毛利本家・益田本家家譜

『大江家歴世歌と益田家歴世歌』

xx年x月x日掲載
栗山 展種
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大江家歴世歌
栗山家文書より

■大江家歴世歌■

「大江家歴世歌」は平城天皇に始まって毛利斉煕(天明3年1783〜天保7年1836)迄の萩毛利本家の由来が歌として記されています。一方 「益田家歴世歌」は藤原鎌足から数えて17世の御神本国兼から始まって益田元宣(享和2年1802〜嘉永2年1849)迄の須佐益田家の由来が歌となっています。 この2つの短い歌詞を理解するには毛利家と益田家の長い家系を説明する本が1冊づつ必要です。それを歌にして簡単に記憶させようとしたのでしょうか。読解文の後に簡単な注を付けて、読者のご理解の便宜を図りました。 また、「大江家歴世歌」の解説として「毛利三代実録 壱」に述べられている「毛利氏系統略」(「山口県史」史料編 近世T 36頁以下)の文章を引用しましたので参考にして下さい。

上の写真と同文の文書が増野家文書の中にもありますが、3枚の紙に墨書された内「益田家歴世歌」の2枚は破損が激しく全体を読みとることが出来ません。 そこで、ここには栗山家に伝来する文書を掲載しました。

この文書は一枚の紙(344x246mm)を四ッ折りにして「大江家歴世歌」と「益田家歴世歌」の二つが書き記されています。先ず写真の紙を上下二つ折りにして、 次に真ん中を左右に折って四ッ折りにします。すると4頁の文書となります。

写真の文書には日付がありません。一方、増野家文書では「益田家歴世歌」の末尾に「天明八年(1788)二月吉日」と朱書したのを墨で消した形跡が残っています。 しかし、1788年には益田元宣はまだ生まれていませんから辻褄が合いません。毛利斉煕と益田元宣の二人の生年月日と没年からは1802〜1836年の間、つまり年号で云うと享和、 文化、文政、天保年間の約30年余の間にこれらの歌が作られたと考える方が自然です。「天明八年(1788)二月吉日」が何を意味するのか謎です。

なお、文中「維光」とあるのは「経光」の誤りですが、増野家文書にも同じ誤字が見られます。同じ原本を回覧して書写したものでしょうか。

■本文の読解■

平城へいぜい天皇*1阿保あほ *2本主もとたか *3音人おとんど*4 大江おおえ*5
ノ姓ノ始ナリ 千古ちふる・維時これとき・重光しげみつまさ
ひら
*6挙周たかかね成衡 なりひらハ十代ナリヤ 匡房まさふさ
きょう
*7 文武ノ二道世ニ高シ 維順これのぶ維光これみつ
広元ひろもと
*8鎌倉かまくら殿ノ執権タリ 季光すえみつ* 9
相模さがみ所領しょりょうニテそのしょう毛利もうりヲ氏ト
セリ 維光・つねみつ*10時親ときちか*11郡山こうりやま ニ御城始テ貞親さだちか
親衡ちかひら
*12永和えいわノ合戦ニ南帝方ニテ戦死セリ
二十代ノ師親もろちか
*13のち元春もとはる *13ト 石見ナル
郷ノ川江ノ川・ごうのかわノ先陣セリ 広房ひろふさ光房みつふさ凞元ひろもと豊元 とよもと*14
弘元ひろもと・元弘は誤り
*15 興元おきもと・元興は誤り *16幸松丸こうまつまる*17 ハ早世ニテ元就もとなり*18ハ十州ノ太守ノ御名モ隆元たかもとヤ三十代
輝元てるもとハ関東方ニしたがヒテなお両国ヲ保
チケリ 秀就ひでなり綱広つなひろ吉就よしなり吉広よしひろ吉元よしもと
宗広むねひろ重就しげなり治親はるちか斉房なりふさ公四十代ノなり
ひろなお御末おんすえハ千萬世

