外国の「SUSA」という町
栗山 展種




 ◇「須佐」という町


現在、「須佐」という地名は日本国内で6カ所あります。

(1)山口県萩市大字須佐(旧阿武郡須佐町)
(2)島根県出雲市佐田町須佐(旧飯石郡須佐村)
(3)愛知県知多郡南知多町豊浜須佐の浦(旧須佐村)
(4)長崎県佐世保市須佐町
(5)宮崎県 延岡市 須佐町
(6)和歌山市須佐(旧名草郡山東荘口須佐村)

一番有名なのは勿論私達の故郷、山口県の須佐です。出雲の須佐には須佐温泉や須佐神社があります。愛知県の須佐は万葉集に須佐の入江と詠まれた所です。

あじのすむ須佐の入江の荒磯松 我を待つ子らは唯一人のみ  (巻11-2751)
あぢのすむすさのいり江のこもり沼の あな息づかし見ず久にして(巻14-3547)


【注】これらの歌については和歌山県有田説、兵庫県神戸説などがある。しかし、いずも現在地名としては残っていない。

 ◇外国の「SUSA」という町

さて、海外はというとイラン、イタリー、チュニジア、アゼルバイジャンの4カ所にSUSA という名前の町があります。夫々世界でも有名な場所ですね。

 イタリーの SUSA

北緯45°08’、東経07°03’、イタリーとフランスの国境に近いピエモンテ州トリノ県(Turin(TO), Piedmont, Italy)、Cottian Alpsの麓にあるスーザ Susaの町は海抜503m、トリノ市 Turinの西54kmにあります。トリノ県のコムーネ Comune の一つで人口6,638人(2004年12月末現在)、面積11.26㎢の小さな町です。 チェニスキア川(torrente Cenischia)がドーラ・リパーリア川に合流してポ川Poの支流となる地点です。スーザ渓谷が北側のチェニスキア渓谷と西のスーザ渓谷の 上流に二股に分かれています。

Susa は古代ガリア人が建設した町で元の名はSegusium と呼ばれました。アルプスの主要峠であるモンスニ峠 Mt.Cenisとモンジュネーヴル峠 Mt.Genevreの2つの峠から からポ川の大平原に入る玄関の町として、ケルト、ガリア時代から交通の要路でした。また、モンジュネーヴル峠とスーザの間にあるエグジル砦 Forte di Exilles は対フランス防衛上の要衝でした。従って、紀元1世紀にローマ帝国の一部となり、3世紀のローマ時代アウグストスの治世になると本格的に町の建設が進められました。サヴォイア広場を中心として、残りの部分は古代の町の上に建設されたため、現在ローマ時代の遺跡が多く発見されています。 ローマ時代の Susa は城壁に囲まれていたと云われています。

ロマネスク様式の聖ジュスト教会 Cattedrale di Sa.Giusto(1029年建立)やデ・バルトロメイの館が高さ51mの鐘楼(15世紀)と共に中世の姿をとどめています。 アウグストス像のある公園脇のアウグストス門 Arco di Augusto は紀元前13〜8世紀のものと伝えられています。その先にある Acquedotto Romano は ローマ時代の水道です。旧市街に隣接してローマ時代の円形劇場 Anfiteatro Romano があります。

イタリーのスーザに関するHPがありますからご覧下さい。

● http://www.eu-alps.com/o-site/do-2002/622/622oulx-susa.htm

● http://en.wikipedia.org/wiki/Susa (フリー百科事典『ウィキペディア』)

● http://www.cittadisusa.it/ (町の公式サイト)

 

 イランの SUSA     (現在の名は Shushtar)

イランのスーサという町は北緯32゜18922’、東経48゜25778’にあります。イラン南西部でイラク国境に近く、ペルシア湾に面するクーゼスタン州 Khusestan provinceの町で、チグリス川東方150マイルの地点にあり、推定人口は64,960人です。州都はアワーズ Ahvazです。

エラム王国時代 Elamite Empire、アケメネス朝ペルシャ時代には王都として栄えました。現在はシューシュタル Shushtar と呼ばれています。

スーサは「アクロポリス」、「アバダーナ」、「王の都市」、「技師の都市」の4つの遺構から成ります。1901年にはルーヴル美術館に保管されている ハンムラビ法典碑Code of Hammurabi がここで発見されました。「アバダーナ」はダレイオス1世 Darius I the Great によって建設され、冬の宮と呼ばれた宮殿の謁見の間跡です。 ここには3つの中庭、百柱の間、ハーレムなどがあります。

