会誌「温故」

「温故」第9号

須佐郷土史研究会

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■ はじめに
須佐町郷土史研究会発足以来、会を指導されて来た松尾龍先生が、去る5月19日、夜10時30分頃、松井病 院において急逝されました。痛恨の極です。ここに先生の生前のご労苦に感謝の誠を捧げ、謹んでご冥福をお祈 りいたします。
我々は先生のご遺志を継ぎ、須佐町の郷土史研究のために全力を傾注していかなければなりません。会員皆様 方の尚一層の奮起をお願い申し上げます。
さて、温故9号をお届けいたします。このたびは、故村岡元治翁が残された記録から、須佐湾の観光案内をご 紹介いたします。文書はくずし字や表現が難しく解読に時間がかかりましたが、幸いに尾崎幸一先生(町ふるさ とづくり椎進協議会会長〕のご指導のもと、活字にすることができました。改めてお礼申し上げます、
名誉町民久原房之助翁について、日本鉱業発行の「久原房之助」を引用して略年譜としました。
松尾先生の遺稿「須佐町のあらましのお話」を活字にしましたので、ご紹介します。これは町社会福祉協議会 のボランティア活動の一還として書かれたもので、語り聞かせるようになっています。したがって、本文では「 ね」という、文字はほとんど削除しました。また、文中、所々削除しましたのでご了承ください。
■ 目 次
須佐湾の観光案内 1頁
久原房之助略年譜 39頁
須佐町のあらましのお話 45頁
■内務省指定 名勝及び天然記念物 須佐湾観光案内
本書ハ森永少将閣下二贈ル為メ謄写セルモノニシテ、其ノ際複写セルモノ原本ハ役場二蔵ス
付記
森永閣下ハ岩国町出身、現在滋賀県近江二在リ思想善導講演ノ為メ全国ヲ巡講セラル
 序

涼闇の雲もはれて日月もとみに光りを増し、干支は戊辰にあたって新日本興隆の基を開いた明治戊辰後、第一 回の還暦の年。今秋はかしこくも今上陛下即位の御大典をとりおこなわせられるという昭和三年の春三月、桜の 雲も暖かに柳の眉ものびる頃、我が須佐町に鉄道開通の式を挙げられることになったのは重ね重ねの喜び、須佐の人士が聖代の余沢よたくに 感激するのは勿論であるが、絶勝須佐湾の世に出ることは近郷近縣の喜びだけでなく、 等しく天下の幸とする所、殊に須佐湾には地質学鉱物学上無比の好資料があるのだから、世界学界のためにも 頗る興味をよび起こすことであろうと思われる。
ついては今後、遊覧者各位の手びきとなりしおりとなるものを作りたいということになり、町長津田五百名氏よ り御依頼があったので、つい禿筆とくひつを走らせることになった。
実地の踏査にあたっては育英小学校長田中惣一氏、同校訓導仁保義助氏の配意を煩わし、須佐町役場の村岡 元治・大塚音熊両氏からは種々示教に預った。又育英小学校調査の郷土誌数冊、横山健堂氏の松下村塾の別働 隊の一篇等は頗る参考になった。なお表紙並びに地図は、松野信一氏の手を労したものである。本書に若し採 るべきところがあったとしたなら、それは是等各位の御力によるもので、もし又不備の点があったとすれば、そ れは全く著者の不敏の致すところである。幸いに大方各位の御叱正を得て冊の完成を期したいと思う。
     昭和三年 月
                       桜圃山房に於て著者しるす

著者ハ白上貞利先生ニシテ先生ハ山口高等女学校二教鞭ヲ執ラレツツアリ。世々国学者ノ家系ノ出ナリ
 目 次
須佐町の沿革
一、須佐町の概説
二、町名の起源
三、益田家
四、松下村塾の別働隊
五、吉田松陰の須佐湾開港論
六、勤王志士の来遊
七、前原一誠の敗退
八、須佐村と須佐町
九、将来の須性町
1頁
須佐湾の紹介
5頁
須佐湾絶勝の特色
一、概説景
二、山岳美
三、海洋美
四、湖沼こしょう
五、島嶼Vとうしょ
六、断崖美
七、波瀾はらん
八、総合美
5頁
探勝のしるべ
海よりの探勝
イ、水海湾
ロ、鮑の養殖場
ハ、聖厳ひじりいわ
二、堀氏別荘
ホ、笠松山
へ、亀島と鶴崎
ト、久原波止場
チ、平島、唐船打払とうせんうちはらい古跡
リ、鹿渡ししわた
ヌ、中島
ル、亀の首
ヲ、金瀾崎
ワ、深蟶潟ふかまてかた
力、鼻面はなづら
ヨ、屏風岩
夕、沖の松島
レ、高山、黄帝社
ソ、雄島こしま
ツ、地の松島
ネ、赤瀬の洞門
ナ、烏帽子えぼし
ラ、潜洞
ム、観音岩
11頁

ウ、海苔岩のりいし
ヰ、竜宮滝りゅうぐうだき
ノ、鎧島
オ、千畳敷
ク、布延ぬのば
ヤ、波里魔渓はりまたに
マ、舵穴かじあな
ケ、引明の瀧
フ、長磯ながいそ
コ、蜑地あまがじ
工、蟶潟
テ、青浦
ア、露兵漂着の記念碑

陸よりの探勝
イ、東回り
ロ、西回り
陸上の勝地と古跡
イ、益田邸と益田牛庵
ロ、村社笠松社と益田弾正
ハ、育英館地と小国融蔵
ニ、晩香堂跡
ホ、大谷撲助の宅祉
へ、郷社松崎八幡宮
ト、三蔭山招魂社

チ、唐津の梅林
リ、唐津瀑布
ヌ、須佐焼窯元
ル、鏡山神社
ヲ、大薀寺
ワ、浄蓮寺
力、心光寺
ヨ、法隆寺
夕、紹孝寺
レ、光讃寺
ソ、犬伏城祉
ツ、懸ケ城址
ネ、笠松山の城址
須佐十二景
27頁
須佐年中行事
29頁
須佐土産
30頁
天然記念物としての須佐湾
地殻発達の順序
一、地殻の成生
二、海陸の成生
三、水成岩
四、火成岩
五、変成岩
六、化石
31頁
地質系統の大別
一、太古代
二、古生代
三、中生代
四、新生代
須佐湾付近の地質
一、第三紀層
  イ、礫岩れきがん
  ロ、砂岩さがん
  ハ、頁岩けつがん
  ニ、ホルンフェルス
  ホ、化石
  ヘ、斑糲岩はんれいがん
  ト、玢岩ひんがん
  チ、石英斑岩
地殻の構造
一、地層の褶曲しゅうきょく及び断層
二、塊状岩の地殻構造状態
地質学上特に注意すべき点

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  須佐町の沿革

一、 須佐町の概説
    内務省指定名勝及び天然記念物
須佐湾は山口県阿武郡須佐町に在る。須佐町は維新の発祥地としてその名を知られている長門萩町の東北方約十里にある景勝の地で、東方は田万崎村を隔てて隣里し、西は大狩の峻坂しゅんばん以て宇田郷村に接 し、南方は犬鳴山を境に小川・弥富の両村に接し、全町山脈連亘れんかんして峯巒ほうらん随所にそばだ ち、平地らしい平地は殆どないのであるが、これがやがて須佐湾の風致に一波の趣を添えることになるのは後にも説くとこ ろである。

二、 町名の起源
さて、どうして地名を須佐というかというに、これについては、種々の説があってはっきりしないが、 須佐風土記にのせてあるところによると、孝徳天皇の大化六年(650)に豊前国宇佐郡宇佐八幡宮を 此の地の松賀崎という所に、字佐より勧請した八幡宮御鎮座の地という意味で宇佐といっていたものが、 時を経るに従ってなまつて須佐というようになったのだという。

同書には更に別説として千家清主氏「千家俊信。通称清主。出雲大社の神主国学者が寛政4年(17 92)本居宣長の門に入る」の説がのせてある。現町長津田五百名氏の厳父津田常名翁も此の説に御賛 成のようであるが、此の説によると太古須佐之男命すさのおのみことが韓国に往来せられた時、高山山上に御登臨あそば され、四方を御眺望あらせられたので、其の山を神山こうやまといい(神山は真名いつの間にか高山とかきつた えられるようになった)神山の所在地を須佐というようになったのだと説き、出雲に大須佐田、小須佐田などの地名があるのもまた、命御通過の名残であると傍証ぼうしょうの材料にしてある。とにかく日本海が表日本であった神代に於ては、須佐湾は日韓交通の一要港であり、命は屡々しばしばここに御寄港あらせられたのだと いうのが論拠である。これに関して千家清主の次の歌がある。

 須佐の里すさてふ名こそいそかみ古き神代のあと残るらし

上古のことを考証とすることは暫く措くとして、須佐湾が天成の良港であることは、上古も後世も変 わりはなく、現に吉田松陰の如きは、後に記すが如くここを開港場にせよと高唱したのである。


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三、益田家
このことを述べるには、勢い松陰と須佐の領主益田親施ちかのぶとの関係を明らかにしなければならぬから、 先ず益田家のことに筆を移そう。益田氏は本姓藤原氏、大織冠たいしょくかん鎌足17代の苗裔国兼が姓祖である。初 め石見国一ノ宮浜に居住していたが、3代兼栄の代に頼朝に属して石見押領使に任ぜられ、22郡を 領し、世々益田の七尾城に拠った。其の後16代貞兼に及ぴ、時あたかも応仁の乱に方里あたり、大内政弘に従い 兵を京師に出し、又自ら近傍きんぼうを征して大いに武威を振った.子宗兼は戦功により石見守護代となった。 其の後安芸の毛利元就、大内氏の逆臣陶氏を討伐して其の領土を併せ、更に尼子氏と兵を交えた。時に 19代藤兼七尾城に拠り、中立を保っていたが、元就の和平の求めにあい遂にこれに応じた。其の子元祥材武にして豊太閤征韓の役に従って功あり、其の後この地に移るに及び、須佐は城下として領内7ケ村の中心となり、漸次隆昌の運に向こうたのである。(後章益田牛庵の項参照)
其の後、益田氏は世々長藩の国老として重きをなしていたが、近世に至り最も傑出していたのは33代益田弾正である。(後章益田弾正の項参照)これが松陰と意気相投合していたのである。

四、松下村塾の別働隊晩香堂
吉田松陰の最大の知己ちきであり恩人である人は、何といっても維新史の大立物毛利敬親である。松陰11歳のとき、敬親の前で孫子を講じて以来、人物鑑識の目に富んだ敬親は常に松陰を忘れず、下田投艦 の蹉跌さてつ以来8年間、陰になり日向になり、常に彼を庇護し激励していたもので、彼が幽囚中十分に言論 を発表し同志を鼓舞し、遂に一世を動かすに至りたのは、敬親の知遇に依ることが多大であるが、この明君志士の間に立って周旋の役を務めたのが前記の弾正である。
弾正と松陰とは殆ど同年輩で互いに推重していたが、両人の相談により、弾正はその家臣の有為な人物数人を村塾に送り、松陰は村塾の錚々そうそうたる人物十数人を須佐に出張せしめて、松下塾の唯一の別働隊 とするに至った。晩香堂が即ちそれである。(後章参照)

五、吉田松陰の須佐開港論
吉田松陰は益田弾正の人物並びに潜勢力と、須佐の地勢に着眼して須佐開港の説を高唱した.即ち今日の急務は商船、軍艦を製造して広く海外に交通せしめ、遂には五州を横行するに至らしめるにある。


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然るに三面海に包まれたこの長州に、航海通商の大計が未だ確立せられていないのは、遺憾千万であるから、すべかく須佐を開いて貿易場とすべしというのだ。

松陰は実行家である。その言うところは必ず自ら実行する。下田投艦の一挙はこれを証明して余りがある。故にこの須佐開港論も 「弾正が長州の国老として開国の大策を実行しようとする以上は、先ずこれを自己の手許から断行すべきだ。」という意味も含まれてはいようが、 卓識の松陰のことであるから、全然望みのないことは言わぬはず、これ一には弾正に対する信望に基づき、一には須佐の天然の良港湾たる事情に基づいていると見なければならぬ。 須佐之男命以来数千載この須注にかかる大使命を担わしめたものは吉田松陰が嚆矢こうしである。

六、勤王志士の来遊
松陰の同志で須佐に遊んだものは幾人もあるが、ここには海防僧月性げっしょうと勤王の奇僧黙霖もくりんの二僧をあげるにとどめる。月性の神山に登ったことは、後章海洋美の項にのべるが、月性はここにきて益田家も訪い町の寺でも説教した。 説教といっても海防の急務を絶叫したもので、こうがいも金具もお上に献上して、大砲を鋳る材料にせよと言った調子で大声怒号したもので、 現に萩の方面から須佐湾沿いに町に入るあたりに、当時の台場のあとがある所を見ると、小規模ながらも大砲を備えていたと見える。 思うに月性の努力も空しくはなかったようである。
黙霖は芸術の一向僧でつんぼで諸方の漫遊にも常に筆談を用いた。須佐に於ては小国融蔵(後章参照)の官舎晩香堂で融蔵と筆談しているが、 其の遺筆は幸いに保存されており、其の中には安井息軒やすいそっけんを始めとして、天下の人が多く佐久間象山を抑えて吉田松陰を揚げているは どういうわけかということなども話頭に上がっている。又大谷撲助(後章参照)にも面会したらしく、大谷家に黙霖の悲壮な詩が一幅残っている。
松陰は幽囚中であったため、黙霖にはあわなかったが、意気に感じて自画像の上に一詩を題して贈っている。

     題自画肖像示黙霖
上観三千年之往古。下開三千年之来今左踏西洋之極。右践東海之垠。天日載首皇猷存心。噫同斯志者

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宇宙 黙森

これによって黙森の意気を想見るべきである。

七、前原一誠の敗退
明治9年11月、前原一誠(長州藩士、戊辰の役に功あり、参議兵部大輔になった。明治9年、熊本の神風連と謀を通じ、兵を挙げて斬られた)が萩に敗れ、 退いて此の地にきたり同志を募ったのも、晩香堂以来の因縁によったものである。因にいう前原一誠は其の後股肱ここう数人と船に乗って海洋に浮かび、 東上の途を求めたが、遂に果たさず雲州龍浦に於て捕縛せられた。

八、須佐と須佐町
当地は其の後明治21年4月町村制の発布に伴い、須佐村と称するに至り、爾来漸次発展して、大 正14年2月、遂に町制を施行して現名の須佐町と改称するに至った。
村となり町と変わったとはいえ、今なお昔ながらの面影を留め懐かしい旧藩町である。士族町の土塀 も当時の侭である。益田氏の旧邸は衙門だけが残って、邸内は維新の際縮小して頗る質素な建物がわずかに 残っているのみであるが、旧邸の絵図は常に育英小学校に保存せられているので、当年の面目をうかがうるに 足る。邸後の笠松神杜は益田弾正を祭神とするが、これは筆を改めて述べることとする。

九、将来の須佐町
従来の須佐町は須佐之男命の昔はべつとして、とにかく桃源の如き別乾坤べつけんこんをなし、徒らに勝景をようし、 奇岩怪石の宝庫を抱いていたが、今や昭代の余沢に浴してここに鉄路の開通を見、相前後して名勝及び 天然記念物として内務省の指定を得るに及んだが、世に出るや否や無上の光栄に浴し、栄誉を担うたわ けで、将来は景勝の探勝者、地質磧物の研究者がせきを切られた積水の如く遠近より推しかけて来遊す べきは、筆者の確信するところで、須佐町民各位も恐らく思い半ばに過ぎるほどであろうと思われる。 懐かしい旧藩町の面影の薄れゆくのは、惜しいことであるが、正しく黄金時代に入った須佐町の前途は、 何といっても祝福せざるを得ないのである.


