「回天実記」 (その2)

P22からP50まで
 







           

P22   (元治元年,1864)

シテ邑政堂ニ出願セリ。

      殉死願書
私儀一昨年文久2年、1862以来殊ニ
旦那様益田親施御志おんこころざしヲ奉ジ 乍不及およばずながら尽力周旋仕居つかまつりおり候処
旦那様御事 此度こたび徳山ニ於テ御最期さいごノ段承之これをうけたまわり 不堪号哭ごうこくにたえず
悲泣之至ひきゅうのいたり 付テ私義年来尽力所詮モ無御座ござなく 尚
御側役おそばやくノ端へ被召加居めしくわえられおり候御厚恩 眷カ*1奉對たいしたてまつり 於御棺前ごかんぜんにおいて 殉
仕度つかまつりたく奉存候ぞんじたてまつりそうろう間 此段被遂御許容ごきょようとげられ可被下くださるべく候様 宜敷
取成とりなし奉願候ねがいたてまつりそうろう 以上
 十一月十四日
                          大谷 樸助

邑政堂レヲゆるサズ。樸助曰ク、公然追腹ヲあたハザレバ別ニはかル処ア
ルベシト。すなわ断髻だんけい*2シテ親公御揮毫ノ一軸ヲ正寝ノ床*3ニ掲ゲ、朝夕香

*1 拳々=@つつしむさま Aつとめるさま Bささげもつさま C愛するさま。ここでは「眷々」が正字ではないか。目をかける、かえりみるの意。
*2 断髻=もとどりを切ること。「髻」はもとどり、たぶさ。
*3 正寝ノ床=「正寝」は表御殿、正殿。ここでは母屋の床の間の意。

P23   (元治元年,1864)

花ヲシ 毎日御墳墓ニ参詣セシカバ、俗吏等樸助ノ断髻だんけい異様ノ墓参ヲねた
ミ、かつ平素小国融蔵育英館学頭、軍監*1ノ主唱トナリ士民ヲ鼓舞奨励シ、動モスレバ邑政堂ガかた
ル処ノ恭順主義ニそむク運動ヲセルヲ怖レテ、同時ニ両氏ノ謹慎ヲ命シテ
外出および他人ノ面会ヲ禁ジタリ。*2

     樸助詩アリ、ちなみここニ記ス。*3

跼天きょくてん蹐地せきち*4個カ *5 駆賊禁門終見血     跼天蹐地一個の星 賊駆る禁門 ついに血を見る
一片氷心カ*6万死*7 身 舊知*8唯有故山*9月  一片の氷心 万死の身 旧知唯有る故山の月
朔風*10吹髪折忠肝*11  衣上涙痕曽不乾   朔風吹髪折忠肝 衣上涙痕曽て乾かず
夙カ*12向東方拝天闕*13  陰雲醸雨日光寒   夙んで東方に向い天闕を拝す 陰雲雨を醸し日光寒し

     <意訳>
      私は天が高いのに身を屈め、地が厚いのに抜き足で歩く様な臆病で小さな人間です。賊(会津藩)を蛤御門に駆って遂に流血事件となりました。
      私は澄み切った心で命を投げ出しています。それを知っている古い知り合いは只故郷の月丈でしょう。
      髪の毛を吹き飛ばす(会津の)北風は私の志を挫こうとします。涙でを濡れた衣は乾くことがありません。
      東の方を向いて慎んで宮城を拝むと、暗い雲から雨が振ってきて(長州が朝敵とされた事の表現)陽差しが寒く感じられます。

同廿八日、御首級ヲ供奉ぐぶシテ帰須佐シ、御墳墓ニおさメ奉ル。*14
萩 藤田篤輔*15ヨリその師小国融蔵ニ書ヲ寄セテ殉死ノ事ヲ計ル。融蔵
曰ク、時機可待じきまつべし。今日ノ事、死シテ冥途めいどニ従ハンヨリハ生テ亡君ノ御遺志ヲ続クノ勝

*1 □□□ノ主唱トナリ=文書館本は「小國融蔵ト正義ノ主唱トナリ」と記している。
*2 大谷樸助への沙汰書は次の通り。
    子の十一月廿七日
                   大谷撲助 親類中
右大谷撲助儀趣これ有り候、身柄慎居候仰せ付けられ、内輪においても不作法これ無く、預かり同様の心得を以て、気を付け候様仰せ付けられ候事
*3 樸助詩=この漢詩は下記の如く本によって違いがある。
          @文書館本では 『跼天蹐地一星 駆賊禁門終見血 一片氷心万死身 舊知唯有故月山
              朔風吹髪折肝 衣上涙痕不乾 向東方拝天闕 陰雲醸雨日光寒』
          A与吉本では 『跼天蹐地一星 駆賊禁門終見血 一片氷心万死身 舊知唯有故山月
              朔風吹髪折肝 衣上涙痕不乾 向東方拝天闕 陰雲醸雨日光寒』
          B松永本では『跼天蹐地一星 駆賊禁門終見血 一片氷心万死身 舊知唯有故山月
              朔風吹髪折肝 衣上涙痕不乾 向東方拝天闕 陰雲醸雨日光寒』
          C松尾本では  『跼天蹐地一星 駈賊禁門終見血 一片氷心万死身 舊知唯有故山月
              朔風吹髪折肝 (第六句欠)    向東方拝天闕 陰雲醸雨日光寒』
          D温故本では 『跼天蹐地一星 駈賊禁門終見血 一片氷心万死身 舊知唯有故山月
            ;  朔風吹髪折肝 (第六句欠)    向東方拝天闕 陰雲醸雨日光寒』
*4 跼天蹐地=(きょくてんせきち)天が高いのに身を屈め、地が厚いのに抜き足で歩く。非常にびくびく恐れて身の置き所のない様。(跼蹐と同じ)
*5 一個星=小さなもの。政府の高官。
*6 氷心=冰心、氷のように澄み切った心。
*7 万死=とても生命の助かる見込みがないこと。必死。命を投げ出すこと。一万回の死刑の意味で、罪が重いこと。
*8 旧知=ふるなじみ。旧識(もとからの知り合い)。
*9 故山=ふるさと、故郷。
*10 朔風=北風。会津の勢力を北風に喩えて、それが大変強きことを表現している。
*11 忠肝=君主に尽くす真心。忠義の心。
*12 夙=(つつしんで)
*13 天闕=(てんけつ)天帝の居所。天門。天子の住む所の宮門、転じて宮城。宮闕。
*14 益田親施の首級>=益田親施の首級は志道安房によって11月13日、岩国から広島廿日市に運ばれ、14日国泰寺着。18日、
広島国泰寺で実検が終わり、19日広島に呼び出された吉川監物が受け取った。そして21日、宇品から岩国に戻った。須佐に戻っ
たのが28日となっている。
*15 藤田篤輔=益田家臣。変名、桜山隼人芳懐(P169参照)。後に奇兵隊五番銃隊に入隊した。

P24   (元治元年,1864)

レルヲ以テ喩シテこれとどム。
如斯かくのごとくしテ本藩ハ奸賊椋梨藤太ら俗論派要路ニ當リ、三老益田、福原、国司ノ首級ヲ幕吏ノ実検ニシ、参謀ノ 
戸佐馬之介大組、大阪留守居役中村九郎政務座、蔵元役御用竹内正兵衛大阪藩邸監吏、福原越後参謀佐久間佐兵衛中村九郎弟等ヲ始メ正義ノ
ヲ斬首シ、四境ノ関門*1ヲ毀チテ諸隊ノ分散ヲ命ズレドモ諸隊ハこれニ應ゼザル
ヲ以テ、清光寺*2 屯集ノ撰隊ハ屡々しばしば俗吏ニせまりテ諸隊ヲ追討シ、七卿ノ内正親町おおぎまち
殿薨去アリ
*3遠流おんるシ、尚両君毛利敬親元徳ヲ退隠セシメ 三十六万ノ封ハ削レテ一万石ヲ残スモ
毛利ノ家名ヲ断絶セザレバ可ナリト、畏縮偸安いしゅくとうあん*4ノ念ヲ抱キ、因循苟且いんじゅんこうしょ*5
所置ヲ専一トセシニ依リ、諸隊ハ*3ヲ保護シテ長府ニ逃レ、*3ハ筑
後久留米ヘ御海ニテ諸隊ハ長府清末馬関下関ヲ固守ス。

