古文書を読む(増野家文書)

『古文書に見る武家社会の各種届出 』

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 まえがき

どこの家庭にも結婚や葬式や兵士出征の記録があると思います。たいていのものは昔と変わりなく、決まって二つ折りにした半紙に書かれて大福帳のように綴じられていました。 これらの行事は各々の家で行われ、地下にあっては これを取仕切るのは老人であり、その指揮ぶりは過去の経験記憶だけで次第はなんなく進み、家によっては2日も3日も続きました。 男たちは表方を女たちは料理などの裏方をつとめ、それらを記録する式台は多忙をきわめました。現今は生活の様式がかわり、結婚式などは自宅で行われることもなく、 公共の施設で僅か3時間で終わります。思い出に残る記録は写真くらいのものでしょう。

武家社会ではすべてを届けなければなりませんでした。「増野家文書」から、幾つかの実例を拾ってみました。藩政時代の文書にはこうした生活記録が沢山残っています。当時士農工商全ての人々の日常生活は 藩政府が定めた「品定」という規則で縛られていました。着る物から正月や節句等の営み方、婚礼等諸縁組(養子等)の営み方、来客時もてなしの料理の数、法事のやり方等から墓の寸法にまで及んでいます。 幕藩制時代は身分の区別によって厳しく社会秩序が維持された時代で、着ているものを見れば、その家その人の身分・階級が分かりました。 外観上一見して人々の身分や階級が判別できることが求められたのです。「品定」には罰則規定が付いていて、「御目附」役が常に目を光らしていて規則を破れば処罰されました。 例えば宴会の料理目録が提出されると御目付は実際に宴会の席に来て料理を食してチェックしたのです。(萩市立図書館30周年記念展史料「萩藩を語る藩政期文書」より、平成16年)

P01

◆結婚届

整理番号 第8袋4

 読 解
「   御願い申上候事、
私嫡女、宍戸美濃様御家来荘原玄節
婦に所望仕りに付き、其意に任す可き段内証
申し談じ仕り候、偏に
御心入れを以て御許容下され候様
願い奉り候条、此段御序での節宜しきよう
御取りなし下さるべく候頼み存じ候、以上
九月廿八日    増野 正兵衛 花押

益田 登人 殿
益田 又左衛門 殿
増野 藤右衛門 殿
石津 伝右衛門 殿
増野 作左衛門 殿

<付箋> 益田勘右衛門方 加判暫役として出勤仰せ付けられ候間
連名に書き加え候事」 
 解 題
この文書は増野知方(佐助、佐次郎、正兵衛、正蔵)が書いたものと思われます。日付は9月28日としか書かれていませんが、別の文書(10袋11_11)から文化9年(1812)であることが判っています。 増野家系図には知方次女の個所に「宍戸家医官庄原■長和室」(没年は天保4年1833癸巳5月11日)と書かれていますが、この娘の結婚届けと思われます。文書に書かれている花婿の名前は「宍美濃様御家来荘原玄節」 ですが別の文書には「庄原宗迪玄節」とも書かれており、庄原か荘原かどちらが正しいのかよく分かりません。また次女のことを「嫡女」と書いていますが、名前は「お利祢」当年14才でした。お利祢は寛政10年(1798)生まれ と言うことになりますから、35才で亡くなったことになります。

P02

◆家督相続

整理番号 第7袋8

 読 解
「一筆啓達せしめ候、増野
正蔵跡職の儀相伺い候処、
嫡子庄次へ知行高
六拾七石相違なく家督
相続仰せ付けらるの旨候条、
此の段仰せ渡さる可く候、
恐惶謹言、
      俣賀 次郎右衛門
            致章 印
寛政五丑ノ
十二月五日
      大谷 与三右衛門
            実雄 印
      増野 舎人
            護俊 印
      益田 勘右衛門
            経正 印
      益田 三郎左衛門
            致徳 印
      益田 登人
            兼定 印
益田 次郎三郎 殿」
 解 題