■毛利氏系統略 (「毛利三代実録」より)■

毛利氏ハ其先天穂日命ニ出ツ、命十四世ノ孫ヲ野見宿禰 命ト称ス、垂仁天皇三十二年皇后日葉酸媛崩ス、命葬儀 ヲ議シ土偶ヲ以テ殉トス、帝之ヲ嘉シ定テ永制ト為シ 土師臣ノ姓ヲ賜フ、其後土師連ト改ム、因テ土師ヲ姓トス、 宿禰命十三世ノ孫諸士公延暦九年十二月朔大枝朝臣ノ姓 ヲ賜フ、 桓武天皇ノ母高野新笠皇太后ノ大枝山陵ノ名号 ニヨリタルナリ、其子ヲ本主公トス、備中介ニ任シ正六 位上ニ叙ス、平城天皇 ノ皇子阿保親王ノ侍女中臣氏孕メ ルコト有リ之ヲ公ニ賜フ、 音人公ヲ生ム、公実ハ親王ノ 子ト雖トモ其後ヲ継クヲ以テ大枝姓ヲ称ス、後上表シテ 日ク、 枝ノ幹ヨリ大ナル折レサレハ必ス摧ク請フ枝ヲ改メ江ト為ント、貞観八年十月十五日詔シテ之ヲ許ス、始 テ大江朝臣ト称ス、公博文多識、 清和天皇ノ侍読ト為リ 官ヲ歴テ参議ニ任シ従三位ニ叙ス、江相公ト号ス、其子 千古・其子維時・其子重光・ 其子匡衡 ・其子挙周・其子 成衡ノ六公相継ク、而シテ千古・維時・匡衡・挙周ノ四 公皆列朝ノ侍読ト為ル、 成衡公匡房公ヲ生ム、公最モ絶 倫ナリ、官ヲ累ネ権中納言ト為リ大宰権帥ヲ兼ネ大蔵卿 ニ至リ正二位ニ叙シ、 後三条・白河・堀河三朝ノ侍読タ リ・公維順公ヲ生ム、維順公維光公ヲ生ム、維光公ノ子 ヲ 広元公トス、公幼時中原広季ノ家ニ在リ其養育ヲ受ク 故ヲ以テ中原氏ヲ称ス、後上表シテ本姓ニ復ス、公博ク 文史ニ渉リ殊ニ籌略有リ、 源頼朝ノ聘ニ応シ鎌倉ニ赴キ 常ニ帷幄ニ在テ其謀議ニ参ス、官ヲ歴テ大膳大夫陸奥守 ニ至リ正四位下ニ叙ス、入道シテ覚阿ト号ス、其第四子 従五位下蔵人大夫 季光公、相模国愛甲郡毛利荘ヲ領スル ヲ以テ始テ毛利氏ト称ス、鎌倉評定衆ト為ル、入道シテ 西阿ト号ス 、宝治元年六月五日三浦泰村北条氏ノ権ヲ檀 ニスルヲ憤リ之ヲ討滅セント図ル、公其軍ニ加リ戦ヒ利 無ク挙族法華堂ニ入リ故将軍ノ影前ニ自刃ス、其第四子 従五位下右近将監 経光公越後ニ在テ其乱ニ与ラス、因テ 旧領越後佐橋荘・安芸吉田荘ヲ保ツヲ得ル、入道シテ寂 仏ト号ス・其第四子従五位下刑部少輔 時親公六波羅評定 衆ト為リ・在京料トシテ河内ノ国加賀田郷ヲ加フ、旧領 ヲ併セ三千二百貫トス佐橋二千貫吉田千貫加賀田二百貫、 入道シテ了禅ト 号ス、其子ヲ従五位下右近将監貞親公入道朗乗トシ、其 子ヲ従五位下陸奥守親衡公初親茂ト称ス、 入道宝乗トシ、 其子従五位下右馬頭元春初師親ト称ス、入道元阿トス、元弘中 後醍醐天皇蒙塵ノ時貞親・親衡二公綸旨ヲ賜ハリ官軍ニ属ス、親衡公ノニ子匡時・三子直元之ニ従フ、延元元年 北朝建武三年南北分争ス、 時親公曽孫元春公ヲ具シテ北ニ属ス、 而テ貞親公・親衡公・匡時・直元依然トシテ南ニ在リ、 六月北軍勝ヲ得ル、其後時親公請フテ安芸ニ老ス、踵テ 元春公国 ニ帰ル・是ニ於テ越後ノ地ヲ以テ諸孫宮内少輔入道修理次郎家親三郎親顕彦四郎冬元及び姪左近蔵人経親等ニ譲ル、 既ニシテ貞親・親衡二公及ヒ匡時・直元皆ナ北ニ降リ来テ元春公ニ投ス、興国二年北朝暦応四年七月時親公卒ス、正平五年北朝観応元年 足利直冬南ニ降リ兵ヲ筑紫ニ起シ父尊氏ニ抗ス、石見ノ人三隅 入道某等兵ヲ挙ケテ之ニ応ス、是時親衡公及ヒ匡時・直元等皆南ニ属ス、独リ元春公高越後守師泰ニ属シ石州各地ニ戦フ ・江ノ川ノ役衆ニ先タツテ乱流シ、佐波善四郎ノ軍ヲ破リ其城ヲ抜ク、同六年正月貞親公卒ス、建徳二 年北朝応安四年 今川伊予守貞世入道了俊探題ト為テ九州ニ航シ 菊池武政以下ノ南軍ト戦フ、元春公貞世ニ属シ九州ニ在ルコト七年功勲群ニ超ユ、弟匡時其隙ニ乗シ吉田ヲ奪領ス、天授元年北朝永和元年 八月親衡公卒ス、同三年元春公国ニ帰テ広房公トス、弘和元年北朝永徳元年 正月譲ヲ受ケ家ヲ継ク、芸州西条ノ役義満将軍ノ旨ヲ以テ武田ノ兵ヲ援ケ戦没ス、其子右馬頭光房 公入道浄済応永十年大内新介弘茂ヲ援ケ周防ニ入リ大内六郎盛見ヲ攻ム、其後大内介持世九州ニ於テ苦戦ス、公義教将軍 ノ令ヲ奉シ赴テ之ヲ援ク、永享八年二ノ嶽九州国郡詳ナラス ノ戦ヒ病テ軍中ニ卒ス、其子備中守煕元公義持将軍ノ弟大覚 寺義嗣叛スト聞キ、京師ニ入リ軍ヲ和州ニ出シ踵テ近畿 ニ在ルコト三年、 各地ニ戦テ功有リ、嘉吉元年赤松満祐 ノ義教将軍ヲ弑スル、公細川持常ト同ク播州ニ至リ満祐 ヲ誅ス、其年大内持世ニ属シ九州ニ赴キ少弐嘉頼ヲ攻ム、 嘉頼遥ニ満祐ニ応スルヲ以テナリ、 其後細川勝元ト同ク予州ニ航シ河野通春ヲ攻ム、其子治部少輔豊元公寛正三 年山名弾正忠是豊ト軍ヲ河内ニ出シ畠山義就ヲ攻ム、明 年五月復タ河内赤坂ニ戦フ、 我士国司右衛門尉光宣功有 リ、同五年五月煕元公卒ス、応仁元年細川勝元ノ山名持 豊ト相軋ル、持豊ノ邸ハ室町府ノ西ニ在リ勝元ノ邸ハ其 東ニ在リ、公勝元ヲ援ケ各地ニ戦テ功有リ、 伊勢兵庫助 ナル者公ノ在ラサルヲ時トシ我領地ヲ掠ム、公屡之ヲ室 町府ニ訴フルト雛トモ絶テ聴裁セス、文明三年公国ニ帰 リ大内左京大夫政弘ト同ク持豊ヲ援ク、是豊ハ持豊ノ第 二子ナリ、 然レトモ勝元ヲ援ケ大挙備後ニ入リ山内新右 衛門尉豊成ヲ甲山城ニ攻ム、是豊ノ子七郎頼忠小早川ノ兵ト合シ江田旗返城備後ヲ攻ム、公城ノ後援トシテ馳セ至 リ山名・小早川ノ軍ヲ破リ進テ是豊ヲ伐チ之ヲ走ラス、持豊備後ノ地伊多岐重永山中横坂等三千貫ヲ割キ政弘安芸ノ地西条千貫 ヲ割キ以テ我ニ報ユ、是ヨリ先キ宍戸駿河守ノ被官某拠ル所ノ入江城ヲ抜キ尽ク其地ヲ併ス、又政弘ト約シ鏡山西条ノ後援ヲ為シ武田・小早川ノ軍ヲ却ケ其地 御園宇寺町寺家原三永全蔵寺等ヲ 略ス、是ニ於テ毛利氏漸ク強シ、文明八年五月豊元公卒ス、其子治部少輔 弘元公義尚将軍ノ令ヲ以テ政弘ニ属シ、其偏諱ヲ受ケ弘元ト称ス、政弘ヨリ豊前ノ地京都郡津隈庄二十町 ヲ托ス、因テ之ヲ併領ス、其子 興元・其子幸松丸二公相継ク、幸松丸公夭スルヲ以テ元就公其後ヲ承ク

【注】
*1

平城天皇=第51代天皇。桓武天皇の第一皇子。緯を安殿(あて)といい、皇后、藤原乙牟漏(おつむろ)を母として宝亀5年(774)に生誕。早良(さわら)親王の廃太子にともない、 延暦4年(785)12才で立太子した。参議、藤原縄主(ただぬし)と藤原種継(たねつぐ)の娘薬子(くすこ)の間に生まれた娘を後宮に迎えた。ところが薬子は皇太子に取り入り、 後宮に於いても秩序を著しく乱したので、桓武天皇の逆鱗に触れ薬子は後宮から追放された。だが大同元年(806)桓武天皇が崩御し、安殿親王が皇位につくと、 まもなく薬子は宮中に呼び戻されて後宮を束ねる尚侍(ないしのかみ)に就任した。薬子は兄の仲成と共に天皇の威を借りて傍若無人の振る舞いが多く、 伊予親王事件に揺れる南家を尻目に藤原式家の繁栄を図った。

