リレー随筆

行間に滲む望郷の思い
増 野  亮
平成19年5月

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 家に残る曾祖父知象宛の竹川在幸書簡を眺めながら、司馬遼太郎の望郷をテーマとした、薩摩の陶工の 物語を思い出した。遠い身内のことながらそこはかとない故郷を慕う哀愁のような想いを感じるのである。 以下、この古手紙に補足を交えつつ、筋書きを追ってみたい。

 この手紙の初めの舞台石州浜田を本稿のプロローグとして少し述べておきたい。この地はもとは益田七尾城を拠点とする益田藩領の一部であった。 しかし慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦で西軍が破れ、当時大阪城にいた総大将毛利輝元は防長二州に削封されることとなる。 西軍に加わった益田氏も益田領の封を解かれ、替わって伊勢国松阪藩主の古田重治が浜田に乗り込み、この地に新たに城を築き領内を統治した。
 実はこの交代劇の直前、家康から内々に石見領七万石を益田氏にそのまま安堵するので、毛利と手を切れという引き留めがあつた。(牛庵公御覚書)だがこの少し前、 大内氏滅亡の際に大内と姻戚関係にあった益田家であるにもかかわらず、毛利氏が益田氏に寛大な態度を見せたことから、好意に恩義を感じた益田元祥は、家康の申し出を断り、 敢えて長州毛利領の中の自領須佐を中心とした一万二千石を選択した経緯があった。
 削封された毛利家同様に、益田家でも家格に比べ多すぎる家臣を狭くなった場所に抱え込んだため、家臣それぞれも厳しい扶持高となった。 幕末には折から天候不順による凶作に加え、毛利藩永代家老という重責に伴う家中数度の軍事遠征で、益田家の家産は底をつき、遂には財政破綻に陥った。 家臣たちは減知につぐ減知(馳走米)で実収は家禄の四分の一という有様となり困窮を極めることになる。

 話しは浜田にもどる。新任の領主古田重治は、ここ亀山城で、五万四千石の外様大名として君臨するも、次の重恒の代になって、原因はいろいろ取りざたされているが、 江戸藩邸で、藩主自身三人の重臣を斬り殺す「古田騒動」を引き起こした。このため慶安元年(1648)、重恒に嗣子が居ないことから、古田の家は、お家断絶となった。
 そこで翌慶安二年、播磨国山崎藩の松平康映(やすてる)が新たに浜田に入城した。この家はこの地で五代続いたが、宝暦九年(1759)、下総国古河(古河市)に転封となり、 替わってそれまで古河にいた徳川四天王の一人、本多忠勝の嫡流本多忠敞(ただひろ)五万石が、浜田の亀山城に入り、ここで手紙の差出人在幸の実父元右衛門尉が、 家臣として登場してくるのである。本多氏は、明和六年(1769)まで三代が浜田の亀山城主として在府したのち三州岡崎へ転封となった。ここは家康の生まれたところである。

 昔から、地頭や荘園領主のような地方生え抜きの大名家が転封するときは、墓守のためか、過渡的な秩序維持のためか、親族筋の家をこれまでの土地に残す習わしがあったと言われる。 主立った家臣の場合も同じようなことがあったであろう。残された家は新しい殿様に仕えるか、村の有力者として農業で身を立てたことであった。

 曾祖父知象の二代前の知方には、図のように家督を継いだ長男のほか、長女、次女、次男、三女それに三男の元右衛門尉という兄弟三人姉妹三人が成人した。 次男は同じ家中の品川家の養子となり、姉妹たちもそれぞれ他家へ嫁した。残る三男もどこか適当な身の振り方を探していた。
 武家社会では、俗に「二〜三男の冷飯食い」という言葉があるように、徳川幕藩体制が整うにつれ、世の中から戦さが消えて二,三男の新たな仕官、 つまり武士としての新たな就職口はほとんど無くなってきた。一人前となるには、他家へ婿入りするしかない。
 限られた益田家中に適当な婿取り口がそうそうあるはずはない。そこへ石州浜田の家臣が婿を探しているという咄が伝わってきた。 さきほどの、残留親族あたりからもたらされた話ではないだろうか。
 当の三男元右衛門尉にしてみれば、関ヶ原の敗戦いらい心の中で白眼視してしていた幕府譜代への仕官である。同じ家中の一族はもとより、友人たちとも生き別れるくらいの決意で 郷里須佐を後にし、養親古沢の家を訪れたことであろう。迎える家でも、家風や慣習・言葉の違う外様の陪臣である他家からの婿取りには、結婚する婦人はもとより家族も、 不安があったに相違ない。
 だが、案ずるより産むが易しである。古沢家の嗣子となった元右衛門尉の心がけが気にいられ、本人も「一所懸命」に励んだので、すぐに本多中務大輔の中小姓にとりたてられた。