     御沙汰書
敬親毛利
殿様御実名右通リ被復ふくされ候事

*1 四境の関門=防長両国と石見、安芸との国境(小瀬川口、亀尾川口、石州口)と馬関(下関)を云う。その外に大島郡を加える事がある。この内石州口とは仏坂(北浦街道)、土床(県道14号線)、野坂(国道9号線)、白坂、金坂(嘉年坂)の5つの峠を指す。益田家は関ヶ原の敗戦により須佐に移住して以来、萩藩の軍備では石州口、就中仏坂の防衛を重視してきた。
*2 清光寺P12参照。
*3 六卿=五卿が正しい。七卿のうち錦小路右馬頭頼徳(病死)、澤主水宣嘉(生野に挙兵)を除く五名。正親町三条実愛は七卿に含まれず誤記である。
*4 畏縮偸安>=畏縮→おそれちじまる。大いに恐れること。偸安→一時の安楽をむさぼること。一時逃れ。
*5 因循荀旦因循→古い習慣により従って改めない事。ぐずぐずしていること 苟且→かりそめ。その場逃れの処置。

P25   (元治元年,1864)

広封ひろあつ*1
若殿様毛利元徳
同断
元治元年1864十一月

先般京都変動蛤御門の変ニ就テハ 追々被仰聞おおせきかされ候通
被為対朝廷公辺ちょうていこうへんにたいせられ 御恭順御誠意致貫徹かんてついたし 候様ニト 夜白よるひる*2
被遊御苦慮ごくりょあそばされ候処 於于下しもにおいて不心得有之これあり  御趣意ヲ取違へいささか
御恭順ノ御手障リト相成あいなり候様ノ儀致出来しゅったいいたし候而ハそうろうては 不相濟あいすまざる事ニ
付 万一右様ノやから於有之者これあるにおいては 速ニ被遂御詮議ごせんぎとげられ 屹度きっと可被及御沙汰ごさたにおよばるべく
候 この兼而かねて内意被仰付おおせつけられ候事
    元治元年1864十一月

                益田右衛門介
                    親類中
                    併 家老共

*1 広封=(ひろあつ)毛利元徳。毛利父子は官位を褫奪され松平の称号と将軍の偏諱を停止されたので慶親は敬親、定廣は広封と改名した。
*2 夜白=夜も昼も。日夜。

P26   (元治元年,1864〜元治二年,1865)

右 此内このうち被成御意ぎょいなられ候通 嫡子精次郎*1致補佐ほさいたし 用ニ相立あいたち
申合もうしあわせ 精々可令心掛こころがけせしむべく 付而ついてハ家来共末々ニ至迄 不心得無之これなき
於テハ 家名無相違あいたがいなく可被立遣たてつかわさるべく候様 吉川様ヨリ被仰立おおせたてれられ有之これあり候ニ
付 令鎮静ちんせいせしめ候様可申もうしきけべく候事

十二月25日ニ至リ 遂ニ諸隊追討ノ令*2ヲ発布ス。

元治二年乙丑正月 諸隊討ノ軍兵出発ス。 諸隊ハ高杉晋作ノ指揮ヲ
以テ 馬関下関会議所ヲ襲ヒ*3、義兵ヲ挙ゲ *4*5、萩・山ロノ二道ニ分レテ進撃ス 。

      *6
此度こたび鎮静方為御見届おみとどけとして 尾張前大納言様徳川慶勝ヨリ石 佐渡守殿
其他被差下さしくだされ候所 御恭順筋被成御行届おゆきとどきになられ候由ニテ 四境ヘ諸
家出張ノ御人数モ引取ニ相成あいなり候ニ付而ついてハ 尚更以なおさらもって 御恭順
致貫徹かんてついたし候様 能々よくよく可申聞もうしきけべく候 万一不心得之者 *7御詮義上 重キ
御咎おとがめ被仰付おおせつけられ候事

*1 精次郎=益田親施長男(妾腹)。精祥。文久2年(1862)正月9日生であるから、元治元年(1864)では未だ満2歳と幼少であったため、 親祥が代役となる。明治6年一旦同人に家を譲り、その後嫡子となる。慶応元年3月14日家督。同年閏5月9日御神本へ復姓。明治元年10月22日再び益田へ復姓。 大正6年8月25日卒。
*2 「諸隊追討ノ令」=諸隊追討の令は10月21日に出された(P24参照)。ここで云う「諸隊追討の令」は12月16日の諸隊鎮静の為の禁令の事。
*3 「馬関会議所を襲い」=奇兵隊は先ず16日の午後4時頃、下関にある萩藩の新地会所を襲い、金と食糧を奪った。奉行の根来上総は抵抗せず 会所を明け渡すと約束した。そこで晋作は18人を選んで三田尻へ行き藩の軍艦3隻を分捕って下関に帰った。そして今度は会所を占拠した。分捕った金と食糧 は意外に少なかったので伊藤俊輔が使いに立って下関の商人入江和作から2,000両を調達し軍資金とした。これで萩に向かって進発する準備が出来たのである。 (出典=「長州奇兵隊」古川薫著109頁)
*4 「義兵を挙げ」=功山寺挙兵の事である。当時、長府功山寺には七卿のうち五卿がこもっていた。諸隊はこの警備のために長府に集まっていた。 晋作は真っ先に奇兵隊の蜂起を呼びかけたが総管の赤根武人や山県小輔が反対した。俗論等を討つとは云え、これを攻めることは藩主に弓を引くことになり、 臣下の道が立たないからだ。諸隊の総督も時期尚早で蜂起に反対した。結局、高杉の意見に賛成したのは遊撃隊総督石川小五郎(河瀬真孝)、参謀高橋熊太郎、 所郁太郎、力士隊総督伊藤俊輔、馬関総奉行補佐を解任されたばかりの佐世八十郎(前原一成)だけだった。15日朝晋作は遊撃、力士両隊を功山寺に集め三条 実美に挨拶した。勝手に兵を挙げては私闘になるから、朝廷につながる五卿を擁立する形を取ったのである。そして下関会所を襲ったのである。 (出典=長州奇兵隊」古川薫著108頁)
*5 松永本は「義兵ヲ挙ケ 馬関会議所ヲ襲ヒ」と日付の順に記述している。
*6 「御沙汰書」=文書形式から判断して脱落しているものと思われる。
*7 「於有之者」の脱字=「松永本」との比較によって補足した。

P27   (元治二年,1865)

元治2年正月

同月1月六日ヨリ七日ニ至リ 美祢郡絵堂*1ニ於テ激戦、追討ノ賊兵撰鋒隊敗走ス。

         *2
諸隊ノ者共乱暴次第 片時モ難差置さしおきがたきニ付 御末家様方御一門老
中ノ面々者 諸所出張
被仰おおせつけられ 付脱*3  乍恐おそれながら 殿様御名代トシテ 若殿様毛利元徳急速御巡見*4
被遊候あそばされそうろう 就而者ついては諸士中ノ妻女ハ不及申もうすにおよばず  御国
トシテハ 此カ時ヲ以テ御奉公
御手伝可仕段つかまつるべきだん勿論事ニ付 諸隊へ内通致候者いたしそうらうもの すべ
不審体ふしんていノ者ハ 見当リ次第召捕めしとり糾明きゅうめいノ上 斬捨きりすて 被仰付おおせつけられ候 左候而さそうろうてその
支配々々へ届出候様被仰付おおせつけられ候事
通リ組支配中ヘモ可被相触あいふれらるべく候事
元治2年ノ正月

1月十日 大田おおだ*5、川 *6大木津おおこつ*7等諸所ニ転戦シ、十四日ニ至リ諸隊ハ長登 *8屯営ノ

*1 美祢郡絵堂=国道490号線と28号線が交わる地点。美東(みとう)町絵堂。萩から南下してきた北軍の先鋒隊と伊佐方面から中道筋を北上し大田の光明寺 を本営とした(後、大田天神社に移る)南軍の奇兵隊、南園隊、膺懲隊がここで激突した。(「防長回天史」第五編上七 31頁地図参照)
*2 御沙汰書=文書形式から判断して脱落しているものと思われる。
*3 御末家様方御一門老中之面々者 諸所出張被仰=北軍は諸隊鎮静のため、▼(絵堂)粟屋帯刀、▼(明木)毛利宣次郎、親民、厚狭毛利、諸隊鎮静總奉行、 ▼(三隅)児玉若狭、▼(玉江口)宍戸備前▼(大谷口)毛利将監、親詮、大野毛利▼(山口)浦滋之助/益田孫槌/毛利筑前元統、右田毛利、加判役▼(松本口) 福原相模▼(大津)椙杜駿河▼(湯本)児玉若狭などに布陣した。
*4 若殿様急速御巡見=世子は毛利伊勢を伴い、1月13日まず明木に出張した。そして井原主計に命じて絵堂、奥阿武郡を巡行した。
*5 大田=国道490号線、美祢町大田交差点付近。奇兵、南園、膺懲、八幡、御楯の諸隊が14日大田の呑水(のみず)峠で先鋒隊と激突した。これに遊撃隊が 加わり互角の戦闘となったが16日夜、高杉晋作は奇兵、御楯を夫々左右の道に分けて進ませ赤村に居た先鋒隊を挟撃して敗走させた。
*6 川上=原本は「川登」と書かれているが川上(河上)の誤りにつき本文を修正した。
*7 大木津=(おおこつ)絵堂の南西2`。
*8 長登=絵堂南西2`。シダレザクラが有名。