天皇は生来病弱で、藤原氏内部の抗争などにも翻弄されたが、桓武天皇が都の造営や蝦夷(えみし)征討によって国家財政を逼迫させたのを受けて、財政の緊縮化と公民の負担軽減とに意を用いた。 また、宮司の整理統合や冗官の淘汰を進め、官僚組織の改革に先鞭を付けた。地方行政の面でも、畿内、七道に観察使を設置して地方官の監視、観察に力を注ぐなど、全体として律令制の再建が志向された。
天皇は病を癒すべく、いくたびか転地療養を試みたが、その効なく在位3年余りにして皇位を同母弟の神野(かみの)親王に譲った。大同4年、嵯峨天皇が即位し、 平城天皇は太上天皇となって平城旧京へ隠棲した。ところが譲位してほどなく平成天皇は健康を回復し,30代という若さも手伝って側近の仲成、薬子とを用いて政権奪回を図り、 その結果「二所の朝廷」と呼ばれる分裂状態が生じた。大同4年11月、上皇は平城京に宮殿を新たに造営しようとし、翌5年には嵯峨天皇に平城京への遷都を促すに及んで朝廷は上皇側近の仲成を捕縛、 薬子の官位を剥奪した。上皇は東国へ脱出を試みたが、坂上田村麻呂の軍勢に阻まれ、失意のうちに平城京に戻って剃髪し出家した。薬子は自殺、仲成は射殺された

薬子の変)。これにより嵯峨天皇の皇太子であった平城天皇の第三子、高丘親王も廃太子となり、代わって大伴皇子(後の淳和天皇)が立太子し、 上皇の系統と悪しき側近政治は絶たれた。平城上皇は平城京に孤立し、天長元年(824)7月崩御、楊梅(やまももの)陵(みささぎ)(奈良市佐紀町)に葬られたとされる。(出典:中公新書「歴代天皇総覧」)

*2

阿保親王=平城天皇の長男。在原業平・行平兄弟の父親。薬子の変に連座して弘仁元年(810)太宰府へ配流され、天長元年(824)嵯峨上皇の勅によって入京を許されるまで14年間をそこで過ごした。 承和九年(842)10月22日卒。享年51歳。続日本後紀』の薨伝によれば、人物は「才兼文武 有膂力 妙絃歌」とある。「薬子の変」にどれだけ係わったかは不明だが、 帰京後は「稍く治部・兵部の卿・弾正尹を歴て、上野・上総等の太守を兼ねる」とあり流刑戻りとは思えない政治的経済的地位を得たようだ。官位の治部卿・兵部卿はいずれも、 正四位下に相当し弾正尹は従三位に相当する。上野国、上総国は親王任国で赴任せずとも俸給が支給された。

*3

本主=(もとたか) 大枝本主宿祢。正六位上。備中介。

*4

大江音人=平安朝前期の公郷、学儒。弘仁2年(811)生。実は平城天皇第一皇子の阿保親王長男。大枝本主の跡を継ぎ、姓を大枝から大江に改めた。 母中臣氏、阿保親王侍女。承和4年(837)文章得業生となる。嘉祥3年(850)惟仁親王(清和天皇)立太子によりその東宮学士となる。右左中弁、右大弁を経て貞観6年(864)参議となる。 その後勘解由長官、検非違使別当を兼任し最後は参議従三位行左衛門督。音人は管原是善とともに「貞観格式」を撰上して上表文と式序を書き,また「文徳実録」編纂に関与した。 また勅命によって「群籍要覧」「弘帝範」を編纂したが、これらは「江音人集」とともに現存せず。人物は「内性沈正,外は質訥に似たり。人となり,広眉大目,儀容魁偉にして音声美大 ,甚だ風度有り」(「日本紀略」)で、深く仏教を信じ,臨終の際には西方を向いて合掌して死んだ(「扶桑略記」)。元慶元年11月3日卒、67才。

*5

大江家=毛利氏は文学をもって朝廷に仕えた大江音人の後裔である。

*6

大江匡衡=右京大夫重光の子。母は一条摂政家女房参河(時用女)。赤染衛門を妻とし、擧周(たかちか)江侍従をもうけた。天延3年(975)文章生となり秀才に補される。 越前権大掾・右衛門権尉を歴任し、永観2年(984)、従五位下に叙せられる。甲斐権守・弾正少弼を経て、永祚元年(989)従五位上となり、文章博士。その後、式部権少輔・越前権守・東宮学士などを兼任。 長徳4年(998)、従四位下。同年式部権大輔に転ずる。長保3年(1001)、尾張権守を兼任し、同5年正月、従四位上。同年11月さらに正四位下に昇叙。寛弘2年(1005)敦康親王(一条天皇第一皇子)の侍読。 同3年(1006)式部権大輔を辞し、同4年学士を辞す。同5年式部権大輔に復任し丹波守・侍従などを兼任。長和元年(1012)7月16日卒。61歳。親友小野宮大臣実資は日記に 「当時名儒無人比肩、文道滅亡」と匡衡の才を賞讃しその死を嘆いた。大江家の学統を継承。漢詩文にすぐれ、『本朝文粋』『江吏部集』『本朝麗藻』などに作を残す。家集『匡衡集』がある。 大中臣輔親・藤原実方ら歌人と親交があった。後拾遺集初出。勅撰入集12首。中古三十六歌仙。

*7

大江匡房=(おおえのまさふさ)、長久2年(1041)-天永2年(1111)11月5日は 平安時代後期の代表的な公卿・学者。号は江師(ごうのそち)。大江氏の一族で大江匡衡・赤染衛門の曾孫。 大江広元の曾祖父。父は大学頭大江成衡、母は橘孝親の娘。匡房の自伝『暮年記』などによれば、曽祖父・匡衡よりも早く4歳で初めて書を読み、11歳で詩を賦して世に“神童”といわれ、 文章得業生となって3年目に18歳で方略試に及第した。その後、東宮学士、蔵人、中務大輔、右少弁・美作守、左大弁、勘解由使長官、式部大輔などを経て、寛治2年(1088)48歳で参議に昇り、54歳で権中納言となった。 57歳で大宰権帥を兼ねて筑紫に赴任し、その功により正二位に叙されたが、71歳で大蔵卿に任ぜられてまもなく薨じた。その間、とくに後三条天皇と白河上皇の信任をえて重く用いられ、 また関白後二条師通にも信頼されて親交を結んだ。平安時代有数の碩学で、その学才は時に菅原道真と比較された。諸道に精通した博学者で、著作は『江家次第』をはじめ『江記』・『江都督納言願文集』 ・『狐媚記』・『洛陽田楽記』・『本朝神仙伝』・『続本朝往生伝』・『扶桑明月集』および『朝野群載』所収の「暮年記」・「詩境記」・「対島貢銀記」・「遊女記」・「傀儡子記」など頗る多い。 漢詩にもすぐれ、『本朝無題詩』などに作を収める。また、藤原伊房、藤原為房とともに「前の三房」とも称されている。歌人としては承暦2年(1078)の内裏歌合、嘉保元年(1094)の高陽院殿七番歌合などに参加し、 自邸でも歌合を主催した。『堀河百首』に題を献じて作者に加わる。また万葉集の訓点研究にも功績を残した。後拾遺和歌集初出。詞花和歌集では曾禰好忠、和泉式部に次ぎ第三位の入集数。 なお、『江談抄』は匡房の物語を藤原実兼が筆録したもので、その中に〈官爵と云ひ福禄と云ひ皆文道の徳を以て暦経する所なり〉と述べている。

