リレー随筆

「月番日記」ができるまで
城一 昭人
平成22年09月

TOP PAGEへ 随筆目次へ

 「須佐町郷土史研究会(郷土研)」は昭和53年11月に発足しました。
「温故」発刊はは55年春からです。歴史を勉強したことがなく、わからないことは辞書で知る「つまみぐい」ですから行き詰まります。家には経本や仏教文書、忠臣蔵などの読み物の写本がありました。 しかし歴史資料はなにもありませんでした。明治5年の火事で焼けたのでしょう。中学生の頃に、ここはむかし家があったところ、と母が教えてくれたのが唯一須佐に関する知識でした。ずいぶん年を取ってから、 須佐は城下町というがほんとうだろうか、三蔭山神社の建物は何を意味しているのかなど、わからない事ばかりをメモして、帰省の時に松尾龍先生をお訪ねしました。ちょうどそのとき「郷土研」の構想があってお話を聞き、 その場で入会しました。関係者以外ではおそらく最初の会員だろうと思っています。

 帰省の度に公民館へ行きました。まだ資料館もなく、益田家の歴史資料が日本一などということも知りません。なにかあるだろう、須佐や益田家に関する書き物、先祖に関する書き物はないものか、 許可も得なかったように思いますが、ごった積みになっている部屋で、図々しくキャビネットなどを開いて探しました。油紙に包まれたものがあり、開いてみると厚さ20cmくらいの厚さに束ねた「月番日記」があったのです。 100年目に風が入ったのかなと思いながら開いてみると先祖の名前がありました。嬉しかったです。須佐に益田家があって、そこにいた人たちが確かに動いていたのだと確信が持てたのです。 すぐ写真を何枚か撮りましたが、これも許可は得なかったでしょう。無知だったのです。古い資料、古い世界に対する礼儀を知りませんでした。翌年また帰省して全部撮影しました。それらを解読して、 平成3年に「温故」として発行させていただきました。ありがたいことです。日記の研究はいまも続きます。ここで行儀の悪かったことをお詫びします。

 おじいさんたちに会って話を聞きたい、そう思って読んでいると、当時の錚々たる人物が、杉の垣根から出てくるような気がします。松下村塾の連中が須佐に来て、「気」を与えて目覚めたと言いますが、 400年前に石見からやってきた一つの藩です。戦国時代以前から戦い続けた強者ばかりです。維新の士が出ました。そんな人物誌を読めば、高山や青い海、北風にさらされて耐える海洞や屏風岩が 、いかにもよく似合います。

 松尾先生にお会いしたとき、唐津焼の茶碗が3つ置いてありました。手にとって見たのでしょうか、それは差し上げたいが水が漏るんだよ、と言われ、そんなものかと思って何も感じませんでした。 いま思えばあのとき頂戴しておれば良かったなぁと、いまも大柄な先生を思い出すのです。後に、兄嫁の実家が先生とご縁のあったことを知りました。

 定年後は文化を築くのが仕事であると聞きました。ふるさとの研究もよし、散歩でゴミを拾うのもよし、読書も文化、元気に過ごしましょう。

 来月は高嶋様にご寄稿を御願いします。

Copyright(C)須佐郷土史研究会