![]() |
古文書を読む(増野家文書)『益田勘兵衛由来書』整理番号:「7袋2」 |
TOP PAGEへ | 前頁へ戻る |
![]() | ![]() |
|
|
建久4年(1193)益田に七尾城を築いた御神本兼高が益田姓を名乗って以来連綿と続く益田氏は長い歴史の間に多くの支族に分かれました。 鎌倉時代は分割相続制の時代で一族の長である惣領家から庶子と呼ぶ分家が生まれました。益田家の場合も領土を三隅、福屋、周布、永安などが分割相続し彼らは幕府から独立した御家人として認められました。 しかし、惣領家はなお庶子家に対して支配権がありました。この時代の庶子家としては外に末元、丸茂、多祢などの諸家が生まれています。 しかし、惣領家の領土が分割相続で細分化される一方で、惣領と庶子、本家と分家の間には所領の境界線紛争など利害の対立が生じ勝ちであり、時の経過と共に庶子家の独立性が次第に高まって 惣領制による一門の結束は緩みはじめました。 南北朝時代までに大草、遠田、波田、仙道(山道、大塚)、丸茂、乙吉、虫追、宇治、符、菖蒲などの支族が生まれましたが、これらの支族は次第に力を付け、惣領家と庶子家が南朝、北朝に別れて抗争しました。 その結果、益田本宗家は滅亡し、仙道庶子家の兼見が惣領職に就きました。 総領職に就いた兼見は一族の不和確執が家を滅ぼすという危機感を抱いていましたが、彼の三人の息子(兼世、兼弘、兼政)には依然として所領を分与しました。益田家が「一子単独相続制」を採用する迄には、 それから兼世→秀兼→兼理と更に三代の時間を必要としました。「益田兼理置文」によって庶子家、郎党(扶持人)全員が益田惣領家の家臣団に繰り入れられることになりましたが、彼の死後永享7年(1435)益田家庶子家 、郎党は起請文を以て兼理の息子松寿丸(益田兼尭)を主君と仰ぎ二心なく忠節を尽くすことを誓約して益田家の惣領制が確立しました。 益田氏は七尾城の支城にこれらの支族を配置しました。上ノ山城(多祢氏)、赤城(益田氏)、遠田城(遠田氏)、大草城(大草氏)、赤雁城(赤雁益田氏)、波田城(波田氏)、四ツ山城(益田氏、山道氏、大塚氏) 、丸茂城(丸茂氏)、小松尾城(大谷氏、益田氏)、原城(赤雁益田氏)、横山城(菖蒲氏、波多野氏、喜島氏)、安富城(周布氏、丸茂氏、安富氏)等です。 時代が下がって幕末の須佐には橋詰益田家、海蔵庵益田家、清水益田家などの分家がありました。また、問田益田家(右田、寄組、元祥次男景祥を祖とする)や萩の益田二家(木与、寄組、元祥四男就之を祖とする益田家と、 小郡陶、同五男就景を祖とする益田家の2家)も益田家の親類です。 一方、益田姓を名乗っていた庶子家も、上述のように兼理以後は家臣団に組み入れられましたので、何代か時代が過ぎると何時までも主家の姓を名乗るのを憚る様になり、 益田の姓を返上して別の名前を名乗る者がありました。 それとは逆に、益田家の家筋ではないのに益田家から益田姓を頂戴した諸家があります。こういう例は藤兼の時代が多かった様です。今回、増野家文書からご紹介する「益田勘兵衛」の家系は実は石津家であることが この文書から分かります。「温故」第13号の「益田家御子孫之分派并諸子長門へ御国替以前於益田来歴之次第」8頁に”益田左衛門亮宗景 経久法名”として紹介されているのがこの文書の冒頭に登場する石津左衛門進経久です。 経久は6〜7才の頃、山口法泉寺の小僧で「さいさ」と呼ばれていました。彼には山口国清寺の僧として出家済みの玄良(後の益田以白軒または意伯軒、波田与左衛門)という弟と一人の姉がありました。 ところで、益田藤兼の正妻は杉三河守興重入道宗長の娘でしたが、大層年増故ある時もう一人側室を持たれては如何ですかという話になりました。偶々、経久の母、即ち石津経頼の妻は町人の娘でしたが 藤兼の正妻の実家である杉家に出入りしていたので、宗長から益田へお供してお勧めせよと云われ、息子二人を山口に残して娘一人を連れて益田に参りました。所が、藤兼公はこの娘が大変気に入って側室に迎えられたという訳です。 この女性が後に藤兼の後妻となった「礼仏(らいふつ)」です。