*8

大江広元= 久安4年(1148年)生。鎌倉幕府政所の初代別当(長官)。広元は藤原光能の息子と言われている。 母の再婚相手の中原広季のもとで養育され中原広元とも呼ばれた。後に学問の大家大江維光の養子となり、そのもとで太政官の書記を務めた。広元の兄中原親能が源頼朝と親しかったので1184年召出されて頼朝の家臣となり、 政所の前身である公文所の別当として辣腕を振るった。特に頼朝が1185年守護・地頭を設置し全国に源氏の家来を置いて統治したのは広元の献策によるものと言う。 1199年頼朝の死後は、北条義時や北条政子の幕政に参与し、承久の乱では政子の幕府軍を勝利に導き影の功労者のひとりとなった。 将軍三代の間の補佐の功労によって肥後国山本庄(熊本県鹿本郡)、周防国島末庄(山口県大島郡東和町)、出羽国寒河江庄、相模国毛利庄(厚木市)、武蔵国高麗郡(埼玉県入間郡)、武蔵国横山庄 (八王子「森庄」)などを受領した。嘉禄元年6月10日(1225年7月16日)没。

*9

*9 毛利季光= 建仁2年(1202年)生。 )鎌倉時代の武将。大江広元四男。広元の遺領相模国愛甲郡「森庄」を受け継ぎこれを毛利庄 と改め初めて毛利氏を称した。そして、越後国佐橋庄(新潟県刈羽郡北条町)と安芸国吉田庄(広島県高田郡吉田町)を領した。三代将軍源実朝に仕え、 実朝の死後出家、入道西阿と称した。 承久3年(1221)承久の乱では北条泰時に従って美濃山城で後鳥羽上皇と呼応する勢力と戦う。この戦功によって 安芸国吉田荘の地頭職を与えられた。天福元年(1233)北条泰時から関東評定衆に任命される. 。だが 宝治元年(1247)の夏、季光は義兄三浦泰村の乱(宝治の合戦)に荷担して執権北条時頼らと戦い、 嫡男の広光、次男光正、三男泰光らの一族郎党等とともに鎌倉法華堂において自殺した。この時四男の経光は越後国佐橋庄にいて乱に関係せず、ひとり北条氏の追求を免れて家名を存続した。 安芸国吉田荘の国人領主から一躍戦国時代に中国地方の覇者となった毛利元就は経光の子孫である。宝治元年6月5日(1247年7月8日)没

*10

毛利経光=宝治の合戦の時遠国にいて運よく乱に巻き込まれなかった経光は佐橋庄と吉田庄を安堵され越後に移住した(越後毛利)。経光は長男基親に佐橋庄北条(きたじょう)を、 二男時親に南条と安芸吉田庄を相続させ、時親が安芸毛利家の始祖となった。一方、越後に残った毛利は北条(きたじょう)氏と安田氏を名乗り、 上杉謙信の配下で活躍することになる。

*11

毛利時親= 毛利経光の四男。興国2年生。鎌倉時代末期から南北朝時代の武将で安芸毛利氏の始祖。四郎、修理亮、刑部少輔、従五位下。 六波羅評定衆。文永7年(1270)7月15日に父の遺領を継ぎ越後、安芸、河内に領地を持った。鎌倉幕府滅亡後は隠居、元弘の乱の際は病気のため歩行困難であったが、 長男貞親をはじめ貞親の子親衡(チカヒラ)は二男匡時、三男直元など一族の多くが宮方に加わり、足利尊氏に従って戦功があり、自分は1336年尊氏の命に依り安芸国高田郡吉田に下向した。 しかし親衡の長男元春は北朝方に加わり、安芸国吉田を中心にして父子は合戦している。このため、時親は安芸の地頭職を免ぜられたが、貞親、親衡の北朝方への帰順を取りなし、 二人も安芸に下向させ安芸において毛利氏の勢力維持を図った。吉田郡山城の築城者。楠木正成に兵法を教えた。暦応4年(1341年)没

*12

毛利親衡= 天授元年〜永和元年(1375年)。南北朝時代の武将。毛利貞親の子。毛利元春・坂匡時の父。初名は親茂。孫太郎。陸奥守、備中守。従五位下。 南北朝の戦乱で父の貞親とともに南朝方として越後で活動した。しかし、後に祖父の時親のとりなしで北朝方に帰順し一族とともに安芸に下向した。毛利氏の総領は時親の死後、 親衡の子の元春が継いだ。親衡は日下津城を築き分家し子孫は坂氏を名乗り、安芸毛利氏の有力支族の一つとなった。武勇に優れ、かつ反骨心に富む人物で、観応の擾乱の際には反幕府方として活動し、 周防の大内氏と同盟して九州に出陣した子の元春の留守を攻撃した。また、日下津城に攻め寄せた安芸守護武田氏信の軍勢を篭城の末撃退している。

*13

毛利師親毛利元春。元春は初め少輔太郎師親と称した。建武2年8月13歳の時その所領吉田領は南朝の手に帰し、 美濃判官全元が後醍醐天皇から地頭職を賜った。元春は外祖父三田入道某方に隠棲していたが11月、武田兵庫助信武方に加わって安芸矢野城主熊谷四郎蓮覚を討ち、次いで美濃全元を追って吉田庄を回復、 地頭職に復し、琴崎山に城を築いてここに住した。その後、その西北にある郡山城に移り子孫隆元に至るまでここを居城とした。 南北朝の戦には足利方に味方して、郡山城には城代を置き、高師泰に従って各地に転戦、石見国をはじめ九州探題今川貞世に従って九州に在陣する事7年にも及んだ。

*14

毛利豊元=宝徳3年8月28日家督。応仁乱では東軍に属したが、文明3年(1471)西軍に転じ細川勝元に与力、周防国大内左京大夫政弘に属した。是より 毛利氏は代々大内氏の配下となった。行年33才。

*15

毛利弘元=豊元の長男弘元は明応9年(1500)家督を長男興元に譲って安芸国多治比村猿掛城(広島県高田郡)に隠退した。 行年34才。なお、原文は元弘と誤記されている。

*16

毛利興元=24才にて早世。なお、原文は元興と誤記されている。

*17

毛利幸松丸=9才にて早世。

*18

毛利元就=弘元の次男元就は父母と共に猿掛城に居た。大永3年(1513)本家を相続すると出雲国の尼子経久と絶縁して大内氏との親交を深めた。 また、安芸国の吉川氏、小早川氏その他の諸家を吸収し、弘治3年(1557)大内氏に代わって防長2州の覇権を握った

