「増野家文書」

休庵(牛庵)様覚書

整理番号:「10袋7」

TOP PAGEへ 前頁へ
解  題

「牛庵覚書」を読んでみました。

すでに史料も武将・益田元祥も研究され尽くして本や物語にもなり、人口に膾炙され、多くの人が知っている話です。須佐教育委員会発行の「益田氏と須佐」にも詳しく書かれています。 しかし歴史を知りたいという人は次々に出てきますし、こうした原史料というものはわたしたちにはなかなか手に届かないところにあります。

こんど「増野家文書」からその写本を読みました。元になる一冊から人々が写していくのですから、どこかで誤りが生じます。文中にも書いておきましたが、「一両日」が「一両年」になっていたりしますと、 意味が違ってきます。当て字も多いですが字や言葉の少なかった時代ですから気にならなかったようです。理解しなくてはいけません。

さて、益田元祥という人はすぐれた武将であり財政通でもあったことがわかります。石見における多くの所領を捨て、徳川を断って毛利についた理由、六か国分の膨大な返納を迫られて処理する方法、 他の借銀処理のことなどがよくわかります。六か国返納問題ではだれもが自分の所領を減らされるのはいやで意見を言いませんが、毛利家の親戚でもない、いわゆる外様の元祥が先頭に立って述べるあたりは、 以後第一の家老として力を発揮する前哨ともなって面白いところだと思います。そういうところは史料を読んで初めてわかることでしょうか。興味深いところでした。

須佐という石見境の地は、元祥の父である藤兼が大内氏から所領を預けられたのが最初です。元祥が六歳のころですから、須佐へ行って海を見、山を見たかもしれません。ところで、多くの人が、 慶長五年の冬が近い頃に須佐へ移住したといわれますが、どんな風景であったものか、受け入れ態勢があるわけではありません。食事や寝泊まり便所はどうしたものか、研究してみたいと思います。

城 一 昭 人



◆休庵(牛庵)様覚書  読み下し文

こちらをクリックして下さい → pdf file


Copyright(C)須佐郷土史研究会・東京須佐史談会