『須佐津考』
津田 常名
2009年7月1日掲載

 
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「須佐津考」は津田常名の筆になる須佐の紹介文です。須佐湾のことについてこれほど纏まった文章は彼以前に於いては外に見当たらないのではないでしょうか。ここに記されている須佐の名所旧跡や 地名の歴史・由来などは今でも知らない人が多いのではないかと思います。

昭和3年(1928)3月5日、須佐湾一帯は国の名勝および天然記念物に指定されましたが、そのとき内務省に提出された申請書の付属文書としては、「温故」第9号でご紹介した「内務省指定名勝及び天然 記念物須佐湾観光案内」がありますが、その外にこの「須佐津考」も提出されたことが近藤家に伝わる「須佐津考」によって判っています。

当時の須佐の状況はと言うと、須佐に電灯が点ったのは大正6年(1917)の事ですが、昭和元年(1926)に須佐〜萩、江崎間で初めて電話が開通。昭和3年3月25日には益田〜須佐間の鉄道が開通し須 佐駅が開設されました。須佐〜宇田郷間(8.8KM)が延伸して山陰本線、京都〜下関幡生間が全通したのは昭和8年(1933)2月24日の事です。この機会に何とかして「山陰の秘境」須佐を日本全国 に知らしめようと言う熱気が須佐中に盛り上がった時代です。

常名は須佐湾が国の名勝及び天然記念物に指定された翌年、昭和4年(1929)にこの世を去りました。

なお、常名自筆の原稿は2通り現存します。どちらが先に書かれたか確かなる根拠がありませんが、仮に書き込みの多い方を「草稿本」とし、書き込みが少ない方を「浄書本」として、本欄では「浄書 本」を底本として読解します。そして「草稿本」と食い違う個所を緑色の文字で表記します。

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津田常名(1847〜1929)について

常名は弘化4年(1847)12月19日、須佐村に生まれた。父は潤塀常堅といい、領主益田氏の家臣であった。父は萩の益田氏邸で勤務中であったが、病気のため常名が誕生してから十日目、帰村してから  僅か十五日目にこの世を去った。これにより専ら母の手一つで養育された。幼名は百合槌とよんだ。

嘉永6年(1853)七歳の時、伯父に当たる有田信平の習字場に通った。安政3年(1856)正月、十歳の頃から波田与市右衛門の塾に通って習字と素読の勉強をした。

十四歳の万延元年(1860)になると育英館に入学を許され、初めて武士としての文武修行にはげんだ。幼時松下村塾との交流生の一人である山田顕義に句読を学んだといわれる。翌文久元年(1861)  たまたま領主益田親施が領地須佐に帰ったとき、育英館生の中で文武精勤優秀の者、20余名を選び出したが、常名もその中に加わることができた。翌文久2年(1862)正月、  16歳であったが領主益田家の侍御を命ぜられ君側に侍することになり、特に以後は名を公輔と改むべく命ぜられた。

文久3年(1863)17歳、この頃から国事多難な時に向う。6月1日領主に従って下関に行き攘夷戦に遭遇した。この月末主人に従って京都に上った。間もなく8月18日暁になると突如として  従来長州藩が警備していた境町御門の解除の変が起った。協議の結果、三条実美公以下、七卿を奉じて京都を出発した。領主親施も帰国したのでそれに従った。

元治元年(1864)18歳の時、京都に上ったが7月19日になると有名な禁門の変が起った。常名も長州軍として戦って破れ帰国した。長州ではこの敗戦を境として、今まで静まっていた穏健派(俗論派)が  急に勢を得、藩政の主導権を握り、須佐村も二派に分れたが次第に俗論派が実権を握るようになった。

常名は小国融蔵・大谷樸助等の勤皇正義派に賛同して、徳山幽囚の主人を奪い返そうとしたが俗論派の奸策に妨げられた。邑政堂吏員は俗論派と共謀して、小国、大谷、津田等に自宅謹慎、 面会禁止の旨を命じた。

慶応元年正月二十四日、大谷樸助、河上範三らと謀り禁をおかして諸隊の義挙にくみして亡君の遺志を継ごうとする同志9名を集めて山口に達し、諸隊と気脈を通じ帰郷した。 直ちに心光寺に入って、回天軍を組織して志士の団結をはかった。けれども反対党の方の勢力が強大になって回天軍の方から北強団に走る者も出て来た。

2月28日、邑政堂は大谷、河上、常名の3名を回天軍の頭首とみなし呼び出し、「汝ら三名は益田家に対する反逆者なれば、各々親族預けとする」と宣言された。
その後一室に幽閉し日夜監視を怠らなかった。同月30日幼君の君命といつわり大谷、河上に屠腹を宣言し、同時に常名に対しては入牢の宣告があった。常名に対して同罪であるが  未丁年のため死一等を減じたためである。3月2日の夕方、萩干城隊幹部の国貞直人(のち愛知県知事)外三名が回天軍応援のために須佐にやって来た、大谷、河上二氏の屠服に一歩おくれ、  忠烈二氏を救い得なかったことを残念がった。常名は松原仁蔵の宅に幽囚されておったが直ちに解放するよう命じ縛を解かれた。3月7日、国貞氏一行に伴われて、海路で萩へ着、  堀内の干城隊本営に至った。小国融蔵ら同志も解放され、今後の運動方針等の計画をたて干城隊の後援も約束された。回天隊再興の許可も得ることができたが須佐では依然として俗論派の勢力が強く  回天軍の活動は困難であった。そのため村外に出て奇兵隊に入隊する者が相続き47名に達した。

7月に入って奇兵隊を中心に本藩での急進派(正義派)の勢力は強まり、須佐の俗論派の巨頭及び邑政堂の重職にある者10人は、流刑、隠居、逼塞等の処罰が命ぜられた。

この状態の中で須佐村中の正気は再び燃えあがり、勤皇論が高まった。

慶応2年6月に四境の戦役が起り、常名等の奇兵隊は、豊前国小倉口に向って進軍した。可成りの苦戦の末に勝利を収める事が出来た。常名は斥候等の重責を果たし慶応三年正月、帰省した。 帰休中に邑政堂から慰労の沙汰があった。

