「随行日記」その4
P23〜44

P23 元治元年(1864)8月
元治元年子
八月十日
旦那様御事此度京都
変動之儀ニ付被蒙
御不興徳山御預被仰出
明十一日御発足ニて御越
被遊小生 儀御供被仰付
候事
一御目付衆 笠原隼之助
物頭衆 矢田仲衛両人
組子被召連御警衛
ニて被罷越候事
十日夜中御宿わり
ニて出足候事
*1 =筆者。即ち波田与市のこと。
*2 =非違を検察し主君に報告した監察官。<江戸時代>大目付→老中に直結して大名を監察。目付→若年寄に直属して旗本などを監察。
各藩の諸大名もこの職を置いた。
*3 =萩藩大組(椙杜組)180石(萩藩給禄帳より)。
*4 =弓組、鉄砲組等を率いる役職。
*5 =萩藩大組(繁沢組)254石(萩藩給禄帳より)。
注37 =朝廷の長州藩追討令に対して、長州藩では藩論が紛騒したが、当時恭順派が藩政を担当していた為に8月2日右衛門介
(益田親施)をはじめ福原、国司の三大夫および宍戸左馬介、竹内正兵衛の二参謀の職を免じ、三大夫を支藩徳山に預けて禁錮した。初め益田右衛門介は徳山、福原
は長府、国司は清末に分監する方針であったが馬関戦闘の恐れが高まっていたので全員を徳山に送ることになった。長州藩は三大夫の罪状として、浪士其他を鎮撫す
るために上京させたにも拘わらず、来島又兵衛の暴論に同意して戦いに及び、畏多くも宸居の兵燹を招き玉座の動揺を引き起こした外、都の人心帰向に大害を生じた。
その結果、毛利公は朝敵の汚名を負うことになった。これは軍令にも違反している。更に一旦戦争ともなれば根拠地天王山を死守すべきところ、残兵も取り纏めず、
多くの士卒を死傷させ、武器を捨てて真っ先に撤退するとは全く以て軍令も相立たず、御当家の武威を穢した…ことを挙げた。しかし、三大夫は藩臣とはいえ今や天
下の罪人であるから、天幕の命を待つべきであり、長州藩が自ら処罰してはならないとの吉川監物らの意見により徳山お預けとなったのである。
8月2日三大夫の職を免じ、一挙の顛末を推問せしめた際の問責状は次のような内容であった。
『
益田右衛門介
福原越後
國司信濃
右 浪士其外鎭撫之ため 京都表相滞居候儀に候得ば御國家之御爲能様可取計之處 妄に來島叉兵衛 暴論に同意し 亡命之浪士暴發之兵に引纏ひ 遂一戰候段私之
書面を以天朝幕府へ申出候に付ては 鎭撫之職として暴擧之發頭せしめ 剰恐多くも 上にして宸居之兵燹を招き 玉座之揺動を致し 下にして都下人心歸向之大害
を生じ候段 御兩殿様兼て之御誠意は乍承知 恭順之思召を取失ひ 終に御兩殿様へ朝敵之名を負せ候に相當り 名義不相立 彼是総て御軍令之旨にも相背き其罪莫
大に候處如何被相心得候哉 既に戰争に及候得は 天王山を根拠とし 可相保之處 残兵を不纏 士卒之死傷を不問 數多之器械を取捨 一番に退足立候段 全以御軍
令不相立 御當家之御武威をも相穢し 其罪不輕候處如何被相心得候哉 』
なお、益田家の家名存続については8月5日の時点で安堵の目途が付いていたと思われる
『 益田右衛門介
親類中并家老共
右 思召に不相叶趣有之 毛利淡路守様へ被成御預候尤家筋之儀は重き家柄に付 格別之御詮議筋も有之事に付最前被仰聞置候通 彌以嫡子精次郎補佐いたし 御用
に相立候様申合 精々心配肝要之事 此段可申聞旨候事
八月五日 』
(出典=「防長回天史」第4編下 42頁)
注38 =「回天実記」によれば右衛門介親施公に供奉した者は栗山翁輔、安富九郎兵衛、荻野咸左衛門、松原仁蔵、
石川完蔵、中村藤馬、御馬屋組磯吉の7名であった。この日記の筆者、波田与市をはじめ日記に登場する増野又十郎、多根卯一、佐々木貞介(荻野隼太)、小国融蔵、
松原泰蔵、松本唯市、品川良助などは含まれて居ない。これは表向きの7名の外に家中の多くの人が一行を別行動で支援していた事を示している。
P24 元治元年(1864)8月
十一日
徳佐御止
御宿 塩屋儀兵衛
御目付宿 桑原重左衛門
物頭宿 萩川徹斉
庄屋 椿 又七
目代 椿 市左衛門
今日御昼嘉年村
庄屋 波多野亀三郎
部屋
入亭主 市原七郎左衛門
十二日 徳佐御出足
由ノ木邑 御昼休
*6*8*11 =山口県阿武郡阿東町徳佐。益田に向かう国道9号線を徳佐で左折し国道315線を行くと嘉年経由須佐に至る。又、右折すれば柚木
