リレー随筆

私と須佐
千葉市在住
栗山 展種
平成22年06月

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私が須佐を初めて訪問したのは昭和19年(1944)の秋、国民学校4年生、9才の時のことです。両親に連れられて妹(7才)と、弟(3才)の一家5人の旅でした。 末の弟(昭和20年生まれ)は未だ生まれて居ませんでした。少年の頃の記憶は断片的ながら記憶の端々に当時の世相を反映しています。そして、 大人になって二度目に訪れた須佐は全く少年時代の記憶とは異なっていました。

◇ ◇ ◇ ◇

昭和19年7月、アメリカ軍がサイパン島などマリアナ諸島を制圧すると、ここがB29爆撃機による日本本土空襲の基地となりました。 昭和17年に空母から飛び立ったB25爆撃機による所謂ドーリットル空襲という単発的で試験的な本土空襲がありましたが、昭和19年からはサイパン基地からの連続的な本格的空襲が始まりました。 6月のマリアナ沖海戦、10月のレイテ沖海戦で日本海軍は制海権も失い、米空軍による本土蹂躙、無差別爆撃、焦土化作戦が日常化しました。当時、私達一家は兵庫県西宮に居住していましたが、 阪神間も空襲に晒されることが明白になりましたので、父は祖母の代に大阪の寺に立てた墓を廃して先祖の遺骨を須佐へ移すことにしたのです。学校への登下校の途中で艦載機から機銃掃射をうけたり、 夜中に爆弾や焼夷弾の中を逃げまどったりで、一般人の毎日の生活も段々と戦場の中に巻き込まれて行くのを子供ながら肌で感じていました。

須佐へは京都発の山陰本線夜行列車で行きました。この旅は今も忘れることが出来ません。まず京都駅のプラットホームから列車に乗り込むのが大混雑で、 父が窓から乗り込んで一家五人の座席を確保する事から始まりました。勿論、客車を牽引する機関車はSLで、客車は木造列車です。窓を開けると遠慮会釈無く煤煙が車内に入るし、 各車両の通路まで旅行者が座り込み超満員。男は大抵国防色の帽子に軍服、女はもんぺ姿といういでたちですから車内は異様な雰囲気でした。でも、これは当時は当たり前の風景でした。 客車の便所が不潔で、出入りする人にその悪臭が移って、耐え難い臭いを放ちました。憲兵隊の軍人ではなかいかと思いますが、鉄道公安員の様に時々座席を臨検に来ます。そして、 人いきれで蒸し暑い車内に風を入れようとしても、車窓から軍事施設が見えるところは窓の木製シャッターを下ろさせました。

ほうほうの躰で出雲今市に到着し、出雲大社に参詣して一息つきました。軍事態勢下、輸送力が軍需物資に振り向けられて都会の食料事情が悪化していました。 都会では外食券がないと主食は食べられなくなっていましたから、旅に出るときは米持参の時代になっていました。所が、大社駅の駅前食堂で昼食を摂ったところ、 ここでは白米のご飯を提供していたのです。今なら出雲に参詣すれば、思い出は当然の事ながらあの大きな注連縄とか、出雲大社の荘厳な境内なのでしょうが、我が家では、 後々までこの時の昼食が出雲での最大の思い出となりました。

出雲から須佐へ向かう列車で又大問題に遭遇しました。場所は正確に覚えていませんが、浜田か益田の近くで洪水があり、山陰本線の不通個所が出来ていました。 乗客は列車を降りて赤土の埃だらけの山道を歩かされました。幼い子供三人を連れ、荷物を担いで旅をした父母の苦労は如何ばかりだったかと思います。暑さで喉がからからになったのを覚えています。 この山道は須佐から帰るときにも歩きました(後に、この洪水は「江の川」の氾濫だと教えて貰いました)。そして、夕方須佐に着き駅前の「好月旅館」に投宿しました。

須佐に何日滞在したのでしょうか。須佐では藩政時代からお隣同志だった増野安五郎様(亮氏のお爺さま)に何から何までお世話になり、あちこちご案内頂きました。安五郎様は我が家の恩人で、 長らく我が家のお墓を守って下さいました。今も私の手許に父が安五郎様から頂いた沢山の書簡が残っています。また、納骨については大薀寺さんに色々とご厄介になりましたが、私は子供同士で大薀寺の今のご住職のお兄さんと 須佐の町中を探訪したことを覚えています。こちらは大阪弁、むこうは須佐弁での初顔合わせ。初めて聞く須佐弁に少なからず戸惑いました。