慶応3年3月病気療養のため帰郷し病気の間、皇学を独修した。
明治元年(1868)戌辰北征の役(越後奥羽方面)に参戦、各地に転戦しその間密使として重責を果たす等大きな働きがあった。戦いが勝利に終って10月庄内を出発し京都に凱旋した。  明治元年11月帰省賜暇の際、益田家の許可を得、三蔭山に招魂場を創設した。後官祭招魂場となり、常名はその受持神官を命ぜられた。

明治2年より一年間、隊務免除の暇を乞い自費で京都皇学所に入った。
明治3年正月、長州藩内で有名な脱隊の変が起こった。その際、脱隊兵中に可成りの須佐人がおり、元、回天軍の同志であった者もあり説得に当るので攻撃を待ってほしいと要望したが期限ぎれのため 聞き入れられず、遂に武力制圧されてしまった。常名はこの事件後感ずる所があって除隊を乞い帰郷した。

帰郷後三年間、飲酒喫煙を禁じて勉学に専念し、明治5年2月からは育英館に在寓し、坂上忠助に従って漢学を修めた。
明治七年須佐の自宅に帰った。
明治十二年、教導職試補の任命があった。
明治十四年、須佐村村会議員に選ばれ、更に村会議長に当選した。
明治十六年、内務省から権少講義を拝命。
明治二十二年、権少教正に昇級。
大正三年、権大教正に昇進した。
昭和四年九月十一日、老衰のため没す。享年84歳。

常名はその母に対して孝養を盡すことは万人の認めるところで、殆んど毎日あんまをしてあげ、食事の時も母より先に箸をとる事はなかったと言われる。礼儀作法がまことに厳しく、挨拶の仕方、 口上なども厳格で、少しの不作法も許さなかった。いつも端然と、書斎の机の前に正座しており、すばらしい数の和学、漢学の本を読書された。口数は少なく無駄口をせぬ方であったが、 人に接するには愛想よく打ちとけて話をした。健康に気をつけ、冷水摩擦を毎日行ない、飲食物は常にひかえ目で粗食で質素であったが、いつもおいしそうに食べた。 要するに古武士の風格を備えた人であった。

著書も多いが主なものを列記する。
「産土神社考」「天則百首」「諸職祖神略記」「佐江史蹟案内」「佐江管見」「須佐津考」「大谷樸助回天軍実記」「本教神理大要」

(出典=須佐町教育委員会刊「幕末志士の学び舎 須佐育英館」)


須佐津考 (読解文)

長門可美山麓稔廼舎(ねんししゃ)主人記(津田公輔常名)

1頁

大原郷

わが須佐村は、和名抄に記せる長門国阿武郡六郷中の大原郷にして、須佐は須佐之男命の由緒に起れる大原港湾の称呼なりしが、久しき年序を経るに従ひ、海浜漸々に埋りて陸地を拡大し、  大原本郷の人戸は続々此新開地域に転居せしを以て、須佐の湾名はいつしか其村称と為りて、次で慶長五年(1600)益田氏の移住せらるるや、数百の士卒は相踵ぎて此地に来り、  俄然、人煙櫛比の一市街を現出して、其の領内七か村の物資集散地と為りたり。大原の郷名は全く廃るる随(まま)に、元大原本郷をば上原・中原・下原と大別し、之(これ)を総称して三原とも云い、

現今は上三原・下三原と二分して、中原は上三原内に野中原の小字を残せり
郷庁の所在

2頁

地跡を三原原(みはらばら)と呼び、郷長の居住せし地を長者が原と呼び、尚其大字中の小区域を劃して桑原・ 春日原・宮原(みやのはら)・宅原・堂原(どうのはら)・黒谷地ヶ原・荒神原・後原(うしろばら)・火打が原等の名称を存せしは、郷名大原の記念と為したるものの如し。 故に現今の三原は、益田氏旧臣以外なる須佐先住民族の母郷たるや論なし。

北谷

三原原(みはらばら)の正北なる山間に北谷ありて数十軒の農家散在せり。此字(あざ)の方位に出たるを以ても、三原原(みはらばら)は大原本郷の首脳地点たりしを証すべし。

松崎宮八幡宮

八幡宮は源氏旺盛時代、武門の崇敬殊に厚かりしかば、石見国津和野三本(松)城主・吉見正頼家の此地方を領有し、笠松山(かさまつやま)築城の時に当り、海岸松崎の地を卜して神社を創建し、 其崇敬凡(およそ)ならざりしかば、同家

3頁

より鼓頭給之袖判・御祭田寄附の証文・御修理田寄附の証文、更に毛利家の封内に転(うつ)りて、元就公より五石の社領を増加せられし等、 数通の古文書は世襲大宮司家に伝来せしも、維新後司祭者の更迭数回にして今は其の所在を知らざるものの如し。益田氏移住後、星霜を累(かさ)ぬるに従ひて、街区整頓し、其の面目を一新したる を以て、産土(うぶすな)神社移転の必要を感じたれば、益田元祥の孫・就宣領主の時、更に現今の社地を撰定し、寛文元年(1661)八月、神殿竣工して遷宮式を挙げたりしが、就宣の子・就恒領主の代に至り、  舞殿・拝殿・回廊等を築造して、元禄五年(1692)の秋、全く落成を告げたり。其の旧趾は現今共葬墓地と為りたるも、鬱蒼たる老松は点々散在して、三百年前松崎時代の面影を偲ばしめ、 脚下の水涯には今猶八幡(やわた)が浜の称呼を存し、松崎を松嶋と誤れるは、湾内鶴崎を鶴嶋と言へる例なるべし。

