幕末須佐の三大事件の記録

「回天実記」

京都大学附属図書館 尊攘堂維新資料文庫



嘉永6年(1853)浦賀に来航したペリー提督は鎖国を祖法としていた幕府に開国を求めました。一方、将軍継嗣問題と相俟って尊皇攘夷論が持ち上がりましたが、これは270年続いた徳川幕府の幕藩体制を打破する役割を果たしました。幕府の弱体化と共に公家、雄藩、志士の政治関与が活発化し、日本の政治情勢は内外共に新しい時代に向けて急展開を遂げました。

その渦中で須佐でも大きな3つの事件が立て続けに起こりました。第一の事件は元治元年(1864)7月18日、京都で起こった蛤御門の変です。この政変で長州藩が敗れると、第一次長州征伐が起こり、当時幕府に恭順を唱えていた萩藩政府は三人の家老に切腹を命じました(三家老切腹)。そのうちの一人が須佐の益田親施です。穏健派(俗論派)は萩藩全体が仮令1万石に削られても毛利の家名を残そうとしたのです。

本藩が1万石となれば、毛利の家臣はは取り潰しも同然となります。それならばと益田家中の過激派は武力で徳山に幽閉されていた親施を奪い返そうとします。当時、お家騒動は取り潰しに繋がりますから俗論派の須佐邑政堂は過激派の暴発を必死に抑えようとします。こうして共に益田家を守ろうとして、穏健派(俗論派)と過激派(正義派)が激しく抗争しました。その結果、正義派の大谷樸助、河上範三の二人が切腹を命じられたのです。これが「須佐内訌事件」です。第二の事件はこれです。当時、恭順か反幕かを巡って同じような内訌事件は徳山や、萩藩以外でもあちらこちらでありました。

しかし、第2次長州征伐で幕府軍が長州藩に敗れ、将軍家茂が急逝すると時局は急転します。そして慶応3年(1866)徳川慶喜の大政奉還と戊辰戦争(1868〜69)を経て明治維新に至るのです。益田家は主人を失いましたが、須佐の正義派は「回天軍」を組織してこの時局の流れに乗り、須佐邑政堂の俗論派政府の幹部を須佐から追放すると共に、奇兵隊に参加して戊辰戦争に参戦しました。これが第三の事件です。

「回天実記」は須佐内訌事件の際に幹部の一人でありながら若年のため死を免れた津田常名が同志と共にこの僅か5年の間に起こったこれら3つの事件を正義派の立場で記録したものです。現在「回天実記」は京都大学附属図書館尊攘堂維新資料文庫山口県文書館の双方に収められています。私たち東京須佐史談会ではこの双方の写しを取り寄せて読みました。茲に尊攘堂本を底本とする私たちの読解文を掲載致します。残念ながら俗論派の記録は残されて居りませんが、維新前夜の須佐の政治情勢を克明に記した一級史料である事には変わりありません。

蛤御門の変から140年余が経過し、いまでは3つの事件とも須佐では風化しています。多くの方は「須佐にもそう言う大事件があったのか」と今更乍らに驚かれる事でしょう。


尊攘堂維新資料文庫蔵

「回天実記」上巻の第一頁


共弐冊にさつとも 明治三十年七月
廿七日附 長門国阿武郡須佐村
大谷実継ヨリ尊攘堂ヘ寄納


●大谷実継
=大谷樸助次男。須佐町助役(明治26年〜同27年)、須佐村長(明治27年〜31年8月)、須佐郵便局長(明治29年10月10日就任)、農業協同組合長(大正10年2月〜大正14年2月)等を歴任した。

P1  (元治元年,1864)

回天実記 上巻

嘉永六年癸丑きちゅう*1安政元年甲寅こういん*2 ノ間、外夷がいい交通ノ事起ルヤ国歩艱難、
幕政漸ク衰フルニ当リ、藩主忠公ハ列藩諸ニ率先シテ尊攘
ノ大義ヲ唱エラレ、我益田越中後改右衛門介公ヲぬきんでテ輔相ト為シ専ラ
藩内ノ士気ヲ鼓舞振興セシメラル。ここニ於テ小国融蔵武彝益田家臣、育英館学頭 *9・田
蔵直道益田家臣*10大谷樸助実徳益田家臣、 中士、御手廻組河上範蔵俊慎益田家臣、側役*3等親公ノ内
命ヲ蒙リおおいニ国事ニ奔走シ、文久三年癸亥きがい*5献兵 *6ノ員ニ加リ御親兵
レリ。同年七月八月十八日我藩堺町御門ノじゅヲ奪ハレ藩主毛利敬親及藩士ノ入
京ヲ禁ゼラルヲ以テ、親公ハ先ヅ大谷樸助ヲ国ニ帰シ、
勅旨ヲ奉ジ、みずかラ三條実美卿始メ脱走七卿*7供奉ぐぶシテ帰藩復
命アリ。翌元治元年甲子ニ至リ、七卿及藩主ノえんヲ訴フルノ議大ニ起ル。久
義助等藩内忠勇ノ志士団結シテ隊ヲ為ス者及各藩浪士

*1 嘉永六年=嘉永6年6月3日(新暦1853年7月8日)浦賀沖にM.C.Perryが率いるアメリカ東インド艦隊四隻(蒸気船2隻、帆船2隻)が来航した。
*2 安政元年=安政元年1月11日(新暦1854年2月8日)ペリー艦隊第一陣7隻再来。
*3 河上範三俊慎=名を俊慎と言う。益田氏家臣。元膳夫であったが親施が抜擢して近侍とした。外柔内剛で文久3年(1863)春京都に遊学、御親兵に加わる。 はじめ小国融蔵に学び、後江戸に出た。蛤御門の変を聞き京都に登ったが、親施は既に帰国した後であったので、伏見に潜んで京都の情勢を調べ帰国した。 大谷樸助等と回天軍に加わり活躍したが成功せず、大谷と共に自刃した。行年25歳。心光寺に葬られた。
*4 国事=当時の「国」は「藩」を意味する。「国事」は藩政のこと。
*5 文久三年=1863年8月18日、長州藩は突如御所堺町御門の警衛の任務を奪われ藩主及び藩士の入京を禁じられた(「818の政変」または 「堺町御門の変」)。又、長州派と七卿は官位を剥奪され京都を追放された(「七卿都落ち」)
*6 献兵=文久3年3月18日より幕命により10萬石以上、1萬石につき1人の割合で各藩が御親兵を出した。長州藩は本藩21、長府5、徳山4、岩国6、 清末1合計37名を派遣した。(防長回天史4第3編下66頁)
*7 七卿=三条中納言実美、三条西中納言季知、東久世少将通禧、四条侍従隆謌、錦小路右馬頭頼徳、澤主水宣嘉、壬生修理大夫基修。
*8 益田右衛門介京都大学附属図書館解説参照。
*9 小国融蔵(1824-1866)=字は武彜、初めは剛蔵といったが父融(通称融蔵)の名を嗣いで融蔵と名乗った。号は嵩陽。七歳で父を失い苦学したが 19歳で江戸に留学、昌平校を卒業後安井息軒の門下生となり、遂に大学頭の林澗斎に認められて侍読となった。尊皇の志が強く、また蝦夷の開発を唱えて単身蝦夷 から樺太に渡り視察、北の守りの為に屯田兵の派遣を説いた。 須佐を離れて10年後の嘉永4年須佐に帰り育英館の学頭となり、人材教育で益田親施の期待に応えた。 吉田松陰、僧月性と深く交際し、松陰と志を通じて門生の交換を行った。文久2年、藩主毛利公が列藩に率先して公武合体運動を起こしたので親施は秘密の役目を 帯びて上京したが、この時融蔵を召出して用人として密かに諸藩と交渉させた。元治元年久坂玄瑞と共に志士を集めて天王山に陣を敷き櫻井某と共に軍監を務めた が、蛤御門の変で戦いに敗れた。この責任を問われて領主親施が徳山にお預けとなるや、大谷撲助らと共に七卿(当時五卿)を擁して主君を救出せしめ、義旗を翻 して防長二州の正義回復を図ったので、蟄居を申し付けられた。(出典=「須佐育英館」70頁)
*10 田村育蔵=(1836ー1864)諱を直道という。生まれは山本家であるが領主益田氏の家医田村家を嗣いだ。育英館で学び、長じて萩に出て医学を 青木周弼について学び、後江戸に出て伊藤玄朴の門に入り、遂に塾長にまでなった。人となりは勇壮で節義を重んじた。勤王の志士久坂玄瑞と深く交際し、力を 勤王に尽くした。元治元年7月蛤御門の変が起こり玄瑞と一緒に鷹司邸に入り防戦して戦い利あらず遂に自殺する。享年30歳。死に臨み一指をかんで絶命の辞を 血書して家に寄せたと言われる。明治21年靖国神社に合祀された。(出典=「須佐育英館」113頁)
*11 大谷樸助=(1838〜65)天保9年正月18日須佐に生れる。緯を実徳、字を篤甫、幼名は與十郎後に茂樹。号は雪渓又は梅窓。小さい時から学問 好きで、嘉永6年(1853)15歳で育英館に入り、学頭小国融蔵に教えを受け、和漢の学を修め、槍術の稽古を熱心にして上達した。安政2年(1855)益田親施の側役。 同3年職を辞して肥後木下犀潭塾に入り詩文を研究、半年後須佐に帰って再び側役となる。親施公に従って江戸ヘ出たとき、安井息軒塩谷宕蔭に経史文章 を学ぶ傍ら、多くの志士と交際した。須佐に戻って、育英館と松下村塾の交換学生となり、松陰から直接薫陶を受けた。松陰の『士規七則』は松陰が樸助の為めに 書いたものである。嘉永6年、親施の命により小国融蔵、田村育蔵、河上範三等と共に国事に奔走する。これは朝廷と幕府が対立する中、朝廷から萩藩主に対して 密旨が下り、朝廷の威光を発揚する為めの政治活動であった。文久2年(1862)在中の親施の御用掛となり、諸藩の勤王志士と交わる。文久3年(1863)須佐に戻るが、 京都との間を往復し朝廷工作に従事。しかし818政変が勃発し、伏見に潜伏して運動を続けた。その後の彼の活動は本『回天実記』に詳述されているので 省略する。

