「回天実記」 (その6)

P144からP174まで
 



     

P144   (慶応元年,1865 9月)

レバ、兼重五郎四郎等ハ貫野村*1引拂ヒ帰須佐スベシトノ命アリ。
奇兵隊ハ軍監 林半七萩藩士ヲ以テ 須佐処断事件ノ担任ト定メ、山口滞在ニテ
政事堂ノ議事ニ参与セリ。尚参謀 福田良助、参謀兼書記□□□□時山直八□□書記 片野
十郎等ノ諸氏モ時々出山口*2、大ニ周旋スル処アリ。

9月十六日 御手廻り総代市山淳蔵益田家臣、中士、御手廻組始六名少輔、泰蔵、仁蔵、浪江、健三 ならび栗栖鬼助益田家臣、中士、御手廻組
宇野魁助益田家臣、中士、御手廻組松井平輔益田家臣、中士、御手廻組等突然幽囚セラル*3。其他御手廻ノ内冤罪えんざいニテ所
罰セラルヽ者多シ。栗山百合熊即夜出発、山口諸隊会議所*4ニ至リ
大橋三樹三益田家臣、回天軍小隊司令ニ面接シ、同伴政事堂ニ出頭シテ広沢氏広沢真臣、波多野金吾ニ報知セシニ広沢
いわク 幽囚ノ諸氏しばらしのンデ静穏せいおんナラバ其命そのいのちニ関スル程ノ急ハアルベカラ
ズ。すで代役桂主殿召喚しょうかんノ命ヲ発シアレバ、不日ふじつ山口ノ期ニ接セリ。安神スベシトノ
答ニ依リ退出シ、百合熊ハ帰須佐ス。
百合熊出山口ノ後、中村藤馬益田家臣、四組、回天軍会計隊用ニテ帰須佐シ、事おわリテ出発セシニ

*1 一貫野=P44脚注*2参照。
*2 参謀兼書記 □□□□ □□ 片野十郎等ノ諸氏モ時々出山=草稿本には□□□□ □□の個所に「時山直八 書記」が挿入されている。こちらが正しいと思われる。 尚、乙丑二月改の「奇兵隊人数附」によれば参謀 福田良輔、参謀兼使役陣場見合 時山直八、参謀兼旗奉行 片野十郎となっている。(出典=「山口県史」史料編 幕末維新6 992頁参照)
*3 同十六日 御手廻総代 市山淳蔵 始六名 并ニ栗栖鬼助 宇野魁介 松井平輔等 突然幽囚セラル=何故幽囚されたのか不明なるも128頁の終わりの7行の記述参照。。
  少輔=山下少輔。益田家臣、中士、御手廻組。P1262〜3行目参照。
  泰蔵=松原泰蔵(泰三、)益田家臣。中士、御手廻組。
  仁蔵=松原仁蔵。益田家臣、中士、御手廻組。
  浪江=大塚浪江。益田家臣、中士、御手廻組。
  健三=中井健三。益田家臣。中士、御手廻組、回天軍。
*4 諸隊会議所=P123脚注*8参照

P145   (慶応元年,1865 9〜10月)

上小川村現萩市田万川ニ於テ多根卯一益田家臣、上士、大組、剣豪ノ農兵ヲ指揮シテそのみち ヲ遮ラシムルニヒ、遂ニ捕
ヘラレタリシモ邑政堂ニ至リ弁解よろしキヲ得テまぬガレタリ。

9月廿四日、御代役桂主殿須佐発駕ニテ出山口アリ。本藩政府ニテハ御政務 国貞直人萩藩士、干城隊頭取、国政方
氏、御目付 杉 篤助氏*1主任トナリ、奇兵隊林半七氏萩藩士、奇兵隊軍監、鴻城学校*2督学
坂上忠助氏*3その事ニ参与シテ俗論処罰ノ御沙汰書 及 大谷
樸助・河上範三 二氏罪状取シノ御沙汰書ヲ調ととのヘテ御代役桂主殿下渡さげわた
サレタリ。

十月十二日、御代役桂主殿山口発駕。萩ヲ経テ帰須佐。翌十三日着須佐アリ。

10月十四日、邑政堂役員ノ更迭こうてつ其他改革ノ令ヲ発セラル。

御領分外隠居  元職役   益田三郎左衛門
永々遠嶋*4    元当役   栗山 翁輔
御領分外隠居  御用人   多 順左衛門
*1 杉 篤助
*2 鴻城学校=「回天実記」の編纂が明治3年3月3日で鴻城学舎の創立が明治8年では時期が合わない。すると明治3年は「回天実記」編纂作業の着手の年で完成は明治8年以降かという疑問が生じる。
*3 坂上忠助=初名恒、後に忠介、寓所と号しまた作楽山樵と号す。晩年冲所の号あり。萩藩寄組口羽氏の家人なり、中村牛荘に学び、また江戸に赴きて安積良斎、羽倉用九の門に学ぶ。 嘉永安政の際諸藩有志の士と交わり正義を唱う。安政中美祢郡に移りて教授す。4年擢でられて明倫館教授となる。文久2年江戸有備館教授に転ず。馬関の役に命を以て九州諸藩に使いす。 慶応2年須佐学校の教授となり、居ること11年、明治9年前原の乱に連座して京に錮すること3年、尋いで塾を京に開く。22年東京に移り、23年10月14日没。年73。詩集一巻あり。
*4 遠島=流刑の一つ。罪人を萩沖合の見島大島などに島流しにすること。有期と無期があり、有期はおよそ2年以上であるが、処刑の際にはあらかじめ刑期を定めず、 配流後の情状によってこれを召還した。無期(永遠島)は武士庶民ともに罪状によって決するが、非常の大赦でないと召還せず、死罪を一等減じて遠島に処した者は、10年を経過しないと情状酌量の詮議がされなかった。 (出典=「山口県史」史料編 幕末維新1 1059頁)

P146   (慶応元年,1865 10月)

仝 上       仝 上    波田 与市
永々遠嶋      北強団    多根 卯一
遠 嶋       仝 上     仲井 半四郎
仝 上       仝 上     宅野 太郎
仝 上       仝 上     山崎 十郎左衛門
逼 塞       仝 上    松野 重内
仝 上       仝 上    内藤 磋亮


         大谷午太郎大谷樸助長男、益田家臣、中士、御手廻組へ御沙汰書
               大谷午太郎
右父樸助義 先年来正義ノこころざし厚ク
為国家こっかのため*1令尽力周旋じんりょくしゅうせんせしめ候処 却而かえって 罪科処置ニ有之これあり 御不便

*1 為国家(こっかのため)=長州藩のため。幕末の日本ではまだ統一国家としての国家意識はなく、国家とは夫々の藩の事であった。

P147   (慶応元年,1865 10月)

被思召おぼしめされ候 依之これによって罪状御取揚 火中ニ被仰付おおせつけられ候条 ふかき
御仁恵ノ程かんたい被仕つかまつられ 正義ノこころざしヲ励ミ 往々ゆくゆく可被遂忠勤ちゅうきんとげらるべく
候事
     慶応元年十月

右御処分ニ就テハ 奇兵隊牧小太郎津田公輔変名英 次郎村岡彦十郎変名村上研吾・中村泰一変名玉川小文吾黒谷豫四郎変名
木村敬助西尾壮輔変名御代役桂主殿ニ従ヒテ帰須佐スベキノ命アリト雖モ、都合ニ
依リ十四日10月発程帰須佐セリ。然ルニ御発令後数日ヲ経過スルモ俗論党
処罰ノ実行挙ラザルヲ以テ、村上研吾中村泰一変名玉川小文吾黒谷豫四郎変名等ハ実況報知
ノ為出山口シテ林半七氏萩藩士、奇兵隊軍監 須佐行ノ事ニ決シ、研吾中村泰一小文吾黒谷豫四郎等ハ吉田本
営ニ帰リ、山下範三郎益田家臣、回天軍、奇兵隊、林□□半七ニ随行シテ須佐来着アリ。本町須山
平助宅ニ投宿、御代役桂主殿ニ面会シテ御沙汰ノ通リ神速実行ヲ挙
ゲラレ度旨ヲ述テ督促セリ。よっテ或ハ配所ニ護送シ

主なる人物に対する処罰は次のように実施されたことが判明している。(出典=「温故」第十六号 益田三郎左右衛門の「江崎滞留中日裁」)
◆益田三郎左右衛門=慶応元年10月25日に須佐の隣村、江崎(現萩市田万川)の庄屋・造り酒屋大谷六郎左衛門宅へ居候。気分相につき介抱役として夫人、下女1人、中間1人を連れて引越した。 翌慶応2年5月18日許されて家に帰る。この時波田与市を同道して帰邑した。
◆栗山翁輔=慶応元年12月7日渡海。流刑先は大島と思われる(「温故」70頁「今朝六ツ時官治帰須佐之事 大嶋より之書状官治持参之事」とあり前後の文脈から大嶋から届いた翁輔の書状のことと考えられる)。 荻野隼太(佐々木毅)の「松■遺稿」には「栗山嵩涯墓誌銘」として「乙丑国内之乱 邑亦生党議 事連執職 先生以下用事者 羅織罪累 投竄不留一人 雖然先生之在配所 県官某 以有旧故 待遇甚厚  至使先生忘幽厄之苦 以丙寅某月 遇赦帰家」とあり、同じく慶応2年(丙寅)に釈放されている。「某月」とは恐らく5月18日であろう。(■=手偏に敦)
◆波田与市=慶応元年11月24日に引越。引越先は不明だが、益田三郎左衛門の「江崎滞留中日裁」では与市は屡々三郎左衛門を訪問しており赦免された時は三郎左右衛門と一緒に須佐に戻った。