寛文八年(1668)【注】阿闍
【注】(草稿本)=寛文元年8月

4頁

梨某堅謹書の棟札に、孝徳天皇大化六年(650)五月十八日、豊前国宇佐本宮より勧請せし由に記せるは、社家の杜撰に出たる縁起などに拠れるにもあるべけれど、地勢の沿革、 時代の推移をも弁えざる俗説にして信ずるべからず、凡て神社仏閣倶(とも)に、其資格由緒を飾らんとして、某大社の分幣、某名刹の直末など誇称し、創立を以て再建と偽り、 為めに貴重なる考証材料を失うもの其の例尠からず、又、宇佐と須佐と五音相通なれば、須佐の地名は茲に起これりなど言えるは棒腹絶倒すべきなり。

三原八幡宮

創立の時代詳(つまびらか)ならざるも、現今の上三原区内なる字八尾(やお)の地に鎮座ありしを、後土御門天皇の文明二年(1470)に遷座し奉れりと言えば、大原郷時代の産土神社たりしが如し。 果して然らば松崎八幡宮より百年以上旧かるべし。松崎八幡宮の外、社領(壱石)ありしは此神社のみなりしも、殊なる由緒なかるべけんや。

真宗・浄蓮寺

本村寺院中の最古刹にして、大原郷時代の開基なる由来確実にして、其遺

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跡、上三原区内に在りて浄蓮の字を存せり。小早川隆景公、石見国出陣の途次、当寺に宿泊せられし事数度なりと言う。

当寺の外大原本郷に浄(常)福寺ありしも、郷庁廃絶の後、自然解除の運に遭えるものの如し、今猶其の字を存せり

須佐

既にも云へる如く大原郷の湾名なりし、須佐津時代は海浜深く曲入せるを以て、現今人家稠密の浦東町・浦西町・中津町・水海(元御津海)等の地は、水波瀲灔(れんえん)たる海中にして 大港湾なりしは、 水海に接続して津田在り、町名に中津あるは更なり。土質其の他、証となすべき事多くあり、上古出雲政庁時代に於ける出雲・志良岐(今の朝鮮)間航路の好錨地点なれば、 往復共に薪水食糧 (草稿本=糧食)其の他の闕(欠)損を補充し、更に天候を測定して出帆為(し)給いしなるべし。
上古の諸神は平素釼を佩き、戟を執りて不虞の変に備え給えり。況や海外拓殖の政策に於いて、一日も武装を解くべからざる時に当たり、 本港の如き一定の碇泊津に於ては、当代相応の軍政的設備ありし事は、出雲・古志(越の国)間の、能登・岬角・日向・西渕間の宗像港等の如き断片的事実を参照して推測せらるるなり。

能登・岬角・宗像湾等の事は、上古三大航路考の題下に於いて別に詳述すべし

如斯(かか)る重大なる関係由緒あるを以て、須佐之男命は御親(みゝづか)ら其御霊を鎮め置き給ひて、其神号を存し給ひしなるべし。

出雲国飯石郡に郷名須佐あり、紀伊国在田(有田)郡にも同一郷名ありて、孰(いず)れも須佐之男命の縁故に出たり。殊に出雲国なるは同国風土記に神須佐之男命詔 此国者雖小国国処(くにところ)故、我名非著木石、詔而即、己命之御魂鎮置之処、然大須佐田小須佐田定給故、言須佐 即有正倉 此の国は小国といえども、国どころ故に私の名前を木や石につけるべきではない、と詔して即ち自分の御魂をここに鎮められた所、 然るに大須佐田・小須佐田と定め給う、故に須佐と言う、即ち正倉がありと伝えたり、正倉は保久良

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と訓(よ)みて御霊を祀れる小祠宇なり)、
千家清主(せんげきよぬし)出雲宿禰俊信主国造(こくぞう)の本村の文士・松井某に賜いし短冊に、 「須佐能里(すさのさと)、須佐弖婦(すさてふ)名古曽(なこそ)石乃上(いそのかみ)、経留起(ふるき)神代廼(かみよの)安所能古流良士(あとのこるらし)」とある歌をも思うべし。

御津海

今は水海と記(か)けるも湖水の痕跡と見るべき地勢に非ざるのみならず、之(これ)に接続して津田の字あるを以ても、水涯の漸次に埋もりし耕地たるは知るべきなり。 然れば水海(みずうみ)の「豆」(づ)は美都海の都を濁音に呼び転(うつ)せしものなるべし。当湾内に入り、物資の需要其他、大原本郷の民家に対する交渉談判の必要なる船舶は、 此の曲汀に深く櫂入するの便宜なるを以て、須佐之男命の御船も屡々着岸せし遺跡なれば、殊に御津海の敬称を存せしなるべし。

摂津国難波津(なにはづ)を難波の御津(みつ)・住吉(すみこ)の御津(みつ)・大伴(おほとも)の御津などいへるは住吉神社あるに因り、近江国湖畔の御津は七社に対していへるにて、 みな敬称なり。尚出雲国仁多郡三津郷名を始め、同義の称呼は例多し
津田の字は恰も其津頭なる投錨地点にあたれり。

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神山 海抜1758尺

此山岳は石見国三瓶山以西、馬関海峡以東の航海線に於いて、最大目標たる位地を有し、遠距離の舟子・船客、此方位に向へば東西の陸地は殆眼界に入らずして、 洋中に突兀たる一嶋嶼あるの観あり。出雲政庁時代に於ける志良岐行は、同国日御崎(ひのみさき)より此山岳を指して石見海岸を通過し、帰航の時は、遠く数十里外より此山岳を望みて、 海峡を横断せしなるべし。山名加宇山(こうやま)は須佐之男命の由緒に起これる神山(かみやま)の音便にして、神山中に神山の小字あるも此の神社の所在地なればなり