P28   (元治二年,1865)

賊ヲ襲撃ス。賊おおいニ狼狽、兵ヲ曳テ走ル。この報ノつと 仄カニ樸助等ノ耳朶じだ*1
触ルヽヤ、慷慨悲憤マズトいえドモ如何セン。俗吏ハ常ニその挙動ヲうかがハシメ、
非常ノ準備至ラサル所ナケレバ一身ノ自由ナラザルヲ以テ、毫モ運動ヲ試ムルニ由
ナシ。津田公輔、かつテ樸助ノ節義ニ感ジ共ニちかフ所アルヲ以テ、百方策
かくシテ小国融蔵ト陰ニ気脈ヲ通ゼシム。

周防ノ名士 大楽源太郎*2かつテ樸助ト友トシ善シ。故ニ親公ノ逝去ニ依
リ樸助ヲシ、且ツ須佐中ノ近状ヲつまびらかニセント欲シテ来須佐セリ。然ルニモ樸
助ノ謹慎中ナレバ、大ニ落胆セシトいえドモ空ク帰ルニ忍ビズ、かろフジテひそかニ面接
シテその欝陶うっとう*3えん,慰カ*4、互ニ将来ノ方針ヲ約シおわリテ別ヲ告グ。

     須佐道中作 西山大楽源太郎*5
  國歩艱難歳又終 男児豈敢哭途窮      國歩艱難、歳又終る 男児豈敢て途窮るを哭せん
  古人家在萬山北 三日独行風雪中      古人の家萬山の北に在り 三日独り行く風雪の中

*1 耳朶=耳たぶ
*2 大楽源太郎=名は奥年、字は弘毅。号西山。寄組児玉若狭家中。本生山県。主命により大楽氏を冒す。頼三樹三郎に学ぶ。 蛤御門の変では山崎陣営に在り、淀藩との交渉に当たる。その後退いて周防大道村に西山塾を開き子弟を教育。山口脱隊の変 の主導者となり九州に逃れたが、明治4年筑後河畔にて暗殺さる。
*3 欝陶=心がむすぼれふさぐさま。
*4 懕(えん)=許し。心に可とする。ここではむしろ「癒し」ではないだろうか。
*5 大楽源太郎の漢詩=「大谷家所蔵古文書読解」に収められている大楽の詩は下の通り
           『國歩艱難歳又終 男児豈敢哭途窮 人家在萬山北 日独行風雪中』

P29   (元治二年,1865)

本藩ヨリ諸隊追討出兵ノ令*1アリ。

                    益田右衛門介
                            跡
右家名立遣候たてつかわしそうろう段 先達而せんだって申聞置もうしきけおき候処  鎮静方行届ゆきとどき
候ニ付 先知之義モいよいよ以テ無相違あいたがいなく可立遣たてつかわすべく候条 その
能々よくよく相心得あいこころえ 暴動為追討ついとうのため 早々人数可差出 さしだすべく候事

                    益田右衛門介 
                            跡
                         家来中
右賊徒討伐被仰付おおせつけられ候ニ付 益田石見差図ヲうけ候様*2
被仰付おおせつけられ候事

*1 諸隊追討の令=萩藩俗論派椋梨政権は10月21日諸隊に解散令を出した。しかしその後三家老切腹、参謀4名の処刑が 行われ、粛正は家老清水清太郎の切腹、野山獄にいた正義派の武士7人を斬り、其他の主要人物を次々に追放するに及び、 諸隊は益々沸騰した。武器弾薬を抱え、反体制集団と化した諸隊は民衆の支持の中で蜂起の機会を伺っていた。12月15日 高杉が功山寺に兵を挙げたとの報に接し、且つ、長府在陣諸隊が伊佐方面へ移動するのを見た萩政府は諸隊鎮静の為追討 の兵を発し、12月28日前軍として粟屋帯刀の軍を絵堂に、毛利宣次郎の軍を明木(あきらぎ)に、後軍として児玉若狭の軍を三 隅に向かわせた。(「防長回天史」第五編上七 19頁)
*2 益田石見差図を請候様=絵堂で内訌戦の最も激しい戦闘が行われた時、萩藩俗論派政府は「甘言を益田、福原、国司 三大夫の家に下して南軍追討の兵を出さしめ」た。(「防長回天史」第五編上七 38頁)益田家は篠目口から山口に向かうよう に指示された。

P30    (元治二年,1865)

                          益田石見
右益田右衞門介家来令引卒いんそつせしめ 篠目しのめ*1通リ山口ヘ打入リ 毛利
筑前*2しめシ合 賊可令討 ぞくをとうばつせしむべく  其他臨機ノ取扱可有あるべく候事

右発令後 本藩ヨリハ須佐政府ニ向テすみやかその命ニ応ズベシト督責 *3厳ナリト
いえドモ 須佐政府ハ士卒大半豪モこれニ応ズルノ勢無之これなきノミナラズ、かえっテ激動ノなかだちタラ
ンコトヲ恐レテ天王山敗軍ノ際、古今所蔵ノ兵器モ悉皆しっかい*4散乱遺失シテ、
にわかニ出兵ヲスベカラズト答エテ荏苒じんぜん*5日月ヲ経過セリ。 この時諸隊ヨリモ三国老益田、福原、国司
冤罪えんざいきよムルノ義挙ニ勢援センコトヲ請ヒタリ。その書ハ福原家ヨリ転致 *6
セシガ、俗吏ハ須佐中正義派ノ沸騰ヲ憚リテ之ヲ邑政堂ノ筐底きょうてい*7ぞうとくシテ発
表セズ。大谷撲助ハ河上範三・津田公輔等ト共ニ俗吏ノ魁首某*8斬奸ざんかんシテ
山口ニ脱走シ、諸隊ニ加盟スルノ策ヲ決シ九名ノ同志ヲ鳩合きゅうごう*9セリ。

元治二年乙丑正月廿四日*10夜、九名ノ同志ハ大谷撲助宅ニ相会セルニ、二三ノ

*1 篠目=山口から国道9号線で益田方面に向かう時、道は木戸山トンネルの手前で萩に向かう262号線と津和野、益田方面 に向かう9号線に分かれる。この木戸山トンネルを出て約4`津和野寄りの地点が篠目。須佐からは国道315線で徳佐に出て、 9号線で山口に向かうルートのこと。
*2 毛利筑前=右田毛利家毛利元統。文政元年4月26日生、明治20年3月卒(70歳)
*3 督責=うながし責める事。ただし責める事。
*4 悉皆=みな。残らず。
*5 荏苒=@歳月が長引くこと。A物事が早く進まない。
*6 転致=転送する。「致」は送る。とどける。
*7 筐底=箱の底
*8 俗吏ノ魁首=益田三郎左衛門(職役)のことか。
*9 鳩合=集め合わせること。集まり合う事。
*10 「正月四日夜」=次の届け書の日付から「正月廿四日」が正しい。(文書館本、松永本は何れも「廿四日」と記す)

P31   (元治二年,1865)

異議者アリテ斬奸ノ事ヲ果スあたハズ、鶏鳴*1装ヲ整ヘテ出発ス。

        届 書 笠松邸*2門ニ貼付ス
        御届申上置候事
臣等此度こたび脱走つかまつり候儀
幼君益田精次郎へ対シ候而者ては その罪ノ軽重ハ申迄モ無御座ござなく候 然ル処
亡君益田親施御割腹義ニ付而ついてその已前いぜん臣等死ヲ尽シテ御保護申
たく 種々献言仕候得共つかまつりそうらえども 専ラ遮之これをさえぎり ついニ御無念ノ御最期さいご
被為至いたらせられ候段 不堪号哭ごうこくにたえず悲泣至候 就而者ついてはすみやかニ御割腹ノ御
明白ニ相質あいただシ 御書置かきおきノ御趣意ヲ守リ
幼君益田精次郎ヲ奉ジ御主意ヲ貫キ
亡君益田親施御遺恨はらシ 益田家威徳 万古ニ相輝あいかがやき候様有之これあり
たく 日夜苦慮仕候得共つかまつりそうらえども 只管ひたすら御鎮静折柄 時節ヲ相待あいまち