 前述の通り、まもなく本多家が浜田から岡崎へ転出となったので、三河国岡崎城の勤めに変わり、その後順調に仕え、ついには広間番席賄方兼役で三十五人の配下を指揮する身分となった。 元右衛門尉の享年は六十八才。文化八年(1811)の他界である。岡崎城に近い大林寺に養親と共に葬られた。
 亡くなった元右衛門尉には、二人の男子がいた。不幸なことに、古沢家の家督を継いだ長男大次郎は病弱で引きこもりがちであったが中年で死去。その子元右衛門も、生来の病身で体が弱く、 在幸自身もこの七〜八年、会っていない。次男である自分にも勧める人物があって、同じ本多家の家臣竹川家の婿養子になり、名も竹川安大夫在幸となった。
 古沢家の家人となった元右衛門尉は、古沢家に多い九郎大夫と改めたが、なにかにつけ育った須佐の美しい高山と入り組んだ海、清冽な川。そこで過ごした少年時代の生活、 藩校育英館での薫陶などを回想し、故郷の兄弟姉妹や親類友人などを懐かしんだに相違ない。そして願い出てついに二度、家郷須佐を訪れたことである。
『老境の身になられても「もう一度、増野の実家を訪ねたい」と周囲に漏らしていたが、その願い空しく他界された。』
 余談になるが元右衛門尉が、須佐に墓参がてら帰郷した二回の内一回は、残された他の史料から寛政十一年(1779)と判る。このとき荻野流火縄銃書を持ち帰り、 若い甥の知茂がそれを写し取らせて貰い、この口伝も元右衛門尉から伝授されたと書き残している。後日知茂が益田家へ試し打ちの申請をしているので、 須佐ではまだ知られていない武術であったかと思う。この銃術は更に知経、知象と子孫へ家伝せられ、のちの四境の戦いで知象は、益田家中の銃術の指導にあたり、 自身勲功もあげるという後日譚がある。在幸はこれらの伝承を親戚から聞かされていたかどうか、実家のために父が武芸書を持ち帰ったことは知らされていなかったという気がする。
この荻野流銃術は、上州荻野六兵衛安重(1613〜1690)が少し前の寛文期に編み出した流派で、子孫が開いた大阪での塾には各藩から多くの武士が入門したと言われる。

 『尊君(知象)には、異国船の浦賀来航事件のため、主君のお供として今春浦賀表へ出張なされ、小生を訪ねて本多家日比谷邸裏門へ参られた折りは生憎の外出中で、 帰邸後龍土桧の長州下屋敷を訪ねたが、今度は逆にご不在でお目にかかれず、あれこれ咄など是非にと存じていたので誠に残念に存じ候。 ただご兄弟様にはお会いできお咄も出来たことは嬉しかった。道中岡崎は森川の弊宅へお越しくだされ、拙者江戸に居り、倅、七左衛門がお相手いたしましたが、故元右衛門尉のことは 当人あまりよく存ぜず自分の不在が如何にも残念で悔やまれる。
 今回浦賀から江戸に参られたならば、積もるお話もいたしたいものと楽しみにしていたが、急遽この八月にご帰国、帰途岡崎の伝馬町銭屋(格子戸のある商家が現存する)へ止宿と聴き、 姉花大沢町の家内三右衛門(人物不詳)を行かせ、ゆっくりご歓談と聞き及び何よりと存ずる。そのおり、岡崎で亡き父を祀る大林寺へ参詣いただいた由で、有り難く存じおり候。
   私は、七〜八年前から江戸屋敷へ出仕となっていたが、昨年ご主君益田越中様、途中岡崎へお立ち寄りの折り、連尺町の違筋屋源七の方へ止宿の際、、 お供の栗山半左衛門様(知象の親戚)と直接面会、一日一夜歓談云々・・』とある。
 また、その後庄原元郎様(萩本藩士ヵ)と本尾左中様(知象の妻の兄)が岡崎で止宿の節、ゆっくり咄をすることができたとこの手紙に述べてある。驚いたことにその際、土産として、 雪舟画鶴霞山水と萩焼茶碗をいただいたともある。本物の雪舟画なら大名クラスが持つ宝物ではなかろうか。藩もしくは益田家から、主君本多家への贈り物と考えられる。 もっとも萩藩や益田家でお抱えの雪舟派の絵師の作品なら、本尾家の進物と考えられないことではない。しかしそうなら等顔・等幡・等原などの絵師名が書かれていそうなものである。 あるいは弟子たち雪舟派を含めて雪舟と雅称を用いたものであろうか。萩焼茶碗も貴重品だが、すくなくともこれは、在幸当人への進物であろう。家宝にしていると述べてある。

