会誌「温故」

「温故」第1号

1980年2月刊行
須佐郷土史研究会

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■ 目 次
一、 会誌発刊にあたって 1頁
一、 資料・紹介 1頁
一、 高山狗留孫仏縁起並高山の縁由 2頁
一、 日本海々戦須佐関係概況 19頁
一、 唐人墓について 27頁
一、 苗討(なえうつ)の墓について 38頁
一、 馬の墓について 39頁
一、 若宮神社のこと 39頁
一、 石州益田戦争実地録 41頁
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■会誌発刊にあたって

私たちが郷土史を研究する上で、まず私たちの郷土にはどんな歴史的遺産があるかを知ることが必要だと思います。 そして個々の事がらについてより深く探りを入れるうち、関連して今までにわからなかった史実や、全く予瑚しなか った事実を発見したりするものです。

今回は、会誌の第一号として、まず一般的に伝えられている歴史上の事がらについての資料を手始めとして紹介する ことにしました。経費節約のために、手書きのものを公民館にお願いしてファックス印刷をしてもらいました。読み づらい点は御容赦下さい。

会誌の名も未定なので、とりあえず仮りに「温故」としてみました。論語の中に「温故知新」ー故きを温ねて新しき を知るーの意ですが、やゝ肩苦しい感じもいたします。何かよい名称がありましたら御提案をいただいて、皆さんに おはかりして決定したらと思います。

昭和55年2月
             会長 松尾  龍

■ 資料・紹介(一)

古くは我が国の対外関係の対象といえば、朝鮮半島か中国大陸でした。ことに九州や山口県の日本海沿岸は地理的にも大陸に近く、 季節風や潮流の関係からも、古来盛んに往来があって、密接な間がらであったことが考えられます。当須佐町にもそうした遺跡が 方々にあって、また、それにまつわる記録や伝説も数多くあります。もちろんその中には、史実のほかに、あきらかにフイクション と思われるものも多いのですが、口伝や里説のごときものの中から、私たちの祖先の想像力や発想の豊かさ民衆の心情的指向や信 仰の芽生えなど、むしろ民俗学的にとらえてみても、たいへん興味をそそられるものがあります。

先般故岡村元治翁が在世中に、古い記録や伝説、また、実際に見聞されたものをたんねんに収集されたものが残っていて、御当主 の御厚意によって、公民舘資料室に提供されましたので、そうしたものをはじめ、町内各地に残る遺跡や遺物また、それにまつ わる記録や云い伝えなどを紹介することにいたします。古い記録には難解なものが多く、なるべく平易な文になおしてとの希望も あり、そのように努めましたが、解読が困難なものはそのまゝにしました。

原文を御希望の方は、公民館で直接資料をお読みください。
また、皆様のお手元にそうした資料がありましたら、御提供ください。

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高山狗留孫仏縁起並高山の縁由
 口 訳

大日本国長州阿武郡高山は、その高きこと雲間にそびえ、続きの尾根は四方に広がって須佐、 江津、野頭に根を張り、多くの山々から離れてただひとり北海の中に姿をあらわしている。

昔、鎌倉の右大将源頼朝卿は、この山を牧場となし、西の山の奉行を 西山左近、東の山は野原九郎右衛門と云った。その子孫は今も (元禄の頃)頼朝卿の御教書と判物(お墨付き)を伝えて家宝となし、頼朝最愛の名馬生食(池月の こと)もこの山から出たと伝えられる。

林下を過ると民家があって、渓流は泉石のごとき岩をめぐり、人々はその間に定住している。林がひらけると茅ぶきの家が並び、 桃や李の間に小道があって、風にはかすかな香りがある。まことに古風みやびやかなたゝずまいで、中国武稜の桃源境をしのばせる ものがある。白砂緑樹竹林麓をめぐり、そのあたりに住むものは漁師である。御崎大明神の社がある。 また、前地から峯に登る一すじの小路がある。横峯を越えて急な尾根 を登れば、かたわらには由緒ありげな家が多い。地形の変化に従って遠くまた近く、岩石の転落する音が聞こえる。雲間をぬけ、霧の 中を通ってかすかな緑の中を行けば権現の社がある。その縁由を尋ねれば、昔、弘法大師が熊野権現 を勧請(迎えて祀る)し鎮国護法の霊神として仰ぎ奉ったという。嵯峨天皇のみ代、弘仁元年(810)庚寅の秋、御杜という所に四丁四方 を社地と定め、社を建立し御殿、拝殿、舞殿、御供殿、廻廊何一つとして備わらぬものはなかった。麓に湖水があり 広潟と云った。この所に大鳥居がある。社頭への道を示し、御供田「シシメン」「鐘ツキメン」 という神田がある。また、広潟の中に「エビ島」があり大鳥居があって御幸がある。麓の陸地に 手水川という所があり、ここから社頭に登れば三重の鳥居があったが野火の災にあ

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って社中残らず灰燼に帰してしまった。頼朝卿の時再建されたが、山は深く茅山に続いているので、数度の野火によってそのつど烏有 に帰した。しかしそのたびに不思議なことが起こって、神体は岩上に飛び上がり、樹上に飛び上がって火災を逃れること数度であった という。しかしその為に昔の社頭にもどすことができず、今はわずかに社殿を営んではいるものゝ年月久しく階段は草いちごや苔に閉 ざされ、社も神檀も風雨に朽ち古びてしまった。松風は緑の梢を鳴らし泉水は石を打って.音楽を奏でるようである。杉や松は深々とし て静かでもの淋しく神気おごそかに思わず仰いで掌を合すばかりである。また、ここまで登って峯を仰げば自分の位置の高さも忘れる 程である。切り立った岩をふみ、かぶさる草を分けてよじ登ると重なる峯に更に峯が重ななり、これをふみ越えて頂上に至ると、はじ めて宇宙の限りないことが知られる。心は広々とし体はゆったりとして身内にこもる汚れは総てを忘れ、あたかも天上に居るようであ る。

先ず南の方を望めばまっ青な海が漫々として果てしなく水をたゝえ、その遠くには三韓 鬼界ヶ島高麗、近くは九州と連なり、この 間を上り下りの船が柱来し風をはらんだ帆、飛ぶ鳥、煙雲、竹木の緑が目を楽しませ誰ひとりとして宇宙の外に思いを馳せるものはあ るまい。また、東南には長州石州周防安芸の山々が重なり合って、万里の果て東の京に連なり、りっぱな建物や民家、多くの村落 は数えきれぬほどである。十里ばかり彼方に石見の高角山があって、すぐ真下のように見える。この山には 人丸の墓があって柿本と呼ば れる。柿本人磨はその生死は確かでなく、権化の人(神が人に姿をかえた)との云い伝えがある。位階は従三位で奈良の都の頃、持統、 文武の両朝に仕えた。和歌の神として人間第一の誉を得た人である。入丸は老いて此の地(石見)に来り高角松の一

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詠を残した。今も人々から信仰され尊ばれている。その他同州の当麻、伯州の 大仙、雲州の大社など百里の遠くにありながら霊験はこ とにいちじるしく、佳景は目のあたりに見える。峯の風景、珍樹、異形の岩はあたかも仙人の洞窟に遊ぶこゝちがする。かたわらに穴 がある。さし渡し三尺ばかりで深さははかり知れない。木や石を落すと転がり落ちて止ることを知らず、昔臼を落したところ、日を経 て麓の浦に浮かび出たのでその所を臼ヶ浦と呼ぶ。また、奇岩があり、.象の鼻 と云い馬の背のようである。この上に登って眼下を望めば、高さは万仭におよび、危険きわまりなく故に名づけて「 馬鹿だめし」と呼ばれる。或は古仏が並び百獣のわだかまる姿の岩があり或は屋形のごとく、また屏風のごとき岩がある。 数仭の高さに立ち上がり、その下に狗留孫仏黄帝の社がある。

その由来を尋ねるに、四千余年の昔、異国の黄帝を軒轅黄帝と称した。また、その臣に貨狄という大臣がいた。ある時池の面を跳めると 折から秋の嵐に散った柳の葉が.水面に浮ぶ上で蜘蛛がふるまうさまを見て、なるほどと思い、はじめて船を作ったといわれる。黄帝は 貨狄を召して諸国を巡り財政を豊かにして民をいつくしみ育て世を治め給うた。また、音楽、文字、暦、算術、車馬、農具等もこの時に 始められたといわれる。その後わが朝崇神天皇の時、かの黄帝の神霊が我国に飛び渡られ、.もったいなくもこの山に御跡を止められ、 初めて船を作って万民に教えられたといわれる。その時の道具を出された所として、かわら谷帆柱、柄木、梶穴、碇江、槽置場さて又種々の材料木の集る所を木来谷 と云い今もなお地名とされている。人々はこれに便を得て商道は益々開け利益を受けたと云う。異国の珍物、良質.の錦布、良薬の類までも 力を労せず足を運ぶことなくして自由に求められることは船にこしたことはない。利を

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生み生活を営む御はからいもこれに過ぎることはあるまい。ひとえに黄帝の御恩のたまものである。その故に昔は北海万里を渡る商旅の 船も、この山が見えた時は急いで帆を下げはるかに.彼の帝宮を拝して通り、また、陸地を往来する旅人も、この山を見る時は花をたむ け礼拝して通ったものである。今も三原村に「花立て」の地名があり、古来狗留孫仏権現の礼拝所となった。 もし帆も下げず礼拝もせずに通り過ぎる時は忽ち悪風吹き来って帆柱は傾き梶はくじけ遂に海底の藻くずとなるという。このように本を 忘れ恩を忘れる悪趣の者を罰し給う霊験の激しいことは云うまでもないことである。

弘法大師はこの山をもって自分の霊場にしたいとおぼしめし、高野山と名づけ給うた。しかし、そのためには 百の峯と百の谷がなければ大法は成就しがたいと或る時峯や谷の数を数え給うた。黄帝はこれを見てこの山を奪われるのを悲しみ神力をもって 一峯一谷を隠された。大師は九十九の峯と九十九の谷はあるものゝいま一峯一谷が足りず遂に仏心に叶うことができなかった。しかしこよなく 景色のすぐれた所としてなお暫くこの山に住み給うたといわれる。鐘の段.、塔の峯、北谷、南谷などその時 の峯や谷の名残りは数えきれぬほどである。大師はその後紀伊の国で今の高野山を開かれたということである。それでこの山のことも高野山 と書いて「こうやま」と伝えられるようになった。その時大師は、黄帝の霊験があまりにも高く衆民の苦しみ を憐れんでかりにこの地に姿を現し恵みを垂れ給うた様を見て、狗留孫仏本地法身の如来とあがめ給うた。

尓来本覚の月は高く輝き柔和忍屏の光は新しく万民の疑暗を照らし給うたのである。本地と垂跡(かりに姿を現す)の地に分れるとは云え 神徳は感応して衆民を救い豊かにすることは、まことに尊ぶべく崇めるべきことである。

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 狗留孫山道昌庵後良依

公儀の命によって見記された縁起はこれまで秘せられて年久しく民間に有った。近頃これを手に入れたが、紙は腐り字は損われて読む人を して口惜しがらせた。野頭村の小吏御手洗氏治部がこれを読み正し.て欲し いと乞うので、禅修行の余暇をみて、繁雑な所はこれを除き略された所はこれを詳しく付加し誤りの所は訂正してこの記録を作ったのである。
  元禄16年(1703)    龍集
   癸 正月吉日
     前総持紹孝現住門超叟宗岩 謹誌
                           (村岡家文書より)

【注】以上は、元禄16年に紹孝寺住職宗岩翁が書き残 したものを口訳したもので、内容の真偽は別として高山、黄帝社、八相権現に 関した記録としては古く、風土注進案などにも引用されています。たゞ、本文の中では黄帝杜と八相権現社を混同している個所もありますが、 両社はもともと別個のものであると考えられます。
狗留孫とはサンスクリット語(梵語のことで印度古代の文章語)で「願いごとが 叶う」という意味をもっています。「山口県風土誌」の編者近藤清石翁は「黄帝 はもともと須佐之男命であったのが後に黄帝と誤つて伝えられたものでスサの地名、 古くは神山と書いたが後に山が高いので高山と書くようになった」という千家清主 の論も併せ引用して、この方が正しいのではではないかと記しています。
高山(532.7メートル)は山口県最北端に海に突出してそびえ、直接海から屹立する 山としては日本海沿岸屈指の山とされ、その成因
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も複雑で山容、地質、奇岩など特異な特徴をもっているので古来信仰や伝説発祥の格好の母胎となったであろうことが考えられます。
会員の金谷清氏が黄帝社が現荘地に移る以前に有ったとおぼしい所を尋ねあてた ということで12月5日教委の黒田氏や会員の品川晴氏らと金谷氏の案内で現地を探索しました。
高山の八合目あたり標高約420メートルの北側斜面を雑木林の中にわずかに残る獣道のような山道をたどると山の傾斜地を幅約20メートル 奥行10メートルばかりが平坦になって周囲を石だゝみで囲い中央に風穴のようなものがあって祭杞の跡があり、現在も何ぴとか信仰する人が詣ったことを示す供物などの跡がありました。おそらく古くから黄帝社があった「沖原」 というのが此所で臼ヶ浦の伝説が生まれたのも風穴の存在から見て此所であろうかと思われます。かたわらに「当山峠塔尊霊塔」の碑があり、宝永元年(1704) 甲申三月二十一日と刻まれているので、後の人が供養顕彰のために建てたものと思われますが、いずれ山林所有者の許しを得て綿密に調査の上報告したいと思います。
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■ 浄蔵貴所の縁由
 口 訳

