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【2014年03月01日更新】

お知らせ(HPの再開について)

2011年4月1日をもって「須佐郷土史研究会」と「東京須佐史談会」は組織を統合し、夫々を須佐郷土史研究会の「須佐部会」「東京部会」として一体となって研究活動を続けることになりました。これにつれてホームページも 再構築することになり、暫く毎月の記事の更新をお休みにしていましたが、このほどHPも再開する運びとなりました。引き続きのご支援ご鞭撻をお願い申し上げます。

今月の新しい記事は次の通りです

HP更新を中断している間に「須佐部会」では「温故」第24号と第25号を刊行しました。
「温故」24号は「益田牛庵御奉公の抜書」の後篇です。萩築城までの経緯、「六ヵ国返租問題」、防長両国の石高決定にいきさつ、萩藩財政整理について、税制の変遷など萩藩成立時の諸問題や毛利家臣の働きが記録されています。
「温故」25号は「益田親施年譜」です。親施の出生から生涯の履歴を益田丹下が責任者となって金子新蔵、山下少輔が実務担当者となって慶応二年(1866)に編集されたものです。

「東京部会」では今回より新たに「東京部会」の「研究成果」のコラム中に毎月の月例会で使用している「研究資料」を掲載する事にします。2011年までは、 月例会で使う資料は入手した史料の写しを参加者にばらばらに配布する丈でした。2012年以後は予め史料を「研究資料」という叩き台 に纏めて勉強のための資料として配布することにしました。従って、これは完成された研究報告書ではありません。 しかし、読み放しにして置くには惜しい史料が数多く含まれています。こうした史料の蓄積も、いずれは本格的な調査の手掛かりになるものもあるだろうという軽い気持ち で掲載することにしました。専門家にはそういう冒険はできないでしょう。こういう事ができるのは我々同好会の強みだと思っています。 なお、原文の画像データは差し支えないものは掲載しますが、承認が必要なものは暫く読解文のみ掲載しますのでご了解を御願いします。
既に第14号までありますので、その内主なものを此処に記します。その他は「研究成果」のコラムをご覧下さい。
●「長州藩から幕府への答申案」(研究資料第6号)ペリー来航以後、幕府が対外政策に関して諸大名に意見を求めた際、四回に亘り長州藩が具申した意見書
●「石見国益田荘舊封古事記」(研究資料第10号)益田時代の益田家の故事を記した文書
●「元禄組騒動」(研究資料第13号および第11号)元禄六年、益田家中で四組の組侍・中間らが起こした騒動の記録。須佐の歴史に記されていない大事件の記録です。
●「回天実記」(研究資料第12号上 下)何度も読んだ幕末の「須佐内訌事件」記録ですが、京大付属図書館尊攘堂文庫を再読しました。
●「大義御願一件」(研究資料第14号)寛政12年(1800)から享和3年(1803)の間に益田家中の武士300人が起こした騒動事件の記録で、 これまた須佐の歴史には一言も触れられていない秘話です。2009年1月にHPで発表した「須佐騒動一件御裁断記録」と 併せ読んで下さい。「元禄組騒動」と幕末の「須佐内訌事件」の三大騒動はいずれも益田家祖法である「四組」の 軍制を揺るがす大事件でした。そういう観点から、これら三つの事件は総合的に観察する必要があると思われます。

「リレー随筆」は尾木純さんの「遠い夏の日」です。


【2011年05月01日 お知らせ】

「須佐郷土史研究会」と「東京須佐史談会」は2011年4月1日を以て組織を統合し、一体となって研究活動を続けることになりました。この機会にホームページも全面的に模様替えし、 再構築することにいたします。この為、毎月の更新作業は暫くの間お休みとさせて頂きますので御了承下さい。


【2011年04月01日更新】

春爛漫の4月となりました。今月から『東京須佐史談会』は発展的に解散して、『須佐郷土史研究会 東京支部』となりました。 今後は須佐と首都圏の会員が一体となって『須佐郷土史研究会』を維持・発展させて行きます。宜敷く御願い申し上げます。
尚、須佐と首都圏の統合に伴い、このHPも『須佐郷土史研究会』のHPとして一本化致します。目下、鋭意改修の作業を進めています。 新装なった時にはお知らせしますので暫くご猶予下さい。

所で、3月11日に発生した東日本巨大地震で愛読者の皆様には被害は無かったでしょうか。お見舞い申し上げます。4月はそんな訳で首都圏の月例会も中止となり、 HPも休刊させていただきました。編集者宅(千葉市幕張)も高層住宅ですから揺れは可成り烈しく、室内がメチャメチャになりましたが幸い家具の転倒は免れ 怪我は有りませんでした。大切なPCやHDも机から落下しましたが、幸い被害なく、今月から元気にHPを更新します。

「萩古実未定之覚」(その2)New
3月に続いて「萩古実未定之覚」を連載します。今回の掲載文は東京須佐史談会のコラムの中の「研究発表」からも検索できます。
リレー随筆「須佐中の思い出」New
須佐と首都圏の統合を祝う祝砲のように、今月は須佐の品川敏行様がご寄稿下さいました。
弥富の春New
吉田様から『弥富の春』と題して畳ヶ淵の春の風情を写した写真が届きましたのでご披露します。


【2011年03月01日更新】

「萩古実未定之覚」(その1)New
今月から2回に分けて「萩古実未定之覚」を連載します。これは「長門金匱」の4部作の一つです。この読解文は国会図書館がweb上で公開している長周叢書の中の「萩古実未定之覚」と殆ど内容が同じですが、 若干の食い違いがあります。長周叢書の編者村田峯次郎があとがきに書いているように、この「萩古実未定之覚」は烏田智庵が書き残したものですが、正本と言われるものは存在せず、長周叢書も数種類の写本を元にして 編纂されたものです。従って、我々が読んでいる「磯部本」が長周叢書と違っていても何れが正しいのかは判りません。今回の掲載文は東京須佐史談会のコラムの中の「研究発表」からも検索できます。
リレー随筆「須佐とわたし」 大谷 和子New
大谷さんがご両親と夭折された弟さんの思い出を綴られました。ご両親が眠って居られる須佐が大谷さんの心の故郷であることが良くわかる一文です。

【2011年02月01日更新】

「嶋榛古実記」(その3)
先月に続いて「嶋榛古実記」(その3)をお届けします。一気に最後までの読解文を掲載しましたのでご覧下さい。これで「長門金匱」4部作の内3つを読んだことになります。3つとも東京須佐史談会のコラムの中の 「研究発表」からも検索できます。
リレー随筆「郷土ことばと祖父のこと」 増野 亮
増野様が面白い須佐の方言の話と、お爺さまを追憶して一文をご寄稿下さいました。「増野家文書」の中にある句集から何首か俳句を紹介されていますが、昭和9年頃の須佐の様子が句に詠われていて 往時を偲ぶことが出来ます。苦しい時代ではありましたが、須佐の人びとが風流を楽しみながら強く生きていた事が判ります。大変味わい深い文章です。
「須佐は雪模様」吉田 満
吉田さんが1月16、17日両日、須佐の雪景色を撮影して送って下さいました。頂戴したMAILのお便りと共に「ふるさと短信」欄に掲載しましたのでご覧下さい。須佐湾の景色は2枚ありましたので、1枚をTOP PAGE に使って季節感一杯です。 両方とも益田家墓所から港を眺めた雪景色ですね。

【2011年01月01日更新】

明けましておめでとう御座います。本年もどうぞ宜しく御願いします。
今月の新しい記事は次の通りです

「嶋榛古実記」(その2)
先月に続いて「嶋榛古実記」(その2)をお届けします。東京須佐史談会のコラムの中の「研究発表」からも検索できます。
リレー随筆「七十年前の育英小学校」 豊田 松夫
豊田さんが「七十年前の育英小学校」と題してご自身の小学校時代の思い出を綴られました。昭和16年、太平洋戦争に突入する前後の思い出です。当時の日本は軍国主義一辺倒の発展途上国でした。国はまだ貧しかったけれども、 子供達は伸び伸びと育ちました。この文章を読んで同世代の方々は遠くなった少年時代の事を思い出される事でしょう。
リレー随筆「長州風?の年中行事」 中山 恭子
ご先祖が長州のご出身ということで、毎回私達の例会に熱心にご参加になっている中山さんが、お宅に伝わる年中行事について一文を寄稿して下さいました。お正月の行事から始まるこの文章は、丁度新年号のHPに ピッタリのお話しです。

【2010年12月01日更新】

今月からTOP PAGEの写真が新しくなりました。大薀寺の庭の秋の風情です。吉田満さんが撮影して届けて下さいました。
「嶋榛古実記」(その1)
先月で「秘笈灞城古実記」を完読しました。今月から「長門金匱」の4部作(長門金匱、秘笈灞城古実記、嶋榛古実記、萩古実記未定之覚)の第3弾として「嶋榛古実記」を読むことにしましょう。まず冒頭の22頁分の読解文を掲載します。これも写本の写本ですから読解に苦労 することでしょう。写本した人が判読出来ず適当に書いた個所は推読出来なくてもやむを得ないでしょう。ねばり強く勉強したいと思います。なお、東京須佐史談会のコラムの中の「研究発表」からも検索できます。
リレー随筆「暮らしの中に神々が・・・」 田野 良子
田野さんがインドネシヤ・ハバリ島を旅して生まれ故郷の弥富を思い出されたそうです。どの家にも神々が祀られ、年中行事のお祭や各家々での祭事など、懐かしくも美しい思い出を綴られました。
第18会東京須佐弥富会のご報告
去る2010年11月20日(土)12:00から東京品川の日立金属「高輪和橿館」で毎年恒例の東京須佐弥富会が開かれました。会の名称を「東京須佐会」から「東京須佐弥富会」に改称することや新しい会則が承認されました。 詳しいことは近藤会長のご報告をご覧下さい。


【2010年11月01日更新】

「秘笈灞城古実記」(その5)
先月に続いて「秘笈灞城古実記」(その5)をお届けします。今回は72頁から最後までです。写本の写本であるため読解に随分苦労しましたが、漸く最後まで読み通し読了することが出来ました。 不明個所は写本した人も訳も判らずに写していますから其侭にしました。やむを得ないでしょう。でも、萩の古実を勉強できて十分な成果があったと思います。
リレー随筆「須佐の思い出と父」 竹内 祐三
竹内 祐三さんが「須佐の思い出と父」と題して寄稿して下さいました。ご自分の人生を淡々と綴られた中に、父上への思慕の念が熱く感じられ短いながら感動の一文です。 この欄へは皆様から熱心なご寄稿が続き回を重ねる毎に充実して来ました。感謝致します。


