『益田右衛門介家臣
小国融藏先生事蹟』
について
増野  亮
2009年10月01日

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 ◆ まえがき

資質、沈毅にして寡黙といわれる小国融蔵の生涯を概観すると、吉田松陰の生涯と共通するところが多いことに気づきます。
若くして共に江戸で学問と兵学を学び視野を広めました。 ついで融蔵は東奥羽から遠く蝦夷地まで出かけて国防を考え、諸国の人士と交流します。松陰も水戸、白河、会津、新潟を経て佐渡から北上、秋田、弘前、青森まで足を伸ばし その間著名な人士を訪ねて意見を交換しています。その後も目的は両者異なりますが、九州にも足を伸ばします。
この両者は共に兵学と儒学に造詣が深く、融蔵は育英館で50人の塾生を薫陶、松陰は村塾を運営し40人の若者を啓発しておりました。
また、二人は萩藩の当職・当役であり革新派の指導者であった益田右衛門介親施が特に理解を示していた革新的な学者でもありました。二人は相互に塾生の交流を行い、僧月性や僧黙霖、 など共通の勤皇の人士を友としていました。

幕府の勅許を得ない無断条約締結以降、松陰の行動が、際立って個性的でラジカルになったのに比べ、融蔵は、組織人としての行動が際立ちます。最も活動したのは、 親施が7卿と共に都落ちするまで続いた、京都での目覚しい萩藩の朝廷工作や勤皇人士との交流でありました。なかんずく天皇、将軍諸大名の加茂神社へ攘夷祈願、 前後の重要な国策の決定にも参画し(「温故」第11号『嵩陽先生柴の夕煙』P29以下)面目躍如たるものがあります。

親施が禁門の変の責任を取らされて自刃すると、萩藩や須佐邑政堂の姿勢は180度転換。融蔵は須佐を離れ、山口での情勢収集に重きを置き、 益田家中という組織を外部から支える個人行動に変りますが、病に犯されて惜しくも慶応2年5月、四境戦争の直前に万感の思いを残して42才の若さで他界しました。

この「益田右衛門介家臣 小国融蔵先生事跡」の著者は分かりませんが、育英館門下生の誰かが明治になって、書いたものを、大塚均氏が書き写したのではないかと推測します。

 ◆ 本 文

本文はこちらです。(クリックして下さい) ⇒ 『益田右衛門介家臣 小国融藏先生事蹟』(PDF FILE)


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