P148   (慶応元年,1865 10月)

或ハ門戸ヲ閉鎖シおのおのその罰ヲおわレリ。

ここニ於テ奇兵隊ヨリ帰須佐ノ四名モ元回天軍惣代トシテ主家へ対スル敬礼ノ
為メ差控さしひかえヲ申出ルニ決セリ。その覚書左ノ如シ。

        覚
去冬已来いらい御内輪正俗両立ノ件ニ付而ついてハ 乍不及およばずながら私共御国家長州藩
ノ御為筋ヲ一途いちず相考あいかんがえ尽力周旋仕候つかまつりそうろう義ニ御座候得共そうらえども 自然
不一方ひとかたならぬ御厄害ニ立至リ候段 幾重モ奉恐入おそれいりたてまつり候 依之これによってまず差控居さしひかえおり
候間 此段宜敷様御沙汰被成下なしくだされ候 以上
慶応元年 十一月廿三日*1 津田公輔

英 次郎村岡彦十郎変名山下範三郎益田家臣、回天軍、奇兵隊木村敬助西尾壮輔変名等同文。故ニ 略之これをりゃくす

右覚書ヲ出セシニおのおの逼塞ひっそく*2ノ沙汰アリ。但 英次郎 *3ハ萩居住ナル故ニ其命ナシ

10月廿六日 牧小太郎津田公輔変名等逼塞ヲゆるサル。 

*1 十一月廿三日=十月廿三日の誤りか。次頁に「十一月三日」の記述有り、日付が戻るのは不自然。
*2 逼塞=江戸時代、武士に加えた刑。門を閉ざして昼間の出入りを禁じたもの。
*3 英次郎=村岡彦十郎変名。益田家臣、回天軍、奇兵隊。「萩居住ナル故ニ其命ナシ」と言うのは、萩益田邸内に居住していたからか、それとも萩市内に居住していたが萩は益田領ではないから と言う意味か、いずれであろうか。

P149   (慶応元年,186510月〜同2年,18661月)

10月廿七日 林半七氏発程帰陣アリ。

十一月三日*1 牧小太郎津田公輔変名英次郎村岡彦十郎変名 山下三郎益田家臣、回天軍、奇兵隊木村敬助西尾壮輔変名等奇兵隊ニ帰ル。

11月廿二日 須佐ヨリ御直使増野善右衛門益田家臣、上士、大組松原齢助益田家臣、上士、大組等吉田駅来着、
奇兵隊本陣ニ至リ昨年以来弊須佐混雑ニ就テハ多人数入隊シテ御厄
害ニナリタル由ヲ謝シ、今般平和混一ニナリタル上ハ軍事手組*2差支さしつかえモアレバ
除隊ノ取計とりはからいヲ乞フ旨ヲ頼談セシニ、奇兵隊ニハ隊中規則モアレバみだりニ除隊
スベカラザルハ勿論ナレドモ貴藩ヨリ入隊ノ諸士ヘ熟議ノ上回答致スベキ由ヲ
答ヘタルニ依リ善右衛門等帰須佐セリ。

慶応二丙寅正月廿七日 須佐ヨリ大田丹宮益田家臣、上士、大組増野善右衛門益田家臣、上士、大組金子新蔵
大谷岩尾益田家臣、上士、大組、宇谷・須佐地組頭役等ヲ奇兵隊ニつかわス。丹宮等いわク  昨年□□□十一月*3弊邑須佐入隊者除隊
ノ件相伺あいうかがヒタリシニ尓後じご回答無之これなきニ依リ来隊セリト。奇兵御神本みかもと当時益田ヲ改メテ御神本ト称ス
御同列中ニ於テ 鈴尾家当時福原ヲ改メテ鈴尾ト称スノ如キ多人数

*1 十一月三日=江崎へ領外追放になった益田三郎左衛門の手記「江崎滞留中日裁」(温故第十六号))によると、11月4日の項に、 この頃須佐藩はミネー小銃百挺調達を計画し、益田丹下が繋ぎ融資金策のため追放中の三郎左衛門の元へ相談に来ている。四境戦争に備え須佐藩でも 急遽武装強化を図りつつあった事が判る。
*2 手組=部隊を編成すること。
*3 「昨年□□□」=文書館本の記述に基づいて補筆した。

P150   (慶応2年,1866 1〜3月)

ノ入隊ヲ許シタル例アレバ御神本みかもと家ノ名家ニシテ当入隊員ヲ減ジタレバトテ 御
軍制上□□□非常ノ影響モアルマジク*1 加之しかのみならず在隊員ニ於テモ須佐中既ニ平和ニ帰シタレバ、北
*2要衝ニ当ルベキ応分ノ責任ハ尽シ難キニラザルヲ以テ、本隊ニ入ル者ハ益々
ふるっテ報国ノ赤誠ヲあらわシ、益田家即チ御神本家ノ光輝ヲ発揚セントスル
ノ精神ナル由ナレバ、除隊ノ件ハだくがたシト回答セリ。

 

1月廿八日 大田丹宮益田家臣、上士、大組等本陣ニ至リ更ニ応接ヲ開キタルニ、須佐ヨリ在隊員ノ内
二名帰休ヲ命ズベキニ依リ、帰休中適任適当ノ御用ヲ命ゼラルベキハ*3勿論御随
意ナリ。除隊ノ事ハ貴命ニ応ジがたシト断然謝絶シテ局ヲ結ビ丹宮大田
等帰須佐セリ。

二月十四日 隊命ニ依リ坪嶌正三中村藤馬変名玉川小文吾黒谷豫四郎変名等帰セリ *4

 

三月十四日 坪嶋正三中村藤馬変名玉川小文吾黒谷豫四郎変名等帰陣セリ。帰須佐ノ日、直ニ邑政堂ニ出頭シテ
去月大田丹宮益田家臣、上士、大組等来隊ノ際入隊員ノ内二名帰休ノ約アルヲ以テ、当度

*1 「御軍制上□□□ノ影響モアルマシク」=文書館本の記述に基づいて□□□の部分を補筆した。
*2 北門=北長門。
*3 「帰休中適任ノ御用ヲ命セラルベキハ」=文書館本は「適任」ではなく「適当」と記述している。
*4 「坪嶌正三 玉川小文吾等帰休セリ」=文書館本は「帰休」ではなく「帰須」と記述している。

P151   (慶応2年,1866 3〜4月)

えらバレテ帰休セシ由ヲ届出とどけいでタリトいえドモ、滞須佐 中一ノ公用ヲモ命ゼラレザリシト復命ス。

同廿四日 政事堂ヨリ御政務国貞直人氏萩藩士、干城隊頭取、国政方須佐行ニテ大谷丈右衛門
*1ニ投宿シ、邑中ノ実況ヲ視察シ家臣一般大会議ヲ開キテますます
睦ノ情ヲ厚カラシメント欲スルニ依リ、奇兵隊入隊者除隊帰須佐ノ命アランコトヲ
山口ニ通報ス。よっテ政事堂ヨリ吉田本営ニ向テ其旨ヲ達セラル。然ルニ在隊
者ハさき大田丹宮益田家臣、上士、大組等来営ノ際陳述セシ精神*2 ナレバ、本ヨリ在隊者ノ
内 出山口、直接ニ政府ニ具申スベシトノ内諭ないゆアリ。

 

同晦日 村上研吾中村泰一変名坪嶋正三中村藤馬変名吉田発程山口ニ出タリ。 

四月一日 山口伊勢小路*3 諸隊会議所詰、奇兵隊時山直八ニ面会シテ出山口
ノ事情ヲ陳述セシニ、時山氏ハ御政務山田宇右衛門*4ニ計ルベシ、同氏ハ後河原*5
ニ在寓セリ。余モ同行スベシトノ事ニテただちニ山田氏ヲ訪ヒ、その情実ヲ細陳ス。山田氏
いわク政府国貞直人萩藩士、干城隊頭取、国政方ヲ須佐ニつかハシヽハ奸賊御処罰後ノ状況ヲ視察シ、ますます一和

