会誌「温故」

「温故」第7号

須佐郷土史研究会

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温故7号をお送りします。
高山宝泉寺・黄帝社の船絵馬群(66面)が山口県指定有形民俗文化財に指定されたことは、新聞等で皆さんすでに御存知のことと思います。 この船絵馬群は山口県が昭和55年から実施している未指定文化財総合調査により県内各地の絵馬を対象に調査し、発掘されたものです
調査は文化財保護審議会委員各位が担当され、特に本会々員でもある金谷清氏が現地へ数度、足を運ばれ詳細に記録されたものです。
このように本町から調査・研究されたものが県指定文化財に指定されたことは誠に喜ばしいことです。
本町には、まだまだ多くの隠れた文化財が散財しているものと思われます。文化財愛護に皆さんの格別のご協力をお願いします。
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■ 目 次
☆資料紹介 山口県指定有形民俗文化財
宝泉寺船絵馬群について
2頁
☆資料紹介 石州口戦記録 10頁
古文書によく出る言葉について(1) 13頁
須佐周辺の城砦跡 22頁
竹篭類の製作寸法 41頁

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■ 山口県指定有形民俗文化財 「宝泉寺船絵馬群」について」
山ロ県教育庁文化課並びに山口県文書館専門研究員吉本一雄氏により高山宝泉寺・黄帝社の船絵馬群が調査されて詳しいことが明らかになりました。
この船絵馬群は、山口県が昭和55年から実施している未指定文化財総合調査により発掘されたもので、特に第一次調査を担当された 須佐町文化財保護審議会(品川晴会長)委員各位のご尽力よります。
結果、山口県報第6160号に記載のとおり山口県指定有形民俗文化財に指定されましたので、その調査報告を紹介します。

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(諮問第3号)
調  書

1. 種  別
有形民俗文化財
2. 名称及び員数
宝泉寺船絵馬群(66面)
3. 所在の場所
山口県阿武郡須佐町大字須佐4570番地の1
須佐町中央公民館
4. 所有者の名称及び住所
宗教法人 宝泉寺 (代表役員 山本 康道)
山口県阿武郡須佐町大字須佐6942番地
5. 保管者の名称及び住所
須佐町教育委員会 (教育長  久賀  勇)
山口県阿武郡須佐町大字須佐4570番地の1
6. 形状、寸法、その他の特徴
別紙目録の通り
7. 製 作 者
絵馬師吉本善京筆のものが2面、長州須佐喜田屋岩吉筆のものが1面、その他は不明である。
8. 製作の年代
奉納銘によれば、享和4年(1804)ないし大正15年(1926)である。
9. 由来又は沿革
須佐高山(こおやま)の中腹に鎮座する宝泉寺とその鎮守黄帝社に奉納された船絵馬を中心とする66面の絵馬群である。
宝泉寺の直接の前身は、宝永2年(1705)に建立された妙高山瑞林寺で曹洞宗であるが、古くは道庵と号して弘法大師開闢の伝承のあることから 、密教的背景を有したのであろう。黄帝社については瑞林寺以前から鎮守として、「狗留孫仏黄帝小社」があったこと(寛保元年瑞林寺由来書) 、また天保期には淫祠解除の対象となり、一旦山王社と改めたこと、(風土注進案・須佐村)、日和を行い「船玉黄帝社」と呼称したこと (瑞林寺十三世の製作した弘化5年の日和銘)がわかっている。ちなみに、高山は、古来「オキ(沖)ユ(行)ク船は帆をさげて敬拝し奉る」(風土 注進案・須佐村)という船乗りの作法もあり、一種の聖地とみなされていた。なお、国指定天然記念物「須佐高山の磁石石」は、山頂部の斑糲(はんれい) 岩塊で、異常に強い磁気があり、磁石を狂わせるほどのものである。
絵馬は、須佐や江崎の港に、風待ちあるいは潮待ちのため寄港する廻船の船頭たちが、海上安全などを祈願して奉納したものである。66面のうち54面が 廻船図であり、残る12面は図柄を異にするものの、奉納の主体や趣意はほぼ共通する。長門や石見のほか、越中、能登、越前、丹後、隠岐、出雲の船頭 からの奉納もある。
10.保存管理の状況
宝泉寺本堂(8間半x4間)および黄帝社(2間x2間半)の

 
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内部壁面に奉懸されていたが、いずれも無住の状態で管理上の問題もあり、また、全体に画面剥落が進行中で保存上の問題もあるので、 昭和60年9月、町教育委員会の現地調査後、須佐町中央公民館において保管されることになった。
なお、画面剥落を防止するための保存対策の検討が望まれるところである。
11.その他参考になる事項
(1)他県所在の船絵馬のうち、国指定および県指定のものについて、各県に照会したところ、次のような例がある。
(参照:参考資料1  国指定および県指定の船絵馬)
国指定 有形民俗文化財 3件
県指定 有形民俗文化財 6件
(2)山口県所在の船絵馬については、従来、次のような調査研究の実績がある。
     (参照:参考資料2 山口県所在の船絵馬の分布)
イ。 瀬戸内海歴史民俗資料館(編集)「瀬戸内海の海上信仰調査報告」(西部地域)(1980年3月刊)
ロ。 吉本一雄 「日置町貴布祢社の船絵馬」(第53回 山口県地方史研究大会発表要旨 「山口県地方史研究」第45号所収 1981年6月刊)
ハ。 吉本一雄 「高山黄帝社の船絵馬」(第13回 山口県文化財愛護教室講演資料 1985年7月30日)
ニ。 山口県教育委員会文化課(編集)「山口県の絵馬」(未指定文化財調査報告書4 1985年3月刊)
ホ。 吉本一雄 「船絵馬」(同前書所収 1986年3月刊)
へ。 吉本一雄 「須佐黄帝社と船絵馬」(第63回 山口県地方史研究大会発表要旨 「山口県地方史研究」第55号所収 1986年6月刊)
   なお、須佐高山黄帝社にかかわる海上信仰については、次のような文献で紹介されている。
ト。 桜田 勝徳「船霊の信仰」(「ものと人間の文化史1・船」 1963年7月刊)
チ。 南波 松太郎 「日和山と方角石(其の一、其の二)」(「海事史研究」第11号・第13号 1968年8月・1969年10月刊)
リ。 南波 松太郎 「中国地方日和山紀行」(「海事史研究」第33号 1979年10月刊)
(3)宝泉寺絵馬群の奉納者一覧(国別) (参考資料3)
(4)宝泉寺絵馬群のうち廻船図一覧 (参考資料4)
(5)寛保元年(1741)瑞林寺由来書 (参考資料5)
(6)宝泉寺位置図