(*11=佐波郡徳地町柚木)、鹿野、大道里を経て徳山に至る。須佐から徳山への街道筋は概ね現在の国道315号線の道順で須佐→弥富(やどみ)→嘉年(かね)
→徳佐→柚木→鹿野(かの)→大道里(おおどうり)→土居(又は下松)→徳山と進む。土居は周南市土井。 防長略地図参照。
*7 =地元では「椿本陣」と呼ばれる。阿東町役場向かいに現存する旧家。
*9 =屋敷は現存せず僅かに蔵のみが現存する。
*10 =現阿東町大字嘉年下201に屋敷が現存する。
P25 元治元年(1864)8月
御宿 大黒屋伝蔵
庄屋 斎藤常之進
鹿ノ市 今夜御泊
御宿 勝間田信右衛門
庄屋 岩崎
十三日鹿ノ市御発駕
大通り邑 御昼休
御宿 田中孫四郎
十四日暁御先越ニて出足
四時土居駅 迄罷出徳山
内乱有之候様子承り候故
其段早速栗翁 迄申
遣小生早速徳山罷出
町役所ニて此度
*1 *4 *6 =P24の脚注を参照。大道里田中家は現存しないが龍豊寺に墓あり。
*2 =現周南市鹿野町に屋敷が現存する。
*3 =岩崎想左衛門の子孫ではなかろうか。岩崎家の屋敷は現存せず鹿野町農村公園に屋敷跡の石碑あり。又、想左衛門から四代目が
操業した岩崎懸壺堂(製薬業)の荒れた屋敷が鹿野町に現存する。
*5 =午前10時。
*7 =P23*1参照。
注39 =「防長回天史」の「徳山内訌」に関する記述は次の通り。
『…8月9日夜河田佳蔵等10数人老臣富田源次郎の家を襲う。源次郎傷を蒙りて逃る。既にして河田ら同士7人前後逮捕せられ或は刑死し或は
凶手に斃る。案ずるに京都変後徳山藩亦正俗2派を生じ俗派の領袖冨田(富山)源治郎(源次郎)要路に立ち幕府に阿附して苟も免れんとする
の迹あり。河田佳蔵慷慨堪えず同志と共に冨田(富山)を襲いしなり。藩吏怒りて其党与を逮捕す。河田は一たび脱奔し尋で捕へられて獄に投
じ11月24日斬に処せらる。井上唯一、本城清、浅見安之丞、信田作大夫は皆獄に投じ井上は河田と共に斬に処せられ他は皆慶応元年正月
14日凶手に斃る。江村彦之進は8月11日褫職家に錮せられ翌12日凶手に斃れ児玉次郎彦亦江村と日を同じくして斃る。之れを徳山七士と
称す。翌慶応元年6月宗藩宍戸備前前原彦太郎を徳山に遣り淡路守に説き冨田(富山)等を斥け正派の士を登庸せしむ』
(出典=「防長回天史」第四編下77頁)
注40 =名は忠聡。初め与次郎、記令、平輔、九郎左衛門。号は嵩涯。文化7年(1810)11月23日須佐に生まる。父忠佐、母は
大谷氏。栗山家遠祖は益田兼理三男忠勝の孫兼綱三男兼忠、石州栗山邑に居住するようになって栗山を氏とした。益田氏に従って須佐に移住す。
翁輔は須佐の名家増野護俊の次男であったが忠佐に男子がなかったので翁輔を養子とした。実の母は波田東作兼虎の娘である(注6参照)。人と
なり優れてさとく、心が広く事物に通達していた。文武に優れ兵法軍学に通じていた。嘉永5年当役。嘉永6年(1853)以後、国の内外は多
難を極めるが、この時に当たり領主親施は藩の重役として国事に献身する。これを翁輔は補佐し進んで国命に賛成し又ある時は退いて村政に当た
った。慶応元年(1865)尊皇派と恭順派の論争が起こり(須佐内訌事件)当役、年行事加判、御勝手御用懸りの役職にあり恭順派であった翁
輔は、その時邑の執政にあったために尊皇派の世の中になった時、職を追われた。翌年罪を許されたが再び要職に復帰することはなかった。晩年
は子弟の教育と詩文の創作に専念した。
(出典=荻野隼太「松撴遺稿」、「須佐育英館」79頁)
P26 元治元年(1864)8月
右衛門介殿御当藩被罷越
候ニ付為先越罷出候間
御引受之御衆中へ
致相対度段申入候処
少扣候様申ニ付立宿
相構扣居候処
木村安大夫 と申仁参
り候故致相対
右衛門介殿今日被罷越
候間孰レニて御引受
相成候哉の段相尋
候処少々半途之儀も
有之候え共只今より
致仕構御客屋 ニ而
*8 =P12 *3参照。
*9 =P28参照。徳山藩の「御勝手向賄の仕出元〆役カ」とあり。
*10 =預り人、罪人などを収容する建物。
P27 元治元年(1864)8月
御引受可仕由被申候ニ付
承知之段相伸
格別御湊筋無之候
哉と相尋候処此内
於内輪少し様子有之
候え共早速致取作
格別湊筋無之御引
受可仕由ニ付其段又々
