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十七日夜*1五過伏水*2ノ辺ヘ当
砲声相聞候事 注32
夜九時伏見銭屋方*3ヨリ
福原勢戦不利の様子
注進候事
十八日
伏水ヨリ追々注進有之
福原勢引取候由注進
有之候ニ付
旦那様光明寺注33迄で
御出馬被遊候との儀ニ付
為一見本尾官治*4同
道ニて罷越候事
*1 十七日夜=十八日夜の誤り。(蛤御門の変の開戦日は元治元年7月18日)
*2 伏水(ふしみ)=鳥羽伏見。
*3 伏見銭屋方=長州藩伏見蔵屋敷のこと。伏見東浜南町銭屋宅。文化4年5月10日購入。元治元年幕府により没収さる。(「もりのしげり」P195)
*4 本尾官治=天保7年(1836)1月15日生。栗山忠聰(翁輔)の女婿。育英館教授(漢学)。益田家上士、大組、
77.605石。(須佐益田家分限帳)
蛤御門の変では斥候御使番で参加。
注32
伏水の辺へ当砲声相聞候=蛤御門の変の開戦は7月18日夜半である。 本随行日記12頁の記述は正しいが、何故18頁で記述が17日に戻るのか。日付の誤りであろう。
「防長回天史」によると戦況は次の通りであった。
『(18日)夜半福原越後兵七百余を率いて伏見を発し途を大仏街道に取り京に入らんとす 佐久間佐兵衛 太田市之進(後御堀耕助)等之に従う。軍進で藤の森に至り忽ち大垣の兵と遇う。先鋒の兵撃で之を却く中軍横撃を受け福原負傷を蒙り長兵遂に利あらず乃ち軍を伏見に退け福原は山崎に赴く。十九日早旦太田市之進佐久間佐兵衛新藤半蔵等更に伏見の兵を以て転じて竹田街道より進み彦根会津の兵と戦て利あらず嵯峨山崎に退く…』
(出典=「防長回天史」第四編上424頁)
なお、福原が山崎に赴いた理由は詳しく分からないが伏見の官道は進むに便ならざるため山崎の兵と合し、福原勢は天王山を守衛し、益田勢と交代しようとしたとの説がある。
『…昨夜半より天竜天王伏見三所の諸勢京師へ向押寄暁七ツ下りより及戦争伏見の手本街道を押候故足場不利に付伏見へ引取天王山右衛門介殿手へ一手に可相成段早打被差越依之越後殿一手を天王守衛として右衛門介一手と代り出陣の用意に相成候処伏見勢初戦の敗に残念有之候か勢を盛返し竹田街道より進み只今戦争中に相見申候…』 (宍戸左馬介から世子への報告書より)
(出典=「防長回天史」第四編上424頁)
須佐兵はどのように戦闘に参加したのであろうか。
「回天実記」によれば増野又十郎が率いる一隊が久坂玄瑞に従って堺町御門の戦闘に参加した。この部隊は「竹田街道を進み」堺町御門に達していて、山崎から進発し桂通りから入京した部隊とは異なるルートで進撃している。
「久阪義助各藩浪士ヲ指揮シテ竹田街道ヨリ進ミ、鷹司邸ニ入ル。小国融蔵軍監、田村育蔵(勤務不詳)大谷撲助(斥候使者)河上範三等又此ノ中ニアリ。我ガ須佐兵ハ組士、遊軍半隊、町兵新撰隊半隊ヲ合シテ増野又十郎司令官トナリ久坂氏ノ軍ニ従ウ」
益田右衛門介は「京に入らず、大平日譜
に石清水山上に滞在の益田勢は此日社頭に貝曲を奉納すと称し申刻後一曲を奏し終て一同平服にて橋本より山崎に渡り山上に陣し双方に手配り軍令せしと云う(中略)益田は時刻稍後れて石清水より山崎に移り此地に在りしならん」(「防長回天史」第四編上)と云うことで益田勢の主力は戦闘には参加しなかったらしい。すると何人が出撃し、何人が右衛門介に従っていたのか。詳細は判らない。
注33 光明寺=報国山と号す。京都府乙訓郡粟生に在り。法然上人の骨灰を納むる所にして、而して浄土宗西山流の本源なり。(出典=黒川道祐著「雍州府志」)