*1 鶏鳴=夜明け。
*2 笠松邸=現、益田館。町指定文化財。慶長七年(1602)地頭御検地帳によると、益田元祥の御土居(屋敷)は間口80間 (145b)、反別706畝歩。慶長8年益田市三宅の御土居にあった別館を解体して中島港から船で笠松山下の現益田邸に移し たが、現在の館は明治7年(1874)に改築したもので、その時お船倉など数多くの土蔵も解体され、更に大正7年の水害により 本門も解体のやむなきに至った。現館は昭和55年6月7日、36代益田兼旋死去、遺言によって益田館及び屋敷とその一帯の 土地を須佐町に寄付された。現在の屋敷は藩政期の半分ほどに縮小され、従って建物も当時存在したと伝えられる表門やそ の附属屋は失われているが、中門とその西方に山を背にした主屋が残っている。(「須佐町史」668頁以下)

P32    (元治二年,1865)

おり候処 神明ノ加護モ有之候哉これありそうろうや たちまち諸隊義兵ヲ挙ケ候ニ付
臣等幸ニ平常存念相果あいはたたく候 而已のみニ而にて脱走仕候*1
間 何卒なにとぞ暫時ノ御暇おいとま賜リ度 伏テ奉願候ねがいたてまつりそうろう この段御届申上候
  誠恐頓首
        正月廿四日

              梅津 熊之進
              河上 範三
              原井 直助
              山下 範三郎
              安岡 五郎
              黒谷 豫四郎
              津田 公輔

P33   (元治二年,1865)

              大橋 三樹三
              大谷 樸助

*1(前頁) 「存念相果シ度候而 已ニ□而脱走仕候」の部分は左の二通りの解釈あり
@存念相果シ度候而已(のみ)ニ而(にて) 脱走仕候
A存念相果シ度候而(そうろうて) 已ニシ而(すでにして)脱走仕候

     親公御墳墓前上書
臣等今日ニ至ル迄 奸吏暴威ヲはばかリ 因循ニ打過うちすぎ候段 実ニ
御霊前ヘ罷出まかりいで候モ恐多おそれおおく奉存候ぞんじたてまつりそうろう しかル処此度こたび諸隊義
兵ヲあげ候ニ付 臣等幸ニ隊中ヘ入リ 身命之しんめいの有ン限リハ年
御趣意貫徹致かんてついたし候様 誓而ちかって尽力可仕つかまつるべく候 此段御聞
可被下くださるべく候様奉願上ねがいあげたてまつり候 泣血再拝
     元治二丑正月

河上範三 御墓前ニ呈セシ和歌アリ。

うつもれし君か直心まごころカ*1ひきあけて
      雲井*2に長く仰きまつらむ   俊慎

*1 「直心」=「真心」の誤りであろう(松永本)。或いは「悳」(とく、異体字は徳)か。
*2 雲井=雲のあるところ。空。宮中。雲の上。

P34   (元治二年,1865)

        各組士族へ遺書
私共義 別紙趣ニ付而ついてハ国*1大禁ヲおかし候事 もとヨリ
欲スル所ニテ無御座ござなく候得共そうらえども 御家益田家浮沈境ニ立至リ
御鎮静而巳のみ守候而者まもりそうろうては 忠節モ不任心こころにまかせず候故 無餘儀よぎなく
つかまつり 外ヨリ尽力可仕つかまつるべく候間 於御内輪ごないりんにおいて一入ひとしお御尽力
奉冀こいねがいたてまつり候 以上
      正月廿四日         連名*3

        大組
        御手廻  
        四組
           各中様
      *4届書写相添あいそえ

*1 国=萩藩のこと
*2 『御家浮沈之境ニ立至リ 御鎮静而巳ヲ守候而者 忠節モ不任心候故』=俗論党主導の本藩政府が所領が一萬石に 削られても毛利家の家名存続のためには致し方なしと云うような考え方であるならば、「御鎮静」とか「恭順」を守っていても益田 家の将来は無いではないか。それでは主君へ忠節を尽す事はできないと云う意味。(P24参照)本書中、回天軍の考え方を示 す最も代表的な文章であると考えられる。
*3 九名=P32〜33の9名のこと。松永本に拠って補筆した。
*4 右之通=松永本に拠り補筆した。

P35    (元治二年,1865)

        小国翁へ遺書 ニ貼付ス*1
私共寸忠ヲ尽度つくしたきニ付脱走仕候つかまつりそうろう 前以まえもって先生へ御咄不申おはなしもうさず
段 御遺憾可有之これあるべく候 此上ハ御内輪ニテノ御所置よろしく
御願仕候つかまつりそうろう 以上
    正月廿四日 
                      大谷 樸助
                      大橋 三樹三
                      黒谷 豫四郎
                      安岡 五郎
                      津田 公輔
                      山下 範三郎
                      原井 直助
                      河上 範三

P36    (元治二年,1865)

                      梅津 熊之進

*1 (前頁)「門扉ニ貼付ス」=小国先生は我々の脱走には拘わっていないという事を世間に示す目的で貼付したものと考えられる。

小国融蔵ハ当時謹慎中ニ付キ、ただちニ金子新蔵ヲ以テ前顕ヲ邑政ニ届ケ
タリ。融蔵もとヨリ樸助等ト陰ニ気脈ヲ通ゼシ故、脱走ノ挙ヲ賛画*1セシ
いえドモ*2九名ノ志士途中ニ於テ縛セラレ、宿望ヲ達スルあたハザルモ難計はかりがたきヲ以テ、萬
一失敗セバ善後ノ策ヲ画スベキノ約シテ留マリタリ。然ルニ*3正義派ノ脱走ニ依
リ自然嫌疑ヲ受ケ、一層虐待*4セラルヽニ至ラバ、内外ノ不幸これ*5ヨリ甚シキ
ハ無シト云フノ議ニ拠リテ*6一封ノ書ヲ遺スノ計ヲ決セリ*7

                      津田 公輔
君がためけふ思ひたつ旅ころも
    そてにさやけき有明の月

ここニ脱走志士ノ家族ハおのおのその帰宅ヲ待テドモ鶏鳴けいめい*8なお帰ラザルヲ以テその
踪跡そうせきたずねタルニ、前夜、大谷樸助宅ニ相会あいかいシテ脱走セシ事実ノ判

*1 賛画=補佐してはかり定めること。
*2 セシト雖ドモ=松永本ではこの後に「邑政堂ノ戒厳怠ラザル、」という文言が挿入されている。
*3 然ルニ=松永本では「然レバ」となっている。
*4 虐待=松永本では「虐待」の代わりに「一層幽囚ノ厳ヲ加フルニ至リテハ、内外ノ…」と書かれている。
*5 焉=ここでは「これ」と読む。松永本では「焉」の代わりに「」と書いている。通常は(疑問反語の助詞)どうして…か。なんぞ。(場所を問う疑問詞)いずくにか。
*6 云フノ議ニ拠リテ=松永本では「トシテ」と書かれている。
*7 謹慎中の小国融蔵は脱走には拘わっていないことを示すために門扉に一文を残したという意味。松永本では「決セリ」では なく「決セシナリ」と書かれている。
*8 鶏鳴=夜明け

P37    (元治二年,1865)

然タレハ おのおの親族ヨリ邑政堂ニ脱走届ヲ出セリ。俗吏等曰ク、彼等未ダ数里
以内ニ潜伏スル事モアン。可成なるべくその所在ヲ探索シテ捕ヘ帰ルベシト。大谷樸助
跡ハ家名断絶ノ令アリ。*1

脱走ノ九名 福田村*2ニ至レバ、東方既ニ白キヲ以テ昼伏夜行ちゅうふくやこうノ策ヲ決シ、中
野屋なにがし*3ヲ頼マントテ応接ノ為、河上範三・津田公輔先発セシニ、積雪
数寸、みちヲ失ヒ躊躇ちゅうちょ時ヲ失セリ。その間、大谷樸助外六名ハ既ニ中野屋ニ
至リテ潜伏ス。範三河上公輔津田ついニ中野屋ニ達スルあたハザルヲ以テ、樸助大谷
ニ報ジテ更ニ図ル所アラントシテ返レバ、樸助大谷すでニ去レリ。よっただちニ片俣村*4
至リ、人跡稀ナル山間ノ農逕樵路のうけいしょうろ*5ヲ迂回シテ、昼七ッ時午後4時御堂原みどうがはら*6ノ農家
ニ投ズ。疲労すこぶル甚シ。于時ときに賊兵拾余名、銃器ヲ携ヘテ巡回ノ途次
範三河上公輔津田等ノ潜伏ヲ偵知シ同家ニ入ル。二氏危ノ事アリ。翌廿六日1月朝出
発、篠目しのめ*7ニ至レバ諸隊ノ先鋒奇兵隊参謀時山直八*8司令官トナリテ

