リレー随筆

七十年前の育英小学校
豊田 松夫
平成23年01月

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 往時茫々たる七十年の昔、故郷須佐の育英小学校に入学した頃を思い出すのも呆け防止の一助になるかと思い記憶を辿ってみたい。

 その一年生としてくぐった当時の校門は大理石双門の上に電燭台の乗った立派なものであった。 入って左前方(東側)が石造り銅板屋根の奉安殿(天皇陛下の御親影が入っている)で、入出登下校時に最敬礼を要求された。その右側が講堂で、当時県下でも有数の木造建築と言われた。

 校庭の西側には二階教室まで届く楠の大木が植えられ、広い校庭のアクセントで、子供達の待合わせの場所でもあった。一年生は男女各別の二組で、新入生当時の服装を思い出すと1/3位が和服に下駄履き姿で、 2/3が学生服という服装改変の過渡期でもあった。二学期の十二月に大東亜戦争(第二次世界大戦を当時はそう呼ばれたんだ)が始まり急速に完全洋服化した。

 登・下校も町内単位の集団で行われ、上級生の歩幅に合わない我等下級生のは駆け足行進が思い出されるしたことを思い出す。

 クラスの呼称も男組が忠組となり、女組が孝組となったり、更に物資不足を補うべく高学年は学校の裏に造られた炭がまで木炭の製造を、低学年は校庭の半分を耕し芋畑とし薩摩芋づくり、 更には塩田までつくり暑い夏の日差しに汗一杯を掻きながら、前の浜から各自桶で海水を運び、塩づくりに励んだことをは今でも忘れられない。

 「欲しがりません勝つまでは」のスローガンのもと、少小国民(或いは”幼い子供”)にも耐乏生活を強いる姿は今の北朝鮮と同様で、全てが豊で物余りの現代とは正に隔世の感のある時代であった。

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 来月は中山恭子様にご寄稿を御願いします。
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