*1 大谷丈右衛門宅=浦本町にあった。170頁参照。
*2 曩ニ大田丹宮等来営ノ際陳述セシ精神=149〜150頁参照。
*3 伊勢小路=伊勢大路(益田に向かう国道9号線が山口市内一の坂川に差し掛かる手前、武徳殿前交差点を斜め右に進む道路)の誤りではないか。
*4 山田宇右衛門=名は頼毅、号を星山または治心氣斎という。安政元年浦賀防御惣奉行参謀、同2年7月外艦応接掛として相島に出戍。文久元年英艦赤間関に泊するや 山田亦助と命を受けて出張。2年2月抜擢されて参政となる。8月学習院用掛となって上京し勤王の事に鞅掌す。帰国してまた参政となる。3年奥阿武郡代官。 慶応元年表番頭格に進み兵学教授。2月参政に復し大いに藩政を改革し兵備を拡張し幕兵の来攻を待つ。四境の変勲功多し。3年5月参政の首座に班し民政方改正掛となり 木戸孝允と力を合わせて藩政の刷新を図り、かねて少壮を誘掖し他日の発展を期す。同年11月11日病没。享年55才。
*5 後河原=(うしろかわら)現山口県立山口図書館北側一帯の町名。

P152   (慶応2年,1866 4月)

親睦ノ団体脱カヲ形ツ脱クランガ為ニシテ、即チ等ノ主家御神本みかもと*1ノ将来ヲおもんばカラルヽ
*2ノ恩命ニいでタリ。等従来正義ノ首領トシテ東西ニ奔走シ、 身粉骨
結果今日ノ恢復かいふくヲ見ルニ至レリ。しかレバ自今じこん 御神本みかもと家ノ柱石トリテ
いよいよ国家ノ大計ニ注目セズンバアルベカラズ。幸ニ政府ノ奇兵隊ニ命ジテ除隊
セシメントスルアリ、此機ニ際シテその命ニ応ゼザルハ功ヲ一簣いっきクモノナリト懇篤こんとく
丁寧ニ諭説説諭カ*3セシヲ以テ、研吾村上・中村泰一変名等情ニ於テ否ムベカラザル場合トナレバ、暫ク首ヲ
傾ケタリシガ、山田氏宇右衛門曰ク等忠愛ノ赤心 幸ニ余ガげんニ感ズル処アラバ一応
帰陣ノ上在隊員ニ熟議シテ、可成なるべく一同帰須佐ノ事ニ決スベシト。談おわリテ退出
シ、時山ニ別ヲゲテ山口ヲ発シ吉田ニ帰レリ。

4月二日山県狂助氏*4山口行ニ決シ、村上研吾中村泰一変名坪嶋正三 中村藤馬変名ハ先発急行セリ。牧小太郎津田公輔変名
山県ニ随行シテ船木*5ニ一泊シ、翌三日4月山口ノ後山県氏ハ政府ニ出頭シテ須佐入
隊者除名ハ国貞氏直人ノ請求ニいでタル事ナレバ、須佐ニ至リ国貞氏ニ直接談判

*1 御神本=118頁参照。
*2 君侯=毛利敬親。
*3 諭説=文書館本は「説諭」。
*4 山縣狂助=山県有朋。幼名辰之助、次いで小助(小輔とも)のち有朋と改む。千束狂介は一時の通称。素狂含雪等と号し、また芽城椿山荘主などの別号あり。 天保9年閏4月萩川島に生る。父は三郎有稔といい軽卒。夙に志を立て文武に励み安政5年19才の7月松下村塾徒5人と命を受けて京都の状況視察に赴く。 帰国後村塾に入り松蔭の教えを受く。既にして松蔭再び投獄せられて師事すること久しからず。慶応元年奇兵隊軍監となり絵堂、長登の一戦に藩論統一の偉業を成就す。 維新の際、越後口官軍の参謀たり。次いで欧州を視察し帰朝後陸軍中将に任じ爾来我が国軍政の要路に当たり、日清戦争には第一軍司令官、日ロ戦役には参謀総長たり。 或いは枢密院議長となり、或いは台閣に列して首班たり。明治大正を通じて重臣の一人なりしこと遍く世の認めるところ、明治17年華族に列し、伯爵、28年侯爵、40年公爵を授けらる。 元帥陸軍大将従一位大勲位功一級たり。大正11年2月1日薨す。歳85。国葬を賜う。
*5 船木=船木=現厚狭郡楠町船木。寛永12年参勤交代の制を設けると同時に、本陣が置かれ、舟木宰判が設置された。郡政の中心地として人馬の往来頻繁たり。 御茶屋、代官所(勘場)、御物送番所?、牢屋、旅人荷付場、御高札場、一里塚などがあった。

P153   (慶応2年,1866 4月)

ヲ開キ果シテ帰サヾルヲ得ザルノ情実アラバその指揮ニ従フベキ旨ヲ約ス。しかルニ世子君毛利元徳
吉田奇兵隊ニ御巡覧ノ事アルニ会シ、山県氏狂助ハ急ニ帰営セザルヲ得ズ、故ニ須佐
行ノ事ハ福田氏義平、奇兵隊ニ嘱セラレタリ。

 

4月四日 福田氏須佐ニ向テ出発。牧小太郎津田公輔変名村上研吾中村泰一変名坪嶋正三中村藤馬変名随行ス。
4月五日    宿 *1
□□□同六日福田氏等国貞直人氏萩藩士、干城隊頭取、国政方旅寓大谷丈平ニ至リ応接セリ。福田氏ハ在隊員ニ
於テハもとヨリ正義回復、須佐渾カ和ノ目的ヲ以テ今日迄運動セシ者ナレバ、仮令たとい
須佐セザルモ、為メニ経隔けいかく*2ヲ生ズルノうれいすこし無之これなく 、且、三国老益田、福原、国司ノ内鈴尾福原
家ハすでニ数十名ヲ入隊セシメ、高田元国司家ハ健之助殿*3自ラ率先シテ入隊セ
ラレ、とくに御神本みかもと家ニシテ諸隊ニ気脈ヲ絶ツノことわりアランヤ。又奇兵隊ニ於テモ一時ニ隊
員数十名ヲ除クハ実ニ困難ノ至リナリト縷々るる弁解アリテ、ついニ在隊員ハ御神
本家ヨリ公然入隊ヲ命ゼラレ、もっとも在隊員ノ内五名ヲ撰抜シテ帰邑報ゼシムベシ
ト一決セリ。談おわリテ福田氏義平、奇兵隊ハ笠松邸ニ至リ、桂主殿とのも殿ニ面謁めんえつヲ乞ヒテ談話アリ

*1 「同五日 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□  □□□福田氏等…」=浄書の時の一行書き落としと思われる。文書館本に拠り、補筆した。
*2 経隔=127頁*3参照。
*3 高田健之助=国司純行。実は志道安房元襄二男。明治26年2月18日卒。享年41才。

P154   (慶応2年,1866 4〜6月)

4月七日 福田氏義平、奇兵隊須佐出発。坪嶋正三中村藤馬変名随行シテ帰陣アリ。牧小太郎津田公輔変名 村上研吾中村泰一変名ハ数
日滞須ノ上帰陣セリ。

ここニ幕ハ征長ノ議ヲ決シ*1、紀伊大納言徳川茂承*2 、老中小笠原長行等諸軍ヲ
ベテ広嶋ニやど*3その召ニ応ジテ至ル処ノ 戸備後介ヲとらヘテかえサズ。不当ノ
要求ヲスニ依リ、諸隊ハ応戦ノ準備ヲおさ*4

 

匆々うとそうそう*5六月ニ至リ幕兵四境*6ニ迫リ、 まさニ兵端ヲ開カントスルノ勢ナルニ依リ、干城
隊・鴻城軍ハ山口、八幡隊は小郡、御楯ハ三田尻 、遊撃軍ハ芸州口南、奇
兵隊ハ上ノ関、膺懲隊ハ芸州中街道口、南園隊ハ石州口*7、奇兵隊・長
府一手・萩干城隊、并、あわせて町兵・遊軍・山口屯兵・足軽大隊ハ九州小倉口引受ケ
トナリ、其他そのた岩国、三支藩*8、御一門*9手配リてくばり 定リテ各へ出張セリ。

 

6月五日 奇兵隊ハ吉田営所ヲ引揚ゲ、長府一ノ宮現下関市一宮町へ出張ス。
6月七日 幕艦一艘大嶋郡安下あげのしょう*10ニ発砲セシヨリ、毎日出没シテ 前嶋まえじま久賀くか*11

*1 征長ノ議ヲ決シ=第二次長州征伐。
*2 紀伊大納言=原文「徳川蔑照」は徳川茂昭の誤記なるも徳川茂承(もちつぐ)の誤り。
*3 次シ=とまる。やどる。止まる。至る。
*4 修ム=そなえる。
*5 烏兔匆々=烏飛兎走と同じ。歳月の速やかに過ぎ去ることを言う。「兔」が正字、「兎」は俗字。「広辞苑」は「烏兎」。
*6 四境=24頁脚注1参照。
*7 石州口=須佐北第1大隊も石州口を引受た。
*8 三支藩=清末、長府、徳山の各末家。
*9 御一門=三丘宍戸家と右田、厚狭、吉敷、阿川、大野の各毛利家。
*10 安下庄=現大島郡(屋代島)橘町。四境戦争は慶応2年6月7日幕艦一艘が上関、安下庄村、油宇村の沿岸に砲撃を加えたことにより始まった。
*11 前嶋、久賀村=前嶋は屋代島の北に浮かぶ島。久賀村は現大島郡(屋代島)久賀町。ここに大島宰判の勘場があった。

