古文書を読む(増野家文書)

永代家老益田家と増野家文書

城一 昭人

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◆慶長5年(1600)関ヶ原の敗戦いのあと、益田七尾城主の益田元祥は徳川氏から益田領をそのまま安堵するという誘いを断って、 報恩のある毛利氏について須佐へ移住しました。これに感激した毛利輝元は「毛利家があるかぎり忘れない」と益田家を毛利一門とし、 益田家代々を萩藩永代家老をもって処遇しました。「増野家文書」の中の「休(牛)庵様御覚書」と題する文書にその 経緯が記されています。一つの「藩」に匹敵する家が石州からそっくり須佐へやってきたのですから、その勢力は萩藩の中でも質量ともに ぬきんでていたことは確かです。
ホームページ冒頭の「萩(藩)の土塀はスサでもつ」という言葉は、毛利家が今の山口県に押し込められ、萩に城を作り、領民の生活の 安定と幕藩体制の中で防長両国を経営するのに益田元祥の財政才覚とその貢献が必要であった丈でなく、益田氏代々が萩藩の要職にあって 藩政に大いに尽瘁したことを高く評価した言葉です。
益田氏は、幕末には家臣600人のを数える萩藩の陪臣数では最大の家で須佐などを領有し石州境と北浦の防衛を担当しました。よく知られているように 幕末の領主益田親施は惜しくも禁門の変の責任をとって切腹しましたが、明治維新の礎となった人物の一人です。 その益田家に属した人々が様々な記録を残したであろうその一部を、いま私たちは見ているのです。

◆永代家老益田家の記録は「益田家文書」として東京大学史料編纂所に保存され研究されています。私達がこれからこのホームページにご紹介する 「増野家文書」は一部親族の栗山半左衛門関係文書と併せ1000点に迫る貴重なものです。家中の公式記録が中心の「益田家文書」に対して 「増野家文書」は益田家中の記録の写しの外に・書簡・兵書・日記・祝儀不祝儀記録・絵図などが含まれていて、幕末須佐に於ける政治、 社会、文化など各方面での益田家中の様子を窺い知ることが出来ます。東京須佐史談会では増野氏のご了解の下に、全ての文書を電子化して 経年劣化による滅失を防ぐと共に須佐の隠れた文化財としてその研究を始めました。
「増野家文書」の所蔵者増野亮氏は、現在川口市にお住まいです。その先祖は、山口県阿武郡須佐町(現萩市・長州)の住でありました。 またその先は壇ノ浦で討ち死にした平家の知盛、その子平の知章から始まり、源氏の追及を逃れた子孫が石州(島根県)で益田家へ 臣従しました。増野家は幕末には益田家の砲術の研究開発と士卒の砲術訓練を担当した家の一つで、「増野家文書」には砲術や火薬研究 の記録が数多く残されています。四境戦争の時に増野勝太は得意の鉄炮で戦功がありました。

◆このホームページを通じて、すでに「須佐(町)郷土史研究会」が発表しされた記録類の数々を紹介していますが、今後この「増野家文書」も 少しずつ紹介する計画です。須佐や益田をふるさととするの皆さんの家にも古文書が残っている方がおありと思います。どんな小さなものでも 結構です。「こんなものがあった」とご連絡をいただきますよう、この欄を借りて御願いします。

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