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■ 四境戦争の記録
 四境戦争の記録  筆者不祥

七月十五日(慶応2年=1866)日の出より戦始まり長州精鋭隊并に一番二番大隊之内三中隊大麻山へ押出寄せ戦争はげしく終に 大麻山を乗取る。

此大麻山と申は兼て敵兵籠城之地にかまへ申候所也。
浜田、福山の両勢防禦に術を失ひ七條村へと志し後をも見ずして落ち行ぬ。此所迄浜田城下より三里程有之在也。
はげしくも攻附られて白泡を吹く山坂を丸腰にして
爰にて分捕もの左に記す。
白米弐百俵 酒四斗樽四挺
肴類数々有之
大砲四挺 尤フランスシキ

この時西村と申所へは大隊之内弐中隊無二無三に押寄せたやすく四つ門を打崩し其時精鋭隊猶豫なく大麻山より烈風のごとく 押おろし


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鯨波(とき)を作りてせめ寄せしに忽敵兵敗走す。
此時南園隊は内田村と申所へ押出し、いづれの敵とは知らねども朝五ツ時より七ツ時まで爰ぞ先どと敵味方(互)に負けじ劣らじと 力を尽して打合しが、敵兵今は叶(適)はじとや思いけん、終に此の村へ放火致し、五拾軒程一時にもへたち黒けむり四方に たなびき後をくらまし逃散せり。
此敵な紀州勢なり。

和歌山の色青ざめし葉武者とて 太刀風吹けば散るぞ本意なき
とが(罪)もなき賎(しず)が軒をやき捨てて なに惣(総)とく(督)のかいがありとや

十六日早天より精鋭隊并に清末育英隊三中隊西村関門口より大隊之内二中隊押出し周布村(現浜田市)門田村と申三ヶ所之村 へ紀州勢踏止まり、陣所をかまへ扣(控)たり。それと見るより長州勢神納山より押おろし日の出頃より戦はじめ、敵兵そこにて 不覚をとり今や恥辱を雪(すすが)んと大砲小銃きびしく構へ、打出す事おびただし。すきを見合い長勢われ劣らじと押寄せしに、 爰にも敵兵たまり得ず周布川まで敗走す。此時内田村に扣(控)し雲州勢も南園隊と対陣にて打出す砲声百千の雷の轟くがごとく 三時の間止まざりし。南園隊は面白き叓(こと)におもひ、中にも不敵の若武者は打ぬかれたる似(まね)をして倒るるが否 敵方には打留めたりと歓びて声をたつれば、かわ(がば)と起き爰をうてやと後むきあざむけつなぶりつしては時移る。
今は敵方尽きぬと覚えたり。近やく(?)人々と面もふらず打掛け打掛け短兵急にぞ責(攻)附けたり。今は敵方矢玉も術も つきはてて堅陣一度に崩れたち、東をさして落ちゆくときにて

堅陣と思いの外の後詰する 人もなくなく延(逃)る敵かな

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西村、周布村、門田村此の三ヶ所の分捕もの左に記す。

メリケンホヲト      五挺
フランスシキ忽砲     弐挺
キウホウ         弐挺
 但弾薬共に不残
小銃          三拾挺
 兵糧、具足其他味噌蝋そく数々

十七日八ツ時(午後二時)浜田より使番来り和儀を乞といへども、是等の叓(こと)に付ては家老重役差越され候はでば不相調 (あいととのはず)段と申懸られ一応使者相帰り翌十八日に至り候ても何たる返答も無之此日昼頃より浜田城内并に家中居屋敷 残らず放火焼捨に致し候。尤前日家中之面々へは分限に応じ配金有之、町家へは家別に三歩二朱宛配当致され浜田侯并に家中 之面々不残因州雲州一同に因州さして落行けり。哀といふも疎(おろか)なり。紀州福山の残兵周布川迄落延しが渡る可き船 壱艘もなく、兵糧には尽果て、波子(現浜田市)の浜と申所にて数多餓死におよびたると聞く。

哀れさよ修羅のちまたはのがるれど また餓鬼道におつるはかなき

城下にて分捕もの左に記す。

黒米 壱万俵  金子五箱  尤一箱丁銀有之
大砲 数挺 弾薬ともに

又十五日より十八日迄戦争、味方怪我人なし。尤死人壱人有之、是は育英隊之内也、敵方死人怪我人数不数。


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■ 古文書によく出る言葉について(1)
私たちが吉文書を読んでいると、いろいろわからぬ言葉がでてきます。このたび山口県文書館の石川卓美氏が、何十年という努力のすえ 「防長歴史用語辞典」を大成されました。一冊が一万五千円もする大作ですが、私たちが手にするにはちょっと荷が重すぎます。それで、 私達が古文書を読みながら、その中によく出てくる言葉や郷土史研究上よく見聞きする言葉をひろって紹介することにします。
これは石川先生の御了解もいただいております。

石川卓美著「防長歴史用語辞典」抜粋
五十音順(1)あ〜こ の部

★あずけち預地給領と同じで主君から与えられた土地のこと
★いちりづか一里塚路程の単位、大宝令で5尺を1歩、300歩(5町)を1里としたが、 後36町を1里とした(現約4千メ-トル)。豊臣秀吉が朝鮮出兵に際し、山陽道を経て北九州肥前名護屋までの道筋に、1里36町制によって塚を築き標識 にしたのが起源。
★いりさく入作他村に在住して、持ち添えに隣村の田畠を耕作すること。作人は入百姓 または入作百姓という。
★いわれざるぎ不謂儀もってのほかの事。
★うきこく浮石田、畠、塩田、屋敷地などは検地によって行政的にはっきりしてい るが、その他に河海の収穫、田畠の畔道の産物、屋敷まわりの果樹や有用樹木、あるいは特別の産物などに対する課税。
★うけあらし請荒作物がよくできない土地を放っておいて雑木林や荒地になっても、 検地台帳にのっていれば相応の課税がなされた。
★うきやくぎん浮役銀田畑の石高に応じて現物で税の徴収がなされたが、これを銀

