在レバ、兼重五郎四郎等ハ一貫野村*1引拂ヒ帰須スベシトノ命アリ。
奇兵隊ハ軍監 林半七ヲ以テ 須佐処断事件ノ担任ト定メ、山口滞在ニテ
政事堂ノ議事ニ参与セリ。尚参謀 福田良助、参謀兼書記□□□□、□□ 片野
十郎等ノ諸氏モ時々出山*2、大ニ周旋スル処アリ。
同十六日 御手廻り総代市山淳蔵始六名少輔、泰蔵、仁蔵、浪江、健三
并ニ栗栖鬼助
宇野魁助・松井平輔等突然幽囚セラル*3。其他御手廻ノ内冤罪ニテ所
罰セラルヽ者多シ。栗山百合熊即夜出発、山口諸隊会議所*4ニ至リ
大橋三樹三ニ面接シ、同伴政事堂ニ出頭シテ広沢氏ニ報知セシニ広沢
氏曰ク 幽囚ノ諸氏暫ク忍ンデ静穏ナラバ其命ニ関スル程ノ急ハアルベカラ
ズ。已ニ代役召喚ノ命ヲ発シアレバ、不日着山ノ期ニ接セリ。安神スベシトノ
答ニ依リ退出シ、百合熊ハ帰邑ス。
百合熊出山ノ後、中村藤馬隊用ニテ帰邑シ、事畢リテ出発セシニ
*1 一貫野=P44脚注*2参照。
*2 参謀兼書記 □□□□ □□ 片野十郎等ノ諸氏モ時々出山=草稿本には□□□□ □□の個所に「時山直八 書記」が挿入されている。こちらが正しいと思われる。 尚、乙丑二月改の「奇兵隊人数附」によれば参謀 福田良輔、参謀兼使役陣場見合 時山直八、参謀兼旗奉行 片野十郎となっている。(出典=「山口県史」史料編 幕末維新6 992頁参照) *3 同十六日 御手廻総代 市山淳蔵 始六名 并ニ栗栖鬼助 宇野魁介 松井平輔等 突然幽囚セラル=何故幽囚されたのか不明なるも128頁の終わりの7行の記述参照。。 少輔=山下少輔。益田家臣、中士、御手廻組。P1262〜3行目参照。 泰蔵=松原泰蔵(泰三、)益田家臣。中士、御手廻組。 仁蔵=松原仁蔵。益田家臣、中士、御手廻組。 浪江=大塚浪江。益田家臣、中士、御手廻組。 健三=中井健三。益田家臣。中士、御手廻組、回天軍。 *4 諸隊会議所=P123脚注*8参照 |
上小川村ニ於テ多根卯一ノ農兵ヲ指揮シテ其途ヲ遮ラシムルニ遭ヒ、遂ニ捕
ヘラレタリシモ邑政堂ニ至リ弁解宜キヲ得テ免ガレタリ。
同廿四日、御代役須佐発駕ニテ出山アリ。本藩政府ニテハ御政務 国貞直人
氏、御目付 杉 篤助氏*1主任トナリ、奇兵隊林半七氏、鴻城学校*2督学
坂上忠助氏*3等其事ニ参与シテ俗論党処罰ノ御沙汰書 及 大谷
樸助・河上範三 二氏罪状取消シノ御沙汰書ヲ調ヘテ御代役ニ下渡
サレタリ。
十月十二日、御代役山口発駕。萩ヲ経テ帰須。翌十三日着須アリ。
同十四日、邑政堂役員ノ更迭其他改革ノ令ヲ発セラル。
御領分外隠居 元職役 益田三郎左衛門
永々遠嶋*4 元当役 栗山 翁輔
御領分外隠居 御用人 多根 順左衛門
*1 杉 篤助=
*2 鴻城学校=「回天実記」の編纂が明治3年3月3日で鴻城学舎の創立が明治8年では時期が合わない。すると明治3年は「回天実記」編纂作業の着手の年で完成は明治8年以降かという疑問が生じる。 *3 坂上忠助=初名恒、後に忠介、寓所と号しまた作楽山樵と号す。晩年冲所の号あり。萩藩寄組口羽氏の家人なり、中村牛荘に学び、また江戸に赴きて安積良斎、羽倉用九の門に学ぶ。 嘉永安政の際諸藩有志の士と交わり正義を唱う。安政中美祢郡に移りて教授す。4年擢でられて明倫館教授となる。文久2年江戸有備館教授に転ず。馬関の役に命を以て九州諸藩に使いす。 慶応2年須佐学校の教授となり、居ること11年、明治9年前原の乱に連座して京に錮すること3年、尋いで塾を京に開く。22年東京に移り、23年10月14日没。年73。詩集一巻あり。 *4 遠島=流刑の一つ。罪人を萩沖合の見島大島などに島流しにすること。有期と無期があり、有期はおよそ2年以上であるが、処刑の際にはあらかじめ刑期を定めず、 配流後の情状によってこれを召還した。無期(永遠島)は武士庶民ともに罪状によって決するが、非常の大赦でないと召還せず、死罪を一等減じて遠島に処した者は、10年を経過しないと情状酌量の詮議がされなかった。 (出典=「山口県史」史料編 幕末維新1 1059頁) |
仝 上 仝 上 波田 与市
永々遠嶋 北強団 多根 卯一
遠 嶋 仝 上 仲井 半四郎
仝 上 仝 上 宅野 太郎
仝 上 仝 上 山崎 十郎左衛門
逼 塞 仝 上 松野 重内
仝 上 仝 上 内藤 磋亮
大谷午太郎
右父樸助義 先年来正義ノ志厚ク
為国家*1令尽力周旋候処 却而罪科之処置ニ有之 御不便
ニ
*1 為国家(こっかのため)=長州藩のため。幕末の日本ではまだ統一国家としての国家意識はなく、国家とは夫々の藩の事であった。
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被思召候 依之罪状御取揚 火中ニ被仰付候条 深
御仁恵ノ程感戴被仕 正義ノ志ヲ励ミ 往々可被遂忠勤
候事
丑十月
右御処分ニ就テハ 奇兵隊牧小太郎・英 次郎・村上研吾・玉川小文吾・
木村敬助等御代役ニ従ヒテ帰邑スベキノ命アリト雖モ、都合ニ
依リ十四日発程帰須セリ。然ルニ御発令後数日ヲ経過スルモ俗論党
処罰ノ実行挙ラザルヲ以テ、村上研吾・玉川小文吾等ハ実況報知
ノ為出山シテ林半七氏 須佐行ノ事ニ決シ、研吾・小文吾等ハ吉田本
営ニ帰リ、山下範三郎、林□□ニ随行シテ須佐来着アリ。本町須山
平助宅ニ投宿、御代役ニ面会シテ御沙汰ノ通リ神速実行ヲ挙
ゲラレ度旨ヲ述ベテ督促セリ。仍テ或ハ配所ニ護送シ
主なる人物に対する処罰は次のように実施されたことが判明している。(出典=「温故」第十六号 益田三郎左右衛門の「江崎滞留中日裁」)
◆益田三郎左右衛門=慶応元年10月25日に須佐の隣村、江崎(現萩市田万川)の庄屋・造り酒屋大谷六郎左衛門宅へ居候。気分相につき介抱役として夫人、下女1人、中間1人を連れて引越した。 翌慶応2年5月18日許されて家に帰る。この時波田与市を同道して帰邑した。 ◆栗山翁輔=慶応元年12月7日渡海。流刑先は大島と思われる(「温故」70頁「今朝六ツ時官治帰須佐之事 大嶋より之書状官治持参之事」とあり前後の文脈から大嶋から届いた翁輔の書状のことと考えられる)。 荻野隼太(佐々木毅)の「松■遺稿」には「栗山嵩涯墓誌銘」として「乙丑国内之乱 邑亦生党議 事連執職 先生以下用事者 羅織罪累 投竄不留一人 雖然先生之在配所 県官某 以有旧故 待遇甚厚 至使先生忘幽厄之苦 以丙寅某月 遇赦帰家」とあり、同じく慶応2年(丙寅)に釈放されている。「某月」とは恐らく5月18日であろう。(■=手偏に敦) ◆波田与市=慶応元年11月24日に引越。引越先は不明だが、益田三郎左衛門の「江崎滞留中日裁」では与市は屡々三郎左衛門を訪問しており赦免された時は三郎左右衛門と一緒に須佐に戻った。 |
