10

豊蔵坊注25
殿隊十人
以上

上記の男山陣屋の略図はこちらをクリックして下さい


十六日朝
旦那様御陣屋廻被遊
*1事 

十七日
旦那様明十八日山崎笠寺
御転陣被遊候ニ付
*2今日
午前より小荷隊同行
ニテ山崎御先越候事
笠寺本陣罷越久坂
義助相対同人指図ヲ


*1 「御陣屋廻被遊候」=15日に配定した陣所を全部巡視したという意味。
*2
転陣した理由=防長回天史四編上P382には「宇佐奉幣使帰洛途上休憩のためなり」と記されている。 防長勤王史には「あのような神聖な場所に陣はならぬ」とある。 

注25  豊蔵坊現存しない。愛染堂盛輪院の東にて中坊の上に隣る位置にあった。舊は蔵坊なりし由。徳川将軍家祈願所。実質石高3百石以上。家康42歳等身座像があった。 (出典=「石清水八幡宮史料叢書1 男山考古録」)

11

以同所陣場奉行
宮口清吉
*1相対直様
同人誘引ニテ所々
御陣屋一見ノ事
右相済松本氏
*2帰陣場
一隊其外仙道孫助
*3
坪田権三郎
*4山崎
止宿之事

十八日
今夜山崎天王山浪士隊
*5 
不残京都会藩
*6為追
討攻入候由一決
注26ニ付我
主天王山御転陣
*7ニテ
後詰被遊候事

*1 宮口清吉=萩藩の陣場奉行。
*2
松本氏=如何なる人物か不明(松本唯市か松本鼎か)。 
*3
仙道孫助=益田家下士、9.33石(須佐益田家分限帳)。
*4
坪田権三郎=益田家中士、御手廻組、17石(同上)。  
*5
浪士隊=忠勇、集義、八幡、宣徳、尚宜、義勇など。
*6
会藩=会津藩
*7
天王山御転陣=男山から天王山へ本陣を移した。

注26 会藩為追討攻入=「防長回天史」によれば7月18日の模様 は次の通り。

『爰元時勢愈切迫 幕より天王天竜の諸士弥早急引取候様一昨日大小監察下使にて越州大夫(福原越後)へ迫り込候処、両天伏三処昨朝八幡へ集会にて会賊討罰愈今晩と相決 天王の人数(真木和泉、久坂玄瑞ら三百)は七ツ時より発途桂通り入京 天竜の人数(国司軍八百)は夜九ツ時発途にて入京 伏水の人数(福原勢七百)は夜四ツ時発途にて本往来通り入京と相決候間、 越州大夫一同一手の人数弥今晩快く決戦会賊を討取不申候ては生て再び不帰と騰憤罷在候…』
(出典=「防長回天史」第四編上416頁)

18日の軍議では、三家老が揃っていながら何故来島、 眞木らの過激派を抑えられなかったのか。戦わずして勝敗の帰趨が明かであったにも拘わらず、何故宮門に向かって攻撃を加えることに一決したのか。 蛤御門の変の大きな謎である。

@818の変に端を発し、長人禁京、七卿懲戒、慶親父子勅勘に対して哀訴したが、池田屋の変を契機として兵力を以て嗷訴に出た。しかし戦争覚悟で兵を上京せしめ 3人の家老に黒印の軍令状を与えておきながら、「此方から先に手を出すな」と指示するなど藩の方針は中途半端であった。
A
七卿からは長州藩に対して強く決起を促され、 藩内の過激派を押さえきれなかった。藩庁政府の慎重派であった木戸孝允が上京してしまい、大事なときに高杉晋作、 周布政之助が何れも謹慎して政治的空白が生まれ、過激派を説得する者が 居なくなった
B勅命により兵を退く位なら最初から兵を上京させなければ良い。
長州追討の勅命が下りた以上、朝敵であり最早 戦うほかない
C
定廣公が着くのを待って方針を決めると、藩主父子に責任を負わせることになる。だから 到着前に攻め込み、勝てば官軍、負ければ臣下が責任を負えば良い…という考えが最後の評定の大勢を決したと言われている。

『(818)政変後、長州藩は「忠節確守の外、更に他念無之、先君側の姦を除き、御国内の賊を滅し、竟(つい)に攘夷の大功を成し、可安宸襟」との方針を決した。 攘夷、すなわち叡慮、これを奉ずるは尊王、すなわち正義、これが通らぬのは「君側の姦」故、斬るべしというのが長州側の論理であった。 (「防長回天史」第四編上)(中略)『眞木和泉の信ずる所に従えば、政変の真相は全く逆で「玉体」に奉逼(せまり)候致方、全く暴横にて、奉劫(おびやかし)候事明白、両三日の間は不断御流涕被為遊候由、 其後一八日以前の叡慮は総て矯命にて、真の叡慮に無之旨被仰出候由」にあったとされている。だから、和泉は、 尊攘派内部でも、最も強硬な武力行使論者であった。彼は長州藩軍隊の退去の朝命に接しても、あえて宮門に向かっての進軍を主張した。 「奸賊」の擁する朝命は真の朝命ではないと考えたからであった。』 (出典=遠山茂樹著「明治維新」第三章 注7)

