須佐歴史夜話

『品川大膳の故事』

2010年3月1日掲載
栗山 展種
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■尼子氏の居城、月山富田城■

島根県の一番東に安来市という町があります。ほっかむりと鼻あてをしたひょっとこ顔の「どじょうすくい踊り」”安来節”と言えば全国的によく知られていますから、 「あーアレか」と誰でも思い出す地名です。

この辺りで今一番有名なのは足立美術館でしょう。車で美術館を目印にドライブして、島根半島南側の中海に流れ込む飯梨川(富田川)沿いに県道を上流へ遡ると、 安来市広瀬町という所に着きます。此所は寛文6年(1666)までは「富田」(とだ)と呼ばれていました。 美術館から更に10分くらい行くと道の駅「富田城址」に着きます。隣接して安木市立歴史資料館があります。資料館の背後に亀が頭をもたげたような風変わりな山が見えます。 これが月山(標高184m)です。此所にあった月山富田城は戦国時代、山口の大石、広島の毛利と覇権を争い、 一時は瀬戸内海側を含む中国11ヶ国を支配した山陰の雄、尼子氏の居城でした。

月山を望む
月山遠望

月山富田城は大内、毛利の大軍が力攻めでも落とせなかった難攻不落の山城で、見かけと違って深く険しい山です。資料館裏手の登山口から山頂の本丸跡に登ることができます。
◇山裾に尼子経久の三男「尼子興久の墓」があります。禄高が不満で父に逆らい自殺した不肖の息子でした。
◇10分ほど登ると尼子兵の勢揃い場「千畳敷」の高台に出ます。太鼓壇公園と云います。 山中鹿之助の銅像が建っています。ここの桜は「サイタ サイタ サクラガ サイタ」のモデルになった桜です。7年も続いた毛利勢との籠城戦の最中、城内には多くの椎(シイ)が植えられ、 その実は食料の足しにしたと伝えられていますが、千畳敷の片隅には樹齢400年以上の一本の椎の古木があり、昭和初めまで毛利の射た矢じりが残っていたと伝えられています。 ここから城下町の向こうには毛利勢が本陣を敷いた経羅木山(きょうろぎやま、標高473m)が見えます。
◇中腹の「山中(さんちゅう)御殿」(御殿平)は城主の居館があったと思われる場所で、 周囲は石垣で囲まれた巨大な曲輪です。発掘調査で近世期の富田城はここに中心的な施設が存在したと考えられています。 ここで大手口など三方面からの主要路が交わり、本丸への一本道となります。
◇急勾配の石畳「七曲がり」を過ぎると「西ノ袖平」から「三の丸」に至り、 更に「二の丸跡」から堀切を過ぎると中海、大根島、島根半島、弓浜半島など交通・経済・軍事上の重要地域を一望できる 山頂の「本丸跡」に出ます。

尼子氏滅亡後は毛利氏、吉川氏が在城し、慶長5年(1600)に入城した堀尾氏が慶長16年(1611)に居城を松江城に移すまで、この地域は山陰の主要都市として繁栄しました。 しかし、元和元年(1615)、幕府の「一国一城令」によって諸大名は領国内の支城を破棄し本城のみとするように命じられ、富田城もこの時に破城されました。

山陰の尼子氏が瀬戸内海まで勢力を拡大できたのは、朝鮮を含む日本海側の交易や、砂鉄が原料の奥出雲のタタラ製鉄などの強固な経済基盤があったからだと云われています。昔から鉄、絣(かすり)、 和紙が広瀬の三大産業でした。中でも明治になって板鋸と云われる広瀬鋸は大阪でブランド商品でした。 今でも安来綱は有名で安来市には色々な鋼製品を製造してる伝統企業があります。大企業では日立金属がカミソリの刃の原料として有名な高速度綱ほか高級特殊鋼を製造しています。