或ハ門戸ヲ閉鎖シ各其罰ヲ畢レリ。
是ニ於テ奇兵隊ヨリ帰邑ノ四名モ元回天軍惣代トシテ主家へ対スル敬礼ノ
為メ差控ヲ申出ルニ決セリ。其覚書左ノ如シ。
覚
去冬已来御内輪正俗両立ノ件ニ付而ハ 乍不及私共御国家
ノ御為筋ヲ一途ニ相考尽力周旋仕候義ニ御座候得共 自然
不一方御厄害ニ立至リ候段 幾重モ奉恐入候 依之先差控居
候間 此段宜敷様御沙汰被成下候 以上
丑 十一月廿三日*1 津田公輔
英 次郎・山下範三郎・木村敬助等同文。故ニ 略之。
右覚書ヲ出セシニ各逼塞*2ノ沙汰アリ。但 英次郎 *3ハ萩居住ナル故ニ其命ナシ
同廿六日 牧小太郎等逼塞ヲ免サル。
*1 十一月廿三日=十月廿三日の誤りか。次頁に「十一月三日」の記述有り、日付が戻るのは不自然。
*2 逼塞=江戸時代、武士に加えた刑。門を閉ざして昼間の出入りを禁じたもの。 *3 英次郎=村岡彦十郎変名。益田家臣、回天軍、奇兵隊。「萩居住ナル故ニ其命ナシ」と言うのは、萩益田邸内に居住していたからか、それとも萩市内に居住していたが萩は益田領ではないから と言う意味か、いずれであろうか。 |
同廿七日 林半七氏発程帰陣アリ。
十一月三日*1 牧小太郎・英次郎・ 山下範三郎・木村敬助等奇兵隊ニ帰ル。
同廿二日 須佐ヨリ御直使増野善右衛門・松原齢助等吉田駅来着、
奇兵隊本陣ニ至リ昨年以来弊邑混雑ニ就テハ多人数入隊シテ御厄
害ニナリタル由ヲ謝シ、今般平和混一ニナリタル上ハ軍事手組*2ニ差支モアレバ
除隊ノ取計ヲ乞フ旨ヲ頼談セシニ、奇兵隊ニハ隊中規則モアレバ妄ニ除隊
ヲ為スベカラザルハ勿論ナレドモ貴藩ヨリ入隊ノ諸士ヘ熟議ノ上回答致スベキ由ヲ
答ヘタルニ依リ善右衛門等帰須セリ。
慶応二丙寅正月廿七日 須佐ヨリ大田丹宮・増野善右衛門・金子新蔵
大谷岩尾等ヲ奇兵隊ニ遣ス。丹宮等曰ク
昨年□□□*3弊邑入隊者除隊
ノ件相伺ヒタリシニ尓後回答無之ニ依リ来隊セリト。奇兵隊
ハ御神本家当時益田ヲ改メテ御神本ト称ス
御同列中ニ於テ 鈴尾家当時福原ヲ改メテ鈴尾ト称スノ如キ多人数
*1 十一月三日=江崎へ領外追放になった益田三郎左衛門の手記「江崎滞留中日裁」(温故第十六号))によると、11月4日の項に、
この頃須佐藩はミネー小銃百挺調達を計画し、益田丹下が繋ぎ融資金策のため追放中の三郎左衛門の元へ相談に来ている。四境戦争に備え須佐藩でも
急遽武装強化を図りつつあった事が判る。
*2 手組=部隊を編成すること。 *3 「昨年□□□」=文書館本の記述に基づいて補筆した。 |
ノ入隊ヲ許シタル例アレバ御神本家ノ名家ニシテ当入隊員ヲ減ジタレバトテ 御
軍制上□□□影響モアルマジク*1
加之在隊員ニ於テモ邑中既ニ平和ニ帰シタレバ、北
門*2要衝ニ当ルベキ応分ノ責任ハ尽シ難キニ非ラザルヲ以テ、本隊ニ入ル者ハ益々
奮テ報国ノ赤誠ヲ顕シ、益田家即チ御神本家ノ光輝ヲ発揚セントスル
ノ精神ナル由ナレバ、除隊ノ件ハ諾シ難シト回答セリ。
同廿八日 大田丹宮等本陣ニ至リ更ニ応接ヲ開キタルニ、須佐ヨリ在隊員ノ内
二名帰休ヲ命ズベキニ依リ、帰休中適任ノ御用ヲ命ゼラルベキハ*3勿論御随
意ナリ。除隊ノ事ハ貴命ニ応ジ難シト断然謝絶シテ局ヲ結ビ丹宮
等帰須セリ。
二月十四日 隊命ニ依リ坪嶌正三・玉川小文吾等帰休セリ *4。
三月十四日 坪嶋正三・玉川小文吾等帰陣セリ。帰須ノ日、直ニ邑政堂ニ出頭シテ
去月大田丹宮等来隊ノ際入隊員ノ内二名帰休ノ約アルヲ以テ、当度
*1 「御軍制上□□□ノ影響モアルマシク」=文書館本の記述に基づいて□□□の部分を補筆した。
*2 北門=北長門。 *3 「帰休中適任ノ御用ヲ命セラルベキハ」=文書館本は「適任」ではなく「適当」と記述している。 *4 「坪嶌正三 玉川小文吾等帰休セリ」=文書館本は「帰休」ではなく「帰須」と記述している。 |
撰バレテ帰休セシ由ヲ届出タリト雖ドモ、滞須中一ノ公用ヲモ命ゼラレザリシト復命ス。
同廿四日 政事堂ヨリ御政務国貞直人氏須佐行ニテ大谷丈右衛門
宅*1ニ投宿シ、邑中ノ実況ヲ視察シ家臣一般大会議ヲ開キテ益親
睦ノ情ヲ厚カラシメント欲スルニ依リ、奇兵隊入隊者除隊帰邑ノ命アランコトヲ
山口ニ通報ス。仍テ政事堂ヨリ吉田本営ニ向テ其旨ヲ達セラル。然ルニ在隊
者ハ曩ニ大田丹宮等来営ノ際陳述セシ精神*2
ナレバ、本陳ヨリ在隊者ノ
内 出山、直接ニ政府ニ具申スベシトノ内諭アリ。
同晦日 村上研吾・坪嶋正三吉田発程山口ニ出タリ。
四月一日 山口伊勢小路*3 諸隊会議所詰、奇兵隊時山直八ニ面会シテ出山
ノ事情ヲ陳述セシニ、時山氏ハ御政務山田宇右衛門*4ニ計ルベシ、同氏ハ後河原*5
ニ在寓セリ。余モ同行スベシトノ事ニテ直ニ山田氏ヲ訪ヒ、其情実ヲ細陳ス。山田氏
曰ク政府国貞直人ヲ須佐ニ遣ハシヽハ奸賊御処罰後ノ状況ヲ視察シ、益一和
*1 大谷丈右衛門宅=浦本町にあった。170頁参照。
*2 曩ニ大田丹宮等来営ノ際陳述セシ精神=149〜150頁参照。 *3 伊勢小路=伊勢大路(益田に向かう国道9号線が山口市内一の坂川に差し掛かる手前、武徳殿前交差点を斜め右に進む道路)の誤りではないか。 *4 山田宇右衛門=名は頼毅、号を星山または治心氣斎という。安政元年浦賀防御惣奉行参謀、同2年7月外艦応接掛として相島に出戍。文久元年英艦赤間関に泊するや 山田亦助と命を受けて出張。2年2月抜擢されて参政となる。8月学習院用掛となって上京し勤王の事に鞅掌す。帰国してまた参政となる。3年奥阿武郡代官。 慶応元年表番頭格に進み兵学教授。2月参政に復し大いに藩政を改革し兵備を拡張し幕兵の来攻を待つ。四境の変勲功多し。3年5月参政の首座に班し民政方改正掛となり 木戸孝允と力を合わせて藩政の刷新を図り、かねて少壮を誘掖し他日の発展を期す。同年11月11日病没。享年55才。 *5 後河原=(うしろかわら)現山口県立山口図書館北側一帯の町名。 |