栗翁迄申遣候事
一過る八日国司信濃様
御越被成昨十二日福
越後様 御越被成候様子
ニ付早速福原御宿
罷出佐々木貞介 致
*1 =述べ
*2 =差し支え
*3 =徳山内訌のこと。P25注39参照。
*4 =取り繕い
*5 =P22 *6参照。
*6 =P13 *9参照。
注41 =荻野隼太(1835-1885)のこと。 初めの名を毅、字を時行という。益田氏家人、荻野安積の第三子
として須佐で生まれた。幼児より学問に励み、育英館の小国融蔵らに学んだ後、吉田松陰の門下生となる。更に京、江戸に出て力を付けた後、萩藩家
老福原氏の儒師の佐々木家に入家、佐々木貞介と名前を変えた。元治元年、蛤御門の変では福原氏に従って京に上り軍事に参加した。その後、萩藩の
山口明倫館教授、京都師範学校教諭を歴任。漢詩に長じその著作は「松扥遺稿」として残されている。 長女は益田潜(海蔵庵)に嫁いだ。
(出典=「須佐育英館」82頁及び101頁以下)
P28 元治元年(1864)8月
相対御様子い曲相承り
即刻帰来御
客屋之方乞相候而
御客屋へ参り一見候事
旦那様暮六時御着
被遊候故小生 御式台
御近罷出徳山よりハ
一向役人出浮無之
御内輪本陣 同様に
相心得致引受呉候
様との儀ニ而只御勝手
向賄の仕出元〆役カ
木村安大夫并本陣
藤井文治郎 と申仁
*7 =詳しく細かなこと。
*8 =午後六時。
*9 =波田与市。P24 *1参照。
*10 =P3 *12参照。
*11 =旅館「本陣」のこと。
*12 =徳山藩士。
注42 =佐々木貞介(荻野隼太)が13日に福原御宿へ、多根卯一が14日に国司御旅館へそれぞれ赴いて他家の話を聞いている。
「月番日記」の8月16日の記録によると「御供の内より申越シ候趣は、福原越後様御家来中一統、嘆願の儀申出候様子ニ付、於御内輪も何そ宜敷
気付共御座候ハバ嘆願の儀可被仰出、於当役中ニ節角申合見候との事ニ御座候」と述べられている。「回天実記」によればこの後、益田家中からも
福原家に倣って何度か嘆願書を出すことになるが、先ず17日大塚浪江宅において御手廻大会議あり、邑政堂に対して嘆願書提出について意見書を
出した。その後大組四組も同様の建言をしたと述べられている。(注44参照)
P29 元治元年(1864)8月
出浮之事
夜中多根卯一 国司之
御旅館罷出御様子
承り尚又明日当藩へ
御引渡相成候筈ニ而
御居所事の外厳刻
之由承り帰於御内輪
御供中大致驚愕
愁痛難堪罷居候事
十四日
御客屋御滞留
スサ御飛脚被差返
当役衆壱人御用人一人
*1 =きびし、むごたらし、惨酷. (防長回天史 第四編下六 P308)「隊中の士特に徳山、岩国に赴き三大夫を奪うの挙に出んとするに至れり
警報相継で萩に達す」とあり、また同P313には「明倫館に参集の壮士200余人を徳山に派す」とあり、藩政府は諸隊の暴発に備えて警備を厳重にした。
注43 =(本名十郎)(1831〜1910)。幕末須佐の名剣士として知られ、天保2年(1831)正月23日須佐に生まれる。多根家は益田11代
兼見の三男伊豆守兼政の子孫である。江戸の「練兵館」に入門、斉藤弥九郎に神道無念流を学び、又眞神陰流とその極意(免許皆伝)を極めた。同門(練兵館)
に2歳年下の桂小五郎(木戸孝允)もいた。幕末激動の頃大いに活躍し、急進派(正義派)から穏健派(俗論派)に与したと目された。明治に入って高俣村
(現むつみ村)に住いを移して、道場を開き、文武の道を教え、門下も多かった。明治42年3月15日(79歳)没。
(出典=「多根家戸籍謄本」「多根卯一眞神陰流免許」「益田氏と須佐」195頁)
注44 =9月4日、当日の月番宅野太郎、内藤与三左衛門が連名で益田三郎左衛門(邑政堂)に提出した大組の嘆願書案には次のように述べている。
『…追々徳山御引受の御様子承り候処、誠ニ厳禁の御構全囚獄同様の儀にて、家来壱人被残置候え共主人用便等も一向不得仕、朝夕の目通りも相成不申、
辛艱の程深く被察候 然処、右衛門介殿近来病身ニて胸痛間々差起り被致難儀事ニ候えハ只今の通りニては身命取凌の儀も如何可有之哉 且於部屋向ニ
徳山の様子追々被致承知不被為安寝食共苦心の余り当節病気差起彼是の次第見聞仕候では誠ニ臣下の哀痛不過之奉存知候』
(出典=「月番日記」)
