リレー随筆

郷土ことばと祖父のこと
増野 亮
平成23年02月

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 昨年のNHKの大河テレビ、坂本竜馬の場面で、高杉晋作や桂小五郎らが、長州弁を話す場面がいくつかあり、懐かしく感じた。 明治になって山縣有朋や長州の志士たちが中心になって日本陸軍を創設したので、「・・・であります」という長州の言葉が、 帝国陸軍のことばになったと云われる。もっとも正調須佐弁は「・・であります」とあに尻上がりのアクセントをつける。

 社会人になって勤務したのは、武蔵と小次郎の決戦場、巌流島が近い下関市彦島である。勤務先の工場には山口県人が多いが、 九州出身者も少なくない。仕事を進める上で笑い話のような、食い違いがあった。夜間の化学設備の操業は、組長という名の監督者が責任者である。 部下に「バルブをナオシテオイテクレ」と命じたが、いつまでも放置されたままになっている。「何故か」理由を聴くと部下から、 「どこも故障していないのでナオス(修理する)ことはできない」という。九州生まれの人に「収納する(ナオス)」は通じない。 「タンクの水がミテタ」となると更にややこしい。長州方言ではミテルは、無くなることであり、九州出身の青年は「満てた」と逆の想像をするのである。

 あれは、小学4年生の頃だった。下関の壇ノ浦にある母方の伯母の家へ遊びに行った。ご馳走が出た。「もっとどんどんお食べ」と勧められた。
「ヨウ アリマス」と言ったところ、二人の年頃の従姉妹がお腹を抱えて笑いだす。伯母が岡山県出身の伯父と娘たちに「今のは、もう十分いただきました、 要りません、という須佐ことば」と笑いながら補足した。

 両親を早く病気で失った私たち兄弟は、既に70歳台も半ばの祖父母が、親に代わって養育してくれた。当時小学校の夏休み時期になると、 大牟田から従姉兄たちが、須佐湾での遊泳を楽しみにやってくる。その父方の従兄姉たちが「おじいさま」「おばあさま」と呼ぶ。私も弟も自然にそれに倣うようになった。
祖父は、92歳で他界したが、亡くなる前の1ケ月くらい意識はなく、昏睡状態だった。勤務先の下関から土日の休みを利用して毎週帰宅した。 眼をつぶり鼾をかくその枕元に座って寝顔を静かに見ていると、突然
「オカアサマ ユルシテ ツカサリマセ」
実にはっきりした声である。慌てて祖父をゆり起こそうとしたが、それっきりで静かな昏睡が続くだけである。祖父がまだ幼い頃に返って夢をみたらしい。 偶然に、慶応末年か明治初年の家の情景を垣間見た感じだった。大人びた表現が肉親に対するものだけに、しきたりやことば使いの厳しい当時が想像できた。 母方の本町の祖父は、厳格で子供ごころにおっかない存在だった。小学校で二重丸のついた習字を貰うと挨拶に行った。すると白い髭顔に相好を崩して「よし、よし」と言って、 50銭玉をご褒美に貰った。この祖父は、書をよくし、庭の大石の上で坐禅を組んでいたと、生前叔父から聞いたことがある。朝鮮で村おこしに成功し、 表彰を受けに渡海するとき、来年は寿命で死ぬと予告し、そのとおりに他界したと、祖母が驚いていた。

 父方の祖父も、定年退職したあと、丁度私たちが大坂から須佐に帰ってきた頃の昭和9年〜12年ごろに同好の仲間と寺で坐禅会を開き、続いて句会を催していることが、 残された何冊かの句集から推察できる。
その内の1冊を、当時の須佐を偲びつつ少し拾ってみたい。

 句集「弘誓の船」(注)昭和9年、11人の21首の句が毛筆で書かれている。

【注】弘誓(ぐぜい):衆生を再度して仏果を得させようという菩薩の誓願で 弘誓の網、弘誓の海、弘誓の船、弘誓の鎧の4つがある。 弘誓の船は菩薩が衆生を済度して涅槃の彼岸に送るのを船にたとえたもの。
 花祭 象引き廻す 善男女        一歩
4月8日の潅仏会 釈尊の降誕日に、水盤に釈尊を安置し甘茶を頭上に注ぎ、これを台車上の張子の象の上に据え、多くの子供が笑顔で綱を引く。
 日曜や 子連の多ふき しお干狩      弧月
水海の橋の手前で潮干狩ができた。煉瓦工場のできる前は、広い泥砂の潮干潟でアサリやハマグリが多く取れたらしい。
  すてられし 大根も 花を持ちにけり   芦雪
こういうものに、そっと目をやる暖かい句である。
 本堂に 人集まりて 歌留多会
須佐では戦前まで、百人一首の歌留多が家庭で盛んだった。寺の本堂にまで集まって興じた、とは知らなかった。
 追懐の 袖にからめし 糸桜        無声
糸桜はシダレザクラのこと。河原町の紹孝寺に大きな木があった気がする。
 庭の菊 根分けして行く 移民かな    松月
須佐からも南米や北米へ移る人がいたらしい。大事なきずなの花である。
 世をはなれ 追い風に帆かけ 彼岸かな 琢玉(祖父)
老人と子供だけの我が家も戦後のインフレには閉口した。なにしろ物価が日々上がる。 祖父の恩給(年金)が日に日に目減りする。生活費に困って、どんどん衣類や什器が食べ物と交換された。父親の残した背広の古着1着が、旧円ながら1万円で売れた。 祖父母には最も苦しい時代であったであろう。この頃の歌に、
 やすやすと 暮らすはいつと人問わば 百(モモ)の坂路を 越えてそののち
老境に入った今、当時の祖父の心情を思うと淋しくなる。

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 来月は大谷和子様にご寄稿を御願いします。

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