P155   (慶応2年,1866 6月)

辺ヲおびやカス。

 

6月十一日 四ツ時午前10時、軍艦四艘*1大嶋郡久賀村ニ、同二艘 *2同郡安下庄ニ襲来。いず
レモ揚陸シテ兵端ヲ開キシヨリ尓後じご戦争ノ報道殆ド虚日きょじつ*3ナシ。

6月十六日 高杉晋作氏長府一宮ニ来営アリテ奇兵隊各々司令官以上
諸隊将校会議ノ上豊前国小倉地現北九州市小倉北区出張ノ幕兵ヲ進撃ノ事ニ決シ、
同夜八ツ時午前2時整列馬関下関へ出陣ス。長府報国隊モ出張セリ。

6月十七日暁 丙辰へいしん艦・癸亥きがい艦・こうしん艦・ 乙丑いっちゅう艦・丙寅へいいん艦ノ五艘ヲ二手ニ分チ
田ノ・門司関ヲ攻撃シ、我陸軍ノ門司関ニ奮進スルヤ幕兵忽チ敗
走。八ツ時午後2時馬関ニ凱旋セリ。これ即チ小倉口ノ一戦ナリ。 

6月十七日朝五ツ時午前8時石州口現島根県と山口県の県境開戦セリ。南園隊・精鋭隊・第二大隊一手トナリ
共ニ横田口JR山口線石見横田付近ヨリ、清末・須佐ノ諸兵ハ高津口現益田市高津大橋付近ヨリ益田現島根県益田市屯集ノ浜田・福山・其
他諸藩ノ兵ヲ追カ撃ス。幕兵敗走、我軍益田ニ入ル。于時ときに八ツ半時午後3時ナリ。

*1 軍艦四艘=(久賀村を砲撃)幕艦富士山丸、汽船翔鶴丸、八雲丸、帆船朝日丸。
*2 同 二艘=(安下庄を砲撃)富士山丸、大江山丸
*3 虚日=何事もない日。暇な日。

P156   (慶応2年,1866 6月〜慶応3年,1867 1月)

右ハ丙寅慶応2年四境ノ役開戦ノ要路ナリ。その詳細ハ公私編纂へんさんノ戦記アレバ今此
記中ニぜいセズ。*1

小倉口ハ十月十日 賊軍ノ巣窟そうくつ香春かわらニ進撃セントスルノ際、彼ヨリ止戦和睦しせんわぼく
ヲ乞フ。遂ニ企救きく郡六万石ヲキ、長州ノ支配トスヲ約シテその談判ヲ
結了セリ。*2

慶応三年丁卯ていぼう正月 奇兵隊ハ隊員大半帰休セシメタリ。須佐滞在カ者ハ帰
休中左ノ恩命アリ。

       御沙汰書
                津田 公輔 殿
右奇兵隊ヘ入隊人数内 此度こたび帰省ノ士分へきたル廿六日
御夕飯後
若旦那様益田精次郎御目見おめみえ被仰付おおせつけられ候 尚又なおまた 去夏已来いらい 小倉地出張 数
*1 贅セズ。=みだりにしゃべらない
*2 四境の役=第二次長州征伐を長州では《四境戦争》と呼ぶ。幕軍は芸州口、石州口、周防大島口、小倉口、萩口の五方面から攻める作戦であった。 しかし薩長密約で薩摩兵は萩口攻撃に出兵せず、広島藩は中立を守り、その他の大藩が参戦を拒否したので作戦が大幅に狂った。
◇6月7日大島口で兵端が開かれ大島の惨状が伝わると長州藩を激憤させた。高杉晋作の奇兵隊の一部が差し向けられ6月17日には幕兵と松山兵は大島から掃討された。
芸州口は6月14日先鋒の井伊家の軍勢が小瀬川を渡河する時、山上から一斉射撃を浴びせられ大敗した。大竹の榊原家の軍勢も同じように敗走した。 追撃した長州兵は幕軍の本拠地大野を目指したが小方で幕軍の反撃に遭い激戦となった。そして七月中旬まで膠着状態が続いた。最後の決戦は八月七日、台風の中で行われ幕軍が敗退した。
石州口では長州軍は藩境を守るのではなく、積極的に進攻した。参謀大村益次郎が率いる南園隊、精鋭隊、須佐清末兵などである。 6月17日幕軍の拠点益田を占領し浜田に迫り18日浜田城を自焼させた。
小倉口は幕軍の主戦派老中小笠原壱岐守長行(ながみち)が小倉を前進基地にして兵力を集中していたが6月17日の緒戦で長州軍は門司、田ノ浦の陣地を焼き払い勝利。 奇兵隊などの陸戦隊が砲撃の援護を受けて上陸を繰り返したが、幕軍は陸戦の前線で小倉藩兵が孤立。7月27日長州勢が軍艦4隻、大小の船舶数100艘で大上陸作戦を敢行し小倉を目指した。 その間7月20日将軍家茂が大阪城で病没すると小笠原壱岐守は7月30日現地を離れてしまった。8月1日小倉城自焼。
◇9月4日幕軍は全面撤退して四境戦争は終わった。

P157   (慶応3年,1867 3〜9月)

苦戦
為国家こっかのため 不容易よういならざる尽力段 神妙義ニ
被思召おぼしめされ候 依之これによって銘々めいめい末々すえずえ迄  同日御酒頂被仰付おおせつけられ候条
右様被相心得あいこころえられ 向々むきむき可有通達つうたつあるべく候事
    正月廿四日

三月慶応3年 奇兵隊ハ徳山山崎隊ト小倉地ノ警固ヲ交代シテ吉田本営ニ引揚
ゲタリ。

九月慶応3年ニ至リ両君毛利敬親・元徳ノ御正義貫徹ノ機ニ際シ、薩州 島津茂久モ上京御周旋しゅうせん
ルニ依リ奇兵隊・南奇兵隊*1・振武隊・鋭武隊・膺懲隊等各一中隊*2
ヲ撰抜シテ總員千余人上京ノ命アリテ三田尻迄出張シ、数日ヲ経過スルト
いえドモ出港ノ命無之これなきヲ以テ奇兵隊ハ吉田本営ヲ引揚ゲ全軍三田尻
へ出張シ、光明寺*3滞陣ニテ山県狂助氏*4ヲ始メ諸将校周旋しゅうせんアリテ遂ニ

*1 南奇兵隊=慶応元年1月下旬白井小助の創立。大島郡と室積辺の有志の集団、後奇兵隊総督山内梅三郎が第二奇兵隊総督を兼務。慶応2年脱走倉敷で乱妨。幕長戦では大島口で戦闘 萩で来島又兵衛が募兵し清光寺に駐屯の第二奇兵隊(後の鷹懲隊)とは別組織(山口県史諸隊一覧)
*2 中隊=二小隊=四半小隊。 四中隊=二半大隊=一大隊。(一小隊→28〜36人 慶応元年の軍制)明治元年(1868)10月28日、益田家の一小隊が浜田へ出張したときの人数は 60人であった。 従って一中隊は120名。「山口県史」史料編幕末維新6 1097頁参照。
*3 光妙(明)寺=三田尻に所在。真宗。恵日山と号す。文明6年創建、開基は大和国高市郡住人、本願寺第八世蓮如上人に帰依し一宇を大和国高市郡に建立す。 爾来諸国を巡遊の折柄、安芸国へ滞在中一宇を建立光妙寺と号す。慶長年中第三世の住僧明賢檀徒と共に当地へ移転して現在に至る。
*4 山県狂助=152頁脚注*4参照。

P158   (慶応3年,1867 11〜12月)

*1廿六日 上京ノ諸兵乗船、摂州西宮現兵庫県西宮市ニ揚陸。厳粛げんしゅく ナル行軍こうぐんニテ
京師京都ニ入ル。

十二月十日 両君毛利敬親・元徳入洛じゅらく御免おゆるし、御官位元ノ如ク復セラレタリ。

今度大樹徳川慶喜奉帰政権せいけんをかえしたてまつり
朝廷一新折柄 彌以いよいよもって天下人心居合おりあい不相附あいつかずニ於テハ 追々おいおい復古典モ
難相行あいおこないがたく
深被悩宸襟ふかくしんきんをなやまされ*2候 且 来春御元 ならびに 立太后  追々おいおい御大礼*3被為行おこなわせられ*4 且又かつまた
先帝孝明天皇御一相成あいなり候ニ付*5 猶更なおさら人心一和専要せんよう被思召おぼしめされ候間 先年
来 防長事件 彼是あれこれ混雑有之これあり候得共そうらえども 寛大御所置 被為在あらせられ
大膳父子毛利敬親・元徳 末家等被免入洛じゅらくゆるされ 官位如元もとのごとく被復ふくされ候旨 *6被仰出おおせいでられ候事