そもそも浄蔵貴所は諌議太夫殿中監三善清行公第八子である。 母は嵯繊天皇の御孫で、夢中に剣を呑むと見て懐妊し、仁和3年(887)3月8日出生した。誕生の時、室内に光明が輝き霊香が漂っ たと云う。

四才にして千字文を読み、一を聞いて十を知り、七才にして出家を望んだ。殿中ではこれを聞 いて「汝が三宝の数に入りたいのであれば一つの霊力を示せ、さもなくば先々業を失うであろう」と告げた。その児(浄蔵)が答えて云うには「厳しい云いつけ をどうして背くことがありましょうか」と。時あたかも春の初めで庭前には梅が咲き誇っていた。児は戸外に出て天に向かって神人を呼び、梅一枝を折り取ら せて献上した。殿中の人々は皆驚き怪しんで誰も出家を止めることができなかった。それより諸々の勝地に詣でて修練を重ね或は稲荷山に住んで神童に花を採らせて過した。

或る時熊野川に至って洪水に会ったが異形の人が現れて舟を操って渡した。岸について後をふりかえるとすでに人も船も姿は見えなかった。

十二才の時、京都松尾神社より旅立ち日を重ねるうち、たまたま寛平上皇が西京に行幸になり、 洛中で浄蔵をごらんになってたいそう喜ばれ、弟子として叡山に登らせて受戒せしめられた。上皇はその才能を称え、玄照法師に命じて 密教(大日如来がその心境を説いたといわれる奥深い教法で加持、祈祷を重んじる)を教えさせ、又大恵法師に従って悉曇(しったん)章 を学んだところ、もとより書物に通じていたので忽ちその奥旨を極めることができた。しかして顕密、悉曇、天文、医法、弦歌、 文章、技芸等ことごとく通ぜぬものはなく、中でも修業によって呪力はいっそう高まった。

その当時毎年7月15日に修業者が集まり霊角という法力を戦わせる催しがあった。釈の修業者に同じく神霊の力を持つ者があった 。その修業者と浄蔵は同

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時に出て、先ず浄蔵が石に対して祈念すると石はみずから躍り上がって上下した。修業者もまた祈ったが石は動かなかった。両者互に持念すること久しくするうち、 石は遂に中程から割れて二人の前に動いて来た。この神変不可思議の現象に衆人は皆目を拭うて驚嘆した。

延喜の御門が御腰を病まれたので浄蔵が加持を行うと御病は忽ち癒え給うた。よって上皇は浄蔵に袈裟を賜った。浄蔵はその衣を着て 口から火を吹き衣を焼かれると、衣は焼け失せたが、元から着ていた衣は焦げることもしなかった。人々は怪しんでそのわけを問うと浄蔵答えて云うに,「血に汚れた 婦人が裁縫したので、それで焼けたのである」と。

その後浄蔵は横川の如法堂に一庵を設けて住んだ。或る時庭を歩いていると折りから南方から異様な姿の人が来たので浄蔵が何者かと 問われると、答えて云うに「我は加茂の明神である。昔慈覚大師が京畿に百余柱の神を集めて番々北経を究めさせられた。今は我が番 に当たったが、この地面には汚れがある。自分はこの地を清めて師所となそうと思うが、自分では如何ともすることができない」と。そこで浄蔵は神人を呼び寄せて、 汚れた地面を穿って持ち去らせた。

延喜9年(909)時平大臣が菅霊(菅原道真の霊のことで、道真ば時平の讒言によって太宰府に流された) の恨みを受けて病の床に伏せてしまった。そこで浄蔵を召して持念させると、時平の両方の耳から青龍が頭を出して善諌議に告げて云うには「我は天章に告げて讒者 (無実の罪に陥し入れた者)の恨みを報いるのである。しかし貴子浄蔵の法力は私を抑えた。願くは時平に厳しい戒めを加えてこらしめよ」と云ってひそかに浄蔵を去 らせた。浄蔵が門を立ち出ることわずかにして時平は忽ちに死んでしまった。

天慶三年(941)正月、勅命によづて横川

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において大蔵徳法の修法を行ない、迷賊平将門を降伏せしめた。その時平将門は弓矢を帯びて燃えさかる炎の上に立ちはだかったので 群がる僧兵らは皆恐れて(脱漏か)瞬時にして流矢の音が聞こえ、東を指して飛び去った。朝廷は更に仁王会の修法を行なって迷賊を ことごとく降伏させた。そこで浄蔵は待賢門の講師とされたが、その時同輩や弟子が急を告げて「将門が都に侵入した」と告げた。 朝廷は皆驚き怖れたが浄蔵は「それは将門の全身ではありません、たゞ死後の頭だけです」と申し上げた。果してその通りであった。

南院の皇子が病に臥され、然るべき人に加持させたが、三日を経て薨じた。そこで浄蔵に哀訴して救いを請われたので、浄蔵は火界呪を以て加持し皇子は蘇生された。

延喜帝が病を得られた時浄蔵は呪して云うに「御門の御病気は重くはない。やがて癒えられるであろう。しかし明年は宮中に火災が おこるであろう」と。果してその通りであった。

殿中監は浄藏の父である。浄蔵が熊野に詣でたとき殿中監が死去した。浄蔵は、これを途中で聞いて馳せ帰ったが、すでに五日が経ち 葬礼は出発した。浄蔵は北橋の上で葬列に出合い、その場で加持されると忽ち蘇生された。蘇みがえった父殿中はその場で浄蔵を伏し拝んだ。親として子を礼拝した のである。故にこの橋をもどり橋と云う。

玄昭師は浄蔵の師であるが真済という者の恨らみを受けていた。真済は、妖怪小僧と化して空から玄昭を襲い、玄昭はこれを見て 心身ともに悶え苦しんだ。浄蔵はこれを加持して救い、玄昭は弟子の浄蔵を敬拝したのである。

或る時長秀が船に乗って来た。船の中で病にかゝり浄蔵によっで救われんことを求めた。浄蔵が持念すると長秀の病は忽ち癒えた。 長秀は感伏して「我が国および隣国天竺にもこのような矣人(才能すぐれて美しい人)は居ない」と云った。

応和3年(964)8月、空世上人により六波羅において「慶讃金

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子大般若経多会明徳」があり、この時物乞いが夥しく集った。その中に一人比企の姿をした者がいた。浄蔵はこれを見て大いに驚いて上座に導いたが、この人は 辞退もせず言葉も発しない。浄蔵が一杯の飯をさし出すと、飯四斗ばかりを食いつくしたので又すゝめるとさらに食いつくした。衆人はこの比企があまりに大食 なので怪しんで見守るばかりであった。そこで浄蔵は加持して見送り立ち去らせた。後で見れば飯は元の通りになっていた。或る人がこのわけを聞いたので浄蔵は 「あれは文珠大師が仮りに姿を現わされたのである」と答えた。居合わす者は、一皆感嘆して伏し拝み、これ以後人々はなおいっそう 浄蔵を敬い浄蔵もまた応化の人(神仏が人の姿となって現われた)かと怪しんだ。

浄蔵が又思うに、寒山拾得は官吏が自分を拝礼するのを嫌って遂に寒山岩に姿を隠し給うた。自分もまたこの地に住んでいたならば驕慢の心を生ずるであろうと 云ってひそかに王城を出て諸所の霊地を巡礼し、たまたま10月雲州大社に行くと、毎年10月には日本国中の神々が相会してよろずの政事をなし給う月である。 浄蔵が床の下に伏してその有様を聞いておられると、会談は皆男女の縁を定められる事であった。一人の神が云われるには「こゝに居給う浄蔵には誰をめ合わせたらよかろうか」と。他の神が「京の下鳥羽の仁直というものゝ娘がよかろう」と云うと諸神は皆これに賛成された。浄蔵はこれを聞いて「自分の心は鉄石の如く堅い。 どうしてそのようなことができようか」と思った。その後諸所を巡礼してひそかに帰京した時下鳥羽まで来るとしきりに足の病が起こり、やむなく或る家に入った ところ、その家の主人は丁重に迎えて宿をした。そして通された座に着くと一人の女牲が出て給仕をし、夜中になるとその女性はいとも懐しげに寝所に入って来て 挨拶をするので、浄蔵はふと大社のことを思い出

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してこの家の名を問うと、女性は「下鳥羽の仁直と申し私はその娘」と云う。浄蔵は驚いて「さては我が為には天魔である」と叫んで手許に引き寄せ剃刀で咽を 引き切って外へ逃げた。然しその傷は浅手であったので、その後御門の目にとまり、大裏(宮中〉に召されで妃となり、寵愛を受けるようになった。 天暦7年(954)のこと、その年は旱魃が続き、天台の有徳の僧や真言の知僧と呼ばれる人たちが勅を受けて雨乞いの祈祷をしたが、3月から6月に至るまで一滴の雨 も降らず、民衆は術もなく農事をやめてたゞ天を仰いで憂えるばかりであった。御門は「国中が皆このような憂いにかゝるのはすべて我が不徳の致す所であり、 我が罪にほかならぬ」と涙を流された。この時関白が「浄蔵は神霊の人でございます。お探しになって雨乞いの祈りをさせられては」と申しあげると、御門は たいそうお喜びになり、国内六十余州に勅を発して尋ねさせたところ、丹後の国の相の文珠に居ると知らせて来た。早速、勅使をつかわして召されると、 浄蔵答えて云うには「私はもはや再び都には入るまいと心に決めております」と再三辞退したので、勅使は「天下にわずかの土地、一人の民といえども御門の 臣でないものはない。ともかくも理を曲げておいでになるよう」とすゝめるので、浄蔵もその道理に服して共に京に上ったので御門はたいそうお喜びになり、 雨乞いの祈祷をするよう勅命を下された。そこで浄蔵は神衆苑に檀を設け、一日一夜の祈祷を行なったところ、俄かに黒雲が たなびいて雷電がおこり、忽然として神龍が舞い降りて二日二夜にわたって雨が降りそゝいだ。人民たちは歌をうたい手を打ち合って歓喜したということである。 御門はたいそう感激されて僧上の位をさずけられた。
寛平上皇の更衣妃が或る時狂気の病にかゝられ、医師も祈祷師も手をこまねくばかりであっ

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だ。浄蔵は勅を受けて宮中に入り、法人を祭り、先ず妖怪を降し妃を縛ると病は忽ち癒えた。浄蔵が御殿の内に入ると、上皇は思わず立ち上がって浄蔵を拝み給うた 。これは四海の主たる上皇が臣下である僧を拝み給うことは、これこそ礼敬の極地と云うべきであろう。御門が仰せられるには「浄蔵のような者が、これから先 二人とあるだろうか、願わくは大唐の三蔵法師の例にならい妃を賜わってその子孫を残させよう」とて妃を下しめ合わせられた。浄蔵がその妃をよく見ると咽に疵があるのでそのわけを問うと、妃が答えるには「私はもと下鳥羽のものです。この疵は或る僧のせいです」と云う。浄蔵は「さてはあの時の女姓であったのか、 因縁のなす所はのがれることができない。もしこれを辞退したらどのような凶事が起らぬとも限らぬ」と思い遂に勅に応じて妃を妻とされた。昔久米の仙人は女の あらわな脛の白く美しいのを見て通力を失い、遂にその女人の色香にとらわれたということである。とさまざまに嘆かれ、とやかくと思いなやむうちに二人の子を もうけた。
その頃京中の者がうわさし合うには、八坂の塔の傾いた方向に必ず凶事がある。浄蔵は神人であるから、これに勅を下して対処されるにしくはないと云い合った。 浄蔵はこれを聞いて「自分は妻帯の身である今、どのようなものであろうか」、まずおのれの法力を試みようと二人の児をつれて鴨川のほとりに出て水に向い、 二児を左右において水に向って祈ると、水は忽ち逆に流れて三条、五条の橋の下は干あがって白い河原となった。そこでこのありさまなら心配はないと勅に応じた。 天暦10年(956)6月21日、浄蔵が八坂の塔を祈念するということが京中に聞こえたので、貴賤男女誰一人として見物しない者はなかった。浄蔵は二人の児を左右に置き 塔に向かって暫く持念すると、西の方から微風が吹き来たり、塔は揺れて震動し、吊された宝

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鈴が鳴っていたが、傾いた塔は忽ちまっすぐなもとの姿にかえった。見物の貴賤男女は誰一人として喜び感嘆せぬものはなかった。

また、浄蔵がこの地に居る時、夜中に数十人の盗賊が侵入してきた。浄蔵が声をはげまして呪願すると、群盗らは手足が動かず枯れ木のようになってしまった。 夜が明けて浄蔵が呪縛を解くと、盗賊らはうやうやしく伏し拝んで立ち去った。
このように神変不思議なことばかりが多かったので、上下万民ともに浄蔵を崇め敬い、神人であるとか生き神様、生き仏と尊んだ。

