会誌「温故」

「温故」第8号

須佐郷土史研究会

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温故8号をお送りします。
郷土史硫究会が発足して10年の節目を迎えました。この10年間、拓本取りや山城調査など実施してきましたが、特筆すべきは資料館が建設され、 昨年11月12日にオープンしたことです。念願の事業なので喜びも一入です。会としては側面的に情報の提供や資料の収集などの協力をして いきたいと思います。
今回は県文化課文化財専門員吉積久年氏が須佐の唐人墓について詳しく調査され論文を発表されていますので、同氏にお願いしてご了解をいた だきましたので、紹介します。
■ 目 次
資料紹介 須佐の唐人墓 1頁
古文書によく出る言葉について 13頁
資料紹介 萩の乱前原一誠とその一党 23頁
須佐町の小字名について 28頁
P1
「唐人墓   大越ニあり
但享保十一年丙午の八月七日、唐船壱艘当湊江入津仕
候ニ付、同九日之晩より十一日江うち払被仰付候所、
其後たたりをなし候故霊神を御祭被仰付候事」

右は『防長風土注進案』奥阿武宰判須佐村、古墳の項に記載されるものである。

須佐は、周知のとおり永代家老益田氏の本拠地であり、須佐浦は北前船の寄港地として栄えたところである。また須佐湾は溺れ谷地形で、多くの 小湾からなって海岸線が屈曲に富む上、湾内外には島嶼が多く散在して、古来景勝の誉れ高い。
須佐湾の北岸、大櫛(越)浦と平島の間に唐人墓と称されるところがあり、文字通り墓石が群立している。自然石、加工石相混じて最終的な数字は把握し難いが、刻銘を有するものばかりを編年的に整理すれぱ表の如くになる。刻銘の限りでは、いずれも邦人ばかり、かつ殆んどが他藩者である。当地の伝説では、被葬者はコレラ患者、あるいは刑死者も含まれるというが、大半は海難者のものである。前述の通り、須佐湾内外は溺れ谷であって潮流が激しく、航海の難所であった。

さて、群立する墓碑の中に、表には掲げなかった卵塔形の碑が一つある。「三界萬霊」「天保八酉ノ」「二月十二日」との刻銘をもつ。供養碑である。 これが前記『防長風土注進案』に載る唐人墓と呼びならわされているものである。同書の説明に見る通り、唐人の骸が埋葬されたのは享保11年 (1726)8月、それから110年余りののち亡き唐

P2
唐人墓の墓碑
年 号月 日出 所 地 俗  名戒  名
元禄?6.22…………………………釋浄■■■
寛保元(1741)8.29阿州童浦八幡屋吉次郎圓海智月信士
明和7(1770)12.26石州和江■  ?釋恵順
安永6(1777)7.9越前国梶浦六郎右衛門釋運禅海信士
天明元(1781)1.17安嶋儀右衛門釈浄善信士
天明2(1782)2.17越州新保長右衛門釈宗雲信士
  〃  〃  〃与三兵ヘ釈道祐信士
  〃  〃越前三国新保笠屋小右衛門釋了清信士位
  〃  〃越州崎浦崎浦四郎釈想林信士
  〃  〃 〃新保与四郎釈浄岸信士
  〃  〃 〃 〃権三郎(カ)釈暁善信士
  〃  〃 〃 〃壹兵ヘ(カ)釈清蓮信士
天明3(1783)正.26石州和江浦儀七、藤吉、忠蔵智運禅海信士
  〃  〃石州和江浦忠蔵覚波春了信士
  〃  〃  〃磯七■信士
天明4(1784)9.18雲州須田■平釋■■■■信士
享和3(1803)8.4但馬国千原屋喜三右衛門海翁得船信士
文化7(1810)10.3雲州■津浦角屋■■郎釈氏光珍信士
文化13(1816)7.9越前三国安嶋村太三良釈静安信士
文政2(1819)7.10紀州日高郡■屋浦藤吉釈随忍信士
天保2(1831)7.27播州因之嶋天濱村才治良釋静眼信士
天保5(1834)11.8石州銀山御料温泉津■村屋庄平(四十二才)到岸浄利信士
  〃  〃  〃釈彼岸圓乗信士
天保6(1835)5.28石州湯野彦助釈尚願信士
天保8(1837)2.10下関竹崎豊後屋菊治釈宗海信士
  〃  〃対州甼田氏弘誓来舟大姉
  〃  〃下関竹崎喜八(カ)釈教善信士
天保12(1841)3.27三州■■廣嶋江之浦松井寅吉釈静仙信士
  〃7.15…………………………秋月信士
天保15(1844)6.15越沖保土津浦まきや亦四郎釋涼雲
弘化4(1847)10.3加州橋立寺谷善次良釋宗順信士
嘉永4(1851)9.朔…………………………釈来(か)願信士
  〃7.26能州内柳瀬治助釋諦念信士
文久元(1861)9.3薩州(カ)久左衛門(行年二十六才)釈浄願信士
  〃8.8但州瀬戸村永喜屋国蔵峯月照川童子
  〃9.13…………………………速蓮浄教信士
P3
年 号月 日出 所 地 俗  名戒  名
文久2(1862)8.9雲州杵築松田屋直平(梵字)観説浄喜信士
明治7(1874)7.24…………………………釈得善信士
明治12(1879)6.27……………内山亀治郎観應如雲信士
  〃6.23……………澄川竹蔵……………
  〃旧7.1……………田村喜兵衛……………
  〃■7.7…………………………顕山現道信士
  〃■7.■…………………………天■自■信士
  〃5.26……………栄吉歸厳量命信士
  〃旧6.25……………鈴川静治……………
(明治12)7.朔……………西田竹嘉……………
…………………………伯州赤崎山根屋■七秋山涼雲信士
……………■.12長崎外浦町村上廣太郎蓮臺浄生信士
…………………………新保浦彦■……………
写真省略
P4

人の霊を鎮めるため建立されたものである。「祟り」と感得せしめる事故あるいは事件が発生、もしくは多発したための異例の供養かと思われるが、 それが何であったのか、資料的に裏付けるものは管見の限り見出せぬ。が、邦人を葬る墓碑群がその点は暗示してくれていよう。海難事故の続発、 あるいは流行病の発生が、人々に惨劇とも映る忌まわしいあの100年前の事件を想起させたのに違いない。

享保11年8月の唐船漂着、打攘事件に関する記録は、結構残っている。管見の限り列記すると左の通りである。
いずれも山口県文書館架蔵あるいは所蔵の品である。

A 毛利家文庫・防寇
(1)異船事御尋ニ付御答  一冊
(2)長門須佐浦ニ於テ唐船打払記録  一冊
(3)須佐浦唐船打払之記  一冊

B 県庁伝来旧藩記録
(4)須佐浦唐船打払之記  上・下  二冊
(5)須佐浦唐船打払之記  一冊

C 一般郷土史料
(6)須佐浦異国船打払ニ関スル史料 一・二・三  三冊
(7)須佐浦唐船打払覚書  一冊
(8)須佐浦唐船打払覚書付図  一枚
(9)於須佐浦唐船焼打一巻聞書  一冊

右のほか、益田家文書や下田万村庄屋大谷家文書にも同種の記録が数点存在するし、須佐町中央公民館には(8)とほぼ同じ絵図1枚(写真2)がある。
日本史年表にとりあげられるほど特異な事件でありながら、従来、当事件の顛末を明らかにしたものは皆無に近い。手の届くところで『毛利十一代史』 ぐらいかと思われる。
地元には『須佐町の碑石と碑文』(昭和55年須佐町教育委員会発行)があり、下のように紹介している。

「享保11年(1726)益田就賢の時、8月7日唐船1隻が須佐浦に漂着して中島(弁天島)の西に停泊し、食糧、水等を、要求した。奥阿武郡代官所は直ちに 萩本藩に注進すると共に、同船の退去を促したが(当時は厳重な鎖国令がしかれていた)唐船は応ぜず、8日萩より兵を派し更に退去を要求したが応ぜぬ ので9日須佐兵と共に打払を決行、これに対して唐船も抗戦した。10日更に増兵して攻撃し、11日に至って唐船遂に火を発して焼没した。船は交趾支那 広南の船で船長は薫宜叶とあるから、打払決行までに対面交渉があったことが推定される。直後本藩萩から幕府に報告し、船長の死骸は長崎奉行所に 送られた。収容された船員の死骸は大越に葬られ、云々」

あえて紹介したのは、若干誤謬は見られるものの『毛利十一代史』などに比し、最も事実に即した記載がなされていると思うからである。

P5

須佐浦唐船打払図(PDF FILE) ← こちらをクリックして下さい。

『毛利十一代史』は明らかにA・Bの諸記録、すなわち藩側の記録に依拠して記述されている。A・B諸記録は、幕府への報告事項を主に記録しており、 事実をいささか歪曲した節が窺われる。その点Cの諸記録は詳細に事実を満載しているようである。とりわけ(7)は墨付89紙にも及ぶ大著で、日を追って 図面が付せちれ、最も心動かされる記録である。ただ本書は近代に入ってからの写本である。巻頭に「此書ノ字体及図面等総テ原本ヲ模写シタルモノ也」と見え、また巻末に「先年増野高定反古紙売却之際購求焉 須佐本町大賀昌蔵々書」とある。