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 須佐湾の紹介

須佐町が近時有名になったのは、須佐湾のためである。即ち須佐湾の風光が秀麗であり、其の付近が地層が複雑で、地質学は石学鉱物学上貴重な資料を提供するからである。 是等これらのものはもとより往昔おうせきより存在するもので、 何も近頃になって生起したわけでもないけれど、交通が不便のため従来あまり人に知られていなかったのである。ところが最近、 本県史蹟名勝天然記念物考査員岩根又重氏等の着目するところとなり、昭和2年4月19日には高嶋北海画伯一行の探勝を見るに至った。 画伯は数日滞在して実地を踏査せられたが、其の風光の佳麗壮大なことを激賞せられたので、町民ものり気になり、5月2日には須佐湾保勝会を設立するに至った。
8月18日高嶋画伯は再び来遊せられ、31日まで滞在して景勝地の調査をなし、且つ同画伯揮毫きごうの画会を設けて、揮毫料金全部を須佐湾保勝会に寄贈せられた。 これより先8月7日には、内務省史蹟名勝天然記念物考査委員佐藤伝蔵博士来町、数日滞在して須佐湾内外の景勝及び地質の踏査を試みられ、 越えて10月6日には更に高嶋画伯等と共に再び来町、数日滞在して湾内外の勝地及び神山の地質について細密な踏査を遂げられた。
こんな次第で須佐湾の価値が大いに認められるに至ったので、10月21日には名勝地指定願書の提出をなすに至り、其の後内務省史蹟名勝天然記念物調査会において詮議せられ、 遂に昭和3年3月5日いよいよ名勝天然記念物として内務省から指定せらるるに至った。

 須佐湾絶勝の特色

一、概説景
須佐湾絶勝の特色は象美の映発にあり、象美の綜合にある。高嶋北海画伯は須佐湾の風景を三種に分 つて、湖水の如き小湾と、小松島、大絶壁の三項を挙げて居られるが、併しこれは須佐湾風光の要素を知的に分解したものであって、 吾々が須佐湾の勝景を味わって、其の美に陶酔する所以のものは、更にこれらの要素美が相近接して存在し、 各々其の特色を発揮しながらも而も互いに相助け相補って、ここに渾然たる全須佐湾の秀色と神韻しんいんを生じきたるがためである。 即ち左顧すれば断崖削立の豪壮あり、右眄うべん


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すれば小湾迂曲の優婉ゆうえんあり、深山峡谷の如き島嶼とうしょの間を縫うが如く棹差 さおさすかと思えばたちまちにして渺々びょうびょうたる大海に浮かび出で、 天の彷彿ほうふつたるを望むと云った有様で、この数種の風致が互いに対照映発し、優麗なるものは愈々いよいよ優麗に、 豪宕ごうとうなるものは益々豪宕に、いやがうえにも其の特色を発揮し、しかもかたみに錯綜し、 相補い相助けてここに無限の魅力を生じ来り、観るものをして恍惚こうこつとして我を忘れしめざれば止まないのである。 眼前に展開する風物は左右相異なり、前後相同じからず、眼を閉じれば一秒前の風景は寂として画の如く眼前に展開するが、 眼を開けば別趣の風致はすでに媚を呈して眉に迫り来る。
静中動中の静、自らこれ画、自らこれ詩、この神韻気魄きはくこそ須佐湾絶景の神髄であって、其のくの如き所以のものは、 全く峻嶺高峯直ちに海洋に迫り、 余脉限りなく分岐して縦横に駛走猪突して海に入り、海は潮これに応じて、迂余曲折の限りを尽くし、入江に又入江を生じ、 湾中更に湾を生じているがためであって、十里にして一湖あり、五里にして一島あり、二十里にして一断崖あり、其の一を賞する時、 自余のものは止むなく割愛しなければならぬような名勝とは同日の論でない。須佐湾神髄の美はこの海山交錯の美に基づくものであるが、 この海山交錯の美は地質の複雑に基因するもので、須佐湾ほど複雑な地質の露出して居る所は珍しく、この方面の研究をなせば単に風致情感のみに止まらず、 知識的の趣味も豊かに味わわれる次第であるが、それは後章に譲ることにして、先ず須佐湾風光の要素について一言したいと思う。

二、山岳美
須佐町は山脈が直ちに海湾に迫っているために、平地は極めて少なく、峯巒ほうらん随所に蟠崛はんくつ して千山万嶽波涛の如く重畳し雲烟うんえんを帯びて、深山幽谷の趣をなし、沿海の地とも思えない山姿峯容の美しさを呈しているが、 就中なかんずく項佐湾の外壁に屹然として崛起している高山は、海抜2千尺にも足りないで(1758尺)非常に高山という訳でもないが、須佐の良港を控えて、 日本海の怒濤どとうに迫って屹立しているために、古来航海者の大切な目標とせられたもので、外海側の山裾は数百尺の絶壁が連互し、 狂瀾きょうらん怒涛がこれに激し、山姿の豪壮雄大なることは此の海岸稀に見る所、 確かに近県沿岸の一偉観たるを失わない。ところが其の須佐湾に沿うて町に面した半面は、緩い傾斜を以て裾野すそののように広がり、 蒼々たる茂樹欝林の間には、石径斜に通じて処々に人家も見え、秀麗な風致(高山のことについては三、海洋美の項並びに


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海辺の勝地古蹟の項を参照せられたい)を備えている。

三、海洋美
渺々びょうびょうとして果てしもない大海を一眸のもとにおさめるのもまた、一つの壮観である。 誠に高山の頂きに立って眸を放てば、地勢が北方海岸に突出しているため、視界が極めて広く、東は出雲の日の御を望み、時には伯耆ほうき の大山を雲姻模糊もこの裏に望むことさえもできる。西は相島・青海島は呼べば答えるばかりで、やや遠く大津郡の川尻の岬、 左に大津・豊浦両郡の境にある天井ケ嶽などが見える。(ついでに南を言へば、 奥阿武の連山を隔ててスーができるので知られている徳佐ケ峯がながめられる。)北は一面の日本海で浩蕩として果てしもない碧潮は、 どこで西比利亜の峯を洗うか朝鮮の巖を噛むか見当もつかない、ただ見えるものとしては水天彷佛として、 あるかなきかの一線が長く長く左右に引かれているのみである。 日の傾き雲の濃さによって、海の色は青に緑に紺に紫に、あるいは明るく或は暗く、或は金の如く或は銀の如く、 時にはけむりの如く軽く、時には鉛の如く重く、千変万化の色彩は、あらゆる季節あらゆる時刻あらゆる天候に、 それぞれ特異の相を呈じ、而も其の自然の表情は人間のそれよりも一層の趣と味をかえている。かって海防僧月性、萩を発して海沿いに北進し、 此の山頂に登って、北海をのぞみ壮快禁ずる能わず、一詩をして思いを述べたということであるが、げに山巓 さんてんに杖を樹てて遥かに眸を放つと、思いは潮と共にのび、気は雲をうてたかまり、 に無限の感慨を催すのである。
因にいう高山の岩石には磁力を帯びたものがあり、磁石が用をなさないから方角を刻した石目柱を建てて登山者の便に供してある。 又中腹には風穴がある。穴の内部はあまり調べられていないが、往時試みに臼を転がしてみたところ、数日後海中に浮かび出たので 其所そこを臼が浦というとかの伝説もある。

四、湖沼美
「山外〔さんと)に山あって山尽きず、路中に道多くして道きわまりなし」という讃があるが、「島外に島あって島尽きず、 湾中に湾あって湾きわまりなし」ともいいたいは須佐湾の趣である。日本海の潮先が、右に左におどり出た山脉の組しやすい渓谷を見つけては、 これでもかこれでもかとえぐりに刳って湾入したその揚句は、精も根も尽きはてて、眠ったような優しさに、海とは名のみ湖とも沼とも、 池とさえも思われる優しさに変わったのがこの須佐湾である。随所に流れ出た山脉は、又山としての力を失い


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丘とも築山とも思える感を抱かせて、而も汀には流石に奇岩怪石を露出し、蒼欝たる雑木の姿に老松を負い、所々に三三五五の人家を擁し、 真に愛すべき温稚の趣を備えている。この縦に横に斜めに蜿蜒として迂回している蒼巒翠丘に擁せられて、東風が吹いても西風が吹いても、 南風はえになっても北になっても、殆ど波を知らぬ油を流したような滑らかさで、数百の船舶を安らかにねむらしている須佐湾は、 海というよりも湖、湖というよりも池といったがよいようであるが、さてそれでいて流石さすがは日本海の潮つづき、 山間や瀬戸内などにはみられぬ気魂があり生気がある。八頭の八尾の龍神が渚に来って静かに穏やかにねむっているとでもいった趣である。

五、島嶼美
「湾内にはしり出た岬南は、いずれも波の如くうねりを見せ、而も縮んだり伸びたりして、恰も島のようであるが、 其の左右前後には、随所に小島を伴い、巨岩を帯び、所々数十の岩群が、参差として碧潮白波の間に錯落している。而も地質の複雑さは、 其の小島巨岩にそれぞれの異彩を放たしめ、或は赫く或は黒く、或は青く或は黄に、岩層の横に畳まれたものなれば、石脉の斜めにわれたのもあり、 時には岩ひだのたてに並んだのもあるという有様、従って稜角りょうかくをあらわした雪舟の画に見るような岩礁もあれ ば、ゴムまりの所々をゆびでへこませたような円やかな南家画風のもある。それが或は岩のみで寸緑を帯びないのもあるし、 或は孤松を戴いたのもあるし、或は欝林に蔽われたものもあって、これほど多い島に一つとして似かよったものはない。 油の如き海面には三三五五白帆の影が隠見し、空にはかもめがまいとびが輪を画いている。 誠に扁舟にさおさして島間をぬうてゆけば、島かと見れば岬なり、岬かと見れば島なり、一島未だ去らざるに一島更にあらわれ、 水路極まるが如くにして、又忽ち開く。」とある中学読本の瀬戸内海の文は、全くここの景色をかいてくれたものではあるまいかと疑われる。

六、断崖美
須佐湾の湾口付近には、所々に外海に面した大断崖がある。高さ数百尺、屏風の如く曲折して連互し、白浪裾を噛み、蒼松 てんを蔽い、豪壮にして而も雅趣があり、秀麗にして而も気魄がある。試みに葉舟を壁下に寄せて仰ぎれば、 舟の動揺に伴い、白雲の徂徠に随い、流石の大巌壁もる傾き来って、 轟然たる響きを立てて倒れかかろうかと疑われ、そぞろに心担を寒からしめるであろう。


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なお巌壁の断面は、時には板を重ね積んだような数百の横層を表わし、層々色彩を異にして鮮麗な横縞を見せ、 時には数百の峯巒を絶大な神力を以てしめよせ、各々の峯巒を筍のような丈高いものと化せしめて、たばねたとも見える縦襞たてひだを畳んで、 日ざしの向きによって数十種の明暗と光沢とを見せ、或は凹凸の曲面に大は人頭よりも大きく、小は鶏卵よりも小なる、 大小無数の岩礫を帯び、所々岩礫の脱失した空穴を持っているのもあり、或は玉ねぎの球面の一部を切って、幾重にも包んだその皮の、 ややほぐれぎみになったようなのもある。一々名状し切れないほどの複雑さを有している。
而も其の色彩光沢は、岩層そのものの固有の色彩の外、幾百年の苔と藻とその痕の生ずる翠緑紫赫等の無限の色と、 日光をあび潮水の飛沫をおびて生ずる、真珠の如き碧玉の如き、紅玉の如き紫の如き、銀の如き、赤銅の如き、鉄の如き、鉛の如き、 千種万様の光を添えて、華麗とも艶美とも見えながら、どこまでも豪宕雄壮、人に迫る鬼気を失わない所、独特の断崖美である

七、波瀾美
丘のようななみが魔のように近づいてくる。近づくままに涛の山がせりとって、小みとりがみどり となり、翠がさみとりになると思う間もなく、 伸べるだけ伸び上がった涛も山の頂きが、婆娑と崩れて、白い雪がさつと翻り、紺碧の涛の腹は看る看る跡形もなくなってしまう。 すると白い雪は、右にも左にもすばらしい勢いでひろがっていって、幾千騎の白馬隊が、足掻あがきをそろえて驀進するかのように、 わきかえり、にえかって迫ってくる。後からも後からも、もみにもんで攻めよせる。先鋒の勢いが中堅の味方を誘い立てるのか、 先立つ勢いを後攻めの勢いがおい立てるのか、前がひるめば後ろが猛り、右が疲れれば左が怒り、いやもうすばらしい勢い。 暴れに暴れ、怒りに怒り、狂いに狂って、躍りかかりあびせかかる涛を、断乎として食い止める巨礁がある、巉巌んがんがある、 大絶壁がある。或は高く或は低く、或は立ち或は臥し、或はうずくまり、或は肩をそびやかし、或は脚をはり、 或はひじを張り、或は胸を張り、 大小数千の陸の軍勢は潮をしっかと喰い止める。喰い止められてなるものかと、狂いかかる怒涛は、巨砲の発せられたような、 霹靂へきれきの万嶽に響くような、轟然たる大音響を立てて、ありったけの力を尽くして打ちつける、からみかかる、のび上がって浴せかける、 飛沫は雲の如く吹雪の如く白烟はくえんの如く、霧の如く、流石の巨巖もしばらくは影さえ見えぬ、すると吹き捲く暴風にさっ ととんだしぶきのあとに、白浪をかぶ


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つた巖の頭が現れ、巌の肩が現れ、巖の腹が見え、巖の脚が見えて来る。先ず一面の白魂に、僅かに黒き赫き幾條の縦縞が見えると思えば、 忽ち幾百條のたきが白布をさらす如く流れ落ちる、その白布が幅が漸くせまくなり、はては縷々るる糸の如くなって消えるかと思うと、 はや第二の狂瀾はあびせかかってくる。
陸の奥の奥までもと、打って刳って、はねかえされた余波は、後から躍りかかる味方の勢いと同志打ちをはじめ湧き上がり、 たぎり下がり、渦をまき、瀬を作り、伸び、縮み、浮かび、沈み、右にはしり左に駛せ、混乱の極を尽くし、活劇の限りをあらわす。 岩の間に生じた泡沫は、風にふきちぎられて、掌大のいしころをなし、瓢々としてまい上がる。岩燕いわつばめ はこれをぬい白鴎は空になく、而も其の姿態其の轟き、其の力、其の気魄は、秒時も同じことなく、変動極まりなく、壮快限りない有様。 げに此の地ならではとうなずかれる。

八、綜合美
山岳美、湖沼美、海洋美、島嶼美、断崖美、波瀾美それぞれ皆独特の味がある。その一、二を備えるのみでも名勝たるの資格はあるが、 須佐湾の風致はむしろこの六要素を兼ね備え、各要素が互いに相助け、相補い、ここに潭然たる一大綜合美を誘発し、 限りなき風韻と気魄を生ぜしめる所に、其の真髄があることは、すでにのべた通りである。(綜合美は勿論要素美ではないが、 読者の注意を新たにするために前説を反復したのである)


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 探勝のしるべ

写真を撮るにあたつて、碌々ろくろく姿もととのえないのに、とってしまわれたら残念ではあるまいか、 ものは見所によってよくもあしくもなる。だから正面の似会う人は正面を、側面の美しい人は側面を、姿のよい人は全身を、姿勢の悪い人は半身をといった風に、 少しでもよく見えるような位置をうつさなければならないのである。この須佐湾を探勝者各位の眼のカメラにうつしていただくにしても、 須佐湾としてはそれだけの注文があるのである。
そのうえ探勝者各位としては、惜しい時間を割いての御遊覧であるから、なるたけ短い時間で出来るだけ多くの箇所を御覧になりたいことであろうと思う。
この二つの要件、即ち
一、各種の勝景をできるだけ美しく見ていただくこと。
二、各地の勝景をなるたけ多く短時間に見ていただくこと。
を条件として路順を御紹介しようと思う。

海辺の勝地と古跡

海の勝地を探るには、舟をもって海よりするがよい。併し冬季風浪の激しいときとか、其の他の季節でも風波の著しい折とかには、舟が用いにくいから、 其の際は陸から要所要所を見られるがよい。先ず海路の方から説こう。

海よりの探勝

イ、水海湾
ここは昔入江が深く全く湖のように見えていたので、湖といっていたのを、後世水海と書き誤って、今日に及んだものだという。 ところで其の湖はさらに遡ると御津海から来たなどという説もある。なぜ御津というかといえば、往古須佐之男命が出雲の日の御崎から、 高山岬を目標に船をすすめられ、必ずこの湾にみ船を入れさせられ、ここに御碇舶のうえ、天候を見定めて、さらに朝鮮方面に船出あそばされたので、 命にちなんで目標の山は神山(今の高山)薪水しんすいおん取り入れの地は須佐、御船泊まり


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の港は御津というようになったとの話。その真偽はともかくとして、かかる伝説のあることは、数百千年の昔の人も、この湾を良い港と認めていたことがうかがわれて、一入ひとしおのゆかしさが感ぜられる。
ここは、底が奇麗な砂地で、而も遠浅で、湾内第一の海水浴場である。

ロ、あわびの養殖場
標木の立っていて、瀬の見える所が鮑の養殖場で、礒見鏡で覗いてみると、沢山な鮑がいる。鮑は須佐の名物で、此の湾の内外いたる処に沢山産する。 先年東宮殿下が本県御巡啓の際にも、県から献上を命ぜられた。

ハ、聖巌ひじりいわ
昔歌聖柿本人磨が、石見の高津から仙崎に往く途中、此の巌上に立って湾内の風光を賞したということから、聖巌と称えたものだという。 巌上に人磨を祀った小祠があったが、今は他に移された。仙崎にも人磨の遺跡といわれている人丸峠がある。
藩政時代には、この上の突角を「お涼みのはな」といって、領主益田家の避暑地に充てられていた。

二、堀氏別荘
堀氏は石州の富豪である.

ホ、笠松山
山麓に旧領主益田氏のびょうがある。笠松の暮雪は須佐十二景(後に十二景をまとめて紹介するつもりである)の一つで、 雪景色は一入のながめである。

へ、亀島と鶴崎
鶴が首を伸ばしたような、翠松を負うたやさしい岬の前には、亀が波上にうかんでいるような巨巌がある。亀島の遊魚、鶴崎の晴嵐はいずれも十二景の一つである。

ト、久原波止場
対岸の地つづきの島が赤島。その向こう茂樹欝林を背に負うたのが久原波止場である。本町出身の大阪久原氏が、7千余円の巨費を投じて本町 (当時は村)発展のために築港したもので、明治43年5月の落成である.水が深いので5、6百噸の汽船は桟橋に横着けになる。 その奥に船匿ふねかくしといって、


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船が泊っていてもこちらからは全く見えぬ深い入江があり、又油の礒といって、どんな大じけの時でも、油を流したように少しも波の立たぬ所がある。 航海者もこんな良い港は北海岸にないといっている。赤島の前に礒がある。ここに養魚池を作ろうと計画中である。 完成のうえは銀鱗金鰭ぎんりんきんきの泳いだり 跳ねたりする姿が、自由に見られもしまた釣りもできてよい遊び場となるであろう。

チ、平島・唐船打払うちはらい古跡
久原波止場の方から眺めると、赤い半玉をいくつかならべてぐっとくっつけたような岩の頂に、松のみどりが流れるようにかぶさって、 柔らかな感じの島である。その名のように上は平らで、桜があり春は暖かい雲を宿している。島の端に俵島というのがある。 俵を積んだ面白い形をしている。
島のそばに唐船打払の古跡がある。時は享保11年8月7日、高山岬のあたりに出ていた漁船が二度ばかりの大砲の音を怪しみ、 段々だんだん調べてみると、唐船が江崎の方へ向かって進んでいる様子、驚いて届け出ると本藩へも注進というさわぎ。 くれば8日唐船は大筒を打って入港して来る。見張りの船からは面々扇を以て手真似で沖へ出よと指図をしたが、通じないのか応じないのか、 やおら中島の西の方へ碇を入れてうった。船長の申し分によると、船は貿易の目的で繻子しゅす緞子どんす、銀、砂糖、 薬種等を積んで、長崎に行く筈のところを、途中難風にあって漂流したので、船中水がなくなって困っているという話。筆談を以て吟味を重ね、 本藩とも慎重相談をとげたようであるが、怪しいところがあつたものか、いよいよ打払に決着。本藩の加勢が到着したので、やがて包囲の陣を張って攻め立てたが、 当時の覚書や絵図等を見るに、唐船は長さ百拾数間水上4間ばかりうきいでた、40余人乗りの大船で、これをとりまく味方の舟は十分の一位の小型の舟、 まるで蝉に蟻がたかったようだ。9日の晩から大筒・鉄砲を撃ちつけけり、焼き草船や松明たいまつ火矢ひやを以て 、火攻めにしたりしたが、逃げる気配もなく、かえって平島、赤島の間に移ってきた。初めの間は仲々手応えがなかったが、 11日昼からついに焼けだし、真紅の炎を上げて14日夜中まで焼け続いたという話。とにかく此の地では珍しい騒ぎであったらしい。

