増野虎発のこと
虎八、勝虎ともいい、後に栗山半左衛門勝安の中継ぎ養子になりました。彼の文学修業や養子縁組の話はホームページで紹介しました。
この写本は天明八年ですから十九歳のときです。どこで書いたものでしょうか。次男ですから冷や飯と呼ばれた頃ですが、勉強のために江戸へ連れていかれたときもあって写したものか、
それとも萩でしょうか。それから半年後に筑前へ文学修業に出かけます。その願書には三年の間と書かれています。
子供の頃から四書五経は学問の手本ですが、将来において益田家を担う若者として、この写本などに多く心に感じたものがあったように思われます。前途洋々、
改めて意気に燃えるものがあったのか、それで「虎発」と書いたのではないかと考えます。いまの世において、見過ごすことの出来ないことがあまりにも多く、
為政者たちもいま一度読んでもらいたいと思う本です。
松平定信の著作のこと
織田信長のように、泥棒からでも情報を得ようとした時代と違って、確立した身分制の時代に、いかに地下のことを知っているとはいえ限界があったのです。
貧乏な侍よりもおいしい魚を食べていた庶民もいましたが、多くは貧しく、かれらの心を理解できたでしょうか。
「ふと書写に心をかけ、三とせのうちに四百五十巻あまりに成りける」とあります。たくさんの著作を遺しておりますが、わたしたちが読むことができるのはわずかです。
名著「花月草紙」「宇下人言」「退閑雑記」など美しい文章に接することが出来ます。「宇下人言」という題名は「定信」を分解すればこうなるという意味だそうです。
「国本論」という写本もあります。次月に紹介しましょう。
城一 昭人
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