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で収めるようにもなった。
★うらかた浦方市街地の町方支配地に対して、農山漁村地帯を地方(じかた)と言ったが、 純漁村地帯を浦方と言った。代官所の命令によってその地方を支配するのが庄屋、漁村では浦庄屋、浦年寄がおかれた。明治、大正、昭和初期にわたつて 政財界に重きをなした久原房之助の祖先代々は須佐浦の庄屋であった。
★うらぎわめ浦究寛永末年代に藩内の主要な浦に配置され、海防、抜荷(密輸)、 難破船など、海上交通に関する一切の取り締りにあたった。
★うわにぶね上荷船回船と波止場を荷物を運ぶはしけ船のこと。須佐湾には多くの 回船が入港したのでけっこう繁昌した。
★うんじょうぎん運上銀生業や営業の免許に対して、その利益に対した税。
★えいだいかろう永代家老毛利家一門六家にについで、代々家老職をついだ家柄は福原家と 益田家であった。毛利八家と言う。
★えいぶ永否災害の為めに荒廃し、このような壕土地は春定(はるさだめ=作付けの 時におよその収穫高を検定する)の時に否究(ぶきわめ=役に立たなくなった荒廃地を検定する)した。 復旧の見込みある土地は当否(とうぶ〉として、年数を限ってて年貢を免除された。
★えんきんがた遠近方手子役とか御役目引方などとも云われ、はじめは御国留守居 役に属し、後、当職(城代家老)の管轄となつた。役目は諸士が江戸やその他へ出張に際して、課役(役目を申し付ける)や出銀(出張旅費)の役にあたり 、旅程の遠近や任務の度数、軽重に対して公平に賦課し、又老中や組頭の仲を緊密にとりもつなどの任にあたった。
★えんぜつ演説自己の意見や主張、訴え。

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願い事などを上に対して申し立つてるための覚え書。
★おあずけやま御預山藩士に預け与えられた山林。
★おおぐみ大組馬廻組(うままわりぐみ)とも云い、藩士の中核の階層。八組とも称した。軍陣では 主君の馬廻りに従い重要な役わりをした。
★おおらいてがた往来手形他国に往来するための藩府の許可状。神職、僧侶、百姓、町人などすべての 土民が藩外に出るときはこの許可状が必要であった。
★おこうぞ苧楮楮の皮をとって乾燥したもの。毛利藩の財政策で、四白政策(米、塩、ろう、紙)の生産 に重点を置いたが、北浦地方では三白政策とでも云うか(塩はできない)谷側の田地にならぬ両面を切り開いて楮や櫨(はぜ=ろうの原料)を植えさせた。
★おたてやま御立山藩公用の用材林。須佐近辺ではたたら製鉄のため宇田惣郷の白須山や真名板山などが 薪山として御立山とされた。
★おちゃや御茶屋藩の公館というべきもの。藩主の国内巡回、一族の旅行、幕府の役人、九州の諸大名の 通行、宿泊のために設けられた。
★かいさく開作新しく士地を開いて新田を作ること。そのまま地名として残っている所が多い。新田(しんでん) とも云う。弥富、福賀境にある。
★かいじょうこく海上石漁業権を持つ諸浦の漁獲高で一定の課税が賦された。
★かいそんだ皆損田災害などにより不作となった田畠を検見を受けて収穫がないと認められた地。税は 免除され、翌年の種もみが支給された。
★かいどう街道主要往還のこと。北浦で

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は小川上野原ー宅佐(現在のむつみ村高佐)ー阿武(萩市大井、阿武の国造「みやつこ」=地方長官の館のあった所)ー埴田(萩市小畑)ー参見(萩市三見)ー三隅(大津郡) 由宇(長門市湯本)に通じた。
★かえち替地蔵入地(藩の収入になる土地)と給領地(家臣に与えた土地)を交換すること。または給領地 同士が土地交換すること。
★かげぎり蔭切田畠に近い木立などは蔭になって不作となるから、その伐採は作人の自由に任せられた。
★かこいこく囲穀災害などにより食糧が不足したとき、非常用のために穀物等を備蓄しておくこと。戦の ための兵糧米も同じ。
★かじあいびゃくしょう火事遭百姓火事にあった百姓には救助の措置がとられた。軒別3斗、火元の場合は 2斗5升。
★かずき年貢を納めなかったりした場合、組内の者等が連帯責任として補うこと。
★かたあらしだ片荒田土地がやせ地のために毎年耕作することができず、1年おきに耕作する田のこと
★かただ堅田湿田でなく排水がよく麦作もできる二毛作の田。稲作のあとに麦作もできるので麦田ともいう
★かち徒士徒歩の侍で地徒士と供徒士がある。地徒士は地方徒士の意で御国徒士とも称し、藩主の在国中は常に 駕籠に先駆して道路の警護にあたり、供徒士は藩主の参勤、帰国のとき行列の先導と警備にあたった。
★かちょうまい加調米小作人が地主に納める小作料のこと
★かっぺきやま合壁山百姓の私有地で立銀(山林税)を徴収するから立銀山(たてぎんやま)ともいった。
★かどやくぎん門役銀浮役銀(うきやく