■益田家歴世歌■

■本文の読解■

鎌足かまたり公ノ一七世二位大納言国兼くにかね*2
御神本みかもと氏ノ大祖ナリ兼眞かねさね*3兼栄 かねはる*4兼高かねたか*5
ハ始テ七ツ尾ニ居城きょじょうアリ 益田城
ト称シケル 兼季かねすえ*6弟二人アリ 三隅みすみ*7 福屋ふくや*8
元祖ニテ兼時かねとき*9周布すふ*10トナル  兼久かねひさ*11兼胤かねたね*12
兼弘かねひろ*13ヤ十世兼方かねかた*14兼見かねみ*15たてシ浄土ノ萬
福寺*16 兼世かねよ*17秀兼ひでかね *18兼家かねいえ*19トモ所謂いわゆる妙義みょうぎ
殿ナリ 兼理かねまさ*20永享えいきょう三年ニ筑前深江ふかえ
死ス 兼尭かねたか*21貞兼さだかね*22宗兼むねかね*23武威戦ぶいせん
こう弥増いやまし医光いこう禅寺*24建立こんりゅうス  義尹よしただ*25
ぼうノ御一字尹兼ただかね侍従ノ藤兼ふじかね*26 よし
ふじ公方くぼう御字おんじナリ 此時このとき毛利家ニ随ヒ
なお本国ヲ領シタリ 法号ほうごう大薀全だいおんぜん
ていヨリ二十世元祥もとよし*27功名ハ豊臣氏ヲ
モ賜ハリヌ 元尭もとたか*28就宣なりのぶ *29兼長かねなが*30久之丞きゅうのじょう*31
世ヲ早ク去リ 就恒なりつね*32立テ就賢なりかた*33元道もとみち*34
広尭ひろたか*35就祥なりよし*36就恭たかゆき*37房清ふさきよ*38ニ三十二代ノ
元宣もとのぶ*39なお御寿衛おんすえハ萬万年

