リレー随筆

須佐とわたし
大谷 和子
平成23年3月

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 2月18日は 父津田巌男(イズオ)の命日である。

 東京では2月中旬一度だけ 雨が雪になり一晩の積雪で 白銀の世界になることが多い。父が亡くなった日は聖路加病院の窓外も一面の雪だった。

 父は病室の外で子供に「雀の学校の先生は …チーチーパッパ チーパッパ」と大声で歌わせた。生への渇望も強く、絶望の中にも何とか生き延びようと治ると聞くと何でも試み、 「壁土まで食べた」と昨年従兄から聞いた。母は「かわいそうだった」と一言、それ以上は言葉にならなかった。

 父の蔵書の中に 同年齢36才で逝った子規の『病床六尺』をみつけた。

「肺を病むものは 肺の圧迫せられる事を恐れるので 広い海を見渡すと詢に晴れ晴れといい心持ちがする」、「絶叫、号泣、ますます絶叫する。その苦しみ痛みは何とも形容することはできない」、 「拷問に誰がかけたか」(「…」引用)。
須佐の海を見たら父の身体の苦痛、心の煩悶も救われたことだろう。

 祖父は町長職で人の出入りも多く、父が須佐に帰ることを禁じた。結核感染を恐れ、東京での完治を望んだ。父も元気なときは生涯東京で過ごすつもりで、「須佐には帰らない」と土地も準備していた。 勤務先は半官半民と謳っているが事実上、国営の「日本発送電」で、電気と法律専門の父の活躍は同じ職場の叔父やOB会の仲間からよく聞かされた。

 誰もが呆れたのは、父は多忙でも休日には、弁当持ちで魚釣りに行き、足を水につけていたことだった。須佐の漁師の舟で楽しんだ釣り経験が身に染みついていたのだろう。須佐生まれで、青い海を愛した。 冷えにより一層免疫が低下し、早世に繋がったに違いない。磯遊びに行き、澄んだ海底を箱眼鏡で楽しみ、釣り糸を垂れ、漁り火に這い寄るさざえ・鮑・魚さえ手探りで取り、 高山への路沿いが見える須佐湾で舟に打ち寄せる波音も聞いたことだろう。夏は泳ぎ、小さな銛や鉾で従兄弟と同じように魚も突いた事だろう。体験すべてがベッド上の思い出に終わった。 「親父の所に帰ってくれ」が父の遺言だった。

 母芳子は父の遺言を守り須佐に帰った。しかし、母の両親は母に実家に戻り教師になるようにすすめたがこれを断り、祖父との同居も断り、母は60年近く須佐に住んだ。

 母は最初は人手がない祖父と同じ屋根の下で暮らし、家事を手伝っていたが別宅に移った。或る大雪の早朝、母は子供3人が寝ている間に本宅の手伝いに行った。 2才の弟興一が泣きながら「お母ちゃん お母ちゃん」と追い、小さな裸足の跡が長く続いていた。その為に3人が麻疹になり、興一は冷えて逝った。母方の祖父が書画に長け、 この時に描いたデッサンの死顔がいつも思い出される。親戚の一人が「お父さんが寂しいから興一を呼んだのだ」と言うと周囲の人たちは頷いた。母が傍にいられたら興一は死ぬことはなかった。 何年も経ち、小原の伯父が「興一は頭のいい子だった」と遊ぶ様子を話し、弟への記憶が嬉しかった。

 父の死後、母が萩税務署に呼ばれ、「子供が3人いるのに夫の生命保険を全部、義父に渡していいのか」と聞かれ、将来も考えず、苦労知らずの母は「いいです」と答えた。 子供のために、弟のために、なぜ「要ります」と答えなかったか。興一は死なずにすんだのに。間もなくその生活も終わり、突然母は一人で生活の糧を得る仕事を始め、須佐の生活に溶け込んでいった。 私は何も手伝わず親不孝者だったと今頃気づく。

 母が津田家に嫁ぐ前、母方の祖母と伯父が結婚調査のため「ひとつや旅館」に泊まった。母が「お母さんがすすめるのなら」と結婚したことに祖母は「他に心配はないが、芳子が一番気になる」 と生前いつも口にした。

 父の母校「神戸高等工業電気科」は 現神戸大学工学部電気科と偶然知った。毎月神戸大学東京六甲クラブで開催している東京須佐史談会に行くと、遠い父が身近に感じられる。その後、 父は大阪の親戚の弁護士の影響で 九州帝大法学部を卒業した。私は一度だけ福岡に行った思い出がある。英語弁論大会に出場後、亡父の悔しさを想い、夜遅くまで歩き回った。長生きが能力の一つだから、 意半ばの父の運を悔やんでも仕方がないが重い気持ちがわかった。

 私は父の死後、須佐での生活を始めたが、言葉の違いを笑われ、黙ると「うぶし」と叫ばれた。このことを初めて史談会で話すと、亡くなった城一先生が「うぐし」と訂正され意味を知った。

 須佐に越したばかりの頃、駅からの道を一人で歩き、異様な光景に出会った。夏の太陽に黒と白の膨らんだものが一本道を横にいっぱいに延びていた。何だろうか。爬虫類と推測出来た。 それ以来、草むらが怖くて遠出をしたことがなく、須佐の地理に疎い。学生時代も山陽側の母の実家に近い企業で外国人のアルバイトをしながら英語を学び、殆ど須佐に帰らなかった。津田家を継いだ舜甫が、 小原歯科医に治療に来たアメリカ兵と、会話を楽しんでいるのを見て羨ましく憧れ、同じ経験をしたかったからだ。

 私が須佐にいた頃、須佐の文化らしいものに気づかず、損をしたと思う。 須佐を離れて数十年経ち、縁あって史談会に入ってから熱心な諸先輩のお陰で学ぶチャンスに恵まれた。 いろいろ嫌なことがあったからこそもっと須佐のことを知ろうとする気持ちが強く、今須佐のことを学んでいる。今年は時間が出来たから須佐に帰り、亡き父母・弟を偲び、先祖の心にふれたい。 嫌なことがあったからこそもっと須佐のことを知ろうとする気持ちが強く、須佐のことを学んでいる。今年は時間が出来たから 須佐に帰り、亡き父母、弟を偲び、先祖の心にふれたい。

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