そこで、(7)須佐浦唐船打払覚書を案内役に頼み、事件の顛末を明らかにしてみたいと思う。

○八月七日(新暦9月2日)
須佐蟶潟まてがたの漁民が高山岬で漁を行なっていたところ、北の方で大筒の音が二度にわたって鳴った。音のする方へ近づくと、唐船1艘が漂泊 していた。江崎浦の方へ移動するかに見えたが、高山岬沖に滞留の気配。昼八ッ時(14時)過ぎ、その旨が注進される。これをうけて江崎浦在番の唐船方役人伊藤半左衛門及び奥阿武代官粟屋八左衛門の許に急報が放たれ、同時に萩城下へも飛脚が走った。一方、須佐益田家の 家中が船を漕ぎ出し偵察を行う。また、同家中打方の面々が益田館に集結、打方の船も準備された。六ッ時(18時)偵察船が戻り、唐船が須佐湾外に浮かぶ黒島の西方に碇をおろす旨を報ず。夜五ッ(20時)前に伊藤半左衛門が江崎から到着、早速打払方につき談合、萩から の指示を待つことになる。
P6

○八月八日
朝、唐船から大筒が打放たれる。五ッ時(8時)見分のため伊藤半左衛門ら沖へ船を漕ぎ出す。すると、ちょうど唐船は碇を引揚げるところ、 出帆するかと見えたが、案に反し唐船は湾内に入り始める。扇子をもって沖へ出る相図をするも、愈々入津し、中島の西方に碇をおろすに至る。 そして、唐船から竹竿に挟んだ書翰が示された。書翰を受けとって見るに、長崎へ赴く途中、難風に遭い漂流を強いられここに来たったが、 船中に水なく至極迷惑している旨がしたためられていた。そこで、筆談に及ぶべしとの半左衛門の判断で、須佐在住の儒者品川友哲が呼び寄せられた。
  「客船自何国来耶。所嘗往来我邦長崎之商船而漂流至干此耶。
  則当斎官許卯書可以徴者今示之」

と、船の国籍及び公許を得た正式な貿易船であるや否やの確認から始められた。(9)於須佐浦唐船焼打一巻聞書には、
  「唐船より日本ニ而返答仕候ハ、船ハ南京ニテ乗候 人柄ハ北列之者四拾弐人乗と答申候」
と記述されて興を惹く。 (7)には左のように記録される。

「此唐船八幡船咬(交趾)の中廣南より積出候、船の長サ弐拾弐間程艫舳ろじく水際より高サ四間余胴之間高サ三間余 舳に彩色ニテ鬼面唐草絵取合有之これあり、艫ハ彩色ニテ大鳥之絵其下そのしたニ相送順風ト金字ニテ有之これあり 候、梶ノ長サ五間日本船梶ヨり小幅ニテ内ニ水越シノ穴六ッ有之これありいかり木碇ニテ壱尺角位ニシテ長サ四間余 うらにまた木左右へ丸とうをもって結付其さき鉄ニテ巻候事、船主名薫宣叶」

【注】@=口偏に耻。「交趾」=現ヴェトナム北部
   A艫舳=「艫」(ろ)→船尾、とも。「舳」(じく)→船首、へさき。通常は舳艫(じくろ)。
正式な日中貿易の許可書にあたる「信牌」が要請通り提示された。受け取るや、直ちに筆写し、返却。写本は萩まで運ばれ、真偽を確認。その結果、 偽物であることが後日判明している。積荷は繻子しゅす緞子どんす、巻物色々、砂糖、鉛、薬種などである旨の回答も得る。そして、人質の差出しを要求したが、 これに唐人側は従い2人の人質を差出す。この夜、唐船の周囲には番船数艘がつけられた。また、萩から御目付の兼重五郎兵衛、物頭の井上源三郎 ら4名、大筒役、物頭付鉄炮組の面々が海と陸から到着、深更から翌朝未明にかけ談合が行われ、「打潰し」の断が下される。
○八月九日
朝七ッ(4時)過ぎ、品川友哲が要求の水をはじめ、酒2挺及びするめ5連ほかの肴を唐船に運び入れる。これは、相手側に油断を与える謀略であったもの と思われる。粟屋八左衛門の軍扇をふる相図で打方の船々が一斉に出始めた、そのときである。俄かに空かき曇り、西風吹き募って雷鳴轟きわたり 雨となる。視界がきかず、一斉攻撃の手筈は狂ってしまう。が、猟(漁)船
P7

1艘が秘かに唐船に近づき、梶の尻掛を大鋸で切断。すると、唐船の中は大騒ぎ。雨の止むのを待って漸く七ッ半時(17時)、ホラ貝の音を相図に打払い開始。 唐船との距離約1町ほどから100目以下の筒を放つ。このときの唐人側の反応を(9)は、こう活写する。
  「唐人ニも当り候、打たハ/\と申声相聞もうすこえあいきこえ、なきわめき手を 合せ拝ミ杯仕などつかまつり候」
と。攻撃側の配陣は写真2の通りである。攻撃はノ刻(零時)まで果敢に続けられた。唐船はさしたる反応も見せず、ただ押されて、 更に湾央に移動。大筒・10匁筒では攻撃のらち明き難く、夜半過ぎから松明たいまつに火をつけ唐船に投げ込む戦法 もとられたが、唐人の消火処理が機敏でこれまた果せず。並ん で、八ッ(2時)過ぎから七ッ(4時)過ぎまで、猟船に焼草を積み、3艘を綱で結わえて筏仕立にして火を放ち、風上から唐船に流しかける戦術もとられたが、 唐人は結付けた綱を巧みに切断し、またまた失敗。しかも、唐人も漸く抵抗の姿勢を作る。焼物の破片や鉄類を投ずる。

ところで、前日の二人の人質について、(9)はこう記す。

彼者かのもの弐人も九日之夜唐船江鉄胞打掛音ニ驚以之外もってのほかさわき立候故、番人之者 早速しはり候つれ出し、高山之麓福岡福浦カと申所ニて杭をうちつなきおき、九日之夜鉄炮 ニ打ころされ候、此段隠密ニて御座候事」
○八月十日
打つ手が悉く失敗し、未明から再び鉄炮・大筒で攻撃をかけるも唐船に変化は見られず、五ッ時(8時)萩衆は旅宿に引揚げ、須佐衆も唐船から離れて湾中に待機。 なお、(9)によると再攻撃の際、唐船からうち合い、叩き合いの大喧嘩の騒ぎが聞かれたという。が、攻撃が止むや唐人は、焼損破損の箇所を修理し、 船内に海水を汲み入れ、焼損物を海中に投げ捨てた。同夜、援軍として萩から海路で後詰めの御目付児玉吉兵衛らが須佐に到着。
○八月十一日
夜を徹しての評議を得て、未明の七ッ時(4時)に萩衆の船が始動、六ッ時(6時)から砲撃開始。500目・300目・100目の大筒が攻撃の中心をなし、 これに大筒打の郡司源太夫が指揮して棒火矢ぼうびや・ほうろく火矢など打込む戦術が加わる。「いかやうに仕候て成とも兎角 今日中夜中へかけ打潰」すべしの厳命が下り、「萬一焼出不申時ハ皆々唐船ニ乗移り悉ク打ころし候覚悟」 ((9))で臨んだが、今次もまた、はかばかしい戦果得られず。
これから以後の実況については、(7)の抄録をもってあてることにする。

「小筒打方之儀のぎハ壱艘づつ唐舟へ間近く寄 船中走り廻り
P8

 

候唐人うたせ申候、鉄炮の間相有之まあいこれあり候ヘハ唐人共上棚へ上り様子見 申参懸 まいりがかりにて上棚を通り候を須佐ヨリ一番に指出さしだし候打方大谷格兵衛打落し申候、 其節船中唐人一同に声を立嘆き不大形おおかたならず之様聞へ候(略)
一先ひとまず鉄炮大筒小筒ともに相控あいひかえ陸ヨリ焼草船を仕掛候、萩分ヨリ弐艘此方ヨリ弐艘(略) 萩焼草船風上より漕寄せ候へともこき船ばかりにて下知無之これなく、唐船にハ艫舳ろじく に三間余も有之これあり竿へ剣をすけ又ハ鎌をすけ三本出居だしおり焼草船寄候ヘハ突のけ申覚悟 と見へ、又赤き水を掛候故漕船の舸子かこ共おそれあやむみ寄兼よせかね申候(略)
然処しかるところに小原勘右衛門乗船舸子かこ之内のうち久兵衛と 申者もうすもの 申候もうしそうろうハ私焼草船之綱手を取り游唐船のいかり綱へ結付流掛可申もうすべく候、 其上にて焼草ひとつ火をかけ焼立可申もうすべく候と申ニ付其通そのとおりにて組頭も ひとつ下知致し人数寄懸候ヘハ跡より小筒夥敷おびただしく被申もうされ候故働不相成あいならず あふなき参り懸りニ候故、組頭両人小笠原仁左衛門殿へ申候ハ 今朝ヨリ大筒小筒段々に打懸うちかけ候へとも唐船替儀無御座ござなくニ付おのおの儀焼草 寄掛申よせかけもうし参懸りに候へとも ヶ様もろもろヨリ鉄炮打ニは漕船下知不相成あいならずと申候ヘハ仁左衛門殿 被申もうされ候ハ於拙者せっしゃにおいても御同意ニ存候、ひとつ下知可仕つかまつるべく 由にて鉄炮打止うちどめ候様ニと諸手へ被申通もうしとうされ次第鉄炮も相止あいやみ候処に頭衆相談にて 評儀(ママ)替り 焼草不残のこらず風上へ漕上せ候様ニと下知有之これありそれヨリ御目附衆物頭衆も 一同に陸へ引取被申もうされ候、此方一手之船ハ不残のこらず洋中に控居ひかえおり候、組頭両人 打方之者之儀は初中後しょちゅうご昼夜相詰あいつめ朝夕も弁当にて仕廻洋中に罷居まかりおり候(略)