【注】
*1
益田氏の系図=益田氏の系図、家譜は数種類あるが、大別すると3系統に要約される。
@「諸家系図纂二五下」「群書類従一八三」所収の「御神本系図」に記する益田国兼からはじまり、 「国兼権大夫越中守、建仁二年三月二十一日、為石州守護職下向」とあるもの
A山口県文書館所蔵の毛利家文庫の「系譜類、臣室類、譜録類」にみえるもので、大職冠鎌足にはじまり、不比等ー房前ー真楯ー資業ー家綱−有定ー有隆ー国兼に及び、 「御神本国兼初定道権大夫、越中守大納言従二位、永久年中下向石州一宮之浜、国人崇敬、称御神本、滝蔵権現並勝達寺再興、母大江氏」とある。
B「系図纂要三〇」にみられる系統のもの。藤原実頼よりはじまり、実頼ー頼忠ー公任ー定頼ー経家ー公定ー公通ー定兼(国兼)となり、定兼の条には、 「定兼又国兼、大納言、永久年中下向石州益田庄一宮浜、号御神本、崇号御神本大明神」とある。
これらの相違はいずれも先祖を藤原氏に仮託しようとする作意によるものと考えられている。(「益田市史上巻」366頁、「中世益田氏の遺跡」178頁)
*2
御神本国兼(初代)=益田家は藤原鎌足を祖とする北家藤原氏で鎌足の末裔。有隆の子定通は鳥羽天皇の永久年中(1113〜18) 石見の国司となって下向、石州一の宮浜に着し、上府に居館を定め、地名御神本を姓として御神本国兼と称した (山口県文書館所蔵の毛利家文庫譜録類)。国兼は国司の任期が終わった後も那賀郡伊甘郷御神本の地に土着し、引き続き開墾に励み荘園の拡大に努めた。しかし、 定通が大納言従二位の高官であったとすれば、通常正六位下に相当する石見の国司補任は左遷を意味するので、国兼が国司であった事には疑問が持たれている。 「公卿補任」にもその記録は無い(「益田市史上巻」365頁、「中世益田氏の遺跡」177頁)。国兼は荘園の大名主となり 石見国府に於ける在庁官人を足場にして数々の小名主を集中団結し、公領を私領化しながら外敵に対抗するするために武装集団化して地方豪族としての地位を固め、 武士団を形成しつつ立ち上がって行った。
*3
御神本兼眞(2代)=国兼の子兼実の事と思われる。按察使大夫。按察使は諸道で2〜3カ国に一人づつ任じられた。管内に属する国司の治績を視察する職で、平安末期には陸奥、出羽を残して廃絶されていた。 従って石見国に居住していた兼実には無関係の地位と考えられる。(「益田市史上巻」367頁)
*4
御神本兼栄(3代)=系図によると兼栄は22郡を領したとされているが、石見国には6郡しかないので誤りである。後年、寿永3年(元暦元年1184)兼栄、 兼高父子に源義経が下付した御下文では美濃那賀両郡を中心に石見国全域にわたって22ヶ所の領地を認めている。従ってこの22郡は当時の郷村22地域を指すものと考えられる
*5
御神本兼高(4代)=西国武士が平氏の武威を怖れ、競って心を平家に寄せていた時に、真っ先に源頼朝の催促に応じて源義経の軍にはせ参じ元暦元年(1184)2月一ノ谷の戦いに抜群の功名を立てた。 その戦功によって石見の押領使となりその後の壇ノ浦の戦いや平家残党追討の功労によって建久年間石見の守護代として石見の大部分を領し、 遂に那賀郡の上府から益田の地に移った。そして姓を御神本から益田に改め七尾山に築城し、石見一国の覇権を握った。 兼高は一族を石見の河川流域の要所に分封した。三隅、福屋、周布がそれである。その後も子孫の繁殖と共に分封し、宇治、多根、丸茂、大草、遠田、仙道、波田、安富、乙吉、 菖蒲の諸家が益田市、美濃郡の間に拠城を構えた。
*6
益田兼季(5代)=兼高の子。右衛門尉兼季。彼の事蹟伝承はない。
*7
三隅=兼高次男、三隅兼信を祖とする。三隅郷、永安別符など那賀郡南部一帯を領した。 三隅家が三隅に居住したのは承久の乱後8年を経た寛喜元年(1229)である。
*8
福屋=兼高三男、福屋兼広を祖とする。兼広は邑智郡日和城に居り、日和冠者と称した。天福元年(1233)跡市の本明城へ移り住み福屋氏を名乗った。 邑智郡市木郷の一部、那賀郡永安、木田、稲光本郷、同久富、久佐などを領した。本明(乙明)に築城したので本拠はこの辺りらしい。
*9
益田兼時(6代)=建長2年(1249)京都大火で皇居造営に際し、幕府が奉行して御家人に造営を分担させた。この時国兼は執権北条時頼の命を受け材木や糧米を京都に送った。 この功により兼時は越中守に任ぜられ、爾後代々の益田総領家当主も越中守に任ぜられることになった。又、弘安4年(1281)の蒙古再襲来に備えて石見18砦を築いた。 併せて益田川のつけかえ工事を行って七尾城の外堀としての防御をより堅固にし、灌漑用水の不足を解消した。
*10
周布=兼季次男、周布兼定を祖とする。兼定は次郎左衛門尉と称し入道して道心と号した。初めて那賀郡周布の地頭となった。 文永年中、周布鳶の巣におり、家を立てて周布氏と称した。父兼季の所領のうち、周布、鳥居の両郷及び長野庄内の安富名、大家庄福光村の分譲を受けてその地頭となり、 安貞2年(1228)鎌倉幕府の安堵状を得た。
*11
益田兼久(7代)/*12 益田兼胤(8代)/*13 益田兼弘(9代)/*14 益田兼方 (10代) =益田家系図の中で兼久から兼見までの5代は*1に掲げた3種類の系図の間に大きな食い違いがある。益田家歴世歌は以下のAもしくはBの立場で作詞されている。
@の「御神本系図」では兼久の子として兼胤兼弘が兄弟となっている
Bの「系図纂要」では兼時の子には兼久一人が記され兼長が欠落している/兼久 兼胤は親子となっている
Aの毛利家文庫「系譜類、臣室類、譜録類」は@とBをまとめたものの如く見える。ここでは兼経 (初兼長)は早世によって家系をつがず、弟兼久が家系を承くとしている。
《第一の疑問》兼経(兼長)と妻阿忍との間の女は山道地頭兼弼の妻となり、 その間に兼弘が生まれている。「群書従類」やABには兼経(初兼長)が伊甘郷地頭であった事が記されていて、 後に兼経は伊甘郷の地頭職を妻阿忍に譲った。そして阿忍はそれを孫の道忍(兼弘)に譲った。伊甘郷は元来御神本氏の本拠があったのでその地頭には益田総領家がなる習慣であった。 こう見ると、兼経が早世で家系を継がなかったとは考えられず、何かの理由で長男の兼経を差措いて次男の兼久を「益田家家譜」に載せる必要があったのではないか。 (家督争いの結果ではないか)
《第二の疑問》兼見以前に益田総領家には「兼世」なる人物がいたらしい。益田兼弘に3人の子供が居た。長男は兼方。次男が「兼代」。三男が兼利。この「兼代」は「兼世」とも。 そしてAによると兼見の子にもう一人の「兼世」がいて兼見から家督相続を受けている。二人の「兼世」は40〜50年の歳の差があって別人物と考えられる。
この様な疑問に対して「益田市史」501頁、「近世益田氏の遺跡」245〜255頁、「益田氏と須佐」36〜37頁などの分析は大略次のように要約できる。
 ◆Aの兼久から兼見に至る益田家5代の系譜は山道郷を分割相続していた益田庶子家の山道家(福屋家)の系譜そのままではないか。
 ◆<イ>兼方には嫡男がなかったので、益田総領家の家督は弟の兼代が継いでいた。
  <ロ>一方、山道庶子家兼見は才略兼ね備えた勇将であった。そこで、兼方は彼を養子に迎えた。その時期ははっきりしない。この縁談は寺戸左近、勘兵衛兄弟が斡旋したので、 兼方は二兄弟を重用した。
  <ハ>寺戸兄弟は次第に横暴となり兼世(兼代)兼利兄弟から憎しみを買うようになった。逆恨みした寺戸兄弟が嘉歴3年(1328)年(又は元弘元年1331) 「若狭守」と謀って兼世兼利を石州大谷城に誘い出し殺害し兼方→兼見の家系へ家督を引き戻したのではないか。
 ◆南北朝時代の内乱期には各地で一族が北朝南朝に別れて抗争し「総領制」が弛緩した時代である。益田家でもこうした家督争いがあり、上の様な二つの事件の結果、 山道家(福屋家)の兼久からの家譜をAの「益田家譜録」に載せる必要が生じたのではないか。
*12
益田兼胤(8代)=左近将監兼弼兼衡、三郎弥五郎。兼久の長男。
*13
