リレー随筆

須佐の思い出
佐藤 省吾
平成22年8月

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 私は昭和15年8月に中国の北京で生まれました。生後1年足らずで実母が亡くなり、父は私を連れて一旦須佐へ帰り、父だけ北京へ引き返す積りでいましたが、祖母(父、猛の母)に猛反対され、 そのまま須佐に留まることになったらしい。

 父は昭和16年須佐町役場に奉職し、私は祖母と父に育てられることになりfました。私にとって北京は生まれたと言うだけで、この土地についての記憶は一欠片(ひとかけら)もありません。私は4才までの記憶は 全くもっていないように思います。

◇ 玉音放送 ◇
「今日、ラジオで大事な放送があるから」と、祖母に手を引かれて八幡さま(松崎八幡宮)近くの忠魂碑のところで聞いたのは玉音放送でした。皆地べたに頭を押しつけて聞いていました。 私には放送内容は解りませんでしたが、聞き終わった祖母の口からは「やれやれ、やっと終わってくれた。終わって良かった、良かった…」でした。

◇ 進駐軍のサンタクロース ◇
 旧町役場傍の隣保館の一室を使用した保育所では、進駐軍の兵隊さんがサンタクロースになって訪ねてきました。X'マスプレゼントはチョコレートとクレヨンでした。
 又、この保育所で「日本は戦争に敗けて、こんな惨めな姿になっていますが、これからの日本を背負って立って行くのはあなた方なんですよ。あなた方しかいないんですよ」と浄蓮寺の 和尚さんが説教されました。

◇ 須佐湾大花火大会の起源 ◇
 昭和28・9年当時の市町村財政の窮状を打開するため、町村規模の合理化・適正化が計られ、昭和30年4月1日、須佐町・弥富村が合併して新須佐町となりました。これを祝し花火大会が 開催され 、以後「須佐湾大花火大会」として発展的継続がなされてきました。

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 来月は城一昭人様にご寄稿を御願いします。

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