      【注】初中後=はじめからおわりまで、しょっちゅう。

唐舟より赤き水を掛しハとく水にて可有之これあるべき、 又ハ九日夜中打れし者を水桶へ入置候て其水をかけ 候かとも沙汰致し候(略)
右之通みぎのとおり昼まてうち候へとも其印無之これなく候(略)
弐百石百石之船へまくをはり印をたて 水海みずうみより諸士中乗組 大組御手廻おてまわり二男三男まて 銘々やりもち 陣羽織 其外萩御人数いつれも陣羽織 船中不残のこらず 印をたて やりのさやをはつし 萩後詰之人数□□須佐船役人船ハ小船故 橋の子をつみ申候、諸士中大船ヘハとひを入申候(略)
鍛冶宮内嘉平太唐船へかすかい付の役にて乗出申候、萩物頭御目附衆須佐御役人相談之趣ハ諸士の船乗出のりだし候ハヽ一同に乗取 のっとり可申もうすべく由ニ候(略)出船つかまつり候、 萩頭衆御目付衆もひる九ッ過時洋中へ被出でられ候、一通り大筒小筒共ニ稠敷しげしく今を はかりに打立鉄炮の音たゆるひまなく煙はあたりもくらむばかりニ候、其間相まあいに 唐船いかり綱を切せ乗組のりくむ覚語(ママ)ニ候、須佐諸士之船も室島宝島カの脇へ出候ヘハ沖之人数萩後詰一同ニ押寄る 景気を見、時節来り候てハ唐人とも竿の先へひへ草をゆひ付火を付 帆にうつし 帆棚へ付候ヘハ諸方へうつり 及大火 たいかにおよび候、其時
P9
に唐人ともこヽかしこより海中へ飛入或ハ手に手を取火の中へ飛込も有之これあり 候、海中へ飛入之唐人ハことごと ク鉄炮にて打申候、もっとも鑓にて両人被突つかれ候、 いつれも唐人四五拾人も有之これあり候様ニ相見あいみへ唐人ともの参方まいりかた風に木の葉の ちることくに見へ候(略)
唐船上下火移り候故にひる七ッ過都合の人数不残のこらず引取相成あいなり候」

以上が、唐船焼亡までの経過である。
同書によれば、須佐の近郷はもとより石見方面からも見物人が押しかけ、須佐浦はもとより海辺、山々まで人だかりができ、通りかかりの廻船も 天神島あたりで見物するというさまで、海陸ともに前代未聞の騒々しさであったという。
唐船はめらめらと燃え続けた。暮六ツ(18時)過ぎには地嵐がおこって、唐船は亀島との間、水ヶ浦へ吹き込まれ、ここでさらに6、7日燃え続けた。

萩からの出張の面々が唐船の末路を見届け、諸事全てを片付けて須佐を離れたのは8月25日である。
この事件に繰り出した人や船、道具並びに経費については、(3)須佐浦唐船打払之記 にまとめられている。主要なものを列記すると、萩浜崎の御舟倉から御船4艘(うち通船1艘、小早船1艘、いさば船2艘)、大筒船8艘、猟船148艘、 鯨船11艘、舸子人数834人、その飯米53石2斗7升、同賃銀と船修繕費合わせて銀1貫106匁6分、20目筒5挺、6匁筒24挺。奥阿武宰判諸浦からの繰り出し が猟船431艘、舸子1,724人、水夫609人、人

P10

力1,288人、飯米41石6斗1升、賃銀・猟船修繕費銀2貫949匁9分。御武具方の調達品として殿原具足17領、陣羽織17、 足軽具足44領、500目筒3挺、 300目筒7挺、200目筒1挺、100目筒8挺、500目玉210、300目玉465、200目玉50、100目玉500、鉛6匁玉3,400、100目火矢94本、鉄炮薬66貫100目、 竹火縄345曲、鉄槌2つ等々、須佐益田家中からの繰り出しは小船15艘、ろくろ2挺などである。

幕府並びに長崎奉行などへの第1報は8月8日付けで発進。第2報が8月10日付け、そして第3報は8月11日付けであった。 また8月13日には、江戸へ 村上又右衛門、長崎へ伊藤喜右衛門が使者として出立。伊藤は17日昼過ぎ長崎に到着、村上は25日に江戸に着いた。
話を江戸に絞ってみると、村上は26日、御用番の老中松平左近将監及び戸田山城守のもとに参上。このときのやりとりを記録したのが(1)の史料 である。「抜商売筋之船」であったのかどうかの質問に対し、村上はこう答えている。

「此度之唐船、昼之内は打払用意杯見及候而歟沖江も出、夜中ニ磯近江寄候趣ニ御座候、 其上碇も入不申、書翰をも相達不申候故、抜商売筋 之船ニ相決候付打払仕候事」。

筆談交渉の事実が隠蔽され、密貿易船であったことが強調あるいは誇張されている節がある。村上は、事件の現場に居合わせた 人物ではない。

8月8日夜、須佐に駆けつけ、11日唐船の焼亡まで見届けた御目付の兼重五郎兵衛が、第2の使者として8月13日萩を離れ、 9月朔日江戸に届いて いる。9月3日、御用番の老中水野和泉守のもとに参上、そこの御用人水野主鈴と相対、さらに同5日朝にも召喚され、もろもろの事実関係を質されて いるが、その中でまた「八幡船」(密貿易船)であったかどうかの問いに対し、兼重はつぎのように答えている。

「無別条船御座候得は入津之時分大筒なと打、早速碇を入れ、其上漂着之節小船を以書翰通達仕、 水木を乞申候、此度は碇も不入其所を漂、 書翰通達も無御座」。

村上と異口同音である。唐船の行動がほとんど曲説されている。また、死骸の収容が1体にとどまったというが、それは当地が、 荒海のため 沖にさらわれたのだろうかの質問に対し、

「唐船ヨリ出火候得は唐人共其覚悟仕、何も船底ニ而焼死候半と奉存候、然共死骸潮ニ流沖江 出申間敷物ニも無御座候得共其段見分不仕候事」

と兼重は答えた。いかにも歯切れが悪い。殺害に及び、死骸が埋葬された事実、無論人質2人の殺生も隠されている。 (9)の史料には、

「陸江およき上りたるも一両人有之由、是又即時鉄炮ニ而打ころされ」

たと見える。

ここに、今一つの史料を紹介する。徳出毛利家文庫「御蔵本日記」(山ロ県文書館架蔵)享保11年8月14日の記事である。

「(前略)梶を切取り綱ヲも切捨、人質弐人つれ
P11
帰り是ヲも切殺、其外鉄炮小筒にて打殺候、段々大勢被指越、唐船は焼打被仰付□□にて被指出、唐舟へ乗移突殺切殺、唐人四十三人去ル十一日不残舟も焼申候由」。

また、(3)の史料は、8月15日朝、須佐を訪れた浜田藩の家中3人に須佐村庄屋が応対した記録を載せている。隣藩のこととて当事件に強い関心があったと見え、 事情聴取に尋ねて来たものである。

「唐船ヨリ人質両人御取せ候様承り候、定而御討せ被成ニ而可有之候、参懸り承度候」

との問いに対し、

「努々左様之儀無御座候…此度之儀珎敷事ニ而御座候故近辺様々之浮説多御座候、云々」

と答え、唐人の死骸が海面に浮揚したという風説に関する質問にたいしても

「是以雑説ニ而御座候…死骸穿鑿被申付候得共今日迄は一圓見不申候、云々」

と答えている。同史料には、8月23日芸州商人両名、相次で商用のため須佐を訪れ、当事件のようすを聴取した事実、宿泊先、須佐を いつ離れいづこへ向ったかの事実が粗々記載され、真実の漏洩を痛く恐れた長州藩府の配慮が生々しい。

閑話休題。9月7日晩、幕府の命により打払役人の名付書が提出され、同9日付けで「唐船打払始終之趣書」が兼重五郎兵衛の名で提出 されており、これを左に示す。,

「     覚
長門国阿武郡須佐浦沖享保11年1726八月七日申ノ刻16:00右浦より
方ニあたり唐船一艘相見あいみえ候通かの浦役人共ヨリ城下注進つかまつり候付、
早速為打方うちかたとして物頭二人筒役之物四人足軽三十人其外目付
一人相添あいそえ差出申候事
一 同八日之晩唐船右浦ヨリ一里程沖漂来つかまつり候、即刻打払
  可仕つかまつるべし奉存ぞんじたてまつり候所、かの浦辺海上別而べっして 波高 其上一両日以来
  西風強 打払難相成あいなりがたく候故、無油断ゆだんなく見分つかまつり候事
一 同九日風少々穏ニ罷成まかりなり候付 同夜打払可仕つかまつるべくと申合、其用
  意つかまつり候事
一 打船拾五艘
    内
  一 物頭二人乗船一艘
  一 筒役之者四人乗船四艘
  一 足軽三十人乗船拾艘
      但一艘ニ三人乗
      外ニ
  一 目付壱人乗船一艘
右之通みぎのとおり打船打揃うちそろい酉ノ刻18:00唐船間近まじかく乗寄百目以下之鉄炮
もって段々稠敷しげしく打立候処、唐船玉数多打込 唐人二人井
船具等打落申候、然処しかるところ俄雷雨西風強吹出 荒波罷成まかりなり候得そうらえ
共打懸り候儀御座候故、風雨之中も段々打立候間出帆
可仕哉つかまつるべきやと存候処 其てい不相見あいみえず候、然はしからば逆風又は肝要之
船具打損出帆不仕つかまつらず儀も可有あるべく御座哉と存、打方之者とも
少々猶豫つかまつり見合みあわせ申候事
一 同十日之朝ニ至候而いたりそうろうても出帆不仕つかまつらず候故、猶又なおまた打船乗寄しげ
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  しく鉄炮打掛候へは唐船ヨリも鉄炮を打、火玉の様成ようなる物を
  投懸候付なげかけそうろうにつき、打払手強仕てごわくつかまつり候へ共いよいよ 出帆之躰不相見あいみえずことに段々
  手むかひつかまつり候故其段城下注進つかまつり候事
一 同夜中打払為増人数ぞうにんずうとして物頭二人足輕十三人差出申候事
一 打払増船五艘
     内
  一 物頭二人乗船一艘
  一 足輕十二人乗船四艘
      但壱艘ニ三人乗
     右之通増船つかまつり夜中ヨリ乗出候事
一 同十一日未明ヨリ唐船間近まじかに乗寄別而べっして稠敷しげしく打立申候処、
  唐船ヨリも猶又なおまた大筒小筒を打出、一節は間近難寄よりがたき程ニも
  有之これあり候得そうらえは唐人共難遁にげがたく存候哉、同日昼過唐船ヨリ出火
  及焼亡しょうぼうにおよび候事
一 唐船二人死骸
   但八月九日之夜鉄炮ニ打落候分
一 同一人死骸
   但八月十一日唐船焼亡以後取揚候分
一 竹たんは組二枚
一 竹柄長鍵一本
   右鉄炮ニ打落候船具
一 焼折之帆柱二本
一 矢帆柱一本
一 船之瓦
   右いずれも焼残候分
    但船瓦之儀は海底ニ沈 上り不申もうさず候事
右唐船打払始終之趣被遊御尋おたずねあそばされ候付そうろうにつき書付差上申候、以上

