随 筆

重爆、低空で須佐に舞う
ー終戦の思い出ー
増野  亮
平成20年8月1日

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 日本海に面した北浦海岸は、戦前からこれといった軍事施設がないためか、第二次大戦中も単発の小型機、時には複葉機がブーンという軽い音を撒きながら高いところを通り過ぎる程度で、 グラマン戦闘機やB29爆撃機などを見かけることは、まずなかった。

 昭和19年になり、漸く太平洋の戦雲急を告げる情勢になって標高533mの高山に陸軍暁部隊の防空監視所が設けられた。当時旧制萩中学1年だった私たち50人は、若い体育教師に引率され、 空腹を押さえながら、監視小屋になる角材を中腹あたりから、数人一組で担ぎあげた思い出がある。

 この暁部隊というのは、陸軍の船舶部隊で広島市に司令部を置き、大発(艇)・小発(艇)・上陸用舟艇・駆逐艇・潜水艇など比較的小型の舟艇を擁し、 迫る本土決戦のために萩など北浦海岸にも配備されたものである。

 翌年になり8月15日の終戦の玉音放送のあった日、丁度学校は夏休み。天皇陛下の重大放送の予告も知らず、深マテカタという魚介の多い海岸へサザエ採りに行った。午後家の近くまで帰ってくると、 近所に住んでいた初老の在郷軍人、三浦元軍曹が、眼を赤くして「日本が負けた」と悲しそうに呟いているのを聞き、敗戦を知った。

 この日以降、それまでよく耳にした飛行機のエンジン音が、全く聴かれなくなり、静かな空で戦争が終わったことを実感したのである。

 それから10日も過ぎたであろうか。ある日、母校育英小学校のある横屋丁から、山間の田圃に囲まれた桜尾の細道を一人歩いていたときのことである。 突如、これまで聴いたこともない地鳴りのような大きな爆音が聞こえてきた。驚いて音のする方を見ると、巨大な双発爆撃機が、すぐ目の前をゆっくりと通り過ぎる。機体の透明な展望格子が印象的だ。 高さは地上から20mくらいであろう。鮮やかな迷彩色に日の丸がクッキリと見える。終戦で命脈を絶ったはずの陸軍取って置きの虎の子、精鋭機の飛来である。更に驚いたのは、この1機の重爆撃機が須佐市街上空を、 驚くほど低空のまま何度も何度も同じ軌道にそって飛翔するのである。敗戦で機体を米軍に引き渡す僅かな時間を盗むようにして、最後の飛翔を敢行ということらしい。搭乗員もキッと須佐出身者にちがいない、 と直感した。ずいぶん長い時間と感じたが、20回も旋回したであろうか。わたしは桜尾の小道に足が釘付けになったままこの珍客の勇姿を食い入るように凝視したものである。 真上に来るとその長い両翼をいっぱいに広げ、「このページェントを忘れないでくれ」とでも言いたげに、まるでそこに停止でもしたようにも見えた。

 今年の春、新宿御苑での長州桜の恒例観桜会で同郷の人たちと顔を合わせた。年齢も近い旧姓見戸さんに、この終戦直後の重爆撃機の須佐飛来を知っているかと聴いてみた。 当時女学生だった彼女から「よく覚えていますヨ」という嬉しい返事が返ってきた。

 日本の主要都市や軍事施設の大半が焦土と化した当時、よくもこんな大きな図体の重爆を、温存できたものである。戦後千葉県茂原市に住んでいたころ、近くに首都防空戦闘機隊の格納掩蔽を見たことがある。 30cmはあったであろうか、分厚い蒲鉾型の特殊セメントで覆い、開口部は滑走路にすぐにでも飛び出せる配置になっている。掩蔽の上は草むらのカモフラージュ。それが間隔を置いていくつも点在した。 だが、大きな爆撃機では、この方法も見破られやすい。噂に聴いたように、きっと山腹を横に貫く滑走路を造り、本土決戦に備えて敵から秘匿したものだろうか。

 この爆撃機の型式は、なんであったろう。長く疑問を抱いてきた。それが最近になってインターネット情報でやっと得心するようになった。まず、外観の印象から、 四式双発重爆撃機『飛龍』ではなかったかと思った。

 『飛龍』は陸軍が昭和19年に最後に開発した双発の重爆撃機である。全幅22.5m、全長18.7m、最大速度537km、航続距離は実に3800km、20mm機関砲1、 12.7mm機銃4,爆弾の装備250kgなら3箇、三菱重工が697機を生産している。日本の航空機技術の集大成というにふさわしい傑作機と説明されている。素人ながら私が特に注目したいのは、 この重爆という大きな図体でありながら、あんな低空をあんなにゆっくり飛んで、よくも失速しないという事実だ。低い山並みの稜線を這うように飛行した姿が印象的だ。 説明によると『飛龍』は、戦闘機のような単発機同様の運動性能があり、爆弾を搭載していなければ、曲芸飛行までも可能と説明されている。そしてその結果、 重爆でありながら雷撃(魚雷発射)や急降下爆撃もできる。この素晴らしい運動性能をみて、あのときの双発機はこの重爆の常識を破る『飛龍』以外にないと考えた次第である。

 いま旧軍の爆撃機は、日本はおろか世界中に1機も残っていないであろう。「飛龍」の開発関係者が新幹線の車体設計にたずさわり、飛龍の経験を戦後の鉄道技術に残したと伝えられる。 悲しくも最後の陸軍航空ページェントで、重爆撃機の概念を破る陸軍航空の技術があったことを、今になって知ったことである。

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