親睦ノ団□ヲ形□クランガ為ニシテ、即チ
卿等ノ主家御神本氏*1ノ将来ヲ慮カラルヽ
君侯*2ノ恩命ニ出タリ。卿等従来正義ノ首領トシテ東西ニ奔走シ、
砕身粉骨
セシ結果今日ノ恢復ヲ見ルニ至レリ。然レバ卿等自今
御神本家ノ柱石ト為リテ
愈国家ノ大計ニ注目セズンバアルベカラズ。幸ニ政府ノ奇兵隊ニ命ジテ除隊
セシメントスルアリ、此機ニ際シテ其命ニ応ゼザルハ功ヲ一簣ニ闕クモノナリト懇篤
丁寧ニ諭説*3セシヲ以テ、研吾等情ニ於テ否ムベカラザル場合トナレバ、暫ク首ヲ
傾ケタリシガ、山田氏曰ク卿等忠愛ノ赤心 幸ニ余ガ言ニ感ズル処アラバ一応
帰陣ノ上在隊員ニ熟議シテ、可成一同帰邑ノ事ニ決スベシト。談了リテ退出
シ、時山□ニ別ヲ告ゲテ山口ヲ発シ吉田ニ帰レリ。
同二日山県狂助氏*4山口行ニ決シ、村上研吾・坪嶋正三ハ先発急行セリ。牧小太郎
山県□ニ随行シテ船木*5ニ一泊シ、翌三日着山
ノ後山県氏ハ政府ニ出頭シテ須佐入
隊者除名ハ国貞氏ノ請求ニ出タル事ナレバ、須佐ニ至リ国貞氏ニ直接談判
*1 御神本=118頁参照。
*2 君侯=毛利敬親。 *3 諭説=文書館本は「説諭」。 *4 山縣狂助=山県有朋。幼名辰之助、次いで小助(小輔とも)のち有朋と改む。千束狂介は一時の通称。素狂含雪等と号し、また芽城椿山荘主などの別号あり。 天保9年閏4月萩川島に生る。父は三郎有稔といい軽卒。夙に志を立て文武に励み安政5年19才の7月松下村塾徒5人と命を受けて京都の状況視察に赴く。 帰国後村塾に入り松蔭の教えを受く。既にして松蔭再び投獄せられて師事すること久しからず。慶応元年奇兵隊軍監となり絵堂、長登の一戦に藩論統一の偉業を成就す。 維新の際、越後口官軍の参謀たり。次いで欧州を視察し帰朝後陸軍中将に任じ爾来我が国軍政の要路に当たり、日清戦争には第一軍司令官、日ロ戦役には参謀総長たり。 或いは枢密院議長となり、或いは台閣に列して首班たり。明治大正を通じて重臣の一人なりしこと遍く世の認めるところ、明治17年華族に列し、伯爵、28年侯爵、40年公爵を授けらる。 元帥陸軍大将従一位大勲位功一級たり。大正11年2月1日薨す。歳85。国葬を賜う。 *5 船木=船木=現厚狭郡楠町船木。寛永12年参勤交代の制を設けると同時に、本陣が置かれ、舟木宰判が設置された。郡政の中心地として人馬の往来頻繁たり。 御茶屋、代官所(勘場)、御物送番所?、牢屋、旅人荷付場、御高札場、一里塚などがあった。 |
ヲ開キ果シテ帰サヾルヲ得ザルノ情実アラバ其指揮ニ従フベキ旨ヲ約ス。然ルニ世子君
吉田奇兵隊ニ御巡覧ノ事アルニ会シ、山県氏ハ急ニ帰営セザルヲ得ズ、故ニ須佐
行ノ事ハ福田氏ニ嘱託セラレタリ。
同四日 福田氏須佐ニ向テ出発。牧小太郎・村上研吾・坪嶋正三随行ス。
同五日 □□
□□□□□ □□□
□□□□□□□□□。*1
□□□福田氏等国貞直人氏旅寓大谷丈平ニ至リ応接セリ。福田氏ハ在隊員ニ
於テハ素ヨリ正義回復、邑中混和ノ目的ヲ以テ今日迄運動セシ者ナレバ、仮令
帰邑セザルモ、為メニ経隔*2ヲ生ズルノ憂ハ豪モ無之、且、三国老ノ内鈴尾
家ハ已ニ数十名ヲ入隊セシメ、高田元国司家ハ健之助殿*3自ラ率先シテ入隊セ
ラレ、特御神本家ニシテ諸隊ニ気脈ヲ絶ツノ理アランヤ。又奇兵隊ニ於テモ一時ニ隊
員数十名ヲ除クハ実ニ困難ノ至リナリト縷々弁解アリテ、終ニ在隊員ハ御神
本家ヨリ公然入隊ヲ命ゼラレ、尤在隊員ノ内五名ヲ撰抜シテ帰邑報ゼシムベシ
ト一決セリ。談畢リテ福田氏ハ笠松邸ニ至リ、桂主殿殿ニ面謁ヲ乞ヒテ談話アリ
*1 「同五日 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□ □□□福田氏等…」=浄書の時の一行書き落としと思われる。文書館本に拠り、補筆した。
*2 経隔=127頁*3参照。 *3 高田健之助=国司純行。実は志道安房元襄二男。明治26年2月18日卒。享年41才。 |
同七日 福田氏須佐出発。坪嶋正三随行シテ帰陣アリ。牧小太郎・村上研吾ハ数
日滞須ノ上帰陣セリ。
茲ニ幕府ハ征長ノ議ヲ決シ*1、紀伊大納言徳川茂承*2
、老中小笠原長行等諸軍ヲ
統ベテ広嶋ニ次シ*3、其召ニ応ジテ至ル処ノ
宍戸備後介ヲ執ヘテ還サズ。不当ノ
要求ヲ為スニ依リ、諸隊ハ応戦ノ準備ヲ修ム*4。
烏兎匆々*5六月ニ至リ幕兵四境*6ニ迫リ、
将ニ兵端ヲ開カントスルノ勢ナルニ依リ、干城
隊・鴻城軍ハ山口、八幡隊は小郡、御楯ハ三田尻 、遊撃軍ハ芸州口南、奇
兵隊ハ上ノ関、膺懲隊ハ芸州中街道口、南園隊ハ石州口*7、奇兵隊・長
府一手・萩干城隊、併町兵・遊軍・山口屯兵・足軽大隊ハ九州小倉口引受ケ
トナリ、其他岩国、三支藩*8、御一門*9等手配リ定リテ各諸へ出張セリ。
同五日 奇兵隊ハ吉田営所ヲ引揚ゲ、長府一ノ宮へ出張ス。
同七日 幕艦一艘大嶋郡安下庄*10ニ発砲セシヨリ、毎日出没シテ
前嶋・久賀村*11
*1 征長ノ議ヲ決シ=第二次長州征伐。
*2 紀伊大納言=原文「徳川蔑照」は徳川茂昭の誤記なるも徳川茂承(もちつぐ)の誤り。 *3 次シ=とまる。やどる。止まる。至る。 *4 修ム=そなえる。 *5 烏兔匆々=烏飛兎走と同じ。歳月の速やかに過ぎ去ることを言う。「兔」が正字、「兎」は俗字。「広辞苑」は「烏兎」。 *6 四境=24頁脚注1参照。 *7 石州口=須佐北第1大隊も石州口を引受た。 *8 三支藩=清末、長府、徳山の各末家。 *9 御一門=三丘宍戸家と右田、厚狭、吉敷、阿川、大野の各毛利家。 *10 安下庄=現大島郡(屋代島)橘町。四境戦争は慶応2年6月7日幕艦一艘が上関、安下庄村、油宇村の沿岸に砲撃を加えたことにより始まった。 *11 前嶋、久賀村=前嶋は屋代島の北に浮かぶ島。久賀村は現大島郡(屋代島)久賀町。ここに大島宰判の勘場があった。 |
辺ヲ脅カス。
同十一日 四ツ時、軍艦四艘*1大嶋郡久賀村ニ、同二艘
*2同郡安下庄ニ襲来。孰
レモ揚陸シテ兵端ヲ開キシヨリ尓後戦争ノ報道殆ド虚日*3ナシ。