                 松平長門守使者
    九月九日            兼重五郎兵衛」

唐人の骸3体のうち、前の2体(ともに年齢40歳ほど)は8月17日昼過ぎ(萩出足は同13日)に、後の1体(年齢24、5歳)は同25日 (萩出足は同18日)にそれぞれ長崎に届けられている。塩漬にされ杉箱に納められて。
幕府方の喚問詮議は9月12日まで続いた。そして同13日、兼重五郎兵衛に登城の命が下り、檜の間において水野和泉守から賞美の目録が渡された。 目付の兼重並びに物頭両名に白銀20枚と時服2領あて、他の物頭両名に時服2領あてというものであった。
さらに、10月28日、萩城において兼重、物頭衆に紋付羽織1領と白銀10枚あてのほか、打攘骨折りの面々に賞美の品が下賜された。

唐船が最終的に焼没した平島の東の海底に、この戦後まで竜骨が沈んでいるのがまだ認められたという。が、昭和25年のキジア台風襲来後 見られなくなったという。

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前号につづいて紹介します。石川卓美著「防長歴史用語辞典」抜粋

★さいくにん 細工人 諸品の製作、装飾などの細工職をもつて仕える卒族の階級。 職には瓦師(かわらし)。鞘師(さやし)。塗師(ぬりし)。鞍打師(くらうちし)。磨師(とぎし)。藤細工師。張付師(はりつけし)。柄巻師(えまきし)。 刀鍛冶師。時計細工師。左官。乗物師。御手鍛冶。白銀細工師。飾師(かざりし)。槍皮師(ひわだし)。鋳物師(いもじ)。鑓師(やりし)。轡鎧細工 (くつわよろいざいく)。具足師(ぐそくし)。矢師。焼物師。船大工。仕立物師。鍛冶細工。鍛冶大工。彫物師。挽物師(ひきものし)。竹細工師。 鉄砲金工師。表具師。研師(とぎし)。鈴張師(すずはりし)。蒔絵師(まきえし)。桶大工。切革師(きりかわし)。紺屋。畳師などがあった。
★さいばん 宰判 裁判。才判などとも書く。長州藩における郷村支配の中間組織、 行政区画で郡に類する意。
★さくまい 作廻 作回。作舞。仕ぐさ、行為、ふるまいの意。作廻がよいとは 目先がきいて上司の気嫌をとるのが上手なものに使われることがある。要領がよいの意。
★さばえおくり・ざばえおくり 農作物の害虫の侵入を防ぎ追放する。あるいは疫病退散のためのいろいろな行事。
★さんようし 算用師 勘場三役の一つで、主として計算用務の事務を担当する。
★じかた 地方 町奉行支配地を町方と呼ぶのに対して郡奉行管轄地を地方と呼ぶ。 地方の中でも浦部落を浦方と呼ぶ場合もある。
★しくみ 仕組 主として家計整理や藩の財政整理など経済立て直しの方法や行為。 御仕組と敬語を冠するときは藩に関係するものをいう。
★じげじょうしん 地下上申 享保12年(1727)から元文、寛保、延享、寛延を経て 宝暦3年(1753)までの間に萩本藩が藩内全域の村庄屋から差出させた村絵図を含む統一的明細帳で、天保期の風土注進案に先行する。
★じげたずね 地下尋 地下中の民意を間いその答申を求めること。土地開作等には住
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民に被害を及ばさないが必ず地下尋が必要とされた。
★じげひま 地下暇 農業労働者や貢租負担者を確保するため、農村の離村は禁じられたが奉公稼ぎ、 出家、縁組などのため離村転出する場合は、地下暇の手続きにより許可された。本人や嫡子、嫡孫(あとつぎ)には許されなかった
★じげぶ 地下夫 井手、川除、開作、溜池、御米蔵の営繕など諸般の土工に使役する地元の人夫。
★じげやく 地下役 公共の土木工事、公的建築物の営繕などの経費や労務を町村費や 町村民の賦役で行なうこと。
★じげやくにん 地下役人 村落の自治制にもとずく役人。村役人。庄屋、畔頭、給領庄屋、証人百姓 などの総称。百姓身分の者から選ばれる。
★じげやま 地下山 今の部落所有林に相当するもので立銀が賦課された。
★じしゃぐみ 寺社組 儒者、医師、絵師、茶道、能狂言師など学芸を以って仕える階級で 寺社奉行が統轄した。
★しほう 仕法 社倉御仕法書、郡配当御仕法帳など仕様、法、規定の意。
★しゃそう 社倉 文政8年(1825)藩が唱道して自力囲穀(じりきかこいこく→自主的に 非常に備えて穀物を貯蓄する)がはじまり。民間の有産者が出し合って社倉と名付けて非常時に備えて貯蔵した。
★しゅくえき 宿駅 古代の駅制が崩壌して時代の推移と交通の発達により変遷を重ねて 近代宿駅制が確立した。須佐近辺では石州境ー小川上野原ー高佐ー大井-萩に通じた。駅夫、馬などを置く。
★しゅほがた 修補方 勘場役人の一つ。地下普請等の修補関係の役にあたる。
★しゅほやま 修補山 藩の諸役局、勘場、地下の井手、溜池などの維持補修のために設けた 用材を兼ねた基本財産林。
★しょうにんびゃくしょう 証人百姓 百姓の総代として畔頭の職務上の各種米銀の出 納を監査する役目。
★しょうや 庄屋 藩体制の単位基盤である村、町、浦、島ごとに庄屋(町、浦、島は 年寄=としより)を置き末端支配機構とした。管内の土木、治水、戸籍、救済、勧農および貢租の賦課徴収、村入費の収支など
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にあたる。算筆の才能があり相当の資力のある本百姓から代官役が選任した。支配系列は郡奉行ー代官ー大庄屋ー庄屋となり、庄屋の下に畔頭2〜3人を置く。
★しょたいがた 所帯方 藩の米銀出納の事務一切を取扱う役職。
★しょむ 所務 物成(ものなり)と同じく年貢の意。所務代とは代官の役職で租税の徴収が重 きをなした。代官と同意。
★しんびゃくしょう 新百姓 新たに本百姓に加えられた農民。封建貢租の主体は米であるから、 領主は田地とそれを耕作する農民の確保に努めた。
★すぎなりつきわけばかり 杉形突分計 貢米の収納のとき、杉の立木の形、ヘ形の棒でマスの 上をこすって山もりの形ではかって徴収した。1斗マスではかる場合1斗1升位になった。天保2年(1831)百姓一揆で農民の抗議により一時中断されたが 予算不足のため復活された所もあった。
★せきしゅうがり 石州借 長州藩に隣接する石見国の富農商から金銀の融資を受けること。 津和野畑ケ迫の堀家や大森銀山、笹ケ谷銅山師たちが主であった。
★そうさく 惣作 年貢の負担に堪えかねた難渋百姓が出奔あるいは死絶のため、その持ち田畑 の年貢確保のため五人組あるいは.村民の惣(総)請けとして耕作させた。
★だいかん 代官 初め所務代役、所務代などともいったが後もっぱら代官と称した。 各宰判の民政、勧農、徴税、治安など一切の要務にあたる。
★たごく 田石 田地から上った石高。
★たてぎんやま 立銀山 百姓の私有林を合壁山(かっぺきやま=前記)というが、天明年間の 山検地により私有林を確認して立銀(税)を賦課した。
★たなり 田成 畠や山野を開いて水利を設け田に地目変換すること。
★たわらもの 俵物 いりこ、干鮑(ほしあわび)鱶の鰭(ふかのひれ)等を俵につめて 輸送した。
★たんせん 反銭 幕府権力下で課税の一種。田畠の反別面積により米または銭で徴収し た。反米(たんまい)ともいう。
★ちそうまい 馳走米 藩財政の窮乏にあたって本来の貢租以外に徴収した税米。馳走 とはこの場合相手方、特に主君に対し周旋
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奔走して忠勤をつくす意で一般に使われる饗応のことではない。
★ちょうせん 丁銭 十進法で枚数を計算する銭のこと。銭100を100文とする文銭遣い。 銭1,000文を1貫とする等。
★ついそんまい 追損米 田畠が洪水や高潮などによって荒廃し、所定の貢租を納めら れなかった所は検見の上その租税を減免し、復旧のできないものは永否休石(えいぶきゅうごく)として貢租を免除した。その場合、帳簿上税収に欠損 が出ぬように表面上は納めさせた形にし、肥料代等の名目で別に一定額の補顛米を藩庫から支出するならわしがあった。
★つごうしょうや 都合庄屋 大庄屋。
★つぶれびゃくしょう 潰れ百姓 村退きなどの罰によって村内から追放されたり、 出奔、死絶によって百姓軒のつぶれたもの。百姓として認められなくなった農民のこと。
★でぎって 出切手 商人、細工人、船乗りなどの他国出行の頻度の多い者がその用件や 帰着の時期を予定し、請人(うけにん)を立てて他国出行のため受けた許可書。往来手形と同類のもの。
★てご 手子 加勢、手伝い。
★でつてがた 出津手形 穀類その他藩内の生産・需給調整のため、無届けで出入港を禁じ、 許可の場合は出入津(港)手形を交付した。
★てまわりぐみ 手回組 藩主の側近に仕えその職務に服する者で構成し 御手回組と称した。
★てんぽういっき 天保一揆 天保2年(1831)7月26日、吉敷郡小鯖(おさば〉 村の農民が萩城下から佐波郡中関に帰る途中、駕籠の中に皮革を乗せていたのを発見して騒動が起きた。防長では稲の出穂時期に牛馬の毛皮を持ち運ぶと 必ず凶作となるという俗信があり、農民はその時期に皮番所を設けて監視する習わしがあった。天災が続き作物不作で飢饉の年が続き、苛酷に年貢を取り 立てられ続けた農民の不満がこれをきっかけとして爆発し、またたく間に全土に広がった。須佐地方でも弥富上から奥村の農民が押し寄せ、庄屋や金持ち の家が打ちこわされた。
★とうしょく 当職 国元にあって藩政の最高の重職にあたった。 当役は江戸にあって
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同様の重職にあった。
★としより 年寄 町、浦において庄屋と同じ職務の地下役人。町年寄、浦年寄
★なかて 中田 早稲(わせ)と晩稲(おくて)の中間期の稲の品種。
★なごし 夏越 旧暦の6月晦日の習俗。この日牛馬を川にひいて行き洗って労をねぎ らう。
★なやみ 悩み 主として土工や建築などに手などで道具をもち労働すること。手なやみは 自分の工事、地下なやみは地方負担の工事、御なやみ、御手なやみは藩負担の工事。
★のぞきち 除地 除高ともいう。寺社領の一種であるが藩主の菩提寺院や少数の由緒寺社 が、地方知行や浮米知行を持ち、租税を寺社に収納して一般藩士の知行と変りないのに比べ、除地は普通の寺社に対して維持費や祭礼料として一般的に おこなわれ寺社敷(境内)、寺社家の宅地、縁故田畠の全部または一部の高反別(たかたんべつ)に限って貢租を免じられ、俗に寺領、社領と呼んだ。