P2   (元治元年,1864)

ノ我藩ニ寄寓スル者ヲひきいテ脱藩、大坂ニ走ル。是時このとき賊魁会津・彦
根・藤堂・戸田ノ諸兵九門*1ヲ警衛シ、藤堂兵ハ伏見ニ出張ス。 京摂*2
道戒厳。久坂義助*3特ニ大谷樸助藤村幾之進ヲ撰ンデ表*7 齎もたラシ
衆ニ先チ行ヲひら>カシム。二人奮然、ただちニ淀*4ニ赴キ城門ヲ叩キ よばわりテ曰ク 長州脱
藩の士、君ニ面謁シテ陳請スル所アラントス。時ニ稲葉征夷府閣老タリ。
まさニ人ヲシテ二人ヲ逮捕セシメントス。樸助いかリテ曰ク 我等唯二人ノミ、敢テ力
ヲ以テ抗スルニ非ズ。縛セント欲セバすなわチ縛セヨ。我等もとヨリ禁ヲ犯スヲ知ル。然レ
モ主冤*5ヲ訴ルハ臣子ノ情義、おのずかムコトあたハズ。今一表ヲ持シテ我懐ニアリ。ただち
ニ達セシメバ此ノ身縛スベシ。此表*7奪フベカラズ ト。すなわち 衆ヲ排シテ進ミ之ヲ
其老臣ニ与フ。二人ヲ客舎ニキ、厚ク待遇セシメテ其表ヲス。二人曰ク
ハ征夷府ノまつりごとヲ為ス。今天下ノ志ヲ通ズルコトヲ為サズンバ何ヲ以テ其せめふさガン*6
然レドモ敢テ請ハザルノミ。行テ松平肥後守*8ニ達センノミ。しかシテ吾輩入京ノ禁ヲ

*1 九門=京都御所の9ッの門。()内の藩兵が固めた。堺町御門(越前)、中立売門(筑前)、蛤門(会津)、清和院門(加賀)、下立売門 (仙台)、寺町門(肥後)、石薬師門(阿波)、今出川門(久留米)、乾門(薩摩)、以上九門。藤堂は蛤門内側、彦根は朔平門前、戸田は伏見街道、水口、 桑名は東九条を警衛。
*2 京摂=京都と摂津(兵庫県)
*3 藤村幾之進
*4 淀城=淀藩主は在京老中、民部大輔、稲葉長門守正邦。122千石。譜代。この時稲葉公は洛中にあり淀城には居なかった。
*5 主冤=主人の冤罪
*6 塞ぐ=みたす。「ふたぐ」とも読む
*7 表=君に捧げる文章。上書、上疏、表、奏、箚子、封事、箋、啓の別あり。
*8 松平肥後守=京都守護職、会津藩主松平肥後守容保。

P3   (元治元年,1864)

犯ス者ハ貴藩之ヲ為サシムルナリ云々。老臣等げん屈シテその表ヲ受ク。二人
辞シ去リ天王山*1ニ到レバ、久坂義助等已ニ衆ヲ督シテ屯営セリ。実ニ六
月廿六日ナリ。国司信濃*3・福原越後*4・親公ノ三国老相次デ国ヨリ到ル。
公ハ始メ男山*2ニ滞シ、七月十七日ヲ以テ大挙入京 ノ議ヲ決シ、更ニ陣
ヲ天王山ニ移サル。

七月十八日暁、福原ノ一軍ハ伏見街道ヨリ進ミ、国司ノ一軍ハ嵯峨天
寺ヨリ出発、来嶋又兵衛氏*5力士隊*6ヲ率井テ之ニ従フ。久坂義助、各藩
浪士ヲ指揮シテ竹田街道ヨリ進ミ鷹司邸ニ入ル。小国融蔵(軍監)田村育蔵(不祥)大谷樸助(斥候使番)河
上範三等亦此中ニ在リわが須佐兵ハ組士・遊軍*7半隊・町兵 新撰*8半隊*9ヲ合シ、 増野又
十郎司令官ト為リ久坂氏ノ軍ニ従フ。 親公ハ中軍総督トシテ天王
山本営ニ在リ。国司ノ一軍先ヅ兵端ヲ開キ、各軍相□□□□□□□□□□□□応じ、一時頗る激戦なりしが
□□□□□□□□□□□□□来島氏戦死、福原大夫負傷 我軍*10 利アラズ。久坂氏等事
遂ニ成ラザルヲ計リ鷹司邸*11内ニ入リ屠ス。田村 蔵其状ヲ観ルヤ直チニ馳

