須佐歴史夜話

『村庄屋任命の考察』

増野 亮
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 ◆ まえがき

 元治元年(1864)7月禁門の変で敗退した長州藩では、攘夷のための異国船打ち払いが原因で、米英仏蘭の連合艦隊が報復行動のため下関に来航し、藩の攘夷砲台を占拠した。
 その上更に、第一次長州征伐の幕府軍が藩境に迫るに及んで、藩内では幕府に対する恭順派が藩中枢を掌握し、京都で敗れた責任者の益田親施(ちかのぶ)ら 3家老、および4参謀を処刑、幕府に陳謝する事態となったのである。
 自刃させられた永代家老益田親施の采邑須佐では、主君拘束の報を受けるや藩の意向に従う主流派と、主君救出を図る急進派に意見が割れた。 間もなく親施の切腹があきらかになった後も、藩命には恭順の姿勢をみせる主流派と、志半ばで倒れた亡君の遺志を継ごうという回天軍との抗争が、 陰に陽に表面化したのである。対幕恭順を標榜する藩政府の下にあっては、諸隊と気脈を通じる回天軍の動きは、 浮沈の瀬戸際にあった益田家にとってすこぶる危険視され、これが、本藩による益田家の取り潰しの口実を与えることを憂慮した主流派は、 曲折はあるが回天軍を潰し、首脳に責任をとらせて禍根を絶とうとしたのである。

 ところが、皮肉にも本藩では、奇兵隊ら諸隊の革新勢力が強くなり、終に対幕恭順派から倒幕勢力が、藩政治権力を奪還、完全に風向きを逆転させた。 このため新政権下にあって、回天軍を押さえた益田家中の首脳は、これまでの回天軍抑圧の施策を問題視され、改めて本藩から関係の首脳が、 処分を受ける事態になった。温故16号の「江崎滞留中日裁」は、このとき須佐領外追放の処分を受けた益田本家の家老職、益田三郎左衛門の追放中の日記である。

 ◆ 鈴野川庄屋 増野瀧左衛門

 前書きが長くなったが、この三郎左衛門の処分、江崎村大中屋での蟄居(領外追放)が4ヶ月目に入り、春の兆しが感じられるようになった旧暦の2月3日、 鈴野川庄屋、増野瀧左衛門が「見回り」という名目で、「酒1樽と山鳥1羽それにわさび」を手土産に、謹慎中の三郎左衛門を慰問に訪れている。

 平成の今日になって、まったく偶然に「増野瀧左衛門の家系図」のコピーをみる機会を得た。その要点を紹介すると以下のようになる。

 初代:増野筑後(別名 新右衛門)。
寛文初年の頃 旧領主と契約のもと石見の国益田奥増野村より須佐村に転住。同村三原の八幡宮々主に就任。寛文12年〜宝永2年 須佐村庄屋役。 (8代治平が、安政年間、須佐村字原浄福寺の石碑文字から発見)
 2代:増野治五右衛門(別名 新右衛門・2代筑後との異名も)。
宝永3年〜享保8年 須佐村庄屋 。(注:この2代の記載は8代増野治平氏が安政年間に須佐村字原浄福寺の石碑を調べ発見)
 3代:増野幸左衛門 (別名 治五右衛門)
享保9年 〜宝暦3年 鈴野川村庄屋に転職のため転住、鈴野川庄屋。(3代以降の石碑記録は鈴野川村字中河内にあり)
 4代:増野治兵衛 (別名 貞四郎)
鈴野川庄屋カ。
 5代:増野貞四郎  (別名 重蔵 治兵衛)
鈴野川庄屋 カ。宝暦13年7月 出精ニ付永苗字差許サル。
 6代:増野幸左衛門 (別名 貞四郎 忠蔵)。
寛政6年〜寛政8年までは7代萬左衛門若年ニ付他家の與三左衛門庄屋役を勤ム。
 7代:増野萬左衛門 文化8年数代の勤功ニ対シ役中帯刀差許サル。
 8代:増野治平
  文化14年〜慶応元年 庄屋(鈴野川カ)。天保7年 数代ノ勤功ニ依永久帯刀ヲ許サル。
 9代:増野瀧左衛門
  (明治新制度)依改正 鈴野川庄屋ヲ免ゼラル。