★のべまい 延米 田租米の徴収にあたり、収納用のマスの容量と量り方によって賦課 される名目外の税米。藩初以来の延米は石当り7升であったといい、この延米の一部が藩庫に収められる外は、地方に 還元して郡村費の主財源とされた。
★のやまやしき 野山屋敷 野山獄、野山牢ともいい、士分の者を拘禁した 吉田松陰や高杉晋作等もこの牢に入れられた。卒族以下の牢舎は下牢で岩倉屋敷、岩倉獄、岩倉牢などといわれた。正保2年(1645) 物頭役の野山六右衛門と岩倉孫兵衛が争って双方とも罰せられ、知行、屋敷を没収され、その居宅を牢舎とされ、その名がつけられた。
★のろしば 狼煙場 緊急情報を伝達するため概して見通しのよい高地に設けられた。 寛政年間以降、ロシヤその地外国軍艦が近海に出没するので海岸に望楼を設けて狼煙施設に備えた。北浦沿岸にも各所に設けられた。
★ばいしん 陪臣 藩士がその禄高に応じて召抱える家臣。又家来(またげらい)、又内、 又内者(またうちもの)ともいう。藩の直臣に対する語。
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★はいち 配地 給領のこと。
★はいとうふそくつなぎ 配当不足貫 郡配当米以下郡費不足を補充するため、田畠現石 に応じて徴収する臨時的郡費。
★はいりょうかいさく 拝領開作 藩士が藩府に願って新田を開発する承認を受け、知行所 として拝領する土地。
★はぎおくらおさめどこうまい 萩御倉納土貢米 藩士に対する浮米、切米、扶持米その他 の諸支出にあてるため、萩の蔵元に輸送される土貢米。
★はぐくみ 他人を養子とし、または養子となること。
★はしりびゃくしょう 走百姓 出奔百姓、欠落(かけおち)百姓 ともいい、生活困窮その他の理由により家を捨て他国に逃げた百姓。未納年貢は五人組または村の責任で上納させた。
★はたぎん 畠銀 畠地に対し高1石に対して銀10匁の率で徴収する税。
★はたなり 畠成 山野や立山銀を開墾して畠に地目変換すること。
★はちじゅうもんせん 八十文銭 八○銭(はちまるせん)、 八○などと記す。銀1匁に対する京銭(鐚銭=びたせん)の比価による銀本位の勘定法。
★ばつえつろく 閥閲録 永田政純が藩主吉元の命により、藩内諸家伝来の文書系譜を調査し、 5年余の歳月を費し(享保5年1720〜同10年)に完成した文書集。
★はつくみ 八組 大組(前記)とも 馬回組(前記)ともいい、藩士中核の階層。
★はっさく 八朔 陰暦8月朔日(1日)を祝って行う行事。古く中国から伝来した。
★はるうけ 春請 稲の作柄が順調で租米が春定(はるさだめ=春作付によってその年の収穫 を見定めて貢米を決める)で、寛永20年(1643)から実施された。
★はるさだめげさつ 春定下札 毎年春さきに百姓人別に交付する田畠正租の納税告知書。
★ばんぐみやま 番組山 20年を周期とする御立山。二十番山 ともいう。伐りあとの造林が迫いつかぬのを防ぐため、順番に20年ごとに伐採する方法をとった。享保4年(1719)から始まった。
★ばんしょ 番所 国境や海陸の要衝地に設けられた見張所。通行人や船舶の取締りを
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行い、運上銀の徴収なども行った。
★ばんめし 番飯 番食。公務のために早朝出動、 あるいは夜勤をする場合に公給される朝、夕の2食。
★ひきがた 引方 田畠、塩田等が水害、高潮害などにより耕作が不能となり、あるいは が公共の用に供せられるようになって、課税対象の石高から差引かれる。
★ひきのぞき 引除 引除所勤などともいい本来の職(根役)の身分をそのままにして他の 勤務につくこと。終ると元の本職に復する。(今の出向のようなもの)
★ひとえ 米銀二本建ての勘定を時価相場または公定相場によって、米もしくは銀建て の単一になおすこと。
★ひとざた 人沙汰 家臣、下人、農民などに対する人事。主従関係や支配関係に関する 諸事項。万治制法では召し抱え、売買、出奔、暇取り、追放、出入の争い(土地境界など)等が規定されている。
★ひのはれ 祭りの前夜祭をよど・・というのに対し、翌日の本祭をひのはれ・・・・ または日の日と祢した。
★ひゃくしょうけん 百姓軒 百姓の田畠の持高により本軒、半軒、四半軒に区分して 門役銀(かどやくぎん)が賦課された。
★ひゃくしょうみょうじたいとう 百姓名字帯刀 名字や帯刀は貴族や武士階級のものとし、 一般庶民には許されなかったが、庄屋その他地下役の勤功に対し、賞として名字を用い帯刀することを免許した。
★ぶいくがた 撫育方 七代藩主重就が藩政改革遂行の中心的機関として設定した。幕府の 命令による関東利根川治水の手伝工事による巨額の出費、連年の洪水災害の税収減少を復旧による藩負債の増加で、馳走米による士民の重圧も ひどく、財政立てなおしを急務とした。宝暦13年(1763)撫育開作(藩営の新田開作)をし、貞享13年(1686)にならい、所帯方蔵本役 所に所局を設けて撫育方と名付け、士民の救済法を構じた。
★ふしんしょ 普請所 普請は土木、建築の意。普請所はその場所、物件。
★ふちまい 扶持米 蔵米から支給する分限帳記載の禄米。一人扶持は1人の食糧を意味し 1日5合、1年1石8斗が定則。身通りによって日別7合5勺、1升にした場合
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もあった。
★ふなきわめ 船究 海上運航の船舶の取締りをおこなう役。
★ふなてぐみ 船手組 船手衆、船手方ともいい、参勤、上洛、異国船警固など海上交通その他船舶に関する業務に従う役職を兼ねた階級で大組同格の待遇を受けた。
★ぶひき 歩引 財政整理のため藩府所役所郡村経費の節減をはかるため、定額経費米銀の幾分かを削減すること。たとえば二歩引きは2割削減。廉引(かどびき)は所定費目の削減。
★へいこ 閉戸 卒族以下庶民の謹慎刑。諸士の場合は閉門と呼ぶが、卒族以下は門扉を許されないから、雨戸や窓を閉じて謹慎し、本人および他人の出入を禁じた。
★ほうこうにんでがわり 奉公人出代り 農商工家の作男、下男、下女は武家奉公人と 同様におおむね一季一年で毎年12月13日を年季明けの出代り期とするのが普通。地方によっては26〜27日とする所もあった。
★ぼうちょうさんぱく 防長三白 長州藩重要物産として米、塩、紙をいうが、 ろう・・を加えて防長四白ともいわれた。北浦では塩が採れぬので米、紙、ろう・・が三白となる。
★ほのぎ 穂ノ木 田畠一団地の小地名。小名(こな)ともいい 現今の字(あざ)、小字にあたる。
★ほんじん 本陣 本街道、脇街道、参勤街道などに沿い宿駅が設けられ、主として藩主や 九州諸大名の参動交代、幕府役人などの休泊に用いられた。御茶屋ともいう。
★ほんびゃくしょう 本百姓 自立自営の高請け百姓。
★まちかた 町方 通常町奉行管轄の地区を呼ぶ。主として地方(じかた=農村)に対する語 として使われる。
★まんぢせいほう 万治制法 藩主網広の命を受けて、当職榎本遠江就時を中心に 「元就以来の旧記」に当時の幕府令をしんしゃくして集大成された領内法で全29編からなる。全編の成立は万治3年(1660)から翌寛文元年にかけてであるが、万治3年9月14日に制定頒布されたので、一般民には「万治制法」と呼ばれる。
★みずた 水田 麦作のできぬ湿地の一毛作田。堅田の対語。
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★みちまつ 道松 街道の左右に植えた並木松。
★みやざ 宮座 神社を中心とする祭祀組織。氏子一般が平等にあずかるのではなく、一 定の家格その他の縁故による特権的祭祀組織もしくはその集団。
★むらかずき 村被 被は負担するという意で、村中で負担すること。
★めんてがた 免手形 下地持ちの知行主が貢租米銀を徴収するための一種の証明書。
★もあい 催合 催相。寄り集まって共同すること。もやい
★もうじょ 亡所 百姓が疲弊し、あるいは死に絶え、 または逃散して耕作不能の無主の田畠ができるような状態。
★もうど 門男 亡土とも書く。農民の階層の一つで、 零細の土地は持っていても御帳面百姓とはされていない。
★もくだい 目代 古代は地方官である国守の代理とされたが、 近世以降は専ら駅通のことをつかさどる地下役として、宰判内各駅に目代1人(畔頭兼任も多い)を置き、目代所を設けて人馬駕籠などの用達をなしその 賃銭を徴収するなどの任にあたった。
★ものぎり 物限 期日、期限。年貢物限○月○日、請払算用物限○月○日など。
★ものなり 物成 田畠の収穫の年貢。
★もんあい 絞合 絞相。藩内産出の紙の等級。見取紙(サンプル)を見取所に備えつけ、 それに合わせて規格、紙質を検査して等級をつけ、収納する方法をとった。
★やしきこく 屋敷石 屋敷地に対する賦課。地方(じかた)を対象とする屋敷石、 浦方を対象とする浦屋敷石、町方を対象とする町屋敷石、市屋敷石などがある。(現在の固定資産税のようなもの)。
★やまたてぎん 山立銀 百姓持の合壁山、藩士に預付した御立山に対する課税。
★やままわり 山廻 藩の御立山の盗伐、枯死その他の監視のため、 地元民の中からこれを任命した。
★ゆいうえ 結い植え 田植の共同作業。催合植 (もあいうえ)ともいう。
★ゆきなり 行形 あり来り、しきたり、慣例、あるがままの意。
★ようじゃく 用作 領主直営の土地。
★よつなり 四つ成 成は租であって物成のこと。四つは4割の意で田租率40%を意
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味する。(四公六民)
★よりぐみ 寄組 藩士中一門に次ぐ高い門閥と閲歴を有する階層。万治年代ごろには 堅田、国司、桂、益田、榎本など21家であったが、幕末には62家に達した。練達の士は一門八家に伍して当職、当役に任用され、藩政の枢機に参画した。
★りかつのう 利且納 借金返済の方法で、利は利子、且は割で、利子を納める上に元 金を割賦とし、10年、5年に分けて少しずつ返済すること。
★るすいやく 留守居役 藩主の在国や参勤により、不在中の江戸または藩地に加判役 とは別においた。多くは加判役が兼務した。藩地においては一門八家のうち数人を任じ合議により政務にあたった。
★わし 和市 相場のこと。定和市とは公定相場をいう。
★わらびせん 蕨せん わらびの根茎をつきくだいた液汁を加工して作った澱粉。食用、 接着用のり等に用いられる。(飢饉のときは貴重な食料源となった)

