『 随 行 日 記 』

元治元年甲子夏日 注1

嵩県秦兼 注2/font>

「温故」第18号より



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■    序    ■

本書は元治元年(1864)益田右衛門介「親施」が毛利敬親の軍令書を携行、兵六百名(内 須佐より新選隊員など三百名)を率いて上京するにあたり、陣場奉行波田兼明が書いた陣中日記です。

今回須佐郷土史研究会と交流の深い東京須佐史談会の方々の一方ならぬご苦労により発刊されました。日記に関係のある現地を詳しく視察し、撮影など、計り難いご苦労に対し衷心より敬意を表します。あとがき・補注についても日記の内容を更に盛り上げ、禁門の変の敗北、親施の軍令違反による切腹、当時須佐領内における改革・恭順二派の対立等、須佐領内の政情が読みとれます。

こうした先賢、先達の残した記録を解明し将来に伝承することは意義深いことと確信します。東京須佐史談会のご活躍を祈念いたします。

平成十六年四月
須佐郷土史研究会長
伊藤 清久

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■    序    ■

幕末は徳川三百年の治世を結ぶ激しい動乱の掉尾であった。禁裏にあって尊皇攘夷派をリードした長州藩は、文久三年八月十八日に突如御所の衛戍を解かれ、官位剥奪の七卿とともに雨の中を都から放逐された。 公武合体派の会津、薩摩両藩の策謀によるものであった。

このとき屈辱を味わった在京の藩責任者のひとりが、長州藩永代家老・益田右衛門介である。
池田屋事件を契機に憤慨した国許では藩論が沸騰し、失地回復を図って右衛門介も藩命で捲土重来する。そのとき随行した家臣の波田兼明陣場奉行が軍中記録を綴った。この原本は右衛門介の采邑須佐に残されていたもので、 当時の公式記録と同じように簡潔に事実が記されている。出陣・配陣・敗戦と具体的で貴重な第一級の記録だと考えられる。

日記は元治元年八月末日で終わっているが、この年十一月には右衛門介は罪を問われて徳山に幽閉され、程なくその地の総持院で切腹を賜った。今年から数えて丁度百四十年前のことである。

今後、この随行日記に関連した更なる歴史資料や伝承、遺物が追加記録されると、幕末という混沌の時代解明の一助となり喜びこれに勝るものはない。

平成十六年四月
東京須佐史談会

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注1 元治元年(一八六四)三月、徳川幕府は横浜鎖港問題と長州藩処分問題を抱えていた。しかし参与会議は瓦解し、また筑波山に天狗党が挙兵した。これは前年818事件で京都を追われ長州に集結していた西南の激派にとって勢力挽回の絶好のチャンスとなった。

既に同年初めから武力で京都を再制覇しようと息巻いていた七卿真木和泉、また長州藩遊撃隊総督の来島又兵衛らはその進発を阻止しようとする高杉晋作等と激しく争論していた。高杉は、先ず長州でもっとしっかり基礎を固めるべきだとし、血気にはやった軽挙妄動を厳しく非難した。藩庁も脱藩進発を恐れてまず家老の国司信濃を長州藩の素志弁明の為上洛させたが、諸隊に次々と随行の命を出して仕舞った。しかもその随行軍を統制する軍用掛りに来島を任用し何とか激派の単独の暴発を制止しようとした。けれどもそれは、まるで狼に闘犬の統制を依頼するようなものであった。それだけに同年5月、進発した一行を大阪に迎えた桂小五郎らは、暫く滞阪して上洛を自重するように再び来島や久坂玄瑞らを説得した。しかし、来島や久坂らは「三奸(久光、慶永、宗城)退去、人心帰向(長州への同情の高まり)の両機」の今こそ、世子毛利定広が自ら上洛して朝幕に至誠赤心を披瀝し、藩の名誉を回復すべきであると強硬であった。激派の強硬論に押された藩庁は遂に6月4日、毛利定広の上洛を決定し、また筑波山の挙兵に慌てている幕府への陳情のため家老の福原越後の上府も命じたのである。

元治元年甲子6月5日、新撰組が
池田屋で長州藩士らを襲い7名を殺害、23名を捕らえると、激発した長州諸隊は一斉に上洛しようと元治元年6月21日大阪に着いた。諸隊は外国軍の砲撃を機に結成されながらも、決して郷土防衛の自主的民兵ではなく、血気と戦功にはやる尊攘派下士層の突撃隊に他ならなかった。何故なら、時既に英・仏・米・蘭四国の連合艦隊が本格的な報復のため下関に向かうというニュ―スに接していながら、諸隊は郷土の防衛よりも、京都での権力闘争に熱中していたのである。 