なお、本藩に提出された家臣一般署名の嘆願書に益田家中としての蛤御門の変に対する考え方が次の様に述べられている。
『(前略)今般京師変動ノ赴ニ付不図御厳譴之身ト被相成誠以残念至極ニ奉存候。尤於上国其節政府之御建議御成算者如何ニテ御座候哉難量候得共、
微臣之管見ニテハ、賊党奸計ヲ巧ミ正路ヲ塞ギ、却テ叛ヲ以テ討伐ノ勅ヲ乞イ、天竜寺、天王山ノ諸勢ハ討手差向候手筈、危急旦夕ニ相迫リ、退テ嘆願
ノ儀ハ差置、進而誅賊ノ場合ニ差掛リ実以義心激烈、不堪憤懣、眼前ノ賊徒為国家誅滅之議論ニテ為有之哉、縮ル処右一挙ヨリ御国御大事之御場合ニ立行
候段ハ奉恐入候。去乍前件申上候主人年来ノ素志ニテ者、只忠義一途ニテ其時ノ穿鑿不被行届終ニ賊計ニ堕リ候儀者口惜シキ次第、是ト申スモ何卒報国之
丹心相果シ度被存入、却テ軽挙ニ相成候節、於此段者今更噬臍(ゼイセイ)ノ思残悔無限候得共、畢竟主人於存慮者真心之一徹ヨリ被踏込候訳ニテ、
一毫ノ不忠節被差構候筋無之青天白日ヲ盟ヒ、有忠志而無私心段、乍不及微臣等常々附添見聞候儀、於官府モ是迄ノ御奉公振御手当モ可有之義ニ奉存候。
就テハ此度ノ罪状赤心忠、不忠之処其の濫觴御憐察被成下、偏ニ参リ掛リ御斟分ヲ以テ、追々御寛典ニ被処候様御処置被成下候ハバ、於臣等此上ノ御洪恩
蒼海猶浅ク可奉感泣候。去乍只今主人之幽囚其科ヲ以テ御国之御名分ヲ被正候儀、無余儀次第、於主人者謹慎被罷居、猶更報国之一端ニ相当リ候得共、
幾応モ今般之儀者時所ヲ誤ラレ候一途ニテ為国家毫厘ノ私曲無之段ハ克克御弁別ヲ以テ御寛宥ニ立行候様、御執計之程奉嘆願候。(後略)』
(出典=「回天実記」)
P30 元治元年(1864)8月
差出之儀申参り候事
夜中御目付衆物頭衆
両人御客屋被参明日
当藩御引受相成
候段被申候事
火急石川完蔵 山口
表へ被差越天野謙吉
兼而内縁有之候ニ付
政事堂様子承り帰
候様被仰付候事
小国融蔵来
十五日七時
御目付衆物頭衆御客
屋被参漸御引受相成
*2 =P23 *2参照。
*3 =P23 *4参照。
*4 =親施公の徳山幽閉に随行した7名の家臣の1人。 須佐益田家中士、10石。P23注38参照。
*5 =萩藩政務員。右田毛利家学文堂の教師。
*6 =午後4時。
注45 =字は武彜、初めは剛蔵といったが父の名を嗣いで融蔵と名乗った。号は嵩陽。7歳で父を失い苦学したが19歳で江戸に留学、
昌平校を卒業後安井忠平の門下生となり、遂に大学頭の林澗斉に認められて侍読となった。尊皇の志が強く、また蝦夷の開発を唱えて単身蝦夷から樺太に
渡り視察、北の守りの為に屯田兵の派遣を説いた。 須佐を離れて10年後の嘉永4年須佐に帰り育英館の学頭となり、人材教育で益田親施の期待に応えた。
吉田松陰、僧月性と深く交際し、松陰と志を通じて門生の交換を行った。文久2年、藩主毛利公が列藩に率先して公武合体運動を起こしたので親施は秘密
の役目を帯びて上京したが、この時融蔵を召出して用人として密かに諸藩と交渉させた。元治元年久坂玄瑞と共に志士を集めて天王山に陣を敷き櫻井某と
共に軍監を務めたが、蛤御門の変で戦いに敗れた。この責任を問われて領主親施が徳山にお預けとなるや、大谷撲助らと共に七卿(当時五卿)を擁して
主君を救出せしめ、義旗を翻して二州の正気回復を図ったので、蟄居を申し付けられた。
(出典=「須佐育英館」70頁)
P31 元治元年(1864)8月
候様子の故御供可仕由ニ付
即刻御供揃ニて総持
院へ御出被遊候処式
台ヨリ上御壱人御通被遊
御供中式台
ノ間迄罷通り扣居候処
御目付衆物頭衆引受之
役人へ被致相対少間相
有之御引渡相済候歟
御目付衆物頭衆被引取
候事其節用達
壱人残置 其余供人数
早速引取候様と之儀ニ
御座候
*1 =惣持院。益田親施(ちかのぶ)切腹の地。国司信濃が切腹した澄泉寺とともに明治初年に解崩し畑地となった。現在、徳山市毛利町3丁目毛利
マンション角にある「益田右衛門介賜劔の地」の石碑から東へ1丁の所にあった。写真34、35参照。
*2 =その壱人の人選について「安富九郎兵衛その撰にあたり他は徳山市街へ散居潜伏せり」とある。(「回天実記」より)
P32 元治元年(1864)8月
栗山翁輔小生 両人
彼方引受之役人片岡
惣右衛門 ・粟屋与四郎
と(申)仁へ致相対一応之
致挨拶引取候事