*1 天王山=淀川を挟んで男山の対岸、大山崎市にある標高270.4mの山。麓は秀吉と明智光秀が戦った古戦場として知られる。
*2 男山=京都盆地の南、木津川、宇治川、桂川の三川合流点の南に位置する標高140mの山。石清水八幡宮がある。経済・軍事上の要地で往時、 麓には多くの関所があった。
*3 国司信濃=萩藩寄組国司信濃親相。加判役。蛤御門の変の責任を取り徳山澄泉寺にて自刃。享年23歳。 播磨屋HPの解説参照。
*4 福原越後=萩藩永代家老宇部福原家、福原元僩。加判役。蛤御門の変の責任をとり岩国竜護寺にて自刃。享年50歳。徳山毛利広鎮六男。
*5 来島又兵衛京都大学附属図書館解説参照。
*6 角力隊=力士の一団で遊撃軍に属した。初めは勇力隊と称し宮市屯集力士隊と唱えたが慶応元年5月23日勇力隊と命名。頭取は力士山分勝五郎。 (もりのしげり)
*7 遊軍隊=文久3年10月10日編成。初め来島又兵衛が猟師兵80人を率い京都に入り、堺町変後国に帰って一隊を 組織したもの。これに膺懲隊、萩野隊、正導隊、博習隊、神威隊、金剛隊、郷勇隊、市勇隊、勇力隊、狙撃隊、鍾秀隊、地光隊、好義隊、維新団が合体して 遊撃隊と称した。蛤御門の変の後各隊は分立、本体を遊撃隊と称し地光隊、精兵隊、好義隊、維新団の4隊のみがこれに属した。 慶応元年正月では総人員240人。同年5月230人を定員として高森屯集となった。(もりのしげり)
*8 新撰隊
*9 半隊=半隊・分隊は小隊規模に満たない少人数編成の部隊。2半隊=小隊。2小隊=中隊(72人)。4中隊=大隊。半隊の半分が分隊。
*10 □□…□□=この部分は浄書の時に書き落とたものと思われる。文書館本により補筆。
>*11 鷹司邸=関白鷹司輔凞の屋敷は堺町御門を入った右(東)側にあった。彼は尊攘激派全盛時代の関白で萩藩と気脈を通じていた。 御所に進撃した長州兵は此処を拠点として河原町藩邸の兵力を合わせて御所凝華洞(御花畠)に陣取っていた会津藩主松平容保を攻撃しようとしたのである。

P4   (元治元年,1864)

セテ其列ニ加リ屠腹とふくス。敗軍ノ報続々天王山本営ニ達ス。益田丹下*1、陣
ヲ撤シテ帰国ノ議ヲ発シテ親公ヲ促ス。公遂ニ其策ニ従フ。*2是時 このとき諸軍
ノ兵三々五々本営ニ帰ルモノきびすヲ接ス。鷹司邸ノ一軍ハ主将久坂氏屠腹
ノ運ニ遭遇シ、将士相会シテ退軍ノ議ヲ定メ、邸ノ諸門ヲ開キテ一斉ニ
発砲シ、轟然百雷ノ耳ヲ衝キ硝煙四散暗黒ノ中ニ剣戟ヲひらめカシテ外囲
ヲ衝キタリシニ、敵兵死傷無算、狼狽シ其鋭鋒ヲ避ケタルヲ以テ天王山ニ帰
ルヲ得タリ。此役ヤ澄川健蔵正義*3・中村惣治藤信*4 ・中尾易三郎宣足*5
等戦死ス。但其地ヲ詳ニセズ。

此義挙ニさきだツ数日、世子君毛利元徳ハ千有余ノ士卒カヲ従ヘ登京ノ途ニ就カレ
三田尻ヨリ乗、既ニ備後海ニ到リ天王山ノ敗報ニ接シ、ただちニ帰国アリ。
是時ニ当リ藩内ノ俗論党ハ機会失スベカラズト沸騰シテ正義ヲ圧倒シ、
両君*6ヲシテ朝敵ノ罪名ヲこうむラシムルニさきだチ為ス所アラントスルノ説起レリ。

*1 益田丹下=益田家老臣。家老、200石。
*2 益田親施が一戦も交えることなく益田丹下の進言を容れて天王山から退いた理由=長州藩が御所に攻撃を掛ければ主家に朝敵の汚名を着 せられる事を考慮したからではなかろうか。
*3 澄川健蔵正義=益田家臣。
*4 中村惣治藤信=益田家臣。
*5 中尾易三郎宣足=益田家臣。石州三隅村庄屋寺戸謙一郎の弟。文久2年5月瀬尻組澄川米輔育となり、8月14日澄川米輔養子となる。
*6 両君公=毛利敬親、元徳のこと。

P5   (元治元年,1864)

故ニ三国老益田、福原、国司藩主毛利敬親ニ拝謁スルヲ許サズ。三国老ハおのおの山口近隣ノ 地ニしばらク滞
在スベキニ決シテ、親公ハ大道村居住ノ家臣三好久平宅*1 ニ寓セラル。

八月六日日没後 親公ハわずか六七名ノ陪随ニテ帰須佐アリ。邑中粛然、士民一般
寝食ヲ安ンゼス。主君ノ身上如何アラントおおいニ其前途ヲ憂慮セリ。 于時ときに
府徳川氏ハ長藩征討ノ号令ヲ諸藩ニ下スノ風説アルヲ以テ、藩内ノ俗議ますます
沸騰シ かつテ譴責ニ拠リ退隠セシ毛利伊勢*2ノ大夫 *3ヲ要路ニ撰抜シ、君
命ヲいつはリテ専ラ恭順ヲ唱ヘ、遂ニ益田・福原・国司ノ三国老ヲ支藩徳山ニ
幽囚スルノ事ヲ謀ル。

同十日 本藩御目附笠原隼之介*4・物頭矢田仲 *5其他警衛ノ士卒
数人須佐来着アリ。

御沙汰書写
                                                益田右衛門介

*1 三好久平=益田領飛地、大道村(切畑)在住の家臣。
*2 毛利伊瀬=毛利親彦、阿川毛利家、加判役政事方。
*3 大夫=(たいふ)大名の家老の称。
*4 笠原隼之介>=萩藩大組(椙杜組)180石。(萩藩給禄帳より)
*5 矢田仲人=「仲人」は「仲衛」の誤り。萩藩大組(繁澤組)254石。(萩藩給禄帳より)

P6   (元治元年,1864)

思召おぼしめし不相叶あいかなわざる有之これあり 毛利淡路守様 *1被成御預おあずけなられ
候 此段可申聞もうしきけべく旨候事

同十一日 御発輿。栗山翁輔*2・安富九郎兵衛*3荻野咸左衛門*4・松原
仁蔵*5・石川完蔵*6・中村藤馬 *7・御馬屋組磯吉等供奉ス。

同十三日 徳山府客館ニ着泊アリ。

同十五日 惣*8ニ禁セラレ、家臣一名ノ外、同院ニ伺候スルヲ許サズ。安冨九
郎兵衛其撰ニ当リ、他ハおのおの徳山市街ニ散居潜伏セリ。ここニ於テ須佐中人心
洶々きょうきょう*9、口耳相接シ主君援ノ策ヲ議ス。

同十七日 大塚浪江*10宅ニ於テ御手廻おてまわり *11大会議ヲ開キ一封ノ異見書ヲ邑政
堂ニ出ス。其要領ハわが益田家ハ北門要衝ノ地ヲ領シ、方今外夷掃攘ノ
令ヲ奉戴シ、もっとも忠勤ヲぬきンズベキノときナリ。就テハ主人親公ヲ其采邑須佐ニ
謹慎蟄居シ、末家諸子ノ監督ヲ受ケシメ、万一非常ノ事アラバ邑中ノ士