正妻は間もなく亡くなりましたが、亡くなる前に礼仏を後妻に迎えてはならないと遺言を残しました。 経久の母とすれば石津家は大内家以来の武士だが、自分は町人の出で藤兼が我が娘に目を掛けられたのは良いが、あちこち聞こえも良くないので一旦山口の伯父の家に帰すことにしました。それを、 藤兼の意向を受けた川越(又は柴岡)兵庫 という山口牢人が娘を馬に乗せて寺参りに行くと称して益田に連れ戻したのです。こうして礼仏は藤兼の後妻に収まりました。 その後、さいさは母を訪ねて益田に来ました。藤兼にお目通りした時に、殊の外若輩ながら生まれつき神妙と認められて即座に還俗を命じられ、夫れまでの名字石津に替えて益田の姓を賜りました。 これが益田勘兵衛家の始まりです。藤兼は彼を気に入って、後に当職に起用し万事彼に任せたようです。「…殊の外左衛門亮儀は諸事御用の辻仰せ付けられ候、増野正庵へ益田仕置仰せ付けられ候て、 万事限りこれある事は左衛門亮へ申し達候て、御用を正庵相調えられ候」と伝えられています。 なお、藤兼と礼仏の間に生まれたのが益田元祥(牛庵)です。礼仏が元祥を生んだ事によって、弟の左衛門亮と意伯軒兄弟の運も開けたようで 「元祥様御誕生にては此の兄弟仕合い中々大形あらず候」と伝えられています。 其余の話は「温故」第13号復刻の時に致しましょう。 この増野家文書によって益田権兵衛の家系図を描くとこちらの様になります。→ こちらをクリックして下さい(PDF FILE) なお、「須佐市中細見図」を見ると益田勘兵衛の家は山根丁にあった事が分かります。探して見て下さい。 → こちらをクリックして下さい。 |
|
|
< > ◆益田勘兵衛由来書 | |
覚 |
|
|
(注1)大内義隆没落之時=天文20年9月1日、大内義隆老臣陶晴賢の謀反により長門大津郡深川村大寧寺で殺した。(注2)元祥公芸州吉田御在館之時=永禄11年(1568)1月、益田藤兼、次郎(元祥)父子は芸州吉田に毛利元就を訪問した。出雲が平定され雲・芸・備・防・長・石6ヶ国がすべて毛利氏の手中に帰したので、 そのお祝いの表敬訪問であった。元就は次郎の為に元服式をあげ、扁諱を与えて「元祥」と名乗らせた。(注3)朝鮮御陳=文禄元年(1592)秀吉の下知により毛利輝元は朝鮮征討総督として、2月28日広島を出陣、4月19日釜山に着陣。このとき吉川広家は騎兵5千人を率いて毛利軍の先陣を承り18日釜山上陸、 益田元祥はこの軍に加わっていた。広家は慶尚道聞慶に陣取り、醴泉の戦いで戦果を挙げ、その後安南、晋州、熊川に戦い碧蹄館の戦いで明将楊元、李如松の軍を撃破した。元祥の行動は記録がないので分からないが、 広家と同一行動をとったと見られる。(以上「文禄の役」)慶長元年(1596)秀吉は朝鮮再征を命じた。益田元祥は慶長2年6月雲州富田城を出発して吉川広家の軍に加わり釜山に上陸。霊山、景寧、安陰を経由、所々に朝鮮軍を撃破して進撃。やがて広家の軍は毛利秀元軍と合流。 蔚山から順天の間に7城を築いたが、この再征は捗々しく行かず、蔚山の籠城戦となった。広家・元祥の軍は古泉に居たが、蔚山城の危急を知り蔚山に進撃、明鮮軍を破った。(以上「慶長の役」) (注4)慶長五年御国易=関ヶ原の敗戦で毛利輝元は所領を防長2ヶ国に削られた。益田元祥は家康の誘いを断って毛利輝元に従い慶長5年(1600)11月26日総勢322人が益田を発ち、翌27日須佐に移住した(注5)先知五分一御配=益田から須佐へ移住するに当たって、益田元祥の禄高は7,275石5斗5合となり、石見在住当時の1/10となったので、家臣の給領地も益田時代の1/5となった。(注6)引田被仰付=引田借。下地知行取家臣がその知行地を質物として藩府から借財することを云う。(注7)借物御悩相成候=御悩借。家来の借銀を藩府で世話をすること。その役所を御悩借方と云った。(注8)押隠居=隠居刑。「押」はおさへつける/とりしまるの意(押籠め、押収、押送、押領など)。(注9)古和十兵衛一乱=(注10)且々=かつかつ。不満足ながら。ともかくも。辛うじて。やっと。 |
Copyright(C)須佐郷土史研究会
|