同十六日 高杉晋作氏長府一宮ニ来営アリテ奇兵隊各々司令官以上
諸隊将校会議ノ上豊前国小倉地出張ノ幕兵ヲ進撃ノ事ニ決シ、
同夜八ツ時整列馬関へ出陣ス。長府報国隊モ出張セリ。
同十七日暁 丙辰艦・癸亥艦・庚申艦・
乙丑艦・丙寅艦ノ五艘ヲ二手ニ分チ
田ノ浦・門司関ヲ攻撃シ、我陸軍ノ門司関ニ奮進スルヤ幕兵忽チ敗
走。八ツ時馬関ニ凱旋セリ。是即チ小倉口ノ第一戦ナリ。
同十七日朝五ツ時、石州口開戦セリ。南園隊・精鋭隊・第二大隊一手トナリ
共ニ横田口ヨリ、清末・須佐ノ諸兵ハ高津口ヨリ益田屯集ノ浜田・福山・其
他諸藩ノ兵ヲ進撃ス。幕兵敗走、我軍益田ニ入ル。于時八ツ半時ナリ。
*1 軍艦四艘=(久賀村を砲撃)幕艦富士山丸、汽船翔鶴丸、八雲丸、帆船朝日丸。
*2 同 二艘=(安下庄を砲撃)富士山丸、大江山丸 *3 虚日=何事もない日。暇な日。 |
右ハ丙寅四境ノ役開戦ノ要路ナリ。其詳細ハ公私編纂ノ戦記アレバ今此
記中ニ贅セズ。*1
小倉口ハ十月十日 賊軍ノ巣窟ノ香春ニ進撃セントスルノ際、彼ヨリ止戦和睦
ヲ乞フ。遂ニ企救郡六万石ヲ割キ、長州ノ支配ト為スヲ約シテ其談判ヲ
結了セリ。*2
同三年丁卯正月 奇兵隊ハ隊員大半帰休セシメタリ。須佐滞隊者ハ帰
休中左ノ恩命アリ。
御沙汰書
津田 公輔 殿
右奇兵隊ヘ入隊人数之内 此度帰省ノ士分へ来ル廿六日
御夕飯後
若旦那様御目見被仰付候 尚又 去夏已来 小倉地出張 数
*1 贅セズ。=みだりにしゃべらない
*2 四境の役=第二次長州征伐を長州では《四境戦争》と呼ぶ。幕軍は芸州口、石州口、周防大島口、小倉口、萩口の五方面から攻める作戦であった。 しかし薩長密約で薩摩兵は萩口攻撃に出兵せず、広島藩は中立を守り、その他の大藩が参戦を拒否したので作戦が大幅に狂った。 ◇6月7日大島口で兵端が開かれ大島の惨状が伝わると長州藩を激憤させた。高杉晋作の奇兵隊の一部が差し向けられ6月17日には幕兵と松山兵は大島から掃討された。 ◇芸州口は6月14日先鋒の井伊家の軍勢が小瀬川を渡河する時、山上から一斉射撃を浴びせられ大敗した。大竹の榊原家の軍勢も同じように敗走した。 追撃した長州兵は幕軍の本拠地大野を目指したが小方で幕軍の反撃に遭い激戦となった。そして七月中旬まで膠着状態が続いた。最後の決戦は八月七日、台風の中で行われ幕軍が敗退した。 ◇石州口では長州軍は藩境を守るのではなく、積極的に進攻した。参謀大村益次郎が率いる南園隊、精鋭隊、須佐清末兵などである。 6月17日幕軍の拠点益田を占領し浜田に迫り18日浜田城を自焼させた。 ◇小倉口は幕軍の主戦派老中小笠原壱岐守長行(ながみち)が小倉を前進基地にして兵力を集中していたが6月17日の緒戦で長州軍は門司、田ノ浦の陣地を焼き払い勝利。 奇兵隊などの陸戦隊が砲撃の援護を受けて上陸を繰り返したが、幕軍は陸戦の前線で小倉藩兵が孤立。7月27日長州勢が軍艦4隻、大小の船舶数100艘で大上陸作戦を敢行し小倉を目指した。 その間7月20日将軍家茂が大阪城で病没すると小笠原壱岐守は7月30日現地を離れてしまった。8月1日小倉城自焼。 ◇9月4日幕軍は全面撤退して四境戦争は終わった。 |
度之苦戦
為国家 不容易尽力之段 神妙之義ニ
被思召候 依之帰省之銘々末々迄 同日御酒頂戴被仰付候条
右様被相心得 向々へ可有通達候事
正月廿四日
三月 奇兵隊ハ徳山山崎隊ト小倉地ノ警固ヲ交代シテ吉田本営ニ引揚
ゲタリ。
九月ニ至リ両君侯ノ御正義貫徹ノ機ニ際シ、薩州
侯モ上京御周旋ア
ルニ依リ奇兵隊・南奇兵隊*1・振武隊・鋭武隊・膺懲隊等各一中隊*2
ヲ撰抜シテ總員千余人上京ノ命アリテ三田尻迄出張シ、数日ヲ経過スルト
雖ドモ出港ノ命無之ヲ以テ奇兵隊ハ吉田本営ヲ引揚ゲ全軍三田尻
へ出張シ、光明寺*3滞陣ニテ山県狂助氏*4ヲ始メ諸将校周旋アリテ遂ニ
*1 南奇兵隊=慶応元年1月下旬白井小助の創立。大島郡と室積辺の有志の集団、後奇兵隊総督山内梅三郎が第二奇兵隊総督を兼務。慶応2年脱走倉敷で乱妨。幕長戦では大島口で戦闘
萩で来島又兵衛が募兵し清光寺に駐屯の第二奇兵隊(後の鷹懲隊)とは別組織(山口県史諸隊一覧)
*2 中隊=二小隊=四半小隊。 四中隊=二半大隊=一大隊。(一小隊→28〜36人 慶応元年の軍制)明治元年(1868)10月28日、益田家の一小隊が浜田へ出張したときの人数は 60人であった。 従って一中隊は120名。「山口県史」史料編幕末維新6 1097頁参照。 *3 光妙(明)寺=三田尻に所在。真宗。恵日山と号す。文明6年創建、開基は大和国高市郡住人、本願寺第八世蓮如上人に帰依し一宇を大和国高市郡に建立す。 爾来諸国を巡遊の折柄、安芸国へ滞在中一宇を建立光妙寺と号す。慶長年中第三世の住僧明賢檀徒と共に当地へ移転して現在に至る。 *4 山県狂助=152頁脚注*4参照。 |
十一月*1廿六日 上京ノ諸兵乗船、摂州西宮ニ揚陸。厳粛ナル行軍ニテ
京師ニ入ル。
十二月十日 両君侯御入洛御免、御官位元ノ如ク復セラレタリ。
今度大樹奉帰政権
朝廷一新之折柄 彌以天下之人心居合不相附ニ於テハ 追々復古之典モ
難相行
深被悩宸襟*2候 且 来春御元腹 并 立太后 追々御大礼*3被為行*4 且又
先帝御一周ニ相成候ニ付*5 猶更人心一和専要ニ被思召候間 先年
来 防長之事件 彼是混雑有之候得共 寛大之御所置 被為在
大膳父子 末家等被免入洛 官位如元被復候旨 *6被仰出候事
丁卯十二月十日*7
積年之精忠貫徹、且、。此ニ入京満足ニ被思召候。猶御守衛場之
*1 十一月=原文は「十二月」だが「十一月」の誤記。「防長回天史」第五編下 九 505〜7頁参照