かくて年月がたつうちに、浄蔵は思うに悉達太子(釈迦のこと)は中天竺(印度)の皇子であったが、耶輸陁羅羅睺(この世の栄華や楽しみのことか?) を思い捨て、金泥駒にむち打って城中を逃れ出、車匿童子を伴って坦持山に籠り、難業苦行をして遂に悟りを開かれた。それに対して、あゝ自分はいったい何たる ありさまか、と涙を流して嘆いていたが天徳元年(957)の春66才にして妻子を捨て、忍んで都を 出て不動明王の尊い姿を学び、山伏の姿となって霊仏霊社を巡拝し、再び出雲の大社に参詣したが、先ず神に向って「昔神の御結びによって思いもかけず俗姓の家 に堕ちたとはいえ、これはすべて、前世の悪因縁罪業のためでありましょう、願わくば未来は必ず真実の悟りの都へ帰らせて下さい」と涙を流して懺悔し、それ より伯州大仙、石州の当麻諸山の霊地に参詣され、次に長州の高野山(高山)に登って狗留孫仏黄帝 の垂跡(かりに姿をあらわした所)を拝し、弘法大師の創造し給うた八相権現に参寵し、暫くこの地に留りたいと思い、先ず四方の 景色を見ると峯の高いことは常に白雲が山の腰をめぐり、北の海は漫々と水をたゝえて九州、三韓(朝鮮)の雲が往来し、幾百という島々は常の山とは異なり 「三千世界は眼前に十二因縁は心の底」と昔歌に詠まれたのはこ

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のよのものであろうかと感嘆したが、又向うの山を見ると西の方にあたって山間にひとつの光明があらわれた。これは不思議なことと思い、光を尋ねてゆくと 先ずマテ潟の里に着き、そこから流れにそうてさかのぼり、谷を登って尋ねてゆくと道の左右の景色は尋常でなく大きな岩がそびえ 立って麓を流れが洗い、這い松やつゝじは峯を輝かし又深い淵があって神龍が住むようなけはいである。又瀑布があり落ちること 数千尺、住む鯉も龍に化身するであろうとあれこれと風景を眺めると、又目を驚かすほどの岩が構たわっている。古樹はうっそうとして中に九折の狭い道がある。 登ってみると一段高い所に石造の観音菩薩が安置してあり、その不思議なさまは金輪際(地の最も深い底)から湧き出たのではないか と怪まれる。さてはこの間の夜々の光明は此所からであったに違いないと思いその夜はそこで泊った。夜中頃夢の中にどこからともなく光明が輝くかに見えてあたりに 霊香が漂い、観世音菩薩が現われ給うて、天冠や瓔珞(金銀宝石の首かざり)も鮮かに、何びともが喜び仰ぐ御姿で浄蔵に向かって申されるには「御身はもともと並の 人ではない、私心のために姿を凡夫に変えて真言三密の奥義を極めたとはいえ悪い因縁によって一度は俗姓に堕ちた。然し再び不動明王の尊体を仰ぎ山伏の姿となり 様々に不思議を現してこの世の苦しみに悩む衆生を救う為に諸国を巡ることは、本願を遂げ殊勝なことである。然しながら人の寿命には限りがある。そなたも 70才に及んだ。この地は凡愚の人間も迷いを蒙ることなく、鳥獣も侵すことのできぬ浄蔵第一の霊地で あるから、願わくはこの地にとどまって身心を安楽にし弥勒三会の暁を待たれよ」とねんごろに教え訓して何所ともなく消え給うた。浄蔵は夢から覚めて 眼を開いてみると、光明は未だ消えやらず霊香も薫しくまだ残っていた。浄蔵は菩薩の御跡を伏し拝み歓喜の

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涙を流し俗世に生きる衆民はどうしてこのような有り難い御姿を拝することができようかと、この地に草庵を結んで住んだ。村人らは生き仏 の如く浄蔵を敬い、我も我もと食物などを運んでもてなせば、猿の群れも果物を抱えて親しげに近づいてさし出し、鳥たちも花をくわえて捧げる。 あたかも昔、待の牛頭の融大師が金山の玄真の虎を愛したのもこれ程ではなかったであろうと思われる。浄蔵は朝には深淵にのぞんで 垢離をとり、夕べには瀑布に向かって修行を積み重ねたので村人らは観音の涙があまりにも厳しくて出入の困難なことを憂え、麓に寺を立て 雲居寺と号したので、浄蔵はたいそうお喜びになり、心静かに終業に励んだ。 浄蔵が或る日村民に語って云うには「自分は久しい間皆から供養を受けた。結ばれた縁はどうして浅かろうか、自分は故郷を離れること万里、 独りこの地に隠れ住んでいるのは妻子肉身の恩愛を断ち、仏道を修行して一切の衆生を救い無上の道を求めようが為である。自分が死んだ後、 もし塚に向かって願い求めることがあれば、自分はその人の願いのまゝにことごとくこれを叶え、縁を億万の衆生と結び、ともに三会の暁に会 することこそ我が本願である」と。康保元年(964)11月21日、御年74才にして安らかに円寂(聖者や高僧が死去すること)した。その夜寺のあたりには おびただしい光が輝いたので、村民は出火であると驚き我も我もと馳せ登ってみれば、光明の中に不動明王の尊体をあらわし、児童二人が左右 につき従って霊香かんばしく花が降りそゝいでいたが、遂に西の空へと消え入り給うた。人々はなお父母を慕う思いでねんごろに葬礼をとり行ない、 それ以後祭時も礼奠怠ることなく、どのように忙しい時でも必ず祭りを行ない、さし迫った事態の時も祭りを怠らず長雨、旱魃、病疾等およそ 願いごとのある時は必ず祭事祈願し

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て、もろもろの願いは立ちどころに満たされたという。
今年享保7年(1722)寅の年に至って759年、年久しいというとも、なお祭りの絶えることはなかった。享保5年の春、不思議な霊験があったので、 参詣するものはいっそう多くなった。
我が思うに浄蔵貴所とはいったい何びとであろうか。又どのような因縁でこの地に来たのであろうか。自分はこれを知りたいと思い人にもこれを 知らせたいと考えた。そこで古典を考え、多くの歴史を調べ、又云い伝えのよって来たる所を総合して後世の人の為にこれを記した。後の人はこの 記によって浄蔵貴所を知り、又知った上で諸事祈願すれば、たとえ千年万年の後であっても、霊感空しからず、あらたかなることを知るべきである。

時に享保7年壬 霜月(11月)8日
釈禅誦比企宗岩 門起 謹記

【注】以上は前掲高山狗留孫仏縁起と同じく、紹孝寺住職宗岩和尚が書き残したものを、故村岡元治翁が写し残しておられたものです。その中の 一部は風土注進案や山口県風土誌にも引用されています。会員の堀勇氏(大井)がいろいろ調査しておられ、出雲の豪族赤穴氏、佐波氏はその子孫 であることを萩藩閥閲録などから究明されていますので、今後の調査に待ちたいと思います。前記宗岩和尚の縁起書の中に、享保5年に不思議な 霊験があったとありますが、現存する浄蔵貴所の塚は翌享保6年、時の領主益田元道公によって建てられているので、それに匹敵する何かがあったことも推察されます。また安永8年(1780)には益田就恭(兼恭)公寄進の灯籠があり、上下広く信仰されたことがわかります。前文に羅列された さまざまな浄蔵の
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奇跡は、その偉大さ尊厳さを誇示したものと思われますが、人物、年代等史実に合うものもあって、どのような根拠によるものか興味がもたれます。 境内の石段の玉垣などに出雲や広島等の遠国から寄進されたものも多く、特に海上関係者の信仰が厚かったことがわかります。また、眼病に霊験がある といわれるのは出雲の一畑薬師に似ていますが、阿武町や珂東町の古老が幼い頃親につれられて参詣したという人もおり、墓所のある台地の石垣の中に 「銀三匁、なご」と刻んであるのは、奈古の有志が出資して石垣を献納したものと思われます。
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■日本海々戦須佐関係概況

明治38年4月14日、藤富郡長から知事の内訓を伝えてきた。
「敵国艦隊は東航して本土に接近しようとする気勢にあって、本月4日シンガボール沖を通過したようである。これに呼応して浦塩艦隊の出動があるかも しれぬと予想しなくてはならぬとの内訓があったので、航海および漁業家はもちろん一般のものへもその発見に対する所置や方法を示して警戒に努めつゝ ある。」

5月7日管船局長よりの電報として、露国艦隊は後志沖に現れ北方に進行中との情報があった。

同27日朝敵艦隊が対島東部に現れたとの情報があった。第2報として敵艦隊は追々日本海沿海に接触しつゝある、との情報があった。何時どのような事変 が発生するかもしれないから、じゅうぶん警戒を厳しくし、狼狽して根拠のない噂や流言にまどわぬよう注意があったので、その旨を一般に示達し、 併せて万一の場合を考え、もし砲撃を受けたり敵が来襲する等のことがあれば、婦女子は唐津又は堀田方面に避難し、15才以上の男子は一人として避難 することを許さぬ。各自現地にとどまって役場、警察の指揮を待つようにと通達した。

午前11時頃から砲声が殷々と聞こえはじめ地ひびきや家の振動が激しいので、さては地震であろうかと野外で働らく者は急いで市内に馳せ帰ってみて、 初めて海戦の砲声であることを知った。高山中腹に北向きにある沖浦区のごときは、はるか雲のはてのかすかなあたりに戦場の位置が認められる状態で あったが、砲声による振動の反響は、窓ガラスさえ破壊する状況であった。

同28日午前10時12分着(27日午後4時30分の発信)情報があり「本日午前10時40分敵艦隊対島南端より東南約20海里を東

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北に向い進行中で、我が艦隊はこれに接触した」と。

正午見島望楼長よりの発電到着「敵の特務艦カムチャッカ号が撃沈され、乗組員下士以下55人(内負傷10人)午前10時見島に上陸、目下救護中」と。

このような状態に直面して想像や憶測は種々の噂を生み、人々の意気はたいそう緊張し又興奮している折、夜の9時頃烏賊漁に出た青木音槌が急ぎ 帰り来たって「今小島沖に出ていたところ妙な船が一隻沖合いから来て、”ヒーヒー”と物を云うけれども言葉は通じないが、自分の舟を追いかけて 来るのでこれを知らせるために帰って来た。これは露兵が攻めてきたのではないか」と云う。そこで船三隻を装備して海苔石方面に捜索に出たところ 敗残の露兵であることがわかったので、これを包囲し誘導して帰港した。後に聞くと闇夜で勝手がわからぬため、案内を求めようとして前記青木を追い かけたのであった。

たまたま当日は鰯の大漁があって、その処理の為に浜辺には多勢の人が集まっていたのと情報を聞いて馳せ集まった群衆の中には「何、敵兵なのか。 上陸はさせるな、皆殺しにしてしまえ」と叫ぶものがあり、中には従軍して戦死したものの母も交じっていて「おのれ我が子の仇、生かしておかれるものか」 と怒髪天をつく者もある有様で浜辺は混乱の極に達した。これには一つの遠因もある。それは常陸丸が撃沈された直後(輸送船で武装なく敵艦に撃沈されて 多数の将兵が全員死んだ)上司の命によって救助船を出したが、生存者は発見されず、たゞ見島沖で近衛騎兵1名、人夫1名の死体を発見して収容して帰った だけであったのを法隆寺裏の墓地に丁重に仮埋葬を営み、これに立ち合った者もあって、その悲壮な実情を胸に焼きつけている者もあるので、敵慨心が いっそう高まっていたことにもよる是非ないことである。この恕号と

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鰯陸あげの混雑に露兵は驚き怖れ、しりぞいて二軒屋方面に逃避した。その時海岸警備の担任として伊藤松五郎巡査が現場に居合わせていた。 村長とともに興奮している者の制止に努めて「今見るところによれば武器をもっていないようである。戦いは国と国との戦いである。一個人としては戦場で 敵として向かい合う場合の外には恩も恨みも無いはずである。伜の死も御国への御奉公、天子様への御奉公であつて、個人の喧嘩ではない。 仁義の国と云われる我が国民として、救いを求め、助けを乞う者に不都合があっては将来に物笑いの種となるであろう、各自よくよく注意してほしい」 と諄々と説得したところ、一同はようやく沈静することができたので、さらに舟をもって中村村長、兵事主任、伊藤巡査ら非常警戒員と共に救援におもむき、 本浦へ連れ帰り、法隆寺に収容することになった。その人数は33人であった。

その取り扱いとしては、銃器を所持してはいないかと一々身体検査をなしたところ、洋刀一振ずつの外は別に銃器を持っておらず、このナイフはあずかる ことゝしたところ、唯一つ風呂敷包みを丁重にさゝげ持って、これは絶体に手ばなそうとはしない。これはつまりロシア皇帝の肖豫で、いわゆる基督教管長の 肖像の額面であった。これはそのまゝとして兵一名に一名ずつ護衛の看守員をつけて収容所に誘導した。一方では郡長あてに「露国水兵33名が漂着したので 収容した。指揮を待つ」との竃報を発した。