リ、鹿渡ししわた
平島の本土と接する所に、峡谷のような所があって、船が通ずるが、昔はここを鹿が渡って往来を


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していたという話。
又中島は湾内有数のながめで、鹿渡りのあたりから中島をながめた景色は、やさしく趣のある島の上には、ふり面白い老松が生い茂り、 滴る翠は海に流れて、潮にも倒影あざやかに、絵も及ばぬながめである。島上に弁天社があったが、今は須佐浦の恵比須社に移された。 だが7月17、8日の祭礼には、御船で此の島に渡御があり、宮島の管絃祭そっくりの賑やかさだ。此の辺は島陰で風波が穏やかであるから、 久原波止場の出来るまでは、船の泊まり場になっていて、中島の泊船といって、十二景中にも数えられている。 前記の平島には、かつて通夜堂があって、泊船中の船人が高山の海神に祈念を捧げる便に供したものであった。 赤島からこの辺はチンダイのよく釣れる所である。

ル、亀の首
中島に向かって本士から突出している岬を、亀の首という。高山を胴体とするとここは其の首にあたり、恰も海に俯して潮を呑もうとしているように見うけられる。

ヲ、金瀾崎
ここは北海画伯の所謂いわゆる小松島で、大小の巌島が四十余り一面に散在し、画伯が青海島の十六羅漢以上だと叫んだ所。岩質が複雑なので、 島々がそれぞれの石脉光彩を呈して、千態万状であるうえに、島上には古稚な蒼松が蟠屈して、とびかう白鴎とともに趣をそえている。 ここで狂瀾怒涛の踴躍ようやく激突の壮景を味うのは、頗る快心のことであるが(前記波瀾美参照)波静かな夕、沈みゆく夕陽を眺めるのも亦、 えならぬ好景色である。時々光を失い、刻々紅を加え、いやがうえにも大きく、うすづき沈む夕陽の美しい輝きに、空も潮も紅に染み、 島も帆も波も黄金に輝き、巌も松も舟も紫金に栄え、満眸まんぼう悉く珠玉、乾坤すべて紅焔の大景は到底筆舌の尽くす所でない。

ワ、深蟶潟
大きいモツの釣れる所。
このあたりから断崖絶壁となり、雄大な景色が漸次展開してくる。

力、鼻面
突出した古巌の腹に大きい穴が刳られていて、牛の鼻面のようだ。秋から初冬にかけてクロヤの釣


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れる所である。付近に釣瓶落し、鍋島の勝がある。

ヨ、屏風岩
五百尺ばかりの断崖が刳られたように立って、曲折連亘している有様は、恰も造化の大屏風である。 岩ひだの明暗は変化のうちに統一を帯び、処々婆娑たる奇松を項き、あお其の随所に 実綴じつていし、崖裾を噛む白浪碧潮相映発している。一帯に崖面は潮気をおび飛沫に湿うるおい、 紫金と輝き赤銅と照り、高壮雄大の裡に秀麗の雅致を帯びている。なお又春は岩燕が群れ飛んで、面白い声でなきかわし、 冬は鷲が来って雄姿を見せている。〔前記断崖美参照)

タ、沖の松島
向こうに見えるのが沖の松島で、屏風岩を左にして之を遠望する趣は、湾外有数の風致である。松島の付近には大きいタチ貝が沢山とれる。 須佐湾西側の景勝は先ずこのあたりを終とする。船を廻して雄島に向かうがよい。

レ、高山、黄帝社
この辺から高山をながめるがよい。海抜1800尺ばかりの山であるが、日本海に突出しているので、 山上からは東は出雲の日の御崎、西は大津郡の向津具岬まで展望されるほどで、航海者の大切な目標とせられている。 山に黄帝社というのがある。航海者の守護神として有名で、海路遭難の折祈念をこめると、不思議に霊験があるということで、 この神の加護によって、九死に一生を得たという話が、幾つも残っている。祭神はよくわからぬが、 恐らく須佐之男命にゆかりの船霊神を後世儒学の徒が、黄帝と改称したのではあるまいかということ。とにかく日本に黄帝社のあるのは珍しい。 (前記中島の項参照)
高山には黄帝社の外に瑞林寺という曹洞宗の禅寺がある。瑞林寺の晩鐘は十二景の中である。なおこの山には東山・ 西山と言って二つの大きい牧場があって、宇治川の先陣で有名な池月はここの産だという伝説までがある。 それからこの頃は尊石(斑れい岩のこと後章参照〕ととなえて、頗る立派な石材を掘り出すようになり、 漸次他へ移出せるようになった。(前記山岳美の項参照)


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ソ、雄島
須佐の入江の天神島は、根から生えたか浮島かと俗謡にあるように、天神島ともいい、又岩の数が 48もあるので、イロハ島ともいっている。佐藤博士の説によれば元一つの島であったのが、波涛のために浸蝕せられてこんなに分かれたということ。 この辺は貝類が沢山産するので、拾って土産にするも一興であろう。

ツ、地の松島
沖の松島に対して地の松島という。松島の白浪は十二景の一。

ネ、赤瀬の洞門

ナ、鳥帽子岩
この辺は岩層を縫うて南帯植物の達磨菊が密生し、秋の花時は頗る美観である。

ラ、潜洞

ム、観音岩
その形が観音の座像に似ているので此の名がある。高さ数十間の礫岩が頗る雄大である。

ウ、海苔岩
海苔の産地であり、若芽もたくさんとれる。高山岬の海苔と若芽は風味が特別で、京阪地方でも頗る賞讃せらる。若芽は缶詰にしたのもあってよい土産になる。 この辺は秋から初冬にかけてクロヤ釣りのよい漁場である。このあたり一帯の山裾に、広大な岩台があり、大厦 たいのような巨巌が、処々に重なって、屋上更に屋を築いたように、層々段を成している。又中には左右相接して、 造化の神刀を以て見事に載ち切ったような、長さ数十間・高さ数十間底に碧潮をたたえた、一直線の割れ目などもあって、頗る偉観である。

ヰ、龍宮瀧
山裾の断崖にかかって、海中に直潟しているありさまは、碧浪に躍る白竜はくりょうが雲に向かってあがるかと 思われる、珍しいながめである。


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ノ、鎧島
このあたり一帯はスレートの層で、その断面には数百、層をあらわし、薄いのは板の如く、厚いのは巨材の如く、或は黒く或は蒼く、 或は灰色に或は雪白に、光彩錯綜して鮮麗華美の横縞をあらわし、而も雄大豪宏鬼気を帯びて頭上に迫り来る所、 正にこれ天下一品である。佐藤博士もかかる大規模のスレートの層面が露出している所は、日本には他にないといわれたそうだ。 鎧島は崖裾に分立して居る三箇の巨巌で、その風姿と横層とが、その名の如く鎧に似通っている。

オ、千畳敷
スレートの條層が、最も鮮明にあらわれた所で、やや斜めに流れて鮮麗な縞目を露わしている所は、まるで造物主の大浴衣を、 のりはりでもしているようだ。巌は中間で断たれて断崖の下に碧潮がただよっているが、そのやや沈んだほうの巌は、数百間に互って頗る長く、 上面は二十度位の勾配を保って極めて平坦広濶である。付近に白石灘、白石、黒瀬、黒岩などがある。白石には髪毛海苔かもじのりという面 白い海苔が出る。見物を急ぐ人はこの辺から引き返すがよいが、ゆっくり見たい人は尾浦まで廻るがよい。

ク、布延ぬのば
山裾の断崖中に、数百間に互る大黒條が斜めに流れて、消え残りの虹のあしのようである。

ヤ、波里魔渓
筆者を案内してくれた尾浦の老人も、今迄一、二度来たばかりという話だ。殆ど世に知られていない。他郷のもので見に来たのは恐らく筆者等が嚆矢かと思うが、 素晴らしい絶景である。渓は直径十数間の大岩が錯落としている。海に開いているが、太古は凹凹のある球面のような礫岩の断岩が、茂樹欝林の山裾に対立して、 幅は数間に足らぬ。仰げば蒼天は尼の川のように一線を画するのみである。渓口から爪先上がりに遡れば約10間位で第一淵に達する。わずか1、2間位を登って、 更に50間位溯れば第二淵に達する。当面の巖隙から数條の渓水は淙々と落下している。下は物凄い碧をたたえて深潭である。昔早天に釣鐘を沈めて降雨を祈ったら、 効験があったが、釣鐘は上がらなかったといういい伝えがあるとか。ここを越せば直ちに第三淵がある。これは浅うして、淵の水は水量の少ないと


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きは溢れ流れるまでもなく、底にしみて第二淵に下がるのである。この第三淵に落ち下る瀧がある。 高さ10間ばかり水晶をさらすようだ。更に登って瀧の上に出ると、滑らかな球に近い大磐石の上を雌雄二条の清流が斜めに併走している。 これが合一してさっきの瀧になるのだ。向こうは峡谷を隔てて渓口の怒涛が見える。せきは瀑水をうてすべり出はせぬかとそぞろに心胆を寒からしむる。

マ、舵穴
左右に二巨巌があり相補って船尾のような趣を呈している。その中に隙間があってこれに舵形の巨岩がはまりこんでいる。まるで大船の艫をみるようだ。

ケ、引明の瀧
尾浦の海岸から2丁位の所にある。渓は4層をなし、上より礫岩、硬質砂岩、頁岩、蛮岩と、それぞれ岩質を異にしている。第一、第二、第四瀑はいずれも直下し、 第三瀑は斜走している。この瀧で面白いことは瀧壷のないことだ。点滴さえも石を穿つものを、瀧壷がないのは不思議であるが、これは地盤が堅牢なためである。 この辺に江八景があるが、まず割愛して舟を返すことにする。

フ、長礒
陸つづきのよい遊び場である。貝類も沢山ある。

コ、蜑地(海士ケ地)
蜑地の帰帆は十二景中に数えられている。

工、蟶潟
湖水のような入江である。蟶潟秋月は十二景中に数えられる。
この海辺4、5丁奥に浄蔵貴所がある。昔三好清行の第三子浄蔵大徳が各国修行の途次、高山から湾内の風向をながめて、其の美に憧れ、遂にこの入江に庵を結んで、 余生を送ったという話。今は眼病の神として、尊信せられ参詣者が多い。

テ、青浦
長礒から青浦一帯の海は遠浅であるから、海水浴かたわら貝拾いで、夏は頗る賑わっている。

ア、露兵漂著の記念碑


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法隆寺の側に記念碑がある。日本海々戦の折、露艦が沈没して将校以下30余名のものがボートに乗ってここに漂着したので、一時法隆寺へ収容して、 其の筋へ引渡した。碑は其の記念に建てたものである。

陸よりの探勝

須佐湾の探勝には舟を用いるのを第一とするが、風波の荒い時分には舟を利用することが困難であるから、陸上から要所要所を探勝するがよい。それには

イ、東回り
先ず須佐湾の岸辺きしべを迂回して
水海、赤島、久原波止場、平島、亀島鶴等をて、高山の峠を越え、海苔石附近に出で(駅より約30町)鎧岩、千畳岩等を眺めるがよい。
又高山(項上まで駅より約1里10町)に登攀とうはんして、入江の優美さと外海の壮大さとを一眸に収めるならば、更に面白かろう。

ロ、西回り
鵜の瀬、聖巖、笠松山、青浦、蟶潟等を見て、山越しに金欄に出で、雄島、長礒、鼻面、屏風岩、沖の松島等を眺望する。


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陸上の勝地と古跡

須佐湾を探勝した序を以て、陸上の名所旧跡を探るがよい。

イ、益田邸と益田牛庵
駅から3町許りの所にある。須佐町沿革の中、須佐村と須佐町の項に記載したから再説をはぶく。益田家はもと石見益田の七尾城に拠った豪族であったが、 第20代元祥牛庵の代に初めて此の地に移った。其の元祥の略伝を掲げる。

益田牛庵は石州の豪族益田藤兼の子、朝鮮の役にも名将として知られ、関ヶ原の戦後家康は其の才を惜しみ、本領安堵という条件で招いたが、 牛庵は更に応ぜず、数万石の旧領をすてて、12千石に安んじて、毛利氏に仕えたのは、父以来の毛利の知遇に報いんためで、其の義の固いことは、 戦国の世に稀に見るところである。
牛庵は其の性武勇なるのみならず、頗る民政に長じ、勧農殖産に努めたこと、民の其の余沢よたくを蒙ったことは非常なもので、 弥富村に現存する牛庵堤は、其の一斑を伺うに足るものである。牛庵の最大事業は毛利氏の財政整理であって、毛利氏が領地の大部を失って、
かに防長二州を保つに至った際の、財政大困難の局に当たって、而も鋭意これが整理を敢行して、毛利氏の社稷しゃしょく安定の基礎を確立し た。寛永9年牛庵齢古希に及んで、始めて2州財政総攬の大任を辞したが、其の自筆の引継書には、金銀什具に至る迄明細に記載し、 「寛永九年の物なり一粒もつかい不申相渡し申候事」とある。どうにもこうにも手も足も出なかったほどの苦しい財政を美事に整理して、多大の貯蓄を残し、 8月下旬の引継ぎなのに当年の歳入一文もつかわずとは、牛庵の其の赤誠と才識とは実に驚嘆にたえないではないか。この事を以てしても明らかである。 こんな次第で牛庵は、長州の大元老を以て待遇せられていたが、而も身は寒僻かんへきの要衝須佐を領して、北方の強として石州を固めていた。
一体益田氏は毛利氏の譜代ではなかったが、牛庵以来毛利氏と特別に深い関係を生じ、爾来家老の家柄となったのである。

ロ、村社笠松社と益田弾正
駅から3丁余、益田邸後の笠松山麓にある。蒼樹欝々として、閑静清浄の神域である。慶応3年の


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建立で、華書に掲ぐる笠松社の額は澤嘉宣の揮毫である。
下に祭神益田右衛門介親施ますだうえもんのすけちかのぶの略伝を掲げる。

益田右衛門介は幕末に於ける長藩三家老の一人で、益田家第33代の英主、名は親施、通称は弾正、禄高12千石を食む。其の藩政に当たるや、 大いに綱紀を振張し、士気の振作に努め、藩主毛利敬親の信任をうけた。文久2年藩世子元徳に従い京に上り、これを輔けて国事に勤む。 其の後一旦帰国のうえ、同3年更に藩主に代り、建言をもたらして入京し、やがて攘親征の大和行幸の議が定まつた。 弾正朝命により、藩兵を以て禁門を守衛し、在京有志と共に画策するところがあったが、8月18日会津藩の讒愬ざんに依り、 朝議が俄かに変って行幸を中止し、長藩の禁衛を解いて、帰国を命ぜられた。右衛門介は百方回復を図ったが、事遂に成らず、 三条実美等七卿と共に長門に還った。
翌元治元年藩兵大挙して、京に迫り、藩主父子のえんを訴えんとしたので、右衛門介は主命により、 これが鎮撫に努めたが、遂に其の目的を果さず、かえって彼等に擁せられて、まさに入京せんとし、 山天王の辺に次した。7月19日いよいよ状を闕下けっかに奏し、併せて京都守護職松平容保を除かんと欲し、 兵を督して禁闕きんけつに向い、堺町門から入ろうとすると、会津其の他の守衛の藩兵に遮られて、遂に銃火を交えるに至った。 然るに遂に敗れて山に退き、国司くにし、福原の二老と相前後し、兵を収めて国に帰り、罪を負うて采邑さいゆう 須佐に屏居した。間もなく藩主父子は重譴ちょうけんを蒙り、 右衛門介等は徳山に幽囚せられた。其の後幕兵四境に迫るに及び、国司、福原と共に一藩の責を引いて、11月12日徳山に於て自刃した。時に年32。首級は広島に送り、征討軍総督の実検に供した。 明治24年朝廷其の勤皇報国の忠節を追賞して、特に
四位を贈られた。
弾正の逸事の中には伝うべきものが少くないが、ここには其の二、三を紹介するにとどめておく。
或る夏の夜に侍臣数人を従えて市中に微行し、某亭に登って酒を命じて涼をなふれていた。 すると忽ち轟然たる筒音が起って銃丸は耳をかすめてとんだ。侍臣等は色を失い、あわててたすけ去ろうとすると、 弾正はこれを止めて、「一体非常の際に処して、思い切ったことをする以上は、索より衆怨に当たる覚悟がなくてはならぬ。 わしは既に身命をなげだして藩政に当たっているのだ。銃丸位が何だ。まあゆっくりのむがいい。」といってからからと打笑い、 杯をあげて満引、神色少しもかわりがなかっ