【2010年10月01日更新】

「秘笈灞城古実記」(その4)
先月に続いて「秘笈灞城古実記」(その4)をお届けします。今回は62頁から72頁までです。
リレー随筆「須佐中学新生の頃」 高嶋 宏子
高嶋宏子さんが「須佐中学新生の頃」と題して昭和22年4月須佐中学が誕生した時の思い出を綴られました。高嶋さんの年代は国民学校で1年から6年生まで教育を受けた唯一の学年でした。 そして、新制中学の第1期生でもあります。教室も教材も満足に揃っていなかった中でしたが、戦時下の重苦しい環境から解き放たれて希望に満ちた新しい学制が始まった頃の様子を書かれています。


【2010年09月01日更新】

「秘笈灞城古実記」(その3)
先月に続いて「秘笈灞城古実記」(その3)をお届けします。今回は45頁から62頁冒頭までです。
リレー随筆「"月番日記"ができるまで」 城一昭人
城一昭人さんが「月番日記」が出来るまでの思い出を綴られました。「温故」第10号としてこのHPに収められている「月番日記」は亡くなられた令兄との共作で、蛤御紋の変前後に益田家中が書き記した 記録をご兄弟お二人で読解された貴重な史料です。今回のリレー随筆と「温故」とを是非読み比べて下さい。


【2010年08月01日更新】

「秘笈灞城古実記」(その2)<
先月に続いて「秘笈灞城古実記」(その2)をお届けします。前回の紹介文の中でこの文書が村田峯次郎が明治24年に刊行した「長周叢書」の中の 「萩古実未定之覚」と内容はほぼ同じと申し上げましたが、一寸表現が適切でなかったと感じています。
「萩古実未定之覚」は中身が大きく2つに分れていて、前半が町の古実、後半が寺社の古実となっています。所が「秘笈灞城古実記」はこの区別がなく、 「萩古実未定之覚」の好きな所を拾い読みしています。
「秘笈灞城古実記」には「萩古実未定之覚」の著者、烏田貫通(智庵)の意見のほか長鑑、恒蔵など筆写した人が付け加えた註釈が沢山挿入されています。そして逆に「萩古実未定之覚」の記述を 省略している個所もあります。従って、「秘笈灞城古実記」と「萩古実未定之覚」とは似てはいますが、写本に写本を重ね独自の意見を加えた結果、 ソースは同じでも最早別物と考える方が妥当かも知れません 。 所で、明治に刊行された「萩古実未定之覚」の底本も写本です。出版に当たって村田峯次郎は我々と同じように誤記や判読に相当苦労した様です。 「長門金匱」の紹介文で述べたように、明の陳元贇<チン・ゲンイン1587〜1671)>が元和年中萩に来て 萩の盛況を嘆賞し、 毛利輝元に「長門国誌」を献呈しました。これは中国語です。それに「長門金匱」が付いています。そして「萩古実未定之覚」はその続きになっています。 貫通は輝元の時代の人出はなく後世の人ですから、どうしてその様な形になっているのでしょうか。
リレー随筆「須佐の思い出」 佐藤 省吾
佐藤さんが須佐の思い出を3つ語られています。夫々の心の中に須佐は何時までも消すことが出来ない思い出となって残っているようです。
須佐の花火に1万人!
去る7月28日(水)夜、須佐で毎年恒例の須佐湾大花火大会が行われました。


【2010年07月01日更新】

今月の新しい記事は次の通りです

「秘笈灞城古実記」(その1)<
目下、東京須佐史談会では萩に関する古典の一つ「秘笈灞城古実記」を輪読中です。今後、何回かに分けて輪読した部分を逐次掲載することにしました。 使用している原本は「長門金匱」と一体のもので、磯部権左衛門という人が文化5年に筆写した写本ですが、村田峯次郎が明治24年に刊行した「長周叢書」の中の 「萩古実未定之覚」と内容はほぼ同じです。「萩古実未定之覚」は写本を活字化したものですが、「秘笈灞城古実記」も写本の写本で何代目の写本か分かりません。 長鑑という人が写本したものを恒蔵(伊藤茂右衛門)が写し、更に磯部権左衛門が写本したらしいです。会員の一人が古書店で見つけて購入したものを皆で輪読しています。 従って、権左衛門が写本する前から誤記があったらしく、その上写本の時に筆写した人が夫々註釈を書き加えたり省略したり、変更したりしていますので、可成り正本とは食い違いがあるかも知れません。 中には訳が判らない侭写本した部分もあるので私達の読解は難渋を極めています。しかし、この文書は「萩市史」など萩の紹介文献には必ず引用される文書ですから、 須佐の郷土史研究の為には必読の文書でしょう。松下村塾の教材にもなったようです。不明の個所も含めて分からない部分は「不明」と書いて後日の宿題といたします。
リレー随筆「相撲のことあれこれ」近藤 安弘
近藤さんと相撲のお話です。解説は不要です。まず、読んでみて下さい。
2010須佐湾大花火大会のご案内
今年も須佐湾大花火大会が7月28日(水)にふるさと須佐で行われます。実行委員会から皆様へのお知らせと協力依頼の御願いです。今年もこの花火大会を成功させましょう。
平成22年度 須佐郷土史研究会研修会の開催について
来る7月23日(金)、須佐郷土史研究会の研修会が開催されます。今年は禁門の変の記録「随行日記」の古跡を尋ねます。皆様のご参加を歓迎します。
第18回東京須佐会開催について(予告)
毎年恒例の東京須佐会は今年も11月20日(土)に開催することが決まりましたのでお知らせします。


【2010年06月01日更新】

平成22年度 須佐郷土史研究会総会の開催について
来る6月11日(金)、須佐郷土史研究会の総会が開かれます。そのお知らせです。
「温故」第23号
「温故」第23号が刊行されましたので、早速ですがHP版を掲載致します。「益田牛庵御奉公の抜書」です。この文書の一部は「大日本古文書」(東京大学刊)の「益田家文書」や 「萩藩閥閲録」の益田家文書にも収められていますが、今回「温故」第23号に掲載された毛筆の文書は家臣による写本です。印刷技術が無かった昔の人々は大切な文書を 筆写して勉強した訳ですが、書き写すときに誤記が発生します。それを又筆写すると訳が判らなくなるという現象が随所に見られます。
文禄・慶長の役には益田勢も参戦していますが、その時の記録も含まれています。巻末に日本語表記の韓国地名の説明と略地図が付けられています。参考にしながらお読み下さい。
リレー随筆「私と須佐」  栗山 展種
編集人がリレー随筆を執筆するように指名を受けてしまいましたので、少年時代の思い出を綴ってみました。年を取って昨日のことは忘れてしまうようになりましたが、 何故か古い記憶だけは鮮明ですね。


【2010年05月01日更新】

「長門金匱」(下)
先月に引き続き「長門金匱」の後半を掲載します。
リレー随筆「須佐の思い出」  清地 治正
清地さんが少年の日の須佐の思い出を綴られました。人それぞれにその時その時の忘れ難い故郷須佐の思い出が有るのですね。
「新・萩市市制5周年にあたり東京須佐会が表彰を受けました」
新・萩市制5周年記念日に東京須佐会が萩市から表彰されました。近藤会長からのご報告です。
東京須佐会観桜会2010のご報告
去る4月11日(日)快晴の東京新宿御苑で恒例の東京須佐会「観桜会2010」が開かれました。18名の参加者があり、満開の長州緋桜の下で須佐名物「わかめむすび」の外に 思い思いに御馳走を持参して故郷談義に花が咲きました。記念写真の笑顔をご覧下さい。


【2010年04月01日更新】

今月の新しい記事は次の通りです

「長門金匱」(上)>
東京須佐史談会では、2009年10月の例会から毎月萩の古文書では有名な「長門金匱」(ながときんき)の写本を輪読して来ましたが、2月で読了しました。萩の城下町のまちづくりの歴史を学んだり、 防長各地の古実を学ぶには最適の古典で、その中身は萩の歴史書や紹介文に屡々引用されています。先人もこの書物で故郷の歴史を勉強したのです。この文書は明の陳元贇<チン・ゲンイン1587〜1671)>が元和年中萩に来て 萩の盛況を嘆賞し、毛利輝元に「長門国誌」として献呈したもので、「長門金匱」はその一部です。毛利家に関する事歴および萩を中心とした長門国中の地名由来や挿話を集めた珍著です。 読解文の初版は明治24年で村田峰次郎編の「長周叢書」に納められていますが、私達が読んだものは「磯部氏」が文化5年に写筆したものです。写本の時に既に原本に難読個所が有ったらしく、 疑問符や註釈が入っています。この写本は「長門金匱」「秘笈灞城古実紀」「秘笈灞城古実雑録」「鴻榛古実紀」の4部作から成っていますので、私達の例会では、これらを次々に輪読することにしています。 今月は「長門金匱」の前半を(上)として掲載します。
東京須佐会観桜会2010
東京須佐会では今年も4月11日(日)に新宿御苑の長州緋桜の下で観桜会を開くことになりました。詳しくは東京須佐会の「お知らせ」をご覧下さい。
●リレー随筆「」New


【2010年03月01日更新】

益田家の英雄「品川大膳の故事」
戦国時代、今の山口県の支配者であった大内家が天文20年(1551)に滅ぼされ、後盾を失った石見の雄・益田藤兼は親戚であった陶晴賢も厳島の戦い(弘治元年1555)で毛利元就に敗れたので、弘治3年(1557)5月毛利氏に 服従しました。そして毛利元就と共に出雲の尼子勢との抗争に参加します。その頃、益田家中に品川大膳亮勝盛という英雄がいました。彼は尼子の勇将・山中鹿之助幸盛を必ず討ち取ると高言し、自分の名前を棫木(タラノキ)狼之助 と改名しました。タラの若芽を食うと鹿は角を落す。狼は鹿を食い殺すという訳です。永禄8年9月20日、二人が現在の安来市広瀬町の富田川の中之島で一騎討をした結果、山中鹿之助が品川大膳を討ち取りました。 この有名な一騎討の事を知る人が現在では少くなりましたましたので、今回改めてご紹介することにします。
リレー随筆 勝山 義康「高山の思いで」
今月のリレー随筆は東京須佐会の事務局を総括されている勝山さんの少年時代の想い出です。須佐の海と並んで高山は須佐の人びとの心の故郷ですね。


