私たちの故郷
須佐のあらまし
良いところですよ


須佐の位置
山口県の北東端に位置する日本海沿岸の地域です。東は田万川地域と島根県津和野に、西と南は阿武町、阿東町、むつみ地域に隣接しています。萩地域へは直線距離で28q、益田市へは23q、山口市へは50q、周南市へは65q、下関へ95q、広島へ83qの距離にあります。

名前の由来
「須佐」の地名は太古の昔、須佐之男(すさのおのみこと)が大陸(朝鮮半島)への往来の時、この地を拠点としたとの言い伝えに由来すると言われています。

新「萩市」となりました
旧須佐町は大正13年2月11日町制を施行、昭和30年4月1日旧弥富村と合併し、新生「須佐町」となりました。その後、昭和31年9月、江津尾浦両地区 が須佐町から分離して田万川町に編入されました。そして、平成17年3月6日、須佐町は萩市、田万川町、川上村、むつみ村、旭村、福栄町など1市2町 4村が合併し新「萩市」となり今日に至っています。

人口
平成17年度国勢調査で3,409人、1,348世帯となり、平成12年の調査と比べて383人(▲10.1%)、89世帯の減少となって一層人口の減少が進んでいます。

観光
須佐地域の一部は北長門海岸国定公園(昭和30年指定)の区域内にあって、海岸線の景観は雄大で変化に富み、 秀麗な高山(こうやま 標高532.8m)には昔からこの山に魅せられた神仏が住み給うとも言われます。その山頂から須佐湾を眺めると、入り組んだ海岸 に大小の島々が浮かび、ホルンフェルスの大断層屏風岩をはじめとする美しい海岸 が続き、その向こうに望む日本海の景観は訪れる人々を魅了して宮城県の松島にも匹敵すると言わしめます。ところが萩・津和野の観光客は殆どが須佐 の魅力を知らないまま素通りしているのです。皆様には是非須佐に立ち寄って頂きたいと思います。

観光ポイントは須佐大橋ホルンフェルス大断層高山の磁石石 久原園地田万川上流の畳ヶ淵(弥富)、須佐唐津焼古窯跡 唐人墓須佐歴史民俗資料館益田家墓所笠松神社松崎八幡宮高山黄帝社大薀寺の庭園ロシア水兵収容の法隆寺とその記念碑 須佐公民館内の内田青虹画伯の壁画「荒ぶる神から善神に須佐之男命」 などの他にも見るべき所が沢山あります。
なお、須佐を知るためには須佐丈でなく益田、萩など益田家ゆかりの地域や隣の田万川地域も訪れて見ることをお勧めします。

須佐の歴史
益田氏を語らずして須佐の歴史を説明する事は出来ません。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで敗れた益田七尾城主であった益田氏が毛利氏に従って益田から須佐に移住した時を境にして、 それまで一寒村であった須佐が一躍城下町として阿武郡北部の政治・文化・産業の中心地として繁栄するようになりました。北へ行く北前船が萩の次に寄港する港町としても栄えました。

爾来、約400年有余の須佐の歴史の中で、益田氏は江戸時代の300年間、毛利氏の永代家老として藩政に重きをなしました。 特に慶長5年、中国10州の太守であった毛利氏が関ヶ原の戦いに敗れて防長2カ国に押し込められた直後に起こった「6カ国返祖問題」は萩藩にとって深刻な問題 でした。しかし、益田元祥がこれを解決し萩築城などで重い負担に苦しむ藩の財政を救ったので 「萩の土塀は(須佐)で持つ」と言われました。また、幕末に起こった禁門の変(蛤御門の変)で敗れた萩藩では事件の責任を取って3人の家老が切腹しましたが(第1次長州征伐)、その内の一人が益田親施です。

文化的遺産
須佐には文化的な遺産が数多くあります。中でも教育分野に於いて益田氏が享保20年に創立した郷校「育英館」 が果たした役割は大きく、幕末維新に活躍した多くの英傑、有能の士が育ちました。この郷校は幕末には萩の松下村塾とも深い交流がありました。その伝統は 今も私たちの地域に生き続けています。江戸時代には佐江文学が栄えた地域でもあります。

須佐の名士
日立鉱山(日本鉱業や日立製作所の前身)を興し、昭和3年田中内閣で逓信大臣となって明治から昭和にかけて政財界の巨星として活躍した久原房之介(1869〜1965)は須佐の浦庄屋出身です。彼は須佐に久原波止場を築造したり、また「久原奨学金制度」を作って明治45年から昭和11年まで47名の奨学生を育てて郷土の文化・教育の発展の為めに尽くしました。須佐町は昭和34年(1959)、その功績を顕彰して彼を名誉町民に推挙しました。

産業
現在、須佐の産業は第1次産業が漸減し、第2次産業、第3次産業へのシフトが進んでいます。
農畜産業では主要作物の水稲の生産をはじめ、農業経営の安定化のために施設園芸(キク、ホウレンソウなど)や 収益性の高い作物を導入するなど転作田を含めた農地の高度利用を推進しています。また和牛や赤米の生産で活路を開こうとしています。
漁業は日本海の良好な漁場を保有している恵まれた条件を活かして「とる漁業」から脱皮して、水産資源の増殖・ 管理を基調とした「つくり・育てる漁業」を推進しています。また、観光漁業や水産加工品などによって、商工や観光に結びついた漁業を推進中で、活きイカ としての「男命いか」(ケンサキイカ)などのブランド化に取り組んでいます。
林業は林産物の安定的な供給と林業経営の発展のため、地域に適合した樹種を選定し造林を進め、林産加工の振興、 特用林産物の生産の増大を図っています。

もっと大事なこと
一番大切な事。それは須佐の人々には親切な人が多いことです。言葉で須佐の事を語り尽くすことは困難です。百聞は一見に如ず。一度是非須佐へお越し下さい。

◇須佐町の参考データ◇

○須佐総合事務所の位置
   北緯34°36′、東経131°36′
○東西14q、南北18q
○最高峰 権現山 652.9m
○総面積 87.49㎢
○人口 3,409人、1,348世帯
○須佐総合事務所長 和田 眞教(まさのり)


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