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たということ。
堺町の変に事敗れて帰藩すると、俗論党は既に藩庁により弾正等の正義派を圧迫する事甚しく、路続々不穏の報をつたえていた。 従士は万一のことを心配して間道から山口に入るようにすすめたが、弾正は更にきかず、「わしは防長の士民に対して一つもやましいことはない。 其の上君命を帯びて上京したのだ、藩主の使臣たるものは宜しく堂々たるべきで、間道をとって君命を辱しむべきでない」といってたということ。 万死不重君命重。の語は弾正の屡々筆にしたものであるが、其の語の如く至誠藩主を補けて王事に謁し、死生を超脱していたことは、 これ等の逸事を以ても明らかである。
采邑の政務を処断する公衙に邑政堂というのがあった。或る日弾正が堂に至って、昇降口の二つあるのを見つけ、其のわけを質すると、 当職のものが「一方は上士ので一方は下士のでございます」という。弾正は「すべて其の下士はわしが邸ではどこから上下しているか。 上士も下士も一様に同じ式台から出入りしているではないか。邸でさえ区別しないものを役所で区別するという道理はない。 こんなことはわしが臣下を待遇する真意ではないのだ。」といって其の一つを塞がせた。
嘗て上京の途次舟中の無聊むりょうにまかせ、従臣某を召して「近来接夷論が上下にかまびすしいが、 汝は其の成否についてどう思うているか」とたずねた。某は「それは屹度出来ましょう。若し出来なかったらわが神州をどうしましょうか」という。 弾正は笑って「いやいやとても出来ぬ。出来るものではない」という。某は驚いて膝を進め「これはどうも異なることを仰せられます。独守正気如金石。遂挙防長鏖犬羊 とは君がかって某に賜ったお言葉、犬羊はみなごろしにしなければならないのです。さきの正気はどうなさいましたか。」とつめかける。 弾正は「そうだ、其の覚悟がなくてはならぬ。其の覚悟で進んでゆけば、五港を請うのに対して三港を開いてすもう、そうでなかったら、 神州は遂に洋夷に蹂躙じゅうりんせられるばかりだ。攘夷は譲夷である。つまり夷をして数歩を譲らしめるのだ。今の時にあた って真に鎖国の実をあげようなどと考えているのは、全く時勢に通じないものである。」といって聞かせたということ。 前の例の非官僚式平民的であったこと、後の例の大局を達観して時勢の趨向を察知していたことなどを考えると、弾正が近代的精神の先覚者として、 時勢をぬいていたことがよくわかる。

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ハ、育英館地と小國融蔵
現育英小学校内にある。
育英館は享保年間旧領主益田氏、其の臣品川勿所を挙げて、藩士の子弟を教えしめたのに始まる。其の後波田嵩山、山科太室等これに與り、 嘉永5年領主益田親施累代の遺志をぎ、学舎を増築し、学規を改め、小国嵩陽を抜擢して学頭とし、文武の業を練り、声名一時遠近に揚ったが、 間もなく親施、嵩陽相次いで没し、佐江文学は漸次衰頽すいたいを来した。左に小国嵩陽の略伝を掲げる。

小国融蔵、嵩陽と号をいう。7歳の時父をうしない、長ずるに及ぴ、父の遺志をついで学に志したが、家が貧しくて思いを果すことができないのをうれい、 19歳の時家を脱して江戸に赴き、苦学数年、後昌平黌に学び、安井息軒の門に遊んだ。つとに尊王の念を抱き、且つ蝦夷開拓の説を唱えて、 単身蝦夷に入り、樺太に航し、地形を察して要塞設備の要地を探究し、屯田の策を講じた。
融蔵家を出でて殆ど10年、嘉永4年国に帰るに及び、育英館の督学となり、学政を委任せられた。嘉永6年米艦浦賀に来泊の際には、 益田右衛門介に従って戌役に従った。其の後江戸、小倉等に兵書を学び、九州を歴遊して各地の名士と締交し、物情を探り、翌7年帰郷、 再び督学となり、兼ねて銃隊を訓練し、兵書を講じ、常に外交禦侮ぎょぶの術を講じ、士気を鼓舞し、大義を明らかにするを以て自ら任じた。 吉田松陰、僧月性等と意気投合していた。就中松陰と志を通じ、塾生を交換して研鑽を図り、他日大いに為すところあらんとした。
文久2年藩主毛利敬親が、列藩に先立ち公武合併運動をなすにあたり、主人右衛門介は密務を司って京師にいたが、 融蔵はこれを補けて諸藩の名士間に周旋して種々画策するところがあった。元治元年久坂義助等と藩主の雪冤せつえん運動を図り、事敗れて自殺せんとしたが、 義助は托するに後事を以てし、百方慰諭したので遂に思い止まり、主人右衛門介の後を逐うて国に帰った。同年8月右衛門介が徳山に幽せられるに及び、 融蔵は同志大谷
助と策応して、主人を幽屋の中より抜こうとしたが遂に果さず、俗党の忌むところとなり、蟄居を命ぜられ、悲憤の涙を呑んで遂に病没した。

二、晩香堂
須佐から松下村塾へ入塾した最初の人は、大谷助であるが、助は松陰自筆の士規七則を貰うて


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いる。これは松陰遺墨中重要なものであるが、松陰がこれを贈った心事は、恐らく須佐に村塾の分霊をなす積りであったろうと思われる。
助のあとを遂うて、須佐からは、重臣益田邦衛以下新進の青年7人が入塾し、村塾からは、須佐開港論の材料を松陰に提供した富永有隣を始めとして、 山田顕義、伊藤博文、品川弥二郎、久坂玄瑞など錚々そうそうたる連中が十数人もやって来て、小国融蔵の官舎であった晩香堂に入り込んで、 自炊をしながら教授をしていた。大谷助も勿論これに関係していた。これ等の人々は年こそ若いが、其の青年を引き立てていく態度は、 実に緊張したものであったそうである。何しろ村塾としては唯一の分塾で、精神的新領土の開拓なのであるから、其の意気込みは素晴らしく、 数ケ月間の臨時事業ではあったが、須佐の雰囲気を一新し、後年回天軍の義挙等も起ったのである。益田弾正没後の須佐回天軍の顛末は、 津田常名翁の筆になる回天実記に述べてある。(同書は京都の尊攘堂に納めてある)常名翁は現町長津田五百名氏の実父で、少年の時から弾正に近侍し、 幕末の多くの事実を目撃し、下関海峡の攘夷戦、堺町の変、蛤門の戦、長州四境の戦争、鳥羽・伏見の戦等の実歴者で、 今は他に類例の少ない回天史実の目撃者である。

ホ、大谷樸助の宅祉
心光寺裏の小川に沿うてある.
樸助名は実徳、益田右衛門介の家人である。蛤門の変には、彼は久坂玄瑞に従って京都にいた。久坂の命を受け藤村某と共に陳情書を携えて淀城に入った。 守兵がこれを捕らえようとするのを叱りつけて、「我等も禁を犯すの非を知らないものではない。臣士の情として自ら己むを得ないのだ。 この書はこれを貴藩の主君に御渡しするのである。」といって衆を排して入る。そこで重臣が出て応接し、二人を客舎にみちびいて厚遇し、 書を還した。二人は更に屈せず「貴藩は老中職ではござらぬか。上言を擁塞ようさいして其の職を尽くしたといえますか。 これがために他日不測の変を起こしたら、それこそ貴藩の責任でござるぞ」ときめつけたので、重臣も辞がつまって、遂に陳情書をうけつけたということ。 塩谷宕陰が、樸助の文を評して鋒鋩ほうぼうあらわれ過ぎていると言ったが、機鋒の鋭いことは概ねこの類である。
其の後右衛門介が死を命ぜられて自刃するに及び、樸助は悲墳して河上範三と相諜り、諸隊と志を


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通じ、帝側を一清して、主君の恨みを晴らそうとしたが、果さず。それは俗論党が主命を矯めて切腹を賜わりたからで、 範三と共に30にも足らぬ若さで(時に28)悲壮の最期を遂げた。

へ、郷社松崎八幡宮
孝徳天皇の大化6年、豊前国宇佐八幡宮を当地松ヶ崎に勧請し、宝永16年現在の所に移した。本町の産土神である。社前の両側に並び立つ石燈擁は、 旧領主の江戸参勤より帰国の度毎に献納したものである。

ト、三蔭山招魂社
明治2年の創立、楠正成の霊を安置し、戊辰の志士37名を祀る。其の中には奇兵隊の人が多い。 毎年四月十五日に祭祀を行う。

チ、唐津の梅林
駅より15町
淙々たる渓流に沿うて行くと、犬鳴山の蒼翠眉に迫るあたりに、数十株の老梅が清浅の流れに臨んで、臥龍がりょうの姿を列ね、 横斜の枝を交えているのが眼に入るであろう。早春梢頭しょうとうに香雲を宿すとき、試みに櫛をひいて遊んでみるがよい。 林をへだててひびいてくる鶏犬の声までかんばしく、坐に仙境に入る思いがするであろう。

リ、唐津瀧
更に遡ること2町許りにして、一つの瀧がある。こんもりと茂った樹々の緑の、埋め残した2間の幅を、鞺々とうとうとわがものがおに、 流れ落ちる一道の爆布がある。真直ぐにすっと下って右に折れ、左に返って又右に傾くといったように、うねうねと上下30間ばかり、白蛇の姿をあらわしている趣、 夏はこのうえない涼み場だ。単に暑さを洗うばかりでなく、世の煩いも心の塵も、洗い流してさっばりするにちがいない。とにかく楽にいかれる瀧として誇るべきである。

ヌ、須佐焼窯元
梅林と瀧との中間にある。豊公征韓の役に旧領主益田氏の軍に従って帰化した鮮人が、後に土谷六郎左衛門と改称し、陶器製造を創始したので、 このあたりの地名を唐津という伝説があるが、真偽は


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兎もかくとして、此の地の産須佐焼は須佐土産の一たるはいうまでもない。

ル、鏡山神社

ヲ、大薀寺
禅宗、天正19年開基、旧領主益田氏の菩提寺、本寺は大津郡大寧寺

ワ、浄蓮寺 真宗、応安5年開基、本寺は萩端坊はしのぼう

力、心光寺
浄土宗、慶長17年開基、本寺は京都知恩院

ヨ、法隆寺
真宗、天正5年開基、本寺は浄蓮寺

タ、紹孝寺
禅宗、文亀3年開基、本寺は大津郡大寧寺

レ、光讃寺
真宗、本寺は萩端坊

ソ、犬伏城祉
御手洗左京之進の居城、後益田氏の抱城となる

ツ、懸ケ城祉
寺戸大学の居城、後益田氏の抱城となる

ネ、笠松山の城祉
吉見家の出城


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 須佐十二景

名勝須佐の特色は、前章に既に詳述したところであるが、これは現代的観方によるもので、昔は須佐の勝景を精選して十二景にまとめていた。 前章各所にその一々をあげてはおいたが、更にここに一括して紹介しよう。十二景選定の年代ははっきりしないが、 恐らく寛政年間のことであろうということ。
十二景に寄題した人の中で、良く知られているのは、前権大納言日野資枝(記の和歌)と 亀井南溟(記の漢詩)である。 資枝は益田牛庵(牛庵の項参照)から10代目で、須佐の文学興隆につとめた就祥なりよし (文化元年62歳で没)の国学の師で、就祥に招かれて当地に来たことがあるそうである。南溟の作があるのは、 長州は山縣周南以来徂徠そらい派の古学が勢力があり、従って亀井塾との関係も密接であった為であろう。

鶴崎晴嵐
海越しの山風わたる鶴崎の晴るる見る目は千代も変らじ
誰知十洲外 長門有鶴洲 翠嵐晴可畫 清唳落中流

蜑地帰帆
真帆片帆ひきし夕へは蜑が地の礒邊にかへる千舟百舟
點々蒲帆影 釣鱸何処帰 可憐烏鳥背 興帯汐陽飛

中島泊舟
泊舟枕とる間もなか島の波の響きをきき明すらし
落帆何処舶 九国定三越 不識瑞林寺 疎鐘夜半月

玉島夕照
夕つく日岩こす波に輝きてむべ玉島の名こそ隠れぬ
帝壁崑崙璞 投之東海裔 波間僅露巓 夕日爛相媚

蟶潟秋月
みつしほに浮かべる月を秋は見んあまの蟶潟いとまなくても
蟶浦千秋月 千秋月下人 不看秋月好 采蟶給丁緡


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雄島千鳥
うき妻におき別れてや小夜千鳥名残おしまの波になくらむ
雌禽従厥雄 両々皆相呼 驚起看雄島 有求雌島無

瑞林晩鐘
入相の聲きく峯を木の間よりみつの林の寺そはるけき
欲識妙高頂 瑞華芬満林 雲帰人籟罷 隠々莫鐘音

大越落雁
仰き見る高嶺を連れて大越の浜べの秋に落つるかりがね
登楼看大越 簾幕敞清秋 潮声帰極浦 雁陣下中洲

松島白浪
松島の影みる海にいくかえり千代の数とる浪の白珠
何年東奥勝 飛落穴門前 白浪簸色岸 青松媚遠天

平島夜雨
ふりいでてあまもぬる夜の平島にとまもる雨の音ぞさびしき
秋雨瀟湘夜 遷人奈恨何 唐崎興平島 夜雨不堪多

笠松暮雪
積もりても掃わぬ雪の光あれば夕ぞ遅き笠松の山
雪壓松如笠 思詩祇自苦 蘇公安在哉 髣髴呑天魚

亀島遊魚
いろくずも万代かけて亀島の風静かなる浪に住むらし
鯨鯢潜又躍 澥玄宅胚渾 似欲窮天悶 南冥間化鯤


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 須佐年中行事
◆4月15日 松崎八幡宮春祭 三蔭山招魂祭
◆4月20日 鏡山神杜春祭
◆5月1日  高山黄帝祭
◆5月5日  天神祭(春祭〕
◆7月15日 祇園祭
◆7月16日 同
◆7月17日 弁天祭
◆7月18日 同
◆9月30日 松崎八幡宮秋祭
◆10月10日 鏡山神社秋祭
◆10月12日 笠松杜例祭

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 須佐土産

須佐名物としては

一、須佐わかめ
     年産額   8,400円
二、神山海苔
     年産額     385円
三、するめ
     年産額  2,400円
四、飽
     年産額  5,400円
五、鯛
     年産額  9,430円

尤も年産額の多いものには、いわしの4千円、鯖・ぶりの各75百円等があるが、特に優良なものとしては、前記のものなどであろう。なお

六、須佐焼
     須佐焼があるが、その年産額は未詳みしょうである。

以上の数字は鉄道開通前の、販路狭少の時のものであるから、今後は格段の増額をみることであろう。


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 天然記念物としての須佐湾

地殻発達の順序

一、地殻の成生
須佐の地質をここにあたって、地質や岩石についての極めて概略の序説を加えておく。地球を一つの卵とすると、其の殻の部分にあたる部分を地殻という。 この地殻は初めから今日のような状態であったのではない。いやそれは地殻だけではなく地球全体が、今日のものとは趣を異にしていて、成生の最初に於ては、 地球は恰も今日の太陽のように赫灼たる熱液から成っていたものであるが、漸次其の熱を放散して、外側が次第に固まり薄い膜を生じて来た。 これが最初の地殻で、現在の地殻の最下部に現れる花崗岩及び其の変成物である片麻岩の類がそれである。

二、海陸の成生
地球がなお冷却をつづけてゆくと、内部に包まれた熱液が更に冷却して、其の容積を減じてくる。そうなると焼けふくれた餅が冷えたり、 生の葡萄ぶどうからびたりする時に、外面に皺が出来てくるように、地殻も或は摺曲し或は断裂して凹凸を生じて来る。 この凹所には、水をたたえて海洋となり、凸所は水上に頭をもたげて陸地となり、ここに海陸の別が生じてくるのである。

三、水成岩
さて海陸が別れて来ると、陸上では風や雨や流水のために、岩石が次第に削磨せられ侵蝕せられてくる。そして其の削磨侵蝕せられた産物は、 流水に送られて海洋に流れ込む。海洋ではこれがだんだん静かな水底に沈んで積り積りてゆく中に、上部のすばらしい圧力の影響などによって再び固結してくる。 これが水成岩である。この水成岩は地殻の摺曲によって陸地となり、吾々の目にもつくようになる。水成岩は幾回にも亘って出来るもので、 古いのもあれば新しいのもある。

四、火成岩
水成岩に対して火成岩というのがある。これは地球内部にあった熱液(岩漿)が、温度の低い地殻中にふき出して熱を失って冷却したものである。


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五、変成岩
又別に変成岩というのがある。これは水成岩又は火成岩が、一種の地質的動力と高熱との為に、其の性質を変じたもので、 其の合分たる鉱物の種類と結晶質であることとは火成岩に類し、其の層理を呈していることは水成岩に似ている。

六、化石
地殻の発達を研究するうえに最も大切なものは化石である。化石というのは、地上に成育していた生物の遺骸等が、地層の中に保存せられているもののことである。 一体の生物は地殻と同じく其の初めから現存の種族が成育していたわけではない。其の初めには劣等の種族のみが繁殖していたのであるが、 地殻の沿革と外界の変遷とに促されて、次第に発達して今日のようなものになったのである。だから過去の生物界の状態は地殻の変遷とともに変遷して、 各層特有の化石を蔵している。中には或時代にのみ繁殖して次の時代には絶滅した生物化石などもある。これは地層の年代を査定するに最も必要なものである。

地質系統の大別

上述の理由により、学者は化石の種類と岩石の配置とを研究して、地殻発達の時代を大別して四代と し、更に分って数紀としている。これを地層について言うときは代を界、紀を層と名づける。

一、太古代
最古の地層で正確な化石を発見しない。そこで岩石の種類によって左の二紀に分つ。
イ、片麻岩紀
ロ、結晶片岩紀

二、古生代
岩石は水成岩よりなり、生物の繁殖した証跡が明らかで数多の化石を蔵している。だが多くは劣等の種類で、植物は隠花植物を主とし、 動物は両棲類以下のものである。本代の末期には種々の火山岩を噴出している。
本代には下の数紀がある。


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イ、カンブリア紀
ロ、シルール紀
ハ、デボン紀
二、石炭紀
ホ、二畳紀

三、中世代

中世代は次の三紀に分れている。

イ、三畳紀
ロ、ジュラ紀
ハ、白亜紀

前代の終わりは陸地の多かった時代だったのだ。本界の下部は主に浅海成堆積物より成り、上部の白亜系のみが深海成である。生物界は前代と面目を一新し、 植物は裸子顕花植物を生じ、終わりに至って少し許りの被子顕花植物を見る。動物界に至っては更に著しい変化があり、 蛇龍だとか魚龍だとか翼手龍だとかの奇形の大怪物は、ユラ紀に全盛を極め、当地に化石の発見せられる海膽かいたんなどは白亜紀に全盛を極めたものである。

四、新生代
新生代は

イ、第三紀
ロ、第四紀

の二紀に分れている。第三紀は地殻が掉尾ちょうびの大変動をなした時期で、アルプスやヒマラヤのような世界の大山脈は、この時期に成生したものである。 生物界の面目も更に一新し、植物は被子植物となり、動物は哺乳動物が其の数を増し、中にはマストドン大懶獣らいじゅうような巨大な動物もいた。 第四紀には更にマンモスその他の怪獣・奇鳥が出たが、これと同時に人類の祖先があらわれて、これ等の凶暴な野獣と争つていたということは、 石鏃せきぞく石斧せきふがこれ等の巨獣の骨と共に地中に埋存しているので椎察せられると