京都へは来島又兵衛が率いる遊撃軍約4百が22日に出発、次いで23日福原越後の軍3百が動いた。福原は表向きの目的を江戸に行って藩主父子の為に弁疎すると称したが、諸隊が過激な振る舞いをしないように鎮撫すると言ってそのまま伏見に滞留した。真木、久坂が率いる諸隊3百は23日夜半淀川を遡り翌24日午後山崎に上陸し
山崎から天王山にかけて布陣した。初め久坂らは山崎に入るや藤村幾之進大谷樸助をして朝廷に対する哀願書を携えて淀城に赴かしめ、藩主稲葉美濃守に託した。

『久坂義助特ニ大谷樸助、藤村幾之進ヲ選ンデ表ヲ齎シ、衆ニ先ジテ行キテ啓カシム。二人憤然直チニ淀ニ赴キ城門ヲ叩キ呼ビテ曰ク長門脱藩ノ士君侯ニ面謁シテ陳情スル所アラントス。時ニ稲葉公ハ征夷府閣老タリ、将ニ人ヲシテ二人ヲ逮捕セシメントス。樸助慍(いか)ッテ曰ク、我兵二人ノミ、敢テ力ヲ以テ抗スルニ非ズ。縛セント欲スレバ則チ縛セヨ。我等素ヨリ禁ヲ犯スヲ知ル、然レドモ主冤ヲ訴フルハ臣子の情誼、自ラ已ムコト能ズ。今一表ヲ持シテ懐ニアリ、径ニ君侯ニ達セシメバ此ノ身縛スベシ、此ノ表奪ウベカラズ、ト乃チ衆ヲ排シテ進ミ、此ヲ老臣ニ与ウ。侯二人ヲ客舎ニ延キ厚ク待遇セシメテ其ノ表ヲ還ス。二人曰ク侯ハ征夷府ノ政ヲナス、今天下ノ志ヲ通ズルコトヲ為サザレバ何ヲ以テソノ責ヲ塞ガン、然レドモ敢テ謂ワザルナリ、往キテ松平肥後守ニ達センノミ、而シテ我輩入京ノ禁ヲ犯スハ貴藩ノ之ヲ為サシムルナリ云々ト。老臣等言屈シテ遂ニ其ノ表ヲ受ク。二人辞シ去リテ天王山ニ至レバ、久坂義助等衆ヲ督シテ已ニ屯営セリ。実に六月二六日なり。』
                  (出典=津田常名著「回天実記」)

美濃守は一橋慶喜に伝え、慶喜は朝議を開いて百方宥解に努め無事を計ろうとした。しかし、7月に入ると嘆願を続ける一方で更に長州軍の上京が続き、家老国司信濃率いる兵8百余が
嵯峨天竜寺に入り、続いて家老益田右衛門介注4参照)の軍6百が後詰めとして男山(石清水)八幡に布陣した。益田右衛門介の上京は飽くまで過激な諸隊の行動を鎮撫することであった。しかし、武力上京する以上交戦の可能性が有ったので、出発に先だって次のように打ち合わせている。

『浪花川口淀川筋伏水其外所々之番所にて総勢被抑留候節は此般上京の趣意申達成丈け恭順之體を以及弁解可申候得共番卒共承順不仕候節は押て通行仕候外手段無之其節彼より砲撃又は干戈を以て相迫り候はば是よりも相応じ十分血戦に及び可申覚悟に御座候事』
                (「防長回天史」第4編上393頁) 

一方、幕府は近国諸侯に檄を発した結果、諸藩の兵士7、8万が入京し長州兵の攻撃に備えた。その兵力を特に嵯峨、山崎、伏見の三方面に配備し、嵯峨広隆寺に加賀兵、太秦に膳所兵、向日野に小田原兵、竹田街道は新撰組、伏見街道は大垣兵、水口、桑名兵は東九条に駐屯し、門内外にも諸藩の兵を配備して厳戒した。7月16日長州の哀訴嘆願を退け退去命令が出され、朝議が
長州討伐に決するや、遂に7月19日蛤御門の変(禁門の変)が勃発した。(注3参照)
    (出典=小学館「日本の歴史」23開国245頁以下、「防長回天史」第四編上)

注2 「嵩県秦兼」=波田兼明のこと。始兼善、八助、温人、与市。号嵩県。禁門の変当時益田家の陣場奉行であった。この随行日記はこの時益田右衛門介親施に随行した波田温人(与市)の記録である。

<読解文>

元治元年七月
旦那様
*1御事今般
若殿様
*2 京都御進発
御供被蒙仰近日
御発駕ニ付御供一件

七月朔日
兼て陣場奉行
注6被仰付
置候ニ付惣人数
注7ヨリ一日
早メニテ岩本織江
*3召連レ
爰許
*4今日出足の事
御付組中間
注8 孫七
騎馬口付御馬屋忠助
夜中生雲
注9 止宿の事