増野知方(佐助、佐次郎、正兵衛、正蔵、1731〜93)は寛政5年(1793)癸丑10月14日に死去。行年62才。三男二女あり。長男知茂(佐助、松千代、正司、正兵衛)が家督を相続しました。文中「庄次」とあるいのは正しくは 「正司」でしょう。家督相続のような重要な文書でありながら名前の書き方が正しくないとか、知方と書かず正蔵と書いている事などに何かおおらかさを感じませんか。正蔵が没したのは10月14日ですから、 満中陰を待って通知するのが風習だったのでしょうか。


P03

◆養子縁組  

整理番号 第9袋11

 読 解
「申し上げ候事、
私儀当年三十一歳に罷成り候処、未だ
家続きの嗣子ご座無きに付き、宅野内左衛門四男
千代槌、当年九歳に罷り成り候を養子に所望
仕り度き段、内証申し談じ仕り候、 御心入れを以て
御許容遂げられ下さる可く候様願い奉り候、御序での節
宜しき様御取り成し下さるべく候頼み存じ候、已上
    九月廿七日 増野 正蔵 花押
益田 甚右衛門 殿
益田 又左衛門 殿
益田 静江 殿
益田 八郎左衛門 殿
増野 藤右衛門 殿
仁保 嘉内 殿
荻野 直左衛門 殿」
 解 題

これは増野知経(権之進、正蔵)が書いた文書です。知経は天保4年(1833)癸巳11月21日に死去しました。知経には家続きの嗣子なく宅野太郎左衛門定象四男千代槌(佐助、正太、勝太)9才を養子として迎えました。 勝太は明治26年5月14日69才で亡くなったので、逆算で文政7年(1824)生まれだと判ります。すると9才の時の養子縁組ですから、天保4年(1833)に増野家に入家したことになります。従って、この文書は 知経が亡くなったと同じ年の天保4年の9月27日に書かれたと考えて差し支えないでしょう。

所がこの養子縁組の後で、増野家には男子(百合之進、歯人、齢輔、武治)が生まれました。武治は明治16年2月29日、50才で亡くなっていますから逆算すると生まれた年は天保4年(1833)年です。彼は増野家を継がず 父知経の妹の嫁ぎ先である松原八郎右衛門武俊の養子となりました。

以上の事から次のように推理出来ないでしょうか。文書の日付が9月27日ですから知経が死期を悟り、養子縁組みを届け出た時既に夫人の懐妊は判っていた筈です。しかし、 子供が生まれるまで自分が生きて居られるのかどうか判らない。だとすれば、末期養子とならないように早く養子を迎えることにしようとぎりぎりの選択を迫られたのでしょう。 だから宅野家との間でこの養子縁組が話し合われた時に、生まれてくる子供が仮令男でもその子には家督を譲らないと約束をする事が当然縁組みの条件になったものと思われます。 その後増野家の家督は勝太からその子知幾(安五郎)へと相続され、勝太より10年早く亡くなった武治は他家を継ぎました。その理由は上のような事情があったのではないでしょうか。 この様に古文書を読んで行くと生々しい人生模様までが浮かびあがって来ます。


P04

◆出生届

整理番号 第3袋37

 読 解
「   口上
拙者婦、今朝安産、
男子誕生致し候、右
お知らせ此者を以て御意を得
候、以上
         十二月十七日    増野 勝太
次第不同
小原 勘右衛門
 〃 長屋
波田 直治
本尾 官二
 〃 長屋
小国 彦兵衛
栗山 翁輔
 〃 長屋 長左衛門
宇野 伊右衛門
荻野 嘉十郎
大谷 茂樹
田祢 十蔵
心光寺
竹内 新三
益田 丹下
三谷 武右衛門
増野 藤右衛門
吉賀 直人
増野 作左衛門
金子 新蔵
う野 又徳
増野 喜一郎
増野 弥一郎
宅野 福三郎
大崎 巳之介
東ノ丁 権左衛門
西 〃 佐右衛門
〃 〃 徳右衛門
〃 〃 甚三
宅野長屋
 解 題