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ころである。

須佐湾付近の地質

須佐湾付近の地質は第三紀層、沖積層及び斑糲岩、石英斑岩、玢岩ひんがん等からなっている。(佐藤博士による)

一、第三紀層
第三紀層は前記新生代の前半期に成生した地質である。以前古生代を第一紀、中生代を第二紀と呼んでいたので、其の次にある故をもって三紀と呼ぶのである。
我が国で貝化石にとみ、又植物化石も少なくない。俗に天狗の爪というのは、この層中にある魚歯の化石である。第三紀の岩石には砂岩、礫岩、 凝灰岩等がある。(百科大事典による)

さて須佐に於ける第三紀層は神山の四囲を形成し、最下部に礫岩があり、最上部に頁岩があり、中部に砂岩がある。(佐)

イ、礫岩
豆大以上の削磨せられたる石片を礫といい、礫が粘土質、砂質、石灰質等の膠結物によって固められて岩石になったものを礫岩という。 蛮岩といったり子持石といったりもする。古生代、中生代、新生代の各地質時代を通じて地層中にこれを産する。

ロ、砂岩
豆大以下の削磨せられた石片を砂といい、其の凝固したものを砂岩という。砂岩は普通層状帯状をなし、其の成層が分明である。常に粘板岩、泥灰岩、 石灰岩、頁岩けつがん、石炭層等と互層し、太古紀以下各時代の主要な地層を構成している.(山崎氏等による)

ハ、頁岩けつがん
岩石の破壊せられ且つ化学的変化を被った微細分を粘土といい、粘土の凝固したものを粘板岩といい、其の凝固程度の不完全なものを板岩という。 泥板岩は頁岩ともいう。(前項に書いた泥灰岩は多量の石灰分を有する泥板岩である)この頁岩は層理が分明で、石灰岩、砂岩、泥灰岩並びに石炭層等と互層し、 太古、中古、第三紀等の諸層に著しく発達している。(山、その他〕


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二、ホルンフェルス
神山の斑糲岩に接している砂岩及び頁岩は接触変質をうけて、変質して「ホルンフェルス」となっている。所謂いわゆる「スレート」の大絶壁というのは実は 「ホルンフェルス」の大絶壁である。(佐)

一体接触変質というのは、火成岩が水成岩を貫いて迸出へいしゅつした為に、水成岩のこれに接触せる部分が其の高熱のために変質するに至ったものをいい、 大凡おおよそ次の三種に分かれる。

a、岩石が炭化する場合

褐炭が黒炭になり、黒炭が無煙炭となって含炭の量を増加してくるようなもの。

b、岩石が硬化して破璃はり質又は結晶質を帯びる場合

砂岩が破璃状を呈し、泥板岩、粘板岩等が堅い陶器状をなし、石灰岩が粒状結晶質を帯びて大理石となるようなもの。

c、水と熱との作用によって変質を生ずる場合

地中から噴出する溶岩は種々の鑛物質を含有する多量の水を有しているので、他の岩石の中に迸出するときは、此等の水は其の中に滲入し、 高温の作用と相俟って岩石に化学的分解を起こしてくるので、それが再び凝結し結晶するときは、其の組織成分は著しく以前のものとは、 異ってくるのである。(山)

さて、「ホルンフェルス」は粘板岩が接触作用のために結晶質となったのである。

ホ、化石
化石としては、牡蠣ぼれい海膽かいたん及ぴ木葉等があって、主として砂岩中に埋蔵せられている。 蓋し第三紀中新統のもののようである。当地の第三紀層中には褐炭層がある。(佐)

へ、斑糲岩はんれいがん
斑糲岩は火成岩の一種で、一名飛白岩とも称する。白色で光沢の著しくない斜長石の中に、黒褐色の異剥石が飛白のように混在しているので、 同岩で最も分りやすい岩石である。尤も斜長石は異剥石の分解によって薄い緑色を呈することがある。異剥石は新鮮なときには、金属に近い光


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沢を呈している。
斑糲岩は、分布が大でなく日本では千葉県、岐阜県、淡路島、山口県等が著名の産地である。(栗田氏等による)
須佐に於ける斑糲岩は神山を構成するものを主とし、部分によって岩漿分体を生じ、石英斑糲岩、紫蘇輝石斑糲岩、橄欖かんらん斑糲岩 石英モンゾニー岩と称すべき岩種となっている。蓋し餅盤として第三紀層中に迸入したものであろう。尚、神山の項上付近には磁石性の特に顕著な部分がある。(佐)

ト、玢岩ひんがん
斑状の火成岩で、緑色又は灰色味ある石基を有し、其の間に斜長石及び角閃石の斑晶が散在しているが、細粒質のものはそれらの鉱物を肉眼で認め得ない。
玢岩は岩脉又は岩床を造り、本邦に於ては中古紀及び中古紀末葉、若しくは第三紀の始めと想われる御坂層中に盛んに流出し、其の層間に層盤を造っている。 其の産出の多い地方は、福岡県、宮城県、宮崎県、山口県等である。
須佐に於ける玢岩は岩脉或は岩床をなして、第三紀層を貫いている。蓋し神山の斑糲岩の一異層をなすものであろう。(佐)

チ、石英斑岩
石英斑岩は火成岩である。花崗岩と其の成分を等しくするけれど、著しく其の組織を異にし、緻密な石基中に石英長石並ぴに角閃石雲母の斑晶を散点している。 本邦に於いて其の噴出の多い地方は山陽・山陰の各地、飛騨、美濃、紀伊等である。(山)
須佐にも亦、これを見ることが出来る。玢岩と同じで岩脉及び岩床をなしている。(佐)

地殻の構造

地殻は現出の状態を異にしている層状岩・水成岩の如きと塊状岩(火成岩の如き)とからなっているので、一部分には層状岩が重なって層をなし、 他の部分には或はこれを貫き、或はこれを被うている塊状岩があって頗る錯雑な構造を成している。


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一、地層の摺曲及び断層
地球が冷却して収縮するに伴い、これを包んでいる地殻は互いに横に圧しあって、地層に波のような起伏を起さしめたり、 亀裂を生じて左右の地層の位置を変ぜしめたりする。前の場合を地層の摺曲といい、後の場合を断層という。

二、塊状岩の地殻構成状態
岩床、岩漿分体
塊状岩は噴出の状態によりて、岩株、餅盤、岩脈、岩床、岩鐘、岩台、溶岩流等に区別せられる。
岩株とは不規則な大塊をなして、地盤の中に割り込んだものをいい、其の周辺から細い枝を射出して四囲の岩を貫くものを岩脈という。
餅盤とは地層の一部を持ち上げてレンズのように固まったものをいい、岩株と同じく屡々岩脈を射出している。
岩床というのは地層の層面に沿うて薄くひろがったもので、つまり餅盤の平たいものである。
岩鐘は岩腺の先端が地上に鐘状をなしているものをいい、それが平たくひろがっていれば岩台という。
又、溶岩流とは地表を流れた溶岩の固まったものである。
火成岩が水成岩中に噴出して其の周囲に鉱床を発生することがある。其の鉱床の成生に種々の場合があるが、岩漿が冷却凝固する際、 其の中に含有せられた有用鉱物が岩漿中から分体して、一ケ所に集合するときは岩漿分体という。

地質学上特に注意すべきところ

須佐湾内外の地質に対し、佐藤博士の地質学上特に注意すべき点として指示せられたところは、

一、神山の斑糲岩類は第三紀層中に餅盤をなしていること
二、神山の斑糲岩類は岩漿分体が明らかであること
三、神山の斑糲岩類は接触変質が明らかであること
四、須佐湾の絶壁には岩脉が縦横に貫通していること
五、須佐湾の絶壁には断層が明らかに現れていること


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六、須佐湾が幽邃ゆうすいなる湖水の如き風光を呈しているのは、地盤が沈降した結果であること

等である。


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■久原房之介翁略年譜

久原家は、長門守護職佐々木高綱の二男光綱の末子七郎景家を始祖とし、景家から十数代のち佐々木神四郎は、益田元祥が須佐に移転した時、 七尾城の留守居役として残され、元和げんな年中、美濃郡久原村に帰農する。そのむすこ勘平治(久原姓の始祖)の時、 益田家を慕い須佐に移住し、正保年中(1644〜47)須佐浦庄屋となり姓を久原に改め、代々受け継がれた。

11代庄三郎は、父半平遭難の翌年、元治元年(1864)萩今魚店町へ移住し、酒造業を開業した。後に醤油醸造業に転業し熊谷町に転居する。 熊谷町の久原屋敷は享保年中にかかる醤油醸造家の本格的家屋構造の姿をとどめ、現在、双葉幼稚園の一部となっている。

明治12(1879)年、庄三郎は兄藤田伝三郎の勧誘に応じ、家を挙げて大阪に移住した。
房之助は庄三郎の四男として萩唐樋町に生まれ、幼名を房三郎という。11歳の時、家族共々上阪し、多感な少年時代を過ごした。明治14年、 商法講習所(現一ツ橋大学の前身)、同19年に慶応義塾に入学、海外貿易を志向し、23年、森村組に入社。1年余り経過した時、 ニューヨーク支店駐在員に破格の抜擢を受け、貿易実業家を志す房之助に渡米の道が開かれた。しかし、年央に日本最初の経済恐慌に見舞われ、 父の兄弟で経営する藤田組の危機打開のため、井上馨や藤田伝三郎の説得により、24年、やむなく藤田組に入社し小坂鉱山へ赴任する。 32歳の時、鮎川弥八の次女清子と結婚する。


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38年、藤田組を退杜して茨城県多賀郡日立村赤沢銅山の買山契約を結び、日立鉱山と改称し、独立の第一歩を踏みきった。しかし、 開山にあたって最も心を砕いたのは、巨額な創業関係資金の調達である。無名に近い青年実業家に協力しようとする金融家は見当らず、 途方にくれ悩んだ末に、8年前に藤田組の危機を救うため井上馨を動かしたことが浮かび、再び井上の門を叩いた。 井上は三井銀行と大阪鴻池銀行に援助を指示した。久原鉱業所の創業から経営にかけて井上の援助は絶大で、督励のため、 しばしば鉱山を訪れている。

41年、大雄院製錬所の創業開始と共に煙害間題が発生、社会問題となり鉱山に対する追及は日を追って厳しさを増すが、 鉱山家の努力と地元の理解ある協力や県の指導督励によって事態の改善をみるに至った。43年、日立銀行を設立(昭和4年、金融恐慌にょり休業)、 大正元年、資本金1千万円をもって久原鉱業所を改めて久原鉱業株式会社を設立し、近代的経営組織を採用するに至った。

大正3年、第一次世界大戦が勃発するや日本も日英同盟を理由に対独宣戦を布告した。この大戦により国内は未曾有みぞうの好景気を迎え、 発展を続ける久原鉱業株式会社は、大正7年には設立時の7.5倍に増資した。又、日立鉱山工作課の電気機械修理工場から出発した日立製作所も次第に活況を示し始めた。

日立から全国規模の経営体へ成長・発展した房之助の経営策は、大正3年から海外の資源調査に目が向けられ朝鮮半島をはじめ中国や南方諸地域に及んだ。

この大戦は、日本経済を3〜4年で急速に発展させ、中でも船と鉄・貿局部門があげられるが、自身もこ


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れらの事業の将来性に着目していた。4年、日本汽船株式会社を設立、7年、久原商事を設立して世界枢要都市に出張員を派遣し、 世界の動静を知ることと業務の発展に努めた。

これより先、6年に理想工業都市下松計画の内容を発表し、下松湾周辺の土地約220万坪が買収された。一方、下松銀行(のち長周、 山口銀行)の立て直しや山陽電気の買収など諸準備が並行して進められた。しかし米国の鉄鋼輸出禁止措置が取られ、 計画を修正して日本汽船笠戸造船所を発足することとした。が米鉄禁輸の壁は厚く7年、造船中止と大構想への終止符が打たれた。 この中止は母の死去と腸チフス罹患による心身の衰弱が大きく左右されたものと思われる。

7年、アメリカの経済事情視察のため4ケ月間のアメリカ旅行に出発した。訪米はゲーリーとの間に進められていた中国大陸における製鉄事業に関する 具体的な打合わせを主目的としていた。会談は中国に重工業会社を設立することで契約案をまとめたが、ハワイまできたとき大戦が休戦となり、 合弁事業計画は実現されなかった。

戦争集結により商品株式各取引市場は動揺をきたしたが、産業界全般としては影響は比較的軽微で却って一時的に戦後景気が到来した。 しかし、9年、東京株式取引所において諸株の大暴落をきっかけに深刻な局面を迎え更にアメリカやヨーロッパにも恐慌がおしよせ、 日本経済は二重の打撃を受けた。

大戦を契機として銅価が世界的に暴落し、久原鉱業を苦境に陥しいれた。苦境打開のため事業規模の縮小と人員整理を含む操業全般の合理化がおこなわれた。 9年、久原鉱業本店を大阪から東京に移転、日立製作


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所を分離した。

明治38年、日立鉱山創業以来、日本実業界のリーダーとして高い見識と卓越した行動力をもって、実業界を導いてきたが昭和3年、 数々の業績を残し実業界から引退した。

房之助の政治への関心は大正初期以来のものであるが、政界入したのは満州問題の処理がとりあげられた当時のことで、 帝国政府特派経済調査委員としてソビエト、フランス、イタリア、イギリス、ドイツ、中国の経済状況視察のため訪れた帰国後、 田中義一の勧誘により政界入を決意し、昭和3年2月、久原鉱業の経営を鮎川義介にゆだねた。

初めての選挙となった第1回普通選挙は自分の信念で山口県第1区から立候禰し、緒戦において最高位で当選した。立候補決意から17日のことである。 5月には逓信大臣として田中内閣に入閣した。
5年、衆議院の解散に伴い、再び山口県第1区から立候補し上位当選する。6年、政友会入3年目にして幹事長に就任する。7年、 衆議院は首相・外相・蔵相の演説終了と共に解散、総選挙が実現され山口県第1区は無投票により三選する。11年の選挙で上位当選し四選を果たす。
11年の2・26事件勃発前に一部青年将校と右翼がクーデターを起こすような情報が入り、ことの真相をつかむため情報集めに努めた。 このため事件に関与した疑いがかけられ、また事件に関係した民間人を蔵匿したため東京地方憲兵隊に8ケ月余り拘留されるが、証拠不十分として不起訴処分、 地方裁判所では無罪となる。


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12年、林内閣の抜き打ち解散による総選挙は2.26事件後、謹慎中の身柄であるという理由で立候補を辞退する。
14年、立憲政友会総裁・内閣参議に就任。立憲政友会は明治33年9月、伊藤博文によって結成され、房之助の提唱により15年、解党する。
17年、東条英機内閣は大東亜審議会を設置し房之助に委員を指名するが、東条との意見があわず以後、政治の第一線から退いた。
20年、終戦を迎え戦犯として容疑をかけられるが、22年に解除された。しかし、同年、改正選挙法による国会議員選挙にそなえ衆議院議員立候補者としての 資格審査を申請したが、内務次官から政治活動を禁止する旨が通知され、申請を取り下げた。更に23年、公職追放令の適用を受け、26年の解除まで政治活 動を禁止される。
追放令解除の年、故田中義一法要参列のため萩へ帰郷、須佐に墓参りをして帰京した。
27年、83歳の房之助は山口県第2区から立候補、トップ当選で10数年ぶりに政界に返り咲いた。翌年、吉田茂首相のばかやろう発言で国会は解散、 総選挙がおこなわれたが落選の憂き目にあうことになった。

30年、須佐町は教育や産業に貢献するところ多く名誉町民に推挙、萩市も36年、名誉市民に推し、その功績を顕彰した。
明治41年、房之助は父庄三郎の名で巨費を投じて久原波止場を築造し、これにより須佐港はいっそう繁


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栄した。
大正元年5月、母文子は先代半平の50周忌にあたり斉藤幾太・田村市郎・房之助の三兄弟を伴い15日帰郷、17日に浄蓮寺で法要を営み、 25日には町内の有志5百名を築港広場に招き大園遊会を開催、また育英小学校8百名の児童に文具、各戸には5円ずつ寄贈したのを含め、 神社仏閣あるいは貧窮者に対する寄付寄進など萩・須佐あわせて2万円の多額に及んだ。このほか町発展のために多額の寄付をなし、 また町民子弟の進学援助のため久原奨学資金を設けるなど、郷土への寄付寄進には枚挙にいとまがない。今日、 久原奨学資金の恩恵をこうむった人達によって久原園地の一角に翁の頌徳碑が建立されている。

39年6月ごろより健康の異常を訴え、秋深まるころから臥床する日々が多くなった。翌年1月29日午後零時20分、親族側近の見守る中静かに息をひきとった。 天寿97歳,同年、内閣から正三位が追贈され、明治・大正・昭和における故人の経済界・政界の偉大な業績がたたえられた。
                         引用文献 久原房之助(昭45/日本鉱業株式会杜)


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■須佐町のあらましのお話          松尾  龍

今年は大変な年でしたがお変わりありませんか。

今年は代々の天皇様の中で一番長く、一番年をとられた天皇様がおなくなりになって、本当に悲しい年明けでした。
63年あまりの昭和の時代もこれで終わって、これからは平成という新しい年号に変わりました。昭和天皇様は戦時中、そして戦争に負けて、 日本が滅びるかどうか、また国中の人たちがどん底でもがいているときに、占領軍の司令官のマッカーサーにお会いになったとき「私の身はどうなってもよいから、 国民だけは守って欲しい」といわれました。マッカーサーもその心に打たれて日本に対する気持ちも変わったと書いています。 そして天皇様は何とかこの国をたて直そうと心をくだかれました。終戦の後、日本中を34千キロメτトル、およそ8千里余り何度も回って、 私達国民をなぐさめ、励ましてまわられました。日本の一番上に立つ方として、一番責任を感じていられたのだと思います。この山口県にも5度こられまました。 お心の休まる日々なく、本当においたわしいことと思います。