二日 
山口御旅館
*5申ノ刻*6 

*1  旦那様=益田右衛門介親施(ちかのぶ)のこと。殿様と言えば毛利敬親公を指し、親施公のことは旦那様と呼び殿様とは言わなかった。  
*2 
若殿様=萩藩世子、毛利定広公(元徳1839〜96)のこと。当時25歳。  
*3 
岩本織江=須佐の下士 
*4 
爰許=当地(須佐)  
*5 
山口御旅館=文久三年に萩より山口へ移鎮したときの山口の益田邸のこと。敷地面積2反、現在の山口市八幡馬場に在った。
*6 
申ノ刻=午後4時。

注3 禁門の変=「蛤御門の変」とも言う。禁門とは禁裏の門、出入りを厳禁した門のこと。蛤御門は元々「新在家御門」と呼ばれ、開かずの門であったが、宝永の大火(宝永5年、1708)の時に初めて開いたので、火で口を開ける蛤になぞらえて「蛤御門」と呼ばれるようになった。
 

注4 益田右衛門介親施=萩藩最後の家老、益田家第33代。幾三郎、越中、弾正。親施は毛利敬親の偏諱。号は霜台、翠山。蛤御門の変(禁門の変)の責任者の一人として切腹した。32歳であった。
益田氏は永久年中に石見に下向した藤原氏で、時代を経て現在の
益田市に土着して七尾城を築き益田と名乗った。慶長以前の益田氏は6万5千石、家臣1,015人であった。関ヶ原合戦以後、毛利氏に従って現在の須佐町に移った(注5参照)。その後の知行は現在の山口県阿武郡須佐町を中心とする1万2千石(天保13年)となった。毛利氏には毛利一門として6家があったが、益田氏はその次に位する永代家老とされ、宇部福原氏と共に毛利一門八家に数えられた。中でも須佐初代の益田元祥(もとよし)は、萩藩の財政を立て直した功績大であったと言われる。「萩の土塀はすさで持つ」と言われた。すさとは壁土の中に入れてひび割れを防ぐ材料で、麻や藁を細かく刻んだもの。歴代領主はまた教育文化を盛んにしたため、本藩に次いで多くの指導者が出た。享保年間(1716〜35)子弟を教育する育英館が創設され儒者や学者を生んだ。益田親施は家中の松下村塾への参加・交流を進めると共に自ら文武に励み、時事を論じ、兵学を修め、剣術、馬術に励み、家来達を激励したので、明治維新の大きな原動力となった。

なお、益田右衛門介
親施が禁門の変に係わる前後の経緯をここに記す。

@親施は文久2年(1862)より京都に上り、藩主父子を補佐して活躍した。文久3年6月18日には毛利敬親父子連書の建白書を奉る役を果たした。やがて攘夷親征の為
大和行幸が行われる準備をした。親施は朝廷の命により藩兵をもって禁門の守備をしていた。
Aところが
文久3年8月18日、突然一夜にして大和行幸の計画が変更され、萩藩に対して官位剥奪禁門の守衛が免ぜられ、謹慎を命ぜられた。親施(文久3年7月28日、右衛門介と改名)はこの事態に当たり、四方手を尽くして地位の回復を図ったが果たせず、三条実美等七卿と共に長門に帰った。(818政変と七卿落ち)長州藩は幕府の違勅を責めて反幕の世論を盛り上げることに失敗した。

『政変の計画は薩・会両藩士の手によって、隠密のうちに、敏速に、しかも細微にわたって立てられた。この間、二通りの詔勅が出た。攘夷親征、ついで攘夷の勅命を奉ぜぬ幕府追討へ、その発端となるべき大和行幸の詔が(長州藩七卿などの尊攘派に対して)出た裏では、それを打消す宸翰が密かに中川宮へ出された。松平容保を忌避する目的をもって、その東下を命ずる勅諚が出た2日後には、前関白を通じて、容保の離京は叡慮に副わぬ旨の宸翰が、内々手渡された。尊攘親征の宿望の達成を目前に控えて、もっぱら宮中への働きかけに熱中していた尊攘派(長州藩と親派公卿七卿)は完全に裏をかかれた。疾風迅雷、クーデターは一夜にして成功した。薩・会の武装兵によって宮門は固められ、かねて示し合わされた公卿のみが召しによって宮中に入り、武家伝奏・議奏の両役、国事御用掛・同参政・同寄人ら尊攘派荷担の公卿はことごとく差し止められ、朝廷首脳は、公武合体派公卿によって占められた。公武合体派は、暴論の徒が脅迫して叡旨を矯めたと、己の立場の尊王たるゆえんを弁護した。これにたいし尊攘派(長州藩と七卿)は、政変以前こそ真正の叡慮、爾後のものは、中川宮および薩・会の私意から出た虚妄であるにすぎぬとして、屈せず、
「御宸翰御諫争」と号して、兵を提げて、禁門の変を戦った。叡慮の真偽はまさに武力をもって争われたのであった』
                                                                                                                                 (出典=遠山茂樹著「明治維新」第3章)