スーサの歴史は古く、「アクロポリス」からは紀元前4000年にまで遡る神殿跡が発掘されました。紀元前30世紀から紀元前7世紀に跨るエラム王国の首都でしたが、 バビロニア王国 Babylonian Empire によって征服され、紀元前644年にアッシリア Assyrian Empireによって破壊されました。しかしアケメネス朝 Achaemenid Empire ペルシャ王のダレイオス1世が王宮を置き、「王の道」の起点として再び栄えました。「王の道」が実際、 どのような地理的コースを走行していたのか、ヘロドトスの記述や、考古学での研究、またそれ以外の歴史記録を元に復元されています。公道は、 現代のトルコのイズミールの東、およそ60マイルに位置するサルディスの西から始まり、今日のトルコの中北部に当たる地域を通って西へと走行し、 古代のアッシリアの首都ニネヴェ(現代のイラクのモースル)へと達し、そこから更に南へと進み、バビロン(現代のイラクのバグダッド)へと通じていました。 しかし、アケメネス朝ペルシャ崩壊後、スーサは忘れ去られ、歴史の表舞台から姿を消しました。

ヘブライ語ではシュシャン Shushanとなる伝説的人物のダニエル書の主人公ダニエルの墓とされるもの(シューシュ・ダニエル)があります。 ダニエルの塔がそれです。スーサは聖者ダニエルが亡くなった地です。イランは聖者信仰が盛んで願い事があるときはモスクではなく聖者廟へ行って願掛けをします。 塔の下がダニエルの霊廟になっていて内部はミラーワークのある部屋の中に金や銀で飾られた小部屋があり棺が収められています。

考古学パレスと呼ばれる宮殿のような建物はフランスの調査隊が盗賊から身や発掘品を守るためにバスティーユの牢獄をモデルにして造った建物です

シューシュタル近辺までかなりの大型船が航行できるカールーン川 Karkhehはイラン唯一の可航河川です。イギリスはサー・ヘンリー・レイヤードが発見してから、 最近数十年間に至るまでカールーン川の水運を利用しました。アワーズを経由して、ナフトゥーン油田 Naftun、最初の油井のあるマスジェデ・ソレイマーン Soleymanに至ります。 キャルヘ・ジャッラヒー、アルヴァンド、ハンディヤーン、シャーヴール、バフマンシール(バフマン・アルデシール)、マールーン・アラーア、デズなどの河川、 「フールス」、潟湖、池、湿原など、この地域は水資源が豊富で豊かな農業地帯です。小麦、大麦、搾油種子、、米、ユーカリ、薬草など、 さまざまな農産品が収穫され、特にヤシ農園と柑橘農園が盛んです。山地はオリーブ、サトウキビ(フーゼスターンの名はこれに由来する)に適しています。 カールーン川第三ダム、第四ダム、キャルヘ・ダムは石油とともに国家エネルギー資源、輸出資源です。石油化学、鋼管、発電所、化学プラント、 精油所などのイランの主要産業があります。ヤーダーヴァーラーン油田は主要油田のひとつです。

イランのスーサについてもホームページが沢山有ります。「スーサ」で検索してみて下さい。

 チュニジアの SUSA     (仏語 Sousse/英語 Sousse, Susah,  Susa )

チュニジア Tunisia の首都チュニス Tunis の東南約140km、チュニジアの中東部にに位置しハマメット Hammamet 湾に面するチュニジア第3の都市です。北緯35°49'、東経10°39'、人口は約430千人。 「サヘルの真珠」とも呼ばれる美しい港町で旧市街のメディナはユネスコの世界遺産に登録されています。
【注】「サヘル」は、アラビア語で縁を意味し、サハラ砂漠南縁部を指す。サヘル諸国としては、西部からモーリタニア、セネガル、マリ、ブルキナファソ、ニジェール、チャド、があげられるが、 東部のエチオピアやスーダンを含む事もある。ほとんどの国が国連の定義による最貧国である。年間降水量は100mm〜600mmと少ない半乾燥地で、しかもその降水量は年によって変動がある。 1968年から1973年にかけて、アフリカのサハラ砂漠南部のサヘル地域は大干ばつに見舞われ、サバンナの草木は枯れ上がり、多くの家畜が死に、多数の人々が餓死した。

町の起源は紀元前9世紀に建設されたフェニキア人の植民地 Hadrumetumで'n'を加えてハドルメントウム Hadrumentumと呼びました。古代ローマと同盟を結んでいたためにポエニ戦争中を含めてパックス・ロマーナ Pax Romanaの700年の間は比較的平和でした。しかし、ローマが没落するとヴァンダル族が征服して「ハネリコポリス Hunerikopolis」と命名しました。その後、東ローマ帝国がこの町を占領すると町の名前は 「ユスティニアノポリス Justinianopolis」と変わります。7世紀にはアラブ人のイスラム教軍が現在のチュニジアを占領し、「スーサ Susa」と改名しました。その後アグラブ朝 Aghlabid dynasty の主要港となり、 827年にアグラブ朝がシシリアに侵攻したしたときにはスーサは主要兵站基地の役割を果たしました。現存する'Kasrer-Ribat'は821年に建築に着手した対シシリアのキリスト軍防衛の為の砦です。12世紀にはノルマン人(1060 〜1090)、その後はスペイン人に征服され、1764年にはヴェネツイア共和国、次いで1881年にフランスに征服され町の名前はフランス風に「スース Sousse」と改められました。しかし、その後もアラブ風の町並みは残り、 現在ではアラブ人による典型的な海岸の城砦都市として人気があり、年間1.2百万人もの観光客が訪れる観光都市になっています。