【2010年02月01日更新】

国重要有形民俗文化財に「須佐宝泉寺の絵馬」
萩市文化財保護課は去る1月15日、萩市須佐の宝泉寺絵馬が国重要有形民俗文化財に指定されることになったと新聞発表しました。全国で船絵馬が国の重要有形民俗文化財に指定されるのは6例目ですが、 宝泉寺のものは北前船の時代の海上交通に関わる信仰資料として質的にも量的にも貴重な資料で、また、49点という数量は、重要有形民俗文化財に指定されている船絵馬数に匹敵するもので、 西日本では最多を誇るものです。山口県の国指定重要民俗文化財は11件目で、萩市内ではこれが初めてです。なお、萩市内の国指定文化財はこの指定によって38件となりました。 これらの絵馬は先に昭和61年10月24日、山口県指定有形民俗文化財となっていましたが、この度、国の重要有形民俗文化財に指定されたことを大変嬉しく思います。
萩築城中の大紛争事件「五郎太石事件」
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで西軍が敗れると、毛利輝元はそれまでの8ヶ国1,120千石の所領を失い、防長2ヶ国298千石に削封されました。 そして広島城を追われ新城を建築する必要に迫られました。萩築城は慶長9年6月に着工し同13年6月に完成しましたが、その間に家中では大きな内紛が2つありました。

一つは「吉見広長出奔事件」でです。
輝元が萩に入城した慶長9年11月11日から1月経って、家臣の吉見広長が萩を出奔しました。関ヶ原の敗戦後、吉見氏は阿武郡の大部分を輝元に提供させられ、萩築城の為に僅かな 隠居料と引き替えに萩の居館も失って大井串山に引き籠もりました。広長は慶長の役では秀吉や加藤清正から感状を貰うほどの手柄を立てましたが、輝元からは何の褒賞もなかった事もあって、萩築城の 時にその不満を抑えられなくなりました。特に、長年対抗意識を燃やしてきた益田氏と比較すると益田元祥が石見境に大きな所領を貰い、輝元に大変取り立てられているのでこの不公平に堪えられなくなった ようです。広長の父広頼の室は輝元の姉尾崎局です。従って輝元は広長の叔父に当たります。彼は元和3年(1617)に恥を忍んで帰国し、許されて200石を与えられました。しかし、翌元和4年8月、 広長が平安古の自邸で月見の宴を張り輝元を招いたとき、広長に輝元毒殺の計があるとの讒言が行われ広長一家は誅殺されました。吉見氏の男系はこれで断絶しましたが、後に輝元は広長の妹に 吉川広家の三男彦次郎を迎えて吉見氏を継がせます。これが一門の大野毛利です。

「吉見広長出奔事件」は益田家とは直接の関係はありませんが、今ひとつの事件「五郎太石事件」は益田家が一方の当事者となった大紛争事件です。しかしながら、 現在、須佐ではこの事件のことは余り知られておりません。東京須佐史談会では発足当初にこの事件の事を勉強しましたが、今回改めてHPにそのあらましをご紹介する事にしました。
リレー随筆 片山繁子 「65歳の私を振り返って」
東京須佐史談会の会員同志でリレー随筆をやろうという事になりました。先月の尾木さんに続いて片山さんが故郷での想い出を綴って寄稿されました。バトンタッチして代わる代わる故郷を語りましょう。


【2010年1月1日更新】

先月に引き続いて今月も津田常名翁の遺作をご紹介します。

「佐江管見」
城一昭人氏のご盡力によって、この文書をHP上でご紹介できることになりました。本文の前に付けられた序文によって中身の紹介は言い尽くされていますから、 ここで改めてご紹介をする必要はないとおもいます。どうぞお楽しみ下さい。
リレー随筆 尾木 純 「須佐の思いで」
尾木 純さんが少年の日の須佐での思い出を綴って寄稿されました。幼き日の新年の想い出などを語られています。この文章を読めば皆様も同じように自分の子供時代を思い出されることでしょう。


【2009年12月1日更新】

「三決死」
この文書は津田常名が藤田東湖の「回天詩」の中の言葉を借りて、自分の生涯で三度死を覚悟して行動した事を書き記した回想録の草稿です。
常名については「回天実記」を是非併せてお読み下さい。以下に彼の略歴を記します。

常名は弘化4年(1847)12月19日須佐にて出生。幼名百合槌。父は潤塀常堅といい益田家臣であったが常名誕生後10日目に病死した。嘉永6年(1853)7才の時、 伯父有田信平の習字場に通った。安政3年(1856)10才になって波田与市右衛門の塾に通って習字と素読を勉強した。14才の万延元年(1860)育英館入学。
文久2年(1862)益田家の侍御を命じられ、君側に侍す。公輔と改名。文久3年(1863)17才の6月、領主に従って下関に行き攘夷戦に遭遇、 同月末上京して8.18の変に遭遇した。元治元年(1864)18才の時、蛤御門の変に際して出陣し戦いに敗れて帰国した。この敗戦で朝敵となった長州藩は幕府軍による長州征伐を防戦する一方、 藩内では俗論派(佐幕恭順派)と正義派(尊皇過激派)の対立が激化する。長州藩は第1次長州征伐では俗論派が藩政の主導権を握り、3家老を切腹させ幕府に恭順の姿勢を示す。
しかし、領主益田親施が切腹した須佐では須佐内訌事件が起こって俗論党(北強団)の邑政堂と正義派(回天軍)が対立する。 常名は正義派に加わり蛤御門の変の責任を問われて徳山に幽閉されていた益田親施を奪い返そうとするが果たさず。その結果、慶応元年2月大谷樸助、河上範三と共に回天軍の首魁と見なされ、 大谷・河上は屠腹、常名は若年のため死一等を免れる中、干城隊国貞直人に救い出され奇兵隊に入隊した。奇兵隊が蜂起し本藩俗論党が失脚して、7月須佐でも俗論党、 邑政堂幹部等の処分があり須佐内訌事件が終息する。
続いて第2次長州征伐(四境戦争)が始まり長州藩が幕府軍に前面的に勝利する。この戦いで常名は斥候の重責を果たして帰省した。明治元年、戊辰北征の役(越奥羽方面)に参戦、 各地に転戦しその間密使として働き、10月京都に凱旋。明治2年より1年間隊務免除の暇を乞い、京都皇学所に入学。
明治3年長州藩内で脱退騒動が起こると脱隊兵の中に須佐人が可成り居たので常名は説得に乗り出したが、時間切れで武力制圧されてしまう。この事件を期に思うところ有り 常名は除隊を乞い明治7年帰郷、勉学に専念する。
明治12年教導職試補、同14年須佐村村会議員に選出され村会議長。同16年内務省から権少講義拝命。同22年権少教正に昇級。大正3年権少教正昇進。昭和4年9月11日歿。84才。


【2009年11月1日更新】

今月は増野家文書から史料をご紹介します。

増野家文書「兼清公御入家当日次第書」(整理番号 8袋06)
この文書は益田氏31代益田房清が益田家に入った当日の式次第です。益田家30代就恭には子がなく、妹に継がせることにして、寛政12年(1800)5月29日、吉敷毛利外記就兼の子房清(始兼清、吉十郎、丹後) を養子として迎えました。入家のとき、就恭の妹桑子は6歳、房清は9歳でした。それから8年経ち、二人が結婚する直前に桑子は文化5年(1808)11月17日14才で死にました。房清はその後佐世氏と結婚し 孝子が生まれました。しかし、またも男子は生まれず右田毛利内匠就任五男元宣を孝子の聟養子に迎えます。孝子は幕末悲劇の人となった親施の母(仙相院)です。 こうしたことを念頭に置いてお読み下されば幸いです。読解文は城一昭人さんのご労作です。

萩市出前講座のお知らせ
来る12月11日(金)午前10時から須佐公民館で開かれる萩市出前講座「須佐地域の文化財」のお知らせです。


【2009年10月1日更新】

「益田家領、村庄屋任命の考察」
本年2月、「温故」第16号をこのHP上で複刻して須佐内訌事件の結果、幕末慶応元年に隣村の江崎に追放された益田家家老益田三郎左衛門が仮寓中に記した日記「江崎滞留中日裁」を ご紹介しました。この日記に登場する鈴野川庄屋 増野瀧左衛門の家系について、このたび増野亮氏から一文を寄稿頂きました。江戸時代を通じて益田家采邑の須佐が毛利家中で地政学上 どのような役割を果たしていたか、それを背景としてどのように村政が行われたかを考察したものです。
「益田右衛門介家臣 小国融藏先生事蹟」
幕末の須佐で主君益田右衛門介親施を支えた家臣の一人である小国融蔵は「須佐町誌」「須佐育英館」「益田氏と須佐」など多くの出版物に人物紹介がなされています。所が、これらの記述を読むと 出典が同じ文章を現代文調に書き直したものと思われます。今回、増野様のご尽力で掲載する「益田右衛門介家臣小国融藏先生事蹟」の筆者は不明ですが、大塚均氏が筆写されたもので 多くの紹介文の原典ではないかと考えられます。小国融蔵研究に当たっては必読の記録でありましょう。「温故」第11号と共に併せてお読み下さい。


【2009年9月1日更新】

「温故」第22号(後半)
先月に引き続き「温故」第22号の後半部分を掲載します。前半と後半を一つのFILEとしました。後半の「萩古実集」と題する部分には、萩の地名や寺社仏閣の由来、そして最後に長門名所の歌などが収められています。 中身は文化5年(1808)10月、磯部権左衛門が書き写した「古実記四冊」(長門金匱、秘笈灞城古実雑録二冊、鴻榛古実紀)の文章と酷似していますので、恐らく益田三郎左衛門が書き写した原典は 「古実記四冊」に間違いないでしょう。因みに「萬代江鑑抜粋」の末尾には「弘化二(1845)甲辰之仲秋於覇城(はぎ)官舎写之」(注参照)と書かれていますから、「古実記四冊」が書かれて37年後に三郎左衛門が萩城内の官舎で これを抜き書きしたものと思われます。
  【注】弘化2年は乙巳、甲辰は弘化元年です。いずれかの誤記でしょう。