須佐の記憶の第一は本町の通り沿いに立派な松並木があって、それが町にしっとりとした潤いのある雰囲気を醸し出していました。当時はまだ藁葺き屋根の家が沢山あって 大変落ち着いた田園的な町の様子だったと記憶します。しかし、大人になって訪れたとき、藁葺きは全く無くなり、松並木が消えて、町並みは往時の面影が殆どなくなり、 何処にでもある平凡な通りになっていたのに一番驚き、またがっかりしました。今の役所の側には橋詰益田家の屋敷があり門や塀の風情を覚えています。

好月旅館から海の方へ行くと、港がありましたが今の須佐港とは全く景色が違いました。確か海岸に角がとれた丸みのある大きな古い岩があって、苔むしていて、海は急に深くなっていて、 そこへ勢いよく黒く見える日本海の波が打ち寄せていました。多分、其後海岸は埋め立てられ、あの岩も土中に隠れてしまい、防波堤などが出来て港内の水面は穏やかになったのでしょう(私が見た岩は 多分埋め立てられた「鵜の瀬」の一部だろうと思います)。

子供同士でどこを探訪したのかしかと覚えていませんが、何処かのお寺の裏側で、段々状になった大きな墓所へ行った事丈を何故か覚えています。それが何処だったのか今以て判りません。

我が家の墓は心光寺の境内にあるのですが、場所は今の給食センターの後の崖の上です。何故菩提寺の大薀寺ではなく心光寺の境内にお墓が有るのかは判りません。 先祖が住んだ屋敷跡は今は育英小学校の校庭になっているので、多分、墓所から屋敷跡がよく見えたからではないでしょうか。往時の庭の松が小学校の奉安殿の横に生えていました。 ところが、何と私達が墓参に行ったその時に、その松の木を目の前で切り倒しているではありませんか。大変驚きましたが「これも巡り合わせだな」と父が呟いていたのを覚えています。

須佐を発つ直前になって、大薀寺の美しい若奥さん(今の住職の御母堂様)がキリリとしたもんぺ姿で背中に籠を背負って「これをおみやげに」と大きな柿を山ほど好月旅館まで運んで来られました。 「ぎおんぼ」という柿の名前を初めて知りました。この柿は西宮に戻ってから米櫃の中に入れて熟させると大変美味しかった事を覚えています。

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そして年月が過ぎ、私が二度目の須佐訪問をしたのは昭和62年(1987)の7月末のことでした。父は既に91才の老齢でしたが私が七年間海外勤務であった為に、 須佐の菩提寺や墓のことをこの年になるまで息子の私に引き継ぐことが出来ないでいました。52才になっていた私は、年老いた父母を伴って実に43年振りに須佐を訪れることにしたのです。

須佐はすっかり変わっていました。父のお知り合いの方々も亡くなり、この時は唯墓参をする丈の旅になりましたが、私と須佐とのお付き合いはその時から始まりました。 其後、父母が亡くなり、その都度納骨に行ったり、代々の墓を建てたりで、大抵は法事で須佐を訪問する様になりました。それに連れて、須佐の歴史や我が家の家系の事を少しづつ勉強するようになりました。

平成9年(1997)の春、突然増野亮様から電話があり、「首都圏在住の須佐出身者数名で郷土史の研究会を始めたいと思うが、参加しませんか」という呼びかけを頂きました。 私が独りで勉強を始めていることを、大薀寺さん辺りから聞かれたのでしょう。それ以来早や13年、須佐出身の良きお友達の数も次第に増え、皆様と毎月1回「東京須佐史談会」で 幕末の須佐の歴史を勉強しています。勿論、勉強の後は懇談と称してビールを飲みます。最初は須佐のことは何も知らなかったのですが、この勉強会を通じて私達の先祖がどの様な生き方をし、 そして幕末・明治維新の時代のうねりの中で故郷や日本の為にどんなに働いたかを学びました。現役を退いた後の私の老後は、この会のホームページを運営したり、例会の会場をお世話したりしながら、 幾分かでも須佐のためになればと思いつつ皆様との交流を楽しんでいます。

「須佐の生まれでもないのに、何故そんなに須佐が好きなのか」と良く人から尋ねられます。私の答は「僕が永遠に眠るのは須佐の地です。誰も知らないところで眠るのは嫌だから、 現世で生きている内から皆様とお付き合いがしたいのです」とお答えすることにしています。

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 来月は近藤安弘様にご寄稿を御願いします。
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