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ぎん)ともいう。本百姓の軒役(のきやく=軒別に税を課した)として領主の台所用の薪を現物で徴収したが後に代銀で納めるようにもなった。
★かはんやく加判役藩の枢機に参与し藩主署名判の公文書に加判する重職。慶長5、6年ごろ福原広俊、堅田元慶、 榎本元吉、佐世元嘉らが任じられたが、やがて一門六家に定着し藩主の江戸参勤に必ず随行して加判した。
★かわなり川成高請けの田畠が洪水や高潮などで地床が川や淵になること。この場合「休石」として税を免除し永否とする。
★かわよけ川除稲田の用水を確保するため河川や用水溝を浚渫したり護岸を補強することで、冬、早春農閑期の重要な仕事とされた。
★かんえいけんち寛永検地検地奉行熊野藤兵衛があたったので熊野検地とも呼ばれる。
★かんか勘過検査して通すこと。また手形によって番所、口屋などを通すこと。検査に合格することにも用い られた。
★かんじょうやく勘定役一般に勘定役または算用方は代官付役人の最上席で代官を補佐する役であるが、主として 貢租関係の事務を担当する。
★かんば勘場宰判(行政区画で須佐は奥阿武宰判に属す)の要衝の地を選んで設置した。
★きがみ黄紙長州藩公用紙の一種。防虫のためきはだを用いて黄色味を帯びた紙で私用に使うことは厳禁された。
★きさんびゃくしょう帰参百姓走り百姓(他所へ逃亡した百姓)が他所で有付き(生業につく、又は身を寄せる) もできず再び立ち戻る場合に寛大な処置をとって不問にし元の仕事が続けられるような措置をとった。

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★きゅうこく休石永否(えいぶの項参照)災害などによって荒廃した田畠の税を免じた。
★きゅうりょう給領藩士に給付された知行地。給地、御預地(おあずけち)、拝領地、配地ともいう。
★ぎょいぎん御意銀諸士の職務の勤功に対し、当役や当職の裁量によって支給する恩賞銀を御了簡銀 (ごりょうけんぎん)といい、藩主の上聞に達し一代支給されるのを御意銀と言った。
★きょうほききん享保飢饉享保17年(1732)夏ごろから西日本一帯にわたって浮塵子(うんか)が 大発生し防長両国でも大被害を受けた。藩から幕府への報告では被害高292,740石とある。萩藩は幕府に申請して2万両を借り東国地方から米16,000石を購入して 救民にあたった。
★きょうりょう校量荒算用。目算。胸づもりの意。校了、掠了の字をあてたものもある。
★きりせん切銭銭でなくて銀で扶持米と同性質の給与銀。下給士に給与され、扶持米と併せて仕給される こともある。
★きりまい切米知行高の外に職務俸として特別の事由によって手当米を加給した。
★きわめ窮。調査、検討のこと。否究(ぶきわめ=不作の調査)、浦究(うらきわめ=漁獲の調査)、 楮究(こうぞきわめ=楮の出来高調査)など。
★ぎんひとえ銀単米銀混合の計算を米の相場によって銀額になおし銀に統一して計算すること。
★くちまい口米田租税に対し、徴収役人の雑食に費やしたりねずみ害などによる減石に対して、 年貢米1石に対して3升、つま

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り3%あて付課して藩におさめさせた雑税。
★くちや口屋藩内の交通の要衝にあたる出入り口、あるいは通船を持つ主要な河川の川口に設けられた 番所の一つ。通行人の取りしまり、運上銀の徴収などにあたった。
★くまのけんち熊野検地寛永検地参照。
★くらいり蔵入支藩領や給領地以外の土地は、すべて貢税は藩庫に収納されたので、これを御蔵入と いった。
★くろがしら畔頭幕府直轄領地の組頭にあたる。村内の一定部落単位に畔頭がおかれ、庄屋 (部落の支配人)の下で相談役にあたり、年貢の徴収、検見、戸籍その他の民政用務にあたった。
★くろほ黒保半紙をすいた残りかすの原料ですいた紙。すきかえし紙ともいう。資質が黒く下品 なので黒紙ともいい、日常の使いがみ、鼻紙に私用された。ちり紙のたぐい。
★くわはじめ鍬初土工の工事はじめで、特に開作工事の起工をいった。現在の起工式にあたる。
★ぐんちゅうせいほう郡中制法万治3年(1660)9月14日に制定頒布された法令で万治制法の一つ。 長州藩の地方支配に関する基本法。地方支配並びに農民管理が中心となる。
★ぐんのき郡退遠島につぐ刑罰で、住んでいる郡を離れて他郡の村役人の監視下で生活することになる。 御城下退、村退なども同様。
★ぐんぶ郡夫農民を一時的に雇用し、または徴用した一種の中間(ちゅうげん)。4類あり
(1)萩城において雑役につかうため、蔵入地の石当りで百姓に課する賦役(税を労働で払う)。
(2)藩士の江戸勤番に召連れる小者を百姓から臨時に徴用する。
(3)萩城下勤

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番の諸士が使役するもの
(4)開作地拝領の諸士で、その開作が干潟開作(埋め立て)などで大規模な工事になる場合、近隣諸郡の百姓を徴用する加勢夫。その他河川工事などで現地 村落での人役では不足の場合にも徴用された。
★ぐんようがた郡用方郡奉行の別名で小禄の者が登用されたときにこの名称を用いる。
★けいちょうけんち慶長検地中国地方を制した毛利氏が天正検地についで慶長4年(1599)計画し 田畠ともに一反を300歩とし、石盛り(収穫の石高)を6段〜9段に等差をつけた。茶、桑、楮、漆等にも規定した(これは天正検地にはなかった)。翌慶長5年、 関ヶ原の敗北で完遂はしなかった。
★げさつな下札名検地帳や春定名寄帳(春植付け前にその年の収穫見込みを記した帳簿)などに 登録された田畠等の所有者の名簿。
★けじょう毛上田畠、山林などの産物のできぐあい。毛上が良い、悪いなど。
★けみ検見稲作の毛上を調査してその貢租額を定める制度。毛見(けみ)のことか。
★げんしょうごく減少石諸士の知行の一部を借銀額に応じて一時的に藩府に納めて減少すること
★けんち検地田畠の収穫高を調査してそれぞれ石高表を作って課税した。
★げんち減地罪によって知行の一部を削減されること。
★けんやく軒役本百姓に軒別に課された租税。労力奉仕の場合もある。
★こうぎ公儀長州藩では毛利藩府をさし、幕府は大公儀と大の字をかぶせた。
★こうさつば高札場幕府や藩府の触れ書き、掟書(おきてがき)などを村内の目立つ所に掲示した場所。