     丁卯ていぼう・慶応3年十二月十日*7


積年精忠貫徹、且、。此ここニ入京満足ニ被思召おぼしめされ候。なお御守衛場
*1 十一月=原文は「十二月」だが「十一月」の誤記。「防長回天史」第五編下 九 505〜7頁参照
*2 宸襟=天子のみこころ。
*3 御大禮=即位、立后などの朝廷の重大な儀式。
*4 来春御元腹 立太后 追々御大礼被為行=慶応2年(1866)12月25日孝明天皇崩御(35才)。慶応3年1月9日、第二皇子祐宮睦仁(さちのみやむつひと)親王践祚、 明治天皇睦仁となる。数え年16才。同年10月15日大政奉還。慶応4年8月27日即位の大礼。同年9月8日、明治と改元。同年10月13日東京遷都、同年12月28日一条忠香の娘美子 (はるこ、婚前の名は寿栄姫)とご成婚。(東京遷都は正式には明治2年3月28日とされている)
*5 「先帝御一同ニ相成候ニ付」=「御一同」は「御一周」の誤記である。慶応3年12月25日は孝明天皇崩御から一周忌に当たる。
*6 被免入洛 官位如元被復候=文久3年8月18日の「堺町御門の変」により、長州藩は堺町御門の警衛を解かれ、毛利敬親、元徳父子の入洛を禁じられた。 この冤罪を雪がんとして翌元治元年「蛤御門の変」が勃発。戦いに敗れた長州藩は朝敵となり、第一次、第二次長州征伐の幕軍を差し向けられたが、 四境戦争の勝利によって幕軍を防長から掃討し名誉を回復した。毛利敬親は大膳大夫に復し、藩主父子以下末家の入洛も許され、茲に8.18事件以来懸案であった長州藩の正義貫徹が成就した。
*7 =この「朝裁」は「防長回天史」5の下 P429所載のものと同文である。但し、次のように若干文言に差異がある。
◇官位復旧の日付は防長回天史では12月8日となっている。
◇「御一同」は「御一周」となっている
◇「専要ニ被思召」は「専要に被思食」となっている
◇「先年来防長之事件彼是混雑有之」の「混雑」は「困難」となっている

P159   (慶応3年,1867 12月〜明治元年,1868 3月)

儀ハ 追而おって可被仰出おおせいでらるべく候事

右ハ中山ヨリ御口達こうたつノ書取ナリ。

同十八日 蛤御門御守衛たっしアリ。

同廿五日 奇兵隊ハ三田尻引揚ゲ。 吉田駅営所ニ帰ル。

明治元年戊辰正月三日 将軍 徳川慶喜よしのぶ一橋・会津・桑名・高松・宮津・姫
路・大垣等ノ各藩 大坂ヨリ入京ノ途次 伏見京橋ニ於テ応接ヲ開クノ末、遂ニ
成敗ヲ干戈かんかニ訴フルニ至リ*1所々転戦、賊軍敗走シテ同月六日ヲ以テ大坂落
城トナレリ。*2この役ノ詳細また公私ノ近世史ニゆずリテ今ハぜいセズ。 

三月 奇兵隊全軍上京ノ命アリ。十七日朝五ツ半時午前9時 本陣ノ急鼓*3ヲ期シテ各
隊整立、祝砲三発、全隊行軍ニテ出発シ長府ニ於テ喫飯きっぱん八ツ半時午後3時
馬関下関阿弥陀寺着。南部浜ニテ花陽鑑乗組。同夜八ツ半時午前3時抜錨

廿日 朝六ツ時午前6時兵庫ニけいせん四ツ時午前10時抜錨。
同夜九ツ半時午前1時大坂着港。

*1 「伏見京橋ニ於テ応接ヲ開クノ末 遂ニ成敗ヲ干戈ニ訴フルニ至リ」=戊辰戦争(鳥羽伏見の戦い)のこと。
*2 「同月六日ヲ以テ大坂落城」=1月6日慶喜大阪城脱出、1月9日大阪城炎上。落城の日付は9日が正しい。
*3 急鼓=原文の「急鞁」は「急鼓(きゅうこ)」の誤記。続け様にうつ太鼓。(鞁=車に付けた馬の飾り)

P160   (明治元年,1868 3〜4月)

暴風雨どとうノ為メ上陸ヲ得ズ。廿一日3月五ツ時午前8時天保山大阪安治川河口へ上陸。全隊
行軍ニテ安治川橋*1通リ天満*2東寺町ひがしてらまち智源寺其他そのた寺院ニ宿陣セリ。

同廿三日3月 天皇陛下大坂へ行幸ぎょうこう*3アリ。
同廿五日3月 八ツ時午後2時 赤門屋敷*4へ転陣セリ。
同廿六日3月 天保山へ行幸 海軍天覧てんらん*5アリ。
当度 各軍隊着大坂ニ依リ酒肴しゅこうヲ賜ハル。よっ四ツ時午前10時大隊行軍ニテ京橋*6
通り、桜宮*7ニ至レバ櫻花爛漫おうからんまんノ好時節、杯盤狼はいばんろうぜき *8 歓ヲ尽シテ帰営セリ。

四月二日 山県狂助福田義平 勅命ニリ江戸行。

同三日  長藩長州藩へ御沙汰。*9

明後五日 銃陣
天覧てんらん被為在あらせられ候ニ付その藩兵一大隊まず出スベク旨御沙汰
事 
*1 安治川橋=大阪市中之島の堂島川と土佐堀側が合流し安治川となる辺り。(詳細後述165頁参照)
*2 天満=大阪市で淀川から分かれた大川が大きく西に流れを変える寝屋川との合流点右岸一帯が天満。
*3 行幸=天皇が外出されること。
*4 赤門屋敷
*5 天覧=天皇がご覧になること。日本初の観艦式。
*6 京橋=JR大阪環状線が寝屋川を越える辺り。都島区東野田町。
*7 桜宮=桜ノ宮社(やしろ)は宝永6(1709)年に野田から現在地に移り、境内や周辺に数百本の桜が植えられ一帯は「桜ノ宮」と呼ばれた。 対岸(西岸)の蔵屋敷の役人たちも風流人ぞろいで対抗するように桜を次々植え、大川の桜宮橋から天満橋の間の両岸は桜の名所となった。 現在も造幣局の「通り抜けの櫻」は大阪随一の桜の名所として有名。
*8 杯盤狼藉=酒席の取り乱されていること。
*9 山県・福田勅命ニ依リ江戸行=「防長回天史」第6編上 10 152頁に「太政官代と行在所と懸隔して諸事不便の為め若し関東の事情に因り駐輦愈々久しきに渉らば京都の太政官代を 大阪に移さんとの議此頃廟堂内に在り、会々山県狂助関東の事情を視察せんと欲す。因って此月二日総裁局より大総督に送る書を山県に付し且つ備さに此意を致さしめ大総督府の 意見を徴す。山県は翌三日京をを発して東下す」と述べられている。

P161   (明治元年,1868 4月)

4月五日 雨天ニ依リ天覧順延。

4月六日 大坂城本丸ニ於テ薩・芸・越其他そのた二三藩ト火入調練*1天覧アリ。
奇兵隊ハ鋭武隊*2合併、即チ長藩一大隊トリ薩・藝・越ニついデ調
練セリ。練兵おわレバ各藩へ慰勞トシテ酒肴しゅこうヲ下賜セラル。九ツ時正午帰営。 

4月九日 恩賜ノ酒肴しゅこう配当ノ宴ヲ開ク。 

4月十日夕八ツ時午後2時 号ヲ以テ発軍。各隊行軍ニテ八軒屋 *3ニ至リ乗船シ
十一日朝伏見揚陸。竹田街道ヨリ大隊行軍ニテ九ツ時正午京都中立売
文武館ニ着ス。 

4月十五日 仁和寺宮殿*4・四條殿*5・一條殿 *6銃陣上覧ニ依リ朝五ツ時午前8時ヨリ大隊押ニテ
二條河原調練場ニ至リ調練アリ。おわハレバ三條縄手通リ*7東福寺*8
魂場ニ至リ大祭典アリ。暮七ツ時午後4時帰営。
仁和寺宮殿下ヨリ慰労ノ為御酒下賜セラル。