以上にかかげましたのは、山口県文書館の石川卓美先生(明治40年生まれで現同館嘱託)が、30余年をついやしてこのたび完成されたぼう大な労作の中から、 私たちの郷土史研究に出て来る歴史的なことばをひろって紹介しました。「せっかくのご労作を一人でも多くの人に知ってもらいたい」と御了解を得たところ、 早速電話で御快諾を得ました。多くの中からこれと思うものを記してみました。縮少してあるので、必ずしも原文通りではありません。 ( )内は私の筆註です。

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萩の乱と前原一誠については、萩市の史家松本二郎先生が詳しく研究されて、その著書も幾つかあります。幕末吉田松陰の高弟のうち、木戸孝允、伊 藤博文、久坂玄瑞、山県有朋、品川弥二郎、そして高杉晋作、前原一誠らは吉田松陰の遺志をついで、明治維新遂行の中心人物となりました。明治維新 がなり薩、長、土、肥を軸として新政府が樹立されたものの、木戸孝允、山県有朋らと前原一誠とは考え方が異なり、品川弥二郎らのあっせんにもかか わらず次第に溝ができたようです。明治新政府に不満を持つ西郷隆盛(後に鹿児島に帰り西南戦争を起こす)や一誠は故郷に帰って反政府ののろしをあ げるに至りました。松本先生の「萩の乱」の著には、この間のことが詳細にのべられています。この乱では須佐も深くかかわっているので、先生の著書 のうち、須佐に関係のあったことなどをひろって史料紹介とします。

「資料紹介」

一、

萩の乱は明治9年10月27日に起こったが、これよりさき一誠は、弟一清らを須佐に送り、坂上忠介(育英館長で続いて育英小学校初代校長)、 剣客多根卯一らと謀り同志を糾合させた。

一、

乱起こるや一誠は翌29日、同志数人と共に東京におもむき、直接朝廷に改革の真意を告げようと山陰路を経て上京しようと こころざし、同志数名と先ず浜田(島根県)へ向けて午前4時、萩明倫館を出発した。はじめ黒川村(福栄村)〜福井(同)〜生雲(阿東)を経て石州(島根県) を目ざす予定を変えて紫福(しぶき=福栄村)から須佐に向った。

一、

30日朝6時ごろ須佐着、心寺、青柳寺(?)に集合、須佐坂上忠介らに会うと同時に地扱所を占領、朝食糧を徴した。須佐兵67人、武器運搬等同志を募ると、 集る者300人、これを殉国軍と称した。

一、

総勢の内30数名は武器をとりにひとまず萩に帰り、他は漁船30数隻に分乗して

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浜田に向う。風波激しく航行困難となり、 江崎に上陸、民家11戸に187人泊り他は石州に向ったが、結局引返したので田万村は大いに混雑した。
時に流言多く「前原党は捕縛され、妻子も虐待を受く」、「諌早党(萩にあって前原党と対立する一派)は明倫館を占領し市中を横行す」等。よってひと先ず 萩に引返すことに決し、夜半舟に乗じて萩に向う。これは諌早派の謀略に乗ぜられたのである。

一、

10月31日、前原一行は萩越ケ浜に上陸して明倫館に入ったが、火薬は池に投ぜられて無かった。大区役所を襲撃して戦端が開かれた。

一、

すでに弾薬は少なく、衆寡敵せず非勢となり、一誠らは東京を目ざさんと戦斗の指揮を小倉信一、有福恂允に託して再び越ケ浜から海路須佐に向った。

一、

一党は各地で戦ったが11月8日戦乱は終息。

一、

11月10日に品川弥二郎が山県有朋(陸軍卿)にあてた書翰に「過る6日(中略)野児(やじ=弥二郎)は、萩地に進入すると直ちに高島大佐同行にて孟春艦に乗組み、 江崎浦に乗廻し、前原らを必ず此処にて手に入る(逮捕)べしと存じ候処、豈図(あにはか)らんや前原らは7名連れにて、初戦の日萩より航し須佐江崎を経、 石州路へ漁船にて逃げ去り候由須佐戸長よりほぼ承知し、空しく一夜萩に帰り候。玉木翁(乃木希典の父)は6日養子正誼の墓前にて割腹せり。佐世彦七は 6日朝、松本辺に逃去り、翌日萩宅にて巡査に囲まれ割腹、其外小笠原太郎兵衛、粟屋新熊割腹す。置去りにせられし老人達は中々士気を出し腹などどんどん切りしが、 巨魁の4、5名ら急速に逃出せしは、流石(さすが)評判通りの前原にそむかずというべし一笑。今日より越ケ浜泊の太平丸にて巡査20名許りを乗せ、 松江へ前原を連れに遣し申候。一昨々日までに捕縛せし者150名、今日は200余に相成申候。萩にて対戦せし兵は多くは須佐の兵なり(6、70人は出萩せし由) 之は前原より坂上忠介( 前原より金刀を贈る)、多根一へ依頼し出兵させしものなり。賊の病院にて須佐兵の傷者20余名もある由、先年佐賀変動の

