随 筆

育英校の講堂に連合国の捕虜
増野  亮
平成20年10月

TOP PAGEへ 随筆目次へ

 第2次大戦中のことである。小学校を国民学校と改称したこの学校を卒業するかどうか当時のいわゆる『銃後の少国民』と呼ばれた時代だった。「学校の講堂に白人の捕虜がいる」という近所の友達の声がした。 育英国民学校の近くに住んでいた私は、すぐに好奇心に駆られて独りすっ飛んで行った。藤井精米所の角から、大きな講堂(残念ながら現存しない)の裏手に回る。周囲には誰もいない。 そっと講堂の窓越しに中を覗いくと、テニスコートを2面重ねたくらいの広さの中央にざっと40人くらい背の高い外国人が座ったり立ったりしている。携帯の荷も少なそうで服装もさっぱりしている。 中に数人軍帽をかむっているのが、なにか周りの兵士に話しかけている。「将校だな」と思った。後年、映画「戦場にかける橋」に出てくる捕虜の将校と同じ軍帽と知った。この英連邦の兵士と思われる人達は、 ブラウンの長髪で、上衣はシャツだった。捕虜にしては、サバサバした雰囲気が感ぜられ、打ち萎れた空気は少しも感じられない。やや離れて我が陸軍の厚手の正装を着た兵士が数人が銃を手に、捕虜たちを見守っている。 窓越しにいる小生に気がつくと数人の紅毛の捕虜が寄ってきた。数歩後退すると、窓が開き数人の顔が窓枠に重なった。長髪の白人青年だ。小生をじっと見て、笑顔と手招きで語りかける。

 この頃だったであろう、日本内地に連行されたこれら連合国の軍人を見て「お可愛そうに」とつぶやいた同胞婦人がいた。何しろ「ほしがりません勝つまでは」「撃ちてし止まむ」 「進め一億火の玉だ」という戦時標語が眼や耳に入った時代である。敵愾心が足りないと新聞紙上で強く批判されたことがあった。兵士から柔らかい眼差しを投げかけられた小生の感情も、 この婦人の言葉に近いものであった。

 やがて、銃を手にした陸軍の兵士が気づいて、窓辺に背を見せながら、離れるように身振りで捕虜に指示する。数人の細身だが背の高い男達は、ごくすなおに中へ姿を消した。その後これら捕虜の話は、 子供の間でも話題にはならなかった。多分国鉄山陰線で、すぐに移送されたことであろう。育英小にはこんな多くの人を寝泊まりさせる施設はない。 シンガポールで投降した英連邦陸軍の将兵だったのではないかという気がした。

 近代の戦時捕虜については、1899年にできたハーグ陸戦条約以来、各種の条約で取り扱いが保護されるようになったといわれる。現に日露戦争では、道後温泉でロシア人捕虜を厚遇し、 第一次世界大戦の時もチンタオ(青島)の戦闘で捕虜としたドイツ兵を徳島県坂東の俘虜収容所で立派に処遇している。これらはいずれも国際条約がよく守られ、和やかな交流談も伝わり、 中には日本に親しむあまりそのまま残留した捕虜もいたという。こうした日独の交流は、映画「バルトの楽園」に詳しい。

だが、第2次世界大戦では、日本兵の戦陣訓に「・・生きて虜囚の辱めを受けず。死して罪禍の汚名を残す勿れ」生きたまま捕虜になって恥じをさらすな。死んでから罪人の汚名を残すな。という軍律が加わった。

 一つには捕虜による情報の流失を防ぐ目的もあったという。このため戦った相手の捕虜姿を「だらしない、男らしくない」と考える傾向もあってか、戦後、多くの捕虜虐待情報が連合国側から報ぜられた。 原因の一端は日本軍の兵站軽視であることは否めない。捕虜どころか味方の生活物資さえ極度に不足し、大勢の餓死者さえ生んだ。戦況も著しく劣勢になり捕虜の保護が十分行えなかったことも伝えられる。

 「牛蒡を料理して出したら木の根まで食わせた」という誤解まで生んだと聴いたことがある。当時、素手で相手を殴る「ビンタ」は旧軍隊のみならず旧制中学でも下級生に対しよく行われた。 だが、欧州では、これを大変な侮辱と受け止めたという。こうした文化の違いもまた、処遇の虐待とみられたことであろう。

 1987年頃、マレーシアの首都クアラルンプールへ向かう観光バスの中で、前に座っていた50才くらいの白人男性から「日本人ですか」と振り向きざまに英語で尋ねられた。聴けば「シンガポールで捕虜になり、 ジャワで終戦を迎えた」という。こりゃえらい人物と隣あわせた。戦時中の恨み辛みを聴かされるものと覚悟した。が、意外や意外、日本軍人の親切な扱い、スマートな所作と軍律、いい思い出が多かったと語るではないか。 最初は日本人に対する外交辞令かと思ったが、その後、毎年このジョン夫婦は、英国から思い出の東南アジアに観光旅行にきては、小生とも友情を温めた。日本軍の処遇をその都度良かったと繰り返し述べる。 「ムトウさん」と好感をいだいた軍人名などもいくつか聴かせてくれるので、実際にそうだったのだと信ずるようになった。

 記録によると南方軍総司令官の指揮下に臨時の野戦俘虜収容所が、マニラ、シンガポールに開設され、1942年4月からは軍政系統の俘虜管理部に移管。上海、香港、タイ、マレー、フイリッピン、ジャワ、 ボルネオ、朝鮮、台湾に俘虜収容所があった。この内少なくともジャワ(インドネシア)は、生鮮食料が豊かで、食べものが行き渡り、大戦中の楽土という一面があったらしい。 と同時に日本人らしいいたわりの心情が捕虜の処遇にも現れていたことを知り、戦後世代としてほっとしたものだった。

 須佐湾には、その後も終戦まで関釜連絡船や海軍の駆逐艦、貨物船などが入ってきて、外地や戦地との人や物の交流・移動をみることもあったが、あの時の人なつっこい虜囚の若者達が、 須佐を離れてからどうなったのかは知るよしもない。全員無事に故国の土を踏むことができたであろうことを想像するだけである。

Copyright(C)須佐郷土史研究会