*2 宸襟=天子のみこころ。 *3 御大禮=即位、立后などの朝廷の重大な儀式。 *4 来春御元腹 立太后 追々御大礼被為行=慶応2年(1866)12月25日孝明天皇崩御(35才)。慶応3年1月9日、第二皇子祐宮睦仁(さちのみやむつひと)親王践祚、 明治天皇睦仁となる。数え年16才。同年10月15日大政奉還。慶応4年8月27日即位の大礼。同年9月8日、明治と改元。同年10月13日東京遷都、同年12月28日一条忠香の娘美子 (はるこ、婚前の名は寿栄姫)とご成婚。(東京遷都は正式には明治2年3月28日とされている) *5 「先帝御一同ニ相成候ニ付」=「御一同」は「御一周」の誤記である。慶応3年12月25日は孝明天皇崩御から一周忌に当たる。 *6 被免入洛 官位如元被復候=文久3年8月18日の「堺町御門の変」により、長州藩は堺町御門の警衛を解かれ、毛利敬親、元徳父子の入洛を禁じられた。 この冤罪を雪がんとして翌元治元年「蛤御門の変」が勃発。戦いに敗れた長州藩は朝敵となり、第一次、第二次長州征伐の幕軍を差し向けられたが、 四境戦争の勝利によって幕軍を防長から掃討し名誉を回復した。毛利敬親は大膳大夫に復し、藩主父子以下末家の入洛も許され、茲に8.18事件以来懸案であった長州藩の正義貫徹が成就した。 *7 =この「朝裁」は「防長回天史」5の下 P429所載のものと同文である。但し、次のように若干文言に差異がある。 ◇官位復旧の日付は防長回天史では12月8日となっている。 ◇「御一同」は「御一周」となっている ◇「専要ニ被思召」は「専要に被思食」となっている ◇「先年来防長之事件彼是混雑有之」の「混雑」は「困難」となっている |
儀ハ 追而可被仰出候事
右ハ中山卿ヨリ御口達ノ書取ナリ。
同十八日 蛤御門御守衛之達アリ。
同廿五日 奇兵隊ハ三田尻引揚ゲ。 吉田駅営所ニ帰ル。
明治元年戊辰正月三日 将軍 徳川慶喜一橋・会津・桑名・高松・宮津・姫
路・大垣等ノ各藩 大坂ヨリ入京ノ途次 伏見京橋ニ於テ応接ヲ開クノ末、遂ニ
成敗ヲ干戈ニ訴フルニ至リ*1所々転戦、賊軍敗走シテ同月六日ヲ以テ大坂落
城トナレリ。*2此役ノ詳細亦公私ノ近世史ニ譲リテ今ハ贅セズ。
三月 奇兵隊全軍上京ノ命アリ。十七日朝五ツ半時 本陣ノ急鼓*3ヲ期シテ各
隊整立、祝砲三発、全隊行軍ニテ出発シ長府ニ於テ喫飯、八ツ半時
馬関阿弥陀寺着。南部浜ニテ花陽鑑乗組。同夜八ツ半時抜錨。
廿日 朝六ツ時兵庫ニ繋船。四ツ時抜錨。
同夜九ツ半時大坂着港。
*1 「伏見京橋ニ於テ応接ヲ開クノ末 遂ニ成敗ヲ干戈ニ訴フルニ至リ」=戊辰戦争(鳥羽伏見の戦い)のこと。
*2 「同月六日ヲ以テ大坂落城」=1月6日慶喜大阪城脱出、1月9日大阪城炎上。落城の日付は9日が正しい。 *3 急鼓=原文の「急鞁」は「急鼓(きゅうこ)」の誤記。続け様にうつ太鼓。(鞁=車に付けた馬の飾り) |
暴風雨怒濤ノ為メ上陸ヲ得ズ。廿一日朝五ツ時天保山へ上陸。全隊
行軍ニテ安治川橋*1通リ天満*2東寺町智源寺其他寺院ニ宿陣セリ。
同廿三日 天皇陛下大坂へ行幸*3アリ。
同廿五日 八ツ時 赤門屋敷*4へ転陣セリ。
同廿六日 天保山へ行幸 海軍天覧*5アリ。
当度 各軍隊着坂ニ依リ酒肴ヲ賜ハル。仍テ四ツ時大隊行軍ニテ京橋*6
通、桜宮*7ニ至レバ櫻花爛漫ノ好時節、杯盤狼藉*8 歓ヲ尽シテ帰営セリ。
四月二日 山県・福田 勅命ニ依リ江戸行。
同三日 長藩へ御沙汰。*9
明後五日 銃陣
天覧被為在候ニ付其藩兵一大隊先出スベク旨御沙汰之
事
*1 安治川橋=大阪市中之島の堂島川と土佐堀側が合流し安治川となる辺り。(詳細後述165頁参照)
*2 天満=大阪市で淀川から分かれた大川が大きく西に流れを変える寝屋川との合流点右岸一帯が天満。 *3 行幸=天皇が外出されること。 *4 赤門屋敷= *5 天覧=天皇がご覧になること。日本初の観艦式。 *6 京橋=JR大阪環状線が寝屋川を越える辺り。都島区東野田町。 *7 桜宮=桜ノ宮社(やしろ)は宝永6(1709)年に野田から現在地に移り、境内や周辺に数百本の桜が植えられ一帯は「桜ノ宮」と呼ばれた。 対岸(西岸)の蔵屋敷の役人たちも風流人ぞろいで対抗するように桜を次々植え、大川の桜宮橋から天満橋の間の両岸は桜の名所となった。 現在も造幣局の「通り抜けの櫻」は大阪随一の桜の名所として有名。 *8 杯盤狼藉=酒席の取り乱されていること。 *9 山県・福田勅命ニ依リ江戸行=「防長回天史」第6編上 10 152頁に「太政官代と行在所と懸隔して諸事不便の為め若し関東の事情に因り駐輦愈々久しきに渉らば京都の太政官代を 大阪に移さんとの議此頃廟堂内に在り、会々山県狂助関東の事情を視察せんと欲す。因って此月二日総裁局より大総督に送る書を山県に付し且つ備さに此意を致さしめ大総督府の 意見を徴す。山県は翌三日京をを発して東下す」と述べられている。 |
同五日 雨天ニ依リ天覧順延。
同六日 大坂城本丸ニ於テ薩・芸・越其他二三藩ト火入調練*1天覧アリ。
奇兵隊ハ鋭武隊*2合併、即チ長藩一大隊ト為リ薩・藝・越ニ次デ調
練セリ。練兵畢レバ各藩へ慰勞トシテ酒肴ヲ下賜セラル。九ツ時帰営。
同九日 恩賜ノ酒肴配当ノ宴ヲ開ク。
同十日夕八ツ時 号鼓ヲ以テ発軍。各隊行軍ニテ八軒屋
*3ニ至リ乗船シ
十一日朝伏見揚陸。竹田街道ヨリ大隊行軍ニテ九ツ時京都中立売
文武館ニ着ス。
同十五日 仁和寺宮殿*4・四條殿*5・一條殿
*6銃陣上覧ニ依リ朝五ツ時ヨリ大隊押ニテ
二條河原調練場ニ至リ調練アリ。畢ハレバ三條縄手通リ*7東福寺*8招
魂場ニ至リ大祭典アリ。暮七ツ時帰営。
仁和寺宮殿下ヨリ慰労ノ為御酒下賜セラル。
*1 火入調練=実弾射撃。
*2 鋭武隊=慶応3年2月21日、八幡隊・集義隊を合併して鋭武隊と改めた。総監堅田健助。同年12月20日東福寺駐屯諸兵の隊名を改称し、鋭武隊を第四中隊と称す。明治元年1月鋭武隊 (1大隊325人)尾道より海路上坂。2月上旬鋭武隊のうち1中隊東海道遠征。軍監は飯田竹次郎。5月15日中隊上野彰義隊攻撃に参戦。7月12日東北に出戦。11月東京に帰陣。従って、上記の在坂部隊は関東・ 東北に転戦した中隊を除いた残りの鋭武隊と考えられる。 *3 八軒屋=八軒屋船着場。現大阪市中央区京橋二丁目松阪屋南側。此処には東町奉行所があった。 *4 仁和寺宮殿=仁孝天皇の養子邦家親王の八男。安政5年(1858)3月27日親王宣下。得度、純仁親王。その後 還俗、嘉彰親王[仁和寺宮改東伏見宮]のち彰仁親王[小松宮]。 *5 四条殿=四条隆謌(たかうた)。尊皇攘夷派の公家の中で唯一の武人。後に大阪、仙台などの鎮台司令官。七卿落ち公家の一人。 *6 一条殿=一条忠香(ただか)。1812〜63。公家。