益田兼弘(9代)=左衛尉孫太郎、孫三郎。法名道忍。
*14
益田兼方(10代)=太郎。法名得生院即阿。兼方は嘉歴3年(1328)年(又は元弘元年1331)弟兼代と同兼利(或いは兼代嫡男)を家臣寺戸兄弟に殺害させ11代兼見を擁立した(上述)。 延文2年(正平12年,1357)5月22日没。11代兼見が家督相続したのは観応元年(正平5年,1350)頃であるから隠居後も事実上の差配を続けたものと見られる。 後に兼代、兼利の祟りを鎮めるため二人を今若明神として祀った。そして益田元祥須佐移住の際、兼代のご神体のみを須佐に勧請し須佐では若宮神社として祀った。
*15
益田兼見(11代)=越中守兼躬孫次郎。号祥兼。兼方の長男。*11に述べたような事情があって福屋家から益田家へ養子として入家。 観応元年(正平5年,1350)頃益田家を家督相続した。彼の生涯は国内が宮方と武家方に別れ中央も地方も戦いに明け暮れた戦乱の時代であった。 中先代の乱(建武2年1335)で再び戦乱の時代となると石見では足利尊氏の武家方に属した兼見らは宮方(高津長幸、内田致景、三隅兼連ら)と激しく抗争した。 兼見は上野頼兼らと協力して興国元年(歴応3年1340)豊田城攻防戦、その翌年の稲積城の戦いで宮方を打ち破り、同年更に福屋城(福屋氏)、小石見城(新田氏)、鳶之巣城(周布氏)を連破した。 その後一時宮方となったが、正平19年(1364)大内弘世が幕府に帰順し防長守護職になった後は兼見は大内氏に属し、その後益田氏歴代は大内氏に忠勤を励む。 応安3年(1374)益田に万福寺を建立。永徳3年(弘和3年1383)隠居、所領を三子に譲与。明徳2年(元中8年1391)10月14日卒。
*16
>万福寺=益田兼見が応安3年(1374)安福寺を中洲から現在地の清滝山下に移転改築し浄光院万福寺と称し、自らの菩提寺とした。時宗の寺。本堂は当時のもので国の需要文化財。 寺宝に鎌倉時代の仏画、絹本着色二河白道図1幅(国の重要文化財)、伝雪舟作の書院襖絵九面、紙本墨画楼閣山水図(県文化財)があり、 雪舟作の寺院式須弥山風庭園は室町時代の庭園様式の典型で国の史跡名勝に指定されている。
*17
益田兼世(12代)=益田兼顕。幼名次郎。応永3年(1397)幕府の命で大内義弘が少弐貞頼、菊池武朝を筑紫八代城に討たせたとき 兼世は周布吉見三隅の石見勢を率いて参戦八代城を攻略した。応永6年、大内義弘は和泉堺の自城で足利満兼の教書を奉じて諸将を招き、足利義満に背いた(応永の乱応)ので、 兼世は義弘の軍に加わったが義弘軍は大敗し義弘は戦死。兼世も大きな痛手を蒙った。応永14(1407)1月18日没。
*18
益田秀兼>(13代)=兼家、寿丸、次郎、左近将監、越中守。応永20〜21年(1413-4)那賀郡都治で土屋宗信が宗家の都治弘行を殺した(都治騒動)。 秀兼は子の兼理ほか吉見三隅周布福屋の諸豪と共に討伐に参加したが、それ以外に戦功は伝わっていない。益田に妙義寺を再建した。応永26年(1419)3月12日没。
*19
益田兼家=秀兼のこと。万歳山妙義寺は文永年間の草創で、その後六世130年を経た応永の始め益田秀兼が再建し菩提寺とした。
*20
益田兼理(14代)=幼名赤一丸、左近将監。永享3年(1431)6月29日筑前深江、萩原の合戦で討死にした。永享年間、鎮西探題の威力がなくなり筑前の少弐満貞、 豊後の大友持直が命に服さなくなった。将軍足利義教は大内盛見に命じて大友持直を攻めたが盛見は戦死した。兼理は大内軍に加わり筑前で戦っていたが、少弐満貞の軍に攻められ戦死、 長子藤次郎常兼、同族の波田兼政、家臣篠原惟元らも戦死した。兼理の死を悼んだ大内持世は美濃郡津毛、匹見、丸茂3郷を三隅氏より取り上げて遺子兼尭に与えたが、 これが後年益田、三隅両氏反目の原因となった。なお、兼見の死後、兼世→秀兼→兼理の三代の間に益田家では次第に「一子単独相続制」が定着し、 庶子家や一族を家臣団に組み入れて強力な家臣団が形成されると同時に総領家への権力集中が確立した。
*21
益田兼尭(15代)=兼理の第二子。兼広。松寿、益一丸、孫次郎、左馬助、越中守。永享7年(1435)大和越智維道の反乱鎮圧のため大和能登山の戦いに活躍したのが勇将兼尭の参戦の始まり。 文明17年(1485)5月23日没。
*22
益田貞兼(16代)=兼尭の子。幼名又次郎。長じて治部少輔、越中守。寛正2年(1461)家督。大永6年(1526)卒、法名全田。神護院を建立。父兼尭と共に幕府に従って畠山義就と和泉国切山に戦い、 次いで淀子、嶽山搦め手の合戦に抜群の功あり、応仁の乱では吉見・周布・福屋など石見勢と共に大内政弘に属して兵を京都に進め、山名持豊に味方した。 政弘が不在の虚をついて領国では文明2年(1470)大内教幸(道頓)の乱が起こり、 益田氏を除く石見勢は殆ど教幸に味方したが、貞兼は終始政弘に従う。文明4年(1472)教幸の乱が平定され、同10年応仁の乱もようやく終息した。貞兼は軍功によって所領を拡大し祖 父から三代に亘って益田氏繁栄の絶頂期を築いた。
*23
益田宗兼(17代)=幼名熊童丸。長じて孫次郎。治部少輔、越中守に任じ不屋軒と号した。天文13(1544)卒。周防の大内義興に属し、将軍足利義稙のために軍功を奏し後に義興に代わって石見の守護代となる。 明応5年(1496)少弐政資が筑前に乱を起こすと義興の命に従い朝日山、筑紫村、城山の合戦で奮戦し平定した。明応年中、津茂、匹見、丸茂3郷の土地争いで三隅興信と争いを生じ各地で戦端を交えた。 この争いは三隅氏滅亡まで続くことになる。永正4年(1507)、大内義興は細川氏の内訌に乗じて将軍義稙を報じて京へ大挙出兵し益田宗兼、尹兼父子も参軍。義稙を将軍に返り咲かせたので宗兼は軍忠抜群、厚遇された。 宗兼は崇観寺の南隣へ医光寺を建立した。
*24
*24 医光禅寺=益田市染羽町。臨済宗東福寺派。山号=滝蔵山。 開山=龍門土源。万福寺の約500M東、国道191号線に面して建っている。南北朝時代の貞治2年(1363)に創建、 崇観寺と称したのが起こり。医光寺は室町時代、益田宗兼が建立した境内塔頭であったが、本寺の崇観寺は衰廃し医光寺丈が残った。本堂、開山堂、総門、中門などを備え、小規模ながら寺容は整っている。 現在の諸堂宇は享保14年(1729)mp大火後創建されたもの。 竜宮造りと云われる総門は、元益田城の大手門を関ヶ原の合戦後ここに移し、承応年間(1652〜55)、黄檗宗寺院特有の竜宮造りに改築したという。県の文化財に指定されている。境内庭園は、万福寺と同じく雪舟の築庭 と伝え、国の史跡・名勝に指定されている。文明11年(1479)前後、周防の雲谷庵を出た雪舟は益田城主益田兼尭の知遇を得て崇観寺にとどまり、のち第5世住職となっている。境内には雪舟の死骸を焼いたという灰塚がある。
*25
益田義尹(18代)=尹兼。幼名熊童。長じて又次郎、越中守と称す。父、宗兼に従い大内義興に属し、城州船岡山で殊勲を立てたので将軍義尹は扁諱を与え尹兼と名乗った。永禄8年(1565)卒。家督相続後、 吉見氏と領境と匹見川漁業権を協定した。永正15年(1518)尼子経久が大友氏と呼応して周防を侵そうとして石見安芸で大内氏と衝突。大永6年(1526)大規模な戦いがあったが尹兼は大内方で参戦した。 また大永7年(1527)には尹兼は毛利元就と協力して尼子の属城、安南郡世能(広島市)鳥子城を攻めた。
*26