増野勝太には、さきに生まれた子は女子ばかり5人で、10年目にして待望の男子が誕生しました。 その喜びようは、この原稿である口上書のあとに60人を越える名前が続き、親類などが各戸に触れまわった事で判ります。 子どもが育たない時代にあって、村でも喜ばれ男子は大事にされたのでしょう。

勝太の長男は知一(松三郎)。その後に次男知幾(安五郎)、三男知一郎が生まれます。知一は医師を目指しましたが明治18年(1885)5月14日24才の若さで亡くなりました。彼の行年からこの文書は文久元年(1861)勝太37才の時の 文書であると考えられます。次男知幾は慶応元年(1865)11月5日生まれで昭和31年没、92才の長寿を全うしましたが、3男知一郎は明治5年僅か1才で夭折しました。


P05

◆他行届

整理番号 第8袋1

 読 解
「   申し上げ候事、
私次男虎八儀、文学稽古のため
筑前差し越し度く存じ奉り候間、当年より
往き三カ年亥の歳まで
御心入れを以て御暇下し置かれ候様に
願い奉り候、此段御序での節宜しく
御沙汰成され下さるべく候、以上、
寛政元年
二月廿三日    増野 正蔵 花押
益田 丹下 殿」
 解 題

元禄3年(1690)林羅山が上野忍ヶ岡の私邸内に建てた孔子廟と学問所が湯島聖堂の地に移転しました。寛政9年(1797)この私塾が幕府の昌平黌となって以来諸侯は倣って城下に学館を設け諸士の文武修行を奨励しました。 毛利吉元が萩藩校明倫館を創建したのははそれに先立つ享保3年(1718)の事でした。しかし、その後の藩政は財政難が続き諸士の気風も廃れたましたが、毛利重就(宝暦元年1751襲封)の代となって内政を改革し、 財政の整理を進める傍ら文教の興隆に力を注ぎました。そして毛利敬親(天保8年1837襲封)の代に至り村田清風が文武興隆を建議し(天保11年1840)、他国遊学、他国人招聘、蘭学、西洋書の翻訳などが奨励されるようになり、 嘉永3年(1850)には「文武同修」の令が発せられました。その後萩藩が特に奨励した他国遊学は文学、弓馬、剣槍、蘭学、軍学、砲術、医学などでした。

一方、益田家中では須佐育英館の創立時期ははっきりしませんが享保年間(1716〜35)に益田元道が品川希明に命じて書物の講義を行わせた事に始まるとされています。 育英館という建物の中で子弟の教育が始まったのは享保20年(1735)のことです。その後、明和年間(1764〜71)に益田広尭が波田兼虎を召し出して育英館学頭とし、 大いに学問を奨励しました。次いで安永年間(1772〜80)益田就祥は須佐の医師であり学者であった山科眞通を学頭に用い、佐江文学が興隆開花しました。

この文書は増野虎八(勝虎1769〜1816)20歳のときのものです。虎八は筑前福岡藩の儒医亀井南冥(1734〜1815)に師事しました(「須佐町誌」P159)。南冥は須佐十二景の五言絶句で知られているように 須佐との関係が深く、須佐からは小国融がその最初の門下生となりました。虎八は3年の修業成って帰り、5年後には育英館の学文頭取を仰せ付けられました(7袋10参照)。上のような時代背景を考えると 寛政元年(1789)虎八が筑前に遊学したという事は時代を先取りした行動であって、向学心がそれだけ強かった事が分かります。虎八は次男であったから学問で身を立てようとしたのでしょう。 虎八は後に益田家中の栗山半左衛門勝安の養子となって家を継ぎました。


