慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに西軍が敗れ、毛利輝元はそれまでの8ヶ国1,120千石の所領を失い防長2ヶ国298千石に削封されました。これに伴い、益田家一族郎党も同年11月益田から須佐へ移住しました。
輝元は居城広島城を追われ、彼自身は隠居して秀就が家督を継ぎました。輝元はこれより先@広島城築城に巨額の経費を投じ、A朝鮮出兵に少なからぬ戦費を費やしました。
そしてB関ヶ原の敗戦で減封の憂き目を見、C削封に伴って防長両国を除く残りの旧領の民租を新領主に返済する義務、所謂「六カ国返租」問題が発生し、毛利家は浮沈の瀬戸際にありました。
その上にD萩城築城を急ぎ推進する必要がありました。「六カ国返租」問題の解決に益田牛庵元祥が大貢献し藩初の毛利藩を救ったことは須佐の皆様は良くご存の通りです。
所で、新城築城予定地は@萩指月山 A防府桑山 B山口鴻峰の3カ所が候補に上がりましたが、3案を家康に示した結果、指月山と決まりました。毛利輝元が城を築く以前の萩は長門國北浦の典型的な一寒村に過ぎず、
阿武川の下流、橋本川と松本川が作る三角州とその周辺の低積低地は未だ完全に陸繋化されておらず、東側には海水が入り込み、三角州の南東部は皆沼で葦原の水溜まりでした。しかし、毛利氏が萩へ入部する以前、
既にこの地は城下町的な佇まいが形成されようとしていました。天文20年(1551)大内義隆が重臣陶晴賢の謀反によって滅ぼされ、晴賢もまた弘治元年(1555)厳島で毛利元就に討たれ、
防長両国は毛利氏の領するところとなりましたが、萩付近は陶晴賢討伐に功のあった津和野三本松城主吉見正頼に与えられました。正頼は天亀元年(1570)家督を長子広頼に譲って隠居し指月に居館を設け、
晩年はここに住みました。爾来、萩は吉見氏の住居をを中心として家臣団や寺社、さらには庶民も住み始め人口も増え始めていました。
築城は慶長9年(1604)6月朔日に着工し、4年後の同13年6月に完成したと伝えられています。時に、輝元は56才でした。嫡男の秀就はまだ14才の若齢の為、徳川氏との親睦を重ねるために江戸藩邸に滞在していました。
藩政はまだ暫く輝元が指揮しなければなりませんでした。広島城築城には10年を費やしましたが、萩城はその半分以下の工期で完成しました。工事は毛利一門以下、それぞれに持ち場を決め総力をあげて進められました。
東方および山上の要害は一族の吉川広家、西方は毛利秀元が指揮し、普請奉行は三浦元澄、現場の宰領は益田元祥(もとよし)、熊谷元直、天野元政、宍戸元続らの重臣が二人づつ交代で務めました。
城や町の建設に当たり、先ず湿地帯の埋め立てや竹林の伐採から始めました。同時に、吉見氏の居館や同氏の菩提寺である善福寺など指月およびその周辺にあった建物を他地へ移しました。
こうした基礎的な造成工事の後、城の縄張りが行われましたが、最初は指月山頂の要害から始められました。慶長9年6月1日指月山麓の縄張りが起工され、自ら工事を督励するため同年11月11日輝元は山口から
建設中の萩城に入りました。萩藩ではこの入城を「御打入り」と言っています。
この築城の最中に有名な紛争事件「五郎太石事件」が発生しました。
益田元祥(もとよし)は熊谷元直、天野元政、宍戸元続らの重臣と共に二人づつ交代で現場の宰領を務めました。事件は益田家と天野、熊谷両家との間に発生した大紛争事件です。
事件の一部始終は「毛利三代実録」に詳しく記録されているほか、毛利博物館には当時事件処理の為に事件当事者が夫々本藩に提出した関係文書が保存されています。その読解文は東京大学史料編纂室から出版されている
「大日本古文書」毛利家文書之四のP74以下に収められていますから、これらを辿ると事件の経過が良く分かります。また、事件は「萩市史」第1巻P132以下に可成り詳しく解説されています。
しかし現在の須佐ではこの様な事件があった事は余り知られていません。そこで、今回HPでそのあらましをご紹介することにしました。 |