【2009年8月1日更新】

増野家文書「組頭役中要用日記」(その3)<整理番号11袋22>
先月に続いて「組頭役中要用日記」の第3回目の連載です。今回で完結しました。
「温故」第22号(前半)
本年3月「温故」第22号が刊行されました。「萬代江鑑抜書」と萩古実集で萩城を中心に町内の史実について弘化2年(1845)当時益田家の当職であった益田三郎左衛門致和が写したものです。 今回はその前半をお届けします。
「ふるさと便り」
吉田さんから2009年須佐花火大会と日食の写真を付けてお便りがありましたのでご披露します。


【2009年7月1日更新】

増野家文書「組頭役中要用日記」(その2)<整理番号11袋22>
先月に続いて「組頭役中要用日記」の第2回目の連載です。
●「須佐津考」
幕末に起こった「堺町御門の変」と「蛤御門の変」。それに続く「回天軍」の蜂起、そして「須佐内訌事件」。更に「四境戦争」「戊辰の役」と文久から慶応年中にかけての激動の時代を生き抜いた津田常名は 屡々このHPでもご紹介しましたが、彼は幕末の志士の一人であったと同時に、大変な勉強家でありました。彼が残した数多くの遺稿の中から今回は「須佐津考」をご紹介します。 昭和3年3月25日には益田〜須佐間の鉄道が開通しました。須佐〜宇田郷間(8.8KM)が延伸して山陰本線、京都〜下関幡生間が全通したのは昭和8年(1933)2月24日の事ですが、 時期を同じくして昭和3年3月5日、須佐湾の景観が当時の内務省によって国指定名勝及び天然記念物に指定されました。この時の申請書類に添付された須佐湾の紹介文書の一つがこの「須佐津考」 です。後の説明は序文をお読み下さい。


【2009年6月1日更新】

今月は増野家文書から2つの史料をご紹介します。
増野家文書「組頭役中要用日記」(その1)<整理番号11袋22>t>
解説に述べましたが、この日記は増野勝太(1824〜1893)の日記三部作の一つで、万延元年(1860)11月から翌文久元年(1861)12月までの記録です。「温故」第17号で発表された「御供日記」と 今回の「組頭役中要用日記」はほぼ同じ時期に書かれていて、1つの日記を2つに分けたような形になっています。時間があれば両方を同時に読んで行くと良いでしょう。
増野家文書「四組人高其外覚書」<整理番号12袋4>
益田家の軍制は当初の「八組」が元和7年(1721)春に「四組」に編成替えとなりました。牛庵公(益田元祥)の祖法と言われる仕組みですが、その発祥は余りはっきりとは判っておりません。 今回ご紹介する「四組人高其外覚書」はそう言う意味で大変貴重な文書だと思います。私共の研究成果を解説文の形で付けておきましたので御批評を仰ぎたいと思います。


【2009年5月1日更新】

「温故」第17号(後半)
今月は先月に続いて「温故」第17号の複刻版後半をお届けします。中身の解説は「温故」第17号の序文をご覧下さい。これで既刊の「温故」は全てHP版として複刻が完了しました。


【2009年4月1日更新】

「温故」第17号(前半)
今月は「温故」第17号の複刻版前半をお届けします。中身は増野知象(ともかた、勝太)の「御供日記」です。解説は「温故」第17号の序文に十分な説明がありますので、ここでは省略します。 この第17号の複刻によって既刊の「温故」は5月を以て全てHP版として複刻が完了します。今後は発刊と同時にHPにも掲載してご愛読頂くことになるでしょう。


【2009年3月1日更新】

「温故」第16号(後半)
先月に続いて「温故」第16号の複刻版後半をお届けします。61頁以下を追記しました。解説は2月更新時に済ませていますから、今回は省略します。


【2009年2月1日更新】

「温故」第16号(前半)
「温故」第16号の複刻版をお届けします。今回は全部で107頁の本文のうち前半の60頁を複刻しました。元治元年(1864)の蛤御門の変の責任を取って切腹した長州藩3家老の一人益田親施の采邑須佐では、 彼の死後回天軍と北強団との間に激しい対立が起こり「須佐内訌事件」へと発展しました。この内訌事件の詳細はこのHPに掲載している「回天実記」に詳述されているので省略しますが、事件は結局益田三郎左衛門(老臣、家老、職役)、 栗山翁輔(上士、大組、当役)、多祢順左衛門(上士、大組、御用人)、波田与市(同)などの邑政堂幹部と北強団幹部(6名)の処罰によって慶応元年(1865)年10月に決着しました。「温故」第16号はこの時に「御領分外隠居」を命じられた 益田三郎左衛門が隣村の江崎に仮寓中に記した日記「江崎滞留中日裁」です。

領分外への追放と言っても江崎は須佐とは至近距離にあり、江崎に引っ越した翌日から殆ど毎日のように須佐の人々が「見廻り」と称して「見舞い」にやって来ました。銘々酒、肴(あわび、さざえ、鯛、混ぜ肴など)や餅、あんころなど を下げて来ては話をして帰る。必要に応じて飛脚も来る。従って、日々の情報は須佐に居るのと同じように三郎左衛門に届いていました。同じく「御領分外隠居」を命じられた波田与市とは相互に往来しているし、そのうちに鉄炮100丁を調達する為の金策の相談に益田丹下(老臣、家老)がやってくるという有様であったことが詳述 されています。彼の日記によって栗山翁輔や波田与市が何時流刑になったり領外隠居を命じられて須佐を後にしたかも判ります。

益田三郎左衛門は慶応元年10月25日に須佐から江崎に移り住み、江崎の庄屋大谷六郎左衛門の心づかいで田村恒左衛門という造り酒屋の家を借りて住むことになりました。そして翌慶応2年5月18日許されて 須佐に戻るまでの7ヶ月間そこに住みました。須佐に戻る日は波田与市を同道して帰ったと記しています。


【2009年1月1日更新】

「須佐騒動一件御裁断記録」
「須佐騒動一件御裁断記録」を読んで
昨年以来、東京須佐史談会例会で今回掲載する「須佐騒動」の裁判記録を輪読しています。享和2年(1802)7月12日、須佐益田家の侍・中間約300人が益田本家土居前に詰め掛けて騒動を起こしました。 当時、益田家では寛政12年(1800)に益田就恭が隠居し、跡取りに房清(9歳)を養子として迎えましが事件当時は未だ11歳で若年のため、家中の政務は末家中が後見役となり家老が執行していました。益田 本家の財政は赤字続きで、これを立て直すために天明5年(1785)以来5ヶ年の倹約令が出され、特にこの5年のうち中の3年は「一つ成」(「半知一徳成」とも言います)を命じられました。江戸時代は「四公六民」 が原則で、武士の所得は知行地の物成のうち四ツ(40%)でしたが、それを10%にして30%は益田家へ納めよと言うのですから、苛酷の極みとも言うべき減給です。寛政12年には再び「半知一徳成」が命じられたようです。 ところが、財政の方は一向に改善しないどころか、新借によって却って負債が増えて行く。そこで侍・中間約300人が立ち上がった訳です。

須佐の歴史上この様な事件が有ったことはこれまで知られていません。今回、山口文書館が所蔵する「須佐騒動一件御裁断記録」を読んで初めてこの「隠された歴史」を知ることが出来ました。事件は 萩本藩の遠近方の手によって収拾が図られ、享和3年2月に裁きが申し渡され一件落着しましたが、この記録は事件の一部始終を本藩の立場で記録したものです。現代風に云えば検察調書兼判決主文の様な内容です。その記述は 婉曲な表現でまとまりが無く、あちらこちらに記述が散らばっているので読みづらく、一読して事件の経過を理解することは極めて困難です。

読者の便宜のために、事件の経緯を読後感と共に纏めておきましたので、それを読んでから読解文をお読み下さればご理解が早いだろうと思います。

第16回東京須佐会(平成20年11月22日<土> 於 日立金属高輪和彊館)
今年も恒例の東京須佐会の総会が日立金属高輪和彊館で開かれました。54名の参加者があり、来賓として須佐総合事務所から和田所長、山本総務部次長が参加され、また益田家本家から益田都様、 路子様がご臨席下さいました。


【2008年12月1日更新】

「京都御進発御備組」
過日須佐訪問時に伊藤清久会長から「京都御進発御備組」の写しを頂戴しました。これは益田親施が蛤御門の変に際して引き連れた須佐兵273名の名簿で所謂「陣押」(軍勢の行列)を図表化した文書です。 筆者は「随行日記」と同じ波田与市と考えられます。両方を読み合わせると素晴らしい史料です。伊藤会長のご了解を得て読解文を掲載することにしました。

一般には益田親施が引き連れた軍勢は「須佐兵約300」プラスその他300で合計600とされています。実際には正規の益田軍勢273名の外にも多数の須佐の人が参戦していました。例えば、 「温故」第18号「随行日記」では栗山翁輔、小国融蔵(軍監)、田村育蔵(不詳)、大谷樸助(斥候使番)、河上範蔵等も参戦していた事が記されていますが彼等の名前は記されていません。同じくP2〜3に出てくる 中間孫七や勘平次は名簿に含まれていません。従って「須佐兵約300」という表現は案外正しいのです。 だからといって、この「京都御進発御備組」の史料としての価値が損なわれる事は聊かもありません。こういう史料を読む場合の心得として当時はそう言うことが当たり前だったと言う認識が重要だと思います。

名簿を見ると、士分が引き連れていった人数が可成り居ます。これらの人数の役目は荷物持ちであった様ですが、戦闘状態になったときには実際に銃や刀を持って参戦したのでしょうか。 「御紋高張(提灯)壱本 持手農兵より兼ル」とか「弓張(提灯)」の持手は輸送隊乃至輜重隊として後方支援に従事し、実際の戦闘には参加しなかったのではないでしょうか。すると、実際の益田軍の戦力は300より可成り少なかったと 考えるべきではないでしょうか。

これまで色々の史料の中で(「随行日記」「日史録」など)、屡々「三つ器とは何ぞや」とその解釈を巡って議論をしましたがよく判りませんでした。今回この史料を読んで 「三つ器」とは貝、金(鐘)、鼓(太鼓) の事(合図の道具)だと判りました。