*1 毛利淡路守=徳山毛利家。当時の当主は第9代毛利元蕃
*2 栗山翁輔=名は忠聡。初め与次郎、記令、平輔、九郎左衛門。号は嵩涯。文化7年(1810)11月23日須佐に生まる。父忠佐、母は大谷氏。 栗山家遠祖は益田兼理三男忠勝の孫兼綱三男兼忠、石州栗山邑に居住するようになって栗山を氏とした。益田氏に従って須佐に移住す。翁輔は須佐の名家 増野護俊の次男であったが忠佐に男子がなかったので翁輔を養子とした。実の母は波田東作兼虎の娘である。人となり優れてさとく、心が広く事物に通達 していた。文武に優れ兵法軍学に通じていた。嘉永5年当役。嘉永6年(1853)以後、国の内外は多難を極めるが、この時に当たり領主親施は藩の重役として 国事に献身する。これを翁輔は補佐し進んで国命に賛成し又ある時は退いて村政に当たった。慶応元年(1865)尊皇派と恭順派の論争が起こり(須佐内訌事件) 当役、年行事加判、御勝手御用懸りの役職にあり恭順派であった翁輔は、その時邑の執政にあったために尊皇派の世の中になった時、職を追われた。翌年罪を 許されたが再び要職に復帰することはなかった。晩年は子弟の教育と詩文の創作に専念した。 (出典=荻野隼太「松遺稿」、「須佐育英館」79頁)
*3 安富九郎兵衛=益田家臣、中士、御手廻組、19石。
*4 荻野咸左衛門
*5 松原仁蔵=益田家臣、中士、御手廻組、15石。
*6 石川完蔵=益田家臣、中士、御手廻組、10石。
*7 中村藤馬=益田家臣、瀬尻組士。
*8 惣持院=益田親施切腹の地。国司信濃が切腹した澄泉寺とともに明治初年に解崩し畑地となった。現在、周南市徳山毛利三丁目毛利マンシ ョン角にある「益田右衛門介賜剣の地」の石碑から東ヘ一丁の所にあった。
*9 洶々=正しくは「恟恟」。おそれおののくさま。
*10 大塚浪江=益田家臣、中士、御手廻組、16石
*11 御手廻組=本藩では藩主に近侍し、その側近の職務に服する者を以て構成し、これを御手廻組と総称した。世襲の階級ではなく、在職中 に適宜各階級からこれに編入して組織されたので、構成員も広汎な階級にわたっていた。在職中は高い家格を与えられた。益田家の制度もこれに倣ったもの と思われる。

P7   (元治元年,1864)

民ヲシテ その指揮を仰ガシメラレ度旨本藩ヘ歎願セラレタシトノ意ナリ 大組*1
*2等亦相次デ大同小異ノ建言ヲスト雖モ 邑政堂ハ姑息因循 其
説ヲ容レズ。壮烈ノ士漸ク迫ルニ及テ家臣一般署名ノ歎願書トシテ
スヲ許セリ。

此度こたび京師変動*3付而者ついては 右衛門介殿
被蒙御不興ごふきょうをこうむられ 徳山ヘ御預ケノ身柄 禁錮被仰付おおせつけられ 誠以まことにもって 恐入候御儀ニ
御座候 御譴責之義御大典ヲ以被仰付おおせつけられ候筋モ可有之これあるべく
候ヘ共 私共臣下ノ身分ニテハ眼前ノ艱難不堪見聞けんぶんにたえず 不得止やむをえず
歎願申出之趣 主人壮年ヨリ御奉公一途 被竭心力しんりょくをつくされ 相模国
御備場*4出張以来 地方所勤ヨリ引続キ江府再度ノ御供カ*5
直様すぐさま京師御滞留 御周旋筋御手伝被申上もうしあげられ 尚又昨年上
京八月十八日之変動*6何レモ不容易よういならざる御時節ニ候得共そうらえども  報国之忠

*1 大組=萩藩では八組、馬廻り組ともいい、藩士中核の階層。軍陣にのぞみ主将の馬廻りに従う者で八組は最初の頃一門八家若しくは寄組の 士に配して組を編成し、輪番にして六組は藩地にとどめ、二組は藩主の参勤に随従警固して江戸に駐在させた事に始まる。益田家でもこれに倣った制度を採用 したものと考えられる。
*2 四組=益田家の軍制は益田元尭公の時「八組」(大蔵、立野、市丸、宇谷、友信、下小川、境、千疋)であった。それを元和年中(1615〜23) に「四組」(宇谷、須佐地、瀬尻、市丸)に改組された。
*3 京師変動=元治元年の蛤御門の変(禁門の変)のこと。
*4 相模国御備場=ペリー来航以来外寇防御が強化され、幕府は嘉永6年(1853)11月14日萩藩に三浦半島一帯の沿岸防備を命じた。本藩は12月14日、 益田親施を浦賀表御手当御用惣奉行に任じたので、親施は1月10日萩を出発し江戸経由3月26日駐屯地の相模国上宮田村陣屋に着任、安政2年(1855)3月17日まで 滞在した。
*5 江府再度ノ御備(供)=親施は安政5年(1858)6月当役に就任5年間在職した。その間藩主と行動を共にして二度江戸に滞在した。
*6 八月十八日之変動=文久3年(1863)8月18日に起きた「堺町御門の変」(818事件)の事

P8   (元治元年,1864)

一途いちず被相励あいはげまれ 千辛萬苦被遂其節そのせつをとげられ  曩祖のうそ*1右衛門佐藤
兼殿*2以来 御当家重代カ被蒙 御鴻恩ごこうおんをこうむられ 代々
被致無二之覚悟むにのかくごいたされ候段 深重ノ神誓 御当家益田家吉川家ヘ対シ御取
かわシノ儀*3恐多モ仰徳神君*4御照覧 之前 末代無相違あいたがいなく粉骨之御
奉公ハ祖先ヘ対シ候テモ当然ノ儀ト被相心得あいこころえられ いわんヤ主人弱冠ヨリ
御憐撫ヲ以テ仕途被召出めしいだされ 是迄別而べっしてあつき 御寵遇之義 寝
食之間モ不被致忘却ぼうきゃくいたされず 何卒なにとぞ 御恩沢之萬一ヲ被報度むくいられたく
取分とりわけ 被致尽力近年一途ニきんねんいちずにじんりょくいたされ 公事ヘ一身ヲ被委ゆだねられ  自家之義者じかのぎは
何モ被捨置すておかれ伏而者ふくしては*5家産モ追年空乏 旅用軍費モ 尽果つきはて
候得共そうらえども 只上下霜寝露宿 艱難ヲ極メ自他之御役筋ここ
被遂其節そのせつをとげられ 兼而かねて於内輪ないりんにおいて被申諭もうしさとされ 候義ハ 近クハ当 尊侯益田親施*6身ニ余
リ候御仁恩 遠クハ祖先歴代難有ありがたく被召置めしおかれ候 家名之瑕瑾

*1 曩祖=先祖。
*2 藤兼=益田家十九代益田藤兼(享禄2年1529〜慶長元年1596)。幼名次郎、治部少輔、右衛門佐、越中入道、或いは全鼎入道、 縦四位下、侍従。法名大薀全鼎。弘治元年(1555)陶晴賢滅亡後、益田氏は陶氏の残党として石見に孤立した。藤兼は尼子氏と組んだりしたが、 毛利氏に敵わないと知ると吉川元春を頼って降伏を申し入れ、永禄2年(1559)以降、益田氏は毛利氏に服従することになった。爾来、藤兼は元就の 命を奉じて毛利氏の出雲石見攻略に忠勤を励むことになる
*3 御当家吉川家ヘ対し御取替シノ儀=*2に述べた通り、益田藤兼が吉川元春を頼って毛利氏に服従した時の誓紙。
*4 仰徳神君=萩築城以前からあった土地神であったが、宝暦12年第七代藩主重就によって指月山要害道山番所の東側に社殿が建立され、 毛利氏の始祖天穂日命と元就の霊を合祀し、後にまた隆元、輝元、秀就を併祀した。明和7年に仰徳大明神の社号を、文政年間(1818〜1830)に正一位を 賜った。(萩市史第一巻183頁仰徳神社の項)
*5 伏ては=「月番日記」には「依って」と書かれている。
*6 当尊公=益田親施のこと。「尊侯」は「尊公」か