上御壱人相残置御供
人数引取之処不堪
愁痛難写筆
十六日
小国君御客屋参り今日
一貫野 迄帰候段相申
候事
御供人数中御客屋
*3 =波田与市。P23 *1参照。
*4 =徳山藩士。
*5 =徳山藩士。
*6 =現山口市の県道197号沿い益田領飛地。 防長略地図参照。
P33 元治元年(1864)8月
滞留ハ不相成儀ニ付
町宿吉屋弥兵衛方迄
引取御六尺四人今朝
出足ニテスサへ被差返候事
十七日
今朝松本唯市・多根卯一
松原泰蔵中間四人
御開作地降松へ参り候事
御廐中間弥助スサへ被差返
当役壱人御用人壱人
召出申参り居候処此地
事之外厳重之様子ニ付
只今被罷出候而ハ不宜
候間御壱人ハ下松御出
*1 =藩邸などに入りきらず町に住む藩士。
*2 =徳山藩士。
*3 =階級表では駕籠担ぎのこと。水汲みや駈使などもした。6尺に達する大男を意味する。のち、第4大砲組。「陸尺」とも。
*4 =「益田氏と須佐」P199の四境戦争(石州口の戦)で斥候を担当した。
*5 =P29 注43参照。
*6 =益田家臣。
P34 元治元年(1864)8月
御壱人山口御出ニて
形勢御探索被成候
様申参り候事
十八日
昨夜増野又十郎下松迄
来着之由申来
安富九郎兵衛今日総持
院交代之儀相運帰候
故早速品川良助被差越
候事 総持院厳
刻之様子九郎兵衛より
承り不堪哀痛次第也
晩刻増又十郎下松ヨリ
来
*7 =益田家中士(御手廻組)、19石(須佐益田家分限帳)。P23 注38参照。
*8 =益田家臣。慶応2年6月(1866)、四境戦争の際石州口の配備につき須佐隊北第一大隊一番大砲指令に任じた。
注46 =周南市の東に隣接する( 防長略地図参照)。推古天皇17年(609)に「大星周防国都濃郡鷲頭庄青柳浦
松樹上に七昼夜赫として絶えず。ここに地名を降松、下松浦と言われた」との降松神社の七星降臨伝説があり、北辰星の天下った松に因んで青柳浦の地名を降松
と改めた。後に下松と書くようになった。百済への往来の要港だったことから、百済津が下松になったとの説がある。
(出典=「山口県の歴史散歩」67頁)
P35 元治元年(1864)8月
十九日
今朝増君管松迄
帰石川完蔵山口へ
被差越候処山口ニ而
御末家様ヨリ御用有之
一応スサへ帰今日漸
爰許出浮之事天野
謙吉ヨリ山口様子い細
承り帰候事
廿日
廿一日
安富九郎兵衛・石川完蔵
中村藤馬管松へ行
小子有用事而同行
ニて参り候事
*1 =益田家臣。P23注38参照。
注47 =本家萩毛利家、末家長府毛利家、末家徳山毛利家、末家清末毛利家、末家岩国吉川家、末家小早川家、一門三丘宍戸家、一門右田毛利家、
一門厚狭毛利家、一門吉敷毛利家、一門阿川毛利家、一門大野毛利家、永代家老須佐益田家、永代家老宇部福原家を「一門八家」と言った。ここで
「御末家様」とは徳山毛利家のことであろう。
P36 元治元年(1864)8月
今日孰レも管松迄罷越
覚悟ニ御座候処少
様子有之栗山并
小子・忠之丞三人残候事
晩刻増君同行ニテ
管松ヨリ罷帰候事
廿二日
増君山口迄行
今朝御役所町奉行
より供残人数早々
領分へ引取候様申
来候事
御夜具来
*2 =P4参照。
P37 元治元年(1864)8月
廿三日
午前ヨリ栗叔父小子并
忠之丞三人管松へ
罷越候事
廿四日
午前国司御家来油
ノ潜伏之士佐々木祥一郎
ヨリ三太夫江戸被差返
足し風評有之様申
来即刻多根卯一・
石川完蔵山口へ
被差出詮儀相成候事
廿五日
松原泰蔵徳山医
師林良益方へ被差越候事
*1 =P4参照。
*2 =現周南市湯野。古くからの温泉地で堅田氏宰地。
*3 =国司信濃家臣。奇兵隊に入り文久元治の際下関の陣営で行動した。その後も各所に出動し信濃に重用された。
明治に入り、偶々脱隊の変起り、首謀者として同3年9月26日山口郊外柊村長者原にて刑死、享年29歳。
*4 =永代家老須佐益田家益田親施(ちかのぶ)、永代家老宇部福原家福原元|(もとたけ)、寄組国司信濃親相の毛利家三家老のこと。
*5 =松原泰蔵が林良益を訪問した理由は不明。しかし、益田右衛門介が胸痛を患っていた(P29注44参照)というから、
主人の治療相談に行った可能性が高い。
P38 元治元年(1864)8月
廿六日 今朝品川良助
総持院ヨリ火急ニ罷
帰管松ニ潜伏之士
