随 筆

梅雨どきに想うこと
増野  亮
平成20年6月28日

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 まだ小学校2年生のころのことである。この年、昭和14年はシナ事変が拡大を続け、戦時色がじょじょに濃くなっていた。郷里須佐ではこの年5月以降、雨がほとんど降らず、農家は田植えができず困惑していた。 でも市街地周辺の山々は、乾燥につよい松の木の30年から50年ものが繁茂していた。それが8月30日に出火の山火事で、あっという間にまるで男の子の頭のように坊主になってしまったのである。

 そろそろ昼食の準備が始まる午前11時、けたたましい早鐘に町中が驚いた。表通りに飛び出して見ると、真南に位置する丸岳山という高さ256メートル馬の背を思わせる山頂に、薄煙と小さな火炎が遠望できた。 すぐにまるで噴火のような黒い煙が空に逆三角形で広がる。あわてて消火に駆けつける人々の叫び声で騒がしくなった。三三五五、警防団の半被を着た人々が、鋸や鉈を手に山火事の方角へ走って行く。 やがて麓の人家のある方から、逆に下から迎え火を放ったらしく山下からも火の手が上がった。これで市街地の上流の方への延焼はくい止められたらしい。

 驚いたのはこの丸岳山から東にあたる『転ばずの坂』寄りの丸山255メートルの方に向かって大きな火玉が飛んだのである。つまり市街の上流と海辺寄りの2ヶ所から火が広がった。 距離にして2キロくらいはあるだろう。丸岳山から丸山の方向に強い風が吹いていたかと後で推察した。空を暗くする黒煙、「こんな大きな山火事でこれからどうなることか」と子供ながらも不安がよぎった。

 すぐに近隣の小川村、弥冨村、宇田郷村、島根小野村、福賀村、大井村、奈古村、田万崎村、福川村などから警防団員約600人が、拡散した最寄りの火事現場に駆けつけたという。

 幸いなことに市街地や在方の民家への延焼は防がれたが、山林267haを焼失して9月6日になってやっと鎮火した。当時米価60kgが16円25銭の時代に、被害額は20万円を超す巨費に達したと記録されている。 手元に平成15年の60kgの米価が13,820円とある。この850倍を乗ずると1億7000万円の実損となる。裕福な平成の社会と違い当時の低い所得の寒村では、大きな痛手であったに相違ない。

 須佐市街のなかを須佐川という土手の高さ数メートル、川幅15メートルくらいの川が貫流する。川の上流は焼けた丸岳山のすそ野を這うようにして東も延びていた。普段から清流だが水量は少なく、 稚鮎がせせらぎを遡上するのがよく見下ろされた。

 木々を焼かれた広い山々には地肌がむき出しで、降る雨を溜め込む保水力がない。だからその翌年の降雨期からは、須佐川全体が「鉄砲水」のためすぐに満水の帯となって、混濁の急流が須佐湾に注ぎ込むようになった。

 今ならテレビの天気予報で集中豪雨も予期できるが、あの時代にはテレビはまだ世になく、ラジオでさえ数軒の裕福な家にやっと備えられていたにすぎない。もっとも「天気予報が当たらない」ことを揶揄して、 食あたりが心配された折りなど「ソッコウショ・ソッコウショ(測候所)」と呪文のように唱えるとよいと囃された時代である。ラジオ放送の天気予報も少しこころもとない。

 雨の降り方が激しいと、川土手から川水が溢れ、川の側面の市街地に流れ込んでくるようになった。縁側に座り込み庭先を見ていると、今まで通路であった小道が小川に変わり、 庭の植え込みや畑地がみるみる水に覆われる。その風景を弟と共にはしゃいで見ていた。池の緋鮒が逃げ出したのか、赤い魚影のようなものまで見える。下駄や藁ぞうりが舟のように浮かび流されてくる。 水洗便所がない時代だったので、きっと汚物も漂流したにちがいない。

 ある年のこと、予想を超えて水嵩が増してきた。ついに部屋の畳がぷかぷかと浮かんできたのでびっくりしたのを覚えている。畳が濡れると始末がわるい。 後で天日干しやら床に溜まった泥掃除に駆られたことが想い出される。翌年からは、雨脚が激しくなると、やや敷地が高く二階部屋のある上手の親戚の家に避難するようになった。留守になった家では、 床板を重ねその上に背の低い応接机を置きその上に畳を積み上げ、その上に襖や家財をおく。衣類などは押入の上段の布団の上に突っ込む。

 当時は戦時下で壮年の多くは出征し、労力も資金もない町当局には暴れる河川に手の打ちようが無かったことと思う。父母はこのとき既に他界し、家には祖父母と小生ら小学生の兄弟、合わせて4人が暮らしていた。 元気だったとはいえ既に80才をすぎた祖父母の苦労が、今ごろになって偲ばれる。あの当時もっと力になってあげるべきであったと今でも悔やまれる。

 戦後になって、中津の沿道の巨大な松の何本かが切られ須佐川が拡張された。二抱え以上もあるこの松は藩政時代、外敵の侵攻に備えいざというとき道路上に倒し、 防衛堡塁とするものだったと祖父から聴いたことがある。土手も高くなった。もう河川の溢水の心配も無くなった。

 梅雨どきの苦くも懐かしい思い出だが、当時なぜか愚痴やストレスはなかった。雨風の猛威も自然現象として受認する、さらりとした明治の祖父母の雰囲気であった。

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