随筆

随想 ドリアンの味覚
増野  亮
2007年4月1日

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昭和50年代の後半に足かけ5年間を、シンガポールで暮らすことがあった。 借家コンドミニアムの隣家は、中国系Kさん夫妻が住んでいて、幸いにもたいへんな親日家であった。 さらに都合の良いことに奥さんの方は日本語もうまかった。
「よかったら、今晩食事にきませんか」
単身赴任の身にとっては、嬉しいお招きである。この日、K夫妻の知り合いが、ドリアンの産地マレーシアから新鮮なドリアンを手土産にやってくる。隣宅の日本人に、 素晴らしいこの味を堪能させてやろうという有り難いお誘いだ。

『ドリアンは果物の王様』といわれる。毎年6月から8月にかけて、かっての激戦地ブキテマ高地から中心市街へ延びる道路脇に、裸電球を吊して促成の屋台が並ぶ。 ひな壇風の陳列棚にフットボールほどの濃緑の果実がずらりと並ぶ。ハリネズミのように長い棘(とげ)で覆われている果実は、お世辞にも味覚をそそる代物とは言いにくい。 もの珍しさから、車を停め近くでしげしげと見ていたら
「ミスター ヂスワン、ベリーナイス」
店番の男が、わざわざ包丁で割れ目を入れ、真剣な顔で果肉の芳香を嗅ぐ。すぐに右手の親指を上に立て、確認するようにうなずく。
「ハウマッチ」
「12シンガポールドル」(当時の邦貨で千円)
「ノーサンキュウ」
「じゃ、いくらなら買う?」
「ノー ネクスト タイム」
興味はあったが、その時は、試食する気にはならなかったのである。

K夫人心づくしの和食を食べ終えると、皆で大皿に山盛りの剥き身ドリアンを囲む。厚い棘皮から取り出されたクリーム色の実は、みずみずしくて食欲をそそる。
「マレーシアのドリアンは、味のよいものが多いのです。産地で特によいものを選果して、こうして持って来るのです」
私は、小振りな”あけび”くらいはある一つを頬ばってみた。
実に 複雑な味覚が、舌上を踊った。アイスクリームとニンニクにチーズ、これらをこね合わせたコッテリ味とでも言えばいいのか。天然によくもまあ、こんなに微妙で濃密な味が出来上がったものだ。 私は少なからず驚いた。薦められるままに五つ六つ食べたが、今度はニンニクに似た強烈な味が次第に鼻についてきた。
後で知ったのだが、ドリアンを食べてバスに乗るとする。とたんにバスに乗り合わせたみんなが
「ははあ、今乗ってきた人、ドリアンを食べなすったネ」
と知ってしまうほどすさまじい臭いである。だからホテルでは、この臭いに馴染みの薄い外国人客を考慮して、ドリアンを持ち込ませないとも聞いた。

「どーぞ、どーぞ」
K夫人が、またにこやかに薦める。 喜んで受けるのが、客人の礼儀。
「では」
とまた、3ついただくと、さすがに最後のころは辟易してきた。
「遠慮なく食べてくださいョ」
「先ほど食事をいただいていますから。でも思ったより匂いが強いですね」
「あっ それならこれはどうかしら」
善意のかたまりのようなK夫人は、今度は冷蔵庫の中からほどよく冷えた別のドリアンの盛り皿を取り出してきた。

ちゃんとした中華飯店へ行くと、食事中そばに立つウエートレスは、客の飲む中国茶がグラスにいつも満たされるように気を配る。 このことに象徴されるように、 客が大いに食べたり飲んだりしてくれると、ホスト側も満足するという意識が、中国系シンガポール人には強いように思えた。『食は天国』という言葉も飯店でよく見かけた。 古来”食べ物”に寄せる中国の人々の情熱はすさまじい。会社の敷地にいたニシキヘビやイグアナを捕まえ、美味さを強調する職員には驚かされたことである。

シンガポールは赤道に近い常夏の地だけに、冷えたドリアンはのど越しがよいばかりでなく、あの強烈な匂いがほとんどない。複雑重厚な味だけが味覚細胞を満足させてくれる。 また、二つ三つ食べてしまった。

翌日会社で、終業後のドリアン・パーティを提案したところ、現地スタッフの目が一斉に輝いた。品選びなら誰々がうまいとか、搬入役、盛りつけ役とたちまち分担が決まる。 仕事もこのくらい張り切ってやってくれたらと苦笑する。
考えてみるとドリアン1ヶが若者の日給に当たる。収入の少ない家庭ではそうそう食べられる果物ではなかった。熟れた美味いものを当てようと包丁で切れ目を入れては、色を透かし見たり嗅いだりする。 あれでよく「傷物にするな」という怒声が飛ばないものである。このあたりの大らかさが、南方生活全体をのんびり気分にさせて居心地をよくしてくれる。面白いことに、このドリアンは酒類と合わない。 もしドリアンを肴に一杯きこしめそうものなら、胃の腑がどんでん返しになり、居たたまれなくなること必定と、邦人の友が忠告してくれた。発酵するらしいのである。

それからも何回か食べた。冷えたものではなかったが、食べるごとにますます美味さが増してきた。『うまさでドリアンの右に出る果物はない』という自説に対し、邦人仲間では積極的な賛成意見があまり聞けなかった。 理由はかんたん、ドリアンの初物が逸品であったか無かったかが、以後の品定めを大きく左右したに違いないと秘かに同情を禁じ得なかったことである。

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