さて、あなた方も、昭和の時代に一生懸命に働いて、その間に様々さまざまなことがありました。戦争で銃を取って命を的に働いたり、そうした留守を必死になって守って、 私たちのこの須佐町を築いてくださいました。私たちが今こうしていられるのも、あなた方のおかげです。
働いて働いて、今では身体が不自由になっておられますけれど、私たちはあなた方のお働きを忘れたことはありません。あなた方が築いてこられた須佐町の姿も、 今では見て歩くことも御不自由でしょう。も


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う半分忘れられたのではないでしょうか。今日はこのテープを聞いて、昔のことを思い出してください。

須佐町に来て、だれでも一番目にるのは高山です。高山は須佐町のどこからでもながめることができま す。この山は須佐町の自慢の名所の一つです。北側の麓には有名なホルンフェルスがあって、国中で名を知られています。北海道の駅にいってもポスターに写真がみられます。 近ごろでは観光のお客さんも沢山たくさん来られます。そうした所を思い出しながらお話を聞いてください。

須佐という名前は、大昔、あの八又やまた大蛇おろちで有名なスサノオノミコトが大陸に渡られるとき、 あの高山からはるかに海を見定められたので、それでスサという名がついたといわれます。それで昔は神の山と書いて神山 こうやまといったということですが、後にこのへんにはない高い山というので高山と書くようになったと、そんないい伝えがあります。 それではあの高山やホルンフェルスはどうしてできたのでしょうか。

学者の話によりますと、今から1億4千万年ぐらい前、そのころはゴジラのような、トカゲのお化けのような20尺もある動物が地球上を歩き回っていました。 大きさは大きいのですが、冷血動物れいけつどうぶつといってカエルと同じように身体の体温は冷たいのです。だけど地球上のあちらこちらに、 そのころは大小沢山の火山が吹き出していました。それで体温も高く、動物たちが餌にするわらび・・・ぜんまい・・・・ のようなシダが3間も4間も高くしげっていました。今から考えると夢のような世界です。気候が暖かく、餌もふんだんにあるので、 あんなにお化けのように大きく育ったのです。地球の表面がそのうちだんだん冷えて、餌の植物も育たなくなると、こうした動物たちも体温は保てないし、 食べるものもなくて滅びてしまったようです。そのころから火山が吹き出したものが何千万年という長い間につもってできたのが、 流紋岩といって、須佐の土地ができました。良く堀わりなどを見ると黄いろっぽい岩はだが見られます。あれが流紋岩です。


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だけどあの岩は大変水に弱く雨が降ると表面がとけて流れて、今の須佐の平地ができました。今私たちはその上に住んでいるのです。 そして、そういう土は流されて、川に運ばれて海にもっていかれます。そして海の底に沈んで、だんだん重なって、 畳を重ねたような層ができます。そして、重なっていくうちに重みのために岩になります。「動かぬこと大地のごとし」というようなことばがあります。 でもこれは人間の短い一生の間のことをいったもので、地球の表面は何10万年、何100万年、何1000万年という長い間にいつも動いているのです。 お餅でも冷えるとしわがよります。それが地球の表面だったらどうでしょう。そうして山や谷ができたのです。 雨が降るたびに谷のところは流されていっそう深くなります。土はどんどん流されて、海の底に沈んで重なって、それがもっと厚い岩になります。 さっきもいいましたように地球の表面は長い間に動いて、あるときは盛り上がったり、あるときは沈んだりしますが、 その盛り上がった上に雨に流された土がつもって平らな土地ができるのです。私たちはそこで生活しているわけです。 地球の表面が盛り上がったり沈んだりすることは、高山の中ほどから亀の化石や貝の化石が出るのでもわかります。そのようにしてできた須佐の土地を、 今から14百万年ほど前に、地球の中のドロドロととけたマグマという熱いものが、須佐の土地をつきやぶって吹き出してきました。 だけど桜島火山や阿蘇火山のように火になって吹き出したのではなかったのです。地球の底からかたい岩をおしわけて吹き出してくるのですから、 それは大変な力です。そうしたものが重なってできたのが高山なのです。吹き出てくるときにだんだん冷えて、石のかたまりになり、 ひとかかえぐらいのものや、中には何10尺もある大きなかたまりとなって、高山はそうしてできたのです。ですから、 石の間を埋めた土が長い聞に地下水で流されて隙間ができると、その隙間を通って海から風が吹いてきて風穴ができるわけです。 前からあった須佐の土地をお


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しわけて吹き出すときの物凄い力と熱のために、まわりの岩は中味が変わりました。ホルンフェルスはそうしてできたのです。 それが長い間に日本海の荒波に洗われて、今のような美しいしまもようが見られるのです。 いってみれば日本海の波がいつも顔を洗ってお化粧してくれているようなものです。自然の力というものは想像もつかないような凄いものです。 そして、つみ重なった土はいろんな動物や植物を育て、金だとか鉄だとか、銅や銀など様々なものを作りました。 私たちはそのおかげでこうして生活できているのです。これまでは大昔の須佐がどうしてできたのかをあらましもうしましたが、 これからは私たちの住んでいる須佐町について考えてみましょう。

須佐はもと大原郷とも呼ばれて、それは三原を中心としたあたりです。いまでは 上三原下三原などに別れていますが、あのあたりが一番平らな土地が多くて、 お米が一番多く取れるので中心地となっていたのです。ですからそこには昔からいろいろないい伝えなどが残っていますが、 その話しはまたにいたしましよう。

今から4百年ほど前に日本では大変なことが起こりました。慶長5年のことです。ご存知の関ヶ原の戦 です。世に天下分け目の戦いといわれていますが、 東の徳川方と西の豊臣方の争いです。そのころ毛利輝元は広島県にいて、岡山県、鳥取県から中国地方8つの国を支配して、120万石の大名中の大名でした。 それで、西軍豊臣方の総大将におされました。けれども西軍の方は大名たちの仲がうまくゆかず、大敗けをしてしまいました。 そのために毛利氏も領地を削られて防長の2つの国、つまり今の山口県ですが、120石も四分の一近い36万石になってしまいました。 そして萩の指月城に住むようになりました。

そのころ益田氏は毛利氏の下についていましたが、今の益田市にある 七尾城ななおじょうの城主でしたが、毛利氏につ


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いて須佐に移ったのです。益田のころは68千石の大名なみでしたが、 須佐に移ってからは須佐、弥富、鈴野川、小川、田万、今の江崎ですが、 こうした土地をもらって約13千石となり、約五分の一に減ったわけです。そのころの須佐は何10軒かの漁師さんを中心とした小さな村でしたが、 益田氏が須佐に移ると、家来やそのほかの人もいっしょに来て、にわかに家並もでき、今の須佐ができました。そのころはまだ須佐村でした。 ですからいまでも山根丁や河原丁などには、そのころの侍屋敷の門などが所々に残っています。また土塀や杉などの垣もみられます。 須佐にはじめて移ってきた益田の殿様は益田元祥もとよしといって、大変すぐれた殿様でした。 そして毛利氏の一番の家老としてつくした人です。 ですから益田家はそれ以来代々毛利氏の家老として、江戸時代の終わりまでずっと家老の職を務めてきました。ご存知と思いますが、 第33代の最後の家老の益田親施ちかおぶは、京都で幕府との争いがおこって、世にいわれる禁門の変、 また、蛤御門の変ともいわれていますが、 そのころは長州ではいろいろなことがあって、長州軍は敗れました。そこで長州はけしからんというので幕府は諸国の大名たちに命令して長州征伐 がおこりました。長州藩ではいろんなごたごたがあって、このままではとても立ちうちができず、その責任が毛利の殿様にも及ぼうとしたので、 家老の益田親施をはじめ、同じ家老の福原越後、国司信濃の三人が今から125年前の11月12日に毛利氏のかわりに貴任をとって徳山の惣持院という所で切腹しました。 益田親施はその時まだ32才の若さでした。その後明治維新に大変てがらがあったということで、靖国神社にまつられ、子孫の精祥あきよし 兼施かねのぶ爵の位をもらいました。 今の中津のお屋敷は、益田家が屋敷と土地を須佐町に寄付してくださったので、須佐町では屋根や床を修繕して、 敷地に歴史民俗資料館をたてて、益田家のものや、私たちの祖先の人たちが残したいろいろな


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ものが飾ってあります。須佐町民の方は入場無料ですから、都合がつけば是非いって見て、須佐町の昔をしのんでください。

それでは、須佐町にはいろいろな名所歴史に残る所がたくさんありますが、 その中で主なものをひろってたずねてみましょう。

まず、須佐には松崎八幡様があります。松崎という名がついたのは、いろいろないい伝えがありますけれど、 その一つは、今から1600年ほど前に九州の宇佐八幡宮の神様をお迎えして、昔は須佐の浜に「松ケ崎」という所があって、 そこにお祀りしたので松崎八幡宮という名がついて、宇佐がなまって須佐といわれたと伝えられています。それからまた、須佐という名は、 あの八又の大蛇退治で有名なスサノオノミコトが大陸に渡られるとき、高山の上から海を見渡されて、方向を見定められたので、 須佐という名がついたなどという伝説も残っております。ですから昔は高山を神山、神の山と呼んでいたようです。この松崎八幡宮様は、 その後山根丁東の田中、今の町の水道の水源地がある山ですが、前はここからサイレンが鳴っていました。 そこに移されて、そして元禄のころ、今から290年ほど前になりますが、今の本町上にりっぱなお社をたてて移られました。 ご存知のようにお宮の前の参道には、両側に灯篭とうろうがたくさん並んでいます。昔は諸国の大名は参勤交替といって、 4年に一度は江戸に行ってお勤めをする制度がありました。そして毛利の殿様が江戸にのぼられるとき、家老の益田氏もついて行かれましたが、 その帰られたたびに、無事に勤めを果たして帰りましたとおさめられたのがあの灯篭です。今は須佐町の文化財となっているいわれのあるものです。 鳥居にはそのときの益田の殿様が書かれた字がほりこんであります。


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それから山根丁には大薀寺があります、大薀寺はもと弥富の楢木に高禅寺 というお寺がありました。それが後に弥富の蒲原かもはらという所に移されて妙悟寺といわれました。 益田氏が須佐に移られて、妙悟寺を今の所に移らせて大薀寺と呼ばれたのです。そして益田家の代々の位牌をお祀りするお寺となりました。 そして益田家25代の就恒なりつねのとき、子どもの七兵衛という人が幼くして亡くなったので、その霊をとむらうために、 妙悟寺のあった所にお寺をたてて全柳寺とされたのです。全柳寺という名は、 亡くなった子どもの法名が全柳居士ということから名づけられたのです。 今からおよそ310年余り前の寛文という年号のころのことです。また、この全柳寺には、あまり世に知られていなかったのですが、ちょっとしたお話があります。 それは明治天皇のおじさまにあたる中山忠光なかやまただみつという方が、幕府を倒そうと、文久3年、1863年、 奈良県の十津川という所で、天誅組てんちゅうぐみを組んで兵を挙げられました。 だけど戦は敗れて、吉野の山などを逃れ歩いて、大阪から船に乗って、瀬戸内海を西に逃れて、三田尻の近くにあがり、山を越えて阿武郡の生雲村に立ちより、 そこの大庄屋の大谷家で一泊されました。大谷家といえば、吉田松陰の弟子で勤皇のために活躍して、禁門の戦で京都で戦死したあの有名な久坂玄瑞のお母さんの実家ですが、 久坂玄瑞は何度も須佐にきています。忠光卿はそれからまた山を越えて、嘉年を通って弥富に入り、全柳寺の向かいにあつたお医者でもあり庄屋でもあった松井家に一晩泊まって、 あくる日から20日間ほど全柳寺に隠れておられました。元治元年の10月10日から30日までのことです。 そのときは須佐の益田家からも学者の金子新三、 剣術の名人多根卯一郎が行っておもてなしをしたようです。そして食べ物なども須佐から運んだということです。 けれど幕府の追求が激しくなって、20日たった朝早く、一行の人は急に弥富を発って去って行かれました。そのときは全柳寺のお坊さんのはからいで、 皆お坊さんの衣に姿をかえて出ていかれ


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たそうです。そのとき忠光卿がいつも着ていられた著物が残っていて、全柳寺のお坊さんはそれを切って、 そのころいろいろお仕えした人たちに配ってあげたそうです。もらった人は尊い方の着られたものだというので、 病気のときなど、それを少しずつ切って、お茶に煎じて飲んだと伝えられています。それから弥富を去られた人たちは西の方をさして落ちのびられ、 下関では勤皇のために尽くした人たちを大切にした大商家の白石家などにも行かれましたが、またあちこち逃れて、 今の豊浦郡の田耕たすきという所で討手のために闇討ちにされて亡くなられました。まだ21才の若さでした。 今は下関の綾羅木という所に中山神社として祀られています。弥富で書かれた歌なども、中山神杜におさめられています。 お話が弥富の全柳寺の方にとんでしまいましたが、大薀寺の方に話しをもどしましょう。大薀寺の裏山には育英館の第一代の館長の 品川希明や二代館長の波田兼虎など、 そのほか明治維新に活躍した人の墓が沢山あります。また、大薀寺には鐘が一つありますが、あの鐘に浮き彫りにされている文の中に、 もう古くて全部の字は読めませんが、永享という字が見えます。永享という年号は今から560年ぐらい前ですから、ちょうど戦国時代にあたります。

それから横屋丁には心光寺があります。益田元祥が須佐に移ってこられたころは、誰もお坊さんのいないお寺でしたが、 ちょうどそのころ鳥取県の米子にある心光寺というお寺の和尚が須佐に来て、益田家に泊まっていたので、そのまま須佐にとめてこのお寺の住職にされ、 それで名前も心光寺と名付けられました。お寺も山のかげにあって目だたないので、幕末の勤皇の志のある人がよく集まっていろいろと話を交わしていました。 吉田松陰の松下村塾の久坂玄瑞だとか、明治になってはじめての総理大臣になった伊藤博文品川弥二郎そのほか、明治維新に大活躍をして、後に明治政府の中心になった人も、そのころ何度


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もやって来て、話を交わした所です。須佐の最後の殿様だった益田親施が徳山で切腹されたとき、家来の大谷 河上範三津田公輔、 この人はもと町長をされた津田五百名つだいおなのお父さんですが、こうした人たちが中心になって殿様の無実の罪をはらそうと、 この心光寺に集まって回天軍をつくっていろいろ話合いました。そのときの同志の人たちの 連判状といって、約束を交わしたしるしに名前を書きならべて、 血判を押した書きものが、今も残っています。そのことがばれて、反対派の人たちに捕らえられ、大谷助は浄蓮寺で河上範三は法隆寺で切腹させられました。 大谷助がそのとき切腹した短刀は今も子孫の人の家に残っていて、この前まで資料館に展示されていました。 助の墓は心光寺の裏山に、 そして河上範三の墓は浄蓮寺の裏山にあります。また津田公輔は、そのときまだ19才だったので切腹は許されました。大谷助は松下村塾で学んだとき、 成績もよく、特にあの有名な士規七則を書いて与えられました。これも大谷家に残っていたものを、今はお借りして資料館で見られます。 そして、そのとき一緒に学んだ他の七人の人たちも、よくやったという意味のことを書いたものをくださり、これも一緒に資料館で見られます。 松陰先生の士規七則は、印刷したものはたくさんありますが、実際に書かれた本物は今ではちょっと見あたりません。
心光寺はその後、萩の乱を起こした前原一誠が須佐にきて、ここで須佐の同士をつのりました。萩の乱というのは、 前原一誠は明治政府の高い地位についていたのですが、ほかとの意見があわず、政府をやめて萩にかえり、そのころ幕府を倒すために戦った人たちも、 戦いが終わると職を失いました。そうした人たちは不満をもっていましたので、そういう人たちに呼びかけて同士を集めたのです。 そのとき須佐の同士も百人ほどが萩にいって一番勇敢ゆうかんに戦いました。ですから、今でも「萩の土塀はスサでもつ」という言


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葉が残っているほどです。スサというのは、土塀や壁をぬるとき、壁土がくずれないようにわらを切ってまぜます。 スサとかスサリとかいいます。萩の土塀というのは萩の武士の住んでいる屋敷のことで、つまり萩の武士ということです。 須佐からいった人たちがあまり勇敢に戦ったのでこんな言葉が生まれたのです。萩の乱はやがて政府の軍隊に討たれて、 前原一誠を始め主だった人は罰せられて処刑されました。そして、須佐で同士を集めたとき、おもに中心になって斡旋したのは、 前にいいました剣道の名人多根卯一郎と、そのころ育英館の館長だった坂上忠介という人です。 それで、この2人も2年ほど謹慎を命ぜられました。後に許されて坂上忠介は明治になって新しく学校の制度が定められたとき、育英小学校の最初の校長先生になりました。 多根卯一郎の墓は大薀寺にありますが、坂上忠介の墓は京都にあります。

それから河原丁には紹孝寺があります。これはお寺としては須佐では一番古いお寺だといわれていますが、 何度も宗旨しゅうしがかわって、およそ3百年ほど前の元禄時代、15代の益田就恒のときに、今の紹孝寺になりました。益田家の代々のお墓は、 笠松山の麓の、おとうのはなの上にありますが、就恒とその一族の方たちのお墓は紹孝寺の裏の小高い所にあります。 高山には昔 道昌庵どうしょうあんというお堂があって、後に瑞林寺となりましたが、 後に紹孝寺に移されて一緒になりました。紹孝寺には立派な山門や川の上をおおうように龍のうよな横にのびた松がありました。それが火事で焼けたり、台風で流されてしまいました。惜しいことです。

松原には浄蓮寺があります。あのお寺はもと江崎にあったのですが、後に須佐の上三原に移され、その後今の松原に移されました 。上三原にお寺のあった所は今でも古浄蓮とよばれています。今の建築家の吉田恒一さんのお家のある所です。浄蓮寺がまだ上三原にあったころ、 四代目の和尚さんの西教という人が