また、「忠正公勤王事績」の中で中原邦平は7月18日の軍議の模様について次のように述べている。

『…嵯峨、山崎、伏見の大将株は八幡に集まって、どうしたら宜いかと言うて、会議を開きました。その時は大変な激論だったそうですが久坂義助、宍戸左馬介 、是は前に九郎兵衛と申しあげました老人であります。此の二人は忠正公から内密の書付を貰って居て、決して我から手出しをして、干戈を動かしてならぬぞよと云う 御内命を受けて居りますから、先ず三舎(注=一舎は軍隊の一日の行程で三〇里)を避けて、大阪まででも退いたら宜かろう と云うて論じますと、来島又兵衛が烈火の如く怒り出して、 己は進むことは知って居るが、退くことは知らぬ、是非京都へ這入って、 吾々が姦魁と目指したる會津肥後守を討取って、君側を清めるが宜い、 向ふで撃退の策を決したら、我より先んじて君側を清めるに如くはないと云うて、進撃論を主張する。 久坂宍戸が涙を流して留めるけれども、来島はナニ医者坊主や、俗吏に戦争の事が分かるものか、貴様等が京都に進のが嫌なら、天王山に登って、 己が會津肥後守の首を取って帰るのを見物して居れと云う激論、此の時は志気が憤激して居りますから、どうしても皆勇壮の議論に賛成する勢いであって、 来島の論の方が強い。ソコデ眞木先生の論はドウかと云うて、眞木和泉に聞くと、眞木も首を傾けたが 形は尊氏でも、心さへ楠公なら宜かろうと云うことを言うたさうであります。其れで遂に京都に討入ることになりました。 京都の方では撃ち退けると云ひ、長州の方では進撃論に極ったから、相互の衝突は最早免れぬこととなりました。』
(出典=中原邦平口演集「忠正公勤王事績」)

長州藩の攻撃目標は會津藩主松平容保が京都守護職として政務を執っていた「御花畠」で、御所南門正面にあった。 しかし、結局ここに到達する前に撃退された。

12

八時*1福越後様*2  
旦那様へ為御相対山崎
駅御立宿
*3迄御出被遊
候事
申下刻
*4
旦那様御出一応御立
宿ニテ越後様御相対
*5 
被遊即刻笠寺へ
御出被遊候事

 御陣所配定


    観音寺 
注27
 御先手廿二人


    同所関門
*6 
 右御先手ノ内ヨリ四人


    安養院
注28

*1 八時(やつどき)=午後2時。
*2
福越後様=萩藩永代家老宇部福原家福原元|(モトタケ)、現宇部市の一部の領主。 蛤御門の変の責任をとり岩国竜護寺にて自刃、享年50歳。徳山毛利広鎮(ヒロシゲ)六男。
*3
立宿=民間の宿屋。「xxの宿」と札を立てる事を言う。
*4
申下刻=午後5時頃。
*5
越後様御相対=18日に最後の打合わせを行った。
*6
関門=長州軍が占拠する以前、山崎関門は「郡山藩兵之を守る」 (「防長回天史」第四編上五)

注27  観音寺=山崎聖天 妙音山観音寺(真言宗)。JR山崎駅および阪急大山崎駅 から徒歩10分余、天王山の膝に抱かれるように鎮座して山崎聖天さんとして親しまれている。商売繁盛・夫婦円満の信仰を集める 聖天さんとして古くから民衆、特に商人に愛されてきた。春は 桜の名所として知られている。創建は平安時代(899年)、現在のような形になったのは、 江戸時代初期に木食上人以空が中興してからのこと。その後何度か火災に遭い、特に禁門の変(1864)では長州軍を追う 幕府軍に一山悉く焼き払われたが、明治になって廃仏毀釈によって滅んだ。今の本堂は西観音寺の本堂を移築して再建された もの。本尊は十一面千手観音菩薩(伝聖徳太子作)が祀られている。なお、観音寺のパンフレットによれば「観音寺日譜」 (延享元年から明治24年までの日譜)の元治の変の記述は有名 という。 (出典=「山崎聖天 観音寺」) 【注】山崎には更に関戸明神の社の南に今一つの観音寺あり。

注28安養院=阪急大山崎駅から 西国街道を京都方面へ徒歩10分、観音寺一の鳥居と同じ場所に「安養院」の標識がある。阪急とのガードをくぐり抜けたら直ぐ右折、阪急の線路沿いに現存する。 浄土宗。民家同然の建物で、上の旧道からだと寺を見付けるのが困難。須佐兵は此処に大砲隊を置いたが現在の地形は狭く、とても当時の状況を窺い知る事は出来 ない。位置関係から此所が最前線であったと思われる。寺の直ぐ下の堀通しをJRと阪急電鉄の線路が平行に走っているが、線路敷設前は境内も広く川に向かって 前方が開けた高台だったのであろう。