内大臣、左大臣、日米修好通商条約勅許問題、水戸藩への勅錠降下など内政外交の朝議に列した。娘美子(はるこ)は明治天皇妃。 *7 三条縄手通=現京津三条駅前の大和大路通。 *8 東福寺=臨済宗東福寺派大本山、慧日(えにち)山東福寺は嘉禎2年(1236)より建長7年(1255)まで19年を費やして完成した。摂政九条道家が京都最大の大伽藍を造営しようとして奈良最大の寺院東大寺と 奈良で最も盛大を極めた興福寺から一字づつ取って寺名とした。工事半ばの寛元元年(1243)、聖一(しょういち)国師を開山に仰ぎ,まず天台・真言・禅の各宗兼学の堂塔を完備したが, 元応元年(1319),建武元年(1334),延元元年(1336)と相次ぐ火災のために大部分を焼失した。延元元年8月の被災後4ヶ月目には早くも復興に着手し,貞和3年(1346)6月には前関白一条経道により仏殿の上棟が行われ, 延元の火災以降20余年を経て,再び偉観を誇ることになった。建武被災の直前にはすでに京都五山の中に列せられており,再建後の東福寺は完全な禅宗寺院としての寺観を整えた。仏殿本尊の釈迦仏像は15m, 左右の観音・弥勒両菩薩像は7.5mで,新大仏寺の名で喧伝され,足利義持・豊臣秀吉・徳川家康らによって保護修理も加えられ,東福寺は永く京都最大の禅苑としての面目を伝え,兵火を受けることなく明治に至った。 しかし、明治14年12月,惜しくも仏殿・法堂(はっとう),方丈,庫裡(くり)を焼失。その後,大正6(1917)年より本堂(仏殿兼法堂)の再建に着工,昭和9(1934)年に落成。明治23(1890)年に方丈, 同43(1910)年に庫裡も再建され,鎌倉・室町時代からの重要な古建築に伍して,現代木造建築物の精粋を遺憾なく発揮している。また,開山国師の頂相,画聖兆殿司(ちょうでんす,明兆)筆の禅画など, 鎌倉・室町期の国宝・重要文化財は夥しい数にのぼっている。本堂と開山堂を結ぶ 「通天橋」の一帯は、洗玉澗と呼ばれる渓谷で紅葉の名所となっており、秋沢山の人々で賑う。 |
御名(藩主公)
右 四方へ人数差出候儀ニハ候得共 松平肥後益暴激ニ募リ
官軍ニ抗シ候段相聞候ニ付 北国地へ人数差向ケ、奥羽ノ官
兵ニ応援致候様御沙汰之事
右 今般別紙之通
朝廷ヨリ御沙汰相成候ニ付 出張被仰付候条 御不都合無之
様屹度可致勉強候事
同廿四日 山県狂介氏ハ北陸道鎮撫總督参謀ヲ任セラレタリ。
同廿五日 奇兵隊参謀時山直八・書記湯浅祥之助・会計方、器械
方、小荷駄方三・四ノ弐小隊、薩藩二小隊ト共ニ発陣。*1
同廿六日 奇兵隊参謀 三好軍太郎・書記 杉山荘一郎、会計方
小荷駄方一・二・三・五・六ノ五小隊、一・二・三・四ノ四砲隊、薩二小隊ト共発陣ス。
*1 「薩藩二小隊ト共ニ発陣」=文書館本は「薩越二小隊」と記述している。
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此奥羽ノ役 亦此記ニ贅セズ。
八月下旬 米沢藩上杉斎憲父子*1降ル。
九月廿二日 白九ツ時 若松落城 松平肥後守容保父子*2降ル。
同廿九日 庄内松平忠篤*3降服ス。
十月上旬ヨリ各地出張ノ官軍引揚ゲノ命アリ。奇兵隊ハ中山道ヨリ
帰京ノ途ニ就ケリ。
十一月朔日 京都東福寺内栗棘庵*4ニ着陣セリ。
同三日十時整列。大隊行軍ニテ長府報国隊ト共ニ
参闕*5ス。正親町大納言殿*6
・長門世子君・有馬中務大輔殿、其他諸
官御列席ニテ御書下ゲヲ賜ハル。
長州
奇兵隊
*1 上杉斎憲父子=米沢藩主 上杉弾正大弼斎憲(なりのり)は隠居、領地18万石の内4万石を召上られ、嫡子茂憲(しげのり)へ家督。
*2 松平肥後守容保父子=会津藩主 松平肥後守容保(かたもり)、永禁錮、城、領地没収。嫡子喜徳(のぶのり)へ家督、下北半島、陸奥3万石へ移封。 *3 庄内松平忠篤=酒井忠篤(ただすみ)。庄内藩主 忠篤は東京で隠居謹慎、忠篤の弟忠宝(ただみち)が家督相続、新領地会津若松12万石に移封された。(のち撤回) *4 栗棘庵=東福寺の塔頭である栗棘庵(りっきょくあん)を再興したのは開祖覚山空性で能登の温井氏の祖といわれ、能登に残された棟札などから藤原姓とされる。 栗棘庵は能登守護畠山氏を檀越に迎え、能登には珍しい臨済宗の発展に寄与したことが知られる。栗棘庵には温井孝宗の画像が残され、また温井紹春(総貞)が「一宮の合戦(1553)」 の結果を報じた書状など温井氏関係の文書が伝来している。 *5 参闕=参内。「闕」は宮門の両側に設けられた2個の台。宮城。 *6 正親町大納言殿=権大納言正親町実徳(おおぎまちさねあつ)。 |
征討出張*1 遠路跋渉*2 日夜攻撃 到ル処功ヲ奏シ 凱至*3之段
其勲労不少候 此節東京
御駐輦*4中*5之義ニ付 不取敢 被為慰軍労 酒肴被下
候事
但 春来兵事ニ付
大宮御所*6ニモ御内々
御憂襟*7被為在 征討兵士之難苦ヲ恤敷
被為思食 日夜平定而己御祈念之折柄 今般凱旋之趣
御内聴被為在
御喜悦不斜候 猶又御留守中ニ付 帰陣ノ者エ厚ク慰労候
様 御内諭被為在候事
十一月
*1 征討出張=戊辰戦争後半の奥羽越列藩同盟との戦いのこと。
*2 跋渉=方々を歩き回ること。「跋」は山野を行くこと、「渉」は水を渉ること。 *3 凱至=「凱」はかちどき。戦争に勝ち、帰って勝利を宗廟に告げる時の音楽。 *4 駐輦=天子が車を留めること。天子が車を留めて滞在すること。 *5 東京御駐輦中=明治天皇は明治元年9月20日江戸に向かい10月13日江戸城入城、ここを東京城と改名する詔を出した。 しかし京都市民の思いに応える為この年は12月22日に京都に戻る。天皇は翌明治2年3月7日東京に向い、28日着。3月28日、城の中に太政官府を設置した。 これを一般には東京遷都としている。 *6 大宮御所=現在の大宮御所は英照皇太后(孝明天皇女御)のために造営され,慶応3年(1867年)に完成したもの。 *7 憂襟=憂慮。「襟」はむね、こころ。 |
行政官
了リテ十二時*1
退闕 鴨東練兵場ニ至リ 世子君ヨリ長ノ出陣苦労神妙ニ思フトノ意アリ
次ニ長府毛利左京亮殿ヨリ 長ノ出陣 且報国隊モ世話ニナリ 各苦労