有之候段御目付衆
聞込相成詮儀相成
候様子ニ御坐候間早々
引取候段可然由木村
安太夫より相授候由ニ
付罷帰候段申事
故孰レも申合早速
致仕度帰候事
安富九郎兵衛良助代
として総持院被差越
*6 =P34*8参照。
P39 元治元年(1864)8月
松本唯市・松原泰蔵
両人は此間山口へ差出置候
多根卯一・石川完蔵
未帰不申候故山口へ
被差返候事
夜中須々麻村まで
帰宿屋相尋候処
湊ニ而無之事ニ付
城藤四郎兼而御出入
ノ儀ニ付彼方一宿之事
廿七日
早朝スゝマ出足午
前鹿ノ市ニ至り
勝間田信右衛門方へ
*1 =現周南市須々万本郷。毛利元就の古戦場沼城趾がある。 防長略地図参照。
*2 =不明。
*3 =鹿野の宿屋(P25*2参照)
P40 元治元年(1864)8月
立寄候処事之外
被留候其上多根卯一・
石川完蔵未帰
不申候故為待合一日
致滞留候事
漢陽寺堀ぬき一
見其外見分
廿八日
鹿ノ市出足
生雲止宿
廿九日
薄暮スサ帰着
直様清水へ栗翁の
*4 =清水益田家のこと。当主は老臣益田三郎左衛門。
注48 =都濃郡鹿野町上鹿野の臨済宗鹿苑山漢陽寺は応安7年(1374)建立で、嘗ては末寺350ヵ寺の古刹。寺伝によれば大内盛見が用堂明機禅師
を招いて創建したと言われるが、年代からすれば大内弘世の時代に当たる。石庭と精進料理が有名。堀ぬきは漢陽寺境内裏手にある潮音洞のこと。承応3年(1654)、
鹿野の住人岩崎想左衛門(1598〜1662)が私費で4年の歳月を費やして完成した人工水路。全長270b、トンネル部分は88b。これにより21町歩余の台地耕作が
可能となり、飲料水を供給した。
(出典=「山口県の歴史散歩」84頁、「郷土史事典 山口県」、「防長風土記」、末寺数は直接寺に照会した)
P41 元治元年(1864)8月
同道ニて参り様子
相達候事
晦日
今朝
御殿罷出御様子
申上候事
完
P42 元治元年(1864)11月
注49 =元治元年11月、第一次長州征伐の幕軍が広島に集結した。蛤御門の変に敗れ、関門海峡での攘夷戦に惨敗を喫した
長州の戦力は極度に低下している。こんな時幕軍に攻め込まれたらひとたまりもない。責任を問われて、それまで藩内の実権を握っていた急進派が
後退し、代わって俗論派と呼ばれる椋梨藤太らの保守派が政務を担当した。幕軍の参謀として広島に来た大島吉之助(西郷隆盛)も、長州と戦火を
交え犠牲者を出したくないと考えていたから、岩国藩の吉川経幹を通じて、蛤御門の変の責任者である益田右衛門介、国司信濃、福原越後の三家老
の首を差し出し、長州の謝罪の意を表してはどうかという。俗論派の藩庁は早速三人に切腹させようとする。しかし、藩内には反対の声も強く、流石
に椋梨も苦慮するが、遂に11月11日から12日早暁にかけて三家老に死を命じた。
また右衛門介に切腹を命じた時の罪状は次の通りであった。
(益田以下處分に開する議案)
『此度 御家御一大事に立至り候趣は 益田右衛門介 其外姦吏共同志之者を集 深く徒党を結ひ 表は尊王攘夷と號 實は幕府を倒之密策を以て
水府其外諸藩之同志と牒合 京師へ取入 御親征を申建 既に其策可被行勢にも相成候得共 元來密謀之儀に付 去八月十八日之一擧出來仕 天朝
幕府共御不首尾に相成 御家之御大事眼前に候得ば 早速改心自盡して御國難に可相替筈之處 無其儀還て我意を張 叉候當七月於京師及暴動 終に
朝敵之汚名を被爲蒙 御官位御稱號 御一字迄被爲召放 追討使四境に被差向 社稷之御安危今日に相迫り候段 悉皆 右衛門介 其外姦吏之所業に
候得ば 天朝幕府へ被爲對 先巨魁之分左之通可被行嚴罰哉 但 此度體之大罪引付候先格も無御座候
益田右衛門介
右在役中姦吏共と徒党を結び 古來之御法改革に託し 私意を以御國體を破り 剰天朝幕府を蔑み 自身之譴責相迫り候に至ては軍粧を以京師を擁し
恐くも奉驚宸襟候次第 更に被仰分之御手段も無之 終に御國難に至り候段不忠不義之至り不謂事候 依之切腹被仰付候事』
(出典=「防長回天史」第4編下30頁、43頁、46頁)
先ず益田右衛門介と国司信濃が徳山の惣持院で壮烈な切腹を遂げた。三人目の福原越後は、徳山の藩主が彼の異母弟にあたるため、切腹の場所を岩国