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時、須佐より出萩者へ5円又は10円宛県令より賞金を与えし由、此度も右同様と心得出萩せし者沢山ある由、可憐可憐。6日、 海陸より大砲を萩に打込み候え共、幸にして一屋も焼失せず、唯去月31日賊兵関口県令を襲いし節、橋本町辺68軒許り焼失す(以下略)
15日、品川弥二郎は木戸孝允に書を認め、更に書添えて送る。
去月31日午前、前原ら須佐(須佐兵共に100余名)より引返し、小畑浜辺より上陸、直ちに県令の止宿元勘場(大区扱所) を取囲み、大橋脇にて鎮台兵と戦い終に放火、橋本町残らず焼失(小橋にて止る)、県令は弾丸の中をくぐり、漸くにして山口に帰り、 鎮台兵は大屋に引揚げ前原ら兄弟3人、奥平、横山、白井林蔵、馬来木工は同夜因州、石州辺にて事を挙ると欺きて舟にて石州を指して逃去。 雲州宇竜浦にて今月4日、5日両度に捕縛せらる。評判にそむかざる前原の憶病思いやられ候。今明日には太平丸にて右七名萩に連れ帰り申すべく相待申候。 裁判所は元の清光寺なり。前原ら着の上は清光寺経堂へ押し込める筈。 他の賊兵は所の蔵に入れあり。佐世彦七は雁島の旧宅に隠れ、巡査取囲み候処、咽を突き死せんとせしが果さず捕縛せられ、賊の病院蓮池院にて昨日死せり。 割腹せし者玉木正韞、小笠原太郎兵衛、粟屋新熊、渡辺源右衛門、蜷川小次郎なり。前原去りし後、6日朝まで主として指揮せし者は小倉信一なり。 裁判所にて立派に白状し、前原に歎かれしを怒り、さすが武士と一統よ り賞せらるるはこの男一人なり。何心なしにすは大変と土原馬場丁にて撃たれし者は井上七郎三郎なり。芸が身を亡せしは内藤作兵衛なり。6日朝、 兵隊に出あい、帯刀を渡せと声かけられ、なに、武士の魂をと例の上段に構えるや、どんと撃殺されたり。 31日朝、八丁にて玉木の養子並に六本杉にて吉田小太郎は討死、杉民治は31日、萩を発し山代に出張くさいくさい。大津翁( 唯雪〉は先大津の士族を集め、賊に一人も加えさせず大出来なり。昨夜、出萩に相成り、今朝、一寸面会仕候。困却せるは萩の 士族の抜刀にて明倫館に出るを迫られ、又
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は金穀を献上して放火を免ぜられし者なり。真に兵卒となって戦いし者は須佐の100余名なり。之も兵卒らは先年の佐賀騒動と同様に心得、 又10円の御賞金と思い出かけし者少なからず。坂上忠介、多根一(一昨日須佐にて縛)、須佐は挙げて賊軍になせしが、出萩して戦いに加 せし者は120名にて、この奴原は一昨日、萩まで捕縛して送り来れり、前原らが寛典に処せらるるならば、萩市中より歎願して、前原らは 斬首してもらいたしと申す人心に相成居り候につき、之にて賊徒の暴逆を働きし事御推察下さるべく候(以下略)
11月6日、県令明木着、敗走の党兵を尾撃して萩に入り、唐樋町に館し、岩田判事東田町に出張裁判所を設く。警察署同。
午後1時左の数条を市中に掲示。
一、賊徒潰散、巨魁も不日戮につくべきを以て安堵すべし。
二、残賊潜伏の者は見当り次第届出ずべし、隠しおき見のがす者は賊と同罪。
三、唐樋町に仮県庁を開く。願伺届等差出すべし。
四、戦争にて傷を蒙り病院に入る者は、県庁において更に治療せしむ。
五、前原一誠外19人万一潜匿せるを捕縛又は討取る者は褒美を与う。
六、銃砲刀剣所持の者は仮県庁へ届出で差図を受くべし。
11月7日午後9時40分電報
「4日島根県宇竜港にて横山、白井2人を縛す。前原、奥平外3名は船中にあり」
前原一誠らの動静
11月1日早朝、須佐に達し漁船を雇って東航(船頭3名)風波ことに激しく、石見の都野(津)港に投錨泊す。
11月2日、風雨尚甚しく波高く、陸上警戒厳しく捕縛される恐れがあるので、黄昏を待って発航、危険を犯して石見海岸を走り出雲に向う。 この日弟2人と連名で萩の父母に心中を述べた書を送る。
11月3日、この日も風浪激しく進むを得ず、宇竜浦(島根県簸川 郡大社町)の港口権現島の陰に泊して難を避く。
時に港ではすでに萩の変報を耳にし、島
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根県庁もまた警戎を怠らなかった。
宇竜港の水先案内人某この泊船を径しみ、組長安田某に報じ、安田は村吏に報告、吏は戸長永岡某に告げた。永岡は人を船にやって尋聞させたが要領を得ぬので杵築警察署に報告、岡田警部は巡査と偵者を率いて 来り、村内の壮丁を集めて沿岸を警戒した。深夜舟子2名が汲水のため上陸したので捕え、口供によって前原らであることが判明 した。
11月4日、前原らの舟は港内藤村仁之助宅に接岸、横山および下男白井が上陸し区会所福龍寺を訪れた処を不意に襲って捕縛した。
島根県庁では、県令佐藤信寛が属官清水清太郎を使として自首をすすめさせた。(清水清太郎は長州藩士で前原とは旧知の仲 で佐藤県令もまた前原とは旧知の仲であった)清水は前原らを藤村旅館に伴い参議の礼をもって遇し、酒食を供して交談した。
11月6日、前原らは警吏に護送され松江に着し投獄された。
11月17日、萩着。
12月3日、処分宣告。
   山口県第26区7小区土原585番屋敷居住佐世一清同居士族
                               前原一誠
其方儀朝憲を軽ンジ党与を各所ニ諜合シ兵器ヲ弄シ官兵ニ抵抗シ逆意ヲ逞シウスル科ニ依リ除族ノ上斬罪申付シ
以上松本二郎氏著萩の乱の須佐に関係あると思われる部分を要約して紹介しました。尚、須佐で中心となって同志を募り加担し た坂上忠介、多根卯一は禁固3年の刑に処せられました。
P28
どこの市町村にも昔からの小字の名が残っています。また小字名がついたいわれもそれぞれあるはずですが、今ではそうしたいわれも消えかかっています。 できればそうしたことも今のうちに残しておきたいものです。いい伝えなど御存知でしたらお知らせください。
字  名 行 政 区 字  名 行 政 区
郷 惣 押  谷 西院河原 押  谷
下押谷 押  谷 御入道 押  谷
山ノ口 押  谷 大町ノ浴 押  谷
船 石 押  谷 中ノ垰 押  谷
中葉山 押  谷 上長谷 押  谷
長 尾 押  谷 田ノ浴 押  谷
中ヶ迫 押  谷 押  谷
高 砂 押  谷 開 作 松  原
清 水 押  谷 丸 山 松  原
押 谷 押  谷 小 原 松  原
坂 根 押  谷 中 屋 松  原
樋ノ口 押  谷 山 奥 金  井
長 谷 押  谷 川 添 金  井

字  名 行 政 区 字  名 行 政 区
寺ヶ前 金  井 櫛  マテカタ
道 切 金  井 尼ヶ地 マテカタ
扇 畑 金  井 蟶 潟 マテカタ
塚ノ前 金  井 長 畑 マテカタ
前金井 金  井 百 尻 マテカタ
唐 海 金  井 前青浦 マテカタ
鳥 越 金  井 松ヶ前 マテカタ
飯 守 金  井 青 浦 マテカタ
大 浴 押  谷 中ノ浴 マテカタ
地 吉 押  谷 浴  マテカタ
森 下 押  谷 長 藪 マテカタ
香加ノ津 押  谷 水ヶ浴 マテカタ
道切谷 押  谷 上平松 横 屋 丁
浴  押  谷 下平松 横 屋 丁
現 明 マテカタ 滑  横 屋 丁
神田川 マテカタ 赤 迫 横 屋 丁
蓼 原 マテカタ 桜 尾 横 屋 丁
竹ノ内 マテカタ 須郷田 横 屋 丁
多久見 マテカタ 迫 田 横 屋 丁
大 坪 マテカタ 抽ヶ浴 河 原 丁
露ヶ尻 マテカタ 迫 田 河 原 丁
木田屋敷 マテカタ 寺屋敷 河 原 丁
深蟶潟 マテカタ 中ノ原 河 原 丁
中 迫 マテカタ 丸 山 河 原 丁
P29
字  名 行 政 区 字  名 行 政 区
開 作 河 原 丁 森ノ奥 上 三 原
和田ヶ原 松  原 百町田 上 三 原
下郷惣 松  原 小道垰 上 三 原
郷四郎坂 中  畑 瀬戸風 上 三 原
峠 畑 中  畑 須 道 上 三 原
下中畑 中  畑 中 尾 上 三 原
葉木ヶ原 中  畑 東大ヶ垰 上 三 原
上中畑 中  畑 後 須 上 三 原
井出原 中  畑 杉 山 上 三 原
地蔵岬 中  畑 研 冨 上 三 原
金山谷 中  畑 蝦 田 上 三 原
古 坂 中  畑 猪 堀 上 三 原
勘太ヶ浴 中  畑 豊後原 上 三 原
新 道 中  畑 砥石ヶ谷 上 三 原
与太ヶ原 中  畑 飛 松 上 三 原
唐 津 中  畑 浄 蓮 上 三 原
洗 川 中  畑 栗 林 上 三 原
八平田 中  畑 橋ヶ迫 上 三 原
犬鳴山 中  畑 鳶ヶ巣 上 三 原
田野尻 中  畑 山 崎 堀  田
平 田 中  畑 田 中 堀  田
嶽 山 中  畑 葛 籠 堀  田
入道ヶ迫 中  畑 風呂ヶ浴 堀  田
錨 石 上 三 原 中屋前 堀  田