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隠居をされて、もう一つ向こうの谷を隔てた坂の中程に、小さなお寺をたててそこに住んでおられました。今では寺のあったところは田になっていますが、 そこは今でも寺田と言われています。そして東側の少し下がった所には古い墓石が寄せ集められて今でも残っています。浄蓮寺が今の松原に移ったとき、 そのお寺も一緒に移ってきて、松原の川の向こうの丸嶽山まるたけやまの麓にお寺をたてて、 法隆寺と呼ばれました。明治6年に浦中の今の所に移されたのです。法隆寺で有名なのは、 海の方に向かったところに大きな石碑がありますが、あれは明治37、8年の日露戦争のとき、 そのときは須佐でも大砲の音が聞こえ、沖浦などでは窓ガラスが壊れた所もあると、そのころいたお年寄りの話が残っています。 そのときに沈められたロシヤの軍艦オーロラ号の副艦長、機関士、下士官や水兵の33人がボートで須佐にたどり着きました。 ちょうど須佐の漁師の青木音蔵という人がイカ釣りに出ていて、見慣れぬボートがいて、何だかわけのわからぬ言葉で叫んでいるので、 びっくりして帰ってきて役場と駐在所に知らせました。舟を出してそのボートを見つけて連れて帰り、須佐では一時大騒ぎとなりました。 ちょうどその日はいわしの大漁があって浜はおおにぎわいでした。すぐ前に戦争のために兵隊を送る船が玄海灘を渡るとき、 ロシヤの軍艦に沈められて全員が犠牲になった後でもあり「なんだ、ロシヤの兵隊か、みんなぶち殺してしまえ」といきまく人も多かったようです。 役場の人やお巡りさんがみんなをなだめて「戦は国と国との戦いで一人ひとりには罪はない。みんな自分の国のために戦ったのだ」と言い聞かせて、 法隆寺に収容して、着るものや食べるもの、薬を与えて丁寧にいたわりました。 そのとき見張りをしていた大谷次郎吉の子供の3才になる倫一という子をロシヤの水兵の一人が、抱き上げて頬ずりをして涙を流したのを見て、 この人も国に幼い子供を残してきたのだと、思わず見ている人の同情を誘ったということです。けれども何しろ言葉が通じません。ち


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ようどそのとき、萩の中学校にいっていた大谷清記が休みで須佐に帰っていました。この人は前にお話した大谷樸助の孫にあたる人ですが、 とても良く勉強のできた人で、英語も上手でした。ちょうどロシヤ兵の中にも、前にイギリスに留学したこともあって、 英語の話せるカエランドスキーという人がいたので、それでいろいろな事情がわかったのです。ロシヤ兵たちは「日本は野蛮国だと聞かされていたけれど、 こんな小さな漁村でも、文化も進み人情も厚い」とカエランドスキーの兄さんが新聞記者をしていたので、そのことを新聞に書いて欲しいと書き送っています。 彼等は大変感謝しながら、門司の収容所に送られてゆきました。そして姿が見えなくなるまでいつまでも帽子を振っていたそうです。 そのときのことを記念してあの石碑が立てられたのです。

それから、中津には笠松神社があります。あのお宮は前にもおはなししましたように、 毛利藩の最後の家老33代の益田親施が、 毛利氏にわって32才で切腹した後、家来たちがお祀りしたお宮です。あのお宮の前の鳥居や石灯篭には、 元治げんじ3年とか元治4年という日付が刻まれています。だけど歴史の上ではそんな年号はありません。 元治は2年の4月に慶応の年号に変わっているのです。けれども須佐の家来たちは、慶応というのは将軍の慶喜に頭を下げるという意味になるというので、 主君の無念さをしのんで、どうしても慶応という年号を受け入れることができなかったのです。そのころの須佐の人たちの心意気が忍ばれます。 元治の年号が刻まれた灯篭は、美祢郡の大田おおだ町に金麗社きんれいしゃというお宮がありますが、そこに一つあるだけです。 大田という所は高杉晋作のひきいる勤王の兵が反対軍と激しい戦をした所です。

高山には前地の一番高い所に権現様というお宮があります。昔は海岸近くの前地にあったのですが、 戦争があったり、火事にあったりなどで、今のところに移られたと伝えられています。昔はおやしろもいくつか


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あってとても立派だったと伝えられています。人々の信仰も厚く昔の旅をする道三原 から高平を通って、今の中学校のあるあたりから松原へ ぬけるのが道筋だったのですが、あの高平の高い所に花立てという所があります。 そこからは高山の権現様がよく見えるので、旅をする人はそこから花を捧げて、はるかに拝んで旅の無事を祈ったということです。

また、高山には黄帝様と呼んでいるお社があります。以前は黄帝祭りとか高山祭りといって、 たくさんの人がお弁当やお酒をさげておまいりして賑わったものです。 黄帝様というのは、中国の今から5千年ほど前の伝説の神様です。そんな神様が祀られているのはおそらく日本でただ一つでしょう。 そんな中国の神様が、どうしてあんな所にお祀りされたのでしょうか。黄帝様は昔、池に浮かんだ木の葉にありが集まって漂つているのを見て、 船を造った方だといわれています。航海する人や漁業をする人を守る神様だというので大変崇められてお祀りしたのだといういい伝えがあります。 ですから沖を行き来する船も、高山の沖を通るときには、帆をおろして遥かに拝んで通ったといわれています。ですが、 黄帝杜がたてられたのには別な考え方もあります。この山陰地方の沖は対馬つしま海流といって、西から東に海流が流れています。 また季節風といって西から東にほとんど年中風が吹いています。ですから、大陸の人たちが海で難破すると、たびたびこの北浦に流れ着いたことは、 いろんな記録にもたくさん残されています。そんな人たちが帰るにも帰られずその土地に居ついて、 ふるさとの国をしのんで黄帝様をお祀りされたのではないだろうかという見方もされています。 黄帝様は中国では大変崇められていて、方々に黄帝廟こうていびょうがたてられています。ちょうど日本のお宮のようなものです。 大津郡の向津具むかつく半島には楊貴妃ようきひの墓というのがあります。楊貴妃といえば、 唐の国の玄宗皇帝げんそうくていがたいそう可愛がられた素晴らしく美しい人で、西洋のクレオパトラか、東の楊


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貴妃かといわれた人です。皇帝は楊貴妃を可愛がるあまり、政治をほったらかしたので、国の中が乱れて、 とうとう安禄山の乱という謀反むほんが起こりました。玄宗皇帝は楊貴妃を連れて都を逃れましたが、こんなこ とになったのもあの楊貴妃のためだというので、途中の山の中で殺されてしまいました。その魂が飛んできて、 あの向津具半島に鎮まったのだなどと伝えられていますが、この伝説もどんなものでしょうか。向津具半島も日本海につきでていて、 大陸に近い所ですから、きつと多くの流れ着いた人も沢山いたでしょう。そうした人が、あの美しい楊貴妃をしのんで、 墓を作ってお祀りしたのではないでしょうか。そう考えると何だか黄帝様とよくにた話になります。

それから、横屋丁にある育英小学校は、今からおよそ260年ほど前の享保のころに、27代の 益田元道もとみちが、 須佐の若い人たちを教育しようと、育英館をつくられました。萩の明倫館ができたすぐ後のころだと思われます。 そして、初めの館長に品川希明しながわきめいという人がなりました。二代目には 波田兼虎はだかねとら という人がなり、この方たちのお墓は大薀寺の裏山にあります。今の下関のシーモール杜長の波田兼治さんは波田兼虎の子孫です。 波田兼虎という人は大変な学者で、そのころ朝鮮から政府の使いが日本にきて、下関でもてなしたとき、 朝鮮の人たちもそのすぐれた知識ぷりに舌をまいて驚いたといわれています。その後三代目の館長には山科真通やましなしんつう、 四代目は小国融おぐにゆう、五代目には小国融蔵おぐにゆうぞうとなり、 六代目に坂上忠介さかがみただすけがなりました。坂上忠介は育英小学校の初代の校長先生になった人です。

さて、マテカタには浄蔵貴所があります。ここにも古いいい伝えがあります。浄蔵という方は嵯峨天皇の孫にあたる方がお母さんで、 幼いときから大変かしこく、成長するにつれて仏の道に入り、修業をかさねて国中を旅して、多くの人を導き、 難儀をしている人を見れば救って歩かれたと伝えられています。最


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後に須佐にこられて高山に登られましたが、高山には黄帝様がおられたので、マテカタに移って多くの人を導き助けられたそうです。 今でも土地の人や須佐をはじめ近所の町や村からもお詣する人がたえません。益田の殿様のたてられた灯篭もありますし、 隣の奈古や江崎や嘉年や徳佐などの人たちが石段や手摺りに名前を掘り込まれたのを見ることができます。岩の間から清水がきだしていて、 その水で目を洗うと大変良くきくというので、還くからもお詣りする人が多かったといわれています。あまり広くは知られていませんが、珍しい所だといえます。

それから二軒屋に行く途中の狩又という所の道端みちばた唐人墓があります。 あの墓は今から260年ほど前の享保11年の8月に1隻の中国の船が須佐湾に入ってきて、 水や食べ物を求めました。そのころは鎖国といって、外国とは交際しないというのが幕府の方針でした。外国と交際できるのは、そのころは中国とオランダだけで、 それができるのは長崎の港だけでした。中国は日本に近いのでたくさんの船がやって来て、さかんに貿易をしていましたが、その数が余り多いので、 幕府は信牌しんぱいという手形をだして、それを持っている船でないと取引ができないようにしました。それで取引のできない船はこっそり日本海の方にまわって、 密貿易をしようとしたのです。それが時化しけにでもあったのでしょう。須佐湾に入って来たので、須佐では大騒ぎになりました。 須佐からはすぐ早使いをだして報告すると、すぐに追い払えということなので出ていくようにいいましたが向こうもウンとはいいません。 それで萩からも応援の兵士がかけつけて来て、唐船に攻撃をしかけました。向こうの船も大砲などをもっていて抵抗します。何しろ唐船は高さが4メートル、 長さが20メートルもある船です。須佐の方は小さな漁船ですから、まるで蟻がたかるようで手におえません.そのとき攻撃をかけたのは、 萩からの応援を含めて百隻近い船だったようです。けれ


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ども小犬の群が牛にぶっつかっていくようなものでどうにもなりません。そこで船に薪を積んで風上から火をつけて船にぶっつけるようにしたのですが、 第1回目は向こうの船が長い棒で突き放したりして成功しませんでした。それでも2回目には成功して相手の船に火が移り、燃え上がって沈没しました。 ちょうど船が入ってから3日目のことだといわれます。そして焼けた船の船員たちの死骸を葬ったのが唐人墓と呼ばれているのです。 また、あそこにはまわりに沢山のお墓があります。昔は須佐はよい港だというので、北前船といって、大阪や長崎や対馬など、 いろんな所から日本海を通って、遠く北陸の新潟や秋田の方に貿易にいく船が必ず行き帰りによったものでした。 ですから須佐の港も賑やかなものだったそうです。須佐でもそういう船をもっていました。そうした人が途中で時化にあったり、 病気で死んだとき、そんな人を唐人墓のまわりの土地に葬ったお墓です。ですから墓石には大阪だとか長崎だとかいろんな人のいた国の名前が刻んであります。 あの唐船焼打事件は、須佐はじまって以来の大事件でしたし、この北浦地方としても大変な出来事でした。たった1隻の船といっても、 外国の船とこの須佐湾で戦ったのははじめてのことですから。そればかりではなくて、この山陰の海にのぞんだ所では大変なことだと思われました。 隣の島根県の浜田藩などからもわざわざ使いをよこして、そのときの様子を聞きにきました。 いつなんどき自分の所でもそんな事件がおこらないとはかぎらないということからでしょうか。このことは幕府にも詳しく報告されましたし、 その時の船の配置や攻撃をしかけた手順などを書いた絵も残っています。

それから、唐津では須佐焼きが焼かれています。朝鮮の焼き物の技術が伝わったものですが、萩焼きも同じ朝鮮の系統ですが、 いろいろ調べてみると全く違った系統だということがわかりました。いつごろから焼かれはじめたのだろうかといろいろ研究されているのですが、 そのはじめのころはまだはっきりわか


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っていないのです。それは今から240年ほど前の延享3年に大火事があって昔からの書いたものがほとんど焼けてしまったし、 また150年ほど前の天保元年には大水があって、唐津の部落はほとんどが家も何も流されてしまいました。 そんなわけで証拠になるものがほとんどなく、はっきりしたことはわかりませんが、窯の古い跡や焼き物の古いかけらを掘って調べるうちに、 4百年以上も前からあったのではないかということがわかってきました。そんな古い焼き物窯に益田元祥が目をつけ、 須佐の産業の一つにしようと奨励されて、須佐焼きは盛んになりました。そして次々に大きな窯を三つも築いて沢山の焼き物をつくって、 北前船などで遠く新潟県や秋田県の方にまで売り出して、帰りにはあちらの米を買ってくるというようなこともおこなわれました。 今でも新潟県や秋田県の昔の港の古い家にいってみると、古い須佐焼きの徳利や器を見ることができます。大薀寺の過去帳に、 唐津の土谷さんの先祖の朝鮮から渡ってきて、名前を土谷六郎右衛門と改めた人の名が残っています。 この人は慶安3年9月に86才でなくなったと記されていますから、今から340年ほど前のことです。また、唐津の伊藤さんの先祖は、 日本でも一番古くから焼き物が焼かれた一つといわれる岡山県の備前焼きの焼物師の子孫で、その系図は今も残っています。 伊藤さんの祖先はあの女性の絵で知られている竹下夢治の岡山県の牛窓という所から出たと書いてあります。 それも土谷さんの祖先とほぼ同じころに須佐に来られたようです。唐津の斎藤さんの祖先ははつきりしたものが残っていないのですが、 どうも愛知県の焼き物の本場の瀬戸、焼き物のことを「せと」と言います。たぶんそこから移ってきたのではないかと思われるふしがあります。 こうして須佐焼きはたいそう栄えたものでしたが、明治から大正・昭和になるにしたがって衰えました。 それでも昔の伝統を守つて今でも焼かれており、近ごろはだいぶ有名になってきました。古い窯の跡は、 山口県の文化財に指定


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されています。

昔、益田家は今の益田市にある七尾城の城主で、もとは今から870年ほど前に石見の国、今の島根県ですが、 そこの一の宮という今の浜田市の向こうのあたりにきて、 国司こくしという、その地方をおさめる役目の人で、そのころは御神本と名乗っていました。後に益田に移って七尾城を築いて城主となって、 それから益田という名前を名乗るようになりました。そして津和野には一本松城に吉見氏がいました。この吉見家は、 源頼朝の弟の範頼が頼朝にきらわれて討たれてしまいました。そのとき、範頼には幼い子どもがいて、その子も殺されようとしたのですが、 頼朝のおばさんにあたる比企びく禅尼ぜんにという尼さんが、かわいそうだというので、命乞いをして、 自分の領地の今の埼玉県に連れて帰ってお寺にあずけました。 そしてその土地を吉見庄といったので、大きくなって吉見の名を名乗るようになり、その後、今の石川県の能登に移りました。 そのころ中国では蒙古の元の国が日本を征服しようと押しよせてきました。九州に攻めてきたのですが、二度とも大風にあって船が沈んでしまい失敗しましたが、 そのとき吉見氏はこの山陰地方の警備にあたって手柄があったので、今の鹿足郡をもらって津和野に一本松城を築いて城主となりました。 そして、益田氏と吉見氏はお互いに勢力を争って、この阿武郡一帯も取ったり取られたりして戦がくりかえされました、ですからこの須佐にも、 といってものような所があちらこちらに残っています。弥富は津和野に近いので、もっと沢山砦の跡があります。 こういった城の戦いの麓などに「三界万霊等」という石碑があちらこちらにたてられています。三界というのは、 仏教でいう過去と現在と未来のことをいつた言葉です。数はわからないけど、たくさんの人を葬ったという意味です。ですから、 五重の塔という土へんに答えるという字とは違って、等はナドという字が書かれています。大薀寺の門の右側にお地蔵さん


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が並べて祀ってありますが、あそこの一番右のはしにもあります。そのほか、懸の城の麓や 三原弥富にもたくさんあります。 みんな戦国時代に戦って討ち死にした人を、後の人たちがおとむらいしてたてたのだと思われますが、須佐にも笠松城といって、 笠松山の上に砦がありました。また須佐駅のプラットホームの向こうには懸の城があり 江崎との境のこちらから行くと右側の山は犬伏山といわれていますが、 そこには犬伏城という砦がありました。伝えによりますとどこもここも随分激しい戦いがあったようです。 笠松城では、益田の家来の寺戸大学が守っていて 、大激戦のすえ、守りとおしたというようなことも書き残されています。弥富や鈴野川などは須佐よりもっと津和野に近いので、 もっと激しい戦がくりかえされました。

それから、入江には久原波止場があります。これは久原房之助が莫大なお金を出して築かれたことは、波止場の上に石碑もたてられていますから、 ご存知と思います。久原家は代々浦庄屋の家柄で、明治2年、萩で育たれました。いろいろ苦労したあげく、後に出世して、 明治から大正・昭和にかけて政治や経済など、日本を動かした人になられました。たいへん親孝行な人で、大正元年にお母さんが70才のとき 「須佐はどねえなっとるかのう」といわれたそうです。たぶんふるさとの須佐を思っていわれたのでしょうが、 親思いの房之助は、お母さんを連れて須佐に帰って来られました。でもそのころは鉄道もなく、道も悪くて、汽車で小郡まで来てもあとが大変です。 それで大阪商船に乗って、自動車も積んで、須佐の港にお母さんを連れて帰って来られました。そのころは、須佐では自動車などというものは見たこともないので、 大騒ぎになりました。そして須佐では房之助を迎えて大歓迎会がおこなわれ、その時の写真が今でも残っています。 久原波止場は今のようにクレーン車やブルドーザーがあるわけではなし、ほとんど人の手でつ


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くられたものですから、大変な大工事といえましょう。今でいえば、おそらく何億円のお金になることで しょう。そうして須佐の産物や弥富の熊野鉱山の鉱石とか、島根県の笹が谷銅山の鉱石や、 そのために使う石炭などを積んだり運びこむなどたいへん役にたちました。そのころ石炭を運ぶのに使われた船を五平太船とか、それを運ぶ馬車を五平太車と呼んだようです. 五平太という言葉はどこから生まれたのでしょうか.須佐だけでなく、方々でも使われていたようです。房之助はあの付近の山なども寄付し、 今では久原公園と呼ばれています。この前、町でも整備されて、山ロ県の植樹祭がおこなわれ、県知事もこられま した。いずれ美しい花と、緑と海のながめの、すばらしい公園になることでしょう。また、房之助は、久原奨学資金といって、 須佐に育ったすぐれた子どもを勉強させるために、お金を出して学校にいかせたり、大変須佐のためにつくされました。須佐町では名誉町民としてその功績をたたえています。