神を加宇と唱うるは神戸・神崎・神代・神足など地名姓氏等に其の例枚挙に遑あらず。
高の字を填(あ)てたるは、音便に泥める後世人の妄なり。
鎌倉幕府時代に於て、此山腹に東山・西山の二牧場ありて、東山は野原九郎右衛門、西山は西山左近なる司牧者在り。幕府の徴発に応じて続々馬匹(ばひつ)を貢献せり。宇治川の役、 其先陣を争ひし佐々木高綱の乗たりし生食(いけづき)の名馬は、此牧場より出たりと口碑に伝ふるは更なり。其遺跡とさえ称ふる零残(零散)の地区在るも、出雲・志良岐間航路の休泊地点として 武的設備の在りし由来に基き、佐々木高綱の長門守護職たりしてふ伝説を連結して、好事家の捏造せる変形談片(断片)なるべしと思わるれども、当代猶此山の

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他群峯に超越せる一霊山として、神聖視せられし一斑を窺ふべき価値ある伝説なり。
 

神山(かうやま)神社

此山に神山の小字ありて、其地に神山神社と称へたる旧社在り。

後世、神山の分区前地に属したり。
前地・広潟等に御祭田等ありて其経営の宏壮なる、鐘楼・御手洗川等の設備あり。
鐘楼の廃跡は今猶鐘撞メン(免)の字(あざ)を残せり
海浜より社殿に至るの間、華表(鳥居)三基を配置せり。其祭儀の厳粛なる、毎年九月朔より同十四日に至る満日には、御輿三躰、麓なる広潟の浜に出御ありて、夫れより御幸地海老嶋
また鶴崎とも言いたりしが、今は鶴嶋と呼べり
まで船橋を仮設したり、
往古の社地は後の社地より聊東に寄り二町許(ばかり)上れり、今猶石垣の跡を存し、堤及び老松一株在り、 南朝後醍醐天皇延元二年(1337)、野火の災に罹れり、此の時、大神[は]飛鳥の如く空を翔り、此地なる一大石上に影向(えごう、神仏の姿)ありしを以て社地を変更し、社殿を再建せりと言う。
尚其有名にして崇敬非凡なりし事は、湾外往復の船舶は必ず其の帆を下し丹誠を凝らして航路の安全を祈り、本港碇泊の時は必此の神社に

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参詣するを例と為せしのみならず、大原本郷の住民は更なり。陸行旅客の為には二箇所の定設遙拝所在り、四季随時の花を供へて、 各自の安全幸福を祈りしかば、今尚其跡を存し、号(なず)けて上花立・下花立といえり。其祭神は、上古須佐之男命の御親(みみずから)鎮め置き給ひし御霊を祀れるは 上にも言へる如くなれど (【注】(草稿本)=論(あげつら)うまでも無けれど、其の) 御母神伊邪那美命をも配祀せしものなるは、花立ての故事にて知らるるなり。

然らば、神社創設の当時に於ける其規模の如何を論せず、実に長門国第一の旧祠宇なりしを思うべし
然るを須佐之男命をば加良神(からかみ)と称し
須佐之男命の御子・五十猛命を加良神と称して宮内省に祀られし例あり。御父子倶に大陸からの神、 韓神で守護神として宮内省に祀られていた神か 御父子倶に大陸地方の治水事業、拓殖政策の為め屡往復し給ひし御事跡あるを以て、 孰(いずれ)も加良神と称すべし、加良は上古大陸地域を指せる汎称なればなり。
於吾児所知之国不有浮宝則未佳 あがみこの、しらすくににおいて、 うきたからあらずはよからず と、詔(のりたま)ひて、船舶製造の用材たるべき杉・桧等を始め、植林事業に御功績ありし史実によりて、船霊(ふなだまの)神とも称せる故に儒学の権威ある時代に於て、 漢土黄帝[号は]軒轅氏の、刳木為舟 剡木為

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舟のために木をそぎ、楫のために木をけずるの伝説に附会して黄帝と誤称せられ、次で神山を高山と書ける時代と為りては、弘法大師云々など紀州高野山の縁起を加味して、 終に寛文十二年(1672)十月、 厚狭郡小野村より瑞林禅寺を移して紹孝寺の末寺と為し、其境内に一社殿を建立し、誤称黄帝を之(これ)に移して、領主より社領米三石四斗を給与し、紹孝寺住職の弟子大宥を住職と為して、 社務を司らしめ船霊の神徳を宣揚せしめしかば、神山神社に対するの信仰は全然此神社の有に帰したるものなり。 爾来数代継承、以て今日に至り神聖なる古跡、貴重なる伝説を忘却して村名須佐の由来をさえ知らざるに至りしは遺憾の極みというべし。如斯(かく)て相殿伊邪那美命は紀州熊野神社より勧請せしものの如く、 熊野八相権現など称して、依然其の社殿に在座(ましま)せしも、漸次衰頽の悲運に傾き、其規模を縮小しつつ、猶一社の資

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格を保有するに努めたりしが、維新後、神社整理の命令下に産土神社に合併して、其の社殿を解除するに至りしは痛嘆に耐えず、時ありて神山神社の復旧を図るは神人の期待する所なるべし

天保年間、神仏淫祠廃除の厳達ありし時、瑞林寺境内黄帝の祠宇は淫祠なるに依りて解除すべきの命ありしに依り、住職信徒協議の結果、沖浦区鎮座山王神社を移して、 須佐之男命の誤称黄帝をばこれに合祀すべき双方の交渉相纏り、其認可を得たれば、爾後山王神社を公称したりしも、歳月の久しき、其制度の緩むに従ひて、いつしか黄帝に復帰せり。 又瑞林寺は一仏閣たるべき資格を具せざるを以て、明治八年、官より廃寺の命ありて妙高庵と号す。

平嶋通夜堂

平嶋は湾内嶋嶼の最大なるものなり。嶋背平坦なるは其称の起こる所以(ゆえん)なり、此嶋に通夜堂の称あるも今其遺跡の見るべき無く、其堂の廃絶は殆(ほとんど)百年前なるべしと古老の談なり、 平嶋・中嶋間は船舶の好錨地点にして、冬季風波の多きに当