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★こうぞしゅうほ楮修補楮の木の植えつぎのため、必要経費を藩で助成した。
★こうりぶぎょう郡奉行長州藩の職制として郡や村の行政を統括する役職。
★こくだか石高高、高辻(たかつじ)ともいい、田畠、屋敷、その他からあがる生産物 の見積もり収穫量を米に換算して表示した名称。検地によって定められた一定の土地からあがる課税対象を米に換算して示した。
★こくもり石盛反当りの平均収穫量。上の上、上、上の下、中の上、中、中の下、下の上、下、下の下の 9段階。または上の上、上、中の上、中、下、下の下の6段階で示した。
★こつなぎ小貫つなぐは集金のこと。(今でも使われている)藩庫に納める中央税に対し 郡や村の入費の補いとして徴収する租米(税金米)を称した。
★ごにんぐみ五人組地方支配の最末端組織。切支丹(きりしたん)の探索をはじめ貢租の 納入、戸籍の取りしまり、防犯、他国への出入、御立山の取りしまり等を連帯責任で負い、農作業や生活の相互扶助の役割も果たした。
★こぶれ小触庄屋元から畔頭などへの回覧状や用件を伝えて回る役目で、庄屋が任命する。
★ごまいぐら御米倉貢租米。貢租米の収納、保管用の倉庫でほぼ各村に置かれた。
(以下次号)

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■ 須佐周辺の城砦跡
山口県未指定文化財の内、城砦調査でいろいろ調査したものを、事務局がまとめてくれました。戦国期、益田氏と津和野吉見氏の勢力の接点であったこの地方 は、一朝にして彼我所をかえるような激戦がくりかえされた所でした。
山ロ県は昭和55年から県内の未指定文化財について、総合的に調査し基本台帳を作成し、さらに貴重なものについては指定を図り保存対策を講ずることを目的に 調査概要を発表しました。
須佐周辺の城砦跡調査は郷土史研究会、町文化財保護審議会が昭和58年から同59年に実施、須佐地区では笠松山城(磯ケ崎城)、懸の城、犬伏山城、弥富地区では 敵陣ケ嶽城、遠田城、茶臼山城、鈴野川地区では火の谷城(津和野町では御嶽城)の7ヶ所があります。
 ☆笠松山城(磯ケ崎城)
笠松神社に下車、山陰本線を横切り20分登る。山頂(標高98米)は平坦地、四方は急峻、北は須佐湾、南は町内、東は懸けの城、犬伏山城が一望できる。
はじめ吉見氏の出城でのち磯ケ崎城と呼ばれ、永禄5年(1562〉吉見正頼が須佐に侵入した時、益田兼貴は大激戦の末、この地を守ったと益田家茂の書に残されている。
ー防長風土注進案ー
須佐笠松山ニアリ
当城は吉見家の出城と申伝候事
右笠松山の古城跡ハ御領主様御田屋山にて
巨細は相知不申候事
 ☆"懸の城(掛ノ城)
須佐駅背後の山頂(標高80米)まで15分登る。益田家の出城で南北に細長く東は犬伏山城、西は笠松山城を望み、 磯崎城で活躍した寺戸大学が拠ったと伝えられる。西麓の

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竹林には益田家と吉見家の激戦を偲ばせる三界万霊等碑がある。

ー防長風土注進案ー
水海ニアリ
当城は寺戸大学と申人居候由、是も益田家の御抱出城と申伝候事
右山の高サ凡壱丁半位にて山上に方三四畝
もあらんと思しき平地あり、山形三方は嶮
岨にして壱方は尾続、全く時の要害にて居
城とは相見へ不申候事

 ☆犬伏山城
帆柱原田芳夫氏住宅の裏山尾根を30分登る。途中はシダが深く山頂は雑木が繁茂しており 調査は困難を極めた。山頂(118米)は平地で三段、城建築時に用いたと思われる基礎石と井戸跡が確認できる。 江津側には堀切、三方は急峻、西側は懸の城、笠松山城が一望できる。益田氏の出城で小原東蔵人が拠ったと伝えられる。
ー防長風土注進案ー
三原ニアリ
当城は御手洗左京之進籠城候由、石州益田
家の御抱城に相成候て小原東蔵人と申人預
りにて居申候由候事
右山の高さ凡弐丁程にて絶頂に平地3ヶ所
あり、凡畝敷四五畝も有之、又所々掘切た
る所もあり、或は石垣などの跡、または井
戸やうの跡と相見へ候所も御座候いつれ天
文元亀の此の事ニ而年数凡3百年余にも相
成事ゆえ、諸木鬱々として正跡巨細にハ相
知不申候事
 ☆火の谷城(御嶽城)
鈴野川からの登山は不可能なため津和野町長野地区の愛宕神社より登る。 目的地までの所要時間は1時間40分、山頂(標高504米)は南北に58米、本丸・ 二の丸・三の丸東は90米さきに出丸があり、四方は急峻で難攻不落である。吉見顕彰会建立の石碑に

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「頼行公入部して12年間の本城であった、弘治元年(1555)陶軍を迎入れ一族岡頼照対陣籠城の跡である」とある。 現地からは鈴野川、弥富、小川、遠くは須佐高山や日本海が望める。
吉見氏の出城で長野美作守が拠ったと伝えられる。また城の西、鈴野川中河内の山腹に絵書岩があり見張りの兵士が 戯れに彫ったと思われる碁盤目2ヶ所と弓矢が形どられている。この絵書岩(標高270米)は岩上2畳、 高さ1.8米の巨岩2個からなり周辺の幹線道路が見渡せる。

ー防長風土注進案ー
但鈴野川村の東石州境にあり、時代不分明
ニ御座候へとも、城主ハ長野美作守と申候
由里説に申伝候、此山の東の麓を西迫と申
石州の内にて御座候、西迫より六丁程東に
長野市と申所御座候、按するに此長野氏も
吉見家の一族にや、又此山より十丁ほと下
りて中河内といへる所の山に絵えき岩いわとい
へる所あり、大キなる岩弐ツありて一ツの
面には碁盤の目をもりてあり、また一つに
は弓矢を彫付けであり、此岩のあたりにて六
拾ヶ年已前に剣を一振此里人の拾ひたりと
申事御座候、佐候ヘハ此所も彼火の谷の城
山へ向ひ城なと築たる所歟またハ彼城より
砦なと構へし所ならむ歟。