トノ御意アリ。奇兵・報国 二隊行軍ニテ帰営セリ。
同五日 朝七時出発。伏見ヨリ乗船ニテ大坂江戸堀*2ニ着陣セリ。
同六日 十時 安治川橋*3ヨリ艀船ニテ花陽艦ニ乗込ミ、*4
四時抜錨。九日室津ニ
上陸。夫ヨリ陸行、小国通リ平尾駅ニ着泊シ、十日降松ヲ経テ砥石ニ宿陣シ、
十一日 朝六時乗船。八ツ半時三田尻着港、泉相寺ニ宿陣ス。
同十二日 十一時 御茶屋ニ整列。御名代毛利筑前殿ヨリ御意ノ旨ヲ
伝ヘラレ、更ニ司令官ヲ召集シテ数月間苦戦ノ労ヲ慰スル為、隊中へ
酒肴ヲ賜ハルノ達アリテ了リテ帰営シ、同夜恩賜ノ酒肴ヲ謹戴シテ
*1 十二時=この頁から十時、十一時など一部が太陽暦の表示となっている。七時は「七ツ時」(午前4時)ではなく文字通り七時と思われる。因みに太陽暦採用は旧暦明治5年12月3日をもって
明治6年1月1日と定めて実施された。これは「回天実記」が明治3年3月3日編纂に着手されながら、明治6年時点でまだ完成していなかった事を示している。
*2 江戸堀川=江戸堀川は、大坂夏の陣後大坂城主となった松平忠明が、市街地改造計画の一環として開削させたもの。元和3年(1617)完成。西横堀川から分れ、 土佐堀川に平行して西流し、土佐堀川と百間堀川の合流点に流入していた。この開削費用をまかなうため発行された銀礼は、現在までに発見された最古の銀札といわれている。 長さ11町41間(約1,270メートル)、幅は上流で13間(約23.5メートル)、下流で18間(約32.6メートル)の運河で、東から西へ撞木橋・江戸橋・犬斎橋・阿波殿橋・大目橋・ 花乃井橋・江戸堀橋・西北橋・崎吉橋の9橋が架かっていたが、昭和30年9月に埋め立てられた。 *3 安治川橋=江戸時代初期まで淀川河口部にあった九条島が流れを遮り洪水がたびたび起り、また土砂堆積により舟運にも不便をきたした。このため貞享元年(1684)幕府の命により、 河村瑞賢が水路を開削し安治川と名付けた。その後、周辺に富島や古川の新地開発が進められ、元禄11年(1698)に完成した。安治川橋はこの新地開発に伴い架設された。 江戸時代末期、幕府は開国に備え、この地を外国人居留地として準備を進め、明治新政府によって明治元年(1868)大阪開港とともに外国人に競売された。居留地には、 洋館や舗装道路が造られ大阪の文明開化の拠点となった。 明治6年(1873)居留地の交通の便を図るため、新しく安治川橋が架けられた。この橋の中央二径間は西欧から輸入された鉄橋で、 高いマストの船が航行する時には、橋桁が旋回する可動橋であった。当時の人々はこの旋回する様を見て「磁石橋」と呼び大阪名物の一つとなった。 明治18年(1885)大阪を襲った大洪水は多くの大川の橋を流し流木が安治川橋に押し寄せた。橋はこの流木や洪水によく耐えたが、市内に洪水の恐れが生じたため、やむなく工兵隊により爆破撤去された。 *4 乗込ミ=文書館本は「乗組ミ」となっている。 |
愉快ヲ極メタリ。
同十三日 全軍帰省ヲ許サル。 但 来明治二己巳*1二月五日ヲ期シテ吉田陣
営ニ集合シ同月中旬大招魂祭執行ノ命アリ。
須佐在隊員帰省中、招魂社創建ノ議ハ兼重五郎四郎ノ主唱ニテ
大ニ賛成ヲ得タルニ拠リ、同氏ハ願主ト為リテ願書ヲ邑政堂ニ差出セリ。
願 書
時運之変転不得已次第トハ乍申 甲子年 京師変動 引続キ国
事ニ死候者不少 追々於本藩招魂祭被執行侯得共 御内輪ノ
義ハ未ダ無其儀候ニ付 何卒招魂場開設被仰付候ハヾ 甲子以来
戦死忠死之者 霊魂ヲ地下ニ慰度志願ニ候処 当今ノ御仕組中
御普請事總而御廃止之砌ニ候得者 乍微力私願主ニ 相成 尚
同志ノ者ヨリ心掛次第之寄附被遂
*1 己巳=明治二年は己巳(きし)であり、原文の「丁巳(ていし)」は誤りにつき書き改めた。
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御免候ハヾ 合力ヲ以テ創立仕度奉存候 右場所柄ノ義ハ 吉祥閣*1
古跡地□相応 且 他藩人通行ノ節 参拝之便宜彼是 此地ニ限リ
候様奉愚考候 左候へバ黄泉之霊魂ハ不及申 御家中一統
斯迄御手厚被仰付候義ト 奉感佩*2 奮発之一助共可相成候
間 何卒
御心入ヲ以テ
被遂御許容被下候様 奉歎願候 此段御序之節宜敷様御
取成奉願候 以上
辰ノ十二月 兼重五郎四郎
右出願後 何タル指令モ無之、且ツ地所ノ事ニ異見ヲ生ジタルニ依リ更ニ
奇兵隊在隊帰休者ヨリ追願セリ。
願 書
*1 吉祥閣=龍背橋を渡って西に行くと現在の育英小学校裏手の国道191号線辺りに総門があり、門を出て山手に入る道を右折すると吉祥院(閣)があった。「須佐市中細見図」参照。
*2 感佩=有難く心に思い忘れないこと。 |
奉歎願候事
先年来 御内輪戦死忠死ノ人員モ不少候ニ付而ハ 其霊 意ヲ地下ニ
慰ムル為メ 招魂場御創建有之度 先達テ 兼重五郎四郎ヨリ申
出置候処 御詮議半途ノ趣ニテ 今日ニ至リ 成否不被仰出候ニ付
重テ奉歎願候 素ヨリ必至御難渋中ノ事ニ候得者 纔之御費用
モ相省キ 於下精々相働キ 建立 仕度覚悟ニ御座候 何卒私共
一統 帰休中成就之上 祭典相調度奉存候間 其御都合ヲ以テ急
速御運ビ方奉願候 尤 先般出願在之候吉祥閣之義ハ 佛跡 且
陰湿地ニ而 相応之霊場トモ難申*1 一統 之気付ニテハ御霊社*2之
南 赤禿之地形*3 東面之陽地*4ニテ 自然御霊社区域ニ引連リ 往
復之旅人参拝詣ノ便宜旁々 勝地ト奉愚考候得者 速ニ御英断
ヲ以 御許容被仰付候様 偏ニ奉懇願侯
*1 「佛跡 且陰湿地ニ而 相応之霊場トモ難申」=明治元年は神仏分離令、廃仏毀釈運動が起こった年であるから佛跡に神社を建てる事が憚られた時代であったと思われる。
*2 御霊社=(ごれいしゃ)親施公を祀る中津の笠松山麓の神社の通称。 *3 「御霊社之南 赤禿之地形」=赤禿は地名ではない。御霊社から約100m離れた笠松山の南端にある赤土が露出した段丘。 *4 「陽地」=「温故」版では「場地」。一行前の「陰湿地」と対比して「陽地」が正しいと思われる。 |
辰ノ十二月二日 奇兵隊入隊
人数中
御沙汰書
兼重五郎四郎
右 甲子以来国事ニ死候者不少候ニ付 招魂場開建ノ儀ニ付 願 □之