字  名 行 政 区 字  名 行 政 区
寺ノ前 堀  田 観音岩 堀  田
寺ヶ迫 堀  田 城ヶ迫 堀  田
吉ヶ浴 堀  田 清水ヶ岩 堀  田
吉ヶ迫 堀  田 大 方 堀  田
穴ヶ垰 堀  田 後ヶ浴 堀  田
久 保 堀  田 浴 村 堀  田
堂ヶ原 堀  田 檜底道 堀  田
附ノ木 堀  田 川 地 堀  田
広 津 堀  田 有ノ木 堀  田
利根垰 堀  田 七反田 堀  田
萩 原 堀  田 日ノ迫 堀  田
坂ノ本 堀  田 屋 蔭 堀  田
春 巻 堀  田 深 田 堀  田
小道口 堀  田 中 程 堀  田
日ノ社 堀  田 流 田 堀  田
新 屋 堀  田 広惣田 堀  田
大 町 堀  田 真 田 堀  田
堤 方 堀  田 向真田 堀  田
北向平 堀  田 瀬 戸 堀  田
石ヶ休 堀  田 黒段子 堀  田
宇谷坂 堀  田 七ッ町 堀  田
乙 石 堀  田 石井手 堀  田
大 藪 堀  田 下和泉 堀  田
大木藪 堀  田 台 原 堀  田
P30
字  名 行 政 区 字  名 行 政 区
和 泉 堀  田 助 光 下三原上
中和泉 堀  田 山 下 下三原上
上津玖志 帆  柱 迫ノ奥 下三原上
下津玖志 帆  柱 長者原 下三原上
上和泉 帆  柱 河原田 下三原上
穴ヶ垰 帆  柱 堂ヶ浴 下三原上
上石ヶ休 帆  柱 地 明 下三原上
帆柱奥 帆  柱 森永 下三原上
石ヶ休 帆  柱 黒中江 下三原上
帆 柱 帆  柱 大 通 下三原上
健ノ木 帆  柱 西 川 下三原上
河 内 帆  柱 春 日 下三原上
帆柱原 帆  柱 馬 橋 下三原上
長 原 帆  柱 高 尾 下三原上
足 平 帆  柱 上高尾 下三原上
城ノ根 帆  柱 神 田 下三原上
犬 伏 帆  柱 下三原上
百合ノ浴 帆  柱 宮ノ原 北  谷
畑ノ上 帆  柱 下花立 北  谷
百合野 帆  柱 上花立 北  谷
下新田 帆  柱 一本松 北  谷
中 村 帆  柱 後 原 北  谷
丸 尾 帆  柱 南一本町 北  谷
開 作 帆  柱 三 原 下三原下
字  名 行 政 区 字  名 行 政 区
瓦 谷 水  海 天神島 浦  西
白 岩 水  海 中 島 浦  西
笹ヶ尻 水  海 平 島 浦  西
油 田 水  海 瓦 谷 入  江
大ヶ垰 水  海 福 富 入  江
羽 玉 水  海 金 町 入  江
金子垰 水  海 下大浴 入  江
伊生田 水  海 大 浴 入  江
河 平 水  海 福 富 水  海
下開作 水  海 水海和田 水  海
秋 町 水  海 水 海 水  海
松 原 松  原 金 町 水  海
山根丁 松  原 宮ノ浴 水  海
松  原 西金子垰 水  海
河原丁 河 原 丁 上大浴 水  海
横屋丁 横 屋 丁 津田平 水  海
吉祥寺 横 屋 丁 下津田 水  海
中 津 中  津 北  谷
原 田 中  津 阿武浦 北  谷
田 中 中  津 下塚木 北  谷
浄土院 中  津 船ヶ坪 北  谷
海蔵庵 中  津 白 口 北  谷
浦 東 浦東・浦中 赤 松 北  谷
浦 西 浦  西 木 屋 北  谷
字  名 行 政 区 字  名 行 政 区
瓦 谷 水  海 天神島 浦  西
白 岩 水  海 中 島 浦  西
笹ヶ尻 水  海 平 島 浦  西
油 田 水  海 瓦 谷 入  江
大ヶ垰 水  海 福 富 入  江
羽 玉 水  海 金 町 入  江
金子垰 水  海 下大浴 入  江
伊生田 水  海 大 浴 入  江
河 平 水  海 福 富 水  海
下開作 水  海 水海和田 水  海
秋 町 水  海 水 海 水  海
松 原 松  原 金 町 水  海
山根丁 松  原 宮ノ浴 水  海
松  原 西金子垰 水  海
河原丁 河 原 丁 上大浴 水  海
横屋丁 横 屋 丁 津田平 水  海
吉祥寺 横 屋 丁 下津田 水  海
中 津 中  津 北  谷
原 田 中  津 阿武浦 北  谷
田 中 中  津 下塚木 北  谷
浄土院 中  津 船ヶ坪 北  谷
海蔵庵 中  津 白 口 北  谷
浦 東 浦東・浦中 赤 松 北  谷
浦 西 浦  西 木 屋 北  谷
P31
字  名 行 政 区 字  名 行 政 区
瀬 戸 北  谷 松 尾 野  頭
中 屋 北  谷 奥ヶ迫 野  頭
手 水 北  谷 田 屋 野  頭
岡 田 北  谷 京 能 野  頭
原 向 北  谷 井ノ尻 野  頭
後 原 北  谷 野  頭
北  谷 道正迫 野  頭
北  谷 松ヶ垰 野  頭
花 立 北  谷 河 原 野  頭
川 原 北  谷 鹿ヶ谷 野  頭
野 尻 北  谷 浴 田 野  頭
向 原 北  谷 高 良 野  頭
大倉畑 野  頭 野  頭
原 向 野  頭 佐太河内 野  頭
江津垰 野  頭 下江下 野  頭
与郷作 野  頭 上江下 野  頭
極 田 野  頭 的置場 前  地
外河内 野  頭 水 口 前  地
明 光 野  頭 藤ヶ迫 前  地
柿木田 野  頭 坂 向 前  地
金 山 野  頭 竹 迫 前  地
野 原 野  頭 西立穂 前  地
垰小原 野  頭 東立穂 前  地
出 張 野  頭 惣 田 前  地
字  名 行 政 区 字  名 行 政 区
河原田 前  地 柿ノ内 高  山
橋ノ本 前  地 畑ヶ谷 高  山
前地台 前  地 平 石 高  山
和 田 前  地 高  山
前地神田 前  地 寺 田 高  山
西 迫 前  地 久保田 高  山
慶前田 前  地 橋ノ本 高  山
沼 坪 前  地 汀ノ尾 高  山
三町田 前  地 中曽根 高  山
飛 石 前  地 土 居 高  山
瀬々馬 前  地 水 上 高  山
玉 嶋 前  地 久保ヶ浴 高  山
広 潟 前  地 葛 原 高  山
柳ヶ迫 前  地 大井手 高  山
地 吉 高  山 土居内 高  山
石 場 高  山 平 野 高  山
開 坪 高  山 高  山
福 浦 高  山 岩 原 高  山
鶴 島 高  山 仏ノ尾 高  山
渡 り 高  山 藤 川 高  山
国木ヶ原 高  山 高  山
琵琶田 高  山 中 下 高  山
吉 光 高  山 高 尾 高  山
忠内河内 高  山 野 玉 高  山
P32
字  名 行 政 区 字  名 行 政 区
水ヶ浦 高  山 立 原 沖  浦
唐人墓 高  山 穴ヶ迫 沖  浦
二軒屋 高  山 世 戸 沖  浦
狩 又 高  山 久保田 沖  浦
大 櫛 高  山 野 地 沖  浦
岩 開 高  山 御 崎 沖  浦
野 地 高  山 丸 垰 沖  浦
椅子ヶ垰 高  山 上後ヶ迫 沖  浦
引 明 高  山 下後ヶ迫 沖  浦
飯ヶ敷 高  山 下洗川 沖  浦
越 垰 高  山 上洗川 沖  浦
鵜棚原 高  山 平地ヶ原 沖  浦
垰ノ前 高  山 沖  浦
清 水 高  山 長 磯 沖  浦
海苔石 高  山 水木ヶ原 野  頭
鵜 棚 高  山 松ヶ垰 野  頭
高  山 犬 伏 帆  柱
高  山 百合野 帆  柱
竹ノ尻 沖  浦 下新田 下三原下
白 石 沖  浦 中 村 下三原下
木屋ヶ谷 沖  浦 丸 尾 下三原下
牛鳴浜 沖  浦 助 光 下三原下
見 近 沖  浦 山 下 下三原下
笠 松 沖  浦 迫ノ奥 下三原下
字  名 行 政 区 字  名 行 政 区
河原田 下三原下 広沢田 田万川町
地 明 下三原下 朶ノ垰 田万川町
黒中江 下三原下 名 嶌 田万川町
大 通 下三原下 浜 浦 田万川町
西 川 下三原下 青木ヶ原 田万川町
春 日 下三原上 臼ヶ浦 田万川町
葉 原 下三原上 赤 嶌 田万川町
四町田 下三原上 引 明 田万川町
塔ノ花 下三原上 下 道 田万川町
上平内 下三原上 登 段 田万川町
下平内 下三原上 井手ヶ原 田万川町
浄福寺 下三原上 松ヶ垰 田万川町
庄 原 下三原上 岩 崩 田万川町
蔵ノ前 下三原上 風呂屋 田万川町
荒神原 下三原下 上田中 田万川町
田津ノ木 下三原下 小 路 田万川町
下三原下 尾 浦 田万川町
馬 橋 下三原下 尾浦谷 田万川町
高 尾 下三原下 城河内 田万川町
上高尾 下三原下 立 花 田万川町
神 田 下三原下 庵ノ浴 野  頭
藤加勢 田万川町 道ノ下 前  地
拝向東 田万川町 回 廻 前  地
拝 向 田万川町
P33
部落名が前後しているのは、互に隣接し合っているからこのような表になったのでしょう(役場の台帳より)。田万用町とあるのは分離前の江津、尾浦に属するものです。
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