一同はさゝげ持った肖像を先頭に粛々としてその後に従い堂に入り、皆起立して着座しない。何故かと不審に思い事情をたゞすと、手まねで机を所望する様子 である。そこで机一脚を出[して与えると、仏前にそれを置き、捧持した肖像の額面を安置し、覆いを取り、扉を開いて礼拝し、讃美歌を歌つて後くつろいだ。 そして、さ

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らに一室を希望するので、一室を与えたところ、将校がそこに入り、他の者は同じ室にくつろいで坐った。

同29日午前2時35分、郡役所から「露国水兵は昨日の内訓によって各警察官が協議の上、手ぬかりなく救護せよ、乗組の船名その他を取り調べて急報せよ」 との訓電が届いた。

この夜は徹夜で収容、手当ての手配に努めたが、彼らもさだめし空腹を感じているであろうと炊き出しをなし、和布結飯をこしらえて与えると、妙なおももちを して手を触れぬので、そのむすびを手にとって試食してみせると、はじめて合点がゆき食べるようになった。そして、これに味を覚えたものか彼らが持つ黒パンと 共に出して与えたところ、黒パンには手をつけぬようになった。副食物として乾し魚の焼物を与えても口にせず、生魚の剰身を与えてもやはり口にしない。 併し「チャ、チャ」と飲むまねをして要求する。まさか日本語と共通の茶のこととは思わなかったが、ふと気づいて茶を準備して与えると、よほど嗜好に合った ものとみえて、再三要求するのでこちらも好奇心にかられて上茶を準備して与えたところ、いっそう満悦の様子であった。

諸事の用弁も有ろうかと、大谷次郎吉外数名を庸って付き添いとしておいたところ、何か妙なそぶりをする者があるので、ふと気づいて、便通をもよおしたので あろうと、厠に案内したが、国情の違いは便通の方法もわからず、そこで袴をぬいで用便のまねをして見せると、はじめて合点して用便をすませれば、次々と押 しかげて便所が大混雑をきたしたのも骨稽なことではあった。

大谷次郎吉の伜の倫一という三才の小児が父に伴なわれて来ていたのに、一人の水兵が手招きするのでそばに寄ると、抱き上げて頬擦をして涙を流して泣いた。 かたわらに来合わせた士

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官もその児を抱きとって共に声をあげて泣き出した。そばで見ていた人が皆云うに「何所の国であっても人情には変りのないものだ、彼ら両人もおそらく故郷 に子供を残して従軍したのであろう」と個人としての人情にはおのずから同情の念を起こさせたのであった。

午前8時45分、郡長あてに電報を発した。
「士官2、下士1、卒30、言葉判らぬ。通弁(通訳)待つ」
このような電報を発したが、まことに好都合なことには、萩中学校の業を終って帰省中の大谷清記が居合わせたのと、露兵に一人「カエランドスキー」と云う 英語を解する者がいて、この両氏の会談筆話によって、総べてが概略判明するに至った。これによれば、「オーロラ」「テレーク」「カムチャッカ」の三隻が 撃沈されて、この港に漂着したのは「オーロラ」(巡洋艦で7,860トン)であることが判明したので、11時25分その旨郡役所へ電報した。

ついでに記すが「カエランドスキー」は一等水兵であるが、一年志願兵で英国に留学していたようである。露兵は煙草が欠乏している様子で、金貨や銀貨を取り 出して喫煙のまねをし、煙草の購買を希望する。そこで巻煙草を求めて支給したが、差し出した貨幣は一切謝絶して受取らなかった。何か気なぐさめにもと、 夏みかんを与えたところ、外皮のまゝそれを食べるので、皮をむいて試食してみせると、たいそう喜んで互に分け合って食べるようになった。気候風土や人情の 異なる土地の者を、かれこれ対象して見ればおもしろいことも多い。

カエランドスキーが一通の封書をさし出してこれを本国に送ってもらいたいと頼んだ。そこで種々評議をした末、どのような秘密を通報するかも知れず、開封 して点検するがよかろう、

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と云う者があり、又、個人の信書を無断で開封するのは、何びとであっても道徳上穏当ではないと云う者もあって、結局県庁を通じて発送することに決し、 そのまゝ県庁に発送した。後に県庁からの報によると、ロシアの都にある通信事務(新聞雑誌の類か)を扱っている兄への情報で「我らは今日本の山陰の一孤島 に上陸し無事である。これまで日本は野蛮国と聞いていたが、我らの今居る一小部落でさえよほど文化の程度が進んでおり、総て公徳心に富み、親切に扱われ ている。悪宣伝の誤解をとくよう、機関誌に報導を頼む」という文であった由である。

5月30日午前11時、門司の収容所から鴻城丸で須佐に来たので引渡しを完了し郡役所へその旨を電報で報告した。出発に際し将校から「お世話になった謝礼である」 とて、記念品の証しに双眼鏡一個を残したので、これは記念として長く保存することゝした。ボートは鴻城丸が曳航して出航した。出発にあたり、我が好意を謝し、 名残を惜しむとみえて、船が港外に出て人影が見えなくなるまで帽子や手巾を振って、惜別の情を表していた。郡役所には左のとおり電報した。
「露兵無事今鴻城丸にて発す」
さらに公文書を以て藤富郡長あてに報告書を作成して送った。その原文は左の通りである。

        記
一、5月28日午後9時、ボート1隻当須佐港内に漂着につき、直ちに出航して取り調べるに、
  露国海軍兵なること分明せしに依り、取りあえず上陸せしめ法隆寺に収容す。
一、漂着人員は左の如し  露国軍艦ウォーロラ号乗組  副艦長 アルトチューフ  43才
  機関士 ドブアントスキー 30才  下士6名  兵卒25名

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      計33名
  右兵卒の内一等水兵カエランドスキーなるもの1名英語に通ずるを以て救護上大いに
  便利を得たり。
  右軍艦は5月27日の戦斗に撃沈せられたる由
一、5月30日午前11時、露兵は小廻船にボートと共に下関水上警察署鴻城丸引航し下関へ
  向け出発す。
              (村岡元治翁文書)

記念碑建設の経過

法隆寺の信徒総代から日本海々戦に関係の深い当寺の境内の何所かに記念碑を建設してはどうかとの動議が出たのに、 我が忠勇な殉国烈士の忠魂碑さえまだ出来ぬのに、この記念碑の建設はまだ時機が早いとの意見が出て説は両派に分か れることになったが、これを聞かれた斉藤幾太郎氏(久原房之助氏の令兄)が云われるには、「自分はこの須佐に生まれ たものであるが、忠魂碑の建設については久原で考慮するであろう、記念碑を建てるのであれば、経費は自分が出して 贈ろう」とのことで、斉藤幾太郎氏の好意によって記念碑は建設の運びとなった。
             (村岡元治翁文書)

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「碑文の写し」

表 面
日本海戦役漂着敵艦将卒収容地記念碑
  海軍中将正三位勲一等男爵有地品之充書

裏 面
      正五位男爵 益田精祥 撰
日本海海戦殲滅露国艦隊敗残の将卒三十三
人漂着于此実明治三十八年五月廿八日也村人
収容之於法隆寺給衣食与医薬撫恤三日以致于
我海軍後和成俘皆還特致書謝恩蓋感我義也因
建碑告事蹟于来者云爾   明治四十五年三月
      正八位勲八等 益田 潜 書

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■唐人墓について

「防長風土注進案」

享保十一年丙午(1762)の八月七日、
唐船壱隻当湊へ入津仕候に付、同九日の晩よ
り十一日うち払被仰付候所、その後崇りをな
し候故、霊神と御祭被仰付候事

<口 訳>
享保十一年八月七日、唐船が一隻当港へ入港
したので、同九日の晩から十一日にかけ打ち払
った所、その後崇りをなしたので、霊神として
祭ることを仰せつけられた事

「山口県文書館蔵資料の中より」

松平周防守殿石州浜田の城主家来村上政右衛
門と申者八月十五日之朝上下三人ニ而須佐浦
罷越立宿を取地下役入え相対仕度との儀ニ付
益田越中領分之庄屋河澄二郎左衛門出合挨拶
之趣左記之
但白倉与三阿武郡算用方事庄屋河澄二郎左衛
門ニ相成罷出候事
一、 村上政右衛門申候者此表唐船漂着之風聞
ニ付周防守領内海辺えは人数など差出承合
候内一昨日通り船ニ様子承合候得者於御当
無事故唐船片付被成之通先以珍重存候周防
<口 訳>
松平周防守殿(石州浜田の城主)の家来村上
政右衛門と云う者が八月十五日の朝上下三人で
須佐村へまいり、宿を取って地下の役人へ対面
したいということにつき益田越中領分の庄屋の
河澄二郎左衛門が出て会い挨拶をした様子をこ
こに記す。
  但し白倉与三(阿武郡算用方)が庄屋河澄二
  郎左衝門に代って出向いた事
一、村上政右衛門が申すには、この度び唐船が
  漂着したとの噂で、周防守領内の海辺へは人
  数などを出し聞き合わせる内、一昨日通過の
  唐船を片づけられたとのことで先ずは結構で
  ある。周防守
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守事在江戸付而年寄共より趣相聞せ為可申
拙者聞合ニ罷越候由ニ而唐船者いか程の船
ニ而候哉と問申候事

此段見及候所凡二拾尋程も可有之
哉と申相候由申候事
一、 石足如何程ニ相見候哉と問申候事
此段別而掠了之儀候浦人之内前廉
長崎にて唐船など見馴候もの申方
は凡二千石足も積申船ニ而可有之
哉と申相候由答候事
一、 唐船ニ者人数いか程乗組居申候哉と問申
候事

此段人数いか程乗居申候段者一円
相知不申由申候事
一、 いか程の参方ニ而御手ニ入申候哉前後具
物語承度由申候事

今月八日かと覚え申候当湊より遙沖
に確唐船と相見漂ひ申に付城下え
注進仕候処九日之昼時分当湊之沖
<口 訳>前頁からの続き
は江戸に居るので年寄どもから
様子を聞かせる為拙者が聞き合せに出向いた
とのことで、唐船はどれほどの船であったと
問われた事
これについては、見たところでは凡そ二
十尋程も有ったかと申し合った由である
と答えた事
一、船の石数はどれ程に見えたかと問われた事
 これについては目で測ったものである。
 浦人の中に以前長騎で唐船などを見なれ
 た者が申すようには凡そ二千石も積む船
 であろうかと申し合ったと答えた事
一、唐船には人数はどのくらい乗り組んでいた
 かと問われた事
 これについては人数がどれ程乗っていた
一、どのような仕方で始末されたか、前後の有
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え漂流仕候城下より早速打払之役人
衆被罷出九日之夜中より打払被仕十
日も打払有之候へ共出帆不仕ニ付
十一日ニ者猶又手強打払被申候内
昼過唐船より出火ニ而船人共焼失仕
候由答候事
一、 右之唐船者碇を入居申候哉と問申候事
此段中ニ碇など入申たる首尾にて
無御座候由申候事
一、 左様ニ而者唐船一所ニ居不被申筈候如何
候哉と問申候事

御不審尤存候早速打払被申候得者
必出帆可仕筈ニ御座候処只様漂居
申たる段推量の所船具など損ひ出
帆不相成事共ニ而候哉又者其節は
風も悪敷御座候故漂居申候哉と申
合候由答候事
一、 唐船より人質両人御取せ候様承り候定而御
討せ被成候而可有之候と参懸り承候由申候
<口 訳>前頁からの続き
様を詳しく話を聞きたいと問われた事
今月八日かと覚えるが当須佐港から遙か
沖にたしか唐船と見られるのが漂ってい
るので萩城下に注進した処九日の昼ごろ
当港のすぐ沖へ漂流した。萩城下から早
速撃退の役人衆が出向かれ九日の夜中か
ら打ち払いをされ、十日も打ち払いがあ
ったが出帆せぬので十一日には更に又手
ごわく打ち払いをされる内、昼過ぎ唐船
から出火して船も人も共に焼失した由答
えた事
一、右の唐船は碇を入れていたかと問われた事
  これにつき、とても碇など入れたような
  有り様ではなかった由答えた事
一、その様な状態では唐船は一つ所に居ること
  ができぬ筈だがどうであるかと問われた事
  御不審はもっともなことに思う。早速打
  ち払えば必ず出帆する筈であるのに只そ
  のまゝ漂っていたのは察する所,船具など
  損傷して出帆出来ぬこと等であっただろ
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努て左様之儀無御座候右申候通九
日之昼時当沖え漂流仕候得者同夜
中より早速打払有之候此度之儀珍敷
事ニ而御座候故近辺様々之浮説多
御座候由当所などにも末々之者左
様之儀とりどりに雑説仕之由御座
候右申候様沖相を漂ひ候唐船萩より
直様海上被罷越被打払候内唐船より
自火起り及焼失申ニ付直様打方衆
も城下引取被申候夫故当所之者に
候而茂此度ニ付確なる儀は存不申
候私儀者用事ニ付役人衆出会趣承
居候故存候廉々御答仕候右之通ニ
而実をば存不申様々之取沙汰仕候
由返答仕候へば成程左様可有御座
候儀之由政右衛門挨拶にて候事
一、 此間唐人之死骸海中よ揚り申之由如何程
共あがり申候哉と問申候事