*1 火入調練=実弾射撃。
*2 鋭武隊=慶応3年2月21日、八幡隊・集義隊を合併して鋭武隊と改めた。総監堅田健助。同年12月20日東福寺駐屯諸兵の隊名を改称し、鋭武隊を第四中隊と称す。明治元年1月鋭武隊 (1大隊325人)尾道より海路上坂。2月上旬鋭武隊のうち1中隊東海道遠征。軍監は飯田竹次郎。5月15日中隊上野彰義隊攻撃に参戦。7月12日東北に出戦。11月東京に帰陣。従って、上記の在坂部隊は関東・ 東北に転戦した中隊を除いた残りの鋭武隊と考えられる。
*3 八軒屋=八軒屋船着場。現大阪市中央区京橋二丁目松阪屋南側。此処には東町奉行所があった。
*4 仁和寺宮殿=仁孝天皇の養子邦家親王の八男。安政5年(1858)3月27日親王宣下。得度、純仁親王。その後 還俗、嘉彰親王[仁和寺宮改東伏見宮]のち彰仁親王[小松宮]。
*5 四条殿=四条隆謌(たかうた)。尊皇攘夷派の公家の中で唯一の武人。後に大阪、仙台などの鎮台司令官。七卿落ち公家の一人。
*6 一条殿=一条忠香(ただか)。1812〜63。公家。内大臣、左大臣、日米修好通商条約勅許問題、水戸藩への勅錠降下など内政外交の朝議に列した。娘美子(はるこ)は明治天皇妃。
*7 三条縄手通=現京津三条駅前の大和大路通。
*8 東福寺=臨済宗東福寺派大本山、慧日(えにち)山東福寺は嘉禎2年(1236)より建長7年(1255)まで19年を費やして完成した。摂政九条道家が京都最大の大伽藍を造営しようとして奈良最大の寺院東大寺と 奈良で最も盛大を極めた興福寺から一字づつ取って寺名とした。工事半ばの寛元元年(1243)、聖一(しょういち)国師を開山に仰ぎ,まず天台・真言・禅の各宗兼学の堂塔を完備したが, 元応元年(1319),建武元年(1334),延元元年(1336)と相次ぐ火災のために大部分を焼失した。延元元年8月の被災後4ヶ月目には早くも復興に着手し,貞和3年(1346)6月には前関白一条経道により仏殿の上棟が行われ, 延元の火災以降20余年を経て,再び偉観を誇ることになった。建武被災の直前にはすでに京都五山の中に列せられており,再建後の東福寺は完全な禅宗寺院としての寺観を整えた。仏殿本尊の釈迦仏像は15m, 左右の観音・弥勒両菩薩像は7.5mで,新大仏寺の名で喧伝され,足利義持・豊臣秀吉・徳川家康らによって保護修理も加えられ,東福寺は永く京都最大の禅苑としての面目を伝え,兵火を受けることなく明治に至った。 しかし、明治14年12月,惜しくも仏殿・法堂(はっとう),方丈,庫裡(くり)を焼失。その後,大正6(1917)年より本堂(仏殿兼法堂)の再建に着工,昭和9(1934)年に落成。明治23(1890)年に方丈, 同43(1910)年に庫裡も再建され,鎌倉・室町時代からの重要な古建築に伍して,現代木造建築物の精粋を遺憾なく発揮している。また,開山国師の頂相,画聖兆殿司(ちょうでんす,明兆)筆の禅画など, 鎌倉・室町期の国宝・重要文化財は夥しい数にのぼっている。本堂と開山堂を結ぶ 「通天橋」の一帯は、洗玉澗と呼ばれる渓谷で紅葉の名所となっており、秋沢山の人々で賑う。

P162   (明治元年,1868 4月)

          御名(藩主公)
右 四方へ人数差出さしだし候儀ニハ候得共そうらえども 松平肥後会津藩主、松平肥後守容保ますます暴激ニつの
官軍ニ抗シ候段相聞あいきこえ候ニ付 北国地へ人数差向ケ、奥羽ノ官
兵ニ応援致候いたしそうろう様御沙汰
右 今般別紙
朝廷ヨリ御沙汰相成あいなり候ニ付 出張被仰付おおせつけられ候条 御不都合無之これなき
屹度きっと可致勉強べんきょういたすべく候事

4月廿四日 山県狂介氏山県有朋ハ北陸道鎮撫總督参謀ヲ任セラレタリ。 

4月廿五日 奇兵隊参謀時山直八・書記湯浅祥之助・会計方、器械
方、小荷駄方三・四ノ弐小隊、薩藩二小隊ト共ニ発陣。*1 

4月廿六日 奇兵隊参謀 三好軍太郎・書記 杉山荘一郎、会計方
小荷駄方一・二・三・五・六ノ五小隊、一・二・三・四ノ四砲隊、薩二小隊ト共発陣ス。

*1 「薩藩二小隊ト共ニ発陣」=文書館本は「薩越二小隊」と記述している。

P163   (明治元年,1868 4〜10月)

この奥羽ノ役 亦この記ニぜいセズ。

八月下旬 米沢藩上杉斎憲なりのり父子*1降ル。

九月廿二日 ひる九ツ時12時 若松会津若松落城 松平肥後守容保かたもり父子*2降ル。

同廿九日 庄内松平忠篤ただすみ*3降服ス。

十月上旬ヨリ各地出張ノ官軍引揚ゲノ命アリ。奇兵隊ハ中山道ヨリ
帰京ノ途ニ就ケリ。 

十一月朔日 京都東福寺内栗棘庵りつきょくあん*4ニ着陣セリ。

11月三日十時整列。大隊行軍ニテ長報国隊ト共ニ
参闕さんけつ*5ス。正親町おおぎまち大納言殿*6 長門世子君毛利元徳・有馬中務大輔なかつかさたいふ殿、其他そのた
官御列席ニテ御書下おかきさゲヲ賜ハル。

        長州
          奇兵隊
*1 上杉斎憲父子=米沢藩主 上杉弾正大弼斎憲(なりのり)は隠居、領地18万石の内4万石を召上られ、嫡子茂憲(しげのり)へ家督。
*2 松平肥後守容保父子=会津藩主 松平肥後守容保(かたもり)、永禁錮、城、領地没収。嫡子喜徳(のぶのり)へ家督、下北半島、陸奥3万石へ移封。
*3 庄内松平忠篤=酒井忠篤(ただすみ)。庄内藩主 忠篤は東京で隠居謹慎、忠篤の弟忠宝(ただみち)が家督相続、新領地会津若松12万石に移封された。(のち撤回)
*4 栗棘庵=東福寺の塔頭である栗棘庵(りっきょくあん)を再興したのは開祖覚山空性で能登の温井氏の祖といわれ、能登に残された棟札などから藤原姓とされる。 栗棘庵は能登守護畠山氏を檀越に迎え、能登には珍しい臨済宗の発展に寄与したことが知られる。栗棘庵には温井孝宗の画像が残され、また温井紹春(総貞)が「一宮の合戦(1553)」 の結果を報じた書状など温井氏関係の文書が伝来している。
*5 参闕=参内。「闕」は宮門の両側に設けられた2個の台。宮城。
*6 正親町大納言殿=権大納言正親町実徳(おおぎまちさねあつ)。

P164   (明治元年,1868 11月)

征討出張*1 遠路跋渉ばっしょう*2 日夜攻撃 到ル処功ヲ奏シ 凱至 がいし*3
その勲労くんろう不少すくなからず候 此節このせつ東京
駐輦ちゅうれん*4*5義ニ付 不取敢とりあえず 被為慰軍労ぐんろういせられ 酒肴しゅこう被下くだされ
候事
但 春来兵事ニ付
大宮御所*6ニモ御内々
憂襟ゆうきん*7被為在あらせられ 征討兵士難苦ヲ恤敷うれわしく
被為思食おぼしめしなされ 日夜平定而己のみ御祈念折柄 今般凱旋がいせん
内聴ないちょう被為在あらせられ
御喜悦不斜ななめならず候 猶又なおまた御留守中ニ付 帰陣ノ者エ厚ク慰労候
様 御内諭ないゆ被為在あらせられ候事
     十一月
*1 征討出張=戊辰戦争後半の奥羽越列藩同盟との戦いのこと。
*2 跋渉=方々を歩き回ること。「跋」は山野を行くこと、「渉」は水を渉ること。
*3 凱至=「凱」はかちどき。戦争に勝ち、帰って勝利を宗廟に告げる時の音楽。
*4 駐輦=天子が車を留めること。天子が車を留めて滞在すること。
*5 東京御駐輦中=明治天皇は明治元年9月20日江戸に向かい10月13日江戸城入城、ここを東京城と改名する詔を出した。 しかし京都市民の思いに応える為この年は12月22日に京都に戻る。天皇は翌明治2年3月7日東京に向い、28日着。3月28日、城の中に太政官府を設置した。 これを一般には東京遷都としている。
*6 大宮御所=現在の大宮御所は英照皇太后(孝明天皇女御)のために造営され,慶応3年(1867年)に完成したもの。
*7 憂襟=憂慮。「襟」はむね、こころ。

P165   (明治元年,1868 11月)

                      行政官

おわリテ十二時*1
退闕たいけつ 鴨東おうとう練兵場ニ至リ 世子君毛利元徳ヨリながノ出陣苦労神妙ニ思フトノ意アリ
次ニ長府毛利左京亮殿毛利元周もとちかヨリ ながノ出陣 かつ報国隊モ世話ニナリ おのおの苦労
トノ御意アリ。奇兵・報国 二隊行軍ニテ帰営セリ。