■尼子七年の役と難攻不落の月山富田城開城■

天文20年(1551)9月1日、大内義隆は陶晴賢の反乱によって深川大寧寺で自害し、大内家は滅亡しました。陶晴賢もまた弘治元年(1555)11月1日、厳島の戦いで毛利元就に敗れ防長2州は完全に元就に帰しましたた。 石見国内の諸豪も毛利氏に制圧されましたが、それまで大内氏累代の恩誼に感じて旧盟を重んじていた益田氏丈は陶晴賢とも親戚であったので、孤軍奮闘して抵抗を続けていました。 しかし、大内、陶両氏が滅亡したので、吉川元春の勧告を受け容れ、元春と福屋隆兼に頼って毛利の幕下に属することになりました。弘治3年(1557)5月の事です。

永禄3年(1560)以降、毛利氏は山陰の経略を吉川元春に、山陽道方面を小早川隆景に一任します。
永禄元年(1558)元就は石見に入り、吉川元春を援けて川本の温湯(ぬくゆ)城に小笠原長雄を攻め、7月19日に降しました 。この時、益田藤兼も毛利軍に属して参戦しました。 益田藤兼の毛利家に対する忠勤は永禄5年(1562)12月23日、尼子氏一味の三隅兼忠の属城、美濃郡板井川の要害を略取したときが最初です。この頃までに元就は大森銀山山吹城も回復し、ほぼ石見を制圧しました。

永禄5年7月になると毛利軍は出雲の赤名に討ち入り、12月10日赤名から洗合(あらいあい)に本陣を移して半永久的な築城を行い、月山富田城の尼子晴久を攻める事にしました。
永禄5年12月24日尼子晴久が死去し嫡子義久が跡を継ぎましたが尼子勢の士気は低下しました。毛利元就は富田城攻略に全力を挙げる事を決意し、永禄6年2月、先ず豊後の大友氏と和睦して 後顧の憂い無く同年5月白鹿(しらが)城に向かおうとし、嫡子毛利隆元の来援を待ちました。所が、隆元は備後の和智城主和智左近大夫誠春(さねはる)の饗応を受けた後発病して41歳で急死しました。 毛利軍の驚きと悲しみは大きかったのですが、弔い合戦に元春、隆景をはじめ宍戸、熊谷、益田、山内らの諸軍を率いた元就は白鹿の本城に部将松田久盛を攻め同年10月29日、これを落としました。

永禄7年毛利隆元の嫡子輝元は13歳で雲州へ向かい、祖父元就から軍の先駆を命じられました。元春の嫡子元長も同道して洗合に到着して輝元・元長が富田城を攻略する事になり、吉川、小早川、 益田以下の1万騎が富田へ押し寄せました。

永禄8年(1565)4月、一度洗合へ退陣した毛利元就は、同年9月20日、輝元はじめ、吉川元春、元長、小早川隆景、その他の諸将 総勢2.5万を率いて尼子義久討伐のため富田に発向し、 経羅木山、滝山、 石原山に付城を築き、屡々富田城に戦いを挑みましたが戦況は遅々として進まないので、益田藤兼を在番として富田に留め、全軍を一時洗合に退陣させ、吉川元春は白鹿城へ移りました。 以来、この付城は益田藤兼が守備するようになりました。翌、永禄9年11月の富田城開城までに、諸所に於いて戦が交えられましたが、 益田家家臣品川大膳亮狼之助と尼子の名将山中鹿之助幸盛一騎討の格闘が月山城下富田河畔で行われたのはこの時の事です。

永禄3年以来7年籠城を続けた尼子義久、倫久兄弟は遂に永禄9年(1566)11月21日、元就の陣営に使者を送って降伏しました。同28日富田城は無血開城しました。 籠城の将兵には各人の希望に従い退散させたので混乱は起こりませんでした。世にこれを「尼子七年の役」と呼びます。 この戦の結果、雲・芸・備・防・長・石の六州全て毛利氏の手中に帰すことになりました。