 ☆敵陣ヶ嶽城

落山より軍場を通り急峻を40分登る。山頂(標高360米)は平地で中央に石祠2ヶ所があり、樹齢約60年と思われる榊が 一対植えてある。石祠並びに石垣に使用の石は城建築時の基礎石と思われる。平山城側に2つの出丸、河内側には堀切がある。
天文22年(1553)大内義長が津和野三本松城を攻めた時、その将町野隆風が阿武郡を攻略しており、 後に星の城をもって吉見正綱に降伏している。注進案に搦手より攻め

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落城したとあり、城兵の逃れた所を落山、城の麓を城ヶ谷、河内の上の山を敵陣ヶ嶽とし今も地名が残る。落山、城ヶ谷から一万にかけて 城兵軍馬等が多数討死したと伝えられ、一万の端に野ずら石で三界万霊等碑が建てられている。

ー防長風土注進案ー
前略。吉見阿波守の時此城堅固にして攻れ
とも不落、数日を経る内に年の末にも成り
し故敵陣より城中へ使を以て申入候様は数
日の対陣もはや歳末に相成候ニ付、相互に
越年の祝儀は軍中なから致すへしと申遣し
候て、攻口を退き間道を廻りて、此山の後
ロ弥富村の内城ヶ谷河内と云う両所より正月
元旦朝駈を成し、搦手より不意を討しゆえ
終に落城仕候由、此河内の上の山を敵陣か
嶽と申、城ヶ谷の雙ひの谷を落山と申事も
此城の落候よりの名と申伝候。後略。

☆遠田城
及谷川沿いに3百米の地点を右折し2百米の所の三差路で下車、山頂(標高280米)まで細い道を15分登る。山頂中央に社があり及谷・金谷部落 の祭祀が営まれ、金谷側に長さ12米、幅約2.5米の土塁と思われるもの、峠側に石垣が3〜4段組まれ及谷側は急峻である。

ー山口県風土誌ー
弥富下村の及谷の遠田、同上に星の要害、家頼遠田式部と申仁居城の由申伝候と見ゆ

 ☆茶臼山城

西秀寺裏の山道を10分登る。山頂(260
米)及びその南側に幅6〜12米、長さ約6
5米の平地があり、防長地下上申に「尤馬場
と申候て長広所此岡ニ有之候事」とある。北
側には幅1.3米、長さ27米の山道が
あり東側尾根に連絡している。北西側尾根は
星の城に連絡し、東南方面には火の谷城、


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ヶ山城(田万川町)、遠田城が一望できる。口伝によると東側尾根を馬をひいて一万まで水を汲みにいったとある。尾根は比較的緩やかで口伝も まなり信憑性がある。

ー山口県風土誌ー
弥富下村、山上に馬場とて長く広き地あり
由来書に平山居城の時分、此山出城の由申伝と見ゆ

この外に弥富地区では土井、炭山城、要害ヵ嶽城(天守ヵ嶽城)の3ヶ所が上げられ、土井は弥富六区の山根梅信氏住宅周辺が地名で、山口県風土誌 「按るに土居の誤なり。由来書に土井と申畠有之、此畠往古敵陣の城主屋敷跡と申伝候と見ゆ」とあり、また炭山城は「弥富上村の炭山、山谷の間」、 要害ヵ嶽城は「弥富下村の蒲原」とあり、今後の調査を要します。

参考文献
※防長風土注進案
※山口県風土誌
※地下上申
※阿武郡志

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■ 竹篭類の製作寸法

これは大正年間、農家の副業として山口県農政課が竹製品製作の指針として示したものです。
竹の伐採の時期、標準的な製作寸法や価格などを詳しく示してあります。

総テ仕事ヲナスニ当リテハ先ズ計画ト準備トヲ要ス、若シ夫レ之レカ計画ヲ誤リ準備ニ於テ欠クル所アランカ即チ其ノ結果ニ至大ノ関係ヲ 有シ無駄ノ費用モ労力モ時間ノ空費モ茲ニ始メテ生ズルモノト知ルベシ
先年来、県ハ政府ノ方針ト脈略ヲ保チ手工的副業ノ奨励中、竹材ノ豊富ナル地方ニ対シ竹細工ノ伝習指導ヲ行フ随所ニ志アルモノ多数斯業ノ 研究ヲナサムトスルモノアリ、仍チ其指導ヲ一層有効ニ徹底ヲ期スルタメ普通日用品竹篭類ノ主ナルモノニ付之レガ製作概要等ヲ作り茲ニ当業者ノ 参考指針ニ供セムトス
大正拾五年七月
                            山口県農政課

     材料ノ選択
竹は3年生4年生ヲ可トス、夫レ以上ハ粘リ気ナク当才ノ竹ハ軟ニ過ギ篭ニ作レバ萎ビテ形ヲ変ズ
若竹ハ十月ヨリ十一月ニ伐採セルモノハ虫害ノ虞ナク又永ク緑色ヲ保チ得ルナリ

     材料の取り方
普通日用品ノ篭ニアリテハ廻竹縁竹等ハ成ル可ク竹ノ本又ハ末ヨリ取リ心竹ハ比較的良好ナル部分ヨリ取ル可シ、而シテ竹ハ常ニ末ヨリ割ルヲ 以テ割リ易キタメ荒取セシ竹ノ末ハ節ヨリ3寸以上アル様取ルヲ可トス
始メ竹ヲ裂ク時ハ竹割ヲ皮ノ方ニ4、身ノ方ニ6ノ割合ニ入レテ裂ク、若シ裂ク際厚薄ヲ生ゼシ時ハ厚キ方ニ力ヲ加フレバ旧ニ復ス