の竜護寺に移して実施された。所が、罪状読み渡しが終わっても、越後が頷かないので検視役達は慌てた。報告書には「お請け之無きに付き」とある。
つまり越後は拒絶したのである。なだめすかして、やっと切腹させた。未練がましいという解釈もあるが、越後こそ最後まで俗論派に抵抗した家老と
も言える。
(出典=「長州歴史拾遺」54頁以下)
「防長回天史」は益田右衛門介の最後の模様を次のように述べている。
『一、彼寺横座敷へ控居候処 無間仕搆宜段益田與一郎申出候に付各其外御使番物頭致着席 直に右衛門介殿小袴着用にて被罷出 皆様御苦労抔と
被致挨拶御使番山田重作罪状書読渡之 右衛門介殿謹で拝聴有之 今一應右過失書拝見致させ呉候様との儀に付き重作より右衛門介殿へ相渡熟覧相成
無間被差返直様最前之控所へ引取候事
一、支度相調仕搆宜段益田與一郎申出候付図面之通致着席 右衛門介殿畳二枚舗双へ 其上へ四尺四方位之白羽二重蒲団を敷其上へ着座相成 徳山
御徒士白木之三方へ土器二ツ昆布を乗せ銚子等持出し酒三献被呑畢て三方へ短刀を乗せ介錯益田與一郎右衛門介殿前へ据へ 左候て左脇へ控居候処緩々
諸肌を脱ぎ押下げ 短剣を取り戴き抜放し 三方之上紙にて三遍拭い 其紙を以切先き五分位出し刃を巻き 下腹を撫下 短剣を逆手に持 腹一文字に
掻切り 直に持直し咽を右より左に突二度押込候処を益田與一郎首打落 終に打臥及絶命 立派之最期見届直様右首級検断 藤井関次郎血を洗い首桶
へ納め臺へ乗せ 徳山物頭熊谷志登美 中間頭米田善兵衛へ預置 警衛向堅固に致候様相授候て 直様各其外御使番物頭徳山役人一同九ツ時比相済
国司信濃住居所澄泉寺へ罷越候事』
以 上

( 出典=「徳山市史史料」中 )
P43
◇あとがき
波田与市は須佐に帰った後、家中政府の邑政堂に入った。
11月、主人益田右衛門介が藩の責任を負って切腹する。首のない遺体だけが帰ってきた須佐では、大谷樸助が殉死を願い出た。邑政堂ではこれを
きっかけに一派を忌み嫌い内訌問題へと発展する。
大谷樸助は「回天軍」を作り、一方家中も「北強団」を作って回天軍を潰そうとする。幕末、改革をめぐってどこの藩や家中でも起こった内訌問題
である。こうして波田与市は大谷樸助らと対立することになった。領主、右衛門介を失った母親(仙相院)と家中は家名を回復する事のみに執念を見せ、
必須であった改革に乗り遅れた。
大谷樸助等は主人に従って京都や江戸で働き、多くの志士と交流した結果を新しい世界に活かそうとした。しかし、邑政堂を動かす大組の士は大谷
樸助等の急激な進取を嫌った。自らの改革の理念から作った回天軍に執念を燃やし、奇兵隊へ入る道も遅れた。北強団は改革すべき意見も無視し大谷
樸助等を叛逆として切腹させた。
長州再征が起こった。萩藩は須佐家中の内訌を処分し、波田与市ら上層部は領外隠居や遠島が決まった。禁門の変から一年後の事だった。
見知らぬ土地ではなかったが、与市は不自由な生活を余儀なくされた。翌年の夏、与市は長州再征の軍令書などが飛び交っていることを仄かに聞き、
大砲隊が近くの道を石州に向かって移動していることを聞いた。間もなく与市は罪を許されて帰宅したが、燃焼し得なかった人生を考えた。
それから間もなく与市は死んだ。 三十六歳という若さだった。
城一 昭人 記
P44
◇編集後記
●平成9年5月、増野亮さんの音頭で山口県阿武郡須佐町出身の6人の同好のメンバーが東京新宿の「今半」に集まり「東京須佐史談会」が発足しま
した。メンバーが所蔵している古文書、古地図、家系図、その他の資料や情報を交換しながら焦点を幕末維新時代の須佐郷土史に絞って勉強が始まり
ました。最初は3ヶ月に1回程度でしたが、最近は月1回定例研究会を開くようになりました。1日5時間の勉強は城一定さん、城一昭人さんご兄弟のご指導
でこれらの須佐関連の古文書を読み、意見を交換し、それがどんな時代だったのか、人はどんなふうに生きたのか、などを熱心に話し合っております。
健康問題やご高齢の為に退会された方が2名ありましたが、会員数も徐々に増えて今では9名の方々が参加されています。
●平成14年のある日、毎回意見交換した丈で終るのは勿体ない。折角の研究会の成果を具体的な形で残せないだろうかという議論が起こりました。
その結果、それまでに研究した史料の中から重要なものを選んで、綿密な注釈を施し出版物に纏めようという事に意見一致しました。須佐町でも教育委員会