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り、帆檣林立の美観を呈するは、佐江十二景中に中嶋泊舟あるを以ても知るべきなり。然れば神山神社時代は更なり。其黄帝化せる後と雖(いえど)も、 苟(かり)にも航海の人にして、此神霊を崇敬せざる者無きを以て、本祠参拝の後、猶数日の繋泊を為すときに於て、夜間此嶋に上り、本祠を遙拝して天候の回復を祈り、神酒 直饗(なほらい)の宴を張り、其傍(かたわら)無聊を慰めたりしを以て、通夜堂の設備は必要なりしなるべし。

雄嶋(をしま)

 湾口の正中に嶋あり、これを雄嶋と称(い)えり。【注書】周廻七丁三十間 神武天皇記に五瀬命(いつせのみこと)崩御の事を記して、 到紀伊国男之水門而詔 負賤奴之手乎 死為男建而崩故 号其水門謂男水門也  紀伊の国に至り、をのみなとにて詔(のりたまわく やつこが手負いてや おたけびてまがりなむとし  かむまがりしきかゆえ そのみなとを おのみなとというなり とあり。
男建(おたけび)は雄々しき大喊声を発するなり
此嶋名の雄も須佐津の休泊地点を発して、更に海路の危険を冒さんと為る時に臨み、雄々しく建(たけ)く声うち揚げて、発航の御稜威(みいつ、天使の威光) を奮ひ給う例な

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りしより号(なづ)けたるものなるべし。

中嶋神社

湾内に中嶋ありて、其嶋頂に弁財天と俗称せる神社あり。狭依毘売命(さよりびめのみこと)亦名(またのな)市杵嶌姫命(いちきしまひめのみこと)を祭りて、 田心姫命(たごりこひめのみこと)・湍津姫命(たぎつひめのみこと)をも配祀せし由なるが、此三女神は筑前風土記に、宗像大神 自天降居崎門山之時むなかたおおみかみ さきとやまにあまくだりましのときより云々とあるを以て、九州方面に降り坐(ま)しし神として、其山号を同地方に発見せんとせるは徒労なるべし。 此神等は其御名義より考ふるも、海外治水事業に重大な関係あるべきは更なり。

雑誌神道第四十九号に投稿せし経国と治水の題下に詳述せり
出雲国に在坐(ましま)して
大国主神、 田心姫命(たごりこひめのみこと)に娶(みあ)ひまして、其の御間(おなか)に二柱の御子生坐(あれま)し、また湍津姫命(たぎつひめのみこと)に娶(みあ)ひ坐(ましま)して生坐しなどを、 熟々思うべし
御弟(みおと)五十猛命神(いそたけるのみこと)・ 八束水臣津野神(やつかみづおみつのみこと)等と倶(とも)に、御父須佐之男命の御功績を扶翼(たす)け奉りて、志良岐方面には屡往復し給ひしなるべければ、 其天降地は出雲国なるべき縁(いんえん=つらなる、からみつく)あるを以て想ふ

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に、出雲政庁時代の志良岐航路は、同国日御崎を以て発着地点と定めらるべき予期もありて、埼門山(さきとやま)の佐伎は日御崎の崎、登は水之門(みなと)の登、即ち御崎港の義なるべく、 其港湾近き山岳をば埼門山と言えるにて、其山に降り給ひし由の伝説なるべし。神名式に出雲国出雲郡御崎神社ありて、社記に、上社八束水神相殿三座田心姫・湍津媛・厳島姫とあり

いま簸川郡に在り国幣中社
然れば此神等の御遺跡の須佐津に存するは当然の事にて、神山の麓、広潟の水浜より三丁許(ばかり)上がりて弁台  弁天台の略称 と云ひ、又 古社(ふるやしろ)と称ふる一小地区あり。
中嶋神社祭典の夜、海上神幸の時刻を期し、其地に篝火を燃して盛儀を援くるの古例ありしなり
往古、此神社の在りし地なるも、御船の投錨地点たりし、御津海の埋まりて後は、其地に奉遷(神体を移す)して崇敬怠らざりしが、旧領主益田氏移住の後、享保十四年六月、 田万村字市味(いちみ)鎮座白山神社を奉迎して、同一地区に荘厳なる社殿を建立せられしより、

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地主神たる厳島神社は白山神社の末社とも見るべき失体(態)と為りしを以て、数年の後、此神社をば更に湾内中嶋神社に遷し奉れりの止むを得ざるに至れりと言ふ。 然れば当中嶋神社は上古、須佐津時代の遺跡として有力なる証拠の一たるべきを、これまた神社整理の際、神山神社と同じく解除の悲運に遭ひたりしは惜しむべし。

(草稿本)=神社整理厳達下に解除せられしは惜しむべし。

如此(かく)て嶋名中嶋は大国主神譲国退隠の時に当り、此神等、筑前国宗像湾の沖、中辺(おきなかへ)三嶋に各神体(かむざね)の形代(みかたしろ)を残して、海北道主貴(わたのきたみちぬしのむち)と鎮座(しづまりま)して 市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)の別号を中津嶋比売命とも称(まお)せるより起これる、御鎮座後の称呼なるべし。

中津町

湾口より一直線に入り来たれば左に御津海在り、右に青浦(あおら)ありて、其の中間、即ち正面位地に深く曲入せる水涯を中津と言ひしものなるが、現今は陸地と為りて、

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浦東町・浦西町・中津町等の町名を存せり。 浦町・中津町の間を流るゝ須佐川在りて、之に架するを湊橋といへり。百五十年前までは漣漪(さざなみ)岸を洗い、