 手紙はこうして増野家の家人だった父の思い出を多く語る反面、自分の身辺については、述べるところがすくない。
『七〜八年前に岡崎を離れ、今は江戸城の日比谷御門内上屋敷に住んでいる』
とのみあるだけである。
 幕府譜代の臣として、自分の身辺を語ることは、幕府の内情を外様に流すという憚りからする自制と、寡黙で慎ましい心情の人柄とも思える。同時に『李下に冠を正さず』の譬えもある。 心にやましいところがなくとも、他人が本状を見た場合のはばかりに配慮したことでもあろうか。
 手元にある嘉永二年の江戸城図を見ると、桜田門を東に延びる日比谷堀のそばに毛利大膳大夫の上屋敷がある。そのすぐ隣の日比谷御門を挟んだ対照の場所に本多中務大輔の屋敷がある。 これら有力な譜代大名家は、特定の外様大名の対幕政顧問的な役割を公式に果たして、なにかと相談にのり助言を行っていた。江戸城に近い譜代本邸詰めとなれば、相当の地位を想像させられる。 前述の岡崎の止宿先での長時間の身内同志の内談とあるが、偶然の出会いというより、場所柄が考えられている。そういう身分であろう。
 さらにもう一つ、知象が、藩の浦賀警備で、主君益田侯の供としてきた由の手紙を受け取り、ぜひお会いしたい、と考えていたが、急に知象が帰国という追っかけての知らせを受け、
『今後年に三度くらいは親類として相互に安否を知らせあいたいもの。ついては今後もし江戸の萩藩邸へ来られた折りは、積る咄もぜひしたいので、知らせてほしい。 萩藩邸の中原伴治氏がすぐ自分に知らせてくれる手はず』
とも書かれている。恐らくこのたび知象が泊まった龍土桧の長藩下屋敷(元防衛庁、今話題のミッドタウン東京)の藩士であろう。個人的な依頼を大藩の藩士に頼める地位というものを 考えずにはおれない。

この手紙が書かれた十月十日は、ペリー艦隊四隻が江戸湾に姿を見せた最初の年、嘉永六年(1853)かと思う。
この頃の幕府と長州の関係は、共通の国際的な危機認識があり、非常に良好であった。先の浦賀警備とは、幕命によって長州藩が相模沿岸の防衛守備を行ったものである。 次の記述が全容をよく伝えているので引用させていただきたい。
……萩藩は、西浦賀から腰越八王子社に至る三浦半島南端一帯六十九ヵ村の民政と警備をあずかった。
陣屋は原、宮田、三崎の三カ所に設営し。先鋒隊四隊百二十人、遠近付六隊三十人無給通五隊三十人、計百八十人を常時配置した。……                  (わが長州砲流離譚:古川薫著)
 知象の仕えた益田越中は、このとき総奉行として交代で指揮を執った一人である。右の萩本藩の陣容とは別に益田家中の手兵も防備についていた。 民政にも大いに意を用い地域住民からも喜ばれた。なにより迅速な行動と沿岸防衛の大砲を多く揃えたので、幕府の覚えはよく、江戸市中の民衆の黒船不安をやわらげ、好評を博したらしい。 つまり幕府と長州藩の関係が最もよい時期であった。だから隔靴掻痒の感じは残るもののこういう書簡も容易にやりとりすることができた。

 この後、幕府と長州の関係は急速に悪くなった。下関の外国船打ち払い、七卿落ち、禁門の変、一次、二次の長州征伐、大政奉還と王政復古、鳥羽伏見の戦い、江戸城無血開城、 会津・北越戦争、函館戦争・・と時代は急速に変革をとげた。知象も四境戦争(第二次長州征伐)に参戦、益田口で戦い戦功を飾った。ただ音信の絶えた幕府側にいる身内の境遇を想像するとき、 恐らく断腸の想いだったであろう。両者のご一新以後の交流を示す手紙は、残念ながらまだ見つかっていない。

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