*1大谷樸助跡ハ家名断絶ノ令アリ=大谷樸助に対する沙汰書は次の通り。
   丑の廿五日
大谷撲助儀、昨夜出奔、家名知行とも差し止められ候段仰せ付けられ候事
付り  家内・子の儀は御構これ無く、家屋敷もいまだ何分の御沙汰これ無く候事
*2 福田村=須佐より南方9`の村。(阿武町福田上下)
*3 中野某=下巻P157の「中野新助」と同じではなかろうか。
*4 片俣村=須佐より約15`、国道315沿いの村。
*5 農逕樵路=(のうけいしょうろ)農夫やきこりが通う小道。
*6 御堂原=(みどうがはら)JR山口線長門峡駅付近。
*7 篠目村=30頁参照。
*8 時山直八=名は養直。白水山人、海月坊、梅南等の号あり。萩城外山田の人。松下村塾に学び松蔭の教授を受く。後江戸に 出で、藤森弘庵安井息軒に師事す。その後久坂玄瑞と国事に奔走、文久2年諸藩応接掛となる。元治元年奇兵隊の参謀となり馬 関攘夷戦に加わる。明治元年隊兵を率いて北越に出征し、5月11日越後朝日山の戦に死す。年31。明治2年靖国神社合祀。同31 年7月贈正四位。(「近世防長人名辞典」より)

P38    (元治二年,1865)

出張、砲台ヲ建シテ警戒最厳ナリ。応接事おわリテ大垰おおだお*1ヲ越エ
山口竪小路たてこうじ*2井関屋*3ニ着スレバ、大谷樸助等すでニ投宿セリ。樸助外六名
廿1月五日夜福田村発程、生雲村*4通リ篠目しのめ村ニ至リ、路ヲ仁保市にほいち*5ゲテ
膺懲隊*6總監赤川敬三*7兵ヲ率ヒテ滞陣セルニヒ、応接数刻ニシテ山口
ニ至ルナリ。如斯かくテ山口本営ニ駐在セル諸隊ノ長官ハ、概子おおむね大谷樸助等ノ同
盟知友ナレバ、しばしば謀議シテおおいニ賛助ヲ得タリ。これヨリ先、宝蔵寺*8たむろシテ
諸隊ト撰鋒隊ト調和ヲ図リ、止戦ノ策ヲ講ズル一団体アリ。日其人
員ヲ増加スルニ依リ、東光寺ニ転ジテ干城隊*9ト称ス。同隊ヨリしきリニ止戦
ノ事ヲ建議シ、加之しかのみならず御末藩清公ノ周旋アリテ正月廿九日遂ニ止戦ノ
発令アリ。

二月朔日、干城隊福原亀太郎*10佐藤弥右衞門*11両名来須佐。同隊ノ歎願
ならびニ撰鋒隊ノ同隊調和ノ策ニ応ゼサルヨリ大衝突ヲ起シテ生雲

*1 大峠(おおだお)=国道9号線木戸山トンネルの山口側にある宮野大垰のこと。国道262号線はここで9号線から分岐して萩に向かう。
*2 山口竪小路=県道204号線と同62号線が交差する付近。山口市の中心部。
*3 井関屋=両替商。初名新太郎、のち六兵衛、晩に清主と改む。萩藩用達大黒屋の一家なり。その先六兵衛由松は大内氏の家人なりしが、 同氏滅亡後京に出でてその地今井家に寄留す。その子圓徳毛利輝元に召下されて金銀貨幣見極の役を授る。寛永年中、萩に金銀判座の設けらるるや呉服町判座にて 見極めの金銀貨幣に大黒屋の極印を付するを命ぜられ、これより宗支の関係ある京都今井大黒屋は萩の井関大黒屋と各その極印を押すこととなり今井は京にて井関 は萩にて共に萩藩の判座を司り、長くその家業と定めらる。かくて六兵衛清主に至り、維新の際広沢眞臣に随い上京し京都楮幣局に勤めしが、のち毛利氏より山口 に居宅を賜いてここに移る。維新後は去って三田尻に移り、屡々事業に失敗して産を喪い、各地に転住して余生を送り、大正5年10月20日東京に没す。年76。 (「近世防長人名辞典」50頁より)
*4 生雲村=阿東町生雲。
*5 仁保市=JR山口線仁保駅付近。国道9号線仁保入口交差点から国道376号線を経て約3`東方、徳地寄りの地点。
*6 膺懲隊=文久3年7月赤川敬三等により創立。一旦解散するが来島又兵衛が同志を募る際、旧隊士を集め第二奇兵隊と称し、更に膺 懲隊と改める。後遊撃軍から独立する。(「長州諸隊一覧」山口県史資料編幕末維新6 別冊より)
*7 赤川敬三=名は忠郷。藩医赤川玄悦の子で医籍を脱し平士となる。文久3年5月攘夷の挙に高杉晋作の有志組に入り、次いで一隊を 作り浜崎万福寺に屯す。一時解隊の後此の年秋また旧隊士を集めて第二奇兵隊と称し、更に膺懲隊と改名して遊撃隊に属す。元治元年 その司令に任ず。のちまた遊撃隊より独立してその総督となり爾後各地に出戦して功あり。明治元年12月建武隊成りてその副総督たり。維新の後、秋田、愛媛諸県に出仕し、のち広田神社、長田神社などに奉仕し大正10年1月20日神戸に没す。年79才。
*8 宝蔵寺=不明。「弘法寺」のことか。(「防長回天史」第五編上七の45頁3行目及び46頁2行目参照)
*9 干城隊=元治元年2月24日福原又市を惣督とする隊を干城隊と称す。慶応元年1月内訌戦の際、諸士有志が集まり、撰鋒隊と諸隊との

間にあって国内鎮静に当たる。鎮静会議員と自称。3月干城隊の名を再興し隊形を編制。
*10福原亀太郎=萩藩士。
*11佐藤孫右衛門=萩藩士。

P39    (元治二年,1865)

村ニ転営シ、同村ニ於テ土人ニ布シタル告諭書冩ヲ携帯シテ邑政堂ニ
至リ、須佐中ノ有志者ヲ入隊セシメンコトヲ促ガス。

           歎願書*1
此度こたび諸隊追討被仰付おおせつけられ候処 不容易よういならざる 御国難ニ立至リ 只今
勢ニテハことごとク討伐不被仰付おおせつけられず候脱而者ては 差止さしとめ難キ次第ニ御座候ござそうろう共 元来
彼等かの尊攘御正義ヲ薫陶くんとうシ 一途いちず存詰 ぞんじつめ*2 農町兵ヲ説得シ 専
ラ人心彼ニ服シ候勢ニ付 兵威ヲ以テ難制せいしがたく  かえっテ沸騰甚敷はなはだしく かの勢ヲ煽
仕候つかまつりそうろう相成候あいなりそうろう故 公明正大ニ條理判然タル処置ヲ以テ屈服つかまつ ラセ候
外 策有之間敷これあるまじく候 畢竟ひっきょう追討ニ被仰付おおせつけられ ついに 撃尽うちつくし候迄ニハ数度ノ
戦争中 御人民死亡夥敷 おびただしく 器械*3弾薬兵粮等ニ至ル迄 諸費莫
儀 加之しかのみならず御国民困苦 戦場尚更なおさら兵燹 へいせん*4災害ニ不堪たえずシテ
百姓蜂起必然ノ事ニ奉存ぞんじたてまつり候 自然*5これ等ハ 御政道不被為届とどかせられず次第

*1 歎願書=この嘆願書は「防長回天史」第五編上七の48頁に掲出されているが若干の相違あり。 「防長回天史」第五編七上45頁によれば、絵堂の戦いのあと、『杉梅太郎 笠原半九郎、山県某等直ちに之を大谷口の同志(寺内 暢三、楢崎八十槌、河北一山、山県箴、横山十五郎等)に通じ乃ち共に大谷口総奉行毛利将監の旅館に至り 其説を陳し且諸士を 率いて城に上り公に謁せんことを請う。将監之を諾し衆を率いて直ちに発す。凡四十人玉江口松本口等の有志之を聞き途よりして漸く 来たり加はる。其城に上る頃約七十餘人杉徳輔亦在り。将監衆と共に公に謁し先ず其旨を述べ、諸士尋て各其志の在る所を陳す。 就中、杉徳輔が諸隊を征討し内乱を生ずるときは毛利氏の正義立ち難き所以を論じ杉梅太郎が速に兵を戢むるに非ざれば人民の疲弊 国家の衰頽測る可らざる所以を論ぜしが如き頗る君聴を動かしたりと云う)公之を聞き集る者二百余人自ら称して鎮静会議員と謂う。 蓋し諸隊と雷同の嫌を避け、故さらに隊名を用ひざるなり。』…『是に於て公急に清末侯及び執政老臣を召し諮問する所あり。侯奮て 自ら鎮静の任に当たらんことを請い、翌日萩を発して明木に至る。杉孫七郎等随う。…』
*2 存詰=思い詰め。
*3 器械=鉄砲のこと。
*4 兵燹=戦乱によって起こる火災。燹は野火。
*5 自然=万が一