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着色法一般

竹材着色ニ祟リテハ留意スベキハ竹材ノヨク乾燥セルモノ又ハ油抜あぶらぬきヲセルモノニ染色スルヲ肝要トス、之染料ノ竹材ニ及ホス染着力ヲ大ナラシムル タメナリ。
加工品(花生篭はないけかご類)着色ノ場合ハ表皮ノ面取ヲ行ヒ後制作シ可成なるべく的乾燥スルヲ要ス、染器ハ理論上良好ナルモノヲ用フルコト困難ナレバ、トタン製ノ 釜カ鉄釜ヲ用ヒ加熱温度ヲ90度以上ニ達セル時着色ヲ行フベシ。
温度低キ時ハ染着力弱キノミナラズ製品ニ真ノ光沢ヲ与フルコト不可能ナリ。
染料ハ塩基えんき性染料ヲ用ヒ通常使用スルモノ左ノ如シ。

ビスマークブラウン(茶粉)、マラカイトグリーン(青竹)、オーラミン(黄)、ダークブルー(暗青)、メチールブアイオレット(紫)、ローダミン(赤)

1。加工品着色法

本法ハ主トシテ花生篭はないけかご類其他書類入等各種ニ応用スベキモノナリ
而シテ本法ニヨルモノハ比較的安価ナル製品ニ行フモノニシテ前記容器ニ水1斗ニ対シビスマークブラウン5匁強マラカイトグリーン 2匁メチールブアイオレット1.5匁ヲ加ヘヨリ攪拌シ温度ヲ漸次上昇セシメ適当ナル濃度ヲ得タルトキ被染物ヲ入レ染着セルトキ取出シ 乾燥シ石粉ニテ磨キ後生漆(カンプラ油ヲ加ヘタルモノ)ヲ塗リ磨キタル後乾燥スベシ
若シ古代色ヲ帯バシムル必要アルトキハ前記石粉磨キヲ完了シタルモノニ砥之粉溶液(白砥之粉、赤砥之粉、削黒石瓜粉、糊ノ混合 水溶液)ヲ塗リ乾燥後再ビ磨キ生漆ニテ仕上ヲ行フモノナリ
其他染色法ニ種々アレドモ略記ス


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目  次
 品 名                頁

六ツ目組方              1
煮    篭               2
果 物 篭               3
茶 碗 篭               4
盃 伏 篭               〃
陸 持(オカモチ)篭         5
水   垂                〃
箸   入                6
味 噌 濾               〃
箕(ミ)(横目)               7
〃   (縦目)             8
石   笊                9
石 炭 篭               〃
飯 取 篭(円蓋付)         10
飯 取 篭(角)            11
大   笊(ザル)           12
八百屋篭                13
麦 酒(ビール)篭          14
手   保(テモチ)(四ツ目底)   15
手   保(菊底)           16
桑 摘 (クワツミ)篭         17
炭    取(スミトリ)         18
竹細工用工具一般          19
竹細工用工具一般          20
竹材並加工品             21
着 色 法               22

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(1)製作寸法(皮製)
底組竹ノ長サ 1尺3寸 幅2分5厘 数24本 底ノ組幅7寸 廻竹ノ長サ2尺8寸 幅2分5厘 数3本
縁竹ノ長サ 2尺8寸5分 幅3分5厘 数2本
見出竹ノ割幅1分5厘ヲ6ツ割ニシタルモノ1本
縁ヲ結ブ籐又ハ針金ノ長サハ篭ノ周囲ノ1倍半 竹ノ長サ3尺幅5分
(2)標準価(小売値ハ卸値ノ1割5分増 以下準之)
卸値  11銭5厘  内材料費 5銭
               工  賃 6銭5厘

(1)製作寸法(身皮製)
心竹ノ長サ 横2尺4寸 縦3尺5寸 割幅1分7厘 横20本 縦三本 廻竹ノ長サ 3尺2寸 幅1分7厘10本
縁竹ノ長サ 3尺5寸 幅2分2本
力竹ノ長さ 1尺 幅5分縦1本
縁ヲ結ブ針金ノ長サハ周囲2倍半
(2)標準価
卸値 5銭  内材料費 2銭
          工  賃 3銭


P45
(1)製作寸法(皮製)
底組竹ノ長サ 3尺5寸 幅2分5厘 数30本 底組幅 7寸 廻竹ノ長さ 2尺8寸 幅2分5厘 数12本
縁竹ノ長サ 2尺8寸5分 幅3分5厘 数2本
見出竹ノ割幅 1分5厘ヲ8ツ割ニシタルモノ1本 縁ヲ結ブ篝リ針金ハ周囲ノ2倍半
(2)標準価
卸値 26銭  内材料費 15銭
           工  賃 11銭



(1)製作寸法(皮製)
底組竹ノ長サ 2尺 幅2分 数30本 廻竹3尺3寸 幅2分 数6
刺竹7寸 数60本 幅2分 縁竹 3尺5寸 幅6分 数4本
見出竹ハ1分5厘ヲ4ツ割ニシタルモノ2本
(2)標準価
卸値 30銭  内材料費 16銭
           工  賃 14銭


P46
(1)製作寸法(六角形)
底組竹 長1尺4寸 幅1分 数 48本
底組幅 6寸 力竹の幅 3分 数3本
廻竹ノ長サ 2尺6寸 幅1分 数5本
廻リ刺竹ノ長さ 4寸 幅1分 数96本
縁竹ノ長サ2尺8寸 幅3分5厘 数4本
見出竹ノ幅 1分5厘ノ6ツ割ニシタルモノ2本
(2)標準価
卸値 21銭  内材料費 10銭
           工  賃 11銭



(1)製作寸法
心竹ノ長サ 縦1尺3寸 数11本 横1尺1寸 数14本 幅4分 底組幅ハ 縦8寸 横6寸 高1寸8分
肥後竹ノ割幅ハ5分5厘ノ8ツ割
縁竹ノ幅 3分5厘 見出竹ハ1分2厘ノ6ツ割1本
(2)標準価
卸値 20銭  内材料費  7銭
           工  賃 13銭


P47
(1)製作寸法(皮製)
心竹ノ長サ 1尺3寸 幅4分 数30本
組竹肥後ノ長サ 9尺 幅4分ノ8ツ割
縁巻竹ノ長 9尺 幅4分5厘 数2本
(2)標準価
卸値 40銭  内材料費 14銭
           工  賃 26銭



(1)製作寸法(菊底)
心竹ノ長 1尺3寸 幅4分 数6本
肥後竹ノ長 67尺 割幅4分ノ8ツ割
縁巻竹割幅 4分5厘
(2)標準価
卸値 15銭  内材料費  5銭
           工  賃 10銭