B元治元年、七卿の一人錦小路頼徳逝去につき右衛門介は遺骸の供をして山口湯田に帰った。同年6月5日夜、池田屋事件発生。 憤激した諸隊の壮士達は続々藩地を抜け京都へ急行し藩主父子の冤罪を晴らすべく訴えようとした。この日、右衛門介は
小郡繁枝松原に於いて教練の節御供に召連れられ、総裁を仰せ付けられ、御黒印物頂戴、同6日山口に帰着。同月11日山口を出発して領分須佐に到着。(出典=「須佐町誌」167頁)
Cこれより先、長州藩は彼等の軽挙妄動を鎮撫する為、
高杉晋作を三田尻に派遣していた。しかし、目的を達しないばかりか、彼自身も無断で上京したので藩は彼を国に召し戻し役や知行を没収して野山獄へ投獄していた。周布政之助も6月14日以来50日の逼塞を命じられており、桂小五郎も京都に居たので長州藩には鎮撫役が居なかった。
D敬親は深くこれを心配し、
右衛門介に脱走兵の鎮撫を命じたのである。 6月15日右衛門介に対して急速上京の沙汰が山口より到着した。同18日右衛門介は敬親父子から黒印の訓令を授かった。同27日山口に出る。7月4日氷上山へ転陣。 
Eしかし、主命とは言え、一人で多数の兵士を鎮撫することは出来ないので、
兵6百を率いて7月6日に山口を出発、上京したのである。
F同月13日大阪到着。 翌14日同地を出発し山城国八幡に至り、男山山麓の六坊に舎営し、15日男山に上り駐陣した。この時来島又兵衛、真木和泉、久坂義助(玄瑞改め)その他の有志が来舎して協議した。
G一方、国元では藩世子が七卿中の五卿(三条西季知、四条隆謌、東久世通禧、壬生基修、三条実美)と共に兵を率いて海路進軍することになり、7月14日三田尻を出帆した。この時の軍勢は先鋒第二陣、斥候備、中軍、殿軍の他、病院船も二隻用意した。
Hしかし、洛外で待機し、隠忍自重朝廷に哀訴歎願を続けていた長州兵に退去命令が出たので来島又兵衛の熱烈な主張と真木和泉の同意により、世子軍の到着を待たずに
7月18日に洛中に進撃し「禁門の変」が勃発した。         (出典=「益田氏と須佐」172〜180頁)

注5 須佐町=山口県の北浦東端にあり、人口3,800の小さな町である。地名は須佐之男命が志良岐へ往来の時、この地を拠点とした事に由来すると言われる。須佐は関ヶ原の合戦(1600年)の後、益田七尾城主益田元祥公がこの地に移住した事により近郷7か村(須佐、弥富、江崎、上田万、下田万、小川、鈴野川)の中心として栄え発展した。ホルンフェルスと呼ばれる縞模様の海蝕断崖や、高山の磁石石などと共に風光明媚な自然の景観に恵まれ、須佐湾一帯は「西の松島」とも言われて北長門海岸国定公園の一部に指定されている。須佐港は山陰線の鉄道が開通する以前は北前船の寄港地であった。

注6 陣場奉行=この「随行日記」の筆者波田与市が陣場奉行であった事を意味する。38頁の元治元年8月23日の記述に「栗叔父小子并ニ…」とあるが栗山翁輔と波田与市との関係は増野家、栗山家の系図から、下図の如くなる

      

注7惣人数=「防長回天史」第四編上 393頁に

『時に益田右衛門介東上の命を受け此月(七月)二日手兵三百を率ゐ山口に来る。右衛門介将に世子に先ち発せんとするを以て五日公之を便殿に召し見て物を賜う (中略)同日世子従衛の中軍前備を毛利伊勢に命ず。六日益田右衛門介兵六百を率ゐ内三百は手兵なり途に上る』

とあり、須佐からの軍勢の数は約3百とされている。この随行日記に記載の陣所人数を合計すると兵数273人 である。山口から出陣した兵力は本藩からの兵を合わせて6百の軍勢であった。 須佐兵以外の3百がどこの兵であったか、その陣場奉行は別人であったのかなどは不詳。須佐・邑政堂の日記に次のような記録がある。(抜粋)