観光ポイントは世界遺産の旧市街 Medina、グランドモスク(北アフリカ最古)、リバト Kasrer-Ribat、ローマ式円形劇場、スース考古学博物館、郊外にあるヨットハーバー・リソート・コンプレックスのポール・エル・カンタウイ Port El Kantaouiなどがあります。

主な輸出品目はリン酸肥料、オリーブ油、エスパルト(組み物材料)、穀物などです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%82%B9 (フリー百科事典『ウィキペディア』)
http://malka.s21.xrea.com/x/diary/1999/1113b.cgi
http://malka.s21.xrea.com/x/diary/1999/1113c.cgi

 アゼルバイジャンの SUSA      (アゼルバイジャン語 Susa/アルメニア語 Shushi/ロシア語 ・ペルシャ語 Shusha)

アゼルバイジャンの南西部、ナガルノ・カラバフ Nagorno-Karabakh 地方は3000b級の山々に抱かれた高地で,クーラ川やアラクス川流域を見下ろす要害の地にあります。森林に恵まれた高地には美しい高山性植物が群生しています。シューシャ Shusha はこの地方第2の町で1989年当時の人口17千人。海抜1,400〜1,800mにあるアゼリー人 Azeris の町です。 北緯39°45'、東経46°45'。絵のように美しいカラバフ分水嶺に位置するこの町はソヴィエト連邦時代は山岳気候のリクリエーション・リゾートでした。

カラバフ地方の歴史上の首都とされるシューシャはアゼルバイジャンの文化的中心地の一つで、多くのアゼリー人知識階級、詩人、作家、音楽家の故郷です。

シューシャは Panah Ali Khan Javanshir(1748〜1763) が1750〜52に建設した町で最初は Panahabad と呼ばれました。そしてその息子の Ibrahim Khalil Khan(1763〜1806) の時に Shusha と町の名前が変わりました。

17世紀から19世紀にかけてと1920〜1992年の間はアゼリー人が人口の大部分を占め、19世紀後半から1920年まではアルメニア人が大部分を占めました。1920年のアルメニア人とアゼリー人の衝突以来、町は破壊され 人口は約10,000人に減少しました。1960代まで半ば廃墟と化した町では徐々に復興が始まり、1977にはシューシャは一旦アゼルバイジャンの建築物と歴史を保存し、USSRのレゾートタウンとして復興することを宣言しました。 しかし1988年、再びアルメニア人とアゼリー人が衝突するとシューシャはアゼリー人の最重要戦略拠点となりました。1992年、アルメニアがシューシャを奪取するとアゼリー人は町から逃れ、現在の町の住人はは主として アゼルバイジャンの他の地方から来たアルメニア人難民約3,000人とアルメニアやディアスポラからの移住者となっています。今日町は破壊されたままです。

アゼルバイジャンの複雑な歴史については外のHPを参照して下さい。
● http://plaza.rakuten.co.jp/artaxerxes/diary/20060514/

19世紀にイラン・ロシア戦争(1828年)の結果、アゼルバイジャンのアラス川北岸地域はロシア帝国に割譲され、ロシアの統治下でアゼリー人の民族意識が高まりました。1918年、この地域のアゼリー人民族主義者たちは 十月革命後の混乱を縫ってアゼルバイジャン民主共和国を打ち立てることに成功しましたが、1920年に赤軍がバクーに侵攻して共和国は解体し、ソヴィエト政権が成立しました。 1922年末、ザカフカス・ソビエト連邦社会主義共和国の一部となり、同連邦の解体にともない1936年よりアゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国としてソビエト連邦を構成する共和国の一つになりました。 ナゴルノ・カラバフ (Nagorno-Karabakh) はアゼルバイジャンの西部にある自治州だった場所です。アルメニア人の人口の多いこの地方では、ソビエト解体後、1991年12月21日独立国家共同体(CIS)に参加しました。 しかし、アルメニア人は「ナゴルノ・カラバフ共和国」として独立宣言して内紛に突入しました(ナゴルノ・カラバフ戦争)。1994年に停戦しましたが現在も紛争は続いており、アルメニアを含めてナゴルノ・ カラバフの独立を承認している国はありません。首都はハンケンディ(XankendiまたはKhankendi、別名:ステパナケルト(Stepanakert))。

町の主要産物は生糸、羊、馬、カーペット、ワインとウオッカなどです。

市内及び近隣地区の観光資源は Ghazanchetsots 聖堂、Gahvar Aga モスク、Tank Memorial、市街城壁及び砦などです。

http://www.azer.com/aiweb/categories/magazine/62_folder/62_articles/62_shusha.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Shusha (フリー百科事典『ウィキペディア』)