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随 筆 |
過去・現在そして未来 |
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一 維新を掘り起こす |
依然和月在梅花 | |
私の先祖は元和二年三月(1616)萩から須佐へ移住して近藤姓を名乗った。毛利家に従って二十代益田元祥が長門の北浦須佐に移住して十六年、 萩城が完成して八年が過ぎた頃である。須佐で何をしていたか分かり申さず。 家に益田屋敷の間取絵図、唐船焼き討図、須佐市街細見図が残され、生家の玄関や床の間の柱には萩の乱で敗走した前原一誠達が志気を鼓舞する為に切りつけたと伝えられた刀傷があり、 小造りの式台があった。 先年解体して、柱は教育委員会へ差し上げ、絵図類は寄託している。 このようなこともあって血が騒ぐのか、先輩方のご指導を仰ぎながら古文書の勉強を始めて五年になる。益田家老の使者栗山翁輔の大坂銀談(借金交渉)や、 須佐内訌事件を学び、今はその発端となった禁門の変に上京した益田軍(須佐)の「随行日記」に取り組んでいる。これに注釈・解説資料を取り揃えて小さな冊子に出来ればと思い、 月に一度のぺースで勉強会に出させて頂いている。 | |
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二 長生きしてます |
義母は九十九歳。膝が弱り、歩行は難儀だが他には特に問題はない。食は旺盛。短歌や読書の会へは車椅子で送迎している。だが、この年になっても「お婆ちゃん」と呼ばれるのが大嫌い。 ここの家系は旧い。鎮守府将軍八幡太郎義家の三男義国の長男、新田荘司源義重に始まっている。異母弟は足利家初代の義康となった。新田家では今でも男子は義弘・義之・義孝と「義」を引き継いでいる。 ところで、歴史学者はとにかくとして、考古学者となると数億年をほんの先日のような気軽さで語ってしまう。気を付けなはれ。考古学者に金貸したら二〜三百年は戻って来いしまへん。 | |
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三 長生きしなはれや |
同級の岡田健児君にアメリカの新語Senior moment (シニア・モーメント)の話をした。「ほれ、あれ、あの」分かっているがなかなか出てこない。そんな時がだんだん多くなってくる。 ボケたらあかん従妹の夫は今年七十歳になった。 |
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四 長州緋桜のこと |
Prunus Lannesiana Wils.‘Chosiuhizakura’ 赤芽で花色の濃い美しい品種。花は半八重で径四糎に達し、……と「日本桜集」にある。指月城内を何度も探したが城内にはない。農林水産省の高尾研究林を調べたが二百五十近い品種の中には無い。東大の小 石川植物圃が最後の手掛かりになると思う。この長州緋桜を萩で咲かせる策は無いものか。萩の地にその気運が興ることを望んでいるが、萩は花より団子なのだろうか。 【注】長州緋櫻は毛利葛飾御殿にあったものです。 (完) |
切絵図では空白になっている武家屋敷がある。現在の木場三丁目辺りで、長州毛利の抱え下屋敷跡である。幕未期江戸では、毛利は反旗を翻した逆賊として上・中・下屋敷全てを没収され、 松平大膳太夫とあるべき所、主のない屋敷地になっていたのである。 眼を反対に向けると 江東区 役所の先に南砂住宅というマンション群が見える。ここは昭和の始めまでは毛利が原と言われていた。仔細は別項で。また地図には猿江恩賜公園の所は町名が毛利である。 何故?これも別項で。 《毛利が原》 毛利萩本藩の抱え屋敷があったので、その名で呼ばれていた。文政4(1821)に購入し、文政7年に隠居した10代藩主毛利斉煕(なりあき)の隠居屋敷として、正室、側室、 と子供たちが一緒に住んでいて「葛飾御殿」と称されてた。斉煕没後国許よリ鋳砲家を呼び寄せて大砲を鋳造したこともあリ、現在緑道公園に大砲のモニュメントが置かれている。 その後汽車製造の工場となリ、現在に至っています。 《町名の毛利》 猿江恩賜公園の辺リを毛利町と名づけられているが、此処は伊勢屋毛利茶左衛門が開拓したので当初「毛利新田」と呼ばれていたのである。その後猿江御材木蔵となっていたが、 明治期に町名をつけるに当たリ、毛利新田があったことから、毛利が選ばれ たようだ。長州毛利家とは直接の関係はない。 (「かんもん北九州ファンクラブ」55号2006年1月1日刊より) |
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