慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで敗れた西軍の総帥、毛利輝元は中国地方120万石の大大名から防長2カ国369千石に改易され広島から萩に居城を移すことになりました。
この時益田元祥も父祖の地石見国益田を捨て長門国須佐に移住しました。慶長5年11月26日、総勢621人がこれに従いました。
(『須佐町誌』P131以下)
今回ご紹介する「増野家文書」7袋1の「石州以来益田家職役」の「石州以来」というのはこの須佐移住の前後から寛政3年(1791)までの191年間の
益田家の「職役」を勤めた人々の名簿です。
「職役」というのは「当職役」の事と考えられます。萩藩では「当職役」は
『毛利氏の広島時代に山田元宗がこの職にあり、ついで慶長5年防長移封の際には
佐世元嘉が任ぜられていた。この職は藩主の在国の如何にかかわらず常置され、租税の徴収・金穀の融通等の財務や民政を掌理せしめた重職であって、
当初は代官役とも防長仕置役 とも呼ばれ、役所を地方職座
と称していた。その後、三井元信・井原元歳は藩費窮乏の救済に尽瘁し、特に元和9年益田元祥・清水景治が両人役の当職
となって、財政整理を行って以来は一層重い役目となり、寄組の外一門6家からもしばしば就任するに至り、国務最高のの執政者としての実権を握っていた。
文久3年3月、当役と同様廃役となり、加判役が順番に勤めることになった。なお、当職役のことを国相とも雅称し、
その役所を国相府と呼ばれた』[「山口県近世史研究要覧」(石川卓美編修)より]
とあります。
一方『もりのしげり』(時山弥八著)には
『天正11年(1583)の創始。就職階級は一門、永代家老及び千石以上寄組士。役料毎年拝借として金2百両。往昔は御代官、又防長仕置役と称せり。
又雅称を国相と云う。租税、収納、金穀運転の事を専任する職なり。後年国元留守居家老の職権をも司るに至れり。文久3年3月廃役。加判役より順番に之を勤む』
とあります。
所が「温故」第13号に掲載されている「益田家御子孫之分派并諸子長門へ御国替以前於益田来歴之次第」の増野宗的の項に
「正庵(増野甲斐)は田万・石州に於いて、玄蕃手に付け高石これあり、天正八年元祥様御代より益田当職役仰せ付けられ候、大谷佐渡に差し替えられ候、
益田左衛門亮へ諸事伺い候て御用相調え候事」という記述があります。すると益田家の当職役は毛利藩よりも3年早い天正8年(1580)に創設された事になります。
初代当職役が増野甲斐(正庵)で、大谷佐渡の後役であったとすると、今回ご紹介する文書と一致します。
一方、「益田市誌」上巻726頁には「奉行は益田家(4名)、家臣増野家(1名)の五奉行が担当した。享禄3年(1530)には、益田刑部少輔兼慶・同右衛門大夫兼織り・
同民部丞兼順(かねそう)・同弥次郎兼慶ら四名の外一名の増野家(益田家の支族)によって代行された。益田藤兼の代の執権には赤雁城主益田兼豊がおり、その手腕は
有名であった。彼は天正年間軍梁を勤め、七尾山在城の時は鐘ノ尾を持ち場とした。朝鮮征伐に増野護吉は、赤雁益田家益田兼順と共に渡海して奉行を掌った。護吉は天正
七年から慶長元年の18ヶ年、益田家の執権を勤めた。大谷城主大谷氏は、文禄の役当時赤雁益田氏と共に、五奉行の一人として勤めた。関ヶ原の合戦には、武者奉行
として増野藤右衛門・幟奉行大谷七郎右衛門がおり、823人の軍勢を率いて近江の勢多に向かっている。慶長年間には益田二郎兵衛・益田又左衛門・益田八郎左衛門・
益田仁兵衛・増野藤右衛門の五奉行がいた」と述べられています。国替え以前の藩政は「五奉行」が代行し全員が「執権」でした。この内1名が常に藩主に陪従し「当職」と呼ばれるようになったと考えられます。
また「石見諸家系図録」(誤記多し)に収められている増野家系図の増野護吉とその子祥護(宗的)の項に次のような記述がありますが、二人とも在任期間は今回の文書と一致しません。
又、「執権」ではなく「執政」で須佐移住後は「執事役」であったと記されています。
◇護吉
「天正七己卯年(1579)至慶長元丙申(1596)年迄十二年間(?)益田家執政相勤」
◇祥護
「関ヶ原合戦後益田家長門国阿武郡須佐移住砌長子尭次共須佐移 慶長元(1596)丙酉(丙申の誤り)年至元和元(1615)己卯(乙卯の誤り)年迄二十四年間益田家執政須佐移住慶長六(1601)辛丑
役職執政改執事役」
なお、吉川家の職制では「当職」と「職役」とは別の役職でした。
序でに当職によく似た「当役」は
『慶長6年加判役の児玉元兼が江戸定詰都合人として藩主に陪従し機務の処理に
当たった事に始まる。その後、福原広俊・児玉景唯を経て元和元年井原元応に至り江戸御当役と称せられたようである。藩主の在国参勤を問わず常に
それに従って補佐する職で、初めその権勢はさして強いものではなく、一門六家からこれに任ずることは希有であったが、大組の士以上の進退その他藩主の
親裁を必要とする事柄は概ね当役の手を経由するようになったため、権勢は甚だ盛んとなり、当職を凌ぐ場合もあった。文久3年3月に廃役となり加判役が
順番に勤めることに変わった。また、当役のことを行相とも雅称し、その役所を江戸職座
或いは行相府と称した』(同上要覧より)。
「裏判役」は
『当職の事務繁忙を極むるに至り其属職を設け事の小なるものは直に之をして検証判決せしむ。而して裏判役は其首班たり。
慶応2年9月10日此役を廃し当役の直判と為す。往昔明暦元年行相府にも此役ありしが享保元年廃役とせり。』
(「もりのしげり」P293より)
「添役」というのは補佐役の事でしょう。
要約すると、
●益田家が「当職役」を創始したのが天正8年だったとすると、
◇増野甲斐護吉の就任期間が天正七年(1579)ヨリ慶長五年庚子(1600)と書かれているので、護吉の在任中に新しい役職が出来たことになる。増野護吉が最初の当職か。
◇名簿筆頭の益田伊豆兼豊、益田左衛門進経久、大谷佐渡は護吉の先任執権であったが、当時はまだ「当職役」とは呼ばれていなかったのであろうか。
●担当職務は本藩に準じるものと考えて良いでしょう。
●益田家の階級制は老臣(益田家四名と増野家)、上士(大組48名)、中士(御手廻96名)、下士(104人)、兵卒・家業人(64人)、中間分(214人)
(「須佐益田家分限帖」)でしたが、この名簿からみると「当職」には原則として老臣と上士の中の練達の士が選任されています。
●人事異動の背景として隠居、病気、死亡など本人の事情や引責辞任があったことは今も昔も変わりませんが、益田家の代替わりの時に当職役も更迭することが
屡々あったことが分かります。