「増野家文書」

組内要用書出一件
(その一)

整理番号:「11袋23」

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解  題

幕末に蜂起した諸隊は全国で四百以上といわれ、萩藩でも百五十は数えられる。
益田家では正義派といわれる回天軍と、保守派で俗論党といわれる北強団があって抗争となり、その経過は「回天実記」に詳しい。

なぜ禁門の変がおこったのか、藩ではその責任をめぐって大論争となった。京都で戦陣にあった益田親施ら家老三人は責任者となって切腹した。 益田家では主人である益田親施をいかに救出するかが争いの糸口となり、大谷樸助らは回天軍を作って家中政府と対立することに発展した。 高杉晋作らをはじめ、藩内には俗論派政府と戦う諸隊も多く存在したが、九人からはじまった小さな回天軍勢力では諸隊と意を通ずることさえ容易ではなかった。 大谷樸助は中央によく知られた人物であったが山口への道のりは遠かった。決断と行動力は彼の真骨頂であったが、主人の地に長く居過ぎた。

家中政府には回天軍を潰す目的の団体である北強団が作られ、ついに大谷樸助らを逮捕し切腹させた。しかし回天軍は諸隊の後押しもあって復活するが、 またも北強団の弾圧が始まった。益田家も本藩の俗論派政府にたてつくことは出来ず、下級武士の間にも資料にあるような争いになった。

当時、須佐には上級武士が住み、小川村や田万村には下級武士が住んでいた。穀倉地であった山間の村には宇谷・市丸・須佐地・瀬尻の四つの組が置かれ、 組頭は上級武士の大組が統括した。それらの垣根を越えて一つの軍隊にしようとした大谷樸助は、手組を破ってとして切腹させられたのである。 諸隊は動き回っており、いまにも幕府が攻め込んでくるというときであった。宇谷組は全員その回天軍に入ったのだが、中に反対した連中が仲間から付き合いを断られた。

資料は「義絶」させられた経緯である。かれらの分限は士でも五石から九石がほとんどであり、中間などはいかほどのものであったか、家族団欒などは夢でしかない。 主人について京都や江戸に上るにも金などなく、指名されれば辞退していることが記録に多く見られる。

終始家中の戦いに終わった回天軍と北強団であった。か細く生きていた下級武士や中間の連中が諸隊に入って行くが、幕府との戦争のために萩藩軍隊として北第一大隊となり、 回天軍も北強団も消滅して益田・浜田・大田方面へ攻め込んで行くことになった。

                            城 一  昭 人



◆組内要用書出一件 読解文

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