P9    元治元年,1864

竭家いえつき*1尽身みつくしモ この 時節忠勤不申上もうしあげず而者ては 報国之一端
不相立あいたたず被存込ぞんじこまれ 於微臣私式びしんわたくししきにおいてモ其意尊奉罷居まかりおり候 今般京都
変動之趣ニ付 不図御厳譴之身ト被相成あいなられ 誠以まことにもって残念至極
奉存ぞんじたてまつり候 もっとも 於上国じょうこくにおいて *2其節 政府之御建議御成算ハ如何ニ御座
候哉難量はかりがたく 微臣ノ管見*3ハ賊党奸計ヲはたらキ 正路ヲ塞ギ 却而かえって
名ヲ以 討伐ノ勅ヲ乞請こいうけ 天龍寺・天王山之諸勢ヘ討手差向候手筈 危
急旦夕*4ニ相迫リ 退テ歎願之義ハ差置 進テ誅賊*5之場相ニ差掛リ
実以じつもっテ義心激烈 不堪憤懣ふんまんにたえず 眼前之賊徒 為国家こっかのため誅滅之議論ニ
為有之哉これありたるや つまル処右一挙ヨリ 御国御大事之御場合ニ立行 *6
候段ハ奉恐入おそれいりたてまつり候 乍去さりながら前件申上候主人年来之素志ニテハ 只忠勤
一途いちずニテ其時ノ穿鑿不被行届ゆきとどかれず 終ニ賊計ニリ候義 口惜キ次
第 是ト申モ何卒*7之丹心*8 被相果度あいはたされたく被存入ぞんじいられ 却而かえって輕挙ニ相

*1 竭家=家が滅びる事。「竭」は尽きる無くなる滅びる。「家名之瑕瑾竭家尽身」=家名を傷つけ材を果たし身極まっても
*2 上国=京都に近い国。上方。
*3 管見=管の穴から見ること。見識がせまいことをいう。
*4 旦夕=@朝と晩。A朝も晩も。常々。B時期が切迫している事。
*5 誅賊=会津藩主、京都守護職、松平容保を討つの意
*6 御国御大事之御場相ニ立行=毛利父子が朝敵とされ、萩藩存亡の大問題となった事を意味する。
*7 奉(報)国=萩藩の為に働くこと。
*8 丹心=忠誠で偽りのないこと。赤心。

P10   (元治元年,1864)

成候節 於此段者今更噬臍*1之思 残悔無限かぎりなく候得共そうらえども  畢竟ひっきょう主人益田親施
於□慮者存欠。ぞんじよりにおいては 真心之一徹ヨリ被踏込ふみこまれ候訳ニ 一毫之不忠節被差構 さしかまえられ
候筋無之者これなきは 青天白日トちかヒ 有忠志而ちゅうしありて無私心 ししんなき段 乍不及およばずながら微臣
常常つねづね附添つきそい見聞候儀 於官府かんぷにおいて是迄これまで 御奉公振御
手当テカ可有之これあるべき儀ニ奉存候ぞんじたてまつりそうろう 就テハ罪状赤心忠不忠之処 其
濫觴らんしょう*2 御憐察被成下なしくだされ ひとえ ニ参リ掛リ御斟分ヲ以追カ
御寛典ニ被処しょせられ候様 御所置被成下なしくだされ候ハヽ 於臣下しんかにおいてモ此上之
御洪恩 蒼海尚浅*3可奉感涙かんるいたてまつるべく候 乍去 さりながら唯今主人益田親施之幽囚 其とがヲ以テ
御国之御名分ヲ被正ただされ候儀 是又これまた無御余儀おんよぎなき次第 於主人者 しゅじんにおいては謹慎
被罷居まかりおられ 猶更なおさら報国之一端ニ相当リ候得共そうらえども 幾応モ今般之義  時
所ヲ被誤あやまられ候一途ニ為国家こっかのため毫厘之私曲 *4無之これなき段ハ克々よくよく 御弁別
ヲ以テ結局之御捌キ ひとえニ功罪相償之御憐恕ヲ以テ御寛宥ニ立行

*1 噬臍=ほぞをかむ。後悔しても及ばない意。
*2 濫觴=物事の源 または はじまり。長江もその源は僅かに杯を浮かべるほどの少量の水であることの意。「濫」は浮かぶこと。「觴」は盃。
*3 蒼海尚浅=(そうかいなおあさく)ご洪恩の深さに比べれば蒼海も尚浅い。
*4 私曲=よこしまなこと。

P11   (元治元年,1864)

候様 御執計とりはからい之程奉歎願たんがんたてまつり候 もっとも主人幽囚中差当リ心身疲弊之
憂モ旦夕ニ御座候間 是又これまた御規則相立候ハヽ心身取凌相成候丈ケニ
御緩メ之御詮議被仰付おおせつけられ被下くだされ候ハヽ 謹而つつしんで後日之公裁ヲ相待之外 さらに
異議無御座候条 此段トモ 御洞察奉仰あおぎたてまつり候 
程 御邦典
被相立あいたてられ候御裁許之なかば 微臣之身分歎願之義 恐多奉存ぞんじたてまつり
候得共そうらえども 幾重モ臣下之情実 主人益田親施御奉公向キ一途ニ被致勉励べんれいいたされ候忠
志 却而かえって身之不幸ト相成候段 幾応モ残悔無限かぎりなく奉存ぞんじたてまつり候ニ付  不得已やむをえず
平生之志願 見聞之所ヲ以 御歎願仕候間つかまつりそうろうあいだ ひとえニ公明正大之御勘弁
ヲ以テ寛大之御所置被相行あいおこなわれ候様 伏而ふくして奉歎願たんがんたてまつり候条 此段宜敷様
御建議之程奉祈いのりたてまつり*3 謹白

                              益田右衛門介
                                   家来中

*1 心身疲弊=当時親施の健康状態について「月番日記」に「…然処、右衛門介殿近来病身ニテ胸痛間々差起リ被致難儀事ニ候エハ只今ノ通リにてハ 身命取凌の儀も如何可有之哉」との記述がある。また「随行日記」元治元年8月25日の欄に「松原泰蔵徳山医師林良益方ヘ被差越候事」との記述があり、幽囚中の 主人の治療相談に行ったのではないだろうか。
*2 邦典=国家(萩藩)の典例法則。
*3 伏而奉歎願候条此段宜敷様御建議之程奉祈候=当時俗論派が牛耳っていた本藩政府は幕府に恭順を唱えていたので歎願書を提出しても効果が無 かったのであるが、益田家中はこのことを認識していたのであろうか。

P12  (元治元年,1864)

九月下旬ニ至リ本藩俗論党ノ気焔最さかんニシテ正義ノ士ヲ蛇蝎だかつ*1視シ、各地ニ
於テ疎暴ノ挙動アリ。 其説ニ曰ク 山口ノ新城郭ヲ毀チ 周防一国ヲ割与シテ問
罪使ニ謝スベシト。麻田公輔周布政之助*2ハ国論ノ変動ヲ察シ山口ニ於テ屠腹セリ9月26日

十月三日 藩主公毛利敬親ハ藩城ヘ御移転、岩国吉川経幹ならびに長府毛利元周 清末毛利元純ノ諸公亦入萩アリ。
宍戸備前加判役清水清太郎加判役ノ正義派ヲ貶斥シテ両職ハ毛利伊勢親彦、阿川毛利、加判役、政事方 井原主計加判役、民政并米銀方ニ任
ジ、其他熊谷式部ヲ始メ俗論党ヲ登庸セラル。賊魁財満新三郎、嶋尾五郎
右衛門等六百名、清光寺*3ニ会シテ結党ス。所謂撰鋒隊*4ナリ。

             御沙汰書
                           益田右衛門介
                                親類中
                                并家老共