『(六月廿九日)来月御上京の段御到来在り、惣人数来月三日までに山口出浮候、船にて萩廻り罷出候、萩までの兵糧は自身、勘渡は仰付られず、御心付け下され候、家老より四組の士は月別金弐分宛、知行持家業人并無給同断、 月別金壱分弐朱宛、三固屋御中間分、月別金壱分宛被下候、号砲壱発御触面の揃場へ出揃、同壱発を合図に乗船』(出典=「月番日記」108〜9頁)

注8 中間(ちゅうげん)= 武士と小者との間にあって雑務に服する卒族の称。 (出典=山口県近世史研究要覧109頁)普通一般には「折助」と云った。表向きの呼び名は仲間、 小者、下男、下僕と称えた。(出典=「風俗江戸東京物語」)

注9 生雲(いくも)=萩や須佐に通じる交通の要所)。萩から山口に至る街道筋は@萩→福井→生雲→地福→ 篠目→山口A萩→明木→佐々並→山口の何れかであった。Aの方が近い。宿場本陣は大庄屋大谷忠兵衛で、藩主から名字帯刀を許されていた。その妹富子は藩医久坂玄機とその弟玄瑞の実母である。
(出典=「山口県近世史研究要覧」37頁、「益田氏と須佐」166頁)

着 直様当役大田丹宮*1
増野作左衛門*2御届申出
尚 御前
*3被召出御上京
一件被仰聞 直様此度
氷上山
*4御貸渡相成候
ニ付同所罷越致木屋
*5候事

三日 氷上山滞留夜中
惣人数出浮
*6の事

四日
旦那様御事氷上山御
転陣被遊候事

五日
旦那様御事明日爰許
*7 
御発駕ニ付一日御先

*1 大田丹宮=益田家上士(大組)73石。
*2
増野作左衛門=益田老臣
*3
御前=「御前」とは益田親施公の事。親施公は6月27日山口に来ていた。
*4
氷上山=山口市大内御堀氷上の興隆寺の山号。転陣とは山口の益田邸から氷上山へ移った事を意味する。
*5
木屋割=「木屋」は本来は薪炭小屋で、納屋・小屋のこと。部屋割の意か。
*6
出浮=出向く。ここでは須佐兵3百(この日記によれば273人)の総人数が須佐から山口,氷上山に到着した事を意味する。
*7
爰許=当地(山口)。

越ニテ多根順左衛門*1
同道今日四時
*2出足ニテ
三田尻迄罷越候事
五日七時
*3三田尻*4着直様
舟一見夜中ニ致舟割
尚又当所宿仕向等
相調置同夜直様乗
船の事

 御先越人数
   波田與市
     道具持壱人
     組中間孫七
   多根順左衛門
     道具持壱人
     組中間勘平次
   岩本織江


*1 多根順左衛門=益田家上士(大組)、25石。多根卯一は順左衛門の二男。
*2
四時(よつどき)=ここでは午前10時  
*3
七時(ななつどき)=ここでは午後4時。
*4 三田尻=現防府市。毛利氏水軍根拠地で海上交通の中心地であった。

注10 乗船=波田はどのような船に乗ったのであろうか。兵隊はどのような船に乗ったのであろうか。『…来島は勿論、国司信濃等都合一千余人、船数三六艘、外に本陣船一〇艘都合四六艘、七月四日三田尻出帆、炎暑の節に付き、船中にて疲れ候ては働き出来難き由にて、一艘へ二、三〇人乗組み、出船前一同へ金二両づつ御下げ、尤も此の内にて船中賄代相払い候由、…』(出典=金指正三編「近世風聞・耳の垢」、青蛙房)という記述がある。須佐兵の進発の模様も概ね同じような状況であったのではなかろうか。  

   

打廻注11
      忠之丞
     陣場付中間
      八左衛門

七月十日
大阪着岸坂田屋
小七
*1方止宿内藤磋助注12 
居相ニ付京都様子致
聴聞同人を以御屋敷
*2
頭人
注13北條瀬兵衛*3迄為
御先越登坂の段相
達候事

仝十一日
御屋敷罷出北條
瀬兵衛・宇佐川甚七郎
*4
斎藤
*5□致相対

*1 坂田屋小七=大阪常安橋にあった宿屋。
*2
御屋敷=萩藩大阪藩邸。

*3 北条瀬兵衛=北条氏輔、子竜、清輝。後の伊勢小淞。禁門の変の時には大阪藩邸留守居役。明治19年没。
*4
宇佐川甚七郎=一代無給、高弐人(扶持)壱拾弐石五斗。(萩藩給禄帳)
*5
斎藤=萩藩士