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光明寺致一見山を
下り候処京都の方
火烟数ヶ処衝天
俄ニ伏水の方当りて
火烟起り只今御動揺
有之候テは不宜様相
考候ニ付馬ヲ早メ
即刻帰来前段
申上候事
十八日*1八時京都戦争
之模様不利ニ付
旦那様御引揚相決*2
諸隊追々引揚ノ事注34
*1 十八日=十九日の誤り。
*2 旦那様御引揚相決=
この時点で右衛門介に今や「罪人」となったという認識が生まれたのではないだろうか。
注34
蛤御門の変の戦闘状況と長州兵引揚げ=戦闘では、まず福原越後の率いる一隊7百人が、伏見街道の藤森(京都市伏見区)付近で優勢な大垣藩兵に迎撃され、福原自身も負傷して、伏見に退却した。改めて竹田街道を北進したが、丹波橋で彦根・会津藩兵にうち砕かれ、山崎に敗走した。しかし一方、嵯峨の天竜寺(京都市右京区)を本陣としていた国司信濃・来島又兵衛らの一隊8百人は、中立売(写真6)・下立売の二方面から会津藩が守備する蛤御門に殺到し、一時は御所内まで突入した。しかし、応援の薩摩・桑名藩兵らによって撃退され、来島らもあえなく戦死した。この戦闘では流れ弾が禁裏内にも乱れ飛んだほどで最も激しい戦いであったところから、この事件全体が「蛤御門の変」と呼ばれる様になったという。
さらに、山崎に陣を構えていた眞木和泉、久坂玄瑞らが指揮する一隊3百人は、かれらにとってはうらみの堺町門を一挙についた。かれらは先ず東隣の前関白鷹司邸に乱入して桑名、彦根、越前藩兵らと砲撃戦をまじえた。このとき鷹司邸の塀をやぶるために、会津藩の巨砲、15ドエム砲(口径15センチ)が数発も炸裂した。その雷鳴のような爆音と地響きに、日ごろ雅の殿上人はみなふるえあがったという。鷹司邸は猛火につつまれ、久坂玄瑞や入江九一らは重傷を負って自刃した。眞木和泉等も負傷し、やっとの思いで山崎にまで逃れたのである。
残るは、益田右衛門介指揮下の一隊6百人である。彼等も石清水八幡宮に武運を祈って、天王山から出陣しようとしていた。所が、相次ぐ敗報によって隊中は浮き足立ち、一路西へ逃れた。益田丹下が軍を撤して帰国すべきの議を発して屡々右衛門介を促し、遂に撤退を決意したという。(「回天実記」)
その後には敗走の福原越後の勢が続く始末で、最早各軍は総崩れとなってしまった。
このばらばらな敗走の中で、陸上または淀川の船上で追討兵に殺された者も数知れず居た。ついに7月21日には、新撰組や会津・桑名藩兵に包囲された天王山の真木和泉らも、本営に火を放って切腹し、後には黒こげの死体が17体転がっていたという)。さらに追討兵は、大阪の長州藩邸も破壊した。同藩は自ら屋敷に放火し、わずかに桂小五郎は脱出して但馬国出石(兵庫県出石郡出石町)に至り、商人に身を変じて潜伏した。
山崎通を敗走する長州兵の様子が西国街道の瀬川宿の記録に遺されている。
「然ル処、長州方敗軍致シ、十九日九ツ時より逃出し、十九日より二十日・二十一日之間ニ山崎街道を具足着用シ、抜身之儘にて凡三千余逃帰り、恐敷事にて街道筋表之戸しめて…」