益田軍の大炮隊は「一番大炮」と「二番大炮」の2つの隊に別れたいたようです。このことから、益田軍が保有していた大炮の数は2門だったと解釈します。

このようにこの資料は大変様々な内容を含んだ資料だと思います。ぞうぞ皆様も色々とご研究下さい。


【2008年11月1日更新】

「温故」第21号
先月に引き続いて「日誌録」(後編)を「温故」第21号として複刻しました。この文書の冒頭に「従文久戌年正月 至元治子年十二月」と記されていますが、実際には「慶応元年十二月」までの組日記となっています。 「温故」第20号の前編と同様に後編も増野勝太組(宇谷組)の組内の動向が記されています。各種の辞令伝達、改名・隠居・死亡・家督相続・養子縁組などの届出など日常的な役人としての事務処理の外に、本号での 特色ある中身をご紹介しますと◇境町御門の変が起こった文久三年八月十八日前後に益田親施が上京するのに合わせて組内でも慌ただしい動きがあったこと ◇その裏話に中間以下の当時の兵卒は「気分相」であるとか 「足を踏み抜いた」とか色々の事情を並べて、すんなりと従軍しなかった事が判ります。 ◇京都が物価高であったことから、手当を上げて欲しいなどという交渉もあったようです。 ◇また、蛤御門の変に先立って 繁枝原で行われた調練の時に、金鱗笠事件が起こり仁保源助切腹という大事件が起こっています。 ◇蛤御門の変の後、責任を取って切腹した益田親施の葬儀の模様も簡単に記されています。 ◇面白いのは、 文久三年七月二八日、益田親施は弾正を改め右衛門介と改名しました。屡々上杉弾正大弼の館に候するため同名を憚ったからですが、それにつれて「xx右衛門」という名前の中間が一斉に改名届けを出して「xx左衛門」 等と名前を変えています。 ◇公金の使い込みは当時でも矢張りあったのですね。第21号は249頁の労作でした。ゆっくりとお読み下さい。 なお、初版を修正した個所は朱書しました。判読できない個所には 「??」のルビを打っています。引き続いて研究し、改訂を重ねたいと考えています。

おばけイカの話
増野 亮さんの少年時代、須佐での思い出を主題にした随筆の連作です。故郷で過ごした日々の思い出は大人になっても薄れずに鮮明に記憶として残ります。皆様の記憶に残る故郷の残映は如何ですか。


【2008年10月1日更新】

「温故」第20号
「温故」第20号を復刻しました。これは横屋丁増野家当主、増野知象(千代槌、佐助、正太、勝太)が書き記した「日史録」という文書の前半部分です。この続きは「温故」第21号でお届けします。表紙の写真は 解体前の益田家本門の記録写真です。撮影の時期は判りません。邑政堂はこの中にありました。
増野家は代々益田家4組の一つ「宇谷組」の組頭役を歴任してきた家柄です。筆者の増野勝太は宇谷組組頭で、砲術の名手でした。彼は慶応2年「四境戦争」の折に隊司令となって活躍し 、幕府の軍監三枝刑部を狙撃して功あり、その軍功により主君益田親精公から感状を授けられました。明治26年5月14日卒。享年69才。「須佐町誌」183頁や「温故」第1号「石州益田戦争実地録」 に彼の四境戦争の時の活躍振りが記述されています。
今回ご紹介する「日史録」は文久2年(1862)から元治元年(1864)までの間、増野勝太が宇谷組組頭として描き残した日記です。幕藩体制下の「組」と言う組織が、日常的にどの様な機能を果たしていたのか、組がどのように統率されていたのか、組士や中間 はどの様に訓練され、どの様に生活していたのか、跡式相続・病気届け・改名届け・出生届・死亡届・養子縁組等々当時の武士社会の諸制度が細やかに記録されています。
長州藩は文久3年8月18日の「境町御門の変」で会津・薩摩の謀略に敗れ、御所の警衛の任を解かれて毛利父子は京都から追放されます。この冤罪を雪がんものと長州藩は反撃に出ました。 元治元年「蛤御門の変」はこうして起りました。この日記にもそうした緊迫した時代背景が随所に感じられます。

育英校の講堂に連合国の捕虜
増野 亮さんが少年の日に須佐で見た捕虜の思い出を随筆にされました。そしてそれが後年マレーシアへ旅をしたときに出会った元捕虜との偶然の出逢いと重なって、増野さんは捕虜問題を思索する。そういう作品です

須佐郷土史研究会との交流会ー須佐帰省旅行のご報告
東京須佐史談会は12月に第100回目の例会を迎えることになります。その記念に会員9名が揃って須佐に帰省して須佐郷土史研究会の皆様と交流し今後の協働を約しました。そのご報告を致します。


【2008年9月1日更新】

「温故」第19号
「温故」第19号を復刻しました。この号では須佐歴史民俗資料館所蔵の「須佐浦高山崎ニ於いて御試として鯨組御組建て願書」と題する文書をご紹介しています。江戸時代後期の安政4年(1857)年須佐領内漁民の要請に 応えて、試験的に鯨漁が実施されたときの記録です。この試みに鯨漁の先進地である長門の通(かよい)、瀬戸崎、川尻などの漁民が援助した模様が詳しく記されています。「クジラ1頭とれば七浦にぎわう」 と言われた捕鯨に益田家も着眼して育成を試みた訳です。
最も古い捕鯨法は湾内に入り込んだクジラを手やりなどで突き殺す方法でしたが、藩政時代に捕鯨術も進歩して網で補足した上で銛で突く「網取り法」が考案されました。 この網取り法も最初は入江にクジラが入り込むと入り江の入り口に網を張る方法でしたが、更に漁法が進歩して沿岸近くを泳ぐクジラの遊泳ルートに網を張って進路を遮り、 機敏に尾部に近づいて包囲網を張る様になりました。網船がクジラが泳ぐ前方に廻って半月形に網を入れ、次に後方にも網を入れて包囲する。包囲体制が出来上がると追船が一斉に船端を叩いてクジラを口網に 追い込む。クジラが網に掛かると追舟に乗った刃刺(はざし)が一斉にクジラの巨体をめがけて銛を打ち込む。銛を打ち終えると刃刺たちは小剣をくわえて荒海に飛び込みクジラの鼻を切り、切り裂かれた穴に腕で縄を通して 結びつける。「鼻通し」という命がけの荒技です。縄をぐるぐる巻きにしてクジラを締め上げ持双(もつそう)船二隻の間に挟んで浜辺へ引っ張るのです。この文書でも当時こうした漁法が採られたことが伺えます。
今回の復刻作業は「温故」第15号に引き続いて須佐で保存されていた電子データから行いました。このあと第20、21号も電子データを送って頂きましたので次々に復刻したいと思います。


【2008年8月1日更新】

「温故」第15号
「温故」第15号を復刻しました。この号では「記録抜書八冊之内弐」と題する文書をご紹介しています。江戸時代後期の明和4(1767)年から文化11(1814)年までの48年間に須佐浦を中心に起こった出来事が記録されています。 大谷英祐氏ご所有のこの史料は惜しいことに残り七冊が未発見です。「温故」は全頁に文書の写真と読解文を掲載しています。しかし、写真データはデータ量が大きすぎますのでHP版では残念ながら読解文のみを掲載します。 当時の須佐での人々の生活がどのようなものであったかを窺い知ることができる貴重な文献です。「須佐の年表」に出ている明和5年の火事の記録がP114に記述されています。
今回の復刻作業は須佐で保存されていた電子データから行いました。このあと第19、20、21号も電子データを送って頂きましたので復刻作業は一気に進むと思います。

随筆「重爆、低空で須佐に舞う ―終戦の思い出」
増野 亮さんが先月に引き続いて随筆を発表されました。8月15日の終戦記念日は私達の世代にとっては忘れ得ない一日でした。皆、少年でしたがそれぞれに思い出があります。これは増野さんの終戦の日の思い出です。


【2008年7月1日更新】

随筆「梅雨どきに想うこと」
久し振りに増野亮さんが随筆を寄稿されました。少年時代の須佐の山火事と洪水の思い出話です。

「温故」第14号(その3) (その4)
先月に引き続いて「温故」第14号(その3)を復刻します。今回で第14号は完結です。(その4)は巻末の付録ですが、原本付録の地図は今回は掲載しておりません。 もう少し判りやすい地図を作り直して後刻掲載することに致します。
この文章は益田家第28代広尭公が江戸へ参府した時、お供の増野平二郎が書き残した日記であることは5月にご説明しましたが、延享4年(1749)2月3日に江戸を立って帰国の途につきます。 途中の箱根越えや大井川渡河の記録で当時の東海道道中の様子が窺われます。また、京都では短い滞在期間中にあちこち大急ぎで参詣したり見物したりした様子が記録されています。(その4)の 解説と共に併せお読み頂きたいと思います。


【2008年6月1日更新】

須佐郷土史研究会総会並びに研修会の開催について
本年度の総会と研修会のお知らせです。奮ってご参加下さい。

「温故」第14号(その2)
先月に引き続いて「温故」第14号(その2)を復刻します。益田家第28代広尭公が江戸へ参府した時、お供の増野平二郎が書き残した日記であることは先月ご説明しましたが、江戸での生活振りが詳細に記されています。 広尭公は幕府の要人や毛利家を毎日のように頻繁に訪れて実に細やかな心配りをしながら活動した様子が分かります。お供の平二郎は常に広尭公に随行していますが、時に一人で使者を勤めたり、暇なときには江戸の名所旧跡を 訪れています。寺社巡りが主な楽しみだったようですが、隅田川の花火見物にも出掛け『納涼の川船其の数夥敷く、提灯其の数を知らず、開口塞がり難く驚目に候事』と書き記しています。江戸は火事が多かったことや、 病気になったり鍼治療をしたり足を痛めたりで健康管理に気を遣って生活した様子も窺われます。

「御記六之写」
1998〜9年に掛けて東京須佐史談会では「御記六之写」を読解して勉強しました。当時は会が出来て間もない時期で、会員も少なく内輪の研究で終わって居ましたが、新しい会員も増えたので昨年7月から本年1月までの間に 再度これを読みました。その結果をここに掲載します。判読出来ない個所や意味が良く分からない個所が残っていますが今後更に研究を進めたいと考えています。中身は公武一体か尊皇攘夷かで日本中が騒がしくなっていた 文久2年(1862)益田親施の命を受けた萩当役の栗山翁輔が大阪に赴き商人から借銀をしたときの旅行記です。今月は奇しくも「温故」第14号で江戸出張旅行、「御記六之写」で大阪出張旅行の2つの記録をお届けする事に なりましたが読み比べて見て下さい。