先達而せんだって当役中申聞置候通 嫡子精次郎致補佐ほさいたし 用に

*1 蛇蝎=ヘビとサソリと。転じて恐れ嫌われる事のたとえ。
*2 麻田公輔=周布政之助。当時俗論派に逐われ、吉富簡一の家に在り、罪を身に負い国難に代わらんとして数日食を断ち 一通の文を残して9月26日自刃。42歳。
*3 清光寺=浄土真宗の寺。月輪山清光寺本願寺萩別院として現存。萩市西田町。嘉永8年(1631)輝元夫人清光院の菩提寺となる。開山は准尊。
*4 撰鋒隊=嘉永6年(1853)2月15日編成。外警ノ事アルヤ藩士馬廻士以上ノ気概アリテ技芸ニ精キモノヲ選テ海陸二軍ニ充 ツ。名付テ「先鋒隊」ト言ウ。文久3年(1863)ニ至リ「先」ノ字ヲ改メ「撰」ト為ス。慶応元年(1865)正月内訌戦ニ諸隊ト戦ヒ大敗シ幾何モナク解散ヲ命セラル。(もりのしげり 347頁)

P13   (元治元年,1864)

相立候様申合 精々可令心遣こころづかいせしむべく もっとも右衛門介身上ニ付き如何様
申付候共 家来末々ニ至迄 不心得之義於無之者これなきにおいては 家名無相違あいたがいなく
可立遣たてつかわすべくニ付 屹度きっと令鎮静ちんせいせしめ候様可申聞もうしきけべく候事

幕府ハ其機ニ乗ジテ征長ノ挙ヲ果サント欲シ、尾張前大納言徳川
慶勝よしかつニ命ジテ廿一藩*1ノ総督タラシメ、石川佐渡守ヲ問罪使トシテ安芸国広島ニ至ラシメ
わが藩主二公毛利敬親、元徳ノ官位及松平ノ称ヲ剥奪セリ。 ここニ於テ本藩ハ諸隊ニ分散ヲ命ジ、三
国老ノ首級ヲ渡し、山口新城ヲ破却スルノ議ヲ決ス。初メ小国融蔵ハ山口、徳山
間ニ潜伏シ*2、在須佐大谷樸助等ト内外相応ジテ共ニ計ル所アリシガ、本藩政府ノ
処断ト俗論党ノ運動ヲ探偵スルニ、三国老益田、福原、国司ノ身上すこぶるル切迫ナリ。故ニ諸隊
協同義兵ヲ挙ゲ、三国老ヲ救ヒテ須佐ニ拠リ、国内ノ賊*4ヲ一掃スルノ計画*3アリ。
福原亦之ニ応ズルヲ以テ日夜兼行須佐ニ帰リ育英館日進堂ニ有志会
ヲ開ケリ。実ニ十一月朔ナリ。此会ヤ議論二途ニ別ル。一ニ曰ク先ヅ山口御在七卿*5

*1 廿一藩=阿波、土佐、伊予、讃岐、出雲、石見(浜田、津和野)、因幡、安芸、美作、備前、備中、備後、播磨(姫路、竜野)、豊前(中津、 小倉)、薩摩、肥後、筑後、越前の諸藩。
*2「初メ小国融蔵ハ山口徳山間ニ潜伏シ」=融蔵は山口に在って岡彦太郎宅に隠れて藩府の動静を探ろうとした。(「益田氏と須佐」192頁)
*3 三国老ヲ救ヒテ須佐ニ據リ 国内ノ賊ヲ一掃スルノ計畫=幕軍の侵入を目前にして、10月11日奇兵隊膺懲隊は徳地に転営し要害に拠り雌雄を 決しようとした。藩は21日諸隊解散の令を下したが、「山口来集の諸隊首領及び野村靖之助等相議して以為らく、諸隊は宜しく相連結して以て後事を図るべし。 須佐は故益田大夫の采地にして同氣必らず相応ぜん。宜しく五卿を茲に奉じ諸隊共に其地に拠るべしと。乃ち檄を各地所在の諸隊に飛ばし、又五卿に稟告し翌月 4日を以て移転の期とし、  五卿は名を遠乗に假る 時に山県少輔徳地に在り 因て福田恭侠平を遣り此意を通ぜしむ 山県之れを非とし以為らく 須佐は偏僻す」(「防長回天史」六  第四編下286頁)「初め諸隊は徳地に居りまして、一時は益田大夫の采邑須佐に拠ると云う論も起りましたが、山県狂介などの論では、あんな辺鄙に籠っては足 も手も出せぬ、遂には俗論党の為に攻められて、百姓屋で空しく腹を切ると云うような窮境に陥るかも知れぬ、それよりか山口に出て精神を籠めて歎願したが宜 かろうと云うことで、諸隊相率いて続々山口に出て参りまして…」(「中正公勤王事績」467頁)
*4 国内の賊=椋梨藤太ら萩藩俗論派政府幹部のこと。
*5 七卿=P1参照。

P14   (元治元年,1864)

携ヘ擁しカ徳地*1ヲ経テ徳山ニ出デ、義旗ヲ翻シテ惣持院ニ闖入シ、 主君益田親施ノ禁錮ヲ解
放シテ諸隊ノ応援ヲ待チ、以テ二州長門周防ノ正ヲ恢復セント。一ニ曰ク徳山御禁錮ノ
状ヲ聞クニ警衛ノ厳粛ナル。もし一朝事おこラバ、わざわい先ヅ主君身ニ及ブハ必然ノ勢ナリ。
主君ハ実ニとく*2中ノ宝玉ナリ。みだり ニ其ヲ破碎シテ玉ニ一點ノきずナカラシムルハ至
難トフベシ。故ニ本藩政府ヘ歎願シ、只管ひたすら寛大ノ処置ヲ仰グニしかズト。此説
多数ナルヲ以テ之ヲ邑政堂ニ建議ストいえドモ、俗吏等本藩ニ直接出願カスルヲ
憚リ躊躇決セズ。其説ニ曰クかつテ岩国吉川殿、御末家益田伊豆殿御扱
ノ事*3モアレバかの二家ヘよろず依頼スルコソ恭順ノ命ヲ遵守 じゅんしゅスルモノト云フベケレト。

11月二日 安九郎兵衛宅ニ会議ス。松原仁蔵ヲシテ徳府徳山ノ事情探訪
ノ為メ急行セシム。同夜、更ニ育英館日進堂ニ会場ヲ転ジテ徹夜相議ス。
ここニ邑政堂ハ専ラ本藩ノ恭順主義ヲ守レルニ、館中有志会説動モスレバ
激烈ニわたルヲ憚リ、各級ノ合同会議ヲ厳禁セリ。よっテ翌三日ヨリ散。更ニ

*1 徳地=中国自動車道「徳地IC」付近。佐波郡徳地町。
*2 櫝=(とく)箱にしまう
*3 岩国吉川殿御末家益田伊豆殿御扱ノ事

P15   (元治元年,1864)

大組、御手廻おてまわり組士等おのおの一級限リノ集会所ヲ開設セリ。

11月四日 安富九郎兵衛宅ニ於テ御手廻おてまわり集会ノ際、大谷樸助膝ヲ進メテ
曰ク 主君益田親施御切迫ノ今日ニ於テ、臣タル者あに寝食ヲ安ンズベケンヤ。邑政堂ハもとヨリ
姑息因循、俗論ノ集カ点ナレバ その令ヲそむカザラントスレバ到底不忠ノ罪ニ陥ラン。仮令 たとい
徳府徳山ヨリ救ヒ出シ奉ル事あたハザルモ、吾輩有志ハ率先御警衛ト称シ、しい彼地かのち
至リ、萬一厄運ニ遭遇セバ列座割腹シテ以テ冥途ノ供奉ぐぶスルコソ臣下タル者ノ
本分ナレ。君辱則臣死矣きみはずかしめらるればすなわちしんしすや。諸君以テ如何トナスト。奮然その説ヲ賛シテ同盟結
約スル者僅カニ拾五名。

  安富九郎兵衛   市山淳藏   宇野魁介
  品川小五郎    山科好槌   津田公輔
  大橋三樹三    黒谷豫四郎  岡部東三
  原井直助     柴田筆吉   大谷要太郎