是以雑説ニ而御座候右之唐船燃出
<口 訳>
  うか、又はその折は風向きも悪かったの
  で漂っていたのであろうかと申し合った
  由に答えた事
一、唐船から人質を二人取られたように聞いて
  いる。おそらく殺しなされたように来がけに
  聞いた由に申した事

  決してそのような事は無い。右に申した
  通り九日の昼頃この沖に漂流したので、
  同夜中から早速打ち払いがあった。この
  たぴのような事は珍らしい事であるから
  近辺の者に様々のあらぬ噂がある由で、
  当地などにも末々の者はそのような事を
  とりどりに世間話をする由である。右に
  申したように沖合を漂い居る唐船を萩か
  ら直ちに海上を出向かれ打ち払う内、唐
  船から自身火を出し焼失したもので、す
  ぐさま打手の衆も城下に引取りなされた。
  そこで、当地の者であってもこのたぴの
  事に付いては確かな事は存じてない。私
  は用事の為に役人衆に出会い様子を聞い
  いているので、存じている事を一々答え
  たのである。右の通りで実の所は存じて
  おらず様々の取りざたをしているわけを
  返答すると、なる程そのような事であっ
  たであろうと政右衛門の云い様であった事
一、此の間に唐人の死体が海中から上がった由
  であるが、どのくらい上がったのかと問われ
  た事
  これも世間の雑説である。右の唐船が燃
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候而は風強湊之内えも吹込申候火
燃出候而は海中え飛入たる儀も可
有之との儀ニ而段々死骸穿索被申
付候得共今日迄は一円見不申候尤
前廉打払候節鉄砲ニて被打落候死
骸二三人有之候申承申候唐船燃出
候節者手強打払被申候故何れも船
底ニ罷居申候由上より俄燃出候故何
れも船中ニ而焼死死骸も無之焼失
申物にて候哉と申相候通答申候事
一、 唐船より手向ひ申候哉之由問申候事
此段成程手向ひ申候鉄砲をも打石
なとまき申たる由承候通申候事
一、 御城下より御人数いか程被差出候哉御打方
之衆中名書所望之由申候事

城下より直接海上え被罷出候故委細
之儀は得承不申候得共大筒鉄砲な
どは大分之儀御座候其内目付役物
頭衆等一通り之名をば覚居申候条
<口 訳>

え出したときは風が強く港の内へも吹き
込んだ。火が燃え出しては海中へ飛ぴこ
んだ者も有るであろうとの事で、あれこ
れ死体を捜索申しつけられたが、今日迄
は全然見つけていない。もっとも前述の
ように打ち払いの折鉄砲で打ち落された
死骸が二、三人有った由に聞いている。
唐船が燃え出した時は激しく打ち払いを
かけたので、いずれも船底に入って居た
由で上方からにわかに燃え出したので、
いずれも船中で焼死し、死骸も無く焼け
失せたものであろうかと申し合った通り
答えた事
一、唐船より手向かいをしたかと問われた事
これについては、その通り手向かいした。
鉄砲も打ち石などをまいたように聞いた
通り答えた事
一、御城下(萩)から人数はどのくらい差し出
されたか、打っ手の衆の中で名簿が欲しいと
申した事
萩城下から直接海上へ出られたので、詳
しい事については聞いておらぬが、大筒
(大砲)鉄砲などは大分有ったようであ
る。その内で、目付役や物頭などはひと
通りの名を覚えているので

P32
書調可進通申候得ば越中家来都合
役打方の名をも所望之由ニ付左之
通名書相調相渡申候其外之儀は海
上被罷出直様被引取候故委細様子
存不申候由申候事

     覚
目付兼重五郎兵衛
物頭井上源三郎
熊野五郎兵衝
井上清右衛門
小笠原仁左衛門
益田越中内石津伝右衛門
松原与一兵衛
小原勘右衛門
但此通ニ名付調相渡候得ば越中殿
御家来役振は如何様ニ候哉と問申
ニ付石津伝右衛門は都合役其外両
人は物頭役之由答申候事
<口 訳>

書き調えて進呈するよう申した所、越中(益田)家来
の指揮者や打つ手の名も希望するので、
左の通り名簿を調えて渡した。その外の
事については、海上から出て来られ、そ
のまゝ直ちに引きあげたので、詳しい様
子は存じておらぬ由答えた事

       覚

目付兼重五郎兵衛
物頭井上源三郎
熊野五郎兵衝
井上清右衛門
小笠原仁左衛門
益田越中内石津伝右衛門
松原与一兵衛
小原勘右衛門
但しこの通りに名書きを調え渡し
た所、越中殿御家来の役目ぶりはど
のようであったかと間うので、石津
伝右衛門は都合役で、その外の二人
は物頭であると答えた事。

 
P33
右之通及答候得者相応え挨拶ニ而政左衛門
事同日昼時頃須佐出足罷府候事
<口 訳>
右の通りに答えたところ、丁重な挨拶を
して政左衛門は同日昼時ごろ須佐を出発
して立ち帰った事。
P34
唐船打払い事件は、須佳の歴史でも異色の事件で今も語り伝えられ、墓もありますが、 事件直後隣国浜田藩でも同じ北浦海岸を領するものとして何時同様のことが起こらぬとも限らず 様子を聞きに来たものと思われます。漂着者の取扱いには幕府から厳しい通達があり、特に文中、 無抵抗の者をしゃにむに攻撃して殺したとの風説を極力否定に努めている点など興味があります。 あとに幕府の通達など記しておきます
P35

「朝鮮人漂着之トキ長崎へ護送ニ関シ」

大目付回状左ノ如シ
(山口県文書館蔵資料の中より)

朝鮮人浦々へ漂着致し候得は是迄は其所之領
主より長崎奉行え申遣返答相待長崎へ送遣候
所以来は漂着致し候はは早速長崎奉行え申遣
返答不相待引続直に長崎表え送遣其節月番之
老中えも可被相届候右長崎へ遣候節旅中等に
而万一不法成儀も有之手に余り候はヽ駕籠え
〆り等附送り遣候而不苦候
右之趣領分之内浦浦有之候万石以上之面面
は兼而相心得居候様可被達置候
   九月

<口 訳>

朝鮮入が各浦に漂着したときは、これまでは
その地の領主から長崎奉行へ連絡し、その返答
を待って長崎へ送った所、今後は漂着したなら
早速長崎奉行へ連絡し、返答を待たずに引続い
て直ちに長崎表へ送り、その節幕府月番の老中
へも届けるよう。右長崎へ送る際に旅の途中で
万一不法なふるまいがあって手に余ることがあ
れば、,駕籠に押し込めなどして送ってもさしつ
かえない。
右の事がらは、領分の内に浜浦のある一万石
以上の方々は、かねがね心得て居るよう通達し
ておくべき事。
  九月(天明四年)

【注】これは天明4年(1784)長州藩から幕府へこれまでの朝鮮人漂着者護送のしかたを改めるよう提出した御伺書に対して、幕府大目付が各藩へ発した回状で す。伺書は次の通りでずい分やっかいであったようです。
P36

「六月五日漂着の朝鮮人取扱に関する御伺書」

(山口県文書館蔵資料中より)

     御伺書
私領内長門国之儀は海辺多浦々え朝鮮之漁
人是迄数度漂来仕候其節は早速城下え呼越念
を入番人付置長崎奉行所え申達差図有之候上
朝鮮人え家来之者差添長崎表え送遣無相違奉
行所え引渡相済候段度々御用番え御届仕候通
御座候然処長崎表え懸合候往返遠国之儀に付
日数隙取送出候儀を待遠存気遣候故歟於時立
腹之体有之番人共取扱及難渋候儀毎度有之由
御座候就中当春御届仕候内玉江、須佐両浦え
漂着之朝鮮人ども番人之差引をも不相用心儘
に馳廻於市中無作法之儀共段々有之候異国人
之儀は兼而被入御念候御事に御座候処万一異
変之儀出来可仕哉之趣も有之番人共至而致心
配候相成儀に御座候はヽ漂着早速長崎奉行所

<口 訳>

     御伺書(長州藩より幕府へ)
私の領内である長門の国は海辺が多く、浦々
へ朝鮮人の漁人がこれまで幾度か漂着していま
す。その時は早速城下へ呼ぴ寄せ、念を入れて
番人を付けておき、長崎奉行所へ連絡し、指図
が有った上で朝鮮人に家来の者をつきそわせ、
長崎へ送り間違いなく奉行所へ引渡しをすませ
たことは度ぴ度ぴ御用番にお届けした通りであ
ります。ところが長崎表へ連絡する往復は遠国
の為に日数にひまを取り、送り出すのを待ち遠
しく思い気づかう為か、時には腹を立てる様子
で番人どもも取扱いに困っていることが毎度ぴ
あるようであります。中でもこの春お届けしま
した玉江、須佐の両浦に漂藩した朝鮮人どもは
番人の制止も聞き入れず気ままに出歩き、市中
で無作法の事も段々有ります。異国人の事はか
ねて御心を使われておられる所に、万が一にも
間ちがい事が起こるような状態もあり、番入ど
ももたいへん心配している有様になっておりま
すので、漂着すればすぐさま長崎奉行所に連絡
し、

P37
え申達し引続朝鮮人え家来之者差添念を入長
崎表え送出し無相違奉行所え引渡相済候段此
内之通御用番え御届申上候様に仕度奉存候尤
右旅中も朝鮮人ども無作法之作廻等仕心乱之
体に而怪我等可仕哉と相見候程之儀万一有之
候時は〆りをも仕何分無異儀至長崎奉行所え
引渡相済候様に仕度旁之趣奉伺候間御差図被
成可被下候  以上
   六月五日        御名
<口 訳>
引き続いて朝鮮入に家来の者を付きそわせ
長崎奉行所に送出し、間違い無く奉行所に引渡
しをすませるよう、先般御用番にお届けした通
りに致したく存じます。もっとも右の旅の途中
朝鮮人どもが無暴な行動等をなし、乱心の状態
で怪我などせぬかと思われるような事が万一有
る時は、縛るなどして、何分にも間違いなく長
崎に着き奉行所へ引き渡しをすませるように致
したく、この事につき伺い上げますので、御指
図を下さいますよう申し上げます。 以上
   六月五日         藩主名
P38
■苗討(なえうつ)の墓について          品川  晴

弥富下及び谷への橋を渡ると左手の山の中腹、畑岡の杉と呼ばれる所に一基の棄朴な墓がある。碑面は荒れているが、判読すると「御守護」文化四年二月十一日、施主作三右門と刻んである。この墓碑は俗に苗討(なえうつ)の墓といわれ、もと棚田の畦のほとりにあったが圃場整備のため現在地に移されたものである。

古老の言によると、年月も名も判然としな いが、その昔田植の時に一人の娘が稲の苗束を田の面に投げて配っていたところ、田の泥がはねてたまたま傍の街道を通りかゝった武 士の裾にかった。くだんの武士は怒って刀を抜き、手討ちにせんと襲いかゝったので、娘は悲鳴をあげて必死で逃げたが、何分女のか弱い足故遂にこの地まで追いつめられて討ち果されたという。村人たちはこれを憐み、その跡に墓碑を立てて供養してきたが、その後耕地拡張のため墓石を移転しようと、その跡を堀ったところ一尺(30センチ)四方の石が現われ、堀った者はその夜から高熱に犯されて床に伏し、その地に植えた稲も育たなかった。そこで占師に頼み、その勧めによって、地下の作左衛門という者が施主となり、あらためて墓所を定めて鎮魂供養をなし、病気もようやくなお り稲も稔るようになったという。今も地下の人たちは田植前には必ず香華をたむけて後、田の作業にとりかゝるのを習わしとしている。

P39
■馬の墓について          品川  晴

「防長風土注進案」に次のようなことが記してある。

馬取と申は柱古馬を埋め候所にて馬留
申候所 只今文字を誤候由申伝候 此の所に
馬の墓と申大石御座候事

伝によれば、昔鈴野川阿武台の住人に市原某という者がいた。ある時馬を曳いて物を運び、ここまで来て、ひと休みしようと路傍の石(自然石で高さ45センチ、横75センチ程)に腰を降ろしたところ、にわかに馬が苦しみだしてその場に倒れたので、驚いて里人に助けを求め馬を自宅に運んで加持祈瀞をほどこし、ようやく元のようになったという。それ以来「この石は古くから云い伝えられている馬の墓であろう」というので、地下の人々は祭りを怠らず供養が続けられている。

■若宮神社のこと          品川   晴

弥富下及谷をさかのぼって行くと、右側山手の竹やぶの中に墓石があり、若宮神祉と刻まれている。神社とあるが高さ50センチばかりの碑で、その傍に半ば朽ちた木の墓標が立って いる。一見取るに足らぬものゝようであるが、これには悲しい秘話が伝えられている。

阿武町福賀の一角にそびえる伊羅尾山(641米)の東側中腹大平の岩壁に高さ7〜8米、 幅1米余の奥深い裂け目があり、そこから湧き 出る清水は常時14〜5度の清冷さを保ち、渾々として尽きることなく、約5百米下流で三段の滝となり、30米を落下して及谷川に注いでいる。この滝は「道永の滝」と呼ばれ滝つぼの傍に洞穴があって祠や石仏が祭られている。