P40    (元治二年,1865)

相成あいなり 万一此往このさき
天幕朝廷と幕府ヨリ御譴責けんせき*1被為受うけさせられ候而者そうろうては 御先祖ノ御尊霊へ被為対たいせられ
不相済あいすまず 此上之このうえの恥辱ちじょくほぞヲ噛トモ不及およばず候 近クハ人民塗炭ノ苦とたんのくるしみ*2
兄弟けいてい闘争如キハ 乍恐おそれながら不被為堪たえさせられず 御憂慮御事ニ付 此段
被遊御熟考ごじゅっこうあそばされ 第一 諸有司*3黜陟ちゅっちょく*4正敷ただしく被為行おこなわせられ 第二 すみやかニ討
勢ヲ被為引ひかせられ 蒼生そうせい*5安堵あんど そのなりわいつかシメ 人心一和もといヲ御開被遊あそばされ
候ハヽ したがっテ御国是凛然りんぜん*6相立あいたち可申もうすべく候間 御英断御急務ニ
奉存候ぞんじたてまつりそうろう 全以まったくもって私共諸隊ヲ荷担つかまつる者ニ而者ては
*7臣子至情不相忍あいしのびず 燃胸
焦心所耐無御座たえるところござなく候間 不顧恐懼きょうくをかえりみず 奉献言けんげんたてまつり候 仰願クハ断然
被遊御決心候而ごけっしんあそばされそうろうて 御採用奉懇願こんがんたてまつり候 誠恐誠惶謹言

          仝*8
此度こたび追討被仰付おおせつけられ候処 元来諸隊ノ者ハ亡命無頼ノやから有之これあり

*1 譴責=とがめ責めること。
*2 塗炭ノ苦=泥にまみれ炭火の中で焼かれるような苦しみ。
*3 有司=つかさびと。役人。
*4 黜陟=有功者をあげ無功者を退けること。
*5 蒼生=@草木が青々と茂るところ。A人民をいう。
*6 凛然=@威厳を備えているさま。心が引き締まるさま。
*7 欠落部分=松永本は何を根拠に文章を挿入したのか。松永氏の創作とは考えられず、尊攘堂本、文書館本以外に第三の底本が存在したのかも知れない。
*8 最後の二行以下次頁の嘆願書=「防長回天史」第五編上七の46〜47頁の「上疏文」と酷似している

P41   (元治二年,1865)

得ハ 畢竟ひっきょう正義之所集ニ付 兵威ヲ以テ圧候而者あっしそうろうては 却而かえって 沸騰甚敷はなはだしく
相成あいなり候訳ニ御座候故 義理ヲ以テ諭シ候ほか手段無之これなき段ハ 前段申上候通ニ
御座候 就而者ついては今日廟堂*1ノ諸役人賢明ニテ有之候得共これありそうらえども  久敷ひさしく御咎おとがめ
被仰付おおせつけられ 天下ノ形勢一円不承知者故 諸事天保度ニ被差返さしかえされ 候得ハそうらえば*2
萬事都合よろしくト存詰候ヘトモ 今日人民天保度人民ト相違あいたがい
事ハ三尺童子モ存候位ニテ 決シテ心カ*3不仕 つかまつらず候 乍恐おそれながら 御両殿様毛利敬親元徳
 御誠意ハ 天下共ニ所知しるところニ候処 却而かえって御粗暴ノ様ニ相成 あいなり
御正義煙滅えんめつ*4 御国論変動*5至申 いたりもうし候 右ニ付諸隊者共数度建
つかまつり候処 一廉モ御採用無之これなき而己のみナラス 御直書ヲ以テ被仰聞 おおせきかされ
候御趣意 御実行相違仕あいたがいつかまつり候ヨリ 御説得ノ旨モ不奉たてまつらず つい
及暴動ニぼうどうにおよび候次第ト存候 まったく追討被仰付おおせつけられ候ニ付 進退相迫候ヨリ おこり
候段ニ而者ては無之これなく候間 断然確乎不動ノ御英断ヲ以テ 右等ノ役人

*1 廟堂=朝廷または政府の意。ここでは本藩政府。
*2 天保度ニ被差返=萩藩が村田清風を起用して行った藩政改革(天保の改革)のこと。財政改革のみならず富国強兵策 など改革は藩政全般に及んだ。しかも中級家臣団に至るまで意見を聞き、破格の人材登用、藩財政の公開などを行った。 しかし、余りにも強引なやり方に藩士や商人の反発を買い失脚した。村田清風失脚後政権を担った坪井九右衛門は引き締め 策を緩和するが忽ち失敗する。その後萩藩では村田の政策を受け継いだ周布政之助(改革派、正義派)と坪井の後継者椋梨 藤太(保守派、俗論党)が政争を繰り返すことになる。これが元治元年の内訌事件に尾を引くことになった。ここでは俗論党役人に代えて正義派の役人を登用せよという意味。
*3 人服=心服か。
*4 煙滅=煙のように消え失せること。
*5 御国論変動=@安政5年井伊直弼が大老となり条約問題、将軍継嗣問題などを巡って政局がクライマックスに達した時、 萩藩は通商条約調印の可否をめぐって態度を迫られた。その時萩藩は「朝廷へは忠節、幕府へは信義、祖先には孝道」の 藩是三大綱を打ち出した。A井伊が倒れ久世安藤政権の頃になり公武合体策が登場して萩藩は長井雅楽の航海延暦策を推 したBしかし老中安藤が坂下門の変で襲われると、文久2年7月萩藩の藩論は「破約攘夷」へ一変する。Cそして、蛤御門の変 の後、長州征伐になるや藩内では「謝罪恭順」と「武備恭順」とが対立するが慶応元年2月藩論は「武備恭順」に統一された。

P42   (元治二年,1865)

しりぞケ 正義ニシテかつ時勢ニ通達ノ人 御もちい被遊候得ハあそばされ そうらえば 不動干戈かんかをうごかさずシテ
鎮静つかまつり 士民モ安堵あんど可仕つかまつるべく候 実ニ御正義湮滅えんめつ  御論変動ニ
テハ 御家毛利家ノ為ノミナラス 神州古来ノ御国体ヲ損シ候訳*1候得ハそうらえば
何卒なにとぞ御所置之程 私共一*2 泣血奉懇願こんがんたてまつり侯 以上

            檄文*3
先達*4已来いらい討伐ノ為 軍勢 数多あまた差向ラレ 未タ攻亡せめほろぼスニ至ラザルノミナラズ
却而かえって諸隊ノ勢 日日盛ニ相成あいなり 然ル処ニ戦ノ 手負死ノ痛シキハ
申迄モ無之これなく 農家町家共ニ荷送リ其外ノ夫役ぶえき*5おおく 肝要農作
モ丸ニ打捨うちすて 大概壮年ノ者ハ夫役ニ被遣つかわされ  妻子ハ日々ノ取渡リニリ 中ニモ
老人又ハ病者ニテ重持不申 もちもうさざる*6ハ 雇替やといがえ致差出さしだしいたし 候ヘバ 余分之賃銭ヲ取
ラレ 諸色しょしき*7ハ次第ニ乏敷とぼしく 金銀ハ融通不致 いたさず候得バそうらえば 家財衣類等モ質
入トナシ 最早饑寒きかん*8ニ迫リ候有様 見ルニ忍ビズ 右ニ付其訳 そのわけ細々こまごまもうし

*1 御国論変動ニテハ 御家ノ為ノミナラス 神州古来ノ御國体ヲ損シ候訳=俗論派が唱える「謝罪恭順」は毛利家の 為にならないばかりか、幕府に媚びて朝廷を軽んじることになる…という意味。
*2 私共一編=私共一統の誤りか。
*3 檄文=「防長回天史」第五編上七の65頁の諭告文と同じ。誤字等の修正はこの文章を参照した。
*4 先達=先達而(せんだって)。
*5 夫役=(ぶえき)被支配者に課せられる労働の役務。(ぶやく)→人夫役の意。支配者が強制的に課する労役。 *6 重持不申者ハ=『重荷得持不申者』は(おもにえもちもうさざるもの)と読む。
*7 諸色=いろいろの物(諸式と同じ)。
*8 饑寒=餓え凍えること(饑凍と同じ)

P43   (元治二年,1865)

