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古文書を読む(増野家文書)『組頭役中要用日記』整理番号:「11袋22」 |
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今月から「組頭役中要用日記」の読解文を3回に分けて発表・掲載したいと思います。これは増野勝太が瀬尻組組頭として在任中の主な組内の出来事を私的に記録した日記です。 勝太は明治26年(1893)5月14日69才で亡くなっていますので、この日記が書かれた万延元年(1860)、彼は36才の働き盛りでした。 ■時代背景記録は万延元年(1860)11月17日から文久元年(万延2年を文久元年と改元)4月16日までとなっています。書き出し年の3月には、井伊大老が、桜田門外で水戸浪士らによって暗殺され、 諸外国との修好条約に伴って国論が賛否に二分し世上は騒然とし始めました。 翌年文久2年3月、長井雅楽の航海遠略策が公武に歓迎され、5月藩主敬親には朝廷から国事周旋が下命され、主君益田親施が上洛しました。 他方、攘夷熱も高揚し、其の反動で文久3年には、8月18日には事態一転、萩藩と七卿が京都から締め出されます(堺町御門の変)。この日記はこうした歴史の激動が始まる直前の、 萩藩永代家老益田親施の采邑須佐を中心とした武家社会の断面を知るよすがともなる記録です。 ■内容について日記には、まだ幕府や京都の緊迫する政治情勢の影響は、ほとんど感じられません。益田氏が毛利家に随従し、関が原の戦のあとに須佐へ移住後、260年余連綿と続いたであろう 平穏な下部組織の生活秩序がそのまま投影されています。 益田家の平時の組織は、直属家臣集団と四組(瀬尻、須佐地、市丸、宇谷。初期は8組=大蔵、市丸、立野、宇谷、友信、下小川、境、千疋)の組編成から成っていました。 各組頭は領主とともに須佐に居住し、各組傘下の武士は、領東の田万・小川を中心とした地域に後世の屯田兵に似た生活を営んでいました。同時に細分された多くの行政職を兼務し、 各組には「組証人」という差配役が配置されていました。 須佐藩校(育英館)での武技訓練、萩本邸の出役、江戸や京都出張などの場合には、出張打診にたいし「御請け御礼」という意思表示が建前でした。しかし、幕末の萩藩の緊縮財政で給与の削減は大きく、 問題は組織任務に長期間従事すると、家族の生活に支障をきたすことでした。病気(気分相)で勤務ができないこともある。組証人は、地区内で生活しているので、その実情にくわしく、 役逃れの口実かどうか大方の推察がつくという、なかなか合理的な組織でした。そして勤務実態に応じ慰労金、慰労米や、生活困窮者への融資や貸し米なども考慮され、人事管理もキメ細かく行われた様子が推察されます。 正月の射初め式などでは、儀式が格別に重んぜられた時代背景が読み取れて興味深く、また改名や養子縁組、病気時の長髪、下働きの採用、竹木の取引、集団草刈場の管理、他家奉公の顛末処理など 「私的な家」にかかわる事例も勘場という役所の認可事項となっていて、時代の厳しい雰囲気が偲ばれます。 ■3部作この文書は増野勝太が残した3つの日記形式の記録の一つです。他の2つは既にHPで発表済みです。 @「御供日記」 万延元申の7月22日〜文久元年9月 「温故」第17号 この様に「御供日記」と今回発表する「組頭役中要用日記」はほぼ同じ時期に書かれたものですが、その記述は次のように1つの日記を2つに分けたような形になっています。 1、「御供日記」P1〜46=万延元年7/22〜9/17。俣賀又助と交代して須佐へ帰 る。2、「組頭役中要用日記」P1〜58=万延元年11/19〜万延2年1月20日 3、「御供日記」P47〜52=万延2年2/2〜2/5元宣公第13回忌法要に当り萩御取次 座無人ニ付出萩。 4、「組頭役中要用日記」P59〜118=文久元年2/10〜6/27 波田温人と交代して お供に。 5、「御供日記」P53〜98(完)=文久元年7/9〜9/18。9/18桂主殿(益田親祥) と益田房子の婚礼終わり帰須。 6、「組頭役中要用日記」P119〜130=文久元年11/15 〜12/31(完) 7、「日史録」文久2年1/2〜 「御供日記」と「組頭役中要用日記」の記述は、どちらもこのように飛び飛びになっています。合わせると一つの日記になりますが、最初から2つに分けて記述したのか、 それとも後で2つに分けたのかは判りません。 また、「組頭役中要用日記」が増野家子孫の手許に残り、「御供日記」が伊藤家文書の一部となっているのは何故でしょうか。「御供日記」は益田家の記録として職座へ差し出されたのかも知れない。 そうして年月が経過して役所が廃棄しようとする文書の中から伊藤家に収まったのかも知れません。 ■勝太について日記の筆者、増野勝太についてはこれまで「温故」などで度々紹介されていますが、改めてご紹介しましょう。 須佐元横屋丁増野家の遠祖は平知盛です。系図には第16代知光(平馬之助)の時に「遁源家之誅下西国 益田兼恒公以名家子於石州給増野荘 自是世仕益田家 称増野氏…」とあり平安末期に益田家家臣に加えられ、 知光が増野家始祖となったと記されています。 勝太は増野家第34代(知光から19代)で、姓は平、通称勝太、諱は知象。幼名を千代槌、佐助、正太と称し、飛松と号しました。実は宅野太郎左衛門定象四男で、母は松原勘五郎近保の娘です。 沈毅にして度量の広い人物であったようです。 勝太は益田親施公より8才年長でした。瀬尻組組頭として益田家軍制の一翼を担うと同時に、「御供日記」にあるように親施公の側近として活躍しました。剣法、弓法(日置流)、炮術(高嶋流)、 馬術などに長じ、特に炮術は須佐兵の指導者で火薬の研究などの面でも造詣が深かったことが残された文書から伺えます。 慶応2年四境戦争の際、石州口の戦で北第一大隊一番小隊司令となり、幕府の軍監三枝刑部を狙撃して功あり主君益田親精から感状を賜りました。 この時の記録は「温故」第1号「石州益田戦争実地録」に詳述されています。 明治26年5月14日(旧暦3月29日)卒。享年69才でした。法名竹峯軒本翁浄心居士。 |
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