P06

◆餞別到来物

整理番号 第5袋32の2

 読 解
  寛政元年酉三月虎八事
  筑前行の節餞別覚

此銀大小両かへの時分一所ニ相成候事
一 銀弐匁三分 心光寺より
一 手ぬぐひ壱 せん子二 宇野彦左衛門
一 半紙三帖宛 弥富百姓中
一 小半紙二束 庄原宗迪
一 肴壱折 長屋より
一 肴代弐匁五分 品川常右衛門
一 同 一匁七分 石田源助
一 同 弐匁 波田市郎右衛門
一 同 拾三匁五分 竹内
一 同 弐匁六分 浄蓮寺
一 百疋 新左衛門
一 半紙弐 市郎右衛門
一 肴代三匁七分 酒や(屋)友左衛門
一 同 弐匁七分 萩野直左衛門
一 同 弐匁五分 本尾官治
一 懐中たばこ入 勘右衛門弐人
一 樽代 吉松
一 手拭 おゆき
已後入用見合ニ付実之所扣(ひかえ)候事 (以下省略)
 解 題

この文書は上述の増野虎八が筑前遊学に旅立つ際に貰った餞別の品を記録したものです。現代なら頂いた餞別のお返しを贈る為に記録するのでしょうが、冒頭に述べたように藩政時代は記録を残す目的が異なりました。


P07

◆普請願い

整理番号 第6袋1の23

 読 解
「   御願申し上げ候事
私持ち懸かりの茶畠荒神社裏山の先に
御座候間、右の畠え長屋を作り度
存じ奉り候。尤も往還近所に候えども、余り
見苦しからざる様にして相調え度存じ奉り候間、何卒
お免(ゆるし)遂げられ下さり候様、願い奉り候条、此の段宜敷き様
御沙汰なられ下さるべく候。頼み存じ候。 以上
   四月九日    増野 佐助 花押
益田 織人 殿
益田 又左衛門 殿
益田 三郎左衛門 殿
益田 勘兵衛 殿
小国 彦兵衛 殿
荻野 直左衛門 殿
荻野 忠左衛門 殿
 解 題

何度も倹約令が出された藩政時代には家の普請は藩に届け出て許可を受ける必要がありました。財政窮乏の折から畠を潰して家を建てる事は租税徴収に響く他、材木の使用も制限されていたからです。この許可願いがどの様に 処理されたかは記録が残って居らず判りません。なお増野知方、その子の知茂、そして勝太はいずれも「佐助」と云ったのでこの文書の筆者は三人のうちの誰かはっきりしません。また、文書には月日しか記されて居らず年が判りません。

「月番日記」文久3年3月15日付の通達には次のように書かれています。ここに掲げた文書と同じ時代かどうか判らないのですが、事情に大きな変わりは無かったと思います。
「御家来中居宅新作事一涯被差留候訳ニても/無之候え共、当御時節大概は用捨可有之候/尤極々無拠差添の部は、其趣演説書を以/差図相添被願(出)候ハヽ、御詮儀の上可/被差免候/当時御立山御用木迚も御不如意の事候えハ、/ 多分の採用被願出候ても不被及御沙汰候条、/先作事入用半方の心得を以 可被願出候事」

荒神社の位置は今も昔も変わらりません。育英小学校の裏手から荒神社の横を通って国道191号線を横切る道筋が昔の萩への往還で、この辺りは「なぎぬき(梛ノ木)」と呼ばれました。ここから山の中へ萩に通じる道がありました 。天保12年の「須佐市中細見図」によれば荒神社の横に総門があって「西の総門」と呼ばれていたそうです。この門を入って直ぐ左二軒目に増野家がありました。


P08

◆病気届

 読 解
「        増野 庄兵衛 殿
右、先頃御番懸りより
病気にて差し戻られ
今以て聢々之無く 長
髪にて罷り居られ候通り
聞こし召し上げられ候。月代(さかやき)
等仕られ候儀、達しに及ばず
通り行歩など勝手
次第に仕られ(宜)敷く、
保養仕られ候様にとの
御事に候間、此の段左様
ご承知有るべく候事
  八月朔日」
 解 題

この文書は益田家中の役所から増野庄兵衛(正兵衛)知茂(文政3庚辰9月29日没、行年55才)に出された書状です。病気で伏していた正兵衛に対して長髪で月代(月代)を剃らないでも構わず、通りをその姿で歩行しても宜しい という内容です。武家社会では服装や頭髪などの規則は厳格でしたから、病気の時にはこの様な許可が必要だった様です

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