益田藤兼(19代)=幼名次郎、長じて治部少輔、右衛門佐となり越中守に任ぜられた。入道して全鼎と称した。天文8年(1539)将軍義藤(義輝)から扁諱を授けられ藤兼と名乗った。慶長元年(1596)没。 行年68才。天文20年(1551)〜弘治元年(1555)にかけて陶晴賢と姻戚関係にあった藤兼は大内義興側の吉見氏を攻めた。その間に、天文20年陶晴賢は深川の大寧寺に大内義隆を滅ぼしたが、 弘治元年毛利元就は厳島に陶晴賢を破り、次いで弘治3年大内義長を長府に滅ぼしたので防長2カ国は毛利氏の領有に帰した。一方、藤兼は天文20年三隅高城を攻め遂に三隅兼隆を服従させた。 陶晴賢滅亡後、陶方の残党として石見に孤立した藤兼は弘治3年吉川元春を介して毛利氏に服従した。永禄4年(1561)、福原隆兼が尼子に寝返ったので、藤兼は初めて毛利氏の下知で三隅高城を攻めた。 永禄6年(1563)毛利元就は藤兼を在番として尼子勢の本拠富田城を囲み、長期籠城の末、永禄9年(1566)尼子義久、倫久兄弟は毛利元就に降伏。永禄11年(1567)雲、芸、備、防、長、石の6か国が毛利に帰した。 永禄12年(1569)山中鹿之助が尼子再興を図ったが、藤兼は各地に転戦してこれを破り元亀元年(1570)までに尼子残党をほぼ平定し、最後に残った三隅氏のも元亀2年に滅亡した。この結果石見全域が毛利氏の支配下に入った。
*27
益田元祥(20代)=藤兼の四男。幼名次郎、任官して右衛門佐または玄蕃頭、受領して越中守と云った。俗名は又兵衛。晩年入道して牛庵と号した。永禄11年(1568)、藤兼・ 次郎(元祥)父子が芸州吉田に毛利元就を表敬訪問したとき、藤兼は11才の次郎に元服の際加冠を要請した。この時元就は扁諱を与え「元祥」と名乗らせた。天正元年(1573)織田信長は足利義昭を追放し足利幕府は滅亡した。 天正3年(1575)義昭は毛利氏を頼り、本願寺を助けて上杉、武田と同盟して信長に対抗しようとした。毛利氏に属する、益田元祥、周布元兼、吉見正頼も義昭に応じて兵を進めようとした。 尼子勝久を擁する山中幸盛(鹿之助)は羽柴秀吉に属し上月城に拠って毛利軍に相対したが天正6年(1578)毛利輝元によって滅ぼされた。元祥は暫く上月城を守備した。 その後、元祥は羽衣石(うえいし)城に南条元続を破り、秀吉に囲まれた高松城を救援しようとしたが、本能寺の変によって天下は急転し秀吉が覇権を握る事になった。天正13年(1585)秀吉は四国を平定。 この時吉川元春、小早川隆景は兵3万を率いて讃岐から侵入した。元祥はその先陣として高尾城を攻め奮戦した。天正18年(1590)元祥は秀吉の北条氏征伐(小田原攻め)にも参戦し、伊豆下田に城将清水康英を降した。 文禄元年(1592)秀吉の朝鮮征伐に毛利輝元も参戦(文禄の役)、先陣を承った吉川広家の軍は釜山に上陸、元祥も之に加わった。元祥は更に京城、門慶、醴泉に転戦し大功を立てた。 慶長2年(1597)南鮮再征(慶長の役)で元祥は再び渡海し、蔚山に戦う。この戦は慶長3年(1598)秀吉の死によって終わる。 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで徳川家康に破れた毛利輝元は防長2カ国に押し込められた。元祥は家康から石見益田に居留を許されたが、それを辞退して毛利氏に従い益田を捨てて須佐へ移住した。 これを聞いた輝元は元祥に須佐、田万川、上小川、鈴野川、弥富、一貫野、千坊を与え永代家老として優遇した。移封後、元祥は「6ヶ国返租」問題を解決するなど毛利家の財政安定化に貢献した。
*28
益田元尭(21代)=元祥の長男広兼は文禄4年(1595)20才の時疱瘡で病死する。元尭は広兼の長男である。道祖吉、七兵衛、越中守、玄蕃、無庵八道。元和6年(1620)家督。元和元年(1615)大阪の陣に従軍。 同五年(1619)広島城主福島正則が川中島四万石に改易のとき検分のため広島出張。寛永元年(1624)越前へ使者、同八年江戸へ行く。同13年江戸城手伝い普請のため江戸へ、将軍家光に拝謁。同15年島原の乱出役。同18年〜19年当職。 慶安元年(1648)と同4年江戸へ行く。同5年上京。明暦元年(1655)江戸へ行き翌2年帰国。万治元年(1658)没。64才。
*29
益田就宣(22代)=元尭の長男。七兵衛、右衛門、越中。寛永21年(1644)家督。正保3年(1646)〜寛文9年(1669)24年間加判役。慶安元年(1648)と承応2年(1653)江戸へ行く。寛文9年(1669)〜同10年当職。 延宝元年(1673)毛利綱広の長女良姫と尾張徳川家分家の美濃高須藩主松原摂津守義行との縁組みが成立し、御礼使として江戸へ行き将軍家綱に拝謁。同年病没。62才。
*30
益田兼長(23代)=就宣四男。虎之助、六之亟、源之亟。延宝元年(1673)家督。延宝8年(1680)没。14才。
*31
益田久之丞(24代)=元尭の5男福原与三忠左衛門就祥の四男。兼長急死の後を継いだが貞享元年(1684)没。8才。
*32
益田就恒(25代)=元尭の5男。就真、就祥、就祐、万作才八、主馬、宇右衛門、与三左衛門、越中。久之丞が死んだとき代役であり、藩の加判役であった。元禄6年(1693)没。
*33
益田就賢(26代)=百合亀、小四郎、右衛門、越中、玄蕃。実は益田又左衛門就武の第二子益田隼人就明の弟で元祥の曾孫にあたる。寛文12年(1672)生れ、元禄2年(1689)養子として入家。 元禄3年(1690)吉就から扁諱を賜り就賢と名乗る。元禄15年(1702)〜宝永5年(1708)加判役。享保17(1733)没。61才。
*34
益田元道(27代)=>梅之允、越中。就賢長男。元禄15年(1702)生れ。宝永7年(1710)家督。正徳二年(1713)藩主吉元より扁諱を授かり「元道」と名乗る。享保4年(1719)〜同11年大頭役。寛保2年(1742)江戸からの 帰国途中京都で病没。41才。享保20年(1735)頃、品川希明を挙用して育英館を創建した。
*35
益田広尭(28代)=兼充、采女、宮内勘解由、越中。宝永7年(1710)生れ。益田織部就高の子。はじ繁沢宇右衛門貞雄の家を継ぐことになっていたので、繁沢勘解由利充と称したが、 元祥の尊孫なので元道が嗣子とした。寛保2年(1742)家督。同年藩主宗広から扁諱を授けられ「広尭」を名乗った。寛保3年(1743)〜寛延3年(1750)加判所に勤める。延享3年(1746)江戸勤、翌年帰国。 寛延3年(1750)城代家老。寛延3年(1750)〜宝暦2年(1752)当職。明和2年(1765)病死。56才。
*36
益田就祥(29代)=兼祥、喜次郎、越中、又兵衛。寛保3年(1743)生れ。広尭5男。明和2年(1765)家督。同年留守居役。安永5年(1776)〜天明3年(1783)当職、藩財政改革に貢献。 文化元年(1804)没。62才。資性英邁、前大納言日野資枝に師事して国学を学び、和歌、書道にも長じ、須佐十二景を選定した。
*37
益田就恭(30代)=就祥二男。明和元年(1764)生れ。兼恭、熊次郎、喜次郎、越中、安房、丹後。安永九年(1780)藩主重就から扁諱を授けられ就恭と名乗る。天明4年(1784)家督。 同年より天明9年(1789)まで大頭役。天明8年(1788)防長両国安堵の御判物頂戴したので御礼使として江戸へ行く。寛政2年(1790)〜同9年留守居役。享和3年(1803)隠居。文化元年1(1804)没。41才。
*38
益田房清(31代)=兼清、吉十郎、丹後。吉敷毛利外記就兼の3男。寛政3年(1791)生れ。同年入家。文化2年(1805)初めて須佐に来た。文化12〜13年大頭役。文政2〜9年(1819〜26)留守居役。 文政9年(1826)没。36才。小国融を邑宰(村長)に抜擢して学問を振興した。
*39
*39 益田元宣(32代)=兼宣、幾三郎、蔵人、播磨、越中、刑部、玄蕃。享和2年(1802)生れ。一門右田毛利内匠祥任の5男。藩主斉元から扁諱を授けられ元宣と名乗った。文政7年(1824)23才の時, 房清の一女美智子(孝子)の婿養子となり同9年(1826)家督相続。文政11年(1828)留守居役、同12年当職暫役
。天保2〜5年(1831〜34)当職。天保6〜8年(1836〜38)再び当職。天保8年当職直詰。 天保11〜15年(1840〜44)当役。村田清風を起用して財政再建、羽賀台で軍事大演習を行った。弘化3年(1846)当職。嘉永元年(1848)留守居役。同年明倫館再興大都合役に任ぜられ、翌2年新明倫館が開校した。
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