あげ いくさヤメナサル様ニ 過ル十六一月日同意ノ面々一同ニ 御城へ罷出まかりいで
御両殿様毛利敬親元徳御直おじきニ申上候処 無勿体もったいなく思召 おぼしめしニ叶ヒ 直様すぐさま御鎮メ方清
末へ御任セニ相成あいなり候 右ニ付歎願筋一日モ早ク御運ビ相成あいなり候様一
統誠ノ心ヲ尽シ 御先祖様前ニテ御祈願ヲ籠メ 何卒なにとぞシテ
御国家安全もとい相建あいたて 難義救度すくいたき所存ニ 御所置奉待まちたてまつり居候
処 更ニ御目途無之これなき而己のみナラズ 色々ノ差支さしつかえヨリシテ歎願筋モ急ニ 届不申とどきもうさず
由ニテ おのおの心中ヲ察不申さっしもうさず 却而かえって何ゾ事ヲ 企候様くわだてそうろうよう引受者有之これあり
候得バそうらえば 萬一御政道ノ御手支リ共ニ相成あいなり候而ハそうろうては 最初歎顧申
上候おもむきニモ有之これあり候訳ニ付 第一御上へ御安付度積つけたきつもり ニテ 一先ひとまず当地生雲
へ立退キ候次第ニ候*1 右ニ付おもむき能々よくよく令熟考 じゅっこうせしめ 下ニ於ヰテモ共ニ力ヲ合セ御
国難ノ萬一ヲモ救ヒ奉リ候様 呉々モ有之これあり候得バそうらえば おのおの当所 生雲へ立退キ候
義 格別事ヲ企候くわだてそうろう訳ニ無之これなく候間 地下じげ *2為安堵あんどさせ申聞

*1 一先当地へ立退キ候次第ニ候=東光寺から生雲へ兵を引き揚げた事を云う。「防長回天史」第五編上七の63頁によれば 「此夜鎮静会議員は東光寺を去りて阿武郡吉部(きべ)村に移る」とあり、この檄文は移転に当り村民に発した諭告文であること が述べられている。所が「忠正公勤王事績」506〜7頁では「鎮静会議員の方では、此の際城下に居ては、殿様御父子に対抗する形になるから、謹慎の態度を執って、君命を待つが宜いと云うので、吉部と云う所に転じました。吉部という所は私は能く存じ ませぬが、生雲の近所である相です。先達て杉子爵に聞きますると、吉部ではない、生雲へ行ったのであると云われましたが、 書類には吉部と書いてあります」と述べられている。
*2 地下=@平民。身分の低い人。地下人。A朝廷に仕える人がそれ以外の人を指して云った称。B昇殿を許されない五位以下 の官人。「防長回天史」第五編上七の66頁では「地下中」と書かれている。

P44   (元治二年,1865)

置候モノナリ
                          干城隊

邑政堂ハ各級士族ニ異見ヲ下問セシニ、大谷樸助等九名ノ脱走後正義派ノ
勢力やや張ラントスル時機ニ際シタルヲ以テ、各級共干城隊旨趣ヲ賛同スル
由ヲ回陳セシカバ、俗吏モ福原等ガ入隊ノ請求ヲこばムコトあたワズ。僅ニ金子新蔵・
多根卯一・松原仁蔵・秋山春三ノ四名ニ入隊ヲ命ズルトいえドモついニ果サズ。

2月月四日 干城隊静間彦太郎*1須佐 中ノ実況を視察シ大谷樸助等ガ
須佐運動ノ計画ヲ成サシメントシテ来須佐セリ。まず邑政堂ニ就テ談判ヲ開キ
シニ、俗吏等因循姑息ともはかルニ足ラザルヲ憤リテ帰営ス。
大谷樸助外八名ノ脱走者誘導ノ為脱須佐邑ニ帰リテ*2 邑中ノ正義ヲ回復シ、飽迄あくまで
亡君益田親施ノ御遺志ヲ継グベキノ方針既ニ定マルヲ以テ、南御領*3・大道・切畑・壱貫野へ有志
者誘導ノ為メ、河上範三・原井直助両名ヲ派出セリ。その募ニ応ズルモノ三好

*1 静間彦太郎=萩藩士。元治元年干城隊に入り、慶応中四境戦争に出役し、明治に入り第2大隊司令に任じ 伏見鳥羽の戦いに従う。次いで奥羽に出戦し乱平ぎて同2年また函館に出戦し、その平定の後8月伏見に凱旋す。偶々その9月4日京都木屋町旅亭にて大村兵部 大輔と会談中、凶徒数人の乱入に遭い奮闘して死す。年33。
*2 「脱走者誘導ノ□須佐邑ニ帰リテ」=文書館本では「脱走者ハ須佐ニ帰リテ」となっている。
*3 南御領=益田領の飛び地。大道、切畑は現防府市大道、切畑。国道2号線と県道21号線の交差点が大道、切畑はその北方。 一貫野は現山口市の県道197号沿いにある。

P45   (元治二年,1865)

久平外士農弐拾六名ナリ。ひきいテ山口ニ帰ル。

2月六日脱走ノ志士九名及三好久平等弐拾七名、總員三拾六名ハ大谷樸助
ヲ推シテ總督トナシ、津田公輔・大橋三樹三斥候ニテ回天ノ二大字ヲ書シタル旗ヲ
ひるがえシ、干城隊 崎八十槌・笠原半九郎等五名公命ニこれヲ保護シテ
須佐ただちニ心光寺ニたむろシ回天軍ヲ設立セリ。

         回天軍趣意

回天軍屯集ノ義 第一為 亡君益田親施のため為御国家萩藩のため 正義回復
実行相挙あいあがリ候様有之度これありたく 日夜苦心候処 今日ニ至リ候而者そうろうては  須佐
人心一旦興起候トいえドモ 是迄これまでノ通リ階級ニ依リ 御軍 御定相成あいなり*1
候而者そうろうては 本藩撰鋒隊ノ如クいんかん 不遠とおからず*2 決シテ実地戦ハ無覚束おぼつかなく  此後このご
外夷ハ勿論 四境*3ノ憂ハ必然義ニ付キ 石州境義ハもとヨリ 益田家
任ニ可有之これあるべく候得者そうらえば 若又もしまた天王山ノ覆 *4ヲ踏候而者そうろうては 御家益田家 義ハ 不及申もうすにおよばず

*1 是迄ノ通リ階級ニ依リ 御軍勢之御定相成=益田家の祖法である「四組」(宇谷、須佐地、瀬尻、市丸) の軍制のこと。(17頁参照)なお、文書館本ではこの部分は「御軍制之相定候而者」と書かれている。
*2 殷鑑不遠=殷人の鑑戒とすべきは、近く前代夏の世の滅亡が良い手本だ、との意。転じて、自分の戒めとするものはすぐ 近くにあるということ。(殷鑒不遠)
*3 四境P24参照。第二次長州征伐では須佐兵は石州口防衛を担当し幕軍を打ち破った。
*4 天王山ノ覆轍=蛤御門の変に際し天王山に後詰めとして布陣した益田右衛門介の本隊は長州軍の敗報に接するや、 一戦も交えず、兵員や兵器を打ち捨てて撤収した事を指す。覆徹は車が覆った跡。前人の失敗のたとえ。

P46   (元治二年,1865)

 

御両国存亡ニモ相係あいかかわ可申もうすべく候間 御軍制*1 内ヨリ別ニ一隊ヲ以テ別ニ
士農工商ノ差別ナク人物ヲ撰ビ 実戦ノ調練相励あいはげミ 竟ハ天下 奸賊会津藩主松平容保
ヲモ掃除シ 亡君益田親施ノ神霊ヲ奉慰度なぐさめたてまつりたき段候条 いやしくも尊攘ノ志 有之これある
ともがらハ 身分ニハラズ其人ノ心ニ任セ入隊可有之これあるべき者也
       元治2年二月           回天軍

邑政堂ハ非常ニそうこう*2殆ド ス所ヲ知ラズ、にわかニ九名脱走ノ罪ヲ赦免シ、大
谷樸助ノ謹慎ヲ解放シテ、食元ノ如クナル由*3ヲ達シ、且ツ令シテ曰ク、 如斯かくのごとく
大ノ御処置アル上ハおのおの解散帰宅スベシト。回天軍ヨリ立隊ノ目的ヲ陳述シテ
曰ク、今ヤ四境ノ難*4日日ニ迫レリ。 益田家ニ於テハ軍制ノ改革スベキハこれヲ改革
シ、北方要衝ノ地*5ヲ引受ケ、眉ノ急ヲ防禦スルノ決心 ナカルベカラズ。これ即チ
先君益田親施ノ御遺志ヲ奉シ、臣子ノ分ヲ尽ス所以ゆえんナリ。 吾輩回天軍ヲ以テ
その基礎トサントスト反覆弁論シテ分散ノ命ニ応ゼズ。俗吏等

*1 御軍制=益田家の祖法、四組の軍制のこと。(7頁*2参照)
*2 蒼惶=あわてる様。(蒼皇)
*3 食禄元ノ如クナル由=元治2年1月24日、大谷樸助以下9名脱走の際、大谷樸助跡は家名断絶を命じられた。(37頁参照)
*4 四境ノ難=第2次長州征伐のこと。四境は24頁参照。幕府軍が長州藩の四境に攻め寄せてくる可能性が日に日に高まりつつある事を言う。
*5 北方要衝ノ地=石州口(佛坂峠のみならず須佐全体)を指す。