庄屋役に関係する部分を抜粋すれば以上のとおりである。

 ◆ 適材適所の異動

 筆者が興味を覚えたのは、益田元祥公が毛利に臣従を決めて須佐に移住したのが慶長3年(1598)(筆者家系図)である。前記の初代筑後が招かれて須佐三原八幡宮に就任したのは、 寛文元年(1661)とすると、一族が益田の旧領で別れて以来63年後の呼び戻しである。益田七尾城益田家には分家の益田姓の家老が4家、増野姓の家老が1家あった。 「増野」と表記する家系は管見の限りでは、全国で石見の益田庄だけである。旧領地を離れるとき、族長である増野家老が、一族の有望な人材を選び、武家身分を解いて、 旧領に残したものと考えられる。徳川新政権が安定し、主家益田氏の旧領復帰の可能性も消え残留の意味が薄れたたという判断もあったであろう。
 他方、須佐の村落である新領で、年貢を安定的に確保収納するには、益田で農業の経験があり、村落の生活生産指導や秩序形成のできる人材が喫緊に必要となる。 そこで石州の旧領から増野筑後を呼び戻し、暫定職の宮司で土地に馴染ませ、須佐村全般の農事の経営・育成を図り、益田家の下部構造の基盤造りに貢献できる庄屋役に任命したと推察されるのである。
 3代以降の須佐村から鈴野川村への移動だが、鈴野川は、長州益田家が石州との国境を接する土地の一つで津和野城に最も近い。行商人や隠密などの他国人が長州入りをするルートでもある。 江崎・田万を経由する北前船の物流は主として平地の下小川の鍋山から石州益田方面へ流通したようだが、一部の軽量物は津和野に近い鈴野川を経由したことであろう。
 鈴野川の国境を越えれば、そこはもう津和野藩領である。関ヶ原の敗戦で城主吉見氏が、益田氏同様に長州へ転出。あとに坂崎出羽守が短期間津和野城主となったが、 3代増野幸左衛門が鈴野川庄屋に就任する享保の頃は、次の亀井滋延豊前守の在城する城下町であった。距離も須佐へ出るよりこちらがよほど近い。農産物や商いで津和野城下までといわず、 周辺の農村へ出向けば、巷の噂話しの収集はすこぶる容易である。民政のみならず経済・藩内事情の収集を前提として庄屋辞令を出したと推察されるのである。
 津和野領で異常があれば、逸早く須佐にある行政庁へ報知し、場合によっては、益田家中の軍事力で機を逸しないように対応という、そういう使命が想定される。

 ◆ 家系ごとの論功行賞

 益田家から武家に準じた増野姓の呼称は、当初は個々人が都度認められていたが、5代目になって「永苗字」が赦されている。そして7代目には先祖同様に「帯刀」を許可、 8代目以降は子孫に及ぶ「永久帯刀」が認められたと記録されている。
 益田家行政庁のなかで、庄屋である当主の個人管理のみならず、過去からの家系業績が掌握され、その評価が行われ、処遇が逐次厚くなっていく管理のありようには、いささか驚かされた。 こういうきめの細かい業績評価があればこそ、「先祖の名を辱めない」という意識が自然に子孫に生まれ、村政の一貫性も生まれてくる。個人主義を謳われる現代でも、 ある人が「個人を連綿と連なる家系チェーン(鎖)の一つ」という「血脈」を通じての個人観を表現している。
 近世藩政の村落管理がまさに「庄屋家」を過去から連綿と繋がる血脈体とみて、先祖の積年の功績を加味して、当主の処遇を評定していることは特筆に価しよう。

 ◆ 三郎左衛門への見舞い品

 家老益田三郎左衛門が、増野瀧左衛門とどういう話しをしたかは、記録がないので知るべくも無い。時は動乱の幕末である。単なる慰問だけとは、考えにくい。 ただ注目したいのは、さすがに村長である庄屋職だと思う。「酒1樽」の手土産というのは豪勢である。津和野の銘酒を手代に担がせて持参したものであろうか。 酒の持ち込みは多いが、樽ごとは他に2件「日裁」にあるだけである。多数の見舞い客への振る舞いにという気配りが感じられる。
 内陸の土地柄だけに、「山鳥とわさび」も当時としてたいへん貴重で珍しい贈りものと推定される。山鳥は野生種だから、見舞いの前日に仕留めなくては間に合わない。 須佐だから海産物には馴れた三郎左衛門も、寒気で肉に油の乗った珍味を賞味したことであろう。少年時代を須佐ですごしたが、 「わさび」が取れるという話しを寡聞にして知らない。だが中国山系に抱かれた鈴野川の谷間の部落には、清流が多くわさびが取れたようである。 瀧左衛門の子孫の家では「わさびの漬物」を特に珍重したと伝えられるから、生わさびにこの家伝のわさび漬も持参されたに相違あるまい。

   【注】姓は同じだが筆者は瀧左衛門の家系に連なるものではない。

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