その後23年を経て、天正16年(1588)、輝元は尼子義久兄弟を吉田志道の根の谷に邸宅を構えて住まわせ、570石の知行を給しました。義久は慶長5年長州奈古に移住し、 剃髪して友休と号しました。 同15年に死去。弟倫久は慶長5年阿武郡紫福に移住、剃髪して瑞閑と号し元和9年に死去しました。

(以上の出典=『益田市誌』上巻)

なお、山中鹿之助は富田城が落ちた後も尼子再興の機会を窺っていました。
天正元年(1573)7月、将軍足利義昭は織田信長によって追放され足利幕府は滅亡しました。しかし義昭は各地を流寓後、天正3年(1575)備後に赴き、毛利氏を頼り輝元に説いて本願寺を助けて上杉、 武田の諸氏と同盟して信長に対抗しようとしました。このため毛利氏に属する石見の益田元祥、周布元兼、吉見正頼等も義昭に応じて兵を進めんとしたのです。
一方、山中幸盛は新宮党尼子国久の孫、孫四郎を擁立して尼子勝久と名乗らせ、永禄12年(1569)隠岐国で決起し、同年6月新山城を占領、此所を根城に九州の大友氏と気脈を通じて毛利氏を挟撃しようとしました。 毛利・尼子の間の抗争は一進一退がありましたが、元亀2年(1571)毛利元就が没し、後を継いだ輝元が出雲を平定します。天正5年(1577)信長と秀吉の命を受けて播磨上月城を攻略した山中幸盛は、 尼子勝久を奉じて此処で中国経略の先駆を務めることになりました。天正6年(1578)毛利輝元は小早川隆景、吉川元春の両叔と共に上月城を包囲し、7月これを抜き尼子勝久は城中に自刃し、 鹿之助は降伏しましたが備中甲部川辺で殺されました。

 

■品川大膳と山中鹿之助の一騎打ち■

さて、前置きが長くなりましたが、上記の品川大膳と山中鹿之助の一騎打ちについては「雲陽軍実記」「陰徳太平記」等に記されています。 また、時代が下がって「吉田物語」「老翁物語」にも記述があります。 現代作家で山中鹿之助について著作があるは南條範夫「出雲の鷹」海音寺潮五郎「武将列伝(三)・山中鹿之助」です。 いずれも品川大膳との一騎討の場面を書いています。

タラの若芽を食らうと鹿は角を落す。狼は鹿を食い殺す。それで大膳はタラの木狼之助と改名して鹿之助を必ず討ち取るとうそぶいていました。一騎討の結果は山中鹿之助が品川大膳を討ち取ったとされていますが、 鹿之助には助太刀があったという説があり、諸説紛々です。時代が下がるほど助太刀説が強くなっています。殆ど互角の戦いで、幸盛も大きな傷を負って秋上伊織介に抱えられながら自陣に戻ったと云いますから、 余り格好の良い勝ち方でなかった事は確かでしょう。

一騎打ちの場面は添付の南條範夫「出雲の鷹」と海音寺潮五郎「武将列伝(三)・山中鹿之助」の抜粋を読み比べてみて下さい。

今、広瀬町を訪れると富田川を挟んで月山とは対岸の安来市立病院の近くに『川中島一騎討の碑』があります。川中ではなく、 ここが一騎討があった場所かと思われるような公園になっていますが、寛文6年(1666)の洪水で川の流れが変わった為だと云われています。地元ではこの時の洪水を「富田川の 川違い(かわたがい)」と呼んでいます。この時に広瀬藩と広瀬町が生まれました。 品川大膳の墓はここから程近い広瀬町の町並みの旭町裏手にあります。この他広瀬町には沢山の史跡があります。 http://www.city.yasugi.shimane.jp/p/2/11/4/3/  足立美術館に行くときには一寸足を伸ばす丈ですから、必ず訪れてみることをお勧めします。