P48
(1)製作寸法(皮製)
心竹ノ長 1尺4寸 幅4分 数14本
組竹ノ長 7尺 幅4分ノ8ツ割
縁巻竹ノ長 7尺 幅4分

(2)標準価

卸値 26銭  内材料費 10銭
           工  賃 16銭



(1)製作寸法(横目3尺2寸)

台輪ノ長 3尺2寸 幅4分 数1本
心竹ノ長 2尺 幅4分ノ2ツ割 数13本
肥後竹ノ幅 5分ノ8ツ割
縁竹ノ長 3尺4寸 幅6分 数皮2本
見出竹ノ幅 3分5厘ノ8ツ割 1本

(2)標準価

卸値 50銭  内材料費 20銭
           工  賃 30銭


P49
(1)製作寸法(縦目3尺2寸)
台輪ノ長 3尺2寸 幅4分 数1本
心竹ノ長 2尺 幅4分ノ2ツ割 数13本
肥後竹ノ幅 5分ノ8ツ割
縁竹ノ長 3尺4寸 幅6分 数皮2本
見出竹ノ幅 3分5厘ノ8ツ割1本

(2)標準価

卸値 55銭  内材料費 22銭
           工  賃 33銭



(1)製作寸法(石ソーケ)

台輪ノ長 3尺7寸 割幅3分5厘 数1本
心竹ノ長 2尺1寸 割幅4分5厘 数9本
組竹肥後ノ長 1丈 幅3分 組竹肥後長 1丈 幅1分5厘ノモノ数本
縁竹 3尺8寸 幅6分 数2本 見出 3尺8寸 幅4分ノ8ツ割 1本

(2)標準価

卸値 28銭  内材料費  9銭
           工  賃 19銭


P50
(1)製作寸法
心竹ノ長 3尺 幅3分5厘 数24本(但皮2本並べ用フ)
底組竹肥後ノ長 1丈2尺 幅1分ノ角ナルモノ 数2本
明組竹肥後ノ長 1丈2尺 幅2分5厘
縁巻竹ノ長 1丈2尺 幅5分 4回ニ巻ク

(2)標準価

卸値 35銭  内材料費 15銭
           工  賃 20銭



(1)製作寸法(丸形蓋付)

台輪ノ直径 1尺1寸5分 長4尺1寸1分 内合口 5寸 幅3分
心竹ノ長サ 2尺2寸 幅2分5厘ノ2ツ割 15本 深4寸5分
肥後竹ノ長 約1丈 割幅4分5厘ノ8ツ割
縁巻竹ノ長 3尺5寸 幅9分 数1本
蓋ノ心竹ノ長サ 1尺6寸 幅3分5厘 数20本 皮10本 身10本
蓋ノ肥後竹ノ割幅 3分5厘ノ8ツ割

(2)標準価

卸値 1円  内材料費 42銭
          工  賃 58銭


P51
(1)製作寸法(角)
台輪ノ長 3尺6寸 幅2分5厘 数1本
心竹ノ長 2尺   幅5分5厘 数5本
           4分   数6本
組竹ノ長 2尺6寸 幅3分 8ツ割(但中央ノ節ヲ含)
縁竹ノ長 3尺8寸 幅6分 数2本
見出竹  3尺8寸 幅3分 数1本
柄竹ノ長 3尺   幅3分5厘 数2本 

(2)標準価

卸値 60銭  内材料費 20銭
           工  賃 40銭



(1)製作寸法(ソーケ)

台輪ノ長 5尺5寸3分 幅3分   数1本
下輪ノ長 5尺5寸3分 幅2分5厘 数1本
心竹ノ長 3尺     幅2分5厘 数17本(但身皮2枚並べ用フ)
組竹肥後ノ長 1丈2尺 幅3分5厘ノ4ツ割
縁巻竹ノ長 1丈2尺  幅2分5厘 数4本

(2)標準価

卸値 90銭  内材料費 40銭
           工  賃 50銭


P52
(1)八百屋篭製作寸法
     (縦7寸5分 横5寸5分 高3寸5分)
心竹ノ長 1尺6寸5分 割幅3分 縦10本 横1尺3寸 横13本
蓋ノ心竹ノ長サ 縦1尺1寸 割幅4分 縦9本 横9寸 横13本
組竹肥後ノ長 1丈3分ノ4ツ割
縁巻竹ノ長 1丈 幅4分

(2)標準価

卸値 35銭  内材料費 10銭
           工  賃 25銭


(1)製作寸法
    (縦1尺3寸 横1尺 深1尺)

縦心竹ノ長サ 3尺7寸 横 3尺4寸 幅7分 数縦10本 横10本
肥後竹ノ長  約1丈2尺 割幅4分ノ4ツ割
縁竹ノ長   5尺2寸 幅2分 数2本
底力竹ノ長  縦3尺2寸 幅6分 数2本
底力竹ノ長  横3尺   幅6分 数2本
底力竹ノ長  横4尺5寸 幅8分 数2本
柄竹ノ長   6尺5寸  幅7分 数2本

(2)標準価

卸値 1円20銭  内材料費 37銭
              工  賃 83銭


P53
(1)製作寸法
    (四ツ目底底6寸角)
心竹ノ長 2尺8寸 幅3分
     皮14本
     身14本  身皮2枚並ベ用フ
組竹ノ長 1丈余 幅4分ノ4ツ割身皮ニ
縁巻竹ノ長 1丈 幅4分 皮1本
             身2本
柄巻竹ノ長 1丈 幅3分 皮1本
             身2本

(2)標準価

卸値 45銭  内材料費 20銭
           工  賃 25銭



(1)製作寸法(菊底)

心竹ノ長 2尺6寸 幅3分5厘 数16本
組竹ノ長 8尺以上 幅3分ノ4ツ割
   底組肥後 5厘位ノ角ノ肥後
縁巻竹 1丈余 幅4分 数2本
柄巻竹長 1丈 幅3分 皮1本
            身2本

(2)標準価

卸値 45銭  内材料費 20銭
           工  賃 25銭
以 上


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