リレー随筆

須佐の思い出
清地 治正(旧姓仁保)
平成22年05月

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今年8月12日に喜寿を迎える私(昭和8年生れ)ですが戦前の須佐での忘れがたい想い出を2,3ご披露致しましょう。

◇夏休みに親子5人で朝食前に水海の砂浜で海水浴をした話

昭和18年の7月〜8月の夏休みの事です。私が小学4年生(10才)の時でした。当時父は(明治27年生まれ 51才)隣村の宇田郷村の小学校の校長でした。長男は萩中学生(16才)、 次男は高等科1年生(13才)、私が小学4年生(3男)、弟(4男)は小学2年生(8才)でした。
7月25日に1学期が終わると直ぐ隣町の須佐駅近くの我が家に帰り、直ちに家の大掃除をさせられました。我が家は屋敷も庭も広いが夏は蚊が大変多く困りましたが、あちこちで乾燥させた ダイダイの皮を小さな火鉢の炭火の上に置き蚊取り線香の代役を担わせ焚いていました。
帰宅した翌日から朝食の前に母を除き、男5人で海水浴の為にフンドシを着用し、ゾウリを履いて裏庭から5分歩いて水海の砂浜(後に、漁業組合の競市場のあった所) で海水浴を3〜40分行い、急いで帰って五衛門風呂に5人一緒に入って温まりました。浴槽には2人ずつしか入れなかったが洗い場が広かったのでゆっくり温まれました。 それからおもむろに食堂に家族6人全員が集まり朝食を楽しみました。この年に6,7回同じパターンで家族水泳が繰り返えされました。後で聞いた話ですが父が水泳好きであった訳は 山口師範学校時代に水泳の練習をして、 小堀流の師範になったとのことでした。小堀流は江戸時代に侍が鎧を着て河を渡る際に溺れないように立ち泳ぎの練習を一生懸命したそうです。
翌昭和19年からは戦争が激しくなり家族が集まって水泳が出来るような時代ではありませんでした。私にとっては忘れることのできない素晴らしい親子一体生活の出来た唯一の思い出の時でした。
3年後の昭和21年7月父は54才の時、結核で亡くなり、その後 長男、次男、三男の私達3人は結核を患い学校を1年間休学致しました。当時、母が元気であったので 我々兄弟4人の健康管理を十分してくれ、 本人は13年前に94才で亡くなりましたが、今82才の長男を始め兄弟4人が皆健在であることを深く感謝しています。

◇関釜連絡船について 昭和20年8月の話です。

本来、関釜連絡船は文字通り日本の下関と韓国の釜山の橋渡しをして人や物資を運んでいたのですが、戦争が激しくなり、飛行機の爆撃を避ける為、山陰側の良港として先ず仙崎に変わり、 続いて萩に移って更に北の天然良港の須佐まで北上して来ました。その興安丸には必ず警備・護衛の為海防艦が2隻付いていました。その1隻に昌景丸がいましたがその船に乗っている船員 (兵隊さん)が必ず12,3人我が家に4,5日宿泊していました。昭和20年8月6日に宿泊したのは3回目位だったと思います。この8月6日こそ歴史的な日でした。 兵隊さんたちは我が家の上(カミ)の10畳、8畳、4.5畳の3部屋に宿泊していました。2,3日後の朝、私は玄関に新聞(朝日)を取りに行きそのまま偉い兵隊さんに渡しました。 即座にその兵隊さんが皆を大声で呼びました。私も付いて10畳の部屋に行きましたが、そこには焼け野が原になった広島の街が映し出された新聞の一面が広げられていました。皆無言でながめていました。 これぞ広島の原爆投下の写真であったのです。直ぐ皆須佐湾に停泊している昌景丸に帰りました。その後のことはよく覚えていません。

◇天皇陛下の玉音放送

続いて8月15日の天皇陛下の玉音放送。須佐の神山には当時、暁部隊が居り300人位の兵隊さんが居ました。事前の報道により、近所の人達を中心に20人位の人達が我が家の中庭に 集まって居ました。その中に暁部隊の隊長さんと部下2人の計3人も玉音放送を聞きに見えていました。部隊にラジオが無かった訳です。 しかし我が家のラジオはその時雑音が激しく天皇陛下の真意を聞くことは出来ませんでした。同席していた私の父が「苦しいけれども頑張れと云う天皇陛下の励ましの言葉であろう」と解説し、 それを聴いていた人達は三々五々解散しました。

来月の「リレー随筆」は栗山展種さんに御願いします。

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