11月五日 朝七時出発。伏見ヨリ乗船ニテ大坂江戸堀*2ニ着陣セリ。 

11月六日 十時 安治川橋*3ヨリ艀船はしけぶねニテ花陽艦ニ乗込ミ、*4 四時抜錨ばっぴょう九日11月室津熊毛郡上関
上陸。それヨリ陸行、小国尾国・熊毛郡平生町通リ平尾駅熊毛郡平生町ニ着泊シ、十日11月降松下松 ヲ経テ砥石遠石ニ宿陣シ、
十一日11月 朝六時乗船。八ツ半時午後3時三田尻着港、泉相寺ニ宿陣ス。

 

11月十二日 十一時 御茶屋英雲閣ニ整列。御名代ごみょうだい毛利筑前殿右田毛利、毛利元統、当職ヨリ御意ノ旨ヲ
伝ヘラレ、更ニ司令官しれいかんヲ召集シテ数月間苦戦ノ労ヲ慰スル為、隊中へ
酒肴しゅこうヲ賜ハルノたっしアリテおわリテ帰営シ、同夜恩賜おんし酒肴しゅこうきんたいシテ

*1 十二時=この頁から十時、十一時など一部が太陽暦の表示となっている。七時は「七ツ時」(午前4時)ではなく文字通り七時と思われる。因みに太陽暦採用は旧暦明治5年12月3日をもって 明治6年1月1日と定めて実施された。これは「回天実記」が明治3年3月3日編纂に着手されながら、明治6年時点でまだ完成していなかった事を示している。
*2 江戸堀川=江戸堀川は、大坂夏の陣後大坂城主となった松平忠明が、市街地改造計画の一環として開削させたもの。元和3年(1617)完成。西横堀川から分れ、 土佐堀川に平行して西流し、土佐堀川と百間堀川の合流点に流入していた。この開削費用をまかなうため発行された銀礼は、現在までに発見された最古の銀札といわれている。 長さ11町41間(約1,270メートル)、幅は上流で13間(約23.5メートル)、下流で18間(約32.6メートル)の運河で、東から西へ撞木橋・江戸橋・犬斎橋・阿波殿橋・大目橋・ 花乃井橋・江戸堀橋・西北橋・崎吉橋の9橋が架かっていたが、昭和30年9月に埋め立てられた。
*3 安治川橋=江戸時代初期まで淀川河口部にあった九条島が流れを遮り洪水がたびたび起り、また土砂堆積により舟運にも不便をきたした。このため貞享元年(1684)幕府の命により、 河村瑞賢が水路を開削し安治川と名付けた。その後、周辺に富島や古川の新地開発が進められ、元禄11年(1698)に完成した。安治川橋はこの新地開発に伴い架設された。  江戸時代末期、幕府は開国に備え、この地を外国人居留地として準備を進め、明治新政府によって明治元年(1868)大阪開港とともに外国人に競売された。居留地には、 洋館や舗装道路が造られ大阪の文明開化の拠点となった。 明治6年(1873)居留地の交通の便を図るため、新しく安治川橋が架けられた。この橋の中央二径間は西欧から輸入された鉄橋で、 高いマストの船が航行する時には、橋桁が旋回する可動橋であった。当時の人々はこの旋回する様を見て「磁石橋」と呼び大阪名物の一つとなった。 明治18年(1885)大阪を襲った大洪水は多くの大川の橋を流し流木が安治川橋に押し寄せた。橋はこの流木や洪水によく耐えたが、市内に洪水の恐れが生じたため、やむなく工兵隊により爆破撤去された。
*4 乗込ミ=文書館本は「乗組ミ」となっている。

P166   (明治元年,1868 11月)

愉快ヲ極メタリ。

同十三日 全軍帰省きせいヲ許サル。 但 きたる明治二己巳きし*1二月五日ヲ期シテ吉田陣
営ニ集合シ同月2月中旬大招魂祭しょうこんさい執行しっこうノ命アリ。
須佐在隊員帰省きせい中、招魂社創建ノ議ハ兼重五郎四郎ノ主唱ニテ
大ニ賛成ヲ得タルニリ、同氏ハ願主トリテ願書ヲ邑政堂ニ差出さしだセリ。

         願  書
時運変転不得已やむをえざる次第トハ乍申もうしながら 甲子年元治元年 京師変動蛤御門の変 引続キ国
事ニ死候者しにそうろうもの不少すくなからず 追々於本藩ほんぱんにおいて招魂祭被執行とりおこなわれ侯得共 そうらえども 御内輪ノ
義ハ未ダ無其儀そのぎなく候ニ付 何卒なにとぞ招魂場開設被仰付おおせつけられ候ハヾ 甲子元治元年以来
戦死忠死者 霊魂ヲ地下ニ慰度なぐさめたき志願ニ候処 当今ノ御仕組中
御普請事總而すべて御廃止みぎり候得者そうらえば 乍微力びりょくながら私願主ニ 相成あいなり 尚
同志ノ者ヨリ心掛こころがけ次第寄附被遂とげられ
*1 己巳=明治二年は己巳(きし)であり、原文の「丁巳(ていし)」は誤りにつき書き改めた。

P167   (明治元年,1868 11月)

御免おゆるし候ハヾ 合力ヲ以テ創立仕度つかまつりたく奉存候ぞんじたてまつりそうろう 右場所柄ノ義ハ 吉祥閣*1
古跡地形脱カ相応そうおう かつ 他藩人通行ノ節 参拝便宜彼是あれこれ 此地ニ限リ
候様奉愚考ぐこうたてまつり候 左候さそうらへバ黄泉よみ霊魂ハ不及申もうすにおよばず 御家中一統
斯迄かくまで手厚てあつく被仰付候おおせつけられそうろう義ト 奉感佩かんぱいたてまつり*2 奮発一助共可相成あいなるべく
間 何卒なにとぞ
心入こころいれもっ
被遂御許容おゆるしとげられ被下候くだされそうろう様 奉歎願たんがんたてまつり候 此段このだん御序之節 おついでのせつ宜敷様御
取成とりなし奉願候ねがいたてまつりそうろう 以上
明治元年ノ十二月 兼重五郎四郎

右出願後 何タル指令モ無之これなく、且ツ地所ノ事ニ異見ヲ生ジタルニリ更ニ
奇兵隊在隊帰休者ヨリ追願セリ。

 

          願  書
*1 吉祥閣=龍背橋を渡って西に行くと現在の育英小学校裏手の国道191号線辺りに総門があり、門を出て山手に入る道を右折すると吉祥院(閣)があった。「須佐市中細見図」参照。
*2 感佩=有難く心に思い忘れないこと。

P168  (明治元年,1868 12月)

          たんがんたてまつり候事
先年来 御内輪ごないりん戦死忠死ノ人員モ不少すくなからず候ニ付而ついてハ その 位カヲ地下ニ
慰ムル為メ 招魂場御創建有之度これありたく 先達せんだっテ 兼重五郎四郎ヨリ申
出置候処 御詮議せんぎ半途はんとノ趣ニテ 今日ニ至リ 成否不被仰出おおせいでられず候ニ付
かさね奉歎願たんがんたてまつり候 もとヨリ必至御難渋中ごなんじゅうちゅうひっしノ事ニ候得者そうらえば  纔之わずかの御費用
相省あいばぶキ 於下しもにおいて精々相働あいはたらきキ こんりゅう 仕度つかまつりたき覚悟ニ御座候 何卒なにとぞ私共
一統 帰休中成就じょうじゅ上 祭典相調度あいととのえたく奉存候ぞんじたてまつりそうろう間 その 御都合ヲもっテ急
速御運ビ方奉願候ねがいたてまつりそうろう もっとも 先般出願在之これあり候吉祥閣義ハ 佛跡ぶっせき  かつ
陰湿地ニ 相応そうおう霊場トモ難申もうしがたく*1 一統気付ニテハ御霊社*2
南 赤禿あかはげ地形*3 東面陽地*4ニテ 自然御霊社区域ニ引連ひきつらなリ 往
旅人参拝詣ノ便宜べんぎ旁々かたがた 勝地ト奉愚考ぐこうたてまつり候得者そうらえば すみやかニ御英断
もって 御許容被仰付おおせつけられ候様 ひとえ奉懇願こんがんたてまつり侯 
*1 「佛跡 且陰湿地ニ而 相応之霊場トモ難申」=明治元年は神仏分離令、廃仏毀釈運動が起こった年であるから佛跡に神社を建てる事が憚られた時代であったと思われる。
*2 御霊社=(ごれいしゃ)親施公を祀る中津の笠松山麓の神社の通称。
*3 「御霊社之南 赤禿之地形」=赤禿は地名ではない。御霊社から約100m離れた笠松山の南端にある赤土が露出した段丘。
*4 「陽地」=「温故」版では「場地」。一行前の「陰湿地」と対比して「陽地」が正しいと思われる。

P169   (明治元年,1868 12月)