【2008年5月1日更新】

「温故」第14号(その1)
今月は「温故」第14号を復刻します。本号の内容は益田家第28代広尭公が防長両国安堵の判物を頂戴した御礼の使者として萩藩を代表して江戸へ参府した時、お供をした増野平二郎が書き残した日記です。 日付は延享3年(1746)9月10日から翌4年3月6日までとなっています。延享2年11月2日徳川将軍が第8代吉宗から第9代家重へと代替わりしたので、その時萩藩に防長両国の安堵状が出されたようです。 「温故」第14号は本文丈で111頁あり、各頁は上段に毛筆原本の写真を載せ、下段に読解文と読み下し文を交互に記述しています。今回HP判として復刻するに当たり、毛筆原本の写真掲載は厖大なデータ量となり、 難しいので上段に読解文、下段に読み下し文を記載して復刻することにしました。今月から3回に分けて連載します。

今年も長州緋桜が綺麗でした。東京須佐会「2008観桜会」
恒例の「東京須佐会」の観桜会が4月5日(土)11:00からいつものように新宿御苑の長州緋桜の下で開かれました。その時の写真をお届けします。桜は例年より早く開花しましたが、長州緋桜はまだ4分か5分咲き という程度でした。しかし、須佐名物”わかめにぎり”を食べたりお酒を酌み交わして郷里の仲間との談笑は話題で満開、春の一時楽しい時を過ごしました。


【2008年4月1日更新】

「温故」第13号
今月は「温故」第13号を復刻します。本号の内容は大変充実していますが、惜しむらくは出版の日付が不明であり、また何の解説もなくいきなり本文が始まりますので、以下記事毎に若干の補足説明を致します。
(1)「益田家御子孫之分派并諸子長門へ御国替以前於益田来歴之次第」
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで西軍が敗れた結果、毛利輝元の所領は防長2ヶ国に削封されました。この時益田元祥は元通り益田の所領を安堵するからと徳川家康に従属するよう誘われましたが、それを断って輝元に 従って益田を捨て須佐へ移住しました。須佐での益田家臣の家禄は概ね益田時代の1/5となりました。この文書は須佐移住前の益田分家や主だった諸家の来歴を記述した貴重な資料です。「増野家文書」でご紹介した 「石州以来益田家職役」や「益田勘兵衛由来書」などとも併せてお読み下さい。
(2)「石州口出陣日記」
幕末に起こった第2次長州征伐で萩藩は「四境戦争」を戦い幕府軍に勝利しました。この文書はその時の石州口に於ける戦いの模様を記録したものです。「温故」第1号所載の「石州益田戦争実地録」や同第7号の 「石州口戦記録」と併せお読み下さい。
(3)「不思議な湊の由来」「鏡山神社由来記」
これらは共に「浄蔵貴所」の由来記です。「温故」第1号の「浄蔵貴所の縁由」と併せ読むことをお勧めします。
(4)「高山黄帝社縁紀并山之由縁妙高山瑞林禅寺」
黄帝社のことはこれも「温故」第1号の「高山狗留孫仏縁起並高山の縁由」でご紹介済みですから併せてお読み下さい。

●東京須佐会「2008観桜会」のお知らせ
今年の桜の開花は例年より早いですね。恒例の「東京須佐会」の観桜会は4月5日(土)11:00からいつものように新宿御苑の長州緋桜の下で行います。詳しくはこちらの「お知らせ」をご覧下さい。


【2008年3月1日更新】

「温故」第12号
「温故」復刻も今回で第12号まで漕ぎ着けました。今年も毎月少しづつ着実に作業を進めたいと思います。
第12号は巻頭に何の解説もなく、いきなり3つの文書が始まりますので、この欄を借りて少し説明をを加えたいと思います。
「三蔭山招魂社建設の次第」は「回天実記」<「温故」第6号および本HP「回天実記」(京都大学付属図書館 尊攘堂文庫版読解文)>の末尾に記述されていますが、 「温故」第12号の記事によって更に詳細が判ります。招魂社というのは戊辰戦争頃から以降に国家のために殉難した英霊を奉祀した各地の神社の事です。東京招魂社は1879年(明治12年)靖国神社と改称しました。 また地方の招魂社は1939年(昭和14年)護国神社と改称されました。須佐の招魂社も蛤御門の変、戊辰戦争、西南戦争、須佐内訌事件など明治維新前後に国事に殉じたり主家への忠節のために忠死した 人々を祀る神社です。「温故」第12号には祀られている人々一人一人の碑文が記述されています。今日の日本の繁栄は、国事に殉じた多くの人々の犠牲の上に築かれていることを思うとき、 当今の靖国論争の元になっている戦犯合祀問題や靖国神社と右翼との結びつき(東京では右翼の街宣車は毎朝靖国神社 から一斉に出発します。神社は彼らに駐車場を開放しています) の様な政治的側面を極めて残念に思います。
「三の逕(こみち)」は序文末尾に「鶴台山人」と書かれている通り瀧鶴台(1709〜73)の著作です。「三逕」とは隠者の庭を意味します。漢の蒋詡(しょうく)、字元卿、は杜陵(西安)の人ですが 兗州(えんしゅう=山東及び河北地方)の刺史となり、清廉実直の長官として有名でした。しかし、王莾(おうもう)が漢の帝位を奪って新王朝を建てると、病気を理由に故郷へ帰り、 庭に開いた3本の小徑に松菊竹を植えて旧友の求仲と羊仲の二人だけを連れて逍遥したと言われます。「三逕」はその故事を表す言葉です(三輔決録)。陶淵明は13年間役人として働きましたが、 42才で官職を捨て隠居生活に入りました。有名な「歸去來兮辭」の中で「三逕就荒 松菊猶存」(三逕は荒に就くも松菊はなお存す)と蒋詡に倣って自分の庭の情景を詠んでいます。 54才の時、官職に就くよう請われましたが応ぜず、悠然と暮らし63才で没しました。
このように「三逕」は元々高尚の住処の事を言いますが、瀧鶴台の「三逕」は儒教・老荘・仏教の三教の教えを説いたものです。 序文の最初に「今年而立(30才)に及ぴぬ」という一節があり、鶴台30才の時の序文です。 鶴台は萩藩の儒学者であり医者でもあります。鶴台の文章を最初に書写したのは波田貞父(守節、与市)で宝暦5(1755)年4月27日歿、行年30才でした。書写の日付は守節が死ぬ1年前の宝暦4年12月、彼29歳の時のことです。
私達が今見ているのは須佐の伊藤清久氏が所蔵しておられる「三之逕」の写本です。その最後には山科榮陽(太室のことか)が宝暦11年に筆写したと記されています。そしてその写本には守節の序文が付いています。 山科は「三之逕」が「博文堂蔵板目録」で既に出版されていた事を記録しています。出版された時期は宝暦4年と11年の間という事になります。山科はどの「三之逕」を書写したのでしょうか。これは謎です。
「温故」復刻に当り原本を伊藤氏から拝借して考証を重ねました。詳しい事情は「復刻あとがき」をご覧下さい。守節の弟、兼虎について「阿武郡志」P558に 「宝暦13年館(明倫館)を出でて僑居し、 徳山藩士本城桓と爨を同じうす。瀧長ト(鶴台のこと)を推して盟主とし、その業を研くこと1年、…」という記事があります。「須佐育英館」P63以下にも同じ説明があります。 波田兄弟が瀧鶴台と密接な関係があった事を示しています。(この記事には修正を要する個所が可成り有ります。10日程御待ち下さい。 3月1日)
「文化十年並びに其後追々仰せいだされ 品定め御目付四ヶ条共に」は萩藩政府が布達した日常生活上の規定であって、藩士以下士農工商の庶民の各身分階層毎の暮らし 振りについて、 下駄の鼻緒の種類に至るまで制限を加えたものです。それには罰則があり、「品定」の規程を破れば処罰されました。「御目附」役の者が違反が行われてはいないかと常に目を光らしており、 その為に例えば婚礼等の時には饗応の料理の目録が御目附の許に提出され、御目附は婚礼の席に臨んで料理を食して確認することも行われたようです。着ているものを見れば、その家その人の身分・階級が 一応は分かります。幕藩時代は身分の区別によって厳しく社会秩序が維持された時代であり、外観上一見して人々の身分や階級が判別できることが求められたのです。  

「須佐の宿」シリーズ第8弾
今月は弥富交流促進センターをご紹介します。須佐の宿泊施設ご紹介回を重ねねて8回になりましたが今回がこのシリーズの最後です。ご執筆頂いた地域振興課の中島祐司さんに厚く御礼申し上げます。ありがとう御座いました。


【2008年2月1日更新】

「増野家文書」13袋4 「国本論」(2)
先月に続いて「国本論」の後半を掲載します。城一昭人さんの労作です。解説は先月の記事をご覧下さい。

「須佐の宿」シリーズ第7弾
今月は「民宿すさ」の登場です。名物「釜風呂」やお部屋、料理などをご紹介しています。

●お断り
今月は「温故」第12号を復刻して掲載する予定でしたが、編集上の問題があり1ヶ月延期致します。悪しからずご了承下さい


【2008年1月1日更新】

明けましておめでとう御座います。

■ 2008年の年頭に当たり

昨秋、東京江戸博物館で開催の夏目漱石展をみて、豊富な展示物に驚きました。漱石の変化に富んだ全生涯にわたって、それぞれの時期に書かれたメモ、手帳、手記、南画、講義表、手紙、原稿など、 生身の息吹が聞こえるものが並べられていました。これらはその弟子たちの努力で、駒込の「漱石山房」から東北帝大へ疎開されたものだそうです。漱石が今日なお、国民的な人気を保つ、 その一因はこれらの資料が新たな研究材料を提供し、新しい評論を生み出しているという事情も考えられます。
顧みると、先の大戦で家々にあった先祖伝来の書簡や記録の多くが、戦災や混乱で消滅してしまいました。加えて戦後の国語改革で、伝統的な生活慣習を伝える古文書との隔たりが大きくなりました。 その反動もあってか、近年、熟年層を中心に、古文書解読がどこでも熱気を帯びるようになりました。加えて最近は文字や写真情報もインターネットに乗る時代となり、日本中どこからでも時間空間のバリアが除かれて、 対話や史料交流が瞬時にできるようになりました。東大史料編纂所や京大尊攘堂、各地の文書館などの古文書もボツボツとネットで閲覧できるようになって参りました。
東京須佐史談会では、萩市須佐支所や同中央公民館、須佐郷土史研究会、東京須佐会などと連携を保ちつつホームページを運営、古文書については別項「あゆみ」のとおり、順調に郷土の史料解読を進めています。 平成16年7月にホームページ開設以来、アクセス数は6,000件を超え、その数も加速の傾向にあります。会としても世間のこうした期待に応え、今年の活動目標を概ね以下のように話し合いました。