山中公一騎討之處
品川大膳の墓
川中島一騎討の碑品川大膳の碑

■品川大膳の父祖■

品川大膳の出自については「益田市誌」(上巻)647頁以下に説明がありますので、それを引用します。

◇狼之助の父祖
品川狼之助勝盛の祖は「品川家譜」によると、芸州佐東銀山城主武田家の重臣、品川左京亮信定である。天文10年(1541)武田氏の居城銀山は光和の養子光広の時代になると、大内氏との抗争はいよいよ烈しく、 連年戦いが絶えなかった。光広は部下を統御する才に乏しく、多くの郎党は前途の多難を思って悲観した。中でも香川・品川・内藤の重臣が相次いで采邑に走ったので、城主光広は陶晴賢に悩まされ、 天文10年3月、父祖伝来の佐東を棄てて若狭に逃げた。品川左京亮信定もこのとき果てたと伝えられ、武田氏の旧領は大内氏の所有となった。天文20年(1551)陶晴賢が滅んだ後は、佐東は毛利氏のものとなった。

◇益田における品川家
品川信定の子貞永は、武田氏の滅亡後浪人となった。諸国を流浪した彼は、天文13年石見益田の親戚、品川将員(まさかず)を尋ねて移った。そして益田兼藤に挙用されてこの地に永住し、半平と名乗っていたが、 後隠岐守に改めた。貞永の子勝盛が、世に名を轟かせた狼之助である。狼之助が一名大膳将員と名乗っている点から見ると、彼は親戚に当たる品川将員の所へ養子入りをしたものらしい。 彼は益田藤兼に仕えたが、後久城の城角に住んだ。このように狼之助父子が、益田藤兼から好遇された理由は、品川家が元来、佐東城主武田氏の重臣だったという家柄から来ている。更に彼の親戚に当たる将員が、 早くから益田家に仕え、二人を斡旋したことにも原因する。

品川狼之助の居城は普月(ふげつ)城と称し、今日久城専光寺の東北に当たる城角(じょうかく)がその屋敷跡に相当している。同城は弘安4年蒙古襲来の時、 石見18砦の一として城砦のあった地で、伝説によるとこの地は万福九郎治貞寿(さだとし)が住んだ跡とも云われている。同城は東・北・西の三面が急傾斜をなして要害を作り、南方は石見野の平地に連続し、 風光絶佳な屋敷城であった。慶長5年主君益田元祥の長州須佐移封によって領土を失い、東仙道小原村に移ったため、城は廃城となった。(中略)

狼之助の首を埋めた安来市広瀬町高田川の畔、家下組の地に存する品川大膳の墓は年と共に荒廃に帰したが、大正7年大膳の後裔である石見の人 品川友太郎の努力によって石碑が建てられた。 題字は山県有朋の執筆で撰文は子爵平田東助の書いたものである。(中略)
品川狼之助の墓は美濃郡美濃町東仙道大字上郷の廃庵、相続庵品川家の墓地にもある。(後略)』

また、「益田市誌」(上巻)517頁以下より

◇久城地頭
(前略)小原には品川家代々の墓があり、仙道八幡宮には社領を寄進した。品川家は八代勝仲に及んで再び久城に来住し、江戸時代には庄屋を勤めた。

品川氏の系図

(初代)信定ーA貞永ーB勝盛ーC勝貞ーD吉勝ーE勝忠ーF繁勝ーG勝仲ーH勝永ーI義勝ーJ勝道ーK勝栄ーL常十郎ーM兼作』

■あとがき■

益田家の英雄、品川大膳の故事について今の須佐では余り知られて居ませんので、品川家の末裔に当たられる品川敏行様(須佐在住)のご了解を得て、拙文を掲載することにしました。
なお、2010年2月のHP記事『萩築城中の大紛争事件”五郎太石事件”』の中で益田家普請奉行として登場する栗山三郎右衛門兼成の母は品川大膳の娘です。

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