のご支援の下に「須佐町郷土史研究会」が活動されていますので、東京の我々の研究成果も須佐の機関誌「温故」に採用して頂けないだろうかと言う案も
ありましたが、何はともあれ具体的な成果を出さない事にはご相談も出来ませんから、手始めに「随行日記」の解読をしてみようという事になったのです。
「随行日記」は須佐町から齎らされた複写コピーを復刻したものです。
●「随行日記」の研究では次のような議論が交わされましたが、問題提起にとどまりました。
一、 蛤御門の変に際して、長州藩は3人の家老と正規軍を上京させながら7月17日男山の石清水八幡宮の軍議で来島又兵衛、真木和泉等諸隊の強硬論
を抑える事が出来なかった。何故か。勅命は偽勅だ。勤王の藩主父子の汚名を雪ぐ為には君側の奸を除くべし、朝廷の退去期限が7月18日と通知された以上、
世子上京後の行動は主君の危機となる。退去期限の明日断固自身の責任で武門の面目を貫くという過激派の意見を誰も抑えきれず、結局、長州兵は三方面から
会津藩主松平容保が居る凝華洞を目指して進撃しました。背景には復権を狙う五卿の圧力もありました。戦闘は三方面夫々の連携が悪く各個撃破され惨敗し、
挙げ句の果てに御所に向かって発砲した長州藩は朝敵の汚名を蒙ることになったのです。藩政府は家老に黒印の軍令状という武力行使の権限を与えておきながら、
攘夷嘆願、狼藉者詮索、五卿や毛利父子の冤罪哀訴などの政治工作が失敗したときの明確な戦略を欠き方針が曖昧で重要な判断を現場任せとしました。
現場は諜略も打てず、京都の地理も満足に判らず、拙劣な戦闘にのめり込んで行きました。信長、秀吉、家康や元就、輝元の時代は主君が自ら戦を陣頭指揮
しました。それから300年時代が下って太平に慣れた幕末幕藩体制の下では、どの藩でも藩政府は官僚化して戦国の臨戦体制から平時体制へと政治組織が変貌
していました。いざ戦となると、藩主を戦争責任から守ろうとする組織に変質していました。
一、 益田親施率いる兵600の一部は堺町御門の戦に参戦し残りは後詰めとして天王山に残りました。彼は、敗戦の知らせを聞いてどのように判断したのか。
益田丹下が引き揚げを進言しても仲々決心が付かなかった様ですが、ついに一戦も交ることなく、僅かなお供を連れて国元へ引き揚げたといいます。
この間の事情は不詳ですが、全体を通じて益田親施の思想は別途今後の重要な研究課題として研究する必要があるとの結論に達しました。
一、 私達は次の3つの理由から「随行日記」は筆者の波田与市が須佐に帰った後に取り纏めたものと判断しました。
◇本陣があった「宝寺」を「笠寺」と誤記している。
◇開戦の日付を誤記している(意図的に改竄したのかも)
◇寺の名前が判らなくなり「失寺名」と記したヶ所が2ヶ所ある。現場で書いた日記なら聞けば判る筈。また、陣場奉行が自軍を配置した場所を忘れる事は
あり得ない。前後の文脈から判断してこれらは離宮八幡宮の社殿や宝寺の僧坊の一つではないだろうか。国元に引き揚げて仕舞ったので社殿や僧坊の名前を
確かめる事が出来なくなったのだろうと推測しました。
一、 「随行日記」によって須佐兵の配陣の模様が明らかになりました。しかし、山崎と男山には長州軍全体ではもっと大きな兵力を置いていました。 その詳細は判りません。(8頁*1参照)
一、 蛤御門の変で大山崎では殆どの神社仏閣が焼き払われました。男山は火災を免れたがその後の戊辰戦争で火災に遭い、明治の廃仏毀釈で殆どの僧坊が
破毀されました。従って巻頭に掲げた写真(HP版では写真は省略しました)の如き今日我々が目にする殆どの神社仏閣は往時の姿とは異なります。
●以上の様に幾つかの大きな研究課題が残りましたが、私達の「随行日記」の研究成果が少しでもお役に立つならば望外の幸いです。
平成16年4月
東京須佐史談会
内藤 登
城一 定
増野 亮
清地 治正
栗山 展種
豊田 松夫
近藤 安弘
城一 昭人
宅野 宏
松井 三郎
多根 義剛
(以上は「随行日記」の研究に参加された東京須佐史談会の全メンバーです)
栗山 展種 記
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