注11 打廻(うちまわり)= 各役職に追従した従者にして、 探聞、報告、聴訴、警戒などをする人。(出典=「もりのしげり」287頁、294頁)
注12  内藤磋助=内藤磋亮。益田家上士、大組(50石)。幼名与十郎、 のち勝重、与三右衛門。天保12年8月23日生、郷校・育英館に学ぶ。松下村塾生との交流のとき須佐から派遣された7人の1人となった。最年少で17歳であった。 吉田松陰は荻野隼太(佐々木貞介)への手紙の中で「内藤生勉強候哉、なかなか心に懸り候也」と書いている。21歳で出仕、翌年益田親施の側役となった。 禁門の変に参加、久坂玄瑞や宍戸九郎兵衛などに会い、器械を買って山崎に着陣、来島又兵衛の戦死を見たようだ。明治になってからは田万村で少年達に学問を 教え学制頒布を受けて教師となった。

注13  御屋敷頭人=萩藩大阪藩邸留守居役。大阪頭人、大阪都合人、大阪御屋敷居 などとも言う。慶長12年に設置。爾来、大阪藩邸の庶務を管轄すると共に、大阪豪商に対して米銀などの内借融通の交渉に当たり、藩財政上重要な役職であった。 大組250石以上の士を任じた。その管轄下に大阪銀子方、大阪船頭、淀舸子などがあった。長州藩の大阪屋敷は、大阪蔵屋敷、大阪福島蔵屋敷、大阪富島蔵屋敷の 3カ所であったが、御屋敷頭人が居たのは大阪蔵屋敷、現在の土佐堀常安橋傍で3,369坪余の広さであった。  (出典=「もりのしげり」195,313頁)   

旦那様近日御登坂
ニ付御先越ニテ罷越
候段相達候事

十二日
夜中
旦那様明日当り御着
岸の様子承り候事

十三日
早朝ヨリ多順
*1同行ニテ
忠之丞召連小舟相雇
川口
*2罷出相待居候処
八時
*3過川口迄
御舟御登ニ付両人共
御舟罷出


*1 多順=多根順左衛門  
*2
川口=安治川右岸の川口に番所があった。現在の大阪市西区川口で今は倉庫街。
*3
八時(やつどき)=ここでは午後2時 

御伺申上直様御屋敷
迄御供かへり候事
申ノ下刻
*1
御屋敷迄御機嫌能
御着船被遊候事

旦那様御事今夜より
直様山崎
注14陣所迄御
越被遊候ニ付陣場一隊
*2 
召連御先へ罷越候事

十四日
九時
*3山崎陣所笠寺*4注15
久坂義助
注16致相対御陣
所相尋候処八幡山
*5
勝由被申候ニ付世話役


*1 申ノ下刻=下刻は江戸時代一時を「上刻」「中刻」「下刻」に3分割したうち最後の時刻。申ノ下刻は午後5時頃。 
*2
陣場一隊=8名。須佐の軍勢は大阪に留まらず山崎へ直行させたものの如し。 
*3
九時(ここのつどき)=正午。  
*4
笠寺宝積寺(通称「宝寺」)の誤りと考えられる(或いは宝寺の隠語か)。
*5
八幡山=男山のこと。

注14  山崎= 淀川の右岸、京都府と大阪府の県境、京都府乙訓郡大山崎町から大阪府三島郡島にかけての一帯で明智光秀と豊臣秀吉が戦った「山崎の戦い」は天王山(標高270b)の東山麓で戦われた。 天王山は木津川、宇治川、桂川の合流地点に位置し、対岸の男山(石清水八幡宮がある)と共に京阪間の交通を扼する戦略的要所。川を渡ると京都であるが、当時長州藩は入京を禁じられていたので、此所(山城国)に布陣して冤罪を注ぐべく哀訴を続けた。禁門の変で敗れた真木和泉は他の浪士と共にここで自刃した。山頂に墓がある。麓を通る「西国街道」「山崎通」とも呼ばれ、京都東寺口から桂川を渡り、久世、向日、山崎、郡山、から昆陽を経て西宮で中国路と合流する。東寺口から山崎までを「唐街道」とも言う。摂津国と山城国の連絡路で、西国大名などが枚方経由よりも近道であることから利用した。途中唯一の本陣である郡山(茨木市)には椿の本陣(国史跡)が現存する。
                                                      (出典=「日本史広辞典」1489頁、2143頁 http://www.town.oyamazaki.kyoto.jp/