*1 「君辱則臣死」=「君辱臣死」(きみはずかしめらるればしんしす)(史記韓長孺伝)

P16   (元治元年,1864)

  安岡五郎     山下少輔   山下範三郎

折るゝとも同しみさをや雪の竹           山下少輔

ここニ於テ主君益田親施警衛ノ為ノ徳山出張ノ旨ヲ邑政堂ニ上申シ、旅装すで
ニ整ヒまさニ途ニ上ラントセシニ、当時本藩ヨリ御目附村尾治兵衛、御末家
益田石見殿*1ならびに小笠原次郎太郎等滞須佐、専ラ鎮撫ニ従事スレバ邑
政堂ハ唯々諾々、其指揮ヲ仰ギタリシヲ以テ、その上申ヲ得ルヤ周章狼
狽シテにわかニ御用人松本良左衛門ヲ本藩政府ヘ歎願ノ為メ発途セシメ、(この後脱漏か) *
曰ク主君ノ御身上安全ナルコトハ其筋ヨリ確報アリシヲ以テ屹度きっと保証ス
ベシ。妄挙もうきょ事ヲあやまなかレト。然シテ万一脱走セバ、宇田村 *3ニ於テコレヲ逮捕スル
ノ準備ヲ為シタリ。十二士十六士*4ハ其筋ヨリ確報アリト云ヘルニ欺カレテ発途ヲ猶シ ますます
志ヲ誘同セリ。俗吏ガ其筋ヨリ確報アリト云ヘルハ俗吏等亦本藩政府ノ鎮撫ニ欺レタルモノナリ

同九日 邑政堂ヨリ岩国侯ヘ主人益田親施解放ノ御扱ヲ請願ノ為メニ 命ジテ出

*1 益田石見=萩藩寄組益田家(小郡陶、前大津三隅津黄1,067石。始祖は益田玄蕃頭元祥五男就景)益田楳村のこと。名は親孚、通称主水、 石見、源兵衛。梅村と号す。文化10年11月1日生まれ。明倫館に学ぶ。学を山県太華に受け、又東遊、贅を大槻磐渓に執る。文久元年八組頭。当職方など 歴任。後寄組被仰付。明治3年毛利家令たりしが翌年罷め家居徒に授く。明治24年石見>鹿足郡畑迫に移る。笹谷鉱山支配。明治32年3月31日卒。87才。 妻は益田元宣二女勝子。よって益田親施の義兄に当たる。(出典=「石見諸家系図録」114頁、「増補近世防長人名辞典」222頁、山本勉弥編 「萩碑文鐘銘集」21頁)
*2 (この後脱漏か)=この頁は「松永本」と大きく異なる個所多し。「松永本」では8行目以下は以下の如く記されている。
「…発途セシム。御目附村尾氏等其ノ情勢ノ穏カナラザルヲ察シ邑政堂ニ報ジテ曰ク 親施公ノ御身上安全ナルコトハ確報ニ接シタリト  邑政堂大谷樸助ニ諭スニ主君ノ御身上ニ於テハ決シテ懸念スベカラザル旨其筋ヨリ信ズベキ報アッタレバ邑政堂其ノ安全ヲ保証スベシ 軽挙事ヲ過ル コト勿レト明言シ而シテ万一壮士輩脱走アラバ途ニシテ之ヲ逮捕セシメント其ノ準備ヲナシタリ 拾六士ハ其筋ヨリ信スベキ報知アリト云エルニ欺カレテ 発途ヲ猶予シ益々同志ヲ誘導ス」
*3 宇田村=須佐の西南約8`、阿武郡阿武町宇田。下りJR山陰本線で須佐駅の次が宇田郷駅。
*4十二士=十六士の誤り(P14〜15の15名と大谷樸助)。松永本は「十六士」。

P17   (元治元年,1864)

発セシム。

同十日11月 萩品川某*1ヨリ飛報アリ、曰三太夫益田、福原、国司御屠腹ノ 事決セリト。有志者非常
ノ激昂、すこぶル不穏ノ状況ナリシニ、又報ジテ曰ク前報知ハ小笠原弥左衛門無
根ノ言ヲ流布セシメテ人心ヲ惑ハシメタルモノナリト。この報ノ達スルニ及ビテやや鎮静
ニ帰シタリシモ、翌十一日ヨリ十二日ニ至リ松原茂一郎、荻野左衛門、中村藤馬、
石川完蔵、中士、御手廻、10石三好久平大道村切畑在住家臣等続々徳府徳山ヨリ帰 須佐シ、主君益田親施ノ御身上ますます切迫の事
ヲ探知セシ由ヲ報ズルトいえドモ、俗吏ハ巷説信ズルニ足ラズトシテ曰ク、*2 主君益田親施御大事
ニ決セバ本藩ヨリその令アルヤ必セリ。かつ当地出張ノ益田石見殿、小笠原次
郎太郎氏等モ未ダ聞知セザル由ナレバ驚クベカラズト。小国融蔵ハ二二ノ同志*3ト相
図リ、士卒一般ヘ通知シテ有志大会議ヲ紹孝寺*4ニ開ケリ。融蔵曰ク昨日
ヨリ今日ニ至ル徳府徳山ノ変報続々相達セリ。邑政堂ハ浮説流言信ズルニ足
ズト為スト雖モ、本藩ノ恭順主義、幕府ヘ謝罪ノ策ハ三国老益田、福原、国司を厳

*1 萩品川某=品川藤三郎。(「津田常名翁の伝記」80頁「三決死」より)
*2 足ラズトシテ曰ク=これに続く文章は「松永本」では以下のように記されている。
主君ノ御安否ハ本藩政府ノ内情ヲ探ラント其ノ手続ヲ具ヘテ怠ラザル所ナリ。尚又万一御大事ニ決定セバ当御一家ニ対シテ其命アルヤ必セリ。 軽挙事ヲ誤ル勿レト。小国融蔵ハ大谷樸助等ト相謀リ士卒一般ヘ急報シテ有志大会議ヲ紹光寺ニ開ケリ。
*3 二二ノ同志=(小国、大谷、河上、田村の)4名のこと。
*4 紹孝寺=須佐町河原丁。曹洞宗。金峯山。建仁年間(1201〜03)創建、延命寺と号した天台宗の道場であった。明応元年(1492)万福山延明寺 と改号したが、天正年間(1573〜1591)更に寺号を改めて瑞雲山長福寺と号し禅宗の道場となった。慶長16年(1611)益田元祥の時箕山宗円寺と改めたが、承応3年 (1654)曹洞宗に改宗、元禄年間(1688〜1703)益田就恒の時現在の寺号となり大寧寺(長門市深川)の末寺となって益田家より寺領20石を賜った。昭和6年山門 を残して全焼し、昭和10年に再建された。

P18    (元治元年,1864)

罰スルヲ以テ第一着トナスニ在リ。故ニ事ここニ至ルハ必然ノ勢ナリ。嗚呼ああ主君益田親施
囚後五旬有余ノ日数ヲ議論ニ浪費セシム。*1邑政堂ノ俗吏ニ欺カレ
一挙手一投足毎ニ幾多ノ束縛ヲ受ケタルニ職由*2セザルハ無シ。諸子、今ニシテほぞ
ムモ何ゾ及バン。諸ヨ、断然決意、今ヨリ相ともニ脱シテ 徳府徳山キ、セメテ
主君益田親施ノ御最期ヲ送リ奉ラント。其言そのげん未ダおわラザルニ昨十一日 11月三国老益田、福原、国司御割腹
ノ命アリト。*3衆相見テ号哭ごうこくスルモノアリ、扼腕スルモノアリ。或ハ 俗吏ヲ罵リ、或ハおのれ
拙策ヲ恥ヂ満場狂ノ如シ。融蔵慰諭シテ曰ク 事ここニ至ル。千悔万悟
何ゾ及バン。速ニ散会シテ主君益田親施ノ御遺骸ヲ奉シ、葬儀了リテ後おもむろニ謀
ル処アラント。衆その旨ニ従ヒおのおの帰宅シ奉ノ為出発ス。 此会ニ列スル有志者ハ御手廻組士ノ内ニシテ
大組ヨリ出席セシハ宅野太郎一名ノミ
*4