13

  大砲隊   廿六人


      大念寺 
注29
 戦士隊  三十七人
 御先供   十六人
 医隊    十六人

      笠寺
御本陣
 御近習   十三人
 惣軍見合 一達五人
 御小人手明 四人
 御簑持    一人

      笠寺本堂
 器械
*1    押一達

      塔ノ元*2農屋

*1 器械=鉄砲   
*2
塔ノ元=京都府久世郡久御山町に塔の本の地名があるが、山崎からは淀川の川向こうで、最前線よりもまだ前に当る。その様な場所に小荷駄を貯蔵する筈がない。むしろ本陣脇の「宝寺の三重の塔の下」と解する方が場所的にも広さからも理解しやすい。

注29  大念寺=見仏山・問法院。浄土宗。弘治元年(1555)、知恩院の徳誉光然を開山に、当地の有力者井尻但馬守長助が建立した正親町天皇勅願所の浄土宗知恩院派の寺院である。幕末の禁門の変で全焼し、現在の本堂は西観音寺にあった閻魔堂を移転・改築したもの。閻魔堂にあった閻魔像(重文)などは宝積寺に移り、十王像だけ当山本堂に収蔵している。


14

小荷駄   一達

      失寺名*1  注30
本門
*1脇寺
中軍引供
陣場一隊

      失寺名
関門 後寺
殿隊   廿一人

     関門
右殿隊ノ内ヨリ四人

     離宮八幡社 注31
殿隊    八人
農兵    二人 


*1 本門=どの寺の本門か。 文脈から判断して「宝寺山門の脇にある寺」の意で「失寺名」は僧坊の名前 を忘れたという意味ではなかろうか。

注30  失寺名= 「失寺名」と小さく書いている。即ち寺の名前を忘れたという 意味。現地で書いた日記なら周囲に尋ねれば分かる筈である。「宝寺」を「笠寺」と書いたり、「七月一八日」を「一七日」と誤記している事から、この日記は 波田与市が須佐に帰邑後清書した可能性が高い。

注31  離宮八幡宮=『山崎に在り。清和天皇、貞観元年己卯、南都大安寺の僧行教、 筑前の国、宇佐の宮に詣す。則ち神託を奉りて、先ず斯の処に写す。同年、行教、又、神託に因りて再び男山、石清水に遷す。 離宮の神宮寺は、則ち行教の院にし て、近世、律院となる。離宮の称号は、元、宇佐の本宮に対して、之を言うものなり。離宮の神領、八百石余有り。』  (出典=「雍州府志」上巻 191頁)元々嵯峨天皇の離宮が此の地にあったことから離宮八幡宮と呼ばれる ようになったのである。本邦製油発祥の地で油の販売権を独占していた。平安 時代の末期に灯明に用いる荏胡麻油の生産が開始され、鎌倉時代になると生産 を増加し、生産者の神人たちは油座を形成した。油座は八幡宮の権威の元、関所の通行料免除や津の使用料免除など様々な特権を得、中世を通して大山崎の油は全国 にその名を知られた。これは中世商業組織の「座」の中でも最も大きな組織で あって、油座の本所の神様であった。徳川家光は「西の日光」と言われるほどの 広壮優美な社殿を寄進したが、幕末の蛤御門の変の兵火で焼かれた上に、現JR の工事のために境内の大半を取られたので、狭い境内と普通の社殿になってしまった。司馬遼太郎の「国盗り物語」で有名 になった。 (出典= http://www.lily.sannet.ne.jp/t-h-nak/ )

15

天王山
二ノ鳥井
*1 
御陣屋
大砲隊之内
 士分  三人
 御細工人四人
 手明  壱人
 農兵  二人

天王山御本社*2 
 斥候  三人
 兵粮方 一人
 中間  一人
 農兵  五人

天王山頂
御先手ノ内
松原仁蔵
*3 

*1 現在「旗立松」の横に立つ鳥居(平成6年建立)が当時の「二の鳥居 」の復元なのかどうか。
*2
天王山御本社=天王山には古代は名前は無かったが、南北朝時代に山頂(標高270.4m)に 山崎城が築かれ古くは山崎山と呼ばれた。鎌倉時代に天神八王子社が祭られて八王子山とも称した。その後酒解(サカトケ)神社に「牛頭天王」を祀ってから天王山と呼ばれるようになった。 「御本社」とはこの酒解神社のことか。 
*3
松原仁蔵=益田家中士、御手廻組、15石。(須佐益田家分限帳)

16

組士  八人
手明  壱人

秀吉
物見台
*1 
御先手ノ内
 組士  八人
 農兵  二人

七曲り*2 
御陣屋
殿隊ノ内
大塚小三郎
*3 
組士  八人
手明  壱人
農兵  二人
以上

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*1 秀吉物見台=天王山ハイキングコース(往復4.5q)は「秀吉の道」と呼び6ヶ所に陶板サインがある。旗立松展望台からは淀方面が良く見通せ「秀吉物見台」はここの事と考える。
*2
七曲り=木が生い茂った天王山山頂(写真22)は眺望が利かない。旗立松の以外で 眺望が利くのは、「青木葉谷広場」しかない。この付近の登山道は七曲がりにふさわしい地形であり「七曲がり」は「青木葉谷広場」と推察される。
*3
大塚小三郎=益田家中士、御手廻組、12.5石。(須佐益田家分限帳)