(草稿本)=港橋と呼へり。百二三十年前
数百石積の帆船この所に繋泊せし実況を記憶せりと児童時代に聞き得たりとは古老の談なり。
(草稿本)=せりと口碑に伝へたり。

海士(あま)ヶ地

和名抄、信濃国小県郡に海部 安末無倍、あまむべ、また越前国坂井郡に海部 安万無倍 と録(し)るせり。倍(べ)は米(め)とも通いて、群すなわち牟礼の約なるは例多し。上既に言へるが如く、上古の諸神は荒振(あらぶる)神、 伏(まつろ)はぬ人に備ふるため、常に武装を解き給はず、須佐之男命の如き海外経営に従事し給いし豪邁の神等にして、航海の時、相当の警備有りしは言ふ迄も無し。細戈千足国 (くわしほこちだるのくに)の称も千は千早振るの千と同く稜威(いつ)の義なり。海士族は其航海に扈従警衛せる船卒にして、有事の日の海兵、無事の日の漁業者たりしかば、言義

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は海護(うなまもり)なるべし。

宇奈の約[は]阿と為り、万牟は万母里の略転なり。又阿万牟を略して阿万とも阿武ともいえり
治水殖民の時運も経過して、航路要津の施設も自然其跡を絶つに至れるを以て、海士はいつしか漁獲専業者の称となりしなるべし。諸国の郡名地名に阿万と称うるもの数多ありて、 其大概は中世以降漁業上の関係に出しなるべきも、隠岐国海部郡、筑前国宗像、二郡の海部郷を始め上古の武備的由緒ある称呼の残れりと思はるるも亦多し。
後世蜑ヶ地と書けり。其対岸に蟶潟の字(あざ)あるは、海士族の専業漁人と為りし時代に至り、此の海浜に蟶貝養殖の事ありしに因れる新字(あざ)なれば、 海士が地の分割区たるや疑い無し
朱雀天皇の承平元年(931)、 石見国益田郷勝達寺の開基たりし 浄蔵大徳 三善清行の第八子 の其途次、大原本郷より海岸に出れば、名にしおふ須佐の入江の風光明媚、眺望に余念無かりしかば、且(しばら) く此地に在らばやと神山神社に参籠し、一夕遙かに海士が地方面の点灯を認め、 海浜を辿(たど)りて其部落に到り、谿流に沿ひて上ること数丁、清浄第一の

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霊地を卜して庵室を結び、居ること三十年、七十四歳にして入寂せりという。今猶浄蔵貴所の墓と伝へて其遺跡を存し、墓前に一祠宇を建立して 浄蔵大徳の霊を祀り、修験者・戒定院 元金寿院といへり 在りて、其司祭者たりしが、維新の際、院主は神職となりて内山氏を名告(なの)り、浄蔵貴所の祠宇をば鏡山神社と改称せり。

海士が地の水浜に一株の老松あり。其枝垂れて水面を払えり。号(なづ)けて下松(さがりまつ)といふ。浄蔵の此地に来るや、其法力霊験を土人に示さんと欲し、 此松に対して呪文を唱えたれば、其末梢忽(たちまち)屈折して、現状を為せりと伝えたりしが、四十年前に枯死せしは惜しむべし

阿武浦(あむうら)

上古須佐津時代に、海士族の一部落を為せし地にして阿牟(武)浦というべきを阿夫良を便称せしが、現今の浦地区開拓以後、此方面の人煙全く廃絶して耕地と化(な)り何時しか阿武浦をば油と誤書し、 其水涯を油ケ磯と呼ぶに至れり。又此地に

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隣接して大越と称(とな)ふる一小地区と元阿武越なりけんを阿武の大と転訛せしは阿武中の大井阿武嶋の大嶋となれるを始め其例多々あり。然れば當湾内に海士ヶ地・阿武浦の東西相対して 海士族の居住せし跡なる事著し。

大越

【注】この大越の部分は「浄書本」では記述が無く、また「草稿本」では抹消されている

佐江十二景中に、大越の落雁ありて湾内勝地の一たり。三女神を祀りし弁台の旧址も、其距離遠からざれば、[(虫損)隣接して大越と称うる一小地区も、 元阿武] 越なん事は大井の阿武居(あむい)、大嶋の阿武嶋なるなど準へて知るべし。 然れば当湾内にては海士が地、大越の東西相対して海士族の居住せし旧跡なるべし。  

尾浦

古名大浦なりしも、文化文政の頃より尾浦とも混書し、現今は全く尾浦と誤れり。此大浦も大井村などの例の如く、阿武浦にはあらざりしが、此地に阿武氏の旧家あれども、 文化十一年十二月火災に罹りて其の系譜の焼失せし由なるは遺憾というべし。 

帆柱

古老の口碑に因れば、神山(かうやま)黄帝、始めて船を造り給ふ時、其帆柱を此地より伐出せるに起こりし地名なりと。須佐之男命の誤伝なるは云迄もなし。海岸の山林にして、船

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舶製造の用材を出すは、古今決して珍しからず。然るを殊更に其地名として永く後世に伝ふるは其故無かるべからず。神功皇后征韓の役、其製艦材料を出したりてふ、 厚狭郡船木村なる故事伝説を参照すべし。

(以下「草稿本」の記述)現今の地理にては、海浜より相距る一里の地にして、其運搬頗る不便なるが如くなれども、上代は神山岬角の背後なる江崎港の字江津区域に 深く曲入せし由なれば、海路の便想像るべし。

津守氏

高山の東麓字野頭に津守氏あり。大原郷時代の旧家にして益田家移住後世々相襲(あひつ)ぎて野頭村の里正たりし門地なり。上古須佐津時代に於ける御津海は津守護職、即ち当家の管掌下に在りしと思はるるは、 維新当時迄も猶御津海新開地域の大半を領知せしものの如し。当主の先代廃藩置県の際、世襲の職を失いしより家運漸く衰頽して、今より四十年前当主幼少の時、一家離散の悲境に陥りたるを以て、 其の墓地には、益田家移住前の年号を彫刻せる古墳数基あ