明治元年ノ十二月二日 奇兵隊入隊
                  人数中


          御沙汰書
                    兼重五郎四郎
右 甲子元治元年以来国事ニ死候者しにそうろうもの不少すくなからず候ニ付 招魂場開ノ儀ニ付 願 出脱
趣 神妙事ニ
被思召おぼしめされ候 右兼々かねがね
御存念モ被為在あらせられ候処 御軍務其外そのほか御多事なか 無余義よぎなく
御延引ニ相成あいなり 其後そのご弥増いやまし 御所帯向御差詰さしつまり付而ついてハ 只今御
手モ難被為届とどかせられがたき候折柄 志願モ有之これある義ニ付 願之通ねがいのとうり
被差免さしゆるされ候事
     明治元年十二月

P170   (明治元年,186812月〜明治2年,1869 1月)

     口達こうたつもっ
所柄 思召おぼしめし有之これあり 日限ひぎり地蔵 *1所ニ 被仰付おおせつけられ候事

前顕趣 口達こうたつもっテ奇兵隊在隊員ヘモたっしアリ

十二月十九日 地所引渡シニ付 おのおの集会シテ邑政堂ヨリ市山淳蔵益田家臣、中士、御手廻組立会員
トシテ差出サレ、同伴ニテ日限地蔵ノ地 すなわちあざ浄土院ニ至リ、境域縄張ヲセリ。

明治二年己巳きし正月六日 浦本町大谷丈右衛門宅ヲ借受ケ、招魂場創
事務所ト定メ、同志者おのおの鍬鎌くわかまリテ開ニ着手シ、1月十一日ニ
至ル。 

1月十二日 野頭のがしら*2ヨリ助力四拾四人、奥両組*3 其外そのほかヨリ助力弐拾九人
總計七拾参人。 

1月十三日 須佐地すさじ組ヨリ拾参人、野頭村ヨリ四拾五人、浦西*4ヨリ四拾六人
外ニ木挽こびき*5二人、總計百六人ノ助力アリ。 

*1 日限地蔵=現萩市大字須佐山根丁東。三蔭山神社の場所。
*2 野頭=現萩市大字須佐野頭。
*3 奥両組=四組(須佐地、瀬尻、宇谷、市丸)のうち山側の市丸組、宇谷組のこと。
*4 浦西=原文は「西浦」。これは浦西の誤記。浄書した人が須佐出身者ではない証拠。
*5 木挽=のこぎりで材木を挽く職人。

P171   (明治2年,1869 1月)

1月十四日 三原村*1ヨリ七拾八人 瀬尻組*2ヨリ七人 外ニ木挽貳人 總計八拾七人
ノ助力アリ

1月十五日 三原村ヨリ五拾四人 外ニ木挽二人 大工壱人總計五拾七人
ノ助力アリ 

1月十六日 市街助力拾四人、宇谷*3仝四人、浦東*4仝拾人、御細工人 *3仝五
人 、海蔵かいずあん*6同十五人、三原村仝十五人、下田万村*7仝弐拾八人、町
組仝三十弐人、外ニ婦女拾二人、總計百三十五人

1月十七日 宇谷組拾人 沖浦*8拾五人 三原三人 押谷*9貳人 市街弐拾弐人
内大工壱人石工五人瀬尻九人内木挽三人野頭木挽三人 浦東五拾四人 下田万六十
六人 外ニ婦女三十弐人 總計弐百拾六人ノ助力アリ

1月十八日 尾浦ヨリ貳拾七人 浦東ヨリ三十九人 市丸組十五人内木挽壱人
浦ヨリ木挽貳人 浦石工壱人 御細工人三人 三原村ヨリ四人 同村士族六

*1 三原村=現萩市大字須佐三原
*2 瀬尻組=現萩市大字田万川瀬尻
*3 宇谷=現萩市大字田万川宇谷
*4 浦東=原文は「東浦」。これは浦東の誤記につき書き改めた。現萩市大字須佐浦東
*5 御細工人=諸品の製作・装飾などの細工職をもって仕える階級。職種は瓦師、鞘師、塗師、鞍打師、磨師、籐細工師、張付師、柄巻師、刀鍛冶師、時計細工師、左官、 乗物師、御手鍛冶、白銀細工師、飾師、檜皮師、鋳物師、鑓師、轡鎧細工、具足師、矢師、焼物師、船大工、仕立物師、鍛冶細工、鍛冶大工、彫物師、挽物師、竹細工師、鉄砲金具師、 表具師、研師、鈴張師、蒔絵師、桶大工、切革師、紺屋、畳師など。ここでは左官、瓦師などであろう。
*6 海蔵庵=現萩市大字須佐海蔵庵
*7 下田萬村=現萩市大字田万川下田万
*8 沖浦=現萩市大字須佐沖浦
*9 押谷=現萩市大字須佐押谷

P172   (明治2年,1869 1月)

人、上小仝四人、上田万仝三人、市街仝九人、外ニ婦女拾五人、總計百二
拾八人ノ助力アリ。

1月十九日 *1
墓標掘立及貫木門ヲ設セリ。

1月廿一日 休暇。 

1月廿二日 招魂祭ノ準備ヲシタリ。 

1月廿三日 浄土院ノ字ヲ改メテ三陰御蔭山招魂場ト称シ招魂祭式ヲ執行ス。市街
ヲ始メ各村ヨリきそヒテ酒米餅べいへいヲ献納スル事如山如阜やまのごとく おかのごとく、遠近ノ老少男女
相携あいたずさヘテ参拝シ境内けいだい立錐りっすい余脱地ナキニ至ル。 式おわリテ数個ノ酒樽四斗入ヲ配置
シテ参拝者ニ随意これヲ飲マシム。おのおのヲ尽シテ散ス。同夜事務所ニ
於テ祭主祭官其他そのた関係者数十名ヲ招饗しょうきょうス。すこぶる盛宴ナリ。

1月廿四日 社殿築ノ計画ヲ為シおわりリテ事務所ヲ閉ヅ。尓後じご在隊
者続々帰営セリ。 

*1 「同十九日 □□□□□□□  □□□ 墓標掘立及貫木門ヲ健設セリ」=文書館本の記述に従い補筆した。浄書の際の書き落としと思われる。

P173  (明治2年,1869 8月)

八月三日 招魂場社殿落成ス。其旨そのむね邑政堂ニ届出とどけいでタリ。

8月八日 故親公ノ神霊ヲ社殿ノ中央ニ安置スルノ議ヲ決シ兼重五郎
四郎ヨリ覚書ヲもっテ出願セリ。 

          覚
此度こたび招魂場御社みやしろ成就じょうじゅニ付テハ すぐ慶応元年ノ春 下田万村ニ屯集
被仰付おおせつけられ候節 同志中申合もうしあわせ
御霊神様奉勧請かんじょうたてまつり 其後 彼隊かのたい*1分散ニ相成あいなり候節ヨリ 恐多クモ
今日迄私宅ニ奉祭仕ほうさいつかまつり*2 右ニ付而ついてハ本社ニ御遷座せんざ相成あいなり候様ニ
奉存ぞんじたてまつり候間 すみやかニ御英断ヲ以テ御許容被仰付度おおせつけられたく 伏而ふして奉願上 ねがいあげたてまつり
     八月八日          兼重五郎四郎

右願意御採用難成なりがたきリ贈正一位楠朝臣正成まさしげ公ヲ 安置スベシ*3トノ旨指
令アリ 

*1 彼隊=回天軍
*2 「恐多クモ今日迄私宅ニ奉祭仕候」=益田親施公以外の死者の霊を兼重の自宅に祭っていたという意味。
*3 「贈正一位楠朝臣正成公ヲ□□□安置スベシ」=文書館本に従って「□□□」の部分に「中央に」と補筆した。幕末に水戸史観の影響で勤王論が盛んになると、徳川光圀によって「勤王の忠臣」 として顕彰された楠正成は、天皇に忠義を捧げるのを最大の美徳とする幕末の若者達の精神的な拠り所となった。

P174   (明治2年,1869 8月)

8月十日 上棟祭ニ招魂祭ヲ執行セリ。式おわリ大谷丈右衛門宅ニ於テ
直会なおらい*1ノ酒肴ヲ賜ハル。宴さかんニシテニ満ツ。 夜十二時ニ至リ散セリ。

 

右明治三年庚午こうご三月三日*2 同盟員おのおのたずさ ヘテ相会あいかいこれヲ参照
編纂シなづケテ回天実記ト云フ。わかちテ二巻トス。 

*1 直会=(なおらい)神事の終了後、供え物を参会者が分かち食べる宴会。
*2 「明治三年庚午三月三日」=この日付は「回天実記」の編纂に着手した日であって、完成した日ではない。その判断理由は以下の通り。
@145頁に「鴻城学校」の名前が登場する。鴻城学校が開校したのは明治8年の事であって、明治3年にはまだ存在していない。
A165頁の記述から太陽暦と陰暦の時刻表示が混在し始める。太陽暦は明治5年12月3日を明治6年1月1日として始められた。
以上の事から、「回天実記」が完成したのは明治8年以後と判断する。但し、何時完成したのかは残念ながら判らない。

(完)