増野家文書

『四組人高其外覚書』

整理番号:「12袋4」

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解  題

益田家の「四組」の成り立ちについては、是まで余り詳しいことは判っていません。その様な状況の下で、増野家文書 整理番号12袋4 は短文ながら僅かにこの仕組みについて記述しており、 大変貴重な文書だと思います。

この文書によると、益田家は元和7年(1621)春にそれまでの「八組」(一組36人)の軍制を改めて「四組」とし、一組64人の編成変えになったと記されています。「八組」は大蔵、市丸、立野、宇谷、友信、下小川、境、千疋 で、いずれも田万川町に現存する地名です。それが「四組」となって宇谷、市丸、須佐地、瀬尻となりました(栗山忠聡家系図より)。

「八組」とか「四組」というのは益田家の軍制です。「四組」の軍制は牛庵公(益田元祥)の「祖法」と言われていますが、彼は元和6年10月14日に家督を元尭に譲っていますので、家督相続の機会に軍制を再編成 したのかも知れません。

「八組」は萩本藩の「八組」に倣った制度です。本藩では大組とも馬廻組とも言い、藩士中核の階級層で軍陣に臨んで主将の馬廻りに従うもので、これを「八組」というのは藩初の頃、一門八家若しくは 寄組の士に配して組を編成し、寛永2年(1625)の制では八組とし、輪番にして六組は藩地に留めて萩城の勤番その他につけ、二組は藩主の参勤に随従警固して江戸に駐在させたことに起こります。 平時には代官役その他藩政各般の幹部的役職に補しました。(石川卓美編集 「山口県近世史研究要覧」より)

この増野家文書には次のような事が記されています。

一組64名の「四組」は元禄六年の組騒動が契機となって一組55人(侍25人、中間30人)に編成変えとなった。
元禄年中(1688〜1703)は何とか輪番制で組侍や中間が「出浮」して須佐の勘場勤めや益田公の上京、参府、萩勤番などのお供などの「公用」に従事した。
所が、組組織は召放ちや家計窮迫などで組員の数が段々減ったこと、および藩財政悪化に伴う俸禄カット(半知の馳走米など)が厳しく、武士と雖も農耕に従事しないと家計を支えることが 難しかった…などの理由によって、「出浮」に従事することが難しくなった。
そのため、それ以後は輪番制の「出浮」の代わりに各組から一律10人(侍4人、中間6人)を差し出して「公用」に従事する事になった。各組は組毎に事務所として組屋敷を建て、この定勘場に組頭元詰めや 組証人夫婦が常勤で勤務するようになった。組証人は須佐詰めの侍4人の中から任命するようになった。
組証人は元々は年寄座から任命して夫婦で組頭役宅に詰めていたので組頭へは四人扶持を支給していた。

この文書は享和元年(1801)に当職であった宅野太郎左衛門が書いたものです。当時、須佐では須佐騒動が起こり益田家中を二分する大事件になっていました。その最中に彼がこの文書を執筆したと 言うことは大変興味い事です。300人の侍・中間が益田本家の門前で嗷訴事件を起こしたので、宅野太郎左衛門は「四組」の在り方について思索を巡らしていたのかも知れません

処で、益田家の「八組」とか「四組」の名称はいずれも現萩市田万川町の地名因んでいます。益田氏は関ヶ原以前、即ち永禄(1558〜70)の頃から阿武郡に積極的に進出しており、慶長5年(1600)年11月27日 益田氏が石見益田から須佐へ移住したときには、これに随従した家臣団の中に既に以前から小川村の大蔵、市丸、宇谷、千疋、下小川、友信、境、立野、などに在住していた益田家家臣が数多く居たのです。

益田家の「従石見国御国替之砌御家来組分并人付帳」によると、次のように296名の侍・中間が小川村へ移住したと記録されています(「須佐町史」131頁以下)。 これが当初の「八組」の起原になったものと思われます。小川村は 当時対立関係にあった津和野の吉見氏への軍事的な拠点であると同時に、米の収穫を上げることのできる土地であったと考えられます。組頭を除くと組員の数は全て36名で増野家文書の記述と一致します。

◆大蔵    増野藤右衛門組 侍 23人 中間 13人 その他 1 合計 37人
◆一(市)丸  栗山孫左衛門組   21     15      1    37
◆宇谷    石津権兵衛組    22     15          37
◆千疋    波田太郎右衛門組  23     14          37
◆下小川   増野十左衛門組   19     18          37
◆友信    大谷権左衛門組   17     19      1    37
◆下小川境  澄川吉兵衛組    20     17          37
◆立野    堀市郎右衛門組   18     19           37
         合計      163     130      3    296人

◆読解文

四組人高其外覚書
組内の儀は元和六年より[暮れ]
までは八組にて、壱組三拾六人高に
て候事
元和七年の春より四組にて
人高一組六拾四人にて候事
其の後組内段々人数の
増減もこれ有り候えども、元禄年
中迄はいづれも組内より追々
出浮候て入れ代わり致し、須佐所勤
致し候、証人の儀は夫婦共当頭え相
詰め居、諸沙汰致し候、これに依り組頭え
四人扶持立て下され候事
只今組内五十五人{侍弐十五人、中間三十人}
仰せ付けられ候は、元禄六年組騒動
以後か様に壱組五拾五人に
御極めに成られ候、然る処、少人数に相成り
候ては、組侍中間須佐出浮き
候て所勤差閊に及び候段
聞こし召し上げられ、壱組侍四人中間
六人、しめて拾人詰めに仰せ付けられ候段
仰せ出られ候、これに依り組屋敷の儀
御願い申出、御渡方相成り、組内より
普請仕り、年寄座両人中身

通り両人御中間六人差出、
公用所勤仕らせ候、これに依りわづか
ながら合力米差出候、此段に
おゐては勿論存知の事に候
右差出候所は定勘場に候故、
病者幼少又は趣これ有る
人物におゐては、早速入れ替え
致し候、しかし乍ら幼少に至り候ては
近来直ぐ様定勘場差置かれ候、
此儀は有田善左衛門{只今の右田泊り家にて候事}
世倅才右衛門より始り候、其節の
組頭栗山左兵衛の由に候事
前廉は組証人夫婦、頭元
詰め居候て、壱年中の世話
致し候趣に候得共、組中より差出候
人数、前文の通り相極り候ては
頭元詰め居の証人御引かせ成られ、
須佐詰四人の侍の内にて証人
申し付け候、前方は多くは年寄座え
証人申し付けず候得共、只今にては
格別左様もこれ無く候事
付り 年寄座え証人申し付けず
段は、年寄座の儀は常々役相当り候故の儀に
候事
享和元辛酉
九月五日
     職役 宅野太郎左衛門
                    定陽調え
    瀬尻組頭役 栗山五郎左衛門
                   勝虎写之

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