注15 笠寺=観音寺の南に現存する通称宝寺の事か。補陀洛山宝積寺と号す。真言宗。説話の一寸法師は当寺で修行したことになっている。寺伝によれば養老7年(723)11月23日、竜神が唐土より万宝第一(何事も叶う)の打出の小槌を我国に伝来。翌神亀元年(724甲子)、聖武天皇が行基菩薩に勅命して宝積寺を建立し、打出の小槌を奉納した。しばらくして御本尊大黒天神を印度より招き祭ったと言う。蛤御門の変の時、長州軍は此所を本陣とし、益田親施が後詰めとして滞陣した。「随行日記」で何故この寺を「笠寺」と呼んだのかは不明。        (出典= http://www.h4.dion.ne.jp/~utide/story.html 

注16 久坂義助久坂玄瑞のこと。幼名秀三郎、のち誠、義助と改めた。字は玄瑞、実甫、号は秋子、江月斎という。父は藩医であったが幼少の頃から才智抜群、医家となることに満足せず、17歳で吉田松陰の門下生となり、翌年松陰の妹と結婚し杉家に同居して松下村塾の教育を補佐した。 安政5年京都、江戸に留学し尊皇攘夷運動の急進派の雄となった。禁門の変で幕府軍と堺町御門で戦い流弾を受け、自刃した。時に25歳であった。  (出典=「須佐育英館」110頁)


厚田耕作*1并田村育蔵注17 
同道ニて男山
*2罷越彼
地出張相成居候松
宮相良
注18ト申仁致相対
御陣所配定候事
旦那様八過時
*3御出
中の坊
注19一応御着陣
被遊候事

十五日
旦那様御事阿伽井房
 
注20
御転陣御本陣相定
候事

御陣所配定
左之通 


*1 厚田耕作=如何なる 人物か不明。 
*2
男山=京都盆地の南、木津川、宇治川、桂川の3川合流点の南に位置 する標高140mのこんもりとした山。石清水八幡宮がある。平安時代に八幡宮が建てられて以来神域として保護されてきたため、天然林が数多く残っている。 麓は水運が発達し、京都と西国を結ぶ経済・軍事上の重要地点。中世には多くの関所があった。
*3
八過時=午後2時 

注17  田村 育蔵=(1836ー1864)諱を直道という。生まれは山本家であるが領主益田氏 の家医田村家を嗣いだ。育英館で学び、長じて萩に出て医学を青木周弼について学び、後江戸に出て伊藤玄朴の門に 入り、遂に塾長にまでなった。人となりは勇壮で節義を重んじた。勤王の志士久坂玄瑞と深く交際し、力を勤王に尽くした。元治元年七月蛤御門の変が起こり 玄瑞と一緒に鷹司邸に入り防戦して戦い利あらず遂に自殺する。享年30歳。死に臨み一指をかんで絶命の辞を血書して家に寄せたと言われる。明治21年靖国神社 に合祀された。    (出典=「須佐育英館」113頁)

注18  松宮相良=(井手孫太郎)大野毛利家家臣。早くから勤王の薫陶を受け、 林半七、白井小助らと第二奇兵隊を作った。蛤御門の変では久坂玄瑞の下で活動した。大野毛利家の改革にも乗り出し治績を見たが、四境戦争後に妬む者があり 殺された。享年29歳。 

注19  中の坊=須佐の軍勢は「男山山麓の六坊に舎営し、15日男山に登り、 駐陣した」(「益田氏と須佐」175頁)とある。この「随行日記」で六坊とは中の坊、阿伽井、大乗院、泉之坊、辻本坊、豊蔵坊の六坊であることが判る。 石清水八幡宮)の社坊は神仏混淆で盛時には「男山四十八坊」と言われたが、 安永二年(1773)の男山の火事で多くの社坊を焼失した。江戸前期の「八幡山山上山下惣絵図」 (国立公文書館蔵)により往時の様子が窺われる。江戸時代末には23坊が存在していた が、戊辰戦争で一部が焼失し、更に明治の神仏分離令で坊の全てが取り壊された 。なお、長州兵が男山を占拠する以前は、男山の麓にあった橋本関門 は宮津藩兵が守っていた。  (出典=「史跡松花堂」 ・ http://www.iwashimizu.or.jp/5/index.htm ) (「防長回天史」第四編上五263頁) 中の坊は「男山考古録」によれば南大阪路(男山山中の道の名前)の西にて、豊蔵坊の下隣中谷口に在ったと記されている。慶長8年(1603)以降、岡山藩 池田氏より燈明料60石寄進有り。

