古文書を読む(増野家文書)

須佐市中諸所溝手間数改并仕置所付立

整理番号:3袋23

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 解 題

この文書は是非「須佐本川筋左右川幅改帖根控」と併せてお読みください。

この文書は文化11年(1814)10月須佐市街を流れる溝の改修工事を行った時の記録です。一方「須佐本川筋左右川幅改帖根控」の方は須佐川の改修工事の記録で、両方とも同じ時期に工事を行った事が分かります。

また、このホームページに掲載している「須佐市中細見図」(天保12年=1841)は、これより27年後に描かれたものです。勿論、その間に家々は代替わりなどで姓は同じでも名が変わっったりしていますが、そういう事を気にしないで 古地図とこの文書を比較しながら読んで行きますと文書に出てくる場所や苗字などが大体一致していて往時の須佐の様子がよく分かります。道路脇に「溝」が描かれていて橋なども描き込まれています。湧き水のあった場所を地図上に表記すれば当時の須佐の水事情はもっとよく分かるでしょう。井戸は沢山掘られていたと思います。

江戸時代の「溝」は生活用水でした。従って、この文書は「水道工事」の記録と考えて読むと良いでしょう。人々は溝に流れる水を大切に扱いました。「溝」は上水です。 現代のように溝には汚物、汚水を流しません。人々は、この水で食器や野菜を洗い風呂を沸かしました。飲用水は雨水や井戸水を使うことが多かったと思いますが、 濾過して飲用水にも使った事もあったでしょう。私の中学時代迄は、日本でも農村へ行けばまだこういう溝があって水道の役目を果していました。 私は東マレーシア・サバ州の山奥やインドネシヤのカリマンタンの山奥で木材伐採に従事している現場を視察したことがありますが、道路も水道も無い場所では全ての家は 川に向かって建っています。人々は雨水を濾過して飲用水にします。川は道路であり、風呂であり、洗濯場であり、便所であり、生活の全てが川に依存していました。 人間の排泄物は魚が直ぐに食べてしまいます。そしてその魚を人間が食べる。正に輪廻の世界です。江戸時代の日本はこれと同じ状態であったと思います。 近世日本が異なるのは排泄物が肥料として売れたので、無闇に川に流さなかった事です。その為に日本は世界でも稀に見る清潔な国でした。

須佐市中には竹藪が多かった事がこの文書で分かります。一旦緩急の時に 弓矢を作る備えだったのでしょう。また、邪魔になる木などを「本切り」「尾切り」「枝おろし」などで処理したとか、土手を高くしたり、低くしたり、或いは石垣を 直したり、多数の杭打をした様子が記録されています。サクラだとか梅のような鑑賞用の樹木や柿、栗など果樹は余り出て来ません。楮(コウゾ)、櫨(ハゼ)、桑など産業用の原料になる木の名前が沢山登場します。人々が如何に木を大切にしていたか。始末した木の明細を1本残さず記録していることから分かります。


 読解文
 
P01
松原いぶた溝手                 (松原=まつわら)

金子垰通り上松原ノ
久三郎持懸リ田頭(たのも)山際
より四丈か善右衛門
持懸リ田 其次 村岡七郎右衛門
(注)三原飛脚番屋敷と野頭飛脚番屋敷あり
宮内杢左衛門畠迄左右
溝手三尺ニ〆左右杭打
 
付リ 宮内杢左衛門
畠之岸櫨一本切 其外
か九取のけ之事
金子垰之下東之方
増野良佐畠西者
栗山半左衛門 三好屋弥
三郎 尾六郎右衛門
波田熊衞 御台所 兵左衛門
持懸リ三尺溝

P02
 
付リ 半左衛門持懸リ
之内 梅木切のけ
右之下モ向御台所 弥七             (下モ=シモ)
向ひ東ノ方 御台所 兵左衛門
金蔵持懸リ境ヨリ溝手
三尺三寸
右之下モ東手者 御台所
金蔵 弥七 増野良佐持
懸リ境左右溝手四尺
溝之事
 
付リ 弥七屋敷桑大小
弐本切のけ
東品川金蔵西増野良佐
持懸リ溝手有懸リ
之通
松原ノ正蔵持懸リ向ハ道
品川金蔵預リ之間溝
五尺ニ〆
 
但 正蔵境桑弐本
切除宮蔵川べり
桑楮取のけ
松原本道石橋シ仕
之事

P03
右橋ヨリ入口左リハ御組ノ
三左衛門 右手ハ御組ノ常左衛門
夫ヨリ左右共頭之御組ノ常
左衛門増野五郎左衛門御馬屋
勝蔵御組ノ茂左衛門カ利三左衛門
内田小左衛門迄持懸リ五尺
右ノ下モ西ハ田熊蔵
東ハ御組ノ兵右衛門五尺溝
右ノ下モ井上孫兵衛
左右共合せ其下モ
御組ノ政右衛門左右
夫レヨリ的場迄五尺溝
的場右溝通并西五ノ
浴ヨリ之溝手出合
本川へ之出口壱間
溝ニ〆
同所射手屋之後ヨリ
川ノ手之方増野新七
杭打〆縄張相成候事
 