街道筋の人々は表戸を閉め、息を殺して一行のようすをみていた。山崎通を敗走する長州兵は宿場の人馬を継ぎ立てて荷物を送ろうとし、昆陽駅にも立ち寄った。依頼を受けた昆陽駅では、7月20日に人足50人を出し、さらに翌21日の継ぎ立ても請け負った。人足50人が待ち受けているところへ、瀬川駅から間道(抜け道)を通って荷物が届けられ、ここでもまた間道を通って西宮まで継ぎ立てるように指示されたが、このときすでに街道には長州兵の敗走に備えて、彼等の通行を阻止すべき触れが回っており、昆陽駅では長州荷物を留め置いたまま、奉行所に申し出た。長州藩が預けていった荷物、鉄砲俵包十棹・弾丸箱五棹・槍8本等を含む21点が記されている。昆陽駅の申し出でにより、25日、新撰組の河合耆三郎、山崎大三郎が出役し荷物を改め、26日、昆陽駅では運送のため100人程の人足を出し引き渡しを終えたが、こののちも長州残兵の捜索が行われ、ようやくこの一件が片付いたのは8月6日であった。(出典=
http://www.konishi.co.jp/html/fujiyama/index.html
石川道子 近世の西国街道(山崎通)〜古文書からの考察〜)
又、西帰する福原越後の軍が武庫川に達したとき、伊丹街道を守っていた姫路藩塩沢元長は使者時山直八に対して「我藩西宮を守る 若シ強テ通過セントナラハ我亦一戦ヲ辞センヤ 然レトモ間道ヲ行クアラハ我之ヲ問ハス」と間道通過を黙認した。(出典=「もりのしげり」 430頁)
さて、この僅か一日足らずの戦闘で、砲火に見舞われた市中は混乱を極めた。焼失した戸数は公卿の屋敷だけでも数十戸、市中では2万8千戸に達し、火災は21日朝まで続いて鴨川の河原や諸街道は避難の民であふれた。まさに、応仁の乱以来の大戦災である。しかも、この大火の最中、逃亡を恐れた六角の獄吏は30人以上もの国事犯を次々と狂気のように斬首した。そのなかには生野の変で捕らえられた平野国臣らの姿もあった。
禁門の変では敗残兵掃討のため幕軍が放った火で下京一帯は灰燼に帰し京都市中に大きな損害を与えた。被害の大きさについては諸説がある。
「甲子兵燹図」(尊攘堂蔵版)によれば七月一九日朝五ツ前時ヨリ二十日夜寅ノ下刻迄焼失之町数家敷凡
町数 八一一町
土蔵 一、二〇七所
かまど数 二七、五一三軒
諸之橋 四一所
宮御門跡 三所
芝居小屋 二所
堂上方 一八軒
髪結所 一三二所
諸家御屋敷 五一所
番部屋 五六二所
寺社 二五三所
非人小屋 一所
孝明天皇は逆上し、砲弾への恐怖が変じて長州藩と激派への憎悪に変わった。7月21日、次のような、激しい長州藩追討の勅令が出された。
『松平大膳儀兼て禁入京候処、陪臣福原越後を以名は歎願に託し、其実強訴国司信濃益田右衛門介等追々差出候処以寛大仁恕雖扱之更に無悔悟之意言を左右に寄せ不容易意趣を含、既に自ら兵端を開、対禁闕発砲候条、其罪不軽、加之父子黒印之軍令条授国司信濃由全軍謀顕然候旁防長に押寄、速に可追討』
これを受けた幕府も、24日、まず西南の21藩に朝命を伝えて出撃準備を命じ、場合によっては長州藩内に侵入して誅滅してもよい、と宣言した。こうして西南の激派は禁門の変でリ―ダ―のすべてを失って壊滅し、長州藩は明白な朝敵となってしまった。 (出典=小学館「日本の歴史」23巻開国251頁)
一方、7月14日、海路三田尻を出航し、多度津に到着した世子定広公と五卿は21日敗報に接したので、急遽船を返して23日上関(室津の対岸)に投錨、26日夜三田尻に帰った。
世子に敗報を報じたのは「斥候 浦靭負嗣子 7月19日兵庫着敗報を聞き引き返し多度津へ報告」とある
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旦那様御早馬ニテ御駆抜
御近習三人*1御供の事
諸隊八過時*2ヨリ引揚小子*3
多根君同道ニて十九日*4
暁西ノ宮罷出同所ニて
少相息*5同伴相集一同
十九日九時*6兵庫迄罷出候事