11月十三日拂暁、徳山ヨリ飛報アリ。一昨十一日徳山惣持院ニ於テ主君益田親施
屠腹、御逝去アラセラレタリト。始メテ俗吏ノ昏睡ヲ破セリ。中村藤馬

*1 畢竟=とどのつまり。要するに。所詮。
*2 職由=物事の由って来たるところ。
*3 本頁6行目以下=松永本の記述は以下の通り。
『…ノ命アリト確報アリ 衆相見テ失色号哭スルモノアリ 扼腕スルモノアリ 或ハ俗吏ノ荀安ヲ罵リ 或ハ自己ノ不断ヲ悔ヒ満場恰モ狂エル如シ』
*4 松永本ノ注記=『此会ニ列スル 御手廻 及 四組ノ中ニシテ大組ヨリ出席セシ モノハ宅野太郎一ノミ』

P19    (元治元年,1864)

御馬屋組忠之丞ニ命ジテ御遺骸奉>迎ノ為出発セシム。

御罪状
                     益田右衛門介
右在役中 姦吏奸吏ト共ニ徒党ヲ結ビ*1 古来之御法改革ニ托シ*2 私
意ヲ以テ御国体ヲ破リ あまつさヘ  
天朝幕府ヲ蔑シ 自身之譴責相迫あいせまり候ニ至而者いたりては 軍粧*3
ヲ以テ京師*4ようシ 恐多おそれおおクモ
奉驚宸襟しんきんをおどろかしたてまつり *5候次第 更ニ被仰分之おおせわけられの 御手段モ無之これなく 終ニ
御国難ニ至リ候*6段 不忠不義之至り 不謂事いわれざること*7 候 依之これによって割腹
被仰付おおせつけられ候事。

十一日11月夜九ツ時午前零時御割腹。介錯は益田與一郎氏*8ナリ。当時、檻外伺候
松原仁蔵中士、御手廻組15石有田新左衛門二名ニシテ仁蔵等御最期さいごノ際 益田

*1 姦奸吏ト共ニ徒党ヲ結ビ=真木和泉、来島又兵衛と共に徒党を組み
*2 古来之御法改革ニ托シ=諸隊を結成して古来の毛利家の軍制を改革すると称して。
*3 軍粧=軍装、武装。
*4 京師=天子の都。京は大、師は衆で大衆の住んでいるところ。京都。
*5 宸襟=天子のみこころ。
*6 御国難ニ至リ候=毛利父子が朝敵とされ京都を追放され、官位および松平姓を剥奪された事を意味する。
*7 不謂事=(いわれざること)理由のないこと。
*8 益田與一郎=萩藩士(分家筋不明)

P20    (元治元年,1864)

与一郎ニ就テ拝謁ヲ乞フトいえどモ許サレズ。

     仙相院君*1ヘ御遺書
京師変動一件ニ付而ついてハ 御国萩藩朝敵ト相成リ候由 就而者ついては
私割腹被仰付おおせつけられ候トノ御事 すなわち割腹仕候つかまつりそうろう  死後ノ件ハ精次郎益田親施嫡子、当時満3才*2
成立 御役ニ相立候様あいたちそうろうようこれ祈候也

    御辞世歌二首*3
よしあしの名をは如何いかてかいとはまし
  かねそ君にさゝけつる身ハ
消ゆけは草葉のかけに思ふヘし
  きみの御国のはてはいかにと

松原仁蔵 有田新左衞門 伊藤與平等 御遺体ヲおさメ奉
リテ供奉ぐぶ須佐

*1 仙相院=益田元宣室。親施の母。法名「仙相院貞室妙寿」明治26年4月4日卒。行年82歳。
*2 精次郎=益田親施長男。後、精祥。文久2年(1862)1月9日生。
*3 益田親施公辞世=田中助一著「益田親施」が引用している辞世歌は次の如くなっている。
よしあしのわか名は何かいとはまし
        かねてそ君にささけつる身を
きヘて行艸葉の末に思うかな>
        君の御国は今やいかにと
また、これとは別に益田親施辞世歌としては次のものが知られている。(出典=「萩の維新関係碑文拓本集」、「官武通紀」)
今更になにあやしまむ空蝉の
        よきもあしきも名のかはる世に

P21   (元治元年,1864)

11月十三日 夜四ツ時午後10時 弥富全柳寺*1着駕ちゃくが

11月十四日 昼四ツ時午前10時御発駕。 同七ッ時午後4時大蘊寺*2 御着駕。*3 然ルニ御首級
広島国泰寺ニ於テ 幕吏ノ実検ニ供セシ由*4。 臣子ノ情実 切歯ノ 至リニ堪エザルナ
リ。 又御罪状ヲ一見センコトヲ邑政堂ニ乞フトいえドモ、御罪状ハ未ダ到着セズト
答エリ。是時このとき御罪状ハ既ニ御末家*5ヲ経テ落握セシモ、俗吏等
或ハ沸騰ノ原由トナランコトヲ忌ミ、邑宰*6益田三郎左衛門 ひそかニ之ヲ懐ニセ
シ事後日発露セリ。

11月十五日夜、暴風雨軸ヲ流ス。御葬送式執行アリ。高正院殿大義全明
居士トおくりなス。御埋葬おわルトいえトモ、 御首級ノ御帰須佐無キヲ以テ、有志者ハ勿論
俗吏モ亦東西奔走シテ、相ともニ百方尽力セリ。
大谷樸助ハその師小国融蔵等ト 親施公ノ股肱ここうトナリテ国事藩の政治工作ニ奔走シ、
大ニ寵遇ちょうぐうヲ受ケタルヲ以テ、哀悼ノ情一層切ナリ。つい追腹おいばら殉死ノ意ヲ決

*1 全柳寺=須佐町弥富下蒲原。春林山。禅宗。はじめ弥富の大田にあって伽藍の跡を塔の浴と云う。永享年間(1429〜1440)津和野城主吉見氏 が創建し弥高山興禅寺と号したが、慶長年間(1596〜1614)大蘊寺として須佐に移された後、寛永年間(1624〜43)再建された。寛文12年(1672)益田就宣の 三男七兵衛が早世し法名を春林院殿晴空全柳居士と号したので、その冥福を祈り開基として寺号を春林山全柳寺と改めた。
*2 大蘊寺=須佐町山根丁東。金瀧山。曹洞宗。永享年間(1429〜1440)弥富村に創建され、弥高山興禅寺と号した。天正19年(1591)、深川 (長門市)大寧寺15代関翁和尚を招き興禅山妙悟寺と改めたが、2代傑叟和尚の時鐘楼のみを残して全焼した。慶長年間(1596〜1614)益田元祥が須佐に移るに 及んで須佐の現在地に移建し、現寺号に改めて益田家の位牌所とし、寺領20石を賜った。鐘は須佐町の文化財に指定されている。
*3 大薀寺御着駕=弥富から須佐まで6時間を要している。これは現在の金山谷経由の道路(明治時代に開通)ではなく、江崎経由の為めと考えられる。
*4 幕吏の実検=三家老の首実検は11月16日広島国泰寺にて尾張総督、稲葉美濃守、永井主水正尚志、戸川鉾三郎などによって行われた。原文の「岩国」 は「広島」の誤り。
*5 御末家=益田家の末家(後に益田精次郎の後見役となる益田石見又は周布治部の何れかと思われる)。
*6 邑宰=家老(当職、当役などのこと)。