![]() |
リレー随筆 |
郷土ことばと祖父のこと |
TOP PAGEへ | 随筆目次へ |
昨年のNHKの大河テレビ、坂本竜馬の場面で、高杉晋作や桂小五郎らが、長州弁を話す場面がいくつかあり、懐かしく感じた。 明治になって山縣有朋や長州の志士たちが中心になって日本陸軍を創設したので、「・・・であります」という長州の言葉が、 帝国陸軍のことばになったと云われる。もっとも正調須佐弁は「・・であります」とあに尻上がりのアクセントをつける。 社会人になって勤務したのは、武蔵と小次郎の決戦場、巌流島が近い下関市彦島である。勤務先の工場には山口県人が多いが、 九州出身者も少なくない。仕事を進める上で笑い話のような、食い違いがあった。夜間の化学設備の操業は、組長という名の監督者が責任者である。 部下に「バルブをナオシテオイテクレ」と命じたが、いつまでも放置されたままになっている。「何故か」理由を聴くと部下から、 「どこも故障していないのでナオス(修理する)ことはできない」という。九州生まれの人に「収納する(ナオス)」は通じない。 「タンクの水がミテタ」となると更にややこしい。長州方言ではミテルは、無くなることであり、九州出身の青年は「満てた」と逆の想像をするのである。 あれは、小学4年生の頃だった。下関の壇ノ浦にある母方の伯母の家へ遊びに行った。ご馳走が出た。「もっとどんどんお食べ」と勧められた。 両親を早く病気で失った私たち兄弟は、既に70歳台も半ばの祖父母が、親に代わって養育してくれた。当時小学校の夏休み時期になると、
大牟田から従姉兄たちが、須佐湾での遊泳を楽しみにやってくる。その父方の従兄姉たちが「おじいさま」「おばあさま」と呼ぶ。私も弟も自然にそれに倣うようになった。 父方の祖父も、定年退職したあと、丁度私たちが大坂から須佐に帰ってきた頃の昭和9年〜12年ごろに同好の仲間と寺で坐禅会を開き、続いて句会を催していることが、
残された何冊かの句集から推察できる。 句集「弘誓の船」(注)昭和9年、11人の21首の句が毛筆で書かれている。 【注】弘誓(ぐぜい):衆生を再度して仏果を得させようという菩薩の誓願で 弘誓の網、弘誓の海、弘誓の船、弘誓の鎧の4つがある。 弘誓の船は菩薩が衆生を済度して涅槃の彼岸に送るのを船にたとえたもの。花祭 象引き廻す 善男女 一歩 4月8日の潅仏会 釈尊の降誕日に、水盤に釈尊を安置し甘茶を頭上に注ぎ、これを台車上の張子の象の上に据え、多くの子供が笑顔で綱を引く。 日曜や 子連の多ふき しお干狩 弧月 水海の橋の手前で潮干狩ができた。煉瓦工場のできる前は、広い泥砂の潮干潟でアサリやハマグリが多く取れたらしい。 すてられし 大根も 花を持ちにけり 芦雪 こういうものに、そっと目をやる暖かい句である。 本堂に 人集まりて 歌留多会 須佐では戦前まで、百人一首の歌留多が家庭で盛んだった。寺の本堂にまで集まって興じた、とは知らなかった。 追懐の 袖にからめし 糸桜 無声 糸桜はシダレザクラのこと。河原町の紹孝寺に大きな木があった気がする。 庭の菊 根分けして行く 移民かな 松月 須佐からも南米や北米へ移る人がいたらしい。大事なきずなの花である。 世をはなれ 追い風に帆かけ 彼岸かな 琢玉(祖父) 老人と子供だけの我が家も戦後のインフレには閉口した。なにしろ物価が日々上がる。 祖父の恩給(年金)が日に日に目減りする。生活費に困って、どんどん衣類や什器が食べ物と交換された。父親の残した背広の古着1着が、旧円ながら1万円で売れた。 祖父母には最も苦しい時代であったであろう。この頃の歌に、 やすやすと 暮らすはいつと人問わば 百(モモ)の坂路を 越えてそののち 老境に入った今、当時の祖父の心情を思うと淋しくなる。 ◇ ◇ ◇ ◇ 来月は大谷和子様にご寄稿を御願いします。 |
Copyright(C)須佐郷土史研究会
|