注20  阿伽井房 =閼伽井坊。現存しない。「閼伽」はサンスクリットのアルガの音訳。 水、功徳水、又はそれを入れる容器を閼伽という。  閼伽水を汲む井戸を閼伽井と言い東大寺二月堂の若狭井や教王護国寺灌頂院の閼伽井などがある。閼伽井坊は東谷より大阪(男山山中の道の名前)へ出る道の 曲角にあった。西方は山に傍てあり。當坊の南近き辺り、櫻井又は閼伽井があったので此名を負たりという。 (出典=「石清水八幡宮史料叢書1」 「男山考古録」)


八幡町筋
  大乗院注21 
御先手   九人
*1

同 町筋
  本妙寺注22 
御先手   九人

  泉之坊注23 
御先手  廿二人
陣場一隊  八人
斥候    三人
大砲隊  廿六人

  本坊 注24 
御先供
*2  十六人
戦士隊 三十七人
三器
*3    五人

*1 須佐兵とは別に、長州軍全体ではもっと大きな兵力を山崎に配備していた。 「幕末防長勤王史談 第六」P957では「忠勇隊は天王山、集義八幡の二隊は八幡宮、宣徳尚義の二隊は大念寺、義勇隊は観音寺に、そして天王山に本隊を置いて、 多くの篝火を焚き、大いに京都を威嚇すべく豪勢の姿勢を示した」と述べている。 
*2
御先供=主人の先に立つ供人(ともびと)   
*3
三器=鐘、太鼓、貝を指す。「京都御進発御備組」7頁参照。

注21  大乗院=現存しない。「八幡山山上山下惣絵図」を見れば現在の 京阪電車八幡市駅前広場辺りにあった事が判る。 (「石清水八幡宮史料叢書1」の 「男山考古録」418頁参照)

注22  本妙寺八幡市に現存する 日蓮宗の寺。城内町道の西側にて山裾の深く入たり。当寺建立願主竹内伊豫守。柴座町東側住社士松田介次郎秀知なり。 元本妙寺に向道の東側に住たり。元山上中坊住職還俗して、勇士なり。織田信長公に仕えて武功あり、美豆村左右馬寮地を預り、再男山に帰るに付、子細在りて 山崎社人松田何某猶子にて、以来松田と改。瀧本坊昭乗を幼名鷲之助養育せしは此人也。 (出典=「石清水八幡宮史料叢書1」「男山考古録」)

注23  泉之坊=東谷道より東側下坊の南に隣る。往昔祓谷飛泉在て此名を負たる歟。  (出典=「石清水八幡宮史料叢書1」の「男山考古録」307頁)
明治の神仏分離令で石清水八幡宮 の坊の全てが取り壊された時、東谷(男山中腹、石清水社のそば)にあった泉坊の客殿は山麓に移され、その後更に泉坊にあった松花堂および庭園と共に
東車塚古墳(現在の地)に移築され京都府指定文化財として、また国の 史跡「松花堂」として現存している 松花堂弁当発祥の地として知られている。

注24辻本坊現存しない 。もと西谷にあり。文化年間(1804〜18)に旧井関坊跡に再興 。往古は皇居に準ず。中世荒廃し、延宝年間(1673〜81)再興 (出典=「石清水八幡宮史料叢書1 男山考古録」)  「迁」は「辻」か?「迁」は「遷」の異体字である。併し「石清水八幡宮史料叢書1  男山考古録」では「辻本坊」と呼んでいる。八幡山山上山下惣絵図では「辻本坊」と書かれているが、「細見男山放生会図録」(文政4年)の絵図に 「迁本坊」と書かれている




中軍引供*1 十四人
猟師
*2    十五人
新衆
*3    六人
*4      四人

    阿加井坊 
御本陣
 御近習  十三人
 惣軍見合
*5 一達五人
 御小人手明
*6  四人
 御簑持   一人

    中之坊 
医隊
*7     十六人
小荷駄隊
*8 十三人
新衆     五人
殿隊     三十一人


*1 引供(ひきぐ)= 主人の後を守る兵か。 
*2
猟師=鉄砲隊 
*3
新衆=新兵。四境戦争の頃は 生兵(せいへい)と言った。
*4
(おさえ)=軍監
*5
惣軍見合=参謀本部か。
*6
手明=手明格。草鞋取り等と同様卒族(足軽と同じ、二人扶持)が担当 した雑多な職種の一つ。古くは上杉謙信の軍役帳にも見られ、甲冑、打物(刀剣)、籠手、腰指(こしさし、小刀)を身に付けていたというから武士であろう。
*7 
医隊=陣僧、医師、祐筆、記録などの総称。 
*8
小荷駄=(戦場で)馬に負わせる荷物。軍隊の糧食。「月番日記」 元治元年6月19日の項に「具足の儀は風呂敷包ニシテ来る廿一日 迄に小荷駄方へ可被差出候」、29日の項に「器械衣類共小荷駄方差出候処…」との記述有り。