P47   (元治二年,1865)

回天軍ノル所ノ主義ハ到底圧抑スベカラザルヲ察スルノミナラズ*1、外ニハ諸隊ノ応
援アルヲ恐怖シテ軍備拡張ノ命ヲ発ス。

2月七日、邑政堂ヨリ士卒各組へ軍事総督公撰ノ令アリ*2

2月八日 親公ノ尊霊ヲ高正大明神*4おくりなシ奉ママ、御短刀ヲ以テその神体ト定メ
産土うぶすな松崎神社*3ニ於テ大祭典ヲ執行シ家臣一般参拝シ、式おわリ大薀寺ニ於テ
各級大会議ヲ開設ス。 その主件ハ本藩ニ建言シテ先君御正義ヲ貫徹セシム
ベキ事、石州口ノ防禦ハ益田家ニ於テ担任スベキ事等ニテ互ニ誓約シテ散
会セリ。

       誓約書
此度こたび会議ヲ以テ一定いちじょう被仰付おおせつけられ候旨趣ハ 先般
高正院様*4御厳科ノ一条 ひとえ
御両殿様毛利敬親元徳思召おぼしめし不被為在あらせられず  奸吏椋梨藤太ら俗論党政府ノ所置ト相聞あいきき 左ヘバ御えん

*1 「到底壓抑スヘカラサルヲ察スルノミナラス」=文書館本では「到底壓抑スベカラザルノミナラス」と記されている。
*2 「軍事総督公撰ノ令アリ」=主君不在のため公撰で任命しようとしたのであろうか。邑政堂は人事権を放棄する程権威喪失し、混乱していたことを表している。
*3 産土松崎神社=「産土神」はある土地を鎮守する神。鎮守の神。産神。「松崎神社」=松崎八幡宮。須佐町須佐本町上。 祭神は応神天皇、神宮皇后、姫大神。由緒によれば、大化6年(650)宇佐八幡宮から勧請して、松ヶ崎に社殿が建てられた ので社名になった。康保3年(966)社殿が拡張されたが、応永25年(1418)、天文3年(1534)、文禄元年(1592)に炎上して 古記録や神宝の多くが焼失した。慶長8年(1603)、須佐領主益田元祥が山根丁東田中山の麓に移し、寛永16年(1639)益 >田元尭の時に現在の地に移された。鳥居は元禄2年(1689)益田就恒が建立した。また神像と神刀と社前に並ぶ石燈籠は 益田家が江戸参勤の都度奉献したもので、須佐町文化財に指定されている。(「地下上申」参照)
*4 高正院様=益田親施のこと。法名「高正院殿大義全明居士」。(21頁参照)

P48   (元治二年,1865)

 

罪ニおとしいれたてまつり候次第 いよいよもって残憾至 於御家来中ごけらいちゅうにおいて悲憤何以加之哉なにをもってこれにくわえんや
就而者ついては
奉報尊霊そんれいにむくいたてまつり 寸忠ハ 今日御 前ノ御深慮ヲ*1
尊霊モ御神祭ニ奉尊崇そんすうたてまつり 
於御神前ごしんぜんにおいて 御家来中丹心*2一和ノ誓約ヲ以テ
御両殿様毛利敬親元徳御正義御思召おぼしめし被成御 ごたいにんなられ*3 御忠節ヲ被尽つくされ つい
御一身モ被果はてられ
御遺念モ臣下銘々心肝ニ徹底つかまつり 乍不及およばずながら丹心 届所とどくところ
是一定*4 御正義貫徹義モ
公儀*5へ歎願つかまつり 然上しかるうえハ たとい *6 外患襲来節モ 御領境石州口防御*7
義ハ一途いちずニ御請相うけあい申出 志操ヲ不変かえず身命しんめいヲ尽シ
御身後*8ノ寸忠 正義凛然相立あいたち候様 乍恐おそれながら

*1 「御□前ノ御深慮ヲ斟ミ」=文書館本では「生前ノ深慮ヲ斟ミ」と記されている。
*2 丹心=忠誠でいつわりのないこと。まごころ。
*3 体認=よく心に呑み込むこと。しかと認めること。
*4 御国是一定=「謝罪恭順」ではなく「武備恭順」に藩論を統一することを意味する。朝廷に対しては恭順であるが、正義のために君側の奸たる 会津桑名を追放し、幕府軍が武力侵攻してくる場合にはそれが鎮撫であろうと討伐であろうと徹底的に抵抗するのである。恭順と云って武器を置いて 降伏するのではなく、正義や真理の為めには徹底的に戦うのが武士の条理であった。
*5 公儀=本藩政府のこと。幕府のことは「大公儀」と云って区別した。
*6 縦=縦令(たとい)
*7 石州口防禦=四境の関門の項(24頁)参照。
*8 身後=我が身の死んだ後。死後。

P49   (元治二年,1865)

  神霊御照覧ノ前ヲ以テ*1決議つかまつり候事

          歎願書
乍恐おそれながら微臣私共不顧恐惶きょうこうをかえりみず*2 歎願 申上候旨趣ししゅハ 旧冬已来いらい多人数
斬戮ざんりく*3ならびに諸隊追討其外そのほか御所置熟考仕候得共つかまつりそうらえども 先般右衛門益田
介殿親施厳科一条モ
御両殿様毛利敬親元徳思召おぼしめし不被為在あらせられず ひとえ ニ政府御所置ニテ*4 罪科相被行あいおこなわれ
候儀モ可有之哉これあるべきやト 於家来中けらいちゅうにおいてモ残憾何以加之なにをもってこれに くわえん 就而者ついては主人益田親施
素志
御両殿様毛利敬親元徳御正義思召おぼしめし被致たいにんいたされ 心身ヲつくされ被相果あいはてられ
義ニ御座候得共そうらえども 臣下銘々その遺念 心ニ 徹底つかまつり 乍不及およばずながら
心ノ届所とどくところ歎願申上候而そうろうて 何卒なにとぞ 御国是御一定いちじょう  御正義御貫
奉仰願あおぎねがいたてまつり候 左候ハヽ主人生前丹心相届あいとどき  於私共わたくしどもにおいてモ本懐

*1 神霊御照覧之前ヲ以テ=親施公の神霊が見守って居られる前で決議しましたの意。
*2 恐惶=おそれつつしむこと。
*3 斬戮=「戮」は死罪にすること。切腹、斬首などの刑罰。俗論党の本藩政府が三家老を切腹させ、四参謀を斬り(P24参照) 恭順の証とした事を指す。
*4 「御両殿様御思召ニ不被為在 偏ニ政府之御所置ニテ」=君臨すれども統治せず。君主が実際の政務を臣下に任せてい た事を言う。第1次長州征伐に於て、三家老切腹は西郷隆盛が強く主張したとされる。

P50   (元治二年,1865)

過分之至リニ奉存候ぞんじたてまつりそうろう 然上しかるうえ縦令たとい 外患来襲*1モ 領分境 石州
口防禦義ハ 一途いちず身命ヲ尽シ手立てだて可申もうすべく候間 幾重モ前件御政
蹟正義御徹底御所置 乍恐おそれながら歎願申上候  誠恐誠惶謹白
                   益田右衞門介跡
                             家来中

同夜二月八日 士族各級ヨリ家老増野おきつぐ*2 ヲ総督ニ推スベシト邑政堂
ニ上申ス

二月九日 増野次ニ總督タルベキノ命アリ。 小国融蔵謹慎放免ニテ 直ニ参謀
タルベキノ命アリ。 回天軍総督 大谷樸助ハ本隊ヲひきいテ一番先衛隊番頭タルベ
キノ命アリ。 ここニ於テ軍制やや緒ニ就ケリ。*3 はじめ回天軍ノ心光寺ニたむろスルヤ げきヲ発シテ
兵員ヲ募集セシニ、豪富*4ハ献金ヲシ、気慨アル者ハ入隊セルニ リ勢力日々ニ
加ハルヲ以テ俗論派モ其鋭鋒ヲタリ。本藩諸隊ハ止戦ノ後萩地ニ入リ、屡々しばしば

*1 外患来襲之節=第二次長州征伐で幕府軍が攻めて来た場合には…の意味。
*2 増野與次=「興次」(おきつぐ)か「與次」か、何れが正しいか。毛筆の字は「與」(よ)。増野又十郎の事か。
*3 軍制稍緒ニ就ケリ=四組の軍制が崩れ、回天軍の主張が通り、どうにか組織として認められた事をいう。 「稍」というのは小国融蔵が参謀で大谷樸助が隊の番頭という命令に不満があったことを意味する。
*4 豪富=誰のことか。浦庄屋の久原家などか。