@ 今秋東京での例会が100回目を迎えるに際し、郷里須佐会員との交流会の開催
A ホームページのアクセス1万件へ向け、更なる内容の充実
B 須佐郷土史研究会発行の「温故」の全巻復刻
C 京大尊攘堂版「回天実記」の読解文を「温故」に掲載するための協議の促進
D 天明年間(1780年代)に起こったもののあまり知られていない「須佐騒動」の研究発表
ネット社会の到来でゆくゆくは、全国各地に古文書研究会が生まれ、旧家の土蔵などで戦災をまぬかれた地下生活文書などが、ネット上で紹介される事態にが早晩来るのではないでしょうか。 そうなれば山陰・山陽・筑紫・近畿・東海・・・といった地域の近世の文化特性が次第に明らかになることでしょう。本会も周辺地区との交流を高め、庶民生活を中心とした近世の山陰研究に貢献できれば、 喜びこれに過ぎるものはありません。(増野 亮 記)

「温故」第11号
「温故」第11号を復刻しました。小国融蔵が書き残した「柴の夕煙」と題する手記の特集号です。融蔵(1824-1866)、字は武彜、初め は剛蔵、後父の名を嗣いで融蔵と名乗りました。号は嵩陽。 7歳で父を失い苦学しましたが19歳で江戸に留学、昌平校を卒業後安井忠平の門下生となり、遂に大学頭の林澗斉に認められて侍読となりました。尊皇の志が強く、また蝦夷の開発を唱えて単身蝦夷から樺太に渡り視察、 北の守りの為に屯田兵の派遣を説きました。 須佐を離れて10年後の嘉永4年須佐に帰り育英館の学頭となり、人材教育で益田親施の期待に応えました。吉田松陰、僧月性と深く交際し、松陰と志を通じて門生の交換を行いました。 文久2年、藩主毛利公が列藩に率先して公武合体運動を起こしたので親施は秘密の役目を帯びて上京しましたが、この時融蔵を召出して用人として密かに諸藩と交渉させました。 元治元年久坂玄瑞と共に志士を集めて天王山に陣を敷き、桜井某と共に軍監を務めましたが、蛤御門の変で戦いに敗れました。この責任を問われて領主親施が徳山にお預けとなるや、大谷撲助らと共に七卿(当時五卿) を擁して主君を救出せしめ、義旗を翻して二州の正気回復を図ったので、蟄居を申し付けられました。この文章は元治元年12月のものです。

「クリスマス・イルミネーション点灯!」
須佐総合事務所からふるさとのクリスマスの写真が届きました。

「須佐の宿」シリーズ第6弾
須佐総合事務所 地域振興課から今回は民宿「ながいそ」のご紹介です。

「増野家文書」13袋4「国本論」(その1)
先月は13袋4の後半にある「鸚鵡の言乃葉」をご紹介しました。今回は同じ写本の前半部分の「国本論」の第1回目読解文です。城一昭人さんの解題と読解文をお読み頂きたいのですが、昨今の宙に浮いたり 消失した年金問題、C型肝炎薬害訴訟、防衛庁汚職事件などを思うに付け、現代の役人や政治家に読んで貰いたい文書です。

新しいリンク集のお知らせ
今回、次の6つの須佐関係ブログとリンクしましたのでご覧下さい。TOP PAGE の「リンク集」をクリックすれば、一番最後に見付かるはずです。素晴らしい出来映えですね。

○須佐公民館(非公式)ブログ
○須佐図書館(非公式)ブログ
○須佐歴史民俗資料館(非公式)ブログ
○コミュニティ須佐ブログ
○須佐歩こう会ブログ
○長州とことん総踊りブログ

【2007年12月1日更新】

「温故」第6号
「温故」第6号を復刻しました。先月に続いて今回も画像データをPDF FORMATに変換したものを掲載します。データの説明は先月の「What's New」の通りです。
◇全体で24頁のうち最初の2〜14頁は「回天実記」下巻の第最終回です。温故版の「回天実記」はこれで完結しました。
◇「御蔭山神社」は「温故」巻末の記述と関連が深い記事です。蛤御門の変から戊辰戦争など幕末の動乱の時に、殉じた須佐の人々の名簿です。
◇「須佐町の教育の歴史」(私塾の普及)は「阿武郡志」P377〜380の記事を紹介しています(一部誤植有り)。維新前後、須佐では郷校育英館の外に学識者が私塾(寺子屋)を開いて子弟の教育に当たったので大いに 教育が普及しました。この文章でどの様な寺子屋があったかが判ります。
◇「天保一揆 補遺」は「温故」第3号でご紹介した「天保一揆」に関連する史料です。一揆の被害にあった家屋などの記録です。
◇最後の「楮畑の開作について」は益田家が財政難を救う為の殖産事業として楮を植えさせた時の記録です。

「増野家文書」13袋4 「鸚鵡の言乃葉」
今回は13袋4の後半にある「鸚鵡の言乃葉」をご紹介します。増野虎八十九歳のときの写本と思われます。城一昭人さんの解題と読解文をお読み下されば余計な紹介の言葉は必要ないと思います。

「須佐の宿」シリーズ第5弾
今回は民宿「わたり」のご紹介です。

第15回東京須佐会
去る11月24日(土)東京高輪の日立金属「和橿会館」で開催された第15回東京須佐会の記念写真をご覧下さい。


【2007年11月1日更新】

本会設立以来のメンバーで読もう会の講師、城一定先生が、10月7日急逝されました。享年82才。ご自身の蘊蓄・古文書の解読の教養を、次世代の後輩に早く伝授しておきたいという情熱が、強く感じられた講座の2年間でありました。 この学恩に対し一同改めて深甚の謝意を表したいと思います。古淡といえるご心境は等しく会員の敬愛するところで、訃報を生前ご親交のあった伊藤清久須佐郷土史研究会長に直接、お伝えしたところ既にご存じで、 顔をくしゃくしゃにして目を潤ませ、深い悲しみの表情をなさいました。側に人がいなければ共に慟哭したことでありましょう。特に病苦未だ癒えざるご逝去直前に仕上げられた最後のお仕事、「松陰門下生の若年時代の遺文」の解読を完成させられた一事は、誠実にして崇高な精神の何たるかを、 自らお示しになられたような気がいたします。合掌。 

増野家文書 第10袋7「休庵(牛庵)様覚書」
関ヶ原の戦いで西軍が敗れその総大将でった毛利輝元は10ヶ国の太子から防長2か国に押し込められ、益田家も代々の領地益田を離れ 須佐に移住を無余儀されました。この時、徳川家康は武将でありながら財政にも秀でた益田元祥に対して、家康に服従すれば元の領土を安堵する。輝元は最早それまでの毛利と違って力がないから 是非そうせよと誘いましたが、元祥はこれを断り輝元に従って須佐に移住したのです。感激した輝元は以後益田家を毛利一門八家に加え、永代家老として遇することにしました。この文書はその時の経緯を 記したもので、その外にも須佐を采邑とすることになった経緯や「六ヶ国返祖」問題の事も記されています。この文書は益田家文書の中でも最も重要視されているものの一つで「小山私記」などの写本が知られていますが、 今回は増野家文書からご紹介します。

「温故」第5号
「温故」第5号を復刻しました。これまでの復刻の仕方と違って、今回は編集者の時間の都合で画像データをPDF FORMATに変換したものを掲載します。これまでの復刻版は画像データからOCRで文字データ化したものを PDF FORMAT に変換していたので、文字データとして活用出来ましたが、今回の復刻版はそれが出来ません。また、画像データのため活字が不鮮明であったり、歪んでいる頁などがあって見苦しい等の欠点があります。 いずれ時間が出来ましたら文字データ化しますのでしばらくの間ご容赦下さい。
◇最初の20頁は「回天実記」下巻の第2回目です。次回で完結します。
◇「諸国大飢饉並諸品廉書」は椋正隆元校長が所蔵されている古文書で江戸時代後期の記録です。
◇「幕末期食料品等の価格推移」は金谷清氏の労作です。「諸国大飢饉並諸品廉書」読みながらながらご覧下さい。

「須佐の宿」シリーズ第4弾
今回は「ペンションホルンフェルス」です。須佐総合事務所地域振興課の手でシリーズ連載をいて頂いています。ホルンフェルスへの遊歩道入口の横にあって、ホルンフェルスの公営無料駐車場に車を停めると自然に見付かります。 実に眺めのよい場所にあります。詳しくは記事をご覧下さい。

熱海伊豆山一泊旅行の写真
東京須佐史談会創立10周年記念と新しいメンバーの歓迎を兼ねて、2007年9月20〜21日熱海伊豆山にある伊藤忠商事の山荘に一泊二日の旅行をしました。幸い好天に恵まれて遥かな海上に初島をながめながら 温泉に入りました。山海の幸とお酒を堪能した夕食の後は、部屋に戻って白地図に須佐、弥富、江崎の小名名を入れるゲームなどをして楽しみました。同じ須佐に生まれ育ったとは言え、 裸のお付き合いをするのは初めてとあって、いつもの難しい勉強を離れて2日間大変楽しく親睦を深めることが出来ました。毎年一回こういう旅行をしたいとの希望があって今後益々仲の良い会になりそうです。


