●元治元年7月4日付けのこの文書は蛤御門の変に際して須佐兵が京都に向け出陣するに当たり軍規を周知徹底する為に出された通達書です。全軍の軍規、合図の申合せ、陣中規則などを取り決めています。
このHPの「随行日記」と併せてお読み下さい。
●元治元年7月3日、益田親施は本藩からの指令により上京すべく須佐から手勢300名を率いて山口入りしました。そして本藩の兵を併せ総勢600人の軍勢を率いて7月5日夜三田尻から乗船し海路大阪に向かい、
7月12日大阪着船。直ちに山崎に向かい、同14日山崎宝寺本陣に到着しました。何と益田家中ではこの出役に公費から手当が支給されなかったという驚くべき事が記されています。
●「公儀御大法者勿論当家之軍令堅く相守り」という文言が見えますが、日付からみて、益田軍が300人から600人になったので、乗船前に益田家中のみならず本藩の兵を含め益田親施麾下の全軍に
周知徹底する為に通達を発したものと考えられます。ここで公儀大法というのは萩藩の規則の事です。幕府のことは大公儀と云いました。
●なお、「防長回天史」第4編上 5 337頁には元治元年6月15日に福原越後の軍とこれに従った佐久間佐兵衛、竹内正兵衛、熊谷岩尾、真木和泉、久坂義助、入江九一、寺島忠三郎らが
上関から出帆して上京する際に発せられた本藩の軍令書が記載されているが、「申聞条々」と相通ずる内容です。この時益田家臣の小国融蔵が陪臣の身分でこの軍令書立案に参画した模様です。
そうだとすれば、須佐兵に発せられたこの「申聞条々」も彼が起案した可能性が高いのではないでしょうか。