伝によれば、毛利氏に亡ぼされた陶晴賢の残党が山伏となってこの地に逃れ洞穴には大山祇神、四国石槌山の波切不動明王を祭った。その子孫市高吉之兵衛には「しお」という美しい娘

P40

があり、また黄金の茶釜を秘蔵し洞穴内に隠していたという。

当時の御本陣の主人が娘に目をつけ領主御宿泊の時は召し出して仕えさせ、一方で吉之兵衛が金の茶釜を持っていることを知った主人は、これを暗殺して奪い領主の宿泊の時に飾って接待に供した。娘のしおがこの茶釜を見て、それは父の秘蔵していたものであることを申し立てたので、事の発覚を恐れた主人は、しおが家宝の皿を割ったと無実の罪を着せて近くの山林に連れ出して殺してしまった。 それ以来、吉之兵衛の怨念は地元及谷や中村部落に現れて人々を悩ましたので、部落の住人の長浴増左衛門らが発起して時の社官神野主杖に依頼し岡田七蔵の宅地の裏山に鎮魂して若宮神社を祭った。また、しおの亡霊も御本陣に崇りをなし奇怪なことが、たびたび起こるので、村上弥三郎という者が父の墓石の側に木碑を立てゝ鎮魂した。御本陣においては、それ以後代々塩(シオ)という言葉を禁句とし、塩のことを「オナメ」と呼ばせたという。

なお、しお女の住んだ部屋は明かずの間として開ざされたまゝ使用されることはなかった。

P41
■石州益田戦争実地録     飛松主人 識(増野 勝太)
                             資料提供 伊藤清久

コノ実地録ノ儀ハ光沢も無ク文モ無之、只予ガ履ム処.ノ実地猶眼ノ及バザルハソノ所々ニヨリ伝工聞キ、ソノ余ヲ筆ニ載スト雖モ前後混乱ノ愚文ソノ 悉シキニ至ラザルハ力ノ及バザルナリ、願クハ諸君是レヲ読ミ、洩ルル所ハ筆ヲ添エ力ヲ助ケ給ワバ本懐満足ナランカト云々。

爰ニ徒ニ事ノ理非ヲ案ズルニ、年ニ四季アリ、月ニ満欠アルガ如シトハ実ニコノ事ナランカ、ムベナル哉 太平暫ク打続キ、人民珠玉 ノ美ヲ尽シ、驕リ次第ニ増長シ、昔ハ征夷大将軍家康公ノ末孫家慶両公ノ御代ニ当り、コノ日ノ本ヲ我物ト思シ召シケン、我慢我欲ニ身ヲ保チ、 積悪至ラザルハナシ。恭クモ今上皇帝ノ御尊意ニ背キ、三代将軍ノ掟ヲ破リ、万民塗炭ノ苦シミヲ顧ミズ夷人ヲ懐ケ通商交易ノ利欲ニ泥ミ、巳ガ悪ヲ 覆ワント攘夷ノ意恨ヲ事ニ寄セ、正義ノ長州ヲ罪ニ帰シ、主上御前ニ立チ出デ、罪無キ事モ有ル様ニ、鷺ヲ烏ト云イナセド、自然ト顕ル天道ノ直戒、 道ヲ消シ難ク元ヨリ英智ノ君ナレバ早ヨリソノ儀ハ知シ召シ少モ動ゼヌ礎トハ実以テコノ君ノ事ナラン。
詮方ナク、家慶両公ソノ侭置クモ面目ナク長州ヲ朝敵ト名付ケテ諸藩ヘコソハ触レ流シ、既ニ乙ノ丑(慶応元年、1865)ノ冬、数多ノ人数ヲ催促シ、 長州四境ニ切リ迫リ、芸州(広島)ニテハ問罪使ナド、色々難題申シ付ケ、終ニ長州ヲ半国ニ削リ取ラント策ヲナス。コノ度幕府ノ総督尾張大納言智仁兼備 ノ名将ナレバ、非道ノ征伐トハ思イナガラ、主命ナレバ致シカタ無ク出張アリ、幕府ノ意ヲ立テ、長州ノ趣意モ立ツ様双方程ヨク取扱イ、直グ様解陣アル上ハ 最早ヤ寛大ノ御沙汰モ有ル可シト、長防ノ士民塁ヲ押上、指ヲ折リテ明日カ今日カト待ッ処ニ、夫ニ引替工又々再征申出シ、寅(慶応二年)ノ

P42

六月幕府ノ大軍諸藩ニ下知ヲ伝エケレバ、兼テ有志ノ大小侯 不条理ノ指揮ニハ応エザル故、詮方無ク普代同意ノ賊兵語ライ、防長四境へ押シ寄スル

石州口ヘハ阿部伊勢守勢0.5千余人、軍監山岡十兵衛松平左近将監人数0.5千余人、軍監三枝刑部紀州勢4.5千余人、松原三郎太夫3千余人、安藤飛弾守1.5千余人、 軍監阿部親太郎落合将監両人、益田、三隅ニ充満ス。因州(鳥取)勢3.3千人、一ノ先天野伊豆0.7千余人、一番手津田勇次郎1.2千余人、二番手乾小四郎1.3千余人、 軍監安藤左京浜田へ出張、雲州勢2千余人、一番手役家老大野舎人1千余人、二番手紙屋源五郎1千余人、軍監諏訪左源太同ジ方ヘト向イケル。都合ソノ勢10.8千余人、 家々ノ旗印ヲ立テ、思イ思イニ備エタリ。

長州方ニハ
石州口総督     毛利 讃妓守
御指南役       御神本 親祥
軍監          村田 蔵六
南園隊総官     佐々木 男也
軍監参謀       瀧 弥太郎
参謀          中村 義之輔
育英隊総官     皆川 健三
軍監          日下 牧太
参謀          渡辺 与市
精鋭隊総官     中谷 義重
軍監          深脇 多門
参謀          町田 梅之丞
第四大隊総官    玉木 東一郎
軍監          三戸 市助
参謀          粟屋 半
北第一大隊総官  増野 又十郎
軍監参謀       金子 新蔵
同上          松本 唯市
同一番小隊司令  増野 勝太
三番小隊司令    吉賀 徳三
同十三番士令    三好 半助
同五番小隊司令  大塚 小三郎
大砲分隊司令    山下 小輔
一番大砲司令    品川 良助
二番大砲司令    柴田 筆助
P43

長州方ニハ北口引受ノ総督清末公ニハ先達テヨリ奥阿武郡生雲ニゾ御出張 御指揮役、御神本公ニハ上田万村ヘゾ御出張 ソノ外北口引受ノ諸隊南園隊精鋭隊第四大隊育英隊北第一大隊 追々受場々々へ出張シ、今ヤ今ヤト待受ケタリ。敵兵既ニ高津川ヲ越エ襲来ノ模様ニ見エケレバ、敵ニ先ヲ取ラ レヌ先ニ是レヨリ進ミ、敵ノ無備ヲ打ツベシト手分ケヲ定メ、北第一大隊ニテハ総督増野又十郎、軍監斥候金子新蔵、一番小隊司令増野勝太、三番小隊司令 吉賀徳三、五番小隊司令大塚小三郎、十三番司令三好半助、大砲分隊令山下少輔、一番大砲司令品川良助、二番大砲司令柴田筆助、育英隊三小隊ソノ勢ワズ カニ3百余人 6月15日夜丑ノ刻(午前2時)田万川尻ヨリ乗船シ一同ニ押シ出シ、同16日卯ノ刻(午前6時)石州餅(持)石浦へ着船、同処ヨリ上陸ニテ辰ノ刻 (午前8時〕高津着陣、五番小隊、十三番小隊、大砲隊、育英隊ハ小浜ヨリ上陸、巳ノ刻(午前10時)高津着陣ス。土床口ヨリ南園隊、精鋭隊、第四大隊陸通リ石州横田村へ着陣。敵方ニハ長州勢打ッテ出タルト聞キ、斥候ヲ遣ワシ候処、間無ク馳セ帰リ、長州勢道口マデ出デタリトモ、中々ニ今日寄セ来ル模様コレ無ク 候ト申シケン、総勢安心シ、合戦ハ明ケヨリ先ナラント皆々打チ集マリ、前祝イナドト申シ酒肴ヲ取り寄セ大イニ呑ミテゾ居リタリケル。横田口ヘ進ミシ 長州勢直チニ扇原関門へ押寄セ同所ヲ破リ、物頭岸静江ヲ打取リケレバ、残ル者共我レ先ニト益田ヲサシテ逃ゲ帰リ、片息ニナり、只今長州勢扇原関門へ押寄セ、同所ヲ破リ、直グ様ココヘ寄セ来ルト申シケレバ、敵兵思イガケナク油断シ居ル所ニ既ニココヘ寄セ来ルト聞クヨリ大イニ驚キ色ヲ失イ周章狼敗 (あわてふためく)シ、銘々騒ギ廻リシ中ニ、大砲ハ何方ニテ宣シカラント机崎ヘト志シ引出シ来ル所ニ、敵兵早ヤ同所迄出デタリト聞クヨリ、徳原ニ引キ居タレドモ、ココモ

P44

如何ヤ、中市迄引返シ、ココニモ宜キ所ナク又大橋迄ト登リ下リコロリコロリト引キ廻レドモ、大砲一、二挺置ク処ナク、漸ク万福寺前迄引キ帰ル内ニ、 長州勢ハ益田へ進ミ出テ大橋辺ニ押シ寄セ、福浜(福山、浜田藩連合軍)両勢ト砲戦最中、高津へ廻リシ長州勢 カネテ申合セシ通リ同所ニ有リ合ウ幕府ノ糧米 3千余石ヲ難ナク奪イ取リ、勢イニ乗ジ下吉田迄進ミ出シニ、最早南園隊ノ戦争モ止ミケレバ、ソノ侭高津ニ滞陣ス。ソノ夜福浜ノ両勢益田ヲ払イ、峠山ニ 野陣ヲ敷キ一宿シ、翌17日又万福、勝達ノ両寺ニ進ミ出、長州方ニハ軍監瀧弥太郎ヲ始メソノ外ノ歴々高津軍議相決シ、手分ケヲ定メ、卯ノ刻(午前6時) 精鋭隊ヲ先鋒ニテ南園隊ヲ二ノ見ニシテ横田口ヨリ多田村通リ益田へ押出シ、妙義寺山通リ七尾ヨリ東ノ方堀川迄押寄セ、追々進ミ川手ヲ下リ、大橋ヨリ 泉光寺前へ仕寄リ砲戦ス。敵ハ権現社ヨリ勝達寺前ノ椎山万福寺ヘカケココ彼処ト小楯ヲ取リ打合イタリ。敵方大砲14丁ハ所々へ構エ間合モ無クニ打出シケ レドモ双方ハカバカシキ勝負モナシ、長州方ニハ色々手段ヲ尽シテ戦エドモ、敵ノ要害堅固ニシテ中々今日落スベク様モナク、攻メアグミテゾ居リケル。 兎角ノ内日モ西山ニ傾キケレバ、暮ニ及ビテハ地理ハ不案内ナリ、味方ノ大事最早引退キ又々奇計ヲ廻ラシ寄セ来ルベシト、既ニ退カントスル処ニ、高津へ 廻リシ長州勢時分ハ善シト押シ出ス。一番小隊増野勝太、三番小隊吉賀徳三、十三番小隊三好半助、砲隊ニ砲門臼砲相添工分隊令山下少輔、一番大砲品川良助 二番大砲柴田筆助、清末育英隊二小隊、総督増野又十郎、軍監斥候金子新蔵、斥候松本唯市、ソノ勢ワズカニ180余人備ヲ立テ我劣ラジト押出ス。第四大隊ノ内 三番中隊ハ一手ニ成リ押出ス筈ノ所、北第一大隊ト先後ノ論ヲ生ジ、如何思イケン須子市ヨリ直グ様中吉田通リ益田ニ出向ウ、高津ニハ今朝到着セシ七番小隊 大谷岩