それから、須佐町にはほかにもいろいろなものが残されています。その一つに、上三原には田植えばや しがあって、お祭りのときなどよく見られますが、よく伝えられていて、今では山ロ県の無形文化財にな っています。また、三原には石見神楽がありましたが今ではあとを継ぐ人がいません。二つとも益田氏が 須佐に移ってきたとき、一緒についてきた農家の人たちによっておこなわれたものです。そのころの神楽の面なども、大切に残されていますが、こうしたものも是非復活させたいものです。

それから、松崎八幡様のお祭りには、おみこしが渡られるとき、しやぎり車が出てたいそう賑やかで、 昔は中津などにもあって、それはたいした賑わいでした。でも、今は松原と本町の二台だけでさびしくな りましたが、いまでもお祭りのときは、この二台の車が出されて、三味線や踊りなども続いて、昔を思い 出させてくれます。この二台のしゃぎり車は須佐町の文化財に指定されています。


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浜の弁天祭りには、神さまのおみこしが弁天島にお移りになるので、神主さんや氏子の人たちが船に乗ってお守りして海を渡ります。 めいめいお船歌やかけごえをかけながら海をわたりますが、今でも毎年おこなわれて、須佐の名物の一つになっています。

須佐のことはいろいろほかにもたくさんありますが、その話はまたのことにして、こんどは弥富の方をみてみましょう。須佐から弥富に行くのには、 昔は金山谷の谷を川沿いにたどって、谷の一番奥から坂をのぼって、烏越という山の峯の低い所、この鳥越というのも、 あの山の峯つづきの一番低くなった所で、渡り鳥がそこを通ったので、そんな名前がついたのでしょうか。 昔は猟師があそこで待ちかまえて鳥を打ったといわれています。また、唐津の奥の谷の奥から山を越えて、 弥富の田の口という所にぬける二つの道がありました。 田の口道の上りぐちには、今も道しるべの石が残っています。今の金山谷峠の道は、明治30年につくられて、交通も便利になり、 熊野鉱山の鉱石などもどんどん運び出されるようになりました。でもけわしいずいぶん曲がりくねった道です。国道315号線になっていて、 新しくトンネルを掘ったり、谷と谷の間には橋をかけて渡るなど、今さかんに工事が行われています。 これができると大きな車もさかんに行き来できるようになります。須佐から徳山までが315号線ですが、 この道は山陰地方と山陽地方を結ぶ大事な道となります。この道が通れるようになるのは今から2、3年先になるようです。 弥富は昔弥富村といわれて、一つの村でしたが、昭和30年に須佐町と一緒になって大字弥富になりました。 ですから元の須佐町も大字須佐になりました。弥宮村は昔弥富上村下村に別れていて、毛利氏が長州に移ってくると、 上村と下村の城ケ谷は毛利氏の直々のものとなり、残りの下村の方は益田氏が領地としてもらいました。これは、隣の今の阿武町ですが、 もと宇田郷村の白須山を中心として、たたらとい


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う鉄を作る所があって、中でも惣郷にはその跡がよく残っているので、発掘されて今では国の史跡に指定されています。 鉄を作るのには、その鉱石を溶かす莫大なたき木がいリます。そのたき木をとるために毛利氏の直々の所にされたのです。 今でも真名板山という5百メートルもある高い山の中腹の4百メートル以上もある所に、 たたらを取った鉄の鉱石のかすのかたまりが積み重ねられているのを見ることができます。あんな高い山の上まで、鉄の原料をどうして運んだのでしょうか。 益田家でもさかんに鉄を作りましたが、これは鈴野川を中心とした所ですが、方々にちらばってありました。ですから、 そうした所は鉄にちなんで金の名前がついています。たたら床とか、工事をした所の門のあった所をかんぬき場だとか、今の金山谷にも金の名がついています。 昔はあの谷の上でも鉄を作っていたようです。ですから、金の字がついたところはたいてい鉄を作った跡と思ってもよいようです。そして、 そうした谷川の中には、たいてい鉄を溶かした屑のかたまりが見られますからよくわかります。昔のことですから、鉄も十分に取るわけにもいかず、 重いので、その屑が今でも流されずに川底に残っているものと思われます。

昔は弥富の中心は今の丸山八幡様の付近で、と呼ばれて、 昔の道の本道はこのあたりを通っていました。それで市といわれたのです。 それが弥富川に沿って新しく道が付けられて、人々も次第に集まって、家も立ち並んで、あのあたりが賑やかになり、今では弥富の中心になりました。 それで昔の市に対して新市と呼ばれるようになったのです。今では役場の支所や公民館や郵便局や農協や診療所などがみな集まつています。 お店などもみな新市を中心としてあります。そして新市のとなり合わせの北側には小学校や中学校もあります。蒲原という所になります。 それからもう少し入った山側に全柳寺があります。それから、丸山八幡様ですが、これにもおもしろいいい伝えがあります。昔、清太夫という人が野原を


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歩いていて、そのとき冠をつけた一つの木彫のお像を見つけました。それでお堂をたててお祀りしました。 今でもその土地を八幡原と呼んでいます。田別当から急な坂を登ると阿武町に入りますが、そのあたりのじめじめした原っぱです。 先年まで須佐町でこの土地を借りて牛をたくさん飼っていたことがありました。そのお堂が後に弥富の宮の尾という所に移され、 そして今のお宮のある所に移されて、丸山八幡宮と呼ばれたのです。

それから一万には西秀寺があります。もと楢木にあったのですが、 その後今のに移され、そして今の所に移されたのです。 この一万という所はいわれのある所ですが、そのことは後でお話しましょう。弥富はもと、上村と下村に別れていたのですが、 明治に一つになって弥富村になりました。そして、その後鈴野川も一緒になって弥富村になりましたが、それが昭和30年に須佐町と一緒になって、 須佐町大字弥富となったのはご存知のとおりです。

さて、須佐の時にもお話しましたが、この阿武郡一帯は、益田の七尾城主の益田氏と津和野の一本松城主の吉見氏が互いに勢力争いをくりかえしたことは前にもお話しました。 この弥富のまわりもあちこちに城といっても砦のようなものですが、いつもは平地に住んでいて、いざ戦争ということになると、 そこにこもつて戦ったのです。弥富では小川の平山との境にある星の城というのが知られています。竹が多いので、竹城ともいわれています。 たいてい城のあった山には、矢竹といって弓の矢にする竹を植えていたのでしょう。城のある山の頂上近くには、そんな竹が今も生い茂っています。 星の城は小川の平山から登るのが一番近いのですが、それでも大変急なけわしい所です。 ここには津和野の城主吉見正頼の腹ちがいの弟の吉見阿波守がこもっていたのですが、町野隆風がいくら攻めてもなかなか落ちません。そのとき町野


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勢が陣をしいていた山は敵陣ケ岳と呼ばれています。城もなかなか落ちず、年も暮れになりました。そこで隆風ははかりごとを考えて、 使いの者を城におくり「いよいよ正月も明日に迫ったので、ここは戦を休んで正月を祝うことにしようではないか」と申し入れました。 おたがい戦つづきで疲れていたので「それはいいことだ」と受け入れて、大晦日の晩から正月の朝にかけて酒盛りをして休んでいました。 ところが隆風の軍は、密かに回り道をして急に城に攻め込みました。不意をつかれた城方はさんざんに討たれて、ちりぢりに落ちのび、 たくさんの戦死者を出して城は落ちました。そのときの城の兵士が多く逃れた所を落山と呼ぶようになったといわれています。 また、城を攻める兵士が登った谷の麓を城ケ谷というようになったといわれます。それから、西秀寺のときにちょっと話ましたが、 あそこの前に木が4、5本しげつていて、一万といわれています。土地の人の中には、これもいい伝えでしょう「一万の鼻」と呼んでいるようです。 それは昔戦で敵を討ち取ったとき、一々首を腰にいくつもぶらさげて戦場をかけまわることはできません。 それで敵を討った証拠に耳をそいで戦が終わってから大将に見せて褒美をもらったのですが、耳は二つついています。 ですから中にはずるい者がいて、両方の耳を切り取って、私は二人やっつけましたなどと不心得の者も出てきたので、 鼻をそいで証拠にするようになりました。それで「一万のはな」はそうした鼻を埋めて供養したので一万の鼻と呼ぶようになったというわけです。 そうした考え方もあると思いますが、西秀寺の前はつき出ていて、道がそこで急に曲がるほどとびだしています。 あのようにとび出たところを「はな」といいます。「あのはなをまがった所が私の家じゃ」とか時には「あのドギをまわった所」ともいいます。 ですからどちらの意味がよいのか、これは受け取る人によって違うと思いますが、あなたはどちらを取られますか。 そしてあそこには前にもお話しましたが「三界万霊等」という大き


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な石碑がたてられています。いろいろたたりがあるというので後の人が供養したものです。

それから弥富という名前のいわれですが、これにもいろんないい伝えがあります。ずっと昔ここの大金持ちが夫婦で京都に旅をして、 そのとき道端に赤ん坊が捨ててあったのを、拾って帰って育てました。赤ん坊は美しい賢い女の子になりました。 そのころ有名な女の歌人の泉式部という人が諸国を旅をして、そのお金持ちの家で泊まったところ、これは前に自分が生んだ子で、 わけがあって捨てたことがわかって、都に帰ってたいそうなお礼を送ったので、それで村が富み栄えたので、弥富という名がついたのです。 弥という字はいよいよとも読みます。今の見坂には、式部堂というお堂もたてられました。 だけど、この話は日本中のあちらこちらに幾つもありますので 、この話はどんなものでしょうか。この弥富という所は、須佐から来れば金山谷峠がありますし、 小川の方からは道切峠梅の木峠をこえなければなりません。 また、津和野の方からは、芦谷の峠下り谷の峠があります。福賀から来ても大きな峠があります。 旅をする人がやっとその峠を越えると、人家のある村が見えるので、ホッとして宿見(やどみ)といったというのが、 どうもあてはまるのではないかともいわれています。それから鈴野川ですが、 昔は鈴野川という一つの村でしたが、それが明治になって、弥富と一緒になって弥富村大字鈴野川になりました。 そして昭和30年に須佳と一緒になって、須佐町大字鈴野川になりました。この鈴野川にもいろいろいい伝えがあります。 昔鎌倉幕府の源頼朝のころ、須佐の高山の麓では馬の放し飼いをしていて、その馬の一頭が逃げ出して鈴野川まで来て、 毎日そこらを歩き回るので、馬の首についた鈴がチリンチリンとなるのでこの名前がついたという話もあります。 でも放し飼いの馬の一つひとつに鈴をつけたのでしょうか。鈴野川にはきれいな川が流れています。清いという字は「すず」とも読まれます。 清い川の流れている里ということで


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鈴野川」と呼んだというのをどうも信じたいのですが、あなた方はどちらをお取りになりますか。鈴野川には小学校があります。 たった15人に足るか足らない小さな学校ですが、人数が少ないだけに、いろいろ不自由ですが、良くまとまって、生徒もとっても礼儀正しく、 道ですれちがっても必ず挨拶をしてくれて、とても気持ちのよい所です。町では健康増進センターとして 中河内にバレーボールもできる立派な建物をたてて、地元の人たちに喜ばれています。鈴野川をずっと川に沿って登っていきますと、 馬取とか阿武台があります。ここも鈴野川の一部ですが、 面白い地名ですね。このあたりは前にも話ましたたたら製鉄が盛んにおこなわれた所です。 今でも川の底から鉄を溶かした屑の固まりがよく見られます。 昔のことですから、十分に鉄が取れず、その固まりはとても重くて、大水がでても流されずに、幾らかはのこっているのです。 今でもたたら床とか金町という名が残っていますし、たたらをとった鉄を溶かした後や、溶かした鉄を流した溝が残っています。 途中に馬の墓というのがあります。道端の上に、2尺5寸四方の自然の少し細長い石ですが、 これは昔死んだ馬を埋めた所だといわれています。 昔市原という人がここまで馬をひいてきて、道端の木につないで、この石に腰かけて一休みしていたところ、急に馬が暴れだして、 病気になって倒れました。驚いて、付近の人に手伝ってもらって介抱をして馬はやっと助かりました。 馬の墓の石に腰をかけたので、埋めた馬のたたりだろうと、村の人はこの石にお供えものをして供養したということで、 それは今も続いているということです。
阿武台の後の山の高い所に、すぐ上の峯を越えると隣の阿東町の嘉年になりますが、そこには前から 熊野鉱山がありました。ここから取れる鉄の鉱石は大変すぐれていて、掘り出されたものは、 須佐の久原波止場から船でおもに九州の八幡製鉄所に送られました。けれども惜しいことにその鉄の鉱石の固まりが所


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どころに散らばっているので、穴を掘ってそこに行きつくのに、大変な手間と費用がかかって引き合わないので、昭和31年ごろ山をやめてしまいました。
鈴野川の東側の、今は津和野町のうちに入っていますが、以前は長野村でした。そことの境は450メートルほどのけわしい峯が続いていますが、 その上に火の谷城という城があります。ここは一の丸、二の丸や石垣も築かれていて、いちおう城の形をしています。 ここには吉見家の一族の長野美作守という人がいて、長野の方では御岳城と呼んでいます。 この城は大変けわしいので、いくら攻められても一度も落ちなかったそうです。城跡には小さなほこらと石碑がたてられています、 ちょうど弥富の星の城とは真っ直の所で、ここに上がって見ると、鈴野川はもとより弥富一帯も手に取るように見渡され、 須佐の高山も手の届くように眺めることができます。そこから西の方に尾根づたいに急な所を降りると、ちょうど鈴野川の中河内から百メートルほど上がった所に、 畳一枚半ぐらいの表面の平らな大きな岩が二つならんでいます。その岩の表面に碁盤の目とも双六すごろくの目ともつかない 縦横たてよこの線と、そばには弓と矢の絵がきざんであります。この岩を絵書岩と呼んでいますが、 麓には津和野に通じる大事な道が通っていますし、おそらく火の谷城の見張りの兵士が、いつも何人か勤めていたのだろうと思われます。 戦はそうしょっちゅうあるわけではないですから、山の中でたぶん兵士たちが退屈しのぎに矢じりか何かできずを付けて刻んだものだと思われます。 ここからは火の谷城も星の城も真っ直に見えます。石の上には70センチほど間をあけて、三角にあたる所に、湯飲みほどの穴が3つ掘ってあります。 これは多分いざというときかがり火ののろしを上げるために、かがり火をたく台の鉄の足がすべらないようにするために作ったものでしょう。 それから弥富には及谷道永の滝があります。高さは70メートルぐらいで三段になって落ちています


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が、水は夏でも14、5度ぐらいですばらしい水です。弥富の水道の水はここから取られています。この水はお隣の阿武町の 福賀伊羅尾山という、これは昔の火山で640メートルほどの山ですが、 その山の麓に近い所に、幅1メートルぐらい、奥行き10メートルほどいって右に折れ曲がったさけ目があって、 そこから湧き出して1年中たえることがありません。それが谷間をつたわって、及谷のほうに500メートルほど流れて道永の滝となるのです。 あいだに家も何もありませんから、それはきれいな水です。弥富の人はよくここに来て、竹を割ってといを作って ソーメン流しなどして楽しんでいます。

それから藤木には、畳が淵という所があります。弥富では知らない人はなく、 何度もいかれたことがあるでしょう。あそこは中国地方では比べるものがないほどすばらしい所です。六角の直径1メールほどある高さが十数メートルもある石の柱が、 まるで大きな石のわり箸を束に縦に並べたような見事な眺めですが、どうしてあんなものができたのでしょうか。川床はまるで亀の甲をしきつめたようになっています。 あれは柱のようにぎっしり並んでいたのが、川の流れで何千、何万年という長い間にだんだんけずられてああいう川床ができたのです。 では、あの岩はどんな岩なのでしょうか。あの岩は玄武岩といわれています。地球の岩は一番深い所にあるのを深成岩といって、主に花崗岩、 普通みかげ石といわれる岩ですが、高山のはんれい岩もその親類のようなものです。そしてその上にあるのが安山岩といわれています。 須佐湾の屏風岩はこの安山岩です。そしてその中には金や銀、銅や鉛、鉄などいろいろなものを含んだ岩がまじつていますが、大部分は花崗岩か安山岩です。 そして一番表面に吹き出て固まったのが玄武岩です。玄武岩にもいろいろあります。萩の大島や相島などの石は黒くて海綿 かいめんのようにぶつぶつ穴があいています。 あれは地球の底から吹き出したときに、ちょうど火山の溶岩のようにほとんど溶けたようになって表面に


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近くなって冷えて固まるときに、中のガスが吹き出して、あんな小さな穴だらけの石になったのです。そして畳が淵の玄武岩も地の底から押し出されたときに、 表面近くで冷え固まって、縦にひびが入ってあのような姿になったのです。岩と岩との間に隙間ができてあのように並んでいるのです。 ですから地面に10何メートルも出ていますが、その底に何メートル深くあるかはわかりません。あのように岩の柱を並べたようなので 、柱状節理といって、節理の節は節分の節で理は理由の理と書いて、学問の上ではそういう呼び方がされています。中には、 これは弥富にはありませんが横になってできた盤状節理というのもあります。盤というのは碁盤の盤という字を書きます。 そしてあそこには深い淵があって龍宮淵ともいわれています。あそこは断層といって、 あそこから急に土地が沈んで、あのような淵になったのです。弥富にもこんなすばらしいところがありますが、あまり世間には知られていないようです。 近ごろは時々若い人たちが話を聞いて、尋ねてくることもありますが、途中の道を良くして、是非宣伝したらと思います。須佐湾の海の美しさ、 弥富の山の美しさと、もっと宣伝して、道路もよくして、観光客がもっと来るようになったらいいですね。

これまで須佐町のことのあらましをお話しましたけれど、まだまだいろいろなことがたくさんあります。 このたびはこれぐらいにして、またお話したいと思います。どうぞお元気で過ごしてください。

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