リレー随筆

須佐の思い出と父
竹内 祐三
平成22年11月

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 昭和十九年九月国民学校二年生の時に須佐に疎開し、二ヶ月後同年十一月母が病死、翌二十年三月兄が急死して父と二人になった。

 終戦の玉音放送は向かいの本町の堀豊の家に十人ばかり集まりラジオを囲んで聞いた。やがて住まいを外地から引き揚げた持ち主に明け渡し、二十一年大阪に出、終戦の混乱の様を体験した。 翌二十二年中河原に住いを得てから三十三年の暮まで須佐で過ごした。

 父は、元来ひ弱な私を丈夫にと思ったのであろう、父に連れられ須佐の山野、海辺をよく歩いた。高山の山頂、黄帝社へ途中の山道をはって登った。ゲンノウの山でワラビを採った。 金山谷の山中で食べたアケビは美味しかった。須佐湾の海辺は高山を背景にまことに美しい。その父の願とは裏腹に中学に進級した頃から左足の関節が腫れて歩けなくなった。 山口の赤十字病院で結核性関節炎と診断され、入院した。その時清水外科の先生が若い医者としておられ、治療にあたっていただいた。お陰を得て一学年遅れて卒業できた。父は私を萩の高校に入れ、 堀内の学校近くに下宿させて呉れた。ところが高校三年の夏休みに発熱、咳が出て肺結核で床に伏す身となった。出席日数の不足を補おうと、通学をこころみたが体力を保てず、やむなく退学、 卒業出来なかった。

 何これとてすることもなく、毎日公民館の図書館で文学、評論、宗教、哲学の類の本を借りて読んだ。また須佐のあちこちの寺の法話を聞きに行った。浄蓮寺の老師が、徳が高いと聞き及び、 御願いして離れの庵に夜訪ねて親鸞の「弥陀の誓願、不思議にたすけまいらせて……」について教えを請うた。帰り道月の明かりに涙した懐かしい記憶がある。

 捨てる神があれば、拾う神があるといおうか、私が立ち上がることが出来たきっかけは、萩の増山印刷所で技術を習得出来たことである。「芸は身を助ける」。印刷の技術があれば、 日本どこに行っても生きていける。昭和三十四年の正月に東京に出た。父が駅で「がんばれよ」と一言云った時の顔は忘れられない。出雲号で東京駅に朝着いて、 トコトコ八重洲口からブリジストンの交差点まで歩き、寂しくなって駅に戻り、話に聞いていたラーメンというものを食べた。お金が七百円と少し懐に残った。 新聞を買い、求人欄から電話をして永田町の国会議事堂の坂を日枝神社の方に下り、日比谷高校の校庭が裏手に見える印刷会社に住み込みで職を得た。 幸いにして月の給与が食事代を除き二万円以上が手元に残った。大学に入学したことを父に報告したその年の秋に、父の容態が悪いとの手紙を受け須佐に帰った。 東京に出てから初めての帰省であった。旅費を惜しんで須佐に帰らなかった。父は二ヶ月後に亡くなった。私は茫然として、体から気力が失せた。再来年が父の五十回忌にあたる。

 父からもっと古いことを聞いておけばよかった。父は明治二十五年生まれである。日本海の海戦の時、ロスケが浜にあげられ旧制中学の大谷少年が、英語のできるロシア兵と英語で話し、 殺されるとおびえて浜から動かないロシア兵を見事法隆寺に連行できた光景に感動したそうである。そして神戸に出、英語を学んで新聞記者になったと父に聞いた。

 近藤氏の須佐市中細見図に父から聞いていた同じところに竹内の屋敷跡を見つけ、少し先祖のことにつき調べてみようと思っている。伝え聞いていることの事実を確かめ、 会って話をしたくても故人であり、叶わない。

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   来月は田野良子様にご寄稿を御願いします。
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