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るも、今其系譜を調査するの便無きを如何せん。  

唐津

海浜を距たる壱里、唐津の一部落在り。豊公征韓の役、益田家の軍に属して帰化せし鮮人某、改称土谷六郎右衛門の居住して、陶器製造を開始せるに起りし地名なる由の伝説ありと雖も、 果して然らば、萩地に同一由来に因りて唐人山の称あるが如く、唐山或は唐谷など唱ふべき地勢なるにも拘わらず、唐津といへるは上古須佐津の別称なりしを後に鮮人の居住せし新なる縁故を以て、 此一小区域を専ら唐津と称することとなりしには非ざるか、否らざれば津(の)文字全く無意義なればなり。

肥前国なる唐津は、元海浜なりしを後に現今の地に移せしものなりと言う。
然れば、元御津海津頭にして、大原本郷に上る谷を加波良谷と云ひ、元中津々頭たりし地区に加波良丁・中加波良等の称あるも加良の加の余韻を引

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きて加阿良と称へたりしより、 後世に妄に河原と記す事と為りて、韓(から)の本義を喪(うしな)ひたりしには非ざるか。須佐之(男)命の御子・五十猛神を加良神と称(まお)せる例証は既に説(い)へり。然れば須佐之男命を加良神といひ、 其親密なる関係地に加良てふ名を負せたるは怪むに足らず。況(まし)て五十猛神も須佐之男命と共に当湾に入り給ひし由縁あるべきは論(あげつら)ふ迄も無し。

菊を字鏡に辛与毛木 (からよもぎ)とあるを、和名抄には、加波良与毛木(かはらよもぎ)と記せり。加良の加波良と転訛せる例なり。尚言はば、神名式(じんみょうしき)、豊前国田川郡に辛国大姫大目神(からくにおおひめおおめのかみ) ありて、其郷名を香春(かはる)と言ひ、又同書筑後国三井郡に高良玉垂命神社ありて当国の一の宮なり。其祭神は諸説区々にして一定せずと雖も、武内宿禰と云へるが正しかるべくして、 土人は山を加宇良山と云ひ、神社を加波良様といふ由なれば、孰れも加良の加波良・加宇良など転(うつ)れる例なり。当村野頭区内の小字に、高浦の称あるも、旧記には河原(こうら)と記るせり。 神山の山腹にして河原など称ふべき地形に非ざれば、是亦、加良の転訛にして須佐津時代の遺跡なるべし。

白須山(しらすやま)

新撰六帖に「長門なる阿武の郡の杣板(そまいた)は、もろこし人もすさめざらめや」とありて

すさめざらましとある本

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の誤りなるは言うまでも無し
上古大陸地域の膂肉(そじし)の空国(からくに)なせる時代に於ける韓国方面の用材は、主と我阿武郡より輸出運搬せしものと思はるるを、郡内にては当山脈の産出其大部分を占めたりしを以て、 新羅杣山(しらそまやま)の称ありしなるべし。
曽万の約、佐なるを佐と須は通音なれば転れるならん。上古は朝鮮を志良岐とも志良とも言へり。又皇大神宮の御樋代(みひしろ)材を採れる信濃国木曽山を御杣(みそま) 山と定め給ひしを始め凡て一定の用材地を指して其杣山と称へる例なり。
往昔阿武郡六郷時代には、大原郷に属せしなるべきも、此山脈は阿武郡を縦断せる大山脈にして、現今の白須は惣郷・福川二村に跨り、 更に田代山(たしろやま)と称(とな)ふる部分のみ須佐村に属せり。畏友宮内省図書寮出仕・逸見仲三郎氏が須佐を賞玩(すさめ)に云ひかけて、上の一二の句に隠応せし

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めたるは、 歌学上めでたしとこそ言わめと言えるも亦感(めで)たし)

阿武郡

阿武は安万無倍(あまむべ)の略称なるべき事は、上海士(かみあま)が地の条下に説(い)へるを、阿武郡十八ヶ村

を統轄せし郡衙在り。一郡の惣社八幡宮在りし大井村は、和名抄阿武郡の郷名に阿武とある是なるが、其村内に名勝阿武の松原ありて、古歌に阿武の松原と詠みしを、 音便に於々(おお)の松原と称ふるを以て、大井村の阿武井村なるを知り

大の訓は於保(おほ)なるも、音便に於々といふは常なり。井は居ならんも知るべからず
其海中なる大嶋の阿武嶋なりし事をも推断せらるるなり。此沿海海士(あま)族の有名なりし事は、万葉集十三巻処女等之、麻笥垂有続麻成長門之浦爾云々、 阿胡之海之荒磯之於爾 浜菜採海部処女等纓有領巾、文光蟹手二巻流玉毛湯良羅爾白栲袖振所見津相思羅霜 おとめらが、をけに垂れたるうみをなす、 長門の浦に朝なぎに、満ち来る潮の夕なぎに、寄せ来る波のその潮の、いやますますにその波の、いやしくしくにわがもこに、恋ひつつ来れば阿胡の海の、荒磯の上に浜菜つむ、 海人をとめどもうながせる、ひれも照るがに手に巻ける、玉もゆららに白たへの、袖振る見えつ 相おもうらしも とありて、其の阿胡、即ち大井村の隣村奈古(なご)なる事は万葉集 七巻に、摂津国住吉の名児を吾児(あご)とも詠めるを見て、 異称同地なるを知るべし。然れば阿武郡海岸は上古の阿万無倍(あまむべ)、即ち海士部族の集団地区なりしなり 
大日本地名字書に、幽齋紀行を引きて、阿胡海を萩湾の古名と為るは誤れり。紀行に小畑と瀬戸崎の間に、あこの浦波の高くきこえければ云々と記せるは、小畑湾を

