古文書を読む(増野家文書)『御家来御人数石高之覚』整理番号:「12袋49」 |
TOP PAGEへ | 前頁へ戻る |
解 題 |
|
この文書は幕末に於ける益田家臣の封禄総額を記録した覚書です。残念ながら日付がありませんので、何時誰が何のために残した覚書なのかが
分からず、資料的な価値が損なわれていますが、それでもこの簡単な1枚の文書から色々な事が読みとれます。 毛利藩は慶長5年(1600)関ヶ原の敗戦によって防長2カ国へ国替えとなり家臣の俸禄は大幅に削減されました。そして藩政は徳川300年を通じて緊縮財政を 余儀なくされました。益田家もその例外ではなく、須佐移住後の家臣の俸禄は石州時代の1/5となりました。 御承知のように武士の知行は「四公六民」 でしたから、知行高の40%が実質的な収入でした。所が、藩政府の財政は参勤交代や幕府に対する手伝い普請で窮乏し、これを救うために「馳走米」を藩に差し出す事が恒常的な慣習となり、最も厳しいときは「半知」と言って収入の半分を税として徴収されていました。例えば、公称100石取りの武士は40%の40石が本来の 収入ですが、それが更に半分に削られて実質は20石であったという厳しい状態でした。それでいて武士は家人を養い、馬を飼い、 一旦緩急に備えて武具を調え、交際もしなければなりません。収入がが足りなければ武士も自ら土地を耕し、細工物を作って内職に励まなければ武士の 本分が果たせなくなります。須佐でも同じような状態であったと考えられます。このような過酷な臥薪嘗胆の生活が徳川300年の間続いた結果、長州では 人々の心の奥底に何時の日か幕府を倒して天下を取ろうという気概が「関ヶ原の恨み」として残りました。これが幕末に爆発して明治維新へと駆り立てて行ったのです。 この文書を読むと幕府直参の御家人などに比べて益田家臣の俸禄は大変少なかったのに驚かされます。
◇「老臣」の禄高はこの文書には記載されていません。しかし「老臣」の数は昔から伝統的に5名で「分限帖」に記録されている数字はわざわざ書かなくても
これは誰でも知っていたのでしょう。 ◇この文書からは「上士」(大組)は42人で石高の合計は680石ですから、平均は16.2石。「中士」(御手廻組)は76人で合計787石で平均10.4石となります。 一方、「分限帖」によれば「上士」は100石から12石までの幅があり、「中士」も29石から1人扶持までありますがこの文書の数字よりもう少し多い様に思います。 この違いは何でしょうか。研究が必要です。 |
読 解 |
|
◆御家来御人数石高之覚御家来御人数石高之覚 合人高四百七拾壱人
大組四拾弐人 合石六百八拾石
手廻リ七拾六人 合石七百八拾
栗山組 拾四石持五人 九石三斗三升
小国組 拾四石持四人 九石三斗三升
上松原組 拾四石持四人 九石三斗三升
下松原組 拾四石持四人 九石三斗三升
医者 五拾壱石ヨリ十五石持迄八人 |
Copyright(C)須佐郷土史研究会
|