付リ 宮ノ方ヨリ的場射手
屋小平通路脇子
同様ニ付道杭打〆候事

P04
大薀寺門前上方
原井平左衛門屋敷との
間弐尺溝ニ〆杭打
〆相成候事
 
付リ 上山根丁之大薀寺
杉垣との出口へも根杭打
候事
同寺下モ方田村貞右衛門
貸屋との間右同断
 
付リ 大薀寺ヨリ下山手
出口田根民三郎屋敷
通リ上ノ角ト西通リ候
も同断
大薀寺門前上下之間タ                (間タ=間ダ)
間数二間半也
田根小源太小平通リ山手下
出候道と本町田村貞右衛門
貸屋并町屋敷品川伝次
後通リ懸藤十郎兵衛
後通リ迄との間溝手
弐尺五寸杭
本町甚五郎後之下瀬
兵衛門小平通リ之溝手
下山根丁より町恵美須
堂之道中程へぬけ候溝ニ

P05
付上下両所二尺溝ニ
〆杭打候事
河原丁道之前 本
町後通リ溝上ヘ弐尺
溝と相見ヘ溝溝手下モ
迄ハ出目入目有之候得共
杭をハ打せ不申見計
を以石垣土手せまき所
をハ仕直シ候様打廻リ
を以持主へ申聞せ候事
 
付リ 右溝へ所々
持懸リ境ヘ不相抱            (不相拘?)
溝さらへ之印杭打
候事
右溝手持懸リ松野
甚五郎 仁保左平左衛門
前茶ノ木生立有之
候事 取除候様杭打
候事
右溝手町之方 田村忠右衛門
岩本惣左衛門 町ノ長左衛門
土手高ク相見候故
並同様土手ひくめ候
様杭打候事
 
付リ 貞右衛門西通リ
垣手切つまへ猶櫨之
□□三つ又壱本河原丁ヘ

P06
出はり候分切除候後
打廻リを以申聞せ候事
右溝筋町ノ新三郎
櫨切払候様申聞せ候事
右土手ヘこもた置不申様
申聞せ候事x
松井茂三郎 大
清左衛門屋敷通リ之溝
せまく上下之見合を以
直シ候様申聞せ候事
松井茂三郎 柳
次子勝蔵柿ノ木
品川忠次柿ノ木 道筋ヘ
障リ候故切除候事
右溝筋今藤宅次
中尾弥三兵衛西通リ
道五尺八寸夫ヨリ小橋之
方ヘおんのめニ道付候事

P07
椰木惣門下ノ溝手
四尺夫ヨリ本尾官次
竹藪小原永之進長屋
伝蔵持懸リ田との間
同断
御茶屋川参すけ
モ山ノ手はせノ木切のけ
右川筋増野平蔵
後通リヨリ御茶屋下ノ
曲リ目迄八尺夫より
下モ九尺ニ〆次第はバ
広リ宅野左衛門後小
川との出合と御茶屋
川一丈弐尺
御茶屋川中津後
小川との出合下モ弐間
弐尺
右川筋勢溜リヨリ宅野
門左衛門後小道へ取付

P08
上門左衛門屋敷ヨリ小溝
つり切有之候所三間壱
尺六寸
右同断之下勢溜リヨリ
入口三間半
御土居橋ノ上川はヽ四
間壱尺
同下四間三尺
浦東川畑えんとう
川 大谷平左衛門後通リ
前方東ヨリ出口汲地
続キニ長き汲地有之
候処其後平左衛門方ニ
候ニ付東ヶ輪之
用水等之閊有
之由ニ而願出之筋見分
之上右汲地ニ仕候ハヽ
原田ヨリ水之引も宜
敷用水等之弁理も
能相見候ニ付大谷平左衛門
方ヘ汲地ニ相調候様
沙汰相成候事

P09
田中松野右源太金山
永中野屋敷之間溝
手水捌不宜故田中
通リ洪水之節閊有
之段入江左次馬ヨリ申出
候ニ付栗山半左衛門
見分候上右源太永中
屋敷通リ前後溝筋
三尺五寸はヽニ〆杭打
候事
益田八郎左衛門内庭之
池ヨリ松原多門
門前之前江出溝筋
之内八郎左衛門方町ノ
千蔵居宅之後双方
石垣出目入目有之
候ニ付栗山半左衛門
見分之上見渡を以
縄引ニ〆上下江杭
打せ候事

 凡 例
旧漢字、旧仮名使い、俗字、異体字、略字、宛字、などの表記は出来るだけ原典に忠実に読解する。但し、活字が無い場合(異体字など)には当用漢字を充てる。
不審個所(読解の正誤不明の文字)は朱書する。
推読個所(虫損、脱字、行落ち、ほか)は□で囲む。必要に応じ脚註を付け説明する。
誤字はルビで正字を示し、必要に応じて脚註を付け説明する。衍字は衍字とルビ。
合字(より、トキ、トモ、シテ(〆)など)・女筆(まいらせ候など)はヨミの通り平仮名又は片仮名表記する。
変体仮名(越、者、可、尓など)は 「を、は、か、に」と表記する。
小文字の助詞(者、江、与、茂、而、之など)は「は、え、と、も、て、の」と表記する(右寄せの小文字表記はしない)
連続する固有名詞の間には「・」を打つ
返り点は採用しない。代わりに読みにくい個所にはルビでヨミを付ける。
次の様な場合はその該当個所を「 」で囲み、本文ではないことを示す。朱書(筆)、後筆、異筆、付箋、貼り紙、 封紙上書き、端書、端裏書、裏書など。
花押は「花押」、印章は「印」と表記する。
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