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発れば奈古沖より大井沖に亘(わた)れる大嶋沿岸を打廻らす涛声の遙かに聞えたる由なるべし
畏友東京國學院大學の教授西川権氏より来簡中に阿武郡阿武郷など称(まお)す地名の原意義如何は大に古典的の関係有之争に御座候云々 元海士二語の内、何連に属すべきか云々  阿武も蓋海士の原始的干係地方に有之べくと思はれ候事にて、従て阿武郷と共に海士族の氏神たる住吉神社名を称せる住吉郷も在り、又此海士族は真珠を以て其名誉の一徽号 (きごう=はたじるし)とする。恒例の如く多萬郷と有之、古語に此真珠をアコヤの珠と云ふを共に万葉集に長門国の阿胡浦・阿胡海あり云々、以上悉く海士族干係の顕著なるものにして、 今昔物語中の阿武太夫なるものは即ち其一大氏族中の宗家たり。其辺にての氏の長者たるべく、然らば其古居址もあらば御地方郷土誌研究上の中心眼目の点共不相成哉と存候との指教に接せしが、 其大概は予が考証の本旨に反(そむ)かざる有益の参考資料たるを以て其まゝ

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此処に記入せり。

大津郡仙崎港

須佐・馬関間に仙崎港あり、須佐湾に匹儔(ひっちゅう)するの良港なり。風位潮流、須佐湾に入るの不便にして、仙崎に寄港するの止むを得ざる時もありしを以て、 仙崎は自然須佐津の支津たるべき関係ありて、海士族の常備、其他臨機の警戒も須佐に亜(つ)ぐの施設ありしなるべし。本村に有名なる祇園神社在りて、其の祭儀の盛大なる郡内第一位なるが、 該神社は萩椿村、現今の県社八幡宮の地域に鎮座ありしを、文禄の末、慶長の初めの頃此地に奉遷したりし由なれば、豊公征韓役に於いて、上古の対韓史上に光彩ある須佐之男命の鎮祭位地を、 軍隊発航の仙崎港に進めて、専ら神威の発動を祈り、此神の御親征を意味せしものなるべし。

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以上、列叙せし考証に因りて、須佐湾は上古の一大要津なりし事は明白なるべきも、 出雲k雲(政の誤りカ)庁撤廃以降は、出雲・志良岐間航路の碇泊地点たりし須佐津及仙崎津も、対外政策上の必要無ければ、年代を経るに従ひ、警戒兵備の機関も解除せられしは云う迄も無きを、 神功皇后征韓のこと発り、豊浦帝都を以て策源地と定め給ひし、出師計画の急要なるに当りては、同地の背後なる日本海、殊に韓国の対岸に、元須佐津の別津たりし大津郡仙崎港の在るありて、 其方面に残存せる上古の戎的装置、右武(ゆうぶ、軍事)習俗の遺影を振作せしめ、裏日本海岸の権威を集中活躍せしむるに於て、有望なる便宜あるを発見し、元須佐津に残れる武装関係の事物、 其利用すべきは、零砕洩らさず之を移せるは更なり。阿武郡沿岸に散居永住せる海士族後裔を招集せしは其主要目的なりしなるべし。仍て按ふに大津郡の郡名も、 阿武郡沿

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岸の海士族徴兵を仙崎港に集めて隊伍編成、堂々たる発航の事ありし由来を以て、阿武津の呼称は起こりしならん。

阿武の転(うつ)りて大となれるは、大井村の例あり、同郡にも大嶋在り、又大浦の字もありて、文政年間迄は潜水・貝取りをもって専業となし、 女海士の多かりし由旧記に見えたり
西川権氏が、大津郡は神功皇后征韓役に臨時津政を布かれて、其の兵艦を発遣せしめ給ひしに起因せる郡名なるべし、同郡向国(むかつく)の地名も由ありげなる由言えるをも参考すべし。

萩町浜崎住吉神社(県社)

社伝に據(よ)れば、明暦元年(1655)当浦漁人の海上遭難に当り、摂津国住吉神社の冥護を祈りたるに、其の霊験顕著なりしを以て、本社の御分霊を勧請し、鶴江台上恵比須森に其祠宇を設けて鎮祭したりしが、 其の後毛利綱広 【注】(草稿本)吉宗  藩主の崇敬厚かりしを以て社殿を建立し、現今の地に奉遷せられし由なるも、和名抄阿武郡住吉 須美与之 及神戸等の郷名あれば、後世民間私設の神祠には非

■国譜備考 文政二年 田敬之識
明暦元 勧請泉州境住吉 於鶴江恵比須森
万治元 浜崎住吉社造立 鶴江ヨリ遷ス
寛文元 住吉祭礼始

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ずして、対韓史実に由緒ある一大古神社たりしや疑無し。然れば、神功皇后征韓役に於て、其神勅の任に豊浦郡住吉荒魂(あらみたま)神社を創建し給ひしと同時に、須佐・仙崎間に於ても凱旋奉賽の為め、 其中央地点たる萩地の一突角、鶴江台の地形を卜して 【注】(草稿本)撰んで 神社の建設ありしなるべし。綱広 【注】(草稿本)吉宗 藩主の崇敬厚かりしも、当時猶征韓役の関係を忘却せられざりしを以て、其神殿の廃頽を慨(なげ)きて、 之を復旧せられしにもあるべし。然るを漁人遭難云々の口碑に存(のこ)れるは、阿武郡海岸に散在せる海士族の召集に応じて従軍したるが、激浪怒濤の危険を冒し、専心軍務に鞅掌せしも、 軍神住吉大神の神威発動に因れる赫々たる武勲を以て千危万難を免かれ、珍(めで)たく凱旋したるが故に、其の奉賽として神社は創立せられたりてふ伝説なりしを、阿万は漁人の汎称となり了(をは)れる、 後世の誤解妄断によりして既述の口碑を存せるなるべし。

30頁

尚此神の御偉績に就ては其征韓の神勅は更なり。古語拾遺に「至於磐余雅(稚)桜朝、住吉大神顕矣、征伏新羅、 三韓始朝」 いわれのわかざくらのみかどに至りて、 すみのえのおおかみあらわれたまへり しらぎをうちしずめて、みつのからくに、はじめてまいく。 云々とありて、現人神(あらひとがみ)とも号(まお)せるなど、其神異のいかに尊厳偉大なりしかを畏々(かしこみ/\)も拝察すべし。


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