趣 神妙之事ニ
被思召候 右者兼々
御存念モ被為在候処 御軍務其外御多事之央 無余義
御延引ニ相成 其後弥増 御所帯向御差詰ニ付而ハ 只今御
手モ難被為届候折柄 志願モ有之義ニ付 願之通
被差免候事
辰十二月
口達ヲ以テ
所柄之義者 思召モ有之 日限地蔵 *1之所ニ 被仰付候事
前顕之趣 口達ヲ以テ奇兵隊在隊員ヘモ達アリ
十二月十九日 地所引渡シニ付 各集会シテ邑政堂ヨリ市山淳蔵立会員
トシテ差出サレ、同伴ニテ日限地蔵ノ地 即字浄土院ニ至リ、境域縄張ヲ為セリ。
明治二年己巳正月六日 浦本町大谷丈右衛門宅ヲ借受ケ、招魂場創
建事務所ト定メ、同志者各鍬鎌ヲ執リテ開墾ニ着手シ、同十一日ニ
至ル。
同十二日 野頭村*2ヨリ助力四拾四人、奥両組*3
其外ヨリ助力弐拾九人
總計七拾参人。
同十三日 須佐地組ヨリ拾参人、野頭村ヨリ四拾五人、浦西*4ヨリ四拾六人
外ニ木挽*5二人、總計百六人ノ助力アリ。
*1 日限地蔵=現萩市大字須佐山根丁東。三蔭山神社の場所。
*2 野頭=現萩市大字須佐野頭。 *3 奥両組=四組(須佐地、瀬尻、宇谷、市丸)のうち山側の市丸組、宇谷組のこと。 *4 浦西=原文は「西浦」。これは浦西の誤記。浄書した人が須佐出身者ではない証拠。 *5 木挽=のこぎりで材木を挽く職人。 |
同十四日 三原村*1ヨリ七拾八人 瀬尻組*2ヨリ七人 外ニ木挽貳人 總計八拾七人
ノ助力アリ
同十五日 三原村ヨリ五拾四人 外ニ木挽二人 大工壱人總計五拾七人
ノ助力アリ
同十六日 市街助力拾四人、宇谷*3仝四人、浦東*4仝拾人、御細工人
*3仝五
人 、海蔵庵*6同十五人、三原村仝十五人、下田万村*7仝弐拾八人、町
組仝三十弐人、外ニ婦女拾二人、總計百三十五人
同十七日 宇谷組拾人 沖浦*8拾五人 三原三人 押谷*9貳人 市街弐拾弐人
内大工壱人石工五人瀬尻九人内木挽三人野頭木挽三人 浦東五拾四人 下田万六十
六人 外ニ婦女三十弐人 總計弐百拾六人ノ助力アリ
同十八日 尾浦ヨリ貳拾七人 浦東ヨリ三十九人 市丸組十五人内木挽壱人沖
浦ヨリ木挽貳人 浦石工壱人 御細工人三人 三原村ヨリ四人 同村士族六
*1 三原村=現萩市大字須佐三原
*2 瀬尻組=現萩市大字田万川瀬尻 *3 宇谷=現萩市大字田万川宇谷 *4 浦東=原文は「東浦」。これは浦東の誤記につき書き改めた。現萩市大字須佐浦東 *5 御細工人=諸品の製作・装飾などの細工職をもって仕える階級。職種は瓦師、鞘師、塗師、鞍打師、磨師、籐細工師、張付師、柄巻師、刀鍛冶師、時計細工師、左官、 乗物師、御手鍛冶、白銀細工師、飾師、檜皮師、鋳物師、鑓師、轡鎧細工、具足師、矢師、焼物師、船大工、仕立物師、鍛冶細工、鍛冶大工、彫物師、挽物師、竹細工師、鉄砲金具師、 表具師、研師、鈴張師、蒔絵師、桶大工、切革師、紺屋、畳師など。ここでは左官、瓦師などであろう。 *6 海蔵庵=現萩市大字須佐海蔵庵 *7 下田萬村=現萩市大字田万川下田万 *8 沖浦=現萩市大字須佐沖浦 *9 押谷=現萩市大字須佐押谷 |
人、上小川仝四人、上田万仝三人、市街仝九人、外ニ婦女拾五人、總計百二
拾八人ノ助力アリ。
同十九日 □□□□□□□。*1
□□□□ 墓標掘立及貫木門ヲ建設セリ。
同廿一日 休暇。
同廿二日 招魂祭ノ準備ヲ為シタリ。
同廿三日 浄土院ノ字ヲ改メテ三陰山招魂場ト称シ招魂祭式ヲ執行ス。市街
ヲ始メ各村ヨリ競ヒテ酒米餅ヲ献納スル事如山如阜、遠近ノ老少男女
相携ヘテ参拝シ境内立錐ノ□地ナキニ至ル。
式了リテ数個ノ酒樽四斗入ヲ配置
シテ参拝者ニ随意之ヲ飲マシム。各歓ヲ尽シテ解散ス。同夜事務所ニ
於テ祭主祭官其他関係者数十名ヲ招饗ス。頗盛宴ナリ。
同廿四日 社殿建築ノ計画ヲ為シ了リテ事務所ヲ閉ヅ。尓後在隊
者続々帰営セリ。
*1 「同十九日 □□□□□□□ □□□ 墓標掘立及貫木門ヲ健設セリ」=文書館本の記述に従い補筆した。浄書の際の書き落としと思われる。
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八月三日 招魂場社殿落成ス。其旨邑政堂ニ届出タリ。
同八日 故親施公ノ神霊ヲ社殿ノ中央ニ安置スルノ議ヲ決シ兼重五郎
四郎ヨリ覚書ヲ以テ出願セリ。
覚
此度招魂場御社成就ニ付テハ 過ル丑ノ春 下田万村ニ屯集
被仰付候節 同志中申合
御霊神様奉勧請 其後 彼隊*1分散ニ相成候節ヨリ 恐多クモ
今日迄私宅ニ奉祭仕候*2 右ニ付而ハ本社ニ御遷座相成候様ニ
奉存候間 速ニ御英断ヲ以テ御許容被仰付度 伏而奉願上 候
八月八日 兼重五郎四郎
右願意御採用難成ニ拠リ贈正一位楠朝臣正成公ヲ□□□
安置スベシ*3トノ旨指
令アリ
*1 彼隊=回天軍
*2 「恐多クモ今日迄私宅ニ奉祭仕候」=益田親施公以外の死者の霊を兼重の自宅に祭っていたという意味。 *3 「贈正一位楠朝臣正成公ヲ□□□安置スベシ」=文書館本に従って「□□□」の部分に「中央に」と補筆した。幕末に水戸史観の影響で勤王論が盛んになると、徳川光圀によって「勤王の忠臣」 として顕彰された楠正成は、天皇に忠義を捧げるのを最大の美徳とする幕末の若者達の精神的な拠り所となった。 |
同十日 上棟祭併ニ招魂祭ヲ執行セリ。式竟リ大谷丈右衛門宅ニ於テ
直会*1ノ酒肴ヲ賜ハル。宴盛ニシテ歓声場ニ満ツ。
夜十二時ニ至リ開散セリ。
右明治三年庚午三月三日*2 同盟員各手記ヲ携ヘテ相会シ之ヲ参照
編纂シ名ケテ回天実記ト云フ。分テ二巻トス。
*1 直会=(なおらい)神事の終了後、供え物を参会者が分かち食べる宴会。
*2 「明治三年庚午三月三日」=この日付は「回天実記」の編纂に着手した日であって、完成した日ではない。その判断理由は以下の通り。 @145頁に「鴻城学校」の名前が登場する。鴻城学校が開校したのは明治8年の事であって、明治3年にはまだ存在していない。 A165頁の記述から太陽暦と陰暦の時刻表示が混在し始める。太陽暦は明治5年12月3日を明治6年1月1日として始められた。 以上の事から、「回天実記」が完成したのは明治8年以後と判断する。但し、何時完成したのかは残念ながら判らない。 |
(完)