P45

、五番小隊大塚小三郎、育英散兵隊一小隊都合ソノ勢100余人ニ陣屋ヲ守ラセ、夫レヨリ下吉田通リ今市サシテ押寄セ、敵兵ナラント心得伺ウ処ニ、敵兵一人モ見エズ、不審ニ思イ、所ノ者ヲ呼ビテ委細ヲ相尋ヌルニ、今朝五ツ時(午前8時頃)浜田勢3百計リ此処ヲ通行シテ益田へ着陣ト申スルニ付、サラバ益田ト志シ、 今市通リ山ノ平ニ出デ向ウヲ屹度見渡セバ、大手ノ合戦半バト見ユ、大小銃頻リニ鳴リ渡リ、処々焼失ノ模様ニテ、煙遠近ニ立上リ、敵兵ハ秋葉山ニ構工居ルニ付、 如何ニシテ仕寄リヲ付クベキヤ、左右ハ沼田一筋道、土手ハ高ク、下ハ沼田、岸ハ屏風ヲ立テタル如ク、見ルニ足掛リモ無ケレバ、是レレモ叶ワズ、此処彼処ト 小隊ハ残シ、増野勝太只一騎両度迄縄手ヲ行キ戻リ見合ス処へ敵少々砲ヲ打チカケ候内、斥候金子新蔵来リシニ付、何分左右ハ広田ニテ楯ニ取ル物モ無ク 縄手一筋道ニ候エバ、此処ヨリ大砲ヲ以テ敵兵ヲ追散ラスノ外手段無ク、小銃ニテハ中々寄リ付キ難シト申シケレバ、新蔵尤ト同意シ、ソノ儀取リ計イ候エドモ、 元来道ハ狭ク、人数立並ビ、中々急速ニ運ビカネ、勝太ハ待チカネ屹度思イ付キ、何分ニモ秋葉山ヲ乗リ取ラズンバ大功ナシ難シ、運ヲ天ニ任セ、是非麓迄仕寄リ僅ナル小家ニテモ楯ニ取リ打合ウノ外手段無シト銃士ヲ励マシ、縄手ヲ直チニ進ム処ニ、敵兵ヨリ打出ス矢玉ヲ事トモセズ潜リ抜ケ、難無ク同所麓迄押寄セ、ソレニ続キ、育英隊進ミ来リ敵兵ト大イニ打合イ、終ニ伏兵ヲ追払イ声ヲ揚ゲテ同所ヲ乗取リ、万福寺門前ヲ見下セバ、数多ノ甲冑武者色々ニ旗印ヲ立テ控エタリ。 是レ敵兵ナリト思エドモ一応相図ノ旗ヲ揚ゲ候処、彼ノ兵是レヲ受ケケレバ、不審ニハ思エドモ、万一味方ニテモ有ランカト砲発モ相成ラズソノママ打捨テ 又ソノ先へ進ム所ニ、甲冑兵2,30動下々ト来リケレバ、何レノ兵ナルカト声ヲ掛クレバ福山ト答ウニ付、直グ様「打テ」ト

P46

号令ヲ掛クルヤ、岩本木工助真先ニ進ミ来ル兵一人打留メソノ外銘々打筒ニ敵兵残ラズ逃ゲ失セケリ。是レニ気ヲ得テ又々声ヲ上ゲ秋葉山ノ前面ニ至リ、コノ処 ヨリ万福寺、勝達寺、同所椎山ノ三ケ所ノ敵兵ヲ相手ニ大イニ砲発ス。暫ク打チ合ウ内、山下少輔大砲押サセテ山ノ平迄進ミ出デ、車台2丁ヲ此ノ処ニ構エテ、是レ究意ノ勝地ナリ、此処ヨリノ発砲如何様ニコレ有ルトモ此レヨリ近ク進ムベカラズ、無理ニ進ミ万一敵兵ノ襲イ来ラバ由々シキ大事ナリト重畳留メ置ク。 自身ハ臼砲ヲ押サセテ秋葉山ノ西ノ尾ニ上リ発砲ス。敵兵手ヲ分ケ、同山東ノ浴ヨリ北ケ輪通リ後へ廻リ、味方ヲ挟ミ打タントスル所ヲ、育英隊ハ峠山ヨリ遙カニ見テ、遠間ナガラ砲発ス。流石装条流ニテ遠丁相届キ敵兵進ミカネ、遂ニ退散ス。育英隊ノ助砲ナキニ於テハ実ニ危キ次第トハ後ニ思イ知ラレケル。カクテ品川 良助、柴田筆助ハ頻リニ下知シテ大砲ヲ打チ立テケレバ、ソノ響百千ノ雷ノ落ツルガ如ク聞エケレバ、味方尚モ気ヲ増シ戦イケル内、何者カ呼ビケン、大砲ヲコノ 処へ進メト片山ヨリ扇ヲ上ゲテ招キケレバ良助、筆助議シケルハ、コ処ヨリ先ヘハ如何様ノ事アリトモ一足モ進ムナト少輔留メ置キタレバ、ソノ命ニ背キテ進ムモ 如何、又此ノママニシテ進マザル時ハ臆シタルニ似タり如何センヤト評定未ダ決セザル内、頻リニ招キケレバ、是非ナク砲ヲ押シテ進ミケル。是レ一途ニ不案内トハ申シナガラ、分隊令ノ命ヲ守リ、此ノ処ヲ動カズバ、味方ノ手負ハアルマジキニ、譬工臆シタリト申ス者有リトモ、分隊令ノ命ヲ守リオカバ、申訳ノ出来ヌ事ハナカリシナラント後ニコソ思イ当リケリ。斯クテ敵兵防ギカネ引キ足ニ見工、味方弥々気ヲ増シ無二無三ニ打掛ケレバ、三ケ所ノ敵兵器械ヲ捨テ、陣屋ヲ明ケテ 皆一同ニ門ヲ開キテ切ッテ出デ、南園隊ヘト志シ打ッテ掛リシ処、思ノ外精鋭隊へ切リ込ミタリ。コノ時南園精鋭両隊ハ既

P47

ニ引退カントスル処ニ俄カニ敵ノ後ニ当リ砲声頻リニ起リ、折々時ノ声ヲ発シ大軍寄セ来ル模様ニ聞エケレバ、如何ナル事ニヤ、紀州勢ノ助力ニハ無キヤ、 今迄モ六ケシキ処へ大軍ノ助クルアリテハ叶ウマジト云ウ所ニ、何者ノ申スニヤ、大言揚ゲテ呼ビケルハ、是レハ高津へ廻リシ味方ノ勢、今市ヨリ搦手へ廻リ押シ寄セタルト申スニゾ、総勢大イニ力ヲ得、一入励ンデ進ミケレバ、コノ勢デ進ミナバ、敵兵必死トナリ切ッテ出ルハ必定ナリ、万一南園隊へ切リ込マレナバ事難シト密ニ隊ヲ振リカエ南園隊ハ堀川ヨリ上市辺ノ川手ニ進メ、精鋭隊ヲ大橋辺へ向ハセケルニ、精鋭隊ハ今日ノ先鋒トシテ搦手ノ兵ニ一番乗リセラレテハ残念ナリト無二無三勇ヲ振イ万福寺近クエ進ム所ニ敵兵5百余人必死トナリ、一同ニ槍ヲ揃エテ突イテ出レバ、精鋭隊ハ得タリト待チ受ケ筒先ヲ揃エテ打チ出シケレバ、敵兵少シ白ミテ 見エシガ、大勢ノ事ナレバ、中ニ勇ヲ振ッテ矢玉ヲ潜リ味方ノ手元へ進ミ寄り、敵ハ長槍殊ニ甲冑、味方ハ皆素肌、殊ニ太刀バカリナレバ、惜イ哉味方ノ若武者三人此処ニテ打死ス。コレニ気ヲ得テ敵弥々進ミケレバ味方少シ引退キ大橋ニテ防ギケルニ、敵橋ヲ越エント見エケレバ、誰トモ知レズ味方ノ内ヨリ只一人素肌ニナリ、側ニ有リ合ウ大梯子ヲ提ゲ、橋ノ真中ニ出デ、欄干ニ掛ケ横手トナシ、是レニテ敵ハ得越スマジ、進メヤ進メ、者供打テヤト声ヲ揚ゲ味方ヲ励マシ ケレバコレニ気ヲ得テ此処ヲ先途ト打立テレバ、敵兵大イニ打負ケテ陣屋ヘハ帰リ得ズ、峠山サシテ逃ゲ行ク所ニ、十三番小隊三好半助僅ノ人数ニテ前町迄進ム所ニ、ハタト行キ合イ、双方力ヲ尽シ戦エドモ、多勢ニ無勢ナレバ、味方引足ニ相成リ、今市サシテ逃ゲ行ク所ニ、味方ノ大砲縄手ニ進ミ砲発セントスルモ、 味方ハ前ニ 敵ハ先ニ有ル故ニ砲発モ出来カネル内、敵兵矢庭ニ進ミ来リケレバ、詮方ナク大砲打捨テ、弾薬提ゲテ今市サシテ逃ゲ走ル。三好半助ソノ外従兵

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共、ワズカノ細道ニ大砲引キ居テ有ルナレバ通リ難キヲ急ギ通ラントシテ思ワズモ溝手へ転ビ、起キ上ラントスレドモ深田ニテ思ウ様ニモナラザル所ニ、 敵兵山本半弥槍ヲ取リ伸べ三人ヲ手負ワセ、弥々進ミケル処ヲ同小隊内ノ丹蔵狙ッテ打ツ玉ニ半弥腰骨ヲ打貫カレソノママドウト倒レシ処ヲ、丹蔵馳セ寄リ 砲ノ台尻ヲ以テ頭ヲ打チケレバ、砲ハソノママ折レタリケル。ソレト見ルヨリ松本唯一走リ掛リ首ヲバ打テ落シケル故、三人ノ者共危キ命ヲ助カリ、今市指 シテ立チ帰ル。 残ル敵兵ソレニ力ヲ落シ引返ス処ニ、秋葉山西ケ輪ニ控エタル育英隊へ無二無三ニ突イテ掛ル。育英隊一応ハット散ル故ニ司令皆川健三味方ヲ離レ只一騎敵三人ヲ引受ケ戦イシニ、自身ハ太刀、敵ハ長槍、アシラエカネ手疵ヲ負イ危キ所ニ、育英半隊令日下牧太ト申ス者備エヲ立テ盛リ返シ戦イタリ。敵兵側ナル小家へ逃ゲ込ミシ故余儀ナクソノ家へ火ヲ掛ケケル所、火煙大イニ起リ、敵兵堪ラズ逃ゲ出ズ。夫レニ連レ皆川ト戦イタル三人ノ敵兵モ一同ニ逃出ス。峠山指 シテ縄手ヲ北へ敗走ス。夫レト見ルヨリ秋葉山ニ控エタル一番小隊、同山西ノ輪ニ廻リ、此処ヨリ又々大イニ砲発ス。敵兵峠山ニ至ル処ニ、育英隊カネテ此処ニ伏セ居リ待チ受ケタル事ナレバ、 時分ハヨシト砲発ス。敵兵思イガケナク天空ノ上ヨリ鳴リ出シ大イニ周章シ、本道ヘハ通リ得ズ、道ヲ替エテ左ノ細道ヨり伝イ走ル処ニ、三番小隊吉賀徳三カネテヨリ此処ニ控工居リシガ、敵兵遙カニ片山通リ峠山指シテ出デ来リケレバ、完テ味方ヲ取リ巻クナラント心得、半隊ヲ分ケ山ノ後ロヨリ今市口ヘト廻シ自身ハ峠山 ニゾ控工居ル処ニ敵兵散リ散りニ走リ来レバ、徳三俄ニ現レ手繁ク砲発スレバ、敵兵恐レ是レニモ伏兵アリト必死ニナリテ槍ヲ以テ突キ入ラントスレドモ、味方ハ山林ニ控エタルコトナレバ夫レモ叶ワズ、途ヲ失イ辰(東南)ノ口迄引返シ、前後ヲ取リ切ラレ、

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詮方無ク途方ニ暮レテ佇ム処、一番小隊秋葉山ヨリ是レヲ見ルニ猩々緋ニ銀ノ切リ下ゲノ馬遙ニ目立ッテ見エケレバ、何ニセヨ頭立ツ人ナラント心得、遠間ナガラ 狙イ打ニ打チケレバ、敵ノ運ヤ尽キタリケン、幕府ヨリ浜田へ添エシ軍監三枝刑部ヲ打止メケレバ、従兵少シモタマラズ蜘蛛ノ子ヲ散ラス如ク我ヲ先ニト青田ヲ這イ、峯ヲヨジ、皆散リ散リニ逃.ゲ失セケル。斯クテ育英隊ヨリ申シ越ス趣ハ最早敵軍逃ゲ失セタレドモ、味方都合不勢ノ事ナレバ、一先ズ相集リ、又々評定次第押寄セテハ ト申スニ付、尤モト同意シ、育英ノ伏セ居タル峠山迄引取り、総勢一同ニ今市迄引揚候処ニ、味方ノ大砲山ノ平ニ打チ捨テ之レ有リト申スニ付、小隊ノ内ヨリ人数差シ越シタルニ、砲隊人数一人モ残ラズ落チ失セシガ中ニ、近藤木工内カネテ血気ノ者ナレバ、敵ニ追ワレ大砲ヲ捨テ帰リテハ申訳モナキ次第何卒シテ取リ帰ラント只一人立チ 帰リ取リ帰ラントスレド、道ハ狭シ自由ナラズ、如何セント案ズル所ニ、小隊ノ人数相見工、寄リ掛リ取リテ帰ル処ニ、砲隊人数此処彼処ヨリ集リ押シ帰ル。斯テ高津 ニテ本陣ヲ守ル七番小隊大谷岩尾、五番小隊大塚小三郎、育英隊司令申シ合セ合戦ノ模様覚束ナシト七番小隊ヨリ椋四郎、真島卯作両人、五番小隊ヨリ両人、育英隊ヨリ 両人都合六人川ヲ越工、辻ノ宮工斥候トシテ差出シタルニ、真島卯作立帰リ報知ノ趣ハ、只今大合戦ニテ双方入乱レ戦ウ模様、然ル処味方引色ニ相見エケルト申 スニ付、大谷岩尾コレハシタリ、早々人数引キ連レ出デ救ワズンバ叶ウマジト申ス処ニ、引続キ育英隊銃士ノ内、両人戦地ヨリ大息ツキ総身泥ニ染ミナガラ立帰リ、 只今決戦ト相成リ、味方全ク大敗軍ト相見ユトノ報知ニ付、直グ様三司令ト議スル処ニ、育英司令申シケルハ、今少シ出張ニ相成ルコト見合セ候エバ、ソノ内確ナル 報知有ルベシト申スルニ付尤モト同意シ出張ハ先ズ見合セタレドモ岩尾

