『須佐市中細見図』
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下に掲げる「須佐市中細見図」は近藤安弘氏が所蔵されているものです。同じ地図が須佐歴史民俗資料館に展示されています。二つの地図には若干の違いがありますが、ほぼ同一の 地図で、同一人が作図したものと考えられます。主な相違点は次の通りです。

◇近藤版には「須佐市中細見図」と書かれていますが、歴民資料館本には題がありません。
◇歴民資料館本には紹孝寺伊勢田が表示されていますが、近藤本には描かれていません。
◇海岸近くの恵比須と大カ伝蔵の家屋との間にある7軒の家には歴民資料館本では名前が書き込まれていますが、近藤本は空白になっています。
◇中津の橋の袂にある2枚の畠は歴民資料館本には面積が書かれていますが、近藤本は空白となっています。

地図が何時作成されたかは定かではありません。須佐川河口付近に文政4年7月の大洪水で流失した家屋が朱書きされていますから、それ以後の作であるとしか判りません。 しかし、地図に書き込まれた益田家臣の氏名などから判断すると明治以前の幕末の地図であると考えて間違いないでしょう。天保12年萩藩に提出した「風土注進案」に添付した 地図ではないかという説がありますが、現存する「風土注進案」には見当たらず、確証はありません。防長の絵図では有馬喜惣太が地下上申の編集に携わり、各村で原図と清書された図の 二枚を作成し、宝暦四年30年の月日をかけて合計1,024枚を書き上げた事が有名ですが、彼の作かどうかも判りません。

往時の須佐と現在の街並みとを比べてみて、何処がどの様に変わったかとか、誰のご先祖が何処に住んでいたとか、何処に高札場が有ったとか、 酒屋などがどの辺りにあったとか、木戸は何処に設けられていたのかとか、道はどの様についていたのか、当時の海岸線は今のどの辺りかなど大変興味のある地図です。 そこで私達須佐郷土史研究会では、須佐市中細見図を現代地図の上に書き直す試みに挑戦中です。そうすることによって、往時と現代の須佐の町並みをより一層実感をもって比べる事ができるのでは ないかと思います。地籍集成図を下絵として電子的に描いた地図は、未だ読解文字を校正中ですが、此処に参考として御披露したいと思います。仕上がるまで暫くお待ち下さい。 この作図をした結果「須佐市中細見図」が大変正確な地図であることが判りました。恐らく伊能忠敬から測量法を学んだからではないでしょうか。また、JR須佐駅と鉄道線路、国道191号線、埋め立てられた 海岸線などを除くと、往時の土地区画が今も変わらず、ほぼその侭残っていることに驚かされました。

幕府の一国一城令によって益田氏は須佐に築城する事は出来ませんでしたが、関ヶ原の戦の後石州益田から須佐へ移住した時(慶長五年)、小城下町の縄張りで須佐の街割りを決めたことが判ります。 須佐の街は萩と益田を繋ぐ仏坂街道上に在りました。旧街道筋は現在の国道191号線の道筋とほぼ同じですが、須佐ー惣郷の間や、須佐ー江崎の間の旧街道筋は道筋が異なります。国道191号線が建設される前は、 萩からの往還は惣郷から険しい山道を経て須佐の西門(梛の木門)から須佐市中に入りました。そして、今の育英小学校の運動場を横切って龍背橋を渡ると右に折れました。あとは本町通りを直進して 南門(松原口)に至りました。街道と松崎八幡宮の参道との交差点に南門がありました。今も石垣が残っています。2つの門の間が須佐市中です。道は門を出ると暫く直進して突き当たりを右折し浄蓮寺に至ります。 浄蓮寺前を右折して野頭飛脚番屋敷で左折して三原方面へ抜け江崎に至りました。

この様に須佐市中には龍背橋と浄蓮寺付近に桝形が設けられ、2つの門の周辺には城の櫓の代わりに寺院を配置して須佐の防衛体制を敷いたのです。須佐市中には大組や御手廻組の家臣が居住して益田家を防衛しました。 一方、仏坂や土床から進入しようとする敵に対しては、現在の田万川地区に配置した在郷の四組(市丸、宇谷、瀬尻、須佐地)の益田兵が仏坂や土床の関門防衛に当りました。これが益田家の軍制でした。

白黒四枚の地図とカラー写真は同じ地図です。カラー地図は圧縮していませんので(10.8MB)、一旦 Download して A3 Printer のポスター機能を使うと、A3の紙に縦横3枚宛、合計9枚の大きさに印刷出来ます。

図1 図3
図2 図4
「須佐市中細見図」 近藤安弘氏蔵
●上の地図をクリックして下さい。江戸時代の市街の詳細がズームアップできます。
●「須佐市中細見図」読解電子地図はここをクリックして下さい
これは現在校正中の原稿です。完成まで後暫くお待ち下さい。
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