リレー随筆

須佐の思い出
尾木  純
平成22年01月

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 年を経て思い出すのは子供の頃を過ごした須佐のことである。

 私は昭和22年夏の盛りに両親と1歳10ヶ月の妹の3人で満州から引き上げ、松原の家に落ち着いた。 翌年、育英小学校に入学していた私を残して両親と妹は父の新しい勤め先のある大阪に移り、私は祖父母と、須佐中で教師をしていた伯母の3人に育てられる事になった。

 戦後間も無い頃で十輪と呼んでいた進駐軍の車を追っかけると、当時珍しかったチョコレートやキャンデーを兵隊が投げ与えてくれていた。 道路は雨が降ればぬかるみ、まだ馬車引きのおじさんが木を積んだ馬車をのんびりと引いていた。どう云う訳なのか、馬糞を素足で踏めば背が伸びると云われ、一生懸命試したが効果は全くなかった。 今と違って子供達が多く、道端の電信柱で陣取り合戦や、缶蹴りをしたり、まるたけ山や大川(須佐川)の上流が遊び場だった。夏には裏の小川の周りには蛍が飛び交い、竹箒で捕まえては蚊帳の中に入れて遊んでいた。 何もない時代だったが子供にとっては幸せな時代だったのだろう。

 配給品だったのか、黒砂糖の小さな塊を祖母が重箱からつまんで食べさしてくれた。甘いものと云えばヤマモモや、グミの実の様なものしかなかった当時は子供にとっては貴重な甘みだった。 一升瓶を数本入れた「とんの巣」を背負った祖母に時々、連れられ水族館辺りで海水を汲み、持ち帰った海水を風呂がまで煮詰めて塩を作っていた。 須佐の海から採った濃厚な塩はさぞ旨かっただろうが物資のない時代、皆たくましく生きた時代だった。

 梅雨時だったのか水の多くなった大川で、祖父が蟹を取っていた。小学校2年か3年の頃、当時台風には何故だかアメリカ女性の名前が付けられ、確かジエーン台風だったと思うが、 須佐川が氾濫し床上まで浸水し畳が浮き、小さな私は流れて来たたらいに乗って遊んでいた。あの災害以降、松原には須佐川に沿って抜ける道が出来、護岸工事も進み上流にはダムが出来、今では、 松原辺りは水のない川になってしまった。

 正月には両親と妹も帰り、須佐の我が家はにぎやかになった。台所にはまだかまどがあり、まきをくべてもち米をかまどで蒸し、納屋から石臼を庭に引き出して餅つきを行っていた。 近所の各家で餅を搗くペッたん、ぺったんという音が子供心にも楽しい正月が来るのだと浮き浮きした気分になったものだ。搗きたてのもちにあんこをまぶしたあんころ餅は日ごろ、 甘いものに縁のない子供の口にはとても美味しく餅つきの大きな楽しみだった。

 元旦には手押しのポンプにはなっていたが井戸水を汲んで若水とし、「するめ」と「こぶ」と「米」を載せた三宝を祖父をはじめ家族全員に順に回して新年の挨拶をするのが長男としての私の役割だった。 家の前の通りは八幡さんへの初詣に行く人達のざわめきでにぎやかだった。当時は獅子舞が各家にも来て、頭が良くなるためと獅子の口に頭を噛まれ怖い思いをしたものだ。

 あの頃から60数年を経て子供の頃の記憶にある風景と実際の風景はあまり変わらないものの我が家は住む人もなく廃屋となり、時の流れの無常さを感じている。

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