【2007年10月1日更新】

TOP PAGE のフォルンフェルスの写真を入れ替えました。
この写真はつわぶきの館駐車場から撮影したもので、「中国とるぱ写真コンテスト」最優秀賞受賞作品です。 須佐総合事務所からご提供を受けました。このコンテストは 国土交通省主催で今年から始まりました。「とるぱ」というのは、良い写真を撮る事ができるパーキングという意味で、 優れた景観があり、写真撮影が楽しめる、 安全に駐車できるなどが条件です。中国5県から143点の応募があった中から最高賞を受賞されました。大勢の人が写っており、 フォルンフェルスの大きさが判ります。

温故第4号
「温故」第4号を復刻しました。
◇「回天実記」は愈々下巻に入ります。明らかな誤字は訂正して朱書しました。「樸助」を「撲助」と印刷しているのが気になります。
◇伊能忠敬の測量日記は10名のメンバーと5人の従者が須佐を訪れ、晴れた日には夜も測量するなど、精力的に仕事を進めた模様が詳細に記された日記です。
◇「育英館規範」は益田親施公の手書きによるもので、育英小学校に保存されています。平時にあっても文武両道の教育を怠らず、 幕末に至って多くの傑出した人物を輩出した育英館教育の神髄が凝縮された文書です。

「須佐の宿」シリーズ第3弾
今回は美志満屋です。須佐総合事務所地域振興課の手でシリーズ連載をいて頂いています。


【2007年9月1日更新】

温故第3号(その2)
先月に続いて「温故」第3号の後半を復刻しました。今月は46〜84頁です。
◇先月の「郡中御制法」に続いて「万治制法」の中から「御当家御式目」を取り上げています。藩政時代の萩藩士分諸士の生活に関する規律です。益田家側役として御筆役、勘定方御納戸役、 御道具方等を勤めた有田伝兵衛の書き写したものが、その子孫有田昌和氏(須佐町松原)に保存されており、その全文が紹介されています。
◇最後の「弥富丸山八幡宮縁起と青木家系譜」は品川晴氏の調査研究の成果です。楢木の藤井園一氏家系書により手がゝりを得て丸山八幡宮縁起の資料として発表されました。  藤井家の祖とも云うべき青木家の系譜が添えられています。

「増野家文書」12袋5及び6袋1の12より「公儀より御沙汰之覚」(北浦へ異国船)
江戸時代、幕府はは鎖国政策を採っていましたが、平穏だった瀬戸内海に対して日本海に面した長州の北浦海岸へは屡々外国船が来港したり漂着しました。 増野家文書の中にもこうした事件の記録がありますのでご紹介しましょう。

「回天実記」の生い立ちを探る
東京須佐史談会の研究成果として掲載した「回天実記」は引き続いて須佐郷土史研究会の「温故」2号以下の復刻版で再び掲載しています。「回天実記」がどの様な考えで、何時、誰が、どの様にして編纂したのか。 それは明治維新以後各地で行われた歴史編纂事業とどういう位置づけになるのかなどを考察してみました。分からない点が多いのですが、「回天実記」をお読みになるときの参考となれば幸いです。

第15回東京須佐会のお知らせ
毎年秋に開かれる東京須佐会の日取りが決まりましたので取り敢えずお知らせします。詳しいことは追って追記することにします。

旅館紹介シリーズ(好月旅館)
萩市須佐総合事務所地域振興課のご好意で「須佐のお宿」シリーズを掲載することになりました。7月に新規開業した「民宿いかり」を皮切りに既存の旅館・民宿を「須佐あちこち」のコラムの中で 次々にご紹介します。第2回目は須佐の老舗「好月旅館」です。


【2007年8月1日更新】

温故第3号(その1)
「温故」第3号は全体で84頁有り分量が大きいので、8〜9月の2回に分けて復刻します。今月は最初の45頁分です。
◇先月の「温故」第2号に掲載した「回天実記」上巻の続き(第2回目)を掲載します。 今回で上巻が終わります。
◇「天保一揆」の記録は松原の伊藤満行氏が古屏風の下張りから発見されました。天保2年(1831)防長全土に起こったこの大一揆は益田領にも影響が及び、 小規模ながら百姓が蜂起しました。処分は比較的寛大に収まったようですが、家中がこの非常事態にどのように対処したかを記した貴重な記録です。
◇「郡中御制法」 は毛利藩の憲法とも言うべき万治3年に集大成された「万治制法」33ヶ条の一部で、特に庶民生活に関係が深い法制です。

増野家文書 第11袋23「組内要用書出一件」(その2)
先月に引き続き、義絶(村八分)された4人の組士・中間の話の続きです。回天軍と北強団との対立が益田家中の末端までどの様に広がっていたかがよく分かります。 そして最後に「増野家文書」第5袋43の文書が添付されていて、この事件がどの様に処理されたかが述べられています。 分かりやすい読み下し文にしてくださった城一さんに感謝します。


今月の新しい記事は次の通りです

【2007年7月1日更新】

温故第2号
私達の研究成果の三部作とも言うべき「月番日記」(温故第10号)、「随行日記」(仝第18号)、「回天実記」がHP上に出揃いました。 今後は「温故」の復刻作業は刊行順に戻して行いたいと思います。今月は第2号です。ここに含まれている「回天実記」は伊藤清久氏ご所蔵の「松永本」を底本にしたもので、 このHPに掲載済みの「尊攘堂本」を底本にしたものと読み比べて頂きたいと思います。

増野家文書 第11袋23「組内要用書出一件」の読解文を連載します。
今月はその第1回目です。城一昭人氏の労作です。「回天実記」が幕末須佐で起こった内訌事件の重要記録 としてよく知られているのに対して、この文書はその裏話とも言うべき記録です。内容は城一氏の解説文の通り回天軍に入隊しなかったために義絶(村八分)された4人の組士・中間の 話です。益田領を二つに割るような激しい対立を引き起こした内訌事件の一面を物語る貴重な史料です。


【2007年6月1日更新】

温故第10号「月番日記」(その6)
先月に引き続いて「月番日記」(その6)54頁分を掲載しました。今回は明治元年12月から明治2年11月までの記録です。維新の大改革が須佐邑政にも様々な形で押し寄せてきたことが 記録されています。益田家中の財政難は終に本藩が救済に乗り出して漸く解決に向かいますが、その間下々に到るまで倹約が求められ、水害後の河川修理にも事欠くような状態が続きます。 半年間に亘って連載を続けて参りました『月番日記』(温故第10号)の復刻は今回を以て完了しました。

温故第10号「月番日記」(目次)
「月番日記」(その6)に合わせて目次が追記されました。

「月番日記」人名表
「月番日記」HP版が完成しましたので、付録として巻末に添付されている「人名表」を PDF FORMAT で掲載しました。

「月番日記」年表
「月番日記」巻末付17の年表を pdf format で掲載しました。

「火消之定」
「増野家文書」の中から今月は「火消之定」を選びました。江戸時代、須佐では大火が5回あったという記録が残っていますが、消火体制はどうなっていたのか。詳しい事までは判りませんが その一端を伺い知ることができます。


【2007年5月1日更新】

温故第10号「月番日記」(その5)
先月に引き続いて「月番日記」(その5)50頁分を掲載しました。今回は慶応3年11月から明治元年12月までの記録です。維新の大改革が進む中で財政難に悩む須佐の様子が記述されています。

温故第10号「月番日記」(目次)
「月番日記」(その5)に合わせて目次が追記されました。

「行間に滲む望郷の思い」
増野亮氏の新作です。いつもの創作セミドキュメンタリーや随筆とは一味違う文章です。
ご先祖の増野知方の実弟元右衛門尉(三男)を巡る実話で、俗に 「次男以下の冷飯食い」と言われた江戸時代の武家社会の一面を描いて居られます。古沢家へ婿養子として入家し、幕臣として出世した後も須佐を想い、常に望郷の念去りがたかったという物語です。

今年の長州緋桜観桜会
去る4月7日(土)11:00〜14:00 新宿御苑で毎年恒例の「東京須佐会」の「長州緋桜 観桜会」が行われました。その時の写真が「東京須佐会」の頁の「写真」欄に掲載されています。

●「お知らせ」欄を更新しました
◇4月の「東京須佐史談会」は第81回目の研究会でした。5月第82回例会は発足10周年の記念すべき研究会となります。次の10年は、若い世代を加えて一層活発に且つ会が何時までも続くように会員を増やすことが 重要です。そこで、「古文書を読もう会」を発展的に解消して「東京須佐史談会」へメンバー全員を吸収しようという事になりました。記念行事として1泊旅行で一層の親睦をはかろうという計画も進める事に しています。須佐を愛する方、先達が私達に残してくれた歴史的な遺産を勉強したい方はどうぞ奮ってご参加下さい。「東京須佐史談会」の「あゆみ」欄を是非ご覧下さい。
◇「古文書を読もう会」は6月で上述のように発展的に解消します。5月の勉強予定は「お知らせ」欄をご覧下さい。



【2007年4月1日更新】

温故第10号「月番日記」(その4)
先月に引き続いて「月番日記」(その4)50頁分を掲載しました。今回は慶応2年3月から慶応3年11月までの記録です。

温故第10号「月番日記」(目次)
「月番日記」(その4)に合わせて目次が追記されました。

●増野亮さんがシンガポール駐在時代の想い出の一つを「ドリアンの味覚」と題する随筆にして寄稿されました。

●「東京須佐会」の「お知らせ」欄に今年の「長州緋桜 観桜会のお知らせ」が出ています。4月7日(土)11:00〜14:00 新宿御苑の長州緋桜付近で「東京須佐会」の看板を見つけて下さい。 名物「わかめむすび」で故郷の味も楽しめます。

育英小学校の新校舎が落成しました。今月の「ふるさと短信」です。

●ご覧の通り、今月から従来のTOP PAGE と目次を一新しました。中身が一気に増えて記事の検索がし難くなりましたので、思い切って大改造を行いました。序でに小さな画面のPCに合わせて画面の幅を 620PIXEL幅にしましたので見やすくなったと思います。発足直後の頃に書いた記事まで改造の手が行き届いて居らず、古い記事から「戻る」ボタンを押しても動かないと言うような不具合が残っていますが、 これらも徐々に改善して行く積もりです。暫くご容赦下さい。そういう訳で時間を取られましたので、今月は「増野家文書」はお休みにします。改装の序でに次の頁を作りました。
◇東京須佐史談会は5月に創立10周年を迎えます。会の「あゆみ」を掲載しました。今年の3月の例会は80回目の会合でした。
◇須佐や山口県の歴史研究に関連する「参考文献」の頁を設けました。

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