リレー随筆

遠い夏の日
尾木  純
平成24年6月21日

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 雷鳴が轟き、梅雨が終わると、ぎらぎらと太陽の照りつける夏がやって来る。
 日暮れと共に松原の我が家の裏の小川では多くの蛍が飛び交っていた。祖父が麦わらで編んでくれた虫かごを持って竹箒を振り回して「ほほ蛍来い。コッチノ水は甘いぞ・・・」 と歌いながら追いかけまわして捕まえた蛍を蚊帳の中に入れて飛び回る光や、掌に載せて点滅する光を眺めて遊んでいた。

 日没後の夜空には降る様な星が瞬き、天の川が鮮やかに眺められた。時々現れる流れ星に大急ぎで何を願ったのか全く記憶はないが願い事を唱えたりもした。
 戦後間もない当時しょっちゅう停電があり、電圧低下により頭の上の裸電球が徐々に暗くなった。明かりが消えると珍しく炊かれた白米が茶碗の中で月明かりに白く輝くのを 珍しいものを見る様に眺めていた。

 大川(須佐川)の上流の名前は忘れたが、堀野の家の少し上に、一寸した淵があり我々小さな子供達は岩の上から飛び込んで遊んでいた。この淵には河童が居ると子供たちは信じていたのか、 泳ぎ終わると最後に手を頭の上に組み、潜水して何かの呪文を唱えていた。
 泳がないときには、短い竹に釣り糸を付け、岩の上から、岩肌にへばりついてじっとしている“ごり”を引っかけ釣り上げて遊んだ。この“ごり“は細切りにして鶏のエサにし、 金沢名物の”ごり“とは種類が違うのか人の口に入ることは全く無かった。
 更に上のゴウドウ辺りに行くと、もっと大きな魚がいて、岸辺の草や茂みをかき分け魚を追いかけたりして遊んだ。遊び疲れると、当時まだ馬車を曳いて木を運んでいた 御手洗の馬車に乗せてもらい家路をたどったものである。この御手洗の家も今は更地になってしまった。

 家の前の大川を渡ると“だいだい畑”があった。 未だ元気だった祖母に連れられ、もいだ“だいだい”をあぜ道に並んで座って食べた酸っぱさも懐かしい思い出である。

 6歳の時、両親と未だ1歳だった妹の3人で満州から引き揚げ、松原の我が家にたどり着いた夏の日、ぎらつく太陽と真っ青な空、庭に立つ3本の棕櫚の木と丸嶽が今でも思い出される。
 現在は住む人もなく廃屋となった我が家の、藪になった庭には未だ3本の棕櫚の木が立っており、たまに墓参りに帰る私の遠い日の夏を思い起こしてくれる。

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