ●「火消之定」 |
【2007年5月1日更新】 ●温故第10号「月番日記」(その5) ●温故第10号「月番日記」(目次) ●「行間に滲む望郷の思い」 ●今年の長州緋桜観桜会 ●「お知らせ」欄を更新しました |
【2007年4月1日更新】 ●温故第10号「月番日記」(その4) ●温故第10号「月番日記」(目次) ●増野亮さんがシンガポール駐在時代の想い出の一つを「ドリアンの味覚」と題する随筆にして寄稿されました。 ●「東京須佐会」の「お知らせ」欄に今年の「長州緋桜 観桜会のお知らせ」が出ています。4月7日(土)11:00〜14:00 新宿御苑の長州緋桜付近で「東京須佐会」の看板を見つけて下さい。
名物「わかめむすび」で故郷の味も楽しめます。 ●育英小学校の新校舎が落成しました。今月の「ふるさと短信」です。 ●ご覧の通り、今月から従来のTOP PAGE と目次を一新しました。中身が一気に増えて記事の検索がし難くなりましたので、思い切って大改造を行いました。序でに小さな画面のPCに合わせて画面の幅を
620PIXEL幅にしましたので見やすくなったと思います。発足直後の頃に書いた記事まで改造の手が行き届いて居らず、古い記事から「戻る」ボタンを押しても動かないと言うような不具合が残っていますが、
これらも徐々に改善して行く積もりです。暫くご容赦下さい。そういう訳で時間を取られましたので、今月は「増野家文書」はお休みにします。改装の序でに次の頁を作りました。 |
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