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イケルハ、味方敗走ニモ相成ラバ、是非コノ処へ落チ来ルベシ、コノ処打捨テ出張セバ、味方ノ兵帰リ来ルトモ如何ニシテコノ河ヲ渡ラン、左候エバ味方ハ帰ル事叶ウマジ、殊ニ総督ノ命ヲ受ケソノ咽首ヲ受合イナガラ万一敵兵襲来シ本陣ヲ奪イナバ申シ訳ナシ。差シ当リ兵糧ノ仕送リモナラザレバ、眼前味方ノ飢渇トナリ、 何レニモセヨ総督ノ命アル迄コノ川土手ヲ楯ニ取リ一防ギ致シ、帰ル味方ヲ渡サント小船数多川中へ浮べ味方帰ラバ早々渡スベシト申付ケ、直チニ備エヲニ手トシ、 散兵ヲ作リテ待チ居タル処ニ、味方ノ手負俵ニ乗リ肩ニ寄リテ追々帰リ来リシカバ、市中ノ男女共味方ノ敗軍相違ナシト思イケン、何時ノ間ニカ一人モ見エズ逃ゲ隠レタ リ。七番小隊半隊令椋四郎兵糧場へ来リ見ルニ、今迄多人数入リ込ミタル飯焚ノ者共一人モ見エズ既ニ兵糧ハ運バズテハ相叶ワズ、大イニイラツテ廻レドモ、 詮方ナク仁王立ニゾ立チタリケル。斯ル処ニ砲隊ノ内ヨリ堀助四郎立帰リ片息ニナリ申シケルハ、味方敗軍ニ相成リ候、早々御出場アリテ御救イアリタシト申シケレバ、 岩尾申シケルハ、サモ思エドモ肝要ナルハ場所引明ケ候ハ覚束ナクト申ス内、フト思イ付キ何分コノ上乍ラ早打ヲ以テ飯浦迄申シ越シ、同所ノ人数繰リ上ゲシテ之ヲ守ラセ、 コノ間ノ処ハ残リノ両小隊へ任セ置キ、我ハ早々救出スベシ、彼等地理ハ不案内ノ事ナレバ手引(案内)致スベシト申付ケ候処、助四郎申スハ至極労シ候エドモ手引ノ 出来ヌ様ニモ之レ無ク、コノ事ニ候エバ如何様ニモ御手引仕ルベク、御仕度アレト申スニ付、岩尾ハ本陣ノ処西小隊へ任セ置キ人数ヲ調べ、既ニ打ッテ出デント助四郎ヲ呼 ベドモ何時ヨリカ行方知レズ隠レタリ。詮方無ク不案内乍ラ川ヲ渡リシ所ニ、一番小隊分捕リ品トシテ具足箱一荷持チ帰リケレバ、ソレニテ少シ安心シ、味方敗軍ニモ相成ラバ分捕リナド致スベキ、定メテ味方ノ勝利ナラント近クナルママ

P51

ニ相尋ヌルニ、察シノ通リ味方打勝チタリト答工総軍大イニ安堵ヲナス。夫レヨリ具足箱ハ高津へ持チ帰リ候処コレモ又々力ヲ得、市中ノ者迄大イニ喜ビ、 只今迄一人モ相見エズ逃レ隠レ候者共潮ノ如ク立チ帰リ、元ノ高津ニゾナリニケル。斥候トシテ辻ノ宮へ差シ出シタル真島卯作報知セシハ、辻ノ宮ヨリ高津 迄凡ソ17、8丁モ有ルナレバ高島筒ノ日ニ輝キタルヲ刃カト見、又砲隊ノ崩レタルヲ総崩レカト見タルモ、皆始メテ戦争ニ出合イタル者ナレバ見違エタルモ理ナリ。又育英隊少々隊ヲ乱シ、殊ニ司令皆川見エザレバ、打死トモ心得、ソノ余ノ味方モ同様ト只自身ノ落着キヲ報知セシモ不案内故ト思ワレケリ。 旦ツ又砲隊ノ内堀助四郎申シカエリシハ、砲隊残ラズ追崩サレ、皆一同ニ今市迄逃ゲタル事ナレバ、都合味方模様ハ知ラズナガラ、大砲捨テ置キ帰リ、申訳ナキ故斯クハ申スナラン。

後程岩尾ヨリ手引ヲ申付ケシ節、受ケ合イナガラ行方知レズ隠レシハ、不案内トモ申サレズ、臆病神ノ崇リナラント後ニ思イ合ワサレケル。斯クテ大谷岩尾 ハ小隊ヲ指揮シテ下吉田迄押出シ申候処、味方ノ総軍備エヲ乱サズ手負ヲ助ケ、静々ト引退キ、下吉田ノ庄屋ニテ兵糧用意申付ケ、同所西福寺ニテ総人数相調べ少々見合セ候内、三番小隊吉賀徳三同所辻ノ宮へ斥候押エ兼帯ニテ差出シ置キ候処、薄暮頃ニモ相成リ、吉田縄手ヨリ敵兵寄セ来ルトノ報知ニテ、ソレト云ウ ヨリ鉄砲オッ取リ今ヤ今ヤト目ヲ配ル処ニ、物ノアイ口ハ分ラネド、縄手ヲ横ニ数百人押シ来ル。敵カ味方カト声ヲ掛ケレバ何タル返事モ無カリシカバ何ニセヨ 空砲少々打チテ見ヨト云ウヨリ、手ン手ニ発スル砲声暫シ止マザレバ、敵ト見エシハ味方ノ大隊ニテ、思イガケナキ砲声ニ之レハ何事、コノ 度モ敵カト周章シ銘々土手ヲ楯ニ取リ、夫レナルハ何レノ勢ナルヤ、我レハ長州方ノ大隊ナリトノ声遙カニ聞エケレバ、直グ様砲ヲ止メ、委細相聞コエ候、

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コレナルハ矢張リ長州方ニテ候エバ御気ヅカイ有ルマジクト大音揚ゲテ名乗レバ、武者散動ノ音ニ紛レテ聞エズ。折リ節一番小隊司令社参ノ折ナレバ手ニモツ提灯差シ上ゲテ、カネテノ相図ニ打振レバ大隊モソレト見テ大安堵ニテ静リケル。

福浜(福山、浜田)両藩今日ノ合戦大イニ打負ケ、本意ナクコノママ帰リテハ主上へ申訳無キ次第、何卒シテ今一度益田迄立チ出デ手負ノ行方モ見届ケ度シト心掛ケノ者共、夜ニ紛レ峠山迄立帰ル折柄、思イ掛ケナク先ノ辻ノ宮ノ砲声ニ驚キ、スワ合戦ノ最中ナリト肝ヲ消シ色ヲ失イ我ヲ先ニト逃ゲ失セケリ。

又今日ノ合戦ニ敵兵心元ナク思イケン、紀州勢迄早打ヲ以テ申ス趣ハ、何分共敵兵強ク相見エ候条、早々御出馬相成リ、御助力有ルベシト申シケレバ、安藤(飛弾守)申スニハ未ダ器械ノ運方モ相調ハズ候エバ、運ビ次第 早々出張スベク申返シ候内、追々福浜ノ両勢待チカネ又々助力アルベシト申越シ候エドモ是レ又同様人夫不足等トテ出馬ニ相成ラズト申シ、兎角ノ内福浜ノ両勢弥々事迫リ又々助力申遣ス処、ソノ内紀州勢追々馬ニ乗リ備エ動カス模様ニ付、定メテ出馬候ハント使ノ者大イニ気ヲ得テ急グ処ニ、左ハ無クテ紀州勢ハ逃ゲ去ル体ニ見エ候故、安藤馬前ニ立寄リ、コレハ何事ニ候ヤ、福浜ノ両勢ハ今朝ヨリ必死トナリ力ヲ尽シ戦ウ処ニ、敵兵強ク、ソレ故両度迄御助力申シ越シ候エドモ一向ニソノ儀無ク、只今ニテハ一戦ニモ及バズ御逃ゲ支度シ給ウトハ如何ナル事ニテ候ト問イ詰メラレテ、流石ノ安藤モ一句ノ返答モ無ク、 弥々色ヲ失ッテ只馬ヲ打テ逃ゲ去リケレバ、3.5千ノ従兵共、主ニ劣ラズ命ハ物種逃ルガマシト我レ先ニ落チ失セケルコソ見苦シキ有様ナリ。斯クテ味方長州勢ハ下吉田ヨリ大イニ勇ンデ高津ヲ指シテ立チ帰ル。大イニ諸軍ヲ労ライ、直グ様斥候松本唯市早打チヲ以テ田万本陣へ戦勝ヲ報ジケル。又南園、精鋭ノ

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両小隊ハ敵ノ明ケ捨テタル陣屋ニ乗リ入リ、多数ノ器械ヲ分捕リ、所々ノ放火ヲ鎮メ民人ヲ愛シケル。斯クテ飯ノ浦ニハ味方敗軍ノ報ヲ聞キ、直グ様仏坂迄 押シ出シ候処、早速繰リ上ゲノ儀ヲ申シ来リ、六番小隊小国正助、十番小隊松原齢助、都合一中隊高津ヲ指シテ急グ処ニ、途中ニテ斥候松本唯市ニ行キ合イ 味方ノ勝利ト聞クヨリ大イニ安心シ夫レヨリ.静々ト夜五ツ時(午後10時)高津ニゾ着キニケル。松本唯市ハ弥々道ヲ急ギ、夜五ツ時田万本陣ニ着キ、今日戦争 ノ模様味方大勝利ノ委細言上スレバ、総勢始メテ安堵ノ思イヲナシケル。斯クテ今日ノ戦争ニ味方討死3人、手負4人トゾ記シケル。敵方ノ討死30余人、 ソノ外手負多数ノ事ナレバ、弥々何某打チ止メシト申ス事夫々ハ分ラネドモ、高津勢ノ手ニ多勢打チ止メケリ。

コノ度ノ合戦ニ味方勝利ヲ得タリシハ、偏ニ御両大守ノ尊意天道ニ感ジマシテ、防長二州ハオロカ諸藩迄モ押シ移リ貫徹ノ余リ、両国(防長)ノ士民拳ヲ握リ切歯ノ折リナレバ、(前回ノ長州征伐ニ屈シテ益田親施他三家老ガ切腹シタ)、コレモ砕身粉骨ノ働キ故、一時ニ勝利ヲ碍タリケル。中ニモ北第一大隊、他ニモ劣ラヌ大功ハ、全テ銘々ノ働キノミナラズ、元来益田ハ御神本(益田親施切腹後謹慎ノ意カラ一時元ノ姓御神本ヲ称シタ)家ノ旧領ニシテ、殊ニ敵兵立テコモリタル三ケ寺ハ先霊安置ノ菩提所ナレバ、 先霊モ嘸ヤ無念ニ思シ召シケン、夫レノミナラズ、破魔八幡宮、龍蔵大権現、春日大明神ハ御神本家ニテカネテ軍神守護ノ三神トカネテ崇メシ事ナレバ杯カ 味方ノ勝利ヲ守リ給ワザラン。殊ニ高照神君(益田親施公)ハ、防長二州ノ為ニ身ヲ果タシ、正義ニ凝リタル魂ノ隠ナラバ、味方ノ指揮ヤナサシメラレケン、誰ガ仕カウトハナケレドモ、掛ケ引キ自然ト利ニ当リ、呉孫(中国歴史上ノ軍師)ニ劣ラヌ妙策ニ、敵ノ要地ヲ攻メ破リ、終ニ大功ヲ現ワセシ

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是レ人ノ所作ナラズ、只神仏ノ擁護ニテ、自然ト勝タセシムルモノナリト、先ズタノモシク思イケリ。

後記  伊藤与吉  (口訳)


コノ著ハ旧益田家ノ家臣デ、当時北第一一大隊一番小隊司令増野勝太翁ノ記シタモノデアル。姓ハ平氏、通称勝太、諱(死後オクラレタ名)知象飛松ト号ス。 ソノ先平知盛ヨリ出ズ。沈毅ニシテ度量ガアリ、慶応2年寅6月、幕府ノ長州再征四境ノ役ガ起コルヤ、翁ハ石州口引受ケノ内北第一大隊第一小隊司令トナリ、 益田口ニ奮戦シテ名ヲアゲタ。浜田軍監(橿山、浜田連合軍ニ幕府カラ派遣サレタ)三枝刑部ヲ打チ取ッタ時ノゴトキハ、領主益田親祥公カラ御感状ト清重作ノ 一刀ヲ拝領シタ。翁ガ老後筆ヲトッテ飾リケナク実践ノママヲ記シ、突喚ノ声ガ聞コエルヨウデアル。私ハ思ウ維新開明ノ原動力ハコノ四境ノ役ガ基礎トナッタ ノデハァルマイカ。デアルナラバ翁ノ如キハソノ大事ナ要素トシテ論ゼラレルベキデアロウ。一言付ケ加エテコノ遺著ヲ抜書ス。

「温故」第1号(完)

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