十九日午後
兵庫ヨリ乗船廿四日朝
室津*7着船
若殿様*8過廿二日当所
迄御帰帆之御様子
ニ付那様御着
船之処致詮儀見候
*1 御近習三人=内一人は本尾官治(本尾家系図より「親施公天王山ヨリ御引揚ノ節御供ニ而帰国」)。
*2 八過時(やつすぎどき)=午後2時過ぎ。
*3 小子=この日記の筆者、波田与市のこと。
*4 十九日=20日の誤り。
*5 息(やすみ)=休息。
*6 九時(ここのつどき)=正午。
*7 室津=現山口県熊毛郡上関町室津。海上交通の要所。
*8 若殿様=萩藩世子、毛利定広公(元徳)のこと。
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え共未御着船無之候事
小生儀陸地為詮儀
廿四日出船同夜室
積*1ヨリ致揚陸夜通シ
久米駅*2罷出致詮儀
候え共一向御様子不
相分候事
廿五日九時
富海*3本陣到着主人
心配ニテ諸宿仕構置候事
廿六日 富海滞留
廿七日八時
旦那様昨日室津
*1 室積=現光市。室積湾は別名御手洗湾(みたらいわん)と言う。神功皇后が三韓征伐の途中,此の地で御手を洗われた故事による。古くは「室住」とも云われた。象鼻岬に抱かれた天然の風待港で、近世には萩藩の商港として栄え、室積会所が置かれた。
*2 久米=現周南市久米市(くめいち)。
*3 富海(とのみ)=現防府市富海。宿場として人馬の継場や本陣、脇本陣、高札場が設けられていた。
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御着船今日爰許*1
迄御帰被遊候段物音*2
有之候事
旦那様御事此度御様子
有之御本陣*3御出不成
入本屋方*4ニて御小休ニテ
直様御領分三好久平*5
宅迄国司信濃様*6御
同行ニテ御出被遊御近習
僅被召連其余スサへ
被差返候段益田丹下方*7より
授*8有之候事
入本屋御伺罷出
御直ニ被仰聞の事ニ有之
*1 爰許=当地(ここでは富海のこと)。
*2 物音(しらせ)=「音」→消息、しらせ。
*3 御本陣=富海本陣。
*4 入本屋=入本屋磯七。船宿か。
*5 三好久平=益田領飛地、大道村(切畑)在住の家臣。
*6 国司信濃様=萩藩寄組国司信濃親相。蛤御門の変の責任をとり徳山澄泉寺にて自刃、享年23歳。
*7 益田丹下=橋詰益田家当主。益田家老臣。200石(須佐益田家分限帳)。
*8 授(さずけ)=伝える
注35
旦那様御様子有之=禁門の変で敗戦し、7月27日世子が三田尻に到着すると毛利敬親は長府公、徳山公、清末公等と後事を協議した。その席へ吉川監物からの使者も参加。次の監物の意見要旨の如く、三家老の責任問題が討議された。
『今度京師之変動は出先三大夫以下参謀之者共御主意を取違以外之及暴動遂に御名義不相立次第に立到候 付ては首謀の面々御取締被仰付之を以て天朝へ御申開被遊御名義御取返之御所置被為在度事』
(出典=「防長回天史」第四編下31頁)
津田公輔によれば
『是ノ時ニ当リ藩内ノ俗論党ハ機会ヲ失ウベカラズト沸騰シテ正義派ヲ圧倒シ、両君公ヲシテ朝敵ノ罪ヲ蒙ラシムルニ先立チ、為ス所アラントスルノ議起レリ。 故ニ三国老ノ藩主ニ拝謁スルヲ許サズ、三国老ハ各山口近傍ノ地ニ姑(しばら)ク滞在スベキニ決シテ親施公ハ大道村居住家臣三好久平宅ニ寓セラル。』
(出典=津田常名著「回天実記」)
3百名の軍勢を引き連れて堂々と須佐を出陣した右衛門介の主力は一戦も交えず敗走し、藩主は朝敵の汚名を被り、全軍兵はばらばらになって帰邑したのである。
「旦那様御様子有之」とはこうした情勢の下で、藩主父子の冤罪を晴らせなかった事。真木、来島ら過激派を鎮撫出来なかったこと。藩主父子が朝敵として追討される様な事態に至った事。敗軍を纏める暇もなく打ち捨てて敗走帰国したこと…などに対して右衛門介が責任を感じていた事を表しているのではなかろうか。
818政変以降「玉を抱く」「玉を奪う」策略が公然化した。 遠山茂樹は「明治維新」(156頁)の中で『この当時「玉を抱く」「玉を奪う」という露骨な隠語が、志士の間に盛んに使われた。彼らの尊皇攘夷思想の実態を遺憾なく表現した言葉である。「玉を抱く」者が官軍、「玉を奪」われれば賊軍、政争の勝敗はまさにこの一点にかかると意識された』と述べている。長州藩が朝敵となったとき、右衛門介は彼の活動が全て失敗に終わったと感じたのではないか。光明寺の丘に登って燃える京都市街を眺めたとき、祈りを込めて京都への復活を図った努力が、いまや水泡に帰し、挫折の責任を一身に背負う覚悟を決めたのかも知れない。
津田常名(公輔)も天皇を想いつつ次の様に心境を詠んでいる。
『つつの音花火のかげやさそふらむ 大内山の今朝の松風』
『明けそむる都の空のつつ音は 君のおん夢おどろかしけん』
(出典=松本二郎著「津田常名翁の伝記」)
なお、蛤御門の変での須佐出身の殉難者は次の通り。
●元治元年7月19日 田村育蔵直道。30歳。鷹司邸にて自殺。
●元治元年7月19日 中村惣治藤信。33歳。戦死場所不明。
●元治元年7月19日 中尾易三郎宣足。32歳。戦死場所不明。
●元治元年(月日不詳) 清治(中間)32歳。桜宮にて松平讃岐守手兵に捕らえられ入獄中牢死。
●元治元年7月19日 澄川健蔵正義。23歳。負傷自殺。
(出典=「須佐町誌」183頁、「回天実記」、「温故」第12号「三陰山招魂社建設の次第」)
22
罷下候事
廿八日 御宿わりニ付
早暁出足候事
八時*1山口着中野源右衛門*2
心配ヲ以諸宿相調
候事
夜四時過*3
増野又十郎*4・山崎
十郎右衛門*5其外段々
罷帰れ候事
廿九日
生雲*6止宿
晦日
スサ着
*1 八時(やつどき)=午後2時。
*2 中野源右衛門=「回天実記」に「山口堅小路、中野親助方を御旅館」とあり、同じ旅籠か。
*3 夜四時=午後10時
*4 増野又十郎=藤兵衛。益田家老臣、130石(須佐益田家分限帳)。
*5 山崎十郎右衛門=12代直行。榮太郎。親施公御供頭役(嘉永4〜安政2)。文久2年(1862)大阪銀談に参加。明治16年10月22日没。
*6 生雲(いくも)=現阿東町生雲。
注36
須佐帰邑=波田与市らは親施公より一足早く7月29日に帰邑した。
内藤磋亮も彼の日記に 『八月二日諸隊解散ノ令アリ。同三日朝出立大道村三好氏に至り主君及ビ国司大夫ニ謁見ス。同四日朝主君帰邑ノ由聞キ正午発足一貫野ニ至リ小国氏ニ面会直チニ大谷氏ト共ニ
同地ヲ発シ仁保市ニ宿ス。五日同地ヲ発シ昼夜兼行六日朝帰宅ス』
(出典=「内藤磋亮履歴書」)と記しており親施公より一足早く帰邑した。親施公帰邑は8月6日の日没後で、その時の模様を津田公輔は『
八月六日日没後親施公ハ僅カニ六、七名ノ陪随ニテ帰邑アリ。 邑中粛然、士民一般寝食ヲ安ゼス。主君ノ身上如何アラント大イニ憂慮セリ』
(出典=津田常名著「回天実記」)と述べている。8月2日に免職となり、徳山幽閉が決まって